こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2012年4月30日 月曜日 - 東向島(2012年4月29日撮影) -

2012-04-30 12:12:36 | 写真日和

イーノとハロルド・バッドの「鏡面界」に続く2枚目「ザ・パール」が国内発売されたのは1984年の秋に近い時だった。
本来は、毎年秋になると、自動的にこのアルバムがかかるスイッチが、自分の脳に設定されている。
この「ザ・パール」の中でも好きな「ア・ストリーム・ウィズ・ブライト・フィッシュ」。
季節は秋でもないが、今日の脳は、この曲を要求している。
疲れが溜まると、普段は食べない甘いものに、手が伸びるのに近い。


28日の土曜日は、ハブ噛み師匠と19,364歩。
約16km近い歩き旅となった。
昨日は、食べ物を買いがてら、小さな袋にタバコ、おさいふ、電話、カメラを入れて近所をぶらぶら。
路地に迷い込み、花を愛で、公園の森で深呼吸し、肩のチカラを抜く。


















巨大な更地。


相棒ワンちゃんとのいこい。


飛行船。




お花を撮っていると、微笑んだおばあちゃんが近づいてくる。
おばあちゃん「何て言うお花なの?」
かたちんば「すみません。名前はボクも分からなくて(頭を掻く)。」
おばあちゃん「しかし、キレイなお花ねえ。」
かたちんば「そうですねえ。まるで白い桜みたいです。」
おばあちゃん「そうねえ。」












タンポポ。これから風に吹かれて、どこかに飛んでいく。
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2012年4月29日 日曜日 - 上野・不忍池(2012年4月28日撮影) -

2012-04-29 18:23:58 | 写真日和

中学三年生に、兄から借りて出会ったブライアン・イーノのLP。
「アナザー・グリーン・ワールド」。
カセットテープにコピーして、毎晩聴いた夜。
未だに胎内に宿る音楽。
昨夜、たたずんでいた夜の不忍池に向けて、特に好きな曲「ザヴィヌル/ラヴァ」を夜葬曲として掛けながら、撮影した写真を掲載す。




闇の中、暗い下でひっそりした八重桜に風情を感じる。


春は、花曇りという言葉があるように、ぼんやりした霧のような空気が漂う。
秋冬のキーンとした空気の中、くっきりと陰影と輪郭を描き出す季節とは異なる。
写真には不向きな日というものはあるものである。




上野公園・不忍池を囲む池之端にも、巨大な高層マンションが乱立し、風景を一変させている。






車椅子の人が散歩している。
ひっそりと静かな空間。ここでは、ネコも浮浪者も包み込む。




そして、キスをし、抱擁をし合う男女にはよく出会う。
この暗闇は、不倫も一時の情事もすべて包み込む。
光の下では生まれない異空間が広がる。


いつの間にか、おせっかいにも茶屋が作られていた。



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2012年4月29日 日曜日 - 休戦時空の曳航 -

2012-04-29 10:31:02 | 音楽帳


心身ともに疲れは蓄積していたが、不思議なもので、昨日は目覚めると、さほどだるさもきキツさもない。
とするならば、普段毎朝のどーんと落ちてくるだるさと抑鬱感は、精神作用が主のものなのだろう。

昨年の今頃は、必死の形相で、潰れかけのヒビ割れたビルの中で、余震に恐れながらも、パソコンに向かい、徹夜をし・・、そんな具合だった。
今年は、非常に珍しくカレンダー通りに休める可能性がある。

***

ふだん仕事をしていると、様々なくだらないメールマガジンがピュンピュン飛んでくる。
特にこの時期は、その数たるやすさまじい。
ほとんどは「GWの旅はまだ間に合う!」といった類の無縁のもの。
全削除。

なぜ休みだと、日本人は海外に行くのか?
自分には、どうも合点がいかない。理解が及ばない。
自分は、好きな東京の隙間を探して、友人とのったりのったり・ジグザク歩行で、ラビラントに迷い込み、写真を撮り歩く。

***

テレビが、デーンと生活・暮らしの中心で、偉そうにふんぞり返った態度であった空間を離れて、相当な年月が経つ。
元々見る時間など無いのだが、地上波で見るのは夜のニュース、それに特定のドキュメント番組などのみ。
素晴らしかった朝のドラマ「カーネーション」を毎朝見ていたのは、それ位に異例の事態だった。

最近は、夜遅くに帰ると、むしろ疲弊社会を離れるため、BS・CS。
世界の人々が、その土地で自然に暮らすさまに、ココロを癒される。
何気のないさまが、とおとい。

地上波テレビが、生活の中心に鎮座していた暮らしにおさらばして、楽になった。

***

今の日本人が、何でも略語で語る「GW」なるものの過ごし方。
自分にとっては、単なる休みの意識にしか無い中、無意識に身に付いてしまったのは、以下のようなことか?

・テレビ、社会・経済関連以外のニュースとの絶縁。
不愉快を回避するためにも。
・人ゴミならず、ゴミのような人、と無縁であるために、人(よそ者)が集まるであろう場所には行かない。
歩き旅の最中に、もしその手合いの人と交錯しても、目に見えない人として、意識の外に置く。
・人が居ない方向、居ない方向へと歩を進める。

***

昨日、ハブ噛み師匠と北千住から千住大橋、三ノ輪、東日暮里、そして日暮里から谷中に抜けたあたりで、不穏な空気とヨソから来た人の皮膚感覚をキャッチ。

森まゆみの不幸は、谷中の町並みを守る、と言いながら、結果、その活動が「谷根千」という略語で語られ、雑誌片手に土足でやってくる人の増加に結びついてしまった点。
ネコさんは賢いから、それまでゆったり街と共存していたが、「うるさいなあ」と感じれば、静かな過ごしやすい場所へと移動する。
「ああ、また面倒なGWとやらが来るぞ」とネコさんたちは話し合い、とっととそういう人の居ない時空に隠れる。

全東京でずにーらんど化計画は、着々と進み、東京の街がニセモノに転向していく様が見て取れる。
自分は、ネコと同様に、それを察知しつつ、そうではない、街の隙間に滑り込む。

***

1984か1985年あたりに、FMラジオ番組「FMトランスミッション/バリケード」(FM東京・土曜深夜3時~)で、初めてチャイナクライシスの「レッド・セイルズ」に出会った。

手元には、「スクリーム・ダウン・アット・ミー」の12インチ、セカンドLP「ワーキング・ウィズ・ファイア&スティール」、「ハンナ・ハンナ」の7インチなどがあった。
しかし、イネビタブルレコードからのデビューシングル「アフリカン&ホワイト」は持っていなかった。
そのシングルのB面に「レッド・セイルズ」が入っていることを知ったのは、このカセット録音からも後のこと。

サンセットが赤やオレンジ色に染めなす海の風景の中を、帆を張って、ゆっくりと風をはらんで曳航していくヨットに乗る映像が、この曲には浮かぶ。
愛する1曲。

■China Crisis 「Red Sails」('82年6月15日録音)■
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2012年4月25日 水曜日 - 上野・不忍池(2002年1月3日撮影) -

2012-04-25 23:25:24 | 写真日和

自分の歩き旅の休み場所の一つ、不忍池(しのばずのいけ)。


大好きな鳥、カモさんの軍団。




ゆりかもめ。




ここでは、かわいいたくさんのカモさんに出会える。




右に・・・左に・・・。


みんなにぎやかに、しっぽをふりふり、ユニークな愛らしさで遊びまわる。




池を囲んだ公園には、一休みするベンチ、そして草むら。
そこには、ノラネコたちが生息している。
いつも、カバンにカリカリのキャットフードを隠し持ったハブ噛み師匠。
エサを上げると、茶ネコがおずおずと近づいてくる。





■ブライアン・フェリー 「ウインドスウェプト」('85のアルバム「ボーイズ&ガールズ」より)■
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2012年4月24日 火曜日 - 「夜はともだち」~夜のミステリー~ -

2012-04-24 22:53:07 | 想い出かたちんば
昨夜「『夜はともだち』を毎日聴いていた」と言ったが、実はあるコーナーだけは聞けなかった。

それは、23時台後半から始まる「夜のミステリー」というコーナー。
小学生当時の自分は、まだ幽霊・UFO・宇宙人・・・そういった不可解な世界をまるまる信じていた。

人は、元よりどうしてもウソを付いてしまう存在ゆえ、両手でおぞましいものに顔を覆ったフリをしながら・その合間からそのシーンを見たくて仕方がない。
小学生時代の自分も、怖い何かに惹かれ、その手の本を買って読み・テレビ番組にも熱中しながら、その一方では、寝るときに怖い本の背表紙が見えないように本棚に裏返しにしたり・テレビを見たあとにトイレに行けなくなったりしていた。
「怖いもの見たさ」というもの。

***

『夜はともだち』は「夜友郵便局」というコーナーから始まり、愉しさや感慨にふけることが出来るコーナーがメジロ押しだった。
「話の本棚」という中盤のコーナーは、当時TBSに入社したばかりの三雲孝江さんが進行をしていた。
少しお姉さんの彼女にあこがれ、応援をしていた。

しかし、唯一、怖くて聞くことが出来なかったのが「夜のミステリー」というコーナー。

当時、23時を過ぎると、夜の闇世界は深かった。
1つには「コドモは寝る時間」という意識。
もう1つは、コンビニさえ生まれていない、実際に光の量が少ない暗さに満ちた空間が、そこには現実に在った。
ハレとケの空間は、明らかに分かれていた。

三雲さんのコーナーは聞くことが出来たが、「夜のミステリー」だけはどうしようもない怖さで、聞くことは出来なかった。

***

真っ暗な中、ミニラジオをまくらもとの耳のそばに置いて『夜はともだち』を掛けながら、ついうとうと・・・。
気が付いたらラジオをつけっぱなしで寝ていた、ということは、今も昔も変わりない。

ある夜のこと。
いつものように・そんな具合に・・・つけっぱなしで寝てしまった夜。
ふと目覚めたら「夜のミステリー」のコーナーが始まるところだったことがあった。
始まりの音楽の怖さに、ビビッてしまい、寝床でカラダが硬直して冷や汗をかいた。

***

あの頃、自分は欲しかったラジカセが買えなかった。
もし買うことが出来たならば「一慶・美雄の夜はともだち」を絶対録音していただろう。
二度と聞くことは出来ないのだろうと、未だ記憶の中でだけ鳴っている放送。

しかし、時代はえらいところまで来てしまった。
「一慶・美雄の夜はともだち」そのものは発見出来ていないが、この休みに、当時怖くて聞けなかった「夜のミステリー」がYOUTUBEにアップされているのを知った。

約35年ぶりに聞く「夜のミステリー」。
大人になって、開けてみた「パンドラの箱」。

アップしてくれた同志に感謝を抱くと同時に、当時の空気を感じた。
ラジオドラマの中での風景や会話に時代のにおいがする。

中でもよく出てくる大学生の寮、アパート住まい、同棲・・・そんなシーン。
当時小学生だった自分には、遠い日になるであろう大学生のイメージを抱かせる。
もうすでに無い70年代の幻影。

■夜のミステリー 体験実話 傑作シリーズ第13回 「隣はなにを・・・」■
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2012年4月23日 月曜日 - 70年代、ラジオ、夜、闇、春 -

2012-04-23 22:21:33 | 想い出かたちんば
ラジオとの本格的出会いは、小学生にさかのぼる。

ラジオそのものは、幼稚園の頃から家の中で聴こえていた。
音楽好きのお袋さんは、FM東京を1日中誰が居なくても流していた。
トイレの前の「仕事部屋」(洋裁を教えていた部屋)の一角にある冷蔵庫の上。
そこでホコリをかぶりながら、ラジオはいろんなお話しや音楽を絶え間なく流していた。

三ノ輪の自分の家は、貧しいというほどではなかったが、裕福というほどでもなかった。

***

お袋さんのFM東京のラジオとは別にして。
自分が、何かの流れで、おじさんのおさがりの大きなAMラジオをもらったのが、小学生低学年の頃だろうか?。
かなり古いラジオではあったが、自分の持ち物になった。
小学生に上がって、プロ野球に夢中だった自分は、そのラジオで随分と野球を聴いた。

テレビは一家に一台。
そして、そのチャンネル権が、家父長である者にあった時代に、ラジオは自由に聴くことが出来た。

おぼろげながらだが、ビッグサイズで年代もののラジオの後に(たぶんはもらったのだと思うが)手の大きさくらいの小さなラジオを手に入れた。
それは小学3年生かそこいらだったように思う。
と・計算すると、1975年・昭和50年あたりのこととなる。

***

自分の親には、かつてエリート信仰が強くあり、兄はその親との戦いをしながら、麻布、東大と、ことごとくそれを超えてしまった。
それに比して頭の悪い6つ下の弟、というのが、家父長の、小学生の自分へのあしらい方だった。

お袋さんは、それをかばうようにして、小学3年生から様々な「塾」に申し込んでしまう。
両親の心理のはざまに揺られ・引き裂かれて、行きたくもない「塾」に通うこととなる。
「通う」と言いながらも、通った先では何を学ぶでもない。
もともと能動性を伴わない行為ゆえ、ひたすら壇上で教える者から発せられる言葉・黒板の字・教材・・・全部、自分の中には入ってこない。
ひたすら電車で遠くへ行ったり来たり、そして、街の人ごみにまぎれる。
そんな意味の無い行為を繰り返している感覚のまま、電車で通う窓を通り過ぎる風景、街の光景、そんなものだけが自分の中に切なく響いた。

自分の中にもともと確信めいてあった「自分はエイリアンなのでは無いか」に拍車を掛けるように、この頃の出来事は、自分がどこにも所属出来ないジプシーの放浪感覚を根付かせた。

***

こんな日々だったので、当時の夕方~夜、みんなが見ているであろうテレビ番組には知らない/見られないものが多くあった。
当時、持ち歩いていたスヌーピーのデザインの布袋の中には、お菓子や小物と一緒に本が入っていた。
その本のしおり。
本屋さんで買った際に、本にはさんでくれるしおりには、よく新しく始まるドラマのPRが書かれていた。
「面白そうだけども、見ることはできないんだろうな」しおりを見ながら、そう思った。

そんな行き・帰りの道でのひそかな楽しみが、手のひらサイズのラジオをイヤホンで聴くことだった。
そこから、TBSラジオの面白さを発見し、ラジオに対して、自分の友だちのような親近感を持つ。

小学5年生ごろから、何より好きになったのが、ナイターの後に始まる「夜はともだち」。
小島一慶さん・林美雄さんがDJの9時から0時までの深夜番組。
小島さんと林さんは曜日で交代制になっていた。

毎日毎日、この番組が自分のささやかな楽しみになった。
帰り道の途中で、帰った後の部屋で、お風呂に入るときにも(防水でも無いのに、シャンプーの棚にラジオを立てかけて)。
ずっと「夜はともだち」を聴き、明かりを消す中でラジオを耳に付けて寝た。

冒頭のテーマ曲はキャンディーズ、楽しいはがきやコーナーによっては大人の会話を垣間見る。
掛かる曲も洒落ていて、高橋幸宏がプロデュースしたラジの「ホールド・ミー・タイト」を初めて聴いたのも、この番組であった。
(ラジのこの曲の入ったアルバム[CD]は、数年前に神保町で手に入れた。)
また、渡辺真知子、中原理恵、そして、終盤のひたすら美しくなってゆく山口百恵の曲などを、特に愛した。

音楽番組では、洋楽を掛けるコーナーで、ハードロック、イーグルス、クイーンなどがかかった。
それとは別に、不思議な番組=スネークマンショーも「夜はともだち」の1コーナーだった。

***

ウイキペディアで「一慶・美雄の夜はともだち」は1976年(昭和51年)4月から1978年3月まで、たった2年間であると知る。
自分にとっての10歳から12歳まで。
もっともっと、長い時間の付き合いだったように、今では感ぜられる。

当時、永田町の小学校に通っていた自分には、TBSは至近距離でありながら、実際の距離感はあった。
ただ、毎夜、電波をたどって、まさに「友だち」のように、この番組に寄り添って・つながっていた。

「一慶・美雄の夜はともだち」の最終回(ウイキペディアによってわかった)1978年3月31日の放送は、最初から最後まで、全部聴いた。
是が非でも聴かねばという気持ちがあった。
一慶さんが、赤坂の夜の野外で、いろんなお話しをしてくれた夜。
ごおお、という風の吹く夜だった。

時間の系譜より、今おぼろに分かったのは、自分が小学を卒業した頃と「一慶・美雄の夜はともだち」の終わりが一緒だったこと。
あのごおおという風は、あの番組とともに、自分も境目の中で吹いていた風だったのだな、ということ。

■ラジ「ホールド・ミー・タイト」'77■
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2012年4月21日 土曜日 - 今週の写真よりの一部 -

2012-04-21 09:10:55 | 写真日和


■ボズ・スキャッグス 「ハーバーライツ」'76■



尾野真千子さん


生後約2.5ヶ月のまみちゃん














ノラクロちゃん



















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2012年4月19日 木曜日 - 根岸・下谷(2002年4月6日撮影) -

2012-04-19 07:11:11 | 写真日和





















下谷病院











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2012年4月18日 水曜日 - 三ノ輪 浄閑寺(2002年4月6日撮影) -

2012-04-18 07:21:04 | 写真日和
自分が生まれ育った家、その斜め向かいがおばあちゃんの家、その数軒となりが下駄屋さん。
その下駄屋さんの息子がアラーキー。
下駄屋さんの斜め向かいにあるのが、浄閑寺。

通称、投げ込み寺。
吉原の遊女が亡くなると、このお寺に投げ込まれた。小さい頃から、そう聴いていた。
それをはかなんで、よく浄閑寺に通っていたのが、玉の井に通い・色街の女性たちを大事にしていた永井荷風だった。
そして、荷風が愛した玉の井に、自分は今住んでいる。






この日の写真には無いが、浄閑寺には永井荷風のためのモニュメントがある。
また、奥には、近い山谷で亡くなった労働者の無縁仏の墓とひまわり地蔵さん。






吉原総霊塔。遊女たちの合同のお墓。




アラーキーの両親、そして、妻・陽子さんが眠るお墓。


ここでは、大きな八重桜が春になると咲く。

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2012年4月17日 火曜日 - 今は亡き三ノ輪同潤会アパート(2002年4月6日撮影) -

2012-04-17 07:09:04 | 写真日和
三ノ輪同潤会アパートのある場所一帯の空気は、昔のまま21世紀までその感覚が残っていた。
幼い頃、駄菓子屋さんに行ったあと、あてどもなく放浪するうちに、近所の知らない場所に迷い込んでしまって、道に途方に暮れていたときの皮膚感覚と同じ。

しかし、すでにその三ノ輪同潤会アパートも無い。

























***

コアーズのデビューアルバム「Forgiven,Not Forgotten」で大好きな曲が、もう一曲ある。
13曲目の「クローサー」。
春になると思い出す、想い出の曲。

■Corrs 「Closer」■
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