こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

夏に向かう日々と100曲:トレイシー・ヤング「恋のしぐさ」1984

2024-08-15 14:00:00 | 音楽帳

前回書いた通り、1983年までから一転、1984年の音楽シーンは自分にとって、より暗い状況、と感じられた。

自らの心身の不具合も一因となり、リアルタイムの現実は大きな暗雲として立ちはだかっていた。

自分は1983年秋〜冬、クリスマスまで2回に渡り合計1ヶ月以上、精神性胃潰瘍で入院していた。何とかクリスマスに退院して年の瀬をシャバで過ごすことは出来たが、年が明けた1984年以降もひどい胃痛症状は継続していった。

 

1983年末をもってYMOは散開した。

年が明けた1984年からはアフターYMO時代。

だから、というわけじゃないのに、年が明けたら、世界をビロウドのようにおおっていた魔法は解け、干上がった現実に戻されたようだった。

自分にとって大事だった、何か磁場のようなものが見える周囲から消えていった。

 

虚しい荒涼たる世界を前にして、この先どうやって生きていっていいのか?途方に暮れていた。

これを誰かに言って、それはあなたの中の幻想、まぼろしだよ。と言われても仕方ない。でも自分の中では確実に起きていた感覚であった。

追いかけていたニューウェイヴの世界は、そのありさまを変容させながら、いくつかの方向に向かっていった。

 

***

 

1983年暮れに知ったジ・アート・オブ・ノイズのデビュー12inchシングル「イントゥ・バトル・ウィズ・ジ・アート・オブ・ノイズ」。それを聴いた者たちの反応とざわめき。

もう一方では1983年からメジャーシーンに出てきたヒップホップの影響。その影響は例えばローリングストーンズといったロックやポップスのメインシーンのみならず、ニューウェイヴにもエッセンスとして現れ出していた。

ジ・アート・オブ・ノイズとヒップホップの影響から同系列の音を鳴らし、ハードでタイトなドラムと密な音で埋め尽くされた世界に向かう人たち。

 

あるいは、そんな流れと離れ、それまでエレクトロニクスの音一辺倒だった世界への反動から、ニューアコースティックムーヴメントのように生音や静かな音へと向かう人たちが顕著に現れ出した1984年。

 

***

 

そんな1984年に出会った一つがトレイシー・ヤングだった。

彼女が唯一残したLPアルバム「恋のしぐさ」。当時NHK=FM夜の番組「サウンド・オブ・ポップス」はよく新譜を紹介してくれていて、ありがたい存在だった。その新譜特集からカセットテープに録音した「恋のしぐさ」。このアルバムを1984年夏は繰り返し聴いた。

音楽雑誌ではこのアルバムはボロクソ叩かれていた。トレイシーには特に秀でた特徴があるわけではなく、アイドル的要素も薄く、卓越して歌が上手いわけでもなく・・・。それは聴いた自分にもよく分かる意見であり、その通りだと思う。なぜ、暑き血潮が漲るポール・ウェラーが彼女にここまでチカラを費やしたんだろうか?などと思ったこともあった。

 

しかし、何の情報もなくたまたま出会った「恋のしぐさ」が気に入ってしまい、ずいぶんと大事に聴き込んだ。

過剰に自己主張しないさりげない魅力に惹かれていた。そこには自己主張しなくても世界に受け入れて欲しい、という自分自身の無意識の願望が重ねられていたようにも思う。理詰めで批評されることはどれも正しいかもしれないが、それとは無縁に聴いていたこのアルバム。

トレイシーの声や歌はみずみずしくのびやかで、清くさわやかだった。ポール・ウェラー他から提供された楽曲にはメロディアスな曲も多く、アコースティックな曲では必要最低限におさえた質素な演奏も実に魅力的だった。

エルビス・コステロ提供の楽曲、a-1「(I Love You)When You Sleep」。あなたが眠っている姿が好き、というささやかな言葉の永遠。この名曲はイギリスでシングルカットされた。その7inchシングル盤も持っている。ポール・ウェラーが作った曲はアルバム10曲中の5曲(a-2・3・5、b-3・5)。

モロジャム、モロスタイルカウンシルといった風情の曲もある。a-5は(なんと!)バナナラマのファーストアルバムにも収録された曲。

 

何よりも美しい名曲はa-4「ひとりぼっちの夏(I Can't Hold On 'Till Summer)」。

身近なすぐ話せる友達などいなかった1984年の夏。

このアルバム、これらの曲を聴くと、あのやたら方向を見失った空虚な夏、そんなひたすら長い夏休みの孤独な感覚がよみがえる。

 

■Tracie「I Can't Hold On 'Till Summer (Without Strings)」1984■

・・・・あっという間に時は巡り、今年も8月15日が来て、手を合わせる。

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夏に向かう日々と100曲:Dire Straits「Brothers in Arms」1985

2024-08-07 14:50:00 | 音楽帳

引っ張り出してきたシングル盤とCD。。

極私的備忘録。

“サルタン(1stアルバム)”を聴いたのは春だった。
いつものように北千住のレコード屋さんにチャリンコで立ち寄ったら、室内いっぱいに”サルタン”がかかっていた。
やたらプチプチいうレコード盤で、昔ながらのスピーカーから響くのは、あたたかみのある音だった。
レコード棚に入ったレコードを一枚一枚、カタカタ音させてめくりながら、社会的束縛の外側、悠長で静かな空間に流れる、マーク・ノップラーのギターを聴いた。

それからしばらくはCDの”サルタン”をiTunesに入れてチャリンコで走りながら聴いていたが。。。。
そのうち夏が来て、懐かしい一枚を今年の夏も押し入れから取り出した。

毎日苦しみに満ちていた1985年。
そんな浪人時代の「あの夏の日」を思い出させる一枚、”ブラザーズ・イン・アームズ”。
突き抜ける青空をバックにしたギターのジャケット。

***

個人的な音楽遍歴だが、、
それまでの先人たちが作ってきたロックやルーツミュージックに「NO!」と拒絶し、アフターパンクからニューウェイヴに生きる道を見い出した70年代末〜1983年。
・・・それが終わってしまった感の1984年以降、周囲の世界はまた元通りに、こころは暗い雲で覆われ出してしまった。ロックやポップミュージックのあり方に一撃を喰らわしたはずのニューウェイヴは次第に収束方向に向かい、みんなお行儀の良いありきたりな音楽スタイルばかりになっていった。
だから1984年以降は、まだ高校生だというのに、「それでもあらがい、独自の方法で道を見つけようとする音楽」を探す旅になって行った。

つまり本来は「アメリカで大ヒット!」なんていうフレーズにくくられる世界とは無縁のはずだったが、一発聴いて痺れる独自の音楽がほぼ無い中で、それまで繋がっていたアメリカ・イギリスのチャートやシーンへの注視をやめるわけにいかず、中には良いものもあるだろうと未練がましくしがみつくように、メジャーシーンをまだ追いかけていたのだった。

ほんとうはアルバム”ブラザーズ・イン・アームズ”に入らないはずだったという「ウォーク・オブ・ライフ」、そして、アルバム始まりの「So Far Away」。このシングル2曲が無かったら、自分はこのアルバムを記憶にとどめなかったかもしれない。

***

自分がFM雑誌を初めて買ったのは1979年、中学生時代。
雑誌には毎回さまざまなアルバムが紹介されていて、白黒のザラ紙に印刷された広告やレコード紹介にある数センチ角の小さなジャケット写真は魅惑的だった。こんなバンドがあるんだ、とか、いつか聴いてみたい、と知らない広い音楽世界を想像させた。ダイアー・ストレイツはそんなバンドの一つだった。”サルタン”も美しいジャケットデザインでいつか聴いてみたい、と思いながら時は流れてしまった。

そんなダイアー・ストレイツが突然ブレイクしたのが1985年、5枚目の”ブラザーズ・イン・アームズ”からシングルカットされた「マネー・フォー・ナッシング」。この曲が大ヒットしたのがきっかけだった。MTVをテーマした内容やスティングが一緒に制作していることが話題となったこの曲はビルボード1位となった。

正直言って「マネー・フォー・ナッシング」は好みではないが、その前後にシングルカットされた「ウォーク・オブ・ライフ」「So Far Away」をよく聴いた。その後も「愛のトリック」等何曲かラジオから録音して聴いたが、アルバム全体を通して聴くことなく40年近く経った。
しかし、まさかこのアルバムが歴史に残るくらい売れる(3,000万枚)なんて考えもしなかったし、今までナゾだった。

***

この数年、夏になると”ブラザーズ・イン・アームズ”を聴いている。アルバムA面「So Far Away」「マネー・フォー・ナッシング」「ウォーク・オブ・ライフ」「愛のトリック」といきなりシングルカットされた曲が4曲もたたみかけてくるが、(私にとって)この数年の発見は、それ以降にある。マーケットを意識したビジネスライクな曲はあまりもう聴いても意味が無いし。。。[もう社畜業から足を洗い、卒業して次へ向かっているし。。。商売とは関係ないところで音楽に対峙したいな。。。]

自由なギターだけのサウンドなど、商業色の薄い箇所がA面5曲目以降に現れる。例えば「Why Worry」。これだってキャッチーでビジネスライクな曲として始まるのだが、途中から主題を逸脱していく。果たしてこの曲が8分必要か、といえば、もっと短く仕上げることはできるだろう。そこを必要以上にゆとり持たせた長さは、レコードを聴いていることを忘れさせてしまう。それまでのA面4曲の世界を消し去るように、全く違う世界に聴く者をいざなう。
マーク・ノップラーのソロで大好きなアルバム(サントラだが)に”cal”というアルバムがあるが、ここにも同じようにすごく長い分数の曲がある。同じことはアルバム”サルタン”にも言える。

まるで室内にギターを抱えたマーク・ノップラーと居て、目の前でポロンポロンとギターの練習がてらメロディを奏でているみたいな錯覚を抱く。そんな箇所を発見しては音のあいだに自分の身をたゆたわせ、微細な音の余韻にひたる。
約40年を経て聴いたアルバムには、そんな新しい発見があった。何一つ救いの無い、しかし絶望というにはいまさら、の状況の2024年。そんな夏のささやかな出来事。。。こんなことが自らの突破口になればいいな。。。

 

■Dire Straits「Why Worry」1985■

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夏に向かう日々と100曲: 映画「トノバン」

2024-07-27 18:30:00 | 音楽帳

備忘録。

アーチストの死を商売にしてしまう流れがイヤでたまらない。
過去で言えば例えばイアン・カーティスだったり、フレディや尾崎だってそうだけど、亡くなったことを受けて、それまでのその人の音楽や存在のあり方を捻ったり、一転修正しながら神格化したりたてまつったり。。。リスペクトしてるんだとか色々言うわりには、結局しょせんはカネもうけ目的の野郎が多すぎて。。。

加藤(和彦)さんの映画をやる、と初めて聞いたとき、そんなイヤな流れを連想した。幸宏や教授が亡くなったこの一年ちょっと、そこに加藤さんを引っ張り出してきて絡めて、誰かまたヒト商売たくらんでいるのか?と、苦虫を噛み潰したような顔でいぶかしく思った。

テレビ、ラジオ、音楽媒体、ゆーちゅーぶ等ネット、出版物、etc・・・アーチストが亡くなると共に、死の商人が活躍しだす。この一年、幸宏にしろ教授にしろ、うんざりするような企画で、企業のみならず一般人までもがヒトかぜきしようとする様を横目で見てきた。自分は「そんなものに左右されたく無い。黙って作品に対峙し、今までどおり作品を味わいたい。」と見えないふりをしてきた。

映画「トノバン」の企画を知ってから、その映画に漂うカネのにおいはどんな具合だろうか?中身の真偽は如何に?と悩んだ。そして、悩みの末「観なきゃわからないじゃん」と、結果的に映画を観に行った。終わるギリギリ、7月21日(日)に。

迷ったわりには、素直に観て良かった、と思えた。
観るとわかるが、カネもうけの企画ではなかった。
そのことに安堵した。

企画・監督の相原裕美さんはビクターにいた音楽業界の方で、以前に制作したドキュメント映画の際に出会った幸宏から言われた言葉が心に残って、2019年にこの映画制作を始めたという。その言葉とは「トノバン(加藤さん)ってもうちょっと評価されてもいいんじゃないかな」という言葉であり、この映画のエンドロールには「インスパイアドby幸宏」というクレジットが出てくる。

映画は、オールナイトニッポン55周年のスタジオ風景、その番組開始時期に掛けた「帰ってきたヨッパライ」をめぐるはなし、そして、加藤さんの相棒・きたやまおさむさんのインタビューから始まっていく。様々な映像やインタビューを作為的につなぐ語りは特にない。それが相原さんがこだわった作り方。映画制作過程で教授や幸宏の話しが欲しいと思ったときには、既に2人はそれが叶わぬ状態で、過去のインタビューからの抜粋となったらしい。

自分にとっての加藤和彦さんとは、映画の最後の方で出てきた高野寛さんが話したことに近い。少年時代に夢中になったYMOがきっかけとなり、メンバー3人が関わってきた音楽を追体験する中、幸宏の関わってきたミカバンド、そして加藤和彦さんの作品と出会うことになった。

私個人はやはりヨーロッパ三部作に圧倒的迫力を感じる。全てをかけて現地に入り込み、コンセプトアルバムを組み立てていく。その地で制作するやり方はブライアン・イーノを思わせる。この三部作のアルバムにはとても好きな曲が多い。

しかし、高野さんも言っていたが、フォーククルセダーズ〜ミカバンド〜三部作〜・・加藤さんの経歴が自分の中でどうしても繋がらない。ミカバンドですら好きな曲と、自分としては肌に合わない曲があり、加藤さんという人の実像が自分の中で焦点を結びづらい。

この映画では、きたやまおさむさんが「こぶのないらくだ」という曲を引き合いに説明した。らくだの中にはこぶの無い奴もいる。なのに、らくだとはこぶのあるものだ、というレッテル貼ってこぶのないらくだは除外してしまう。言ってみれば加藤和彦とはこのこぶのないらくだそのもの。
常に居心地の悪さを抱え次から次に新しいスタイルで音楽を作るが、一般的な分かりやすさをもたないから、どこに行っても明快な彼の居場所とならない。

周囲関係者の貴重なインタビューで初めて知ることも多く、すごいメンツが次々に出た末、2時間超の映画はあっという間に過ぎていった。そして、充実した内容と共に終わると立ち上がれない重さも感じた。ただ「あの素晴らしい愛・・」の新録音で閉じるという最後十数分には「あれれれれ。。?」となった。
映画を見てから一週間、昔のアルバムを引っ張り出しては聴いている。今まで聴き込めていなかった曲も改めてじっくり聴いてみる。

そして、アタマは勝手で無作為、芋づる式に、加藤和彦さんと交流があった今野雄二氏の自殺、(中村)とうようさんの自殺、と続いてしまった数年の流れを思い出していた。みんなそれぞれであってお互い相互関連は無く、あくまで私の中で気になっていることに過ぎないのだけれども。なんで死んでしまったんだろうか、という問いをめぐり、アタマの中でそれぞれの生き方や顔を思い出しながら悶々としていた。

最近夜寝ても深く眠れない。ずーっと横になる中、脳裏にパパ・ヘミングウェイの「スモールカフェ」がループになって呪文のように流れていて止まらない。

■加藤和彦「SMALL CAFE」1979■

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夏に向かう日々と100曲: サマー・オブ・1984

2024-07-17 22:10:00 | 音楽帳

事実の検証はしていないおぼろげな記憶。

あくまで私の体内の何となくの残存感覚。

コトはたぶん1984年の夏のこと。

その夏は暑くなると予測され、実際7月は日々暑くなっていった。夏が次第に盛夏に向けて進むと共に「これはやはり予測どおりに猛暑になるかも」という恐れが確信に変わりつつあった。

そのとき自分は高校生で、ひ弱なクセして無理して入ったバレーボール部の夏季練習もあったはず。。だが、そのことは全く思い出せない。その代わりに、敗戦の日(8月15日)あたりの夏休みの感触がよみがえるのだ。

猛暑になるかも、という恐れを抱かせた夏の気温は、予測を裏決り、8月中旬辺りから急激に降下し始めた。何か空にうっすら雲がかかった日が何日もあった気がする。

そんな8月。猛暑のはずが冷夏みたいになった、ある日。

レコードを買いに行こうと急に思い立って、電車に乗り、秋葉原・石丸電気レコード館へ向かった。デペッシュ・モードの国内盤LP 年「コンストラクション・タイム・アゲイン」を正規の値段(2,800円)で買った。

このアルバムは1983年8月発売され、自分は発売直後ラジオで半分くらいをエアチェック。その曲をカセットで愛聴。→そして、実際のLPはこのように1984年夏に買った。

「コンストラクション・タイム・アゲイン」からエアチェックした曲は、密着型ヘッドホンではかなりアタック音が強かったのだが、いざ買ったLPレコードではさらっとした音に聞こえた。我が家の重いスピーカーで聴く彼らの音は、デジタル/テクノであるクセに、ドライでさらっとして、まるでアコースティック楽器のような感覚で、A面・B面すうっーと風のように通り過ぎた。

この軽いドライな手触りの音、想定外(暑くない8月後半)の陽気、淡い空の水色、それらは混じり合って、記憶の底に沈殿している。

あそこから40年目の夏、久々、再び「コンストラクション・・」を繰り返し聴いた。

野外ではスマホのiTunesにCDから入れたmp3をイヤホンで聴き、帰ってはLPレコードで再び聴いた。

一般人も音楽関係者もよくこのアルバムを大仰な語り口で話す。私もデペッシュ・モードへの愛着はひと一倍あるつもりだが、だからと言って私はそんな劇的大仰さでは語らない。

あまりロック的なものやうるさく躍動的な曲が肌に合わない自分なので、半分くらいの曲はあまり好みではない。好きなのはそれ以外の楽曲。

アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンからの影響で始まった物体を叩いた打撃音、それを楽器として用いる方法がこのアルバムから展開されていく。物体の打撃音はサンプリングされ、あちこちにちりばめられ、シークエンスされていく。そんな自宅録音みたいな原始的な行為が「単なる実験」に終わる音楽も多いが、デペッシュ・モードが使うと結果的にはポップス的な範疇におさまった。それこそノイバウテンみたいにもっと崩れて良いと思うのだが、お行儀よく、そこまで崩さず済ましている。そのへんが残念でつまらないと思う部分も大きい。ただ、この時点ではまだ通称“インダストリアル”の実験1枚目。

a-3「パイプライン」などは、うまくいった新境地だろうか。ボールの落下音とか細かなサンプリングが部分を成し、危ういバランスの上で次第に連なったシークエンスを刻んでいく。薄暗いトンネル工事の様相、この不完全感は今でも好きだ。

でも、この曲が入ったA面より(このアルバムから参加した)アラン・ワイルダーが創った2曲が入ったB面の方が好きかもしれない。相変わらずメロディアスな箇所が随所に見られ、彼ら何人かのコーラスがハーモニーとなって響くところが実に若々しくて美しい。

夏のイメージからは程遠いはずのデペッシュモードだが、夏になるとこの3枚目を思い出す。ハンマーを打ち下ろす男の背景にそびえる山と青空。そんなジャケットを視ながら、汗をかいてレコード盤を聴く。

■Depeche Mode「And Then・・・」1983■

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夏に向かう日々と100曲:鏡面界

2024-07-06 21:50:00 | 音楽帳

前回(6月30日)以降も熱・セキ・頭痛などがしつこくまとわりついてきて、夜もろくに寝ないままの日々が過ぎ・・・家の者からも「セキがうるさくて眠れん!」クレームと共に「心配だ」「カラダおかしくないか?」と言われ、再度病院へ行く。

そこでやっとわかったのがひどい肺炎との結果。即入院レベルであり、今までそうして生活活動していたこと自体が不思議であり、すぐ仕掛りは中止して休息を!。。。と言われた。

医者と話し合いの末、入院は回避したが、抗生物質服用してひたすら休息を取れ、との指示。

やっとほんの少しリハビリ兼ねた仕事も始めたのに、それらも中止。

***

検査後診察でいきなり「入院レベルの肺炎」という想定外の言葉を浴びせられ、遠い目になるメンタル。・・・その一方、ここ数年クスリ断ちを自らに強いてきたのに解熱剤等を服用するしかなく、いざ服薬したら一気にカラダがラクになったかのような錯覚。

そのお陰で、金曜の病院帰りは汗だくでおさんぽ。青山から赤坂へ、そしてミッドタウンのあたりまで、ぐるり一周してしまった。私にとって、室内に居る苦しみより、約束事決めずに野外を自由にさんぽするほうが休息。

ただ、何も36℃の猛暑の中そんな歩かなくてもいいじゃないか、と友人等々に言われる通り、相変わらずイカれている。

今日も、旧ジャニーズの事務所前を通過する

とんだ誕生日であり、とんだ7,000日目である。

***

外はすっかり夏の日。空の蒼さは、また過去聴いていた音楽への回路を開く。。。

ハロルド・バッドの関連を今度は引っ張り出して聴いていた。イーノとの二枚、コクトー・ツインズとの共作等々。。。そこで今頃になって、彼が2020年亡くなっていたことを初めて知った。

1982年、高校生だった夏、ぼろぼろだった心身にイーノ&バッドの「鏡面界」はひどくしみ込んで、キズを癒してくれた。ハロルド・バッドはキズだらけだった十代の自分が、とてもお世話になった人の一人であった。「お世話になりました。」

a-1「ファースト・ライト」は長嶋茂雄さんが出た時計CM曲だった。「日立サウンドブレイク」でも盛んに使用された曲でもある。アルバムで一番最初に聴いたのはa-4「アバブ・チェンマイ」だった。1981年11月に「クロスオーバーイレヴン」でエアチェックして聴いた。

それ以外は、立川直樹さんがマンハッタンに居るイーノを訪ねたスペシャルで掛かった曲もいくつか。。。秋葉原の石丸電気レコード館で買った輸入盤LP「鏡面界」は少し安かった。安い分、ジャケットにはカットアウトの印がついている。

 

■Harold Budd / Brian Eno 「Not Yet Remembered」1980■

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夏に向かう日々と100曲:フィールド・ワーク

2024-06-30 18:50:00 | 音楽帳

29(土)風邪的症状はのらりくらりとまだじぶんのカラダにまつわりついて、去ってくれない。“少し体温下がったぞ”と喜び動き出すと、すぐ熱が37℃台に戻って来る。アタマをゴチンとする頭痛やタンの絡みとセキは相変わらず。

しかし、午後には外も晴れ出した。

室内に居て休んでいるだけでは窒息するし、風邪的症状のやりたい放題に心身を任せていたら、(じぶんのなかでしか分からない妄想感覚だが)"まるで主体性が欠如・悪魔に身を売り渡した社畜同然じゃないか"、という思いになり、フラフラになりながら無理してでもチャリ小旅に出た。手足のリハビリ・"慣らし"にはチャリがとても適しているようだ。

フラフラとコンビニに寄り、用事を済ませて外に出ると、ひたいに汗。ぜーぜー肩で息をする中、絶叫車が近付いてきた。

「・・・ゆりこ本人が乗って、みなさんの住むまちをみずから回っています」と選挙カーは言う。

イカサマ・詐欺・カネで塗りたくられたペルソナ笑顔の女は、下町になんか関心はないのだ。それでも、おまえらの住むまちを巡ってやってんだ、というらしい。本当は中指たててやりたかったが、そんなエネルギーもなくうつむいて汗を拭いて終わってしまった。。。いったい誰がこんな者を長年都知事に居座らせて、またさらに続けさせるんだろうか・・・。理解が出来ない。こんな奴らには屈しない、とじぶんの中だけでも決意を新たにする。

症状は本日30(日)も継続中。土曜と同じく外に少し出たが、今度はキリ雨が降り出した。

夕方、少しオーディオで音楽を聴く。こないだ取り出した1986年のカセットテープにも収まっている「フィールド・ワーク」が聴きたくて、ひさびさにレコードをターンテーブルに乗せた。当時はレコードからカセットテープに落として一日何回も聴いていた。

ひたすらココロに雨が降り続いていた浪人時代。この曲もじぶんを奮起させるための1曲だった。朝死んだような寝起きから、じぶんの尻にムチを打つように「プシューッッッッ・・・ズバババババ・・・」と大音量で聴いて鳥肌を立たせていた。

1984年秋発表の「音楽図鑑」という膨大に広がる世界をじぶんの中でどう処理すればわからなかった反省から、その後教授の作品は発売日当日手に入れることを自分に義務付けした時期だった。(「フィールド・ワーク」1985年2月21日発売だというので、その日レコードを受け取ったはず。)

そして、周りの意見がつきまとわないうちに、あるいは鮮度の良いうちに、と帰ってすぐレコード盤を掛け、じぶんの耳ですぐ聴くようにした。教授当人も「音楽図鑑」のように長期足出まといにならないように、単発でシングル盤をいくつも出し続けた。

最初は(当時信頼を寄せていた)立花ハジメと創っていた骨格に、ウタ入れをするためにトーマス・ドルビーに歌詞とヴォーカルを依頼。そんなプロセスの中で出来た本曲はドルビーの声が内なるエモーショナルを刺激し、聴いている方に高揚感・解放感をもたらす。東京、ロンドン2つのミックスが入っているが、個人的にはやはりドルビーのロンドンミックスが、ダメになりそうな精神をドライヴさせてくれる支えだった。そんなわたし。39年後の今聴いても何一つ変わりないエネルギーを感じ、改めてシビレてしまった。

■坂本龍一フューチャリング トーマス・ドルビー「フィールド・ワーク」1985■

プロデューサー:坂本龍一

アレンジメント:坂本龍一&立花ハジメ

ミックス:トーマス・ドルビー(←ロンドン・ヴァージョン)

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夏に向かう日々と100曲:ポール・ハードキャッスル「レインフォレスト」1985

2024-06-28 15:00:00 | 音楽帳

3週間くらい気管がおかしいので総合病院に行った前回25(火)夜。

深夜流れるテレビから都知事選・政見放送で白塗りの河合ゆうすけが高笑いする隣で、頭痛がし出した。寝る前体温を測ると37.1℃・微熱。寝てもまたヒューヒュー言って断続的にセキをして・・・翌朝起きると38.1℃へ。さらに熱は38℃台を上がっていく。

・・・(熱の原因不明、必死に因果関係を知ろうとするが不明。)

仕方なく午後からの仕事を休んで、再度通院。今度は遠方へ行くエネルギーはなくて、すぐ行ける近くへ。しかし、アタマはガンガン、手足腰は関節痛。外に出ると梅雨時の熱風猛暑。気温は30℃程度でも湿度の高さからくらくらする。ふらふらしながら冷汗をかいて医者へ。

 

悩んだ末コロナとインフル検査をしたが、(運よく)どちらでもなく、それ以外の原因不明の発熱。「コロナでもインフルでもそれ以外でも、結局は対処療法しかないんだよー」と(情けないでしょ)と言いたいような顔つきで医者が言う。クスリを貰って帰ってきた。

思えば昨年6月には初めてのコロナ感染。世間では「6月病」なんて言葉もきくが、梅雨明け後の猛暑とは別で、梅雨さなかの時期特有のつらさがある。

帰ると何も食べず、水分のみで横になり、ゆらぐ風景と意識の中どっぷり寝入った。

  (上はねむりネコ・ちる坊)

水曜・本日木曜とカラダを休めると、何とか体温も落ち、回復基調に入った。

おおごとにならずでよかった。。。さすがに活発に動けるわけではないので、今日は草花への水やり、そして溜まった録画の整理をして過ごした。

***

と、ここまで書いたのは木曜。

そして翌日28(金)の本日。

これで終わったかと思いきや、熱がぶり返し、今日は37.0℃丁度のあたりをうろうろ。タンの絡み、頭痛も去らないので、用心とって本日も仕事を休みとした。外はひたすら“激しい雨“が降る。雨は夜半まで止まないらしい。

浪人の頃、だいじに聴いていたカセットテープを引っ張り出した。カセットの背中には「1986年の自画像」なんてキザなタイトルがついている。ひたすら毎日苦しかったときに身を任せ、すがった当時好きだった曲が収まっている。そんな中の1曲が「レインフォレスト」。

この曲はレコード盤ではもっていないけど、このカセットテープで聴きまくった。ヒットした「19(ナインティーン)」よりも好きだな。

■■Paul Hardcastle「Rainforest」1985■

やたらカチャカチャ言うシンセやリズムボックスが心地良く体内に響く・・・。やはり自分は音楽より以前に、機械的な音が好きなんだな、と再認識。LP「マイクロチップに愛をこめて」というタイトルも良いなあ。

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夏に向かう日々と100曲:中島みゆき「あした天気になれ」1981

2024-06-25 22:50:00 | 音楽帳

20(木)に「もう既に(梅雨に)入っているのではないか?」と書いた途端、翌日21(金)には梅雨入り。。。

【平年より14日、昨年より13日遅く、1951年の統計開始以降、6月22日に梅雨入りした1967年と2007年に次ぎ3番目に遅い。

記録的に遅い梅雨入り。】

***

リハビリに向かうため支度していたら、出るまぎわに限って(←やはり)ちる坊がうんこをする。

その片付けをしていたら、ぎりぎりになってしまう。

 

急いで外に出てみると、昨日同様えたいの知れないモワモワのサウナ状態かつ30°越え、、これが外の仕事なら確実に熱中症で倒れる陽気、、。

歩く足がなぜか?すごい遅く感じられる。

いくら歩いても前に進まない感覚。

カラダ全体が水分滞り、湿気含んでるようでひどくおもたい、、。

 

どうやら、寝ている間の脱水ですこし平衡感覚がおかしい。

これは熱中症の前兆なので、注意する。

 

最後は競歩みたいに必死で歩いて、ギリギリにリハビリに間に合ったが、施術中にノドがヒューヒュー・・・鼻がむずむずしてくしゃみが止まらず・・・。

この3週間くらい、横になるとノドのかゆみとタンが絡み、ぜんそくのように気管が苦しくなってセキでタン転がしをする。

これを繰り返し、ろくに寝ないまま朝が来る・・・。

そろそろごまかしが利かなくなってきたので、ほかの用事を延期して遠路はるばる青山の病院に行く。

混んでいて、一日仕事になってしまう。日没とともにだるいカラダひきづって帰る。

 

帰った夜、シングル盤のかたまりから適当に拾い上げて、ターンテーブルにレコードを乗せる。プチプチ言わせてレコードを聴く。

久々に中島みゆきの「あした天気になれ」を聴く。教授の「サウンドストリート」で藤真利子がゲストにきた回(1981年)で掛かった一曲。中学三年生・15歳の頃、そのカセットテープでよく聴いたもの。。。

「・・あした孤独になあれ・・」というヤケクソで自虐的な歌詞の部分、けっこう好きなんだ。

 

■中島みゆき「あした天気になれ」1981■

ちる地蔵

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夏に向かう日々と100曲:Ásgeir「It Will Rain」2014

2024-06-20 12:00:00 | 音楽帳

長らく更新できぬまま日々が過ぎた。

脳内がとっちらかって、まとまらない。

脳内にたくさんのメダカや金魚が泳いでいる中、すくってみようとするのだけど、四方八方にランダムに泳ぐ彼らを一匹も捉えられない。そんな感じ。

そこでふんずまり、日々の行動はストップしてしまう。このブログに限らず日常のなにごとも、である。

しかし、それでは何もすすまないので、訓練かねて、脳内に泳いだり消えたりする雑念のしっぽを捉えて、キーボードをたたいて文字にしてみる。あるいは、時折シャッターを切った写真を選んでみる。

ああしようこうしようという断片に終わっても、それが今なのだから仕方がない。

***

梅雨入りが大幅に遅れている。もう既に入っているのではないか?と思うのだが。。。

既に30℃を超える日もあり、高い湿気と相まった熱中症的な日も出てきた。

激しい雨が一日やまなかった18日火曜。

久々にアウスゲイルの好きな曲を移動中に繰り返し聴いた。

ラジオから流れてきた美しい声と曲が好きになったのは2014年。あっという間に、もう10年が経つんだな。

毎日毎日なにごともなく、インターFMを聴きながら働いていた日々ももうはるか遠くのこと。。。

 

まるでロバート・ワイアットのように高く美しい声。

アウスゲイルの楽曲はヒットした「キング&クロス」に始まり、続いてインターFMが繰り返し流してくれた「イット・ウィル・レイン」へ。どちらも好きな曲で雨の中聴いているとしみじみする。共に時代とは関係ない名曲、死ぬまで毎年こんな季節になると聴くんだろう。

■Ásgeir「It Will Rain」2014■

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航海日誌:「ワールドロックナウ」終了

2024-04-09 22:00:00 | 音楽帳

今回も単なる個人的備忘録。

FM番組「ワールドロックナウ」が終わるいきさつを知ったのは3月末の最終回だった。たまには聴いてみようとラジオ番組表を見ると「DJ: 伊藤政則」と書いてあり躊躇した。なにかの間違えか?もしくは、番組名は一緒だけどMCが変わったのだろうか?と次に思った。でも、まさかこの番組は渋谷さんありきで成立していた番組だから、それは無いよな。。。

しばらく不可思議な状況に戸惑っていたが、調べて全容を把握したところ・・・昨年11月渋谷さんが急遽入院となり、ピンチヒッターとして政則さんがDJとして起用されたらしい。その後スタッフ側と渋谷さん側が協議の末、27年続いた番組「ワールドロックナウ」を3月末もって終了させることに決定したという。同時に渋谷さんはロッキンオングループの社長を退任し、山崎氏に席を譲ることとなった。

渋谷さんらしいと思ったのは、一体どんな病状かなど一切の情報はどこからも漏れていないことだった。経営者だから社員・関係者に不要な心配をさせまいという意識もあるだろうが、無駄な情報をさらしたくはないのだろう。

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私が実際に渋谷さんのラジオを初めて聴いたのは、1981年の「サウンドストリート」だった。当時中学生だった自分は1980年初めにはYMOの洗礼を受けており、渋谷さんの居る世界とは既に距離があった。

「ロックでなければ何でもいい」とジョン・ライドンが放った言葉が代表するように、80年代初め「ロック」はチープで陳腐、形骸化した音楽を示す言葉になっていた。そんな時代に「ロック」という言葉を多用し、観念的に音楽を語る雑誌(=ロッキンオン)という先入観があり、渋谷さんにも良い印象は持っていなかった。全く同じ言葉を教授(坂本龍一)が番組(サウンドストリート)内でぼそぼそと話していたのをぼんやり覚えている。「・・・自分は先入観を持っていたんだけど、(渋谷さんに)会ってみたら意外とそうでもなくて、ともだちになれそうです・・・」。(この1981年当時はまさか数十年後に「NoNukes/非核」コンサートを一緒にやることになるとは思いもしなかった。)

そもそも自分がロッキンオンや渋谷さんの存在を知ったのは、年の離れた兄弟に拠るものだった。その男が長く伸ばした髪、古臭い風体やプログレ・ハードロック崇拝、それ以上に精神異常で偏屈、理解しがたかった彼/上の世代への吐き気するような嫌悪感が、渋谷さん周辺への懐疑心に繋がっていた。

そんな前提があったけれど、渋谷さんの「サウンドストリート」を次第に聴き、ロッキンオンを買って読むようになり、自分の先入観が先入観に過ぎない部分も大いにあることを認め、それまでとは違う音楽と出会っていくことになる。一時は木・金の2日連続で渋谷さんがサンスト担当だったので、最低でも週2日は渋谷さんの話しを聞いていた。自分が音楽との出会いに喜びを感じていた1981から1984年あたり、毎週毎週様々なスタイルのレコードを紹介してもらった記憶が強い。

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また「サウンドストリート」以降も、渋谷さんが関わるいくつかの番組を聴いてきた。「FMホットライン」「日立ミュージック&ミュージック」、その他NHKラジオで放送されるライヴとかにはよく解説で登場してきたし、テレビで構成担当だった番組とかも見ていた。ただ21世紀入ってからはそれまでみたいに熱心に毎週聴くということはなくなり、「ワールドロックナウ」もたまに聴くという感じだった。

年末になると大貫憲章さん・伊藤政則さんと一年を振り返る特番をやること知ってから、毎年楽しみにしていた。果たしてこんなに仲良かったっけ?と思ったりもしたが、紆余曲折の末3人一緒にわいわい番組でしゃべっている様はほほえましかった。そして昨年末も聴かなきゃと思っていたが、なんやかんや忙しくなって年末特番を聴けぬままこの3月末をむかえてしまった。「ワールドロックナウ」は終わるけれども、その時間は4月から新たに「洋楽シーカーズ」として大貫憲章さん・伊藤政則さん2人の番組になり、先日の土曜に第一回放送がされた。

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ラジオ「若いこだま(1973年~)」や「ヤングジョッキー」からの古い付き合いの方は半世紀以上ということになる。形態を変えて新譜を紹介する番組は半世紀断続的に続いてきたが、今回このような形で途中で番組を終えることとなった。

昔1986年 3月末突然「サウンドストリート」が終了することになった際は、最終回レッド・ツェッペリン特集だった。(当時録音したカセットテープはどこかにあるはずなのだけど、探してもまだ見つからず。。。)渋谷陽一と言えばレッド・ツェッペリン、やはり最終回はツェッペリン特集で、というリスナーからのリクエストはがきにすごく抵抗していたのをよく覚えている。また番組内でこんなことを言っていたのを覚えている。“わたしにとってのサウンドストリート”を書いたはがきが多いけど、”あなたにとってのサウンドストリートよりも、私にとってのサウンドストリート“のほうがもっと・・・と言おうと思って(最終回収録に)臨んだけれど、このはがきの量を前にしてそうは言えなくなった。こうして番組を終えられることはある種幸福なこととも思う。だけど番組が終わるたびに、ツェッペリンを出さざるを得ないようなヘヴィーな事態は今回のこれで終わりにしたい。番組が変わっても「まあ、渋谷がDJやってんだから・・・」と思ってほしい。

27年続いた「ワールドロックナウ」の最終回はリクエスト特集だった。私もそんなに経ったとは思えないが、あの1986年からなんと38年が経っている。

リクエストが一番多かったという曲として政則さんが選んだ最後の曲は、38年前と同じレッド・ツェッペリンの「アキレス最後の戦い」だった。今回の「ワールドロックナウ」終了はサンストの終了とは全く意味合いが違う。政則さんは渋谷さんの復活に向けた応援としてこの曲をかけた。

■Led Zeppelin「Achilles Last Stand」1976■

コメント (2)
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