こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2016年1月29日 金曜日 音楽備忘録・トーヤ&フリップ 「ザ・レディ・オア・ザ・タイガー?」

2016-01-30 00:51:39 | 音楽帳

鳥肌立った12月中旬クリムゾンの来日ライヴ。
以降フリップ先生と仲間たちの音楽を改めて聴きこんでいる。最近の歩き旅の7つ道具には必ず入っている音楽。それがキング・クリムゾンとフリップ周辺なのだ。

また、調べているうち知ったトーヤとフリップ夫婦が出演したイギリス番組の動画。
ほほえましい2人の姿が好きで、疲れた夜によく見る。

昨夜、入院する親を見舞ったあと、兄と久しぶりにお酒を呑んだ。
シリアスばかりじゃ疲れてしまう。ボウイについて2人で語ったあとは、トーヤとフリップ夫婦の出演した番組を巡って大笑いし盛り上がった。
「先生があんな姿をしているなんて、まさか。。。と唖然となった。」
あのフリップ先生が自由奔放なトーヤのペースに巻き込まれ、尻に敷かれる姿がとても幸福に見える。

「英語は分からないけど、たぶんフリップが話した後に、トーヤは“この人いっつも妄想じみたワケわかんないことばっか言ってんのよ”そう言ってんのかもね(笑)」それでもお互いを大事に想い愛していることが伝わってくる良い映像だ。

調べる中で2人(トーヤ&フリップ)で1986年アルバムが創られていることを、30年目にして初めて知った。
雑誌類で紹介される新譜は、たいていジャケットくらいは見たことあるか、1曲は聴いたことある。そんなものがほとんどなのに、1986年の作品はまったく知らなかった。タイトルは「The Lady Or The Tiger?」。

現代がありがたいのは、それをYoutubeで視聴できること。
このLPをデータ化したものに12月に出会い、繰り返し聴いている。
A面
The Lady Or The Tiger?  29:48
B面
The Discourager Of Hesitancy
The Encourager Of Precipitation 19:13


特にA面の出来が良い。30分近い曲はその長さを感じさせない。
フリップのギターとフリッパートロニクス、しずかにリピートする音を背景にトーヤの語りが乗っかる。
そのトーヤの声がなんともイイのである。魅力的な声のトーン、語る間合い・拍子も飽きることがない。興味のある人にはオススメの1曲。人によっては、寝るときの睡眠導入になるかもしれない。

■Toyah & Fripp 「The Lady Or The Tiger?」1986■
トーヤ自身のアルバムは80年代当時ロクに聴いていなかった。雑誌広告では新譜が出るたび、ニューウェイヴのコーナーで紹介され、ジャケットワークは素敵だったがレコード評を見て終わってしまっていた。今ではベスト盤CDを持っているが、当時はそれ以外に夢中なものがあり過ぎた。

兄との会話。
「なにがフリッパートロニクスですか(笑)イーノが創った装置なのに。だいたいが先生、どこまでが本気で、どこまでがジョークかわからない。・・・でも、イイよね。」

「最近よく思うけど、音楽には時代を経たうえでしか見えてこないものも多いね・・・そして、キング・クリムゾンは確実に歴史に残る・過去無かった音楽だというのを、12月ライヴを視て感じたね。」

何十年経っても劣化しない稀有な音楽。その確固たる存在感。
それを目の前で感じられた幸せを噛みしめる。

音楽を巡る夢と冒険は、まだまだ続くのです。
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2016年1月29日 金曜日 音楽備忘録・コンパクトディスクの現在

2016-01-29 22:55:51 | 音楽帳
今どきではすっかりCDという記録媒体すらが風前の灯火になっている。そのことを強く思ったのが去年2015年だった。
「全部ダウンロードすりゃ聴けるしね」
そりゃそうだ。間違いではない。
他人行儀な言い方はしない。ボクもそうするし、CDを買っても結局聴くのは、パソコンに取り込んでmp3プレイヤーで聴いているケースが多い。CDという物体は手元に置いておきたいものもあるが、だからと言って何もかもがCDで無くても困らないんだろう。

だから、いずれ・・・という流れは分かっていた。
昨年「ええ?このCDアルバムまでもが100円!」という場面に多く出会った。それはブックオフだったり、中古CD屋さんとかで。中古CDは昨年劇的に大暴落した。少なくとも歩いて不意に入るお店の価格は総じてそうだった。

けっこうショックだったのは、ブックオフの100円コーナーにスケッチショーのファーストアルバムがあったこと。付いた価格が音楽の中身のレベルを意味してはいない。。。のだけど、いくら何でも100円は無いだろう。安ければうれしいということも多いが、値段の付け方に「やりすぎ」と思うこともある。「オーディオスポンジ」は持っているが「見捨てるわけにはいかない」と2枚目を購入した。

お店側がCDというメディアに見切りをつけたのだと思う。安くても価格では売れない時代に入ったから、300円程度の値段を付けておいて、セール時には200円、100円といった具合にして、何とかさばこうと、お店側は必死だ。
ブックオフもお店によっては売り場におけるCD在庫スペースを減らしているところが目立つ。悲しいかな、それが現実。

かつて書いた記憶あるが、CDはデジタルデータを収める過度的形態だから、元々消えゆくものだった。レコード盤とは違う。
レコードは容易に複製できないが、CDは個人で簡単に作れるようになった。コピー盤と本物の違いは、あくまで盤を包むプラケースに入るLOT印刷紙があるかないかの違いだったり、執拗にオリジナルに律義さを求める人の意識だけになってしまった感が強い。<紙ジャケットにしたりオマケ的なものを付けたり・・・といったコレクター仕様は、マニア以外不要なのだが。。。最近はサラウンド仕様で再発することも行われている。>

***

過去のレコード/CD売上枚数ベスト10をやることがあるが、やけに90年代のくだらないJ(じぇい)ポップ類が多い。何てことはなく、音楽産業が90年代潤ったのは、レコードから扱いやすいCDというメディアへ移行したことが大きな理由(あるいは悪しきカラオケ文化の蔓延)で、音楽の中身・質とは無関係である。安くて良い音が鳴る簡便なリスニング道具が拡散して、販売枚数が劇的変化した。それだけのことだ。

じぶんの部屋にうず高く積まれたCD類の雑多な塊は、買ったものと(ジャニスなどで)借りてコピーしたものがまぜこぜの状態。想い入れあるCDもあるけれど、昨年(雑誌も含めて)カビが発生していることを発見し、そこに諸行無常を感じてから処分するか否かの間で揺れていた。そんな悩む時間すらムダなのだが。
いくら大枚はたいて買ったものでも、ちゃんと付き合い面倒をみていないとこうなる。お花を育てているときと同じ。あるいは彼女との付き合いとも似ている。

迷った結論:全部を聴くわけではないので「モノによっては」処分方向。あいまいな言い方だが、これが今の精一杯。。。というか正しい言い回し。
じゃあ何を残すか?と基準に迷うが、やはり何度も聴くものは処分できない。YMOファミリーのアルバム類が別枠であるように、あるいは「流通する消耗品」では無い・消耗しえない音楽など。
マニアは希少価値・骨董品趣味の度合で残すものを決めるが、自分にとってそんな行為はもう意味が無い。

***

ボウイの死後、妙に醒めた感覚が訪れることがある。呆然とすることもある。ボウイは存在そのものが別枠なのだ。
それでもインターFMから流れるリアルタイムのポップスを聴き、うきうきする曲を発見してはニンマリし、渋谷さんの「ワールドロックナウ」を聴いてほっとしたりもする。先週はB・スプリングスティーンの「ザ・リバー」特集、良い放送だった。
「メインストリームの音楽なんか」と斜に構える姿勢は、昔と違ってもう無い。むしろ、素晴らしく広大な音楽がそこにある。そう思えるのは、年齢とともに音楽からくみ取れるニュアンスが広がったせいかもしれない。

もとを辿れば、そんな王道にはない不可思議でマイナーな音楽を見つけることを楽しみにしている面があった。道で拾いモノをするように、屁理屈抜きの発見がラジオやレコードからあった。そのせいで音楽に惹かれたはずであって、そんな基本に戻んなきゃな、という想いを新たに抱く。
有名無名・売れる売れないなんか気にしていなかったはずだ。
「これ、どうしても好きなんだよな」「これイイよ、オススメだよ」そんなあたりまえの感情・愛情をもって音楽を聴きたい。そんな気持ちを取り戻すべく深呼吸。
形がCDだろうがデータだろうが、そんな形式は関係がない。そんな気分になる。

■コートニー・バーネット「ペデストリアン・アット・ベスト」2015■
2015年出会えた、好きな1曲。
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2016年1月27日 水曜日 音楽備忘録・本日モ日々発見ナリ

2016-01-27 23:32:21 | 音楽帳

ついついジャケット買いをするのは昔も今も同じ。ジャケットが喚起させるイメージそのものが、中身を聴かずとも聴こえる音。
それだけでも「音楽」かもしれない。。。などと、昔「YOU」で坂本龍一先生が言ったのと同じことを思う。

中断:教授は大森先生と対談集「音を視る、時を聴く」を出版していた。あの本は今実家にあるはず。。。
このタイトルは大竹伸朗さんの「見えない音、聴こえない絵」ともダブる。<中断終わり>


CDがカビ出してから、わし掴みにしたかたまりを独りバケツリレー。
分割で掴んでは、ほかの場所に避難移動させている。
そんな作業のさなか、ついつい取り上げて確認し”買ったはいいが、ロクに聴けていない”CDを少し聴いてみたりする。
A.R.Kaneというユニットの「i(アイ)」を買ったのは、町田の中古CD屋さん「DCD」だった。
たぶん500円くらいだったような気がする。(とまで書いたところで、過去のメモ帖から2005年6月に買ったことを知る。発表自体は1989年のアルバム。)

この頃は、三多摩地域を営業車転がしながら、面倒な宗教施設関連の工事に巻き込まれ、その相手群に四苦八苦していた。そんな日々のささやかな楽しみが、行く道で発見する未知のお店で、未知の音楽に出会う時間。メシの時間を節約しては、通りすがりのお店で過ごす数十分。
A.R.Kaneはまったく知らなかったが、白をバックに線だけで描かれた眼(アイ)のデザインを気に入って買った。まったくのジャケット買い。

1枚に短い曲が数十曲も入っている。
それを久々にCDとして回してみる。聴きながら「こんな音だったっけ?」と思い、自分が描いていたジャケットデザインのありようとは異なっていた。
でも、せっかく乗り出した1枚なので、と調べてみると、ウィキペディアにこう書いてある。

A.R. ケイン(A.R. Kane)は、イギリスの音楽デュオ。1986年、アレックス・アユリとルディ・タンバラの2人で結成。同年にシングル「When You're Sad」でデビュー。1987年には別プロジェクトM/A/R/R/Sでシングル「Pump Up the Volume」を発表。
1994年の解散までに3枚のアルバムと数枚のEPをリリースした。


このくだりを読んで「M/A/R/R/S」という箇所に引っかかる。
”なんだかんだ”と雑誌類でこの記号で区切られたマーズを見てきたが、いまいち実体不明。
ということでこの曲をYoutubeで聴いてみた。「ああ、あれじゃん」。

■M/A/R/R/S 「Pump Up the Volume」1987■
この曲を初めて聞いたのは、ナック5の「スネークマンズ・ロック・ショー」。1990年の放送、そのギャグの合間。
収録したカセットテープをがさごそ探すが見つからず。90年のスネークマンは数本見つかったが、そこには入っていない。
この手合いの曲はカセットに収まっているものが多いが、曲名を言わない番組から録音しているので、未だに曲名やアーチスト名が分かっていないものがある。

「M/A/R/R/S」はあちこちの雑誌で視界には入っていながら、それがこのハウス初期の曲を指していると思っていなかった。
灯台下暗し、とはこのこと。
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2016年1月21日 木曜日 備忘録・極私的断片

2016-01-21 22:58:29 | 音楽帳

金土日と夜ぼうっとしているうちに、深夜の時間が過ぎていった。まるで高校生の頃みたいに、雑誌をめくり音楽を聴き、ノートブックに向かう。
昔と違うのは、そこにお酒が次第に入っていくこと。金土日いずれも眠りに就いたのは明け方だった。
そのせいで週明けは、眠くて仕事が手につかない。ただでさえのそんな朝、不覚の雪降りから始まり、久々に寿司詰め電車に長時間閉じこめられた。

この東京という都市にいると、すぐに毒が回ってくる。毒の現れは約半世紀慣れたものだが、全身に回れば致死に至るから、それを緩和する術を覚えるか、外国含めほかの場所に移り住むか・・・、そんないずれかにたどり着く人が多い。あるいは、自分みたいに匂いと痕跡を求めて辺境に辿り付き、隙間に住まう者など。
この「毒を浴びている」という感覚と言い回しは、1980年東京に同期・一体化して、出口のない処に飲み込まれたYMO・教授の言葉をそのままの引用。
東京は生まれ育った地だが、全体を愛してはいない。また憎んでいる部分も大きい。「東京」と抽象的用語・一言でくくれるわけがなく、面積は狭くても・四次元に広い色んな場所と、それぞれの場に棲息する空気がある。
首都という顔をするときのウソぶいたありさまと騙され勘違いする人に、うんざりすることは多い。

***

マスメディアと従属人がボウイを語っている「らしい」。カネに換えようとする不遜な輩。
「らしい」とは、見聞きしないようにしてきたからである。でも、彼ら連中は飽きが早いから、すぐに忘れてしまうだろう。このクニでは芸能三面記事的情報が主なので、盟友イーノ(まさかイーノが発言するとは思わなかった)やトニー・ヴィスコンティ、そしてそれを受けて語った渋谷さん、一部のラジオDJの方くらいしか、心に響く言葉は無かった。或いは音楽が好きな人たち。

渋谷さんの明らかな落胆と情緒的に流れそうな自分を抑えながら語ろうとしているのが、声から分かった。
15日の新譜「ブラックスター」特集は、サウンドストリートの最終回ツェッペリン特集、前週のクリムゾン特集に匹敵する緊張感があった。そう受け取るのは、あくまで私の感じ方に過ぎないと思うし、事態は別だろう。

6日鈴木慶一さんの「サウンドアベニュー」を聴きながら、今度のアルバムは・・・と言っていた頃、何も思わず良い選曲に心地良い時間が過ぎていた。

***

仕事も私的なことも両方、11日から一週間面倒なことが多い日々が過ぎていた。
おしゃべりな音楽芸能人等々がコメントしているらしきページが出てくると消し、ラジオでそんな話題に行く気配がするとチューニングを変更した。落胆している中で必ず現れてくる安易なメッセージは、311後に現れた状況に似て見えてしまう。
察知をしたら、即断つ。そうしないと悪性の毒を浴びてしまう。毒情報は可能な限り断たねばならない。それは今年も同じ。ボウイが亡くなった関連映像も一切見ずに過ごした。

いろいろ思うことあるが、ボウイについてまとまり得ない。
ただ、最後までまったく最後を感じさせずに、精力的で脂の乗り切ったまま新作を出して唐突に消えたボウイに対し、感情に任せた発言をしたくない、というのが今の気持ちで、そのおかげで妙な崩れ方をせずにいられる。なにかとってつけた芸能レポーターみたいに、それ呼応し騒ぐ群集みたいに、・・・そんなノイズを発する輪には居ないようにした。意識の中では亡くなった認識が未だになく、それでも、静かに彼が創った音楽には向かいあっていた。

トニー・ヴィスコンティが語った「ブラックスター」制作過程を紹介した渋谷さん、そのお二人の発言を聞いて思ったのが、果たして人は最期まで冷静に表現者で居られるものなのだろうか?人はそこまで自らに課せられた任務に対して忠実でいられるだろうか?
どれだけこの人は芯が強い人なのだろう。

***

一昨年暮れ「ナッシング・ハズ・チェンジド」なる新譜が出た際、まるまるのオリジナル盤と勘違いして喜んだ。
2013年後半・親の深刻な状況を受け、それまでと質の違う形で死をとらえざるを得なくなった頃、インターFMが掛けてくれていたニューシングル「SUE」を聴いた。このシングルが良く、いったいいつ録音したんだろう、というヴォーカルとサウンドのテンションと高揚感。

入院する親から当時見せてもらった「リアリティ」ツアーのライヴ。
そのとき「この人は永遠に不老不死なんだな」という、昔とは異なる意味でのエイリアンぶりを感じさせた。その延長線上でイメージを保持したままシングル「ブラックスター」を聴いた。また新しい展開が始まる、としか思っていなかった。

シングル「ブラックスター」がインターFMで掛かりだしたのは昨年12月の頭。その後、まだ発売前なのにYoutubeではアルバム全体がアップされ、聴いていた。その良さは分かっていたが、制作意図と背景はヴィスコンティと渋谷さんから教えてもらうまで、考えもしないことだった。
アルバムに収録された2013年のシングル「SUE」は別ヴァージョンになっていた。ジャジーでスパイ映画のサウンドトラックみたいな妖しさあるこの曲は、シングルでは比較的ゆったりした進行だったが、アルバム「ブラックスター」内ではドラムンベースのような性急さとグルーヴ感を持っており、この作品の中でも特に聴きごたえのある好きな一曲。
この休み、歩く中アルバムを今一度二度三度聞いた。聴けば聴くほど、彼がもういないなんて微塵も思えない。

よく”おやぢの独り言”といった言い回しをする者を同年代の男に見掛けることが多いが、そんな開き直りは好きになれない。
実は当人もそう思ってもいないケースが多く、自己卑下しているふりして他人にすりより、何かを得ようとしている。そんな姿は見たくもない。

「歳を取ったから、といって、それがそのままこの地上世界における心身摩滅を意味してはいないんじゃないかな?
だって、何が正しい基準かなんかわからないだろ?すべては変わっていくし、生きる価値ってそんなもんじゃないよ。くだらない言い訳だね。」
ボウイならそんな風に笑い飛ばして言うんじゃないだろうか。
「年老いたような気になってるキミもね(笑)」そう言ってくれるなら幸せ。そう勝手に思って、そんな妄想のなかで喰い止める。

■David Bowie 「Absolute Beginners」1986■

差しだすものなど何ひとつない
受けとるものさえ何ひとつない
ボクはまったくの初心者
完全に正気だ

キミが微笑んでいる限り
ボクは他に何も求めはしない
無条件にキミを愛している
でもボクらはまったくの初心者
ボクの愛がキミの愛であるかぎり
ボクらは絶対にうまくやっていける

この曲は映画「ビギナーズ」のタイトル曲として、二人の恋を歌ったものである。
ボウイは笑顔で高らかに、こう歌っていたのだった。こんなこっぱずかしいことをてらいもなく云えて、それでもサマになってしまう。コートと帽子姿が決まっていてかっこよかったビデオ。ボウイは、いかに大仰であっても、それをあえてすることが多い。

例えば、ミック・ジャガーとのコラボレーションシングルで「スターを演じるスター」同士の対決。
まるでゴジラ対ガメラみたいな滑稽さがあって、当時観ながら笑っていた。彼は「そう反応するだろう」ことも織り込み済で演じていたんだと思う。「愉しんでくれてるかい?」と。

この「ビギナーズ」は、1986年当時エアチェックしたテープで聴いていた。
ここには、1983年「Let’s Dance」を担いで新しい姿で現れて以降のきらびやかで明るい、スポットの下で揺れるボウイ。しかしこちらは「・・・Dance」よりたった三年というのに、日々迫りくる幻覚と狂いへの恐れに追いつめられ、その視えない悪魔と闘う十代終わりの夜だった。
ボウイと自分の間の距離。とても遠い乖離を感じた風景だった。

その後苦しいデッドラインをくぐり抜けて行った。だからといって壁は次々立ち現われてくる。それでも”そうそう悪いだけでもないな”と思える時期に入ったのは、そこから十年以上経てのこと。それ以降もしんどいことはゼロにはならないし、絶えず困難は現れてくるだろうが、いい加減悟らねばならない。

この曲は映画のタイトル曲として恋を歌ったものでも、何も相手は彼女ばかりとは限らず。
時も場所も離れれば、受け取る音楽への解釈は自由。
キミとボク、それを別な受けとり方をすれば・・・、などと思いながら、ここ数日聴いていた。おおらかで好きな一曲である。
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2016年1月10日 日曜日~14日 木曜日 備忘録 -Out Of Noise-

2016-01-14 23:59:45 | 雑記帳

1月10日 日
冬至あたりに比べれば、春に向けて陽は長くなってきた。師走にはすでに湯島やこの島で梅が咲くのが見られた。
それでも日の長さは短く、早い時間に外に出ないと、陽はあっという間に沈んでしまう。
外に出る出だしが遅れた。歩き過ぎで足も傷んでいるので(休みは乗らないよう努めている)電車でショートカット。

祝日法が無理矢理結合した世間の連休。
この日もどこと決めずに歩き出し、十条から板橋のあたりへ。

正月の余波が続き、神社仏閣も祭り一色のやかましさ。ノイジーな御利益場とその周辺があるばかり。しかし、そこを離れれば、ちゃんと昔とつながった変わらぬ空気がある。

五輪を口実にした東京の破壊が進行する中、北区・板橋区あたりは人肌感ある場所が多く残っている。いつも一息つかせてもらっている。
歩く最中聴く音楽は、クリムゾン、フリップ、ボウイ、NoNukesにおけるYMO、クラフトワーク、ボズ・スキャッグス、陽水、砂原さんと移り変わっていく。
その日の旅が終わりつつある陽が沈んだ夜道では、昨年出会えたガウシアン・カーヴの「Clouds」。

街の放浪は幼い頃からの癖だが、ここ数年は極端でやり過ぎてしまい足を傷めることが多い。
音楽をより多く聴くのは、インドアから街を放浪しながらの方へ、より傾く。あてない通りに佇むとき、音楽は余分な装飾をとっぱらい丸裸で聞こえ、それが放浪の中での伴侶となり解放感を生む。
行くたびに常に新しい顔をして待っていてくれる街のありさま。それを視てシャッターを切り歩くことが、今のボクの楽しみであり生きる喜びとなっている。その視聴覚ないまぜの瞬間瞬間はいつも自分を励まし、よく気分が落ち、疲弊と掴み難い鬱感に包まれていく自分を、生き生きした方向へ軌道修正してくれる。
1月11日 月
この休みも歩いていた。ある地点まで快調だった。

1月12日 火
朝、寝起きラジオを点けるとボウイの曲が流れていた。DJはヴァンスKさん。
室内がやけに薄暗い。パソコンを点けニュース・ページに行くと、雑誌・女性自身みたいな見たくもない記事とコメント。見ないふりしてすぐ消す。一切の情報を閉ざし、いつも通り緑茶とパン、そして朝風呂と一式終えて外に出る。

雨が降っていた。冷え込みからこの冬初めてのコートを着込む。
仕事場に断りをいれ、待ち合わせ駅で兄と落ち合い、親の転院先候補の病院に行く。
朝から何杯もコーヒーを飲んだ。行きがけの喫茶店、一仕事終え病院を出て別の喫茶店と。

兄と途中駅で別れ仕事場に行くと、じぶんのためにインターFMが点けてあった。そんな同僚たち。

1月13日 水
雨はやみ空は晴れたが、東京はこの冬初めての氷点下。
午後から仕事で地方都市に向かう。その車中「ザ・ネクスト・デイ」を聴き、車窓を流れる風景に眼を凝らす。時折シャッターを切る。たっぷりの日差しと音は気分をハイにさせる。
情報を遮断した中で、死んだなんてウソであるように現実のリアリティは遠ざかる。そこに果たして事実から逃れたい脳の働きがあるか?音楽は相変わらず踊りたくなるような鮮度を呈している。

わだかまりと不自然さと整理付かなさと。
ローカル線の駅でタバコ吸いぼうっとしているうち、たまにしか来ない電車に乗り遅れた。電車は行ってしまった。そのおかげで約束の時間に間に合わず。

昨日次から次へボウイの曲が流れたが、そこには普段通り音楽としての良さで、感慨深いというよりも良い時間が流れていた。いつもどおり。だからと言ってくたびれ果てて帰った後、音楽棚から引っ張り出して聞く力はなかった。

まるでフリップ&イーノの「イブニングスター」、そんな美しい日没を視る。
その後と帰路の冷え込みはさらに厳しかった。帰ってはおでんを煮る。

1月14日 木
夜、食材を買って帰る。ノイズの無い島と空間。
がさごそカセットテープの山を探索し、1982年「ソニー・サウンドマーケット」を見つけた。繰り返し聴いた大好きなカセット。
マンハッタンのイーノを立川直樹氏が訪ねたインタビュー。CMをカットし、ダビングを行って編集したが、それによって音質は相当劣化した代物。

まだちゃんと回ってくれた。イーノと仲間たちという中盤、別の機会に立川氏がボウイにインタビューした録音が挟まる。
立川氏「レコーディングの間に、どんなことをしていますか?」
ボウイ「Sometime i get up・・・hahaha!・・・。
起きた時に2つ3つ頭の中で考えることを決めて、その日でその考えがまとまれば、その一週間はうまく行くし、うまくまとまらないとその一週間は、その考えをぐしゃぐしゃ考え続けて嫌な一週間になってしまう。
考えが浮かばないときは、イーノに電話して考えを借りる。
彼は自分では使い物にならないアイデアを2つ3つ貸してくれる(周囲の笑い声)。」


■ボウイ&イーノ 「アフリカン・ナイト・フライト」1979(アルバム『ロジャー(間借人)』より)■
イーノが描いたプリペアド・ピアノのループをベーシックトラックにして、その上にボウイのラップ等々の音が乗っかってくる。2人のコンビネーションから産まれたこの曲が持つエネルギーと革新性。他にはどこにもない音像。未だに大好きな一曲。

こんなときほど自らに向かい合うために同調せず、個人としてちゃんと眼耳を澄ませたい。
そうして情報を遮断した中、数少なく手に入れたものと言えば渋谷さんのブログから教えられたこと、そして長い友であるくもおさんのコメントとブログ。「同調せず」と言いながら、共に熱く、共に情動を掻き立てられ、そこに惹き込まれてしまった。

明日夜は渋谷さんの「ワールドロックナウ」。
こんなヘヴィな状況下で、いったい渋谷さんは、こんな「ナウ」に対してどんなことを話されるのだろうか?
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2016年1月11日 月曜日 備忘録 -地上のエイリアン-

2016-01-11 22:32:44 | 音楽帳

身の回り・仲間に死が切迫し出してから、そういった類の話から寡黙になっていた。というより意識的に回避してきた。渋谷(陽一)さんは著書で、森鴎外が亡くなる前「なんだ、こんなもんか」と人生のあっけない短さを嘆いたセリフを引用し、そんなことを言わないように前に進まねばならない、とまるで自らに語るように命じていた。その文章を十代の頃読み、勢いで自らにも課したが、今になって鴎外が言わんとした真意が分かってしまった。「そうだ」と思えたのは勢いだけで進めた時の自分。

周囲の死を語り出したら崩れてしまいそうな気がしていた。
それを嘆くよりも、切迫した中でも、より強く生きるという意思を捨てないことをばかり考えていた。

夕方コーヒー飲んでいると、病床のお袋から携帯に履歴が残っていた。大きな峠は越えたが、まだ手足はままならず何だろうか?入院して二か月を過ぎ、初めて来る電話番号からの電話。それが本人が掛けたかどうかは不明。メッセージをきくと『ボウイが死んじゃったよ』。そんなことを病人から聞くことになろうとは思いもしなかったことだ。
ボウイだけにはまだまだ永遠のエイリアンで居て欲しかった。新譜「ブラックスター」を聴いて、まだまだ行けるぜ。そう思っていた自分は浅はかだった。

ハタチで狂気に呑み込まれ苦しんだ時、あらゆるCUEを探して本を読み漁った。シンコーミュージックが出したボウイの文庫本はその中の一冊で、えんぴつで線を引き、付箋のようにちぎった紙をページに挟んで、いつでもめくれるようにしていた。1986年12月30日の本なので、アルバム「トゥナイト」までのボウイの言葉集。
危機の乗り越え方について、聖書みたいにめくっては読む数行。モノクローム写真も含めて、おおくの手がかりがあり刺激された。そこには家族親族に精神疾患者を持つ者として、自らの血を追求せざるをえない下りもあり、同じ境遇の自分を重ねたりもした。

その後、曲がり角にぶつかってもぶつかっても、何度も変身してきたボウイ。常に越えていくことを課せられた彼の業のようなものは、我々が望んだ残酷な期待。「ブラックタイ・ホワイトノイズ」で好きだったシングル「ジャンプ・・・」のサビは「飛んでみろ」と煽る周り(They Say Junp)だったが、それはボウイと我々観客の構図みたいでもある。

2002年アルバム「ヒーザン」、一昨年シングル「SUE」、そして新譜「ブラックスター」には手応えがあった。今日のmp3にも収まっていた。逆に新譜間もないのに不可解で、彼の死にしばし堕ちていたが落胆は次第に、何はどうという脈絡抜きの怒りになってきた。
「なんやねん、こんな制約だらけの糞心身よ。タラタラしてんじゃねえ、意のままに動け!」そう言いたくなる。あらゆる手段を用いて、何がなんでも運命に抗うという無茶、気分はもう総力戦、意味不明だが、そんな気分になった。

湿っぽさはボウイに似合わない。ドラッグ中毒から脱するべくイーノとベルリンに移り共同生活から生まれた作品、鬼気迫る切れ味鋭いナイフのような曲たちを今夜聴いて、闘う意思を新たにすべし。

■ボウイ 「美女と野獣」1977■
ロバート・フリップ:リードギター
カルロス・アロマー:リズム・ギター
ブライアン・イーノ:シンセサイザー、キーボード

80年代出てきたイギリスのミュージシャンの多くは、ボウイかブライアン・フェリーの影響下で音楽を紡いでいた。フォロワーともいえる彼らの数は非常に多かった。例えばジャパンの音が鳴っていた土壌も、その軌道の上である。それ自体の影響を受けていない、と否定しても、音にはその時々に敷かれたフォーマットのようなものがあって、それを無視することも出来ない側面がある。日本で言えば土屋昌巳さんなどもボウイに憧れてきた一人。ボウイは多くの音楽子孫を産み、進むべき道を開いた開拓者だった。

存在が大き過ぎるので、こういった方々がその愛を語るならまだしも、まるで芸能人みたいなことを言う者が出始めるだろうが、そういったノイズの外側にいたい。
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2016年1月8日 金曜日 備忘録 -フリップ師匠との日々-

2016-01-08 22:22:59 | 音楽帳

キング・クリムゾンの12月来日ライヴに感銘を受けて以降、ロバート・フリップのソロをいろいろ調べては聴いていた。
改めて聴くものと知らなかったもの(サウンドスケープ類)と。

フリップのギターをたくさん聴くことになったのは1981年であり、リーグ・オブ・ジェントルマン、新生キング・クリムゾン、というリアルタイムに混じり、イーノと繋がった作品、フリップ&イーノやベルリン時代のボウイ、トーキングヘッズでのゲスト演奏、ピーター・ゲイブリエルとの曲など。
どうやったらあんなギター音が出るのか?そのテクニックとユニークな奏法がふしぎだった。知性を感じさせながら、音そのものは流暢で美しい響きを持っていて好きになった。
(リーグ・オブ・ジェントルマンには、頭でっかちでぎくしゃくとした頭痛する曲も多かったが。)

考えてみれば、プログレッシヴロックという歴史的音楽ムーヴメントが終わった後も、ニューウェイヴとの関わりにおけるフリップの存在は大きく、様々な新たな広がりと展開があり、つくづく偉大なミュージシャンだと認識する。それは文壇や音楽業界などという狭い世界で、院政を引く「大家」の言うことに左右されてしまう、といった縛りではない。
また、フリップのいる風景は、ミュージシャン同士のいさかいはあっても、「宗教・政治・広告屋ときちんと裏で握手連帯したマスメディア商売と購買対象」といったありていな構図世界の外側。汚泥にまみれた世間の外側。
虚栄心・すけべ心はあったとしても、純粋に音への真摯な態度が感じられる。

新生キング・クリムゾンが始まった後、1982年には、ポリスのアンディ・サマーズとコラボレーションした作品「心象風景」に出会う。
フリップへの興味は尽きぬまま、80年代中盤はデヴィッド・シルヴィアンとのつながりへ。周囲にろくでもない音楽が湧いてくる中、発表された2枚組「ゴーン・トゥ・アース」の持つ内発的エネルギーと魂の発露。
ここにおけるフリップのギターが加わった曲は、かつてイーノとの作品みたいに欠くことは不可能な存在と音であり、この時点ですでに後のシルヴィアン・フリップが生まれるのは時間の問題だったのかもしれない。

■David Sylvian & Robert Fripp 「Wave」 (1993年10月26日ライヴ)■

左上 デヴィッド・シルヴィアン 「遥かなる大地へ(ゴーン・トゥ・アース)」
左下 シルヴィアン・フリップ 「ザ・ファースト・デイ」
右上 アンディ・サマーズ&ロバート・フリップ 「心象風景」のLPポートレイト
右下 デヴィッド・シルヴィアン 「テイキング・ザ・ヴェール/アンサード・プレイヤーズ」 ・・・「ゴーン・トゥ・アース」からの四角いシングル盤。B面のギターはビル・ネルソン。


いずれも身近に置いて、繰り返し聴いて(眺めて)おきたいもの。
「ウェイヴ」オリジナル曲は、’86年作品『ゴーン・トゥ・アース』に収録された未だ愛聴曲である。
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2016年1月1日 金曜日~3日 日曜日 備忘録

2016-01-07 22:30:34 | 音楽帳

1月1日 金 元旦
9時少し前、起きると晴れ。アラームの鳴る嵐を消した末の目覚め。
首が痛み、風呂沸かす。お茶葉買い忘れたから、玉ねぎスープを飲む。ゆず湯入り、支度。

10時外に出る。公園に行くと、ネコ3人が日向ぼっこ、カリカリのお年玉を上げる。彼らもぼくも元旦など関係ない。生きるために喰う。そんな一点で交わっている、人の居ない、あったかい陽光の場所。

実家に集まり、独り身の親父を囲み、呑んで喰って。孤独のグルメ。20時帰宅。
深夜、灯りを消して瀬戸内寂聴さんのNHK特番「いのち」を見る。明け方4時ごろ寝る。

1月2日 土
9時半ごろ目覚めるが重くて、しばらく横になったまま。しだいにお茶、ラジオへ。
入院する親を見て、兄夫婦と言うこと。「とにかく食って寝て出すことが自力で出来れば生きられる。」
11時台、雑煮作る。そば一束・もち二個・かまぼこ・春菊。

風呂上がると13時。今日の公園にはクロちゃんだけ。おなかいっぱいらしく近づいてこない。公園の草むらにかわいい黄色い花が咲いた。
ふだんならラジオ生放送聞いて歩くが、今日の久米さんは録音かつ聞きたいと思わないテーマ。そこで音楽へ、ゴドレイ&クレームから始める。
E女史にTELすると銀座バーゲン最中とのこと。「お元気なことで。良いお買い物を。。。じゃあ、また。」

根岸方面へ歩く。そのあたりでパカパカ行進曲始まる。
15年下半期ベスト10.大好きだった立川そば屋のおやじさん、福島なまりの絶妙な語り口、その話しの面白さに歩きながら再度爆笑する。
道灌山あたりまで行ったところで電車のチカラを借りる。親の見舞いへ。

帰り夜道、上野あたりまで歩きつつレインコーツのラストアルバム聴く。マッサージを受け、多少ほぐれるが痛みは癒えない。
23時半帰宅。夜中洗濯、パスタ。5時過ぎ伊集院さんのラジオ録音掛けて寝る。



1月3日 日
10:40起きてラジオは日曜天国、これも代行DJのため途中で切る。要らないものは要らない。
風呂の調子が悪いという親父と電話。ちんたらしているうち時が過ぎる。道上洋三さん~・・・爆笑問題番組へ。

14時外へ。やけに筋雲流れ、生あったかくて気持ち悪い、こんなときに地震起きるものだ。(起きてもらいたくはないが。)
ボウイの新譜「ブラックスター」聴く。陽はすでに赤い。四六時中そこらじゅうの寺・神社で休憩してるので、あえてたった1日の神頼みはしない。
初詣列に並ぶのはごめんだし、時間の無駄だ。

たんまり歩いた末、現れた中古屋に入る。CD3枚と小谷野敦さんの知らなかった09年著書を買った。外に出ると夕暮れ。
山手線で神田に出て、Oさんに会う。全身毛穴から汗が吹き出るような抱擁。別れた後、ひと気の消えた街を写して歩く。

島に戻り、家路を辿る。正月は空が澄み、星空が綺麗だ。東京でもオリオン座が見える。
22:40帰ると吉永小百合さんのラジオ。お湯割りを呑む。首・頭・眼は相変わらず痛い。どうにもならずフリップのサウンドスケープ聴く。
深夜湯に浸かる。2時すぎ湯上がり、すぐ布団引き、暗闇で孤独のグルメを見て眠りに堕ちる。







1月7日 木 今夜の一枚
土曜昼・FM東京ポップスベストテン。『孤独のメッセージ』『ウォーキング・オン・ザ・ムーン』でポリスに出会った。ポリスで一番印象に深いものは、それまでになく暗雲たれ込めた音を奏でた1981年4枚目作品「ゴースト・イン・ザ・マシン」。ここには「ドゥドゥドゥ~」的世界は消え、その変化はYMO「BGM」を聴いた3月以降の流れとシンクロする。
決して全曲ダークなイメージで統一されたわけじゃないし、エンジニアとしてのヒュー・パジャムの素晴らしい重層的で繊細な音構成に依る部分も大きいが、当時の自分の中に深い響きある曲が多く、未だに聴く。昨夜も帰り道通して聴いていた。
A面
1. Spirits In The Material World
2. Every Little Thing She Does Is Magic
3. Invisible Sun
4. Hungry For You
5. Demolition Man
B面
1. Too Much Information
2. Rehumanize Yourself
3. One World (Not Three)
4. Omegaman
5. Secret Journey
6. Darkness

何か全体に覆いかぶさった曇り空のような翳り。タイトルとテーマに音的に沿うのはA-1,3、B-5,6なのだが、他のファンキーな曲にすら落ちている影を感じてしまう。
B-6「暗黒の世界」には、何もない荒野の夜道を歩いていた光景が思い浮かぶ。
これは私個人の感覚であり、「シンクロニシティ」が一番好きという人も多いのかもしれない。

■ポリス 「インビジブル・サン(視えない太陽)」1981■

自分が当時聴いていたLPレコードは石丸電気で買った輸入盤で、歌詞カードもなく、歌詞より音そのものだったのもあり、まったく知らなかったが、自動翻訳ソフトで歌詞を読みながら、ペキンを覆う空や事実定まならない水爆実験、未だ戦下の地域のことなどがよぎった。
まったく何がどうなっているのかさっぱり、”世界”はつかみどころがなく、リアリティを欠いている。それは昔も今も変わりない。
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2016年1月3日 日曜日 備忘録

2016-01-04 00:30:44 | 音楽帳
部屋に大きなカレンダーを吊るした。何年振りかのこと。大きな日付文字だけのもの。
仕事場にはデザイン入ったカレンダーがつくえ周りにあるが、家に持って帰ったデザインものはことごとくめくらないまま一年を終える。絵や写真など邪魔なのだ。
数字と曜日だけが構成する紙を眺めていると落ち着く。ずっと眺めているが、飽きない。

捨てても捨ててもゴミだらけ。あっという間に繁殖して、周囲を侵食し始める。
ゴミとゴミじゃない判別が出来かねて、つい積み重ねる源の意識に原因がある。
さらにいっそうそぎ落とそうとする勇気を持ちたい。

■Robert Fripp 「The Cathedral of Tears」1995■
フリップのサウンドスケープ作品があまりに多いので、昔ジャニスで借りた「ノベンバースイート」以外持っていない。じぶん好みのCDジャケットに惹かれるが、なかなかゆっくり聴く刻を失ったままだった。

外から戻った今夜、ヘルニアから来る眼痛と首の痛みがひどく、ずーっとフリップのサウンドスケープをYoutubeで聴いていた。持っている好きな薬「イブニングスター」を横に置いて。

この「カセドラル・オブ・ティアーズ」は、東京に戻った1996年(これもジャニスで出会い)カセットテープで聴き狂ったジ・オーブとのユニット”FFWD”の音色(ねいろ)と同じ軌道上のもの。というか同じギターの曲がある。
FFWDはフリップのギターと、ジ・オーブが創り出す(ピンクフロイド的)時計の音・馬が掛ける足音・風の音といったSEが入り混じり静謐なアトモスフィアを産み出している。
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2016年1月1日 金曜日 備忘録

2016-01-02 00:31:22 | 音楽帳

1月1日 金曜日 元旦
特に正月の意識はない。だが幾ら厭世感に満ち、空気吸うだけでも、それだけじゃ今生きる意味はない。自分への勢い付けとして実家に行く最中エコー&ザ・バニーメンの「ポーキュパイン」を久々に聴く。師走から続く温かい陽気だが、光は冬の光線。

エコー&ザ・バニーメンはよく「エコバニ」と呼んでいた。それは今なんでも異常な圧縮文字数に省略して使う連中用語の渦とは異なる。1983年3作目の「ポーキュパイン」は何よりまずジャケットワークのすばらしさ。想像界で描く冬の寒いヨーロッパに一致する。
調べるとこのジャケットはアイスランドで撮影されている。

イギリスでは1983年2月に発表されたらしいが、国内発売は3月。
まず「カッター」がシングルカットされ、それはアルバムA面1曲目となっている。当時テレビ埼玉で『サウンド・スーパー・シティ』が夕方からあり、洋楽のMTV等が掛かる貴重なもので、彼らのライヴも含め視たのだが、ずっと聴き続けるにはつらいものがあった。
「ロック」と呼ぶものに疎い一因は、飽きることをさせないための音楽的工夫が濃密にされたYMO等と異なり、一本調子で走る音楽がその手合いに多いせい。

エコバニに恍惚を覚えたのは「カッター」よりも、A面3曲目に入った「ホワイト・デビル」。今夜カセットテープを整理すると、1983年4月頭に「クロスオーバーイレブン」でエアチェックしたものと分かる。

室内レコーディングだからだが、当時高密着型ヘッドフォンから深夜現れた、ただならぬ音像と気配感にやられた。寒い音空に響くこだまのような音触とエコー感。極めて冷たい血の気が引いたイアン・マカロクの声、主張するベース、硬質な音に混じって鳴らされる木琴。ジャケットそのものの世界を表現し得ている。
ありがちな予定調和世界にそっぽを向き、あらがい、冬の寒さのなか突き進み、切り裂くような音。

エコバニの「ポーキュパイン」は「カッター」「ホワイト・デビル」ばかりで他に耳が行っていなかったが、今日通して聴くと昔聴けていない曲に頷く部分もあった。
「ホワイト・デビル」はやはり深夜聴くものだが、冬の日をずんずん突き進むには「カッター」は今日の良い友だった。

***

エコバニのここ(’83)の在り方は、そばにU2、サイケデリック・ファーズ、キュアー等が居るという配置。イアン・マカロクは当時インタビューでU2を馬鹿にしていた。みな硬派だったが、繋がる。
U2が正義感に満ちた切迫を音にする一方、エコバニにはイアン・マカロクのニコリともしない孤高と腹に溜めた企みや悪意を匂わせるものを感じさせた。共にカッコ良かった。

だが1984年に発表された「オーシャン・レイン」メロディの安易さに、魔的魅力が消えてしまって感じられた。それはサイケデリック・ファーズのシングル「ヘヴン」にも同様のこと。サイケデリック・ファーズの「ゴースト・イン・ユー」は名曲だと思うが、2バンド共にポップ・ミュージックを目指そうとして挫折した感は否めない。それはレコードセールスという意味とは全く異なる。

それに対してU2は、ポップスという領域と無縁でいて、イーノと「焔(ジ・アンフォゲッタブル・ファイア)」へと進んでいった。「ロック」なるものが形骸化した80年代中盤から後盤、U2と清志郎が孤立無援の闘いをしていた風景が浮かぶ。

■Echo & The Bunnymen 「The Cutter」1983■


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