こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年8月31日 日曜日 東京風景 ~島の風景~

2014-08-31 22:50:53 | 写真日和

昨日も今日も歩く。いつものごとく、あてもなく。

今日午後外に出ると、近い空に雨雲が見えたが、歩いているうち青い空となった。
一枚多めに上にはおって出たが、歩くうちに汗をかく。

入道姿の夏雲とうろこ雲。見る方角によって織り交ざる空が美しい日。
涼しくなったお蔭で、行く路行く路でまどろむネコに出会う。ネコは心地良くなれる場所を知っている。

歩きながらラジオと音楽を聴き、シャッターを切る。光と影が織り成すエクスタシー。

■ニュー・ミュージック(トニー・マンスフィールド) 「ヒア・カム・ザ・ピープル」1982■


























コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年8月30日 土曜日 東京風景 ~島の風景~

2014-08-30 20:56:26 | 写真日和



■キャメル 「島の風景」1981■


















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年8月29日 金曜日 東京風景/帰らざる時の系譜 1983年夏・1997夏

2014-08-29 23:08:03 | 写真日和

1997年8月、有楽町を歩く。
当時・相棒であった、リコーのコンパクトカメラのシャッターを切りつつ。



8月31日。
当時の子供は夏休み最終日。

”私”は彼女と近い場所の海に向かった。
海の家ももう引き上げて無くなっている浜。
肌寒いくらいのひとけの無い海。

それがゆえに、あえてその日に海に向かい、二人で遊んだ。
閑散とした心地良い場所。
押し寄せては引いていく波の音が静かに繰り返す。

夕方、潮のにおいがする場所で、二人ラーメンをすすっていると、掛かったラジオから、ダイアナが事故で亡くなったニュースが流れていた。



■高橋幸宏 「蜉蝣(かげろう)」1983(箱根ライヴ)■
窓辺にたたずむ後ろ姿に 夕暮れ静かにすきとおるよう
キミはボクにほほえんで ボクはキミを見つめた
ふたつの影は 9月に ただよう カゲロウ

ふんわり浮かんだあかりを下で 肩を寄せ合い明日を見ていた
キミはいつもほほえんで ボクはキミを愛した
ふたつの影は 9月に ただよう カゲロウ

時はいつでもカゲロウ
時はいつでもカゲロウ

1997年8月15日のまみちゃん。まだ生まれて1年4カ月。毎日毎日、奇想天外なありさまが可愛くって仕方がなかった。
手を洗おうとする場所を占拠にて抗議。

いまだ持つ、1983年8月23日幸宏のオールナイトニッポン。
ラジオを録音しつつ聴いていた深夜。
手元にあるペンで描いた恥ずかしいイタズラ書きがインデックスカード。





■スティーヴィー・ワンダー 「ステイ・ゴールド」1983(映画「ジ・アウトサイダー」挿入曲)■
友人とこの映画を観に行ったのも、有楽町だった。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年8月27日 水曜日 ”私”の「東京物語」

2014-08-27 23:52:27 | 写真日和

チロちゃんと陽子さん
あっ、と何かに気付くのは、ある瞬間だが、それまで精神がドライヴしていたのを忘れる位に出会うとき、それまでが白昼夢の中に居たように思える。
昨年後半、親の看病に奔走している頃は、まさかという・自分が配置していたはずの視界構造の瓦解に、ひたすら過ぎ行く時々刻々を感じ、即応していた。
その後、親の病状好転に伴い、”ほっ”としたのもつかの間、そこで浮かび上がったのは、当人である自分の死であり、いつの間にか自分は送られる側に居ることだった。

昨年後半から”いずれ”ではない”今”を感じつつ、この1年弱を過ごしている。
これはもともと持っているペシミスティックな感情では無い。明らかな事実である。
「じゃあ、そこでお前はどう考え、どう生きる」を問いてきた。

結論は言葉上は”今を生きる”しか無い。当たり前だが、言葉なり概念が如何に信用ならないものかが分かってきた。

***

三島さんが(色々な背景があれども)45歳で自決した時期を、多くの敬意抱く人が気にしてきた事実を、今は装飾抜きで理解する。
コインのオモテとウラで、実は同じような匂いを持つ太宰治の書いた一節は、過去”太宰的な芝居表現”と片付けていたが、今になって身に迫る。

『死のうと思っていた。
ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。
着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい 縞目 が織りこめられていた。
これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。』

何度も女と心中しつつ、太宰だけが生き残る。
それは、猪瀬直樹の取材の下、全て計算ずくであったことが明らかにはなったが、その情動の源は否定出来ない。
また、太宰の観察の眼の鋭さは、死に方うんぬんで済む話ではない。

バブル時代、ラヴホテルの前 消えた場所は駐車場へ
今、海のむこうで多くの生死の境を想像しつつ、堕ちた日本の身の回りを照射すると、他人事(ひとごと)では無い世界を生きなきゃいけないと思う。

もはや世間と乖離してしまった中、週末に写真家・荒木経惟さんが、片目の視力を失ったことを知って、言葉を失くした。

優れた写真家。
という言い方は、歴史を俯瞰的に見られる、死を迎えない神の視点だが、日本人の多くは、自分の生命が永遠に続くと思っている気配がある。
しょせんそれぞれは数十年で終わり、生き残るはシステムという中、せっせとアメリカ傘下のグーグルに吸い込まれるように、東に向かって持たされたSNS機器を通じて、せっせと・ちっこい画面に向かっている。
311という裂け目(キャズム)に一瞬おぼろに見えた景色は、既に閉ざされている。

”ブログも同じじゃんか”と言われるだろうし、理解するが、そういう風にも思っていない。事実はどうあれ。
私は科学者でも無い。

荒木さんと陽子さん 下駄屋から南千住へ歩く夜・銭湯への道
荒木経惟という人には特別な感情がある。
歳の違いはあれど、同じ場所で産まれ育ち、幼児の頃・お母さんにお世話になり、その生き様を追いかけてきた。もはや姿の無い私の原風景が、荒木さんの写真にはある。

それは、”こいつは同郷なんだよ”と盛んに訴える、出雲出身の親父に見い出す”ありがちな”風景では無い。

三ノ輪の酒屋さん前 陽子さん
東京・日本を写真という形で、雄弁な語り部よりも、より大きな何かを示してきた、重要な裂け目を定着し得る才能を持ち得る一人。それは、森山大道さんだったり、YMOだったり、大竹伸朗さんだったりもする。

こういった想いは、人それぞれだろうが、”それぞれ”と生易しい言い方をすると、気が付けば某団体アイドルと同並列で「文化」と言われてしまうから恐ろしい。どうあがこうが、”今”は変化し・過去は潰されていく。
だがらこそ、生きている限りはあらがうしかないし、伝えるしかない。
その後は知らないし、知りえない。

1989年 東京物語

荒木経惟 豊田市美術館「往生写集―顔・空景・道」展オープニング・トーク 2014年6月29日まで開催
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年8月27日 水曜日 かたちんば・夏の100曲 ~日々、すべては此処において切なり~

2014-08-27 20:53:19 | 音楽帳

1990年8月末、ひとけの無くなったプール(フィルムカメラ
モノを大事に使っているつもりだが、パソコンとデジタルカメラがどうにもならなくなり、新しいものを購入した。
世間様で流行の”真偽不明エコロジー”にとらわれ過ぎていた。

よく他人から「まだ、そんなものを持っている/使っているんですか?」と笑われる。
20年前に彼女からプレゼントされたポールスミスの財布のように、使えるものは延々と使い続けるものの、少し意地になり過ぎていた。

パソコンは10年前当時、新製品だったVAIO。
電気屋さんに見に来てもらったのは相当前で「もう買い換えないと、いつ壊れるか分かりませんよ」と言われてから相当経過する。

その頃から、データをDVD盤に焼いたり、外付けハードディスクを買って全部データを外に出したり。。。
何度かハードディスクが飛び、リカバリーディスクで初期化するなどの対応でしのいできた。

それもWINDOWS XPの終了以降、見たいサイトにガードが掛かってみれなかったり、いろいろあったが、新しいパソコン設定などの手間を思うと大儀で、腰が重くなっていた。
このあいだ、とあることから勢いで新しい本体を購入した。

1990年8月・夏空
一方、デジタルカメラは、SDカードが立て続けに破損し、この数か月に撮った写真が消える事件が起きて、いろいろ考えた。
”どうせ明日死んでしまうかもしれないのだし”と言いきかせ、なだめた。

カメラ自体もずっと不調だったものをごまかしごまかし使っていたのだが、SDカード側の問題だけとも言い難い要因があるので、新しいデジタルカメラを買った。

2台あるカメラは、どちらも画面にポチポチとくもりが写るようになったのはかなり前。
結論は分かっていたが、それぞれのメーカーさんのセンターに相談に行ったところ、中をクリーニングすれば治るが、その技術料が本体価格以上となる。

今回知ったのは、デジタルカメラはほこりを吸い寄せやすいので、それが内部に付着するものらしい。
撮影時高くなった本体の温度は、終了後冷えていくのだが、その時に細かいゴミを吸い寄せる。

新しいパソコンとデジタルカメラを基本使いながら、既存のモノもまだ使えなくはないので、補助として使っていく。
与えられた残る日々を一緒に、ヨロシクね。
デヴィッド・シルヴィアンではないが、いくら失望しても生きる意志を。

■EPO 「音楽のような風」(ミディ・レコード[ディア・ハート])1985■

新しいパソコンにソフトを入れ直したら、スキャナーが久しぶりに動き出したので遊んでいた。
そのおかげ様で、昨夜寝るのが遅くなってしまった。

私にとって、心のおねえさんの一人・エポさん。
忌まわしき過去を捨て去った名作「パンプ・パンプ」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年8月26日 火曜日 かたちんば・ナツの100曲 ~キャット・ピープル~

2014-08-26 23:07:39 | 音楽帳

1982年の映画「キャット・ピープル」公開に伴い、ジョルジオ・モロダーが担ったサウンドトラックの曲たちが、よくFM放送から流れた。
とても優れたサウンドトラックで、収録された一曲一曲は、映像抜きでも独立した音楽となっていた。
クロスオーバーイレブンでは、よくこれらの曲が使われていた。

■ジョルジオ・モロダー 「アイリーナのテーマ」1982■

テーマ曲のヴォーカル入りヴァージョンを歌っていたのはデヴィッド・ボウイ。ボウイはこの1982年映画「バール」に続くサントラ出演。
彼が歌うテーマ曲は、夏の夜のねっちょりした・うだるような暑さの中、漂える妖気と狂気が表現されていて、
暑い夏夜の脳裏に、ボウイの太いハミングが浮かんでくることが、未だある。

それとだぶるようにして、当時メインストリームに居た人気女優ナスターシャ・キンスキーの姿。
宇宙人/アンドロイドのような完璧な容貌、裸体、狂気を孕むまなこが浮かぶ。

■デヴィッド・ボウイ 「キャット・ピープルのテーマ」1982■
ボウイは、この翌年1983年ストレートな表現「レッツ・ダンス」という作品により、またもや新しい人格を展開させ、多くの人に「やっぱり、さすがはボウイだ」という認識を新たにさせる。
このLP「レッツ・ダンス」にも『キャット・ピープル』が収録されているが、これは映画のテーマ曲とは全く趣きが異なり、アレンジをし直した別曲となっている。



人が別の生き物に変わるのは、過去から繰り返されてきた物語のモチーフであり、吸血鬼やオオカミ男などなど。。。
この映画では、女性(ナスターシャ・キンスキー)の方が、黒ヒョウに変身する。

黒ヒョウというとバビル2世のロデムを思い出したり、キャット・・・と言えばマンガ「ゲゲゲの鬼太郎」の猫目娘や「キャッツ・アイ」を思い出したりする自分。

映画公開の翌年1983年にマイケル・ジャクソンがMTV「スリラー」でゾンビたちと踊り、付き合っているガールフレンドに大丈夫だよ、と笑顔で肩を抱きハッピーエンド。。。
と思いきや、最後彼が振り向くと、眼がネコ目になっているシーンの怖さ。
(この「スリラー」が発表された直後には、まさか、そんなにもの大ヒットになるとは思ってもみなかった。それは、彼自身も周囲スタッフも、見聞きする側の自分も同じだった。)

偶然なのか時代の流れだったか?検証しえないが、
MTV「スリラー」最後のシーンは、前年の映画「キャット・ピープル」からの影響・引用だ、と勝手に思っている。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年8月24日 日曜日 表層的なごまかしの果て

2014-08-25 00:22:06 | 雑記帳

東京オリンピックへ思う意志に変わりはない。
そんな6年後の「予定」話とは別に(それが無かったとしても)建築業界はとうにおおごとになっている。
(物流業界も。或いは別の分野も。)
しかし、街を歩くと、あちこちとごっそり無くなってしまった空き地と建築予定の看板が立つ2014年。バブル時代の有様にそっくりである。

”景気が良くなった”も何とかミクスとやらも丸々真っ赤なウソだが、この二十年以上にわたるデフレは、心骨皆を疲弊させ続け、その結果が今に繋がる。
さらにごまかし、多くのものを置き去りにしようとしている。

建築は間接的余地を削り取り、値段を叩きに叩いた結果、最終的に職人さんが仕事を離れ、後継者も不在となり、移民を考える状況にある。
建築に露呈したこの事象は、全てにあてはまる。
それは働いている人なら、皆・皮膚感覚で分かっている事実。

近時”ブラック企業”とやらが取り沙汰されているのは、表面上話題に上るくらい、グローバリゼーションの結果、どこに行っても同じ街と見える位に寡占化し・濁流に飲み込まれていく様の中で、広告代理店とマスメディア結託隠蔽の限度も超えたからとも見えなくもない。(が”彼ら”には手落ちはありえないから、それも想定内だろう。)
宮台さんが放送でポロッとつぶやいたように、既に日本社会は回っていない。

モノを作る人、手を労して働く人、技術を持ったマイスターたる職人さんをむげにして、コストカットし続けた結果、そういった方をダメにした。今更”育成”と言うが、気付くと手遅れ。
先日ラジオで某企業が”十年前から想定し、育成してきたので、うちは大丈夫だ”とラジオ局にカネを払って・PRしていたが、これも事実かどうかは甚だ疑わしい。

そうは言えども、今までは何とかその時々、大建築企業からの下請けへの圧力に対し、その場をしのいでいくしかなかったのも事実。
しかし結果的に、骨抜き空洞化は止めようもない今に帰結した。

東京オリンピックという策略とニンジンは、今後6年保証担保されうることから、海外の方々を誘導する事を視野に、カネでねじこみ・決定したのだろうが、文化や家族と心を持った人がそんな簡単に右から左に移る訳はない。
この場に及んでまで、まだ切ったり貼ったりで一時しのぎしよう、という思想で動く連中では無理だ。

***

あまり悲観的現実のみ言って終わる話ではないので、少し付け足すなら、ごく一部の心ある企業の人たちは、家族ともども受け入れて一緒に暮らしながら歩もうとする動きは出ている。まさに同じ釜のめしを食う生き方。
それは、かつて家族的日本企業が持っていたものでもあり、今もちいさくても家族同様で一緒に働く中小企業の親方が歩んできた生き方である。

物流業界と言えば、トラックの”運ちゃん”を大型車に乗せつつ、更に”笑顔を持って運べ”なんて言う”セールスドライバー”までを要求し、法律罰則も強化した末、この仕事で働こうという成り手が不在に至った。
先を見据え・自らの足元を見て・歩いてきたクロネコヤマト以外は、挽回不能”出口なし”の今となった。

それを”カンタンなお仕事で収入増を”と、運転免許を持つ主婦パートで穴埋めしようとしているが、それも無理で、カンタンに荷物が運べないXデイはすぐそこにある。

首相と経済界と世間は、”やっぱりこれからは女性でしょ”と女性”全般”をあおり・くすぐりを入れるが、背景は、労働者不足を補うのは、多能工が可能なる主婦・女性層だ、とすがりつく事実があるのみ。

***

PS:ここへアクセスされる方を見ているうち、他人たる過去の”私”の残骸の中に、比較的冷静な記事を読み、久しぶりにこの曲を聴いていた。



■坂本龍一(&デヴィッド・シルヴィアン) 「ワールド・シティズン」2004■
お台場・ゼップ東京に、教授の立ち見ライヴを観に行ったのも約10年前なのか、と今日知る。
バンド・スタイルで「ビハインド・ザ・マスク」から始まったこのライヴは、本当に素晴らしい有機的演奏だった。

坂本龍一&デヴィッド・シルヴィアン 「ワールド・シティズン(世界市民)」
ここで何が起こったんだ?
蝶は羽根を失った
空気が濃すぎて息苦しい
飲み水には何かが入っている

陽は昇る
陽は昇るけれど、きみは独りぼっち
目的も見失い
流れのままに101号線の迷路へまぎれこむ

空から降り注ぐニュース
何もかも
今日は明るいものばかり
そう思えないのはきみだけさ

ワールド・シティズン(世界市民)
ワールド・シティズン(世界市民)

ここは安全じゃない
空気が悪くて
黄色い鳥(注)は総倒れ
ここは安全じゃない

ぼくらはなぜ存在できないの?
始まりや終わりなしでは
ぼくらはなぜ存在できないの?

ワールド・シティズン(世界市民)
ワールド・シティズン(世界市民)

もし立ち止まって
きみの話を少し聞いたら
きみが感じているすべての重みに
打ちのめされてしまう
孤独な心の緊急事態

感じたい
心がはちきれそうになるまで
この世でかなうものなら何でも与えてあげたいのに

破りたい
日常を覆う無関心を
覚醒しつづけられる良心がほしい

失望なんてするものか
失望なんてするものか
するものか

顔が見えた
知らない顔だった
彼女の悲しみは、ぼくの悲しみを丸ごと映す鏡

忘れられない顔
思いもかけないとき、現われる彼女
ぼくらを隔てる時間と空間は消えた

でも、ぼくは安全じゃない
皮膚がもう一枚ほしい
安全じゃないんだ

ワールド・シティズン(世界市民)
ワールド・シティズン(世界市民)

夜のあいだに旅したい
草原や海原を越えて・・・
消えてしまったあらゆる種の
損失を測り
その名をすべて正確に読み上げたい

ワールド・シティズン(世界市民)
ワールド・シティズン(世界市民)

失望なんてするものか
するものか

彼女は笑わない
舞台は喜劇(コメディ)から商売(コマース)へ変わったのさ
彼女はもう、歩いても地面を感じない

ぼくは目をそらす
寝苦しい夜
これじゃいけないとわかっているけれど
どうしたらいい?

失望なんてするものか
するものか

(注)かつて鉱山で一酸化炭素などの中毒を防ぐため、鉱夫たちが検知器がわりに鉱道へ連れて下りたカナリアのこと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年8月24日 日曜日 かたちんば・夏の100曲 ~本日休演ナリ~

2014-08-24 21:47:03 | 音楽帳

【1987年7月15日記】
エリック・サティを知ったのは、ブライアン・イーノとの出会いとほぼ同時期と記憶している。(記憶は記録では無いから、いんたーねっとみたいな寸分たがわぬ日時か否かは不明。)
長嶋茂雄さんが出演した”クレドール”という時計のテレビコマーシャル。

元々、15秒・30秒といった短いコマーシャル。
その映像とバックに掛かる音楽には、多くの発見と喜びを見い出していた。
幼児から小学生といった頃だろうか。まだシンセサイザー聡明期。その後生きてきたから分かったものの、富田勲さんや教授(坂本龍一さん)などの創った曲に「うわーっ」となった。
なったものの、記録媒体は脳しかなく、それを絵に描いてみたり脳にメモをしていた。

【2014年8月24日 島のA公園にて】
長嶋さんが黒のスーツ姿で出演したCMは、伝統ある館の内部をスローモーションで歩くもの。
映像がとにかく美しく、そのバックには、あるときエリック・サティの「ジムノペディ」、またあるときはブライアン・イーノとハロルド・バッドの「ファースト・ライト」だった。

その後、イーノが多大なるサティの影響から、多くの美しい音楽を産み出したことを知った。
サティは一切無駄なモノを捨て去り・何も無い部屋に住んでいた。
一方、イーノは1982年マンハッタンで立川直樹さんがインタビューした中で、同じような暮らし方をしていることを明示していた。

これに感化された少年の時分は、必要最低限以外のモノを、ある時点時点で廃棄処分した簡素な部屋に暮らしていた。
それも今となっては、ゴミ屋敷に住む事態となっている。この間には30年近いタームがあるので同一で無いのは当然だが、放っておくとモノを貯めてしまう性分は幼児から変わらない。

そろそろ色々思うことあって、全処分を行う気に傾いている。

【2014年8月24日 島のB公園にて】
1982年春、FM東京「音楽の森」で主役・立川澄登さんと、ゲスト出演した打楽器奏者・高田みどりさん。
この放送で、サティ→イーノという魂の系譜、そして高田さんらが創ったムクワジュのレコードを聴き、大いに刺激された。

高田みどりさん、と言って分からない方には、TBS土曜日のラジオ「永六輔その新世界~土曜ワイドラジオTOKYO」の間奏・バック曲を演奏している方、と言えば分かるだろう。

この放送で初めて聴いたサティの「錬鉄の綴れ織り」。サティが提唱した”家具の音楽”の一部。
その繰り返しが心地良く、このラジオ録音したカセットテープを当時繰り返し聴いていた。
サティのLP・CDは、高橋悠治さん&アキさんなど、色々今まで買って聴いてきたが、やはりこの曲が好きなのは今も変わりない。

■Erik Satie 「Tapisserie en fer forgé」1920■

当時・立川澄登さんが、サティが書いた曲への注釈。
”この曲を掛けるのは、招待者が現れた際に玄関ホールで○回(忘れた)繰り返し演奏すること”を読み上げた。
そういった事柄にも大いなる思い入れがある。

今夜、このサティについて調べていたら、奇遇にもサティはちょうど自分の100年前に産まれていることを知る。
そして、ちょうど100年前・サティ48歳の頃に、ジャン・コクトーと知り合った。
不思議な時の系譜を知る夜である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年8月23日 土曜日 かたちんば・夏の100曲 ~マイ・ウェイ~

2014-08-23 10:52:54 | 音楽帳



■セックス・ピストルズ(シド・ヴィシャス) 「マイ・ウェイ」1978■






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年8月20日 水曜日 かたちんば・夏の100曲 ~2014年現存する2001年~

2014-08-20 22:35:47 | 音楽帳

お盆が過ぎ、日が昇るのが5時を過ぎれば、残暑。
という屁理屈は、2014年ではもはや通用せず、灼熱の道を歩き渡り、働いていた一日だった。

そのスキマ、電車に乗った瞬間に、汗だくのカラダにスーッと来るエアコンの涼しさが心地良い。
車窓を流れゆく風景も相まって。

YOUTUBEでこないだ発見した、砂原良徳さんがFM出演した際のラジオ。
作品「ラヴ・ビート」発表時のもの。それをMP3に変換したファイルをイヤホンで聞いていた。曲の数々と作品制作過程やアプローチの視点を聴き、気持ちが少しだけ和らぐ。我が一服の清涼剤。

■砂原良徳 「アースビート」2001年5月23日発表■
レコード録音も、時代と共に、一発録りからスタジオでの多重録音へ発展し、そのチャンネル数が増していった。YMO時代には、24チャンネルとか36チャンネルなんてところだっただろうか、記憶に無い。

幸宏が教授のサウンドストリートにゲスト出演した際、制作リミットが近づくと「とりあえず音を埋めてっちゃうんだよね」とお互いの悩みを告白し合っていたことを思い出す。
それが初期衝動としてあった、ナイーヴな音像を壊してしまう。

砂原さんの作品「ラヴ・ビート」が未だ持つ魅力は、アルバム制作後半段階で(インタビューにもあるが)音を抜いていった結果、現れたシンプルな構造。
「楽器が何一つ出来ない」と、遠慮がちにおちゃらけた言い方を、たまにする砂原さん。

このときには、ピーター・バラカンさんが(鈴木さえ子さんとの)「全英ポップス情報」で、ニュー・ミュージックのトニー・マンスフィールド作品をかけた際に交わされた言葉を思い出す。
譜面は読めないし、指一本で原始的にシンセサイザーを弾くトニー・マンスフィールド。彼が自分のプロフィット5を担いでやってきた「ロマン神経症」録音の際に、ロンドンのスタジオに一緒に居たピーターさん。

さえ子さんがそこに”ヘタウマ的希望を見い出した”という話に対して、ピーターさんが言ったトニーの持つ耳の良さ。演奏や楽器操作能力など、どうでもよい、鍛錬では習得できない”センス”。
同じことを砂原さんの描く音には感じる。

発表と今とは13年の開きが事実上はあるのだが、全くそういう違和感を私は感じていない。
そういう2014年8月の、とある日だった。



■砂原良徳 「スパイラル・ネヴァー・ビフォー」2001年5月23日発表■






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする