こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年1月30日 木曜日 音楽風景 ~高橋幸宏、ビル・ネルソン 「ヘルプレス」~

2014-01-30 23:35:09 | 音楽帳

異なるバンドやユニットの者同志が2人で曲を共作・共演する。
そんな事が多々あった、80年代のポップフィールド。
背景には「企画モノ」という趣向が多くを占め、ほとんどは周囲のスタッフや取り巻きがお膳立てをしたものであって、共演すること自体が話題。。。。といった体(てい)が多かった。

それでも、今の自分は、当時を離れて、反芻するように、その共演を愉しんでいる。
当時は「1+1=3であるべき」という具合に、各々の音にはない・新しい化学変化に期待を寄せていたのだけど、そういったものは少なかった。
「ああ、そうなるだろうな。。。」その範疇の外側に出ることの困難さ。

思い浮かぶメインストリームを歩いていたミュージシャンで、今となっては好きなものは・・・
デヴィッド・ボウイ&クイーンの「アンダー・プレッシャー」
デヴィッド・ボウイ&ミック・ジャガーの「ダンシング・イン・ザ・ストリート」
ジャクソンズ(マイケル・ジャクソン)&ミック・ジャガーの「ステイト・オブ・ショック」
ジョン・ライドン&アフリカ・バンバータの「ワールド・ディストラクション」
クラレンス・クレモンス&ジャクソン・ブラウンの「ユー・アー・フレンド・オブ・マイン」Etc

***

一方、そういったメインストリームを離れれば、
お互いの織り成す、それぞれの立ち位置と距離から結び付く実験と、その結果としての化学変化が大輪を咲かした作品が存在する。
こういうもの『だけ』にこそ「コラボレーション」という言葉を使いたい。
教授とトーマス・ドルビーの組み合わせだったり。。。
あるいは、1984年制作の高橋幸宏作品「ワイルド&ムーディー」の一部。

この作品は、A面・B面を合わせても、分数が少ないのでミニアルバム的であったが、
幸宏のソロ・ライヴを通じて親交を深め、YMOにまで幸宏が持ち込んだ相棒、ビル・ネルソンとの2曲の共作が含まれている。
この2曲は、2人の名義で、ヨーロッパでのシングルカットを前提として取り組んだもの。

まだリスナーにはその新曲内容も曲名も不明な発表前、ラジオで一緒だった(これまた相棒の)鈴木慶一さんが「(録音された音を)聴きましたけど、意外な選曲でしたねえ」と幸宏に語った。
「伏せて伏せて、言わないように」と発言にブレーキを掛けた幸宏。

■高橋幸宏&ビル・ネルソン 「ヘルプレス」1984■
アルバムに必ず1曲は、カバー曲を入れる幸宏。
その1曲・1曲に、原曲への愛を感じる。
彼のカバーはいずれもが単なる「カラオケ」ではない。表層的なところだけを撫でるだけのカバー曲ではない。
どの曲にも、新しい解釈と息吹きが吹き込まれている。

「E―BOW」というギターピックを磁石に持ち替えて、音の響きを歪ませる、独自の美しいビル・ネルソンのギターのつややかな音色。
切ない響きをした音数少ない、空白余地を大事にしたキーボード、エレクトロニクス機材の音。
幸宏、ビル・ネルソンそれぞれ「後は無い」かのような切実なヴォーカルと、2人の異なる声が交錯するコーラス。
どれをとっても、自分の心の底に、波紋のようにしわじわと、深く深く広がっていく。
余韻を残したエンディングが描く空(くう)。

 音楽を聴くときに自分の中に広がる開放感
 此の世を貫くチューン

とは渋谷陽一さん独自の言葉であるが、その言葉の持つニュアンスを思い起こす。

幸宏の元愛妻が、現在ではビル・ネルソンの妻である下世話な話題など、この曲の前では、どうでもよい。
曲の内容がいくら悲観的であろうと、それもどうでもよい。「音楽」という有機体としての希望がここにある限りにおいて。
2人の創った「ヘルプレス」は、原曲であるニール・ヤングとは全く違う意味合いを示した別曲として、既にカバー曲という範疇を超えている。

「それは、あんたのいつもの大袈裟な思い込みさ。」そう言われて構わない。
「それでいいじゃないか。」
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2014年1月28日 火曜日 音楽風景 ~スクリッティ・ポリッティ 「オーヴァーナイト」~

2014-01-28 23:23:51 | クロスオーバーイレブン

スクリッティ・ポリッティを知ったのは、1981年4月8日に始まったNHK―FMの「坂本龍一のサウンドストリート」だった。
スクリッティ・ポリッティとパンクの組み合わせというと、意外に思われるだろうが、ドゥルッティ・コラム同様、彼らの活動の始まりはパンク的なムーヴメントの中から始まった。
ちなみに「スクリッティ・ポリッティ」も「ドゥルッティ・コラム」も共に、政治的な意味合いをした言葉。

1981年に教授が掛けてくれた「オペック・イマック」。
当時、暗黒の夜10時過ぎに、重厚なヘッドフォンから聴こえた、リズムもビートもなく、闇の中でうごめく音。
うろうろと聴こえるヴォーカル、低音の土俗的太鼓は一定では無い。
エレキギターはスピードを落とした中、数音を繰り返すが、何度も失敗をする。
あたかも楽器練習のそばで、ラジカセの録音ボタンを押したときのような曲。

これを教授は「まるで坂本的」とぼそぼそつぶやいていた。

この後、1981年・別の火曜日では、「ライオンズ・アフター・スランバー」「スゥイーテスト・ガール」の12インチが掛かった。
そして、おおやけにはファーストアルバム「ソングス・トゥ・リメンバー」が発売される。12インチで実験を行いながら、それをアルバムにしていくという流れ。

アートスクール出身で、裕福な貴族的空気に居たグリーンのセンスが光っていた。ジャケットワークもすべて、グリーンが関わっていた。

1984年になると、12インチシングルが立て続けに発売される。
「ウッド・ビーズ」「アブソルート」「ザ・ワード・ガール」「ヒプノタイズ」「パーフェクト・ウェイ」。
アートセンスあるグリーン/スクリッティ・ポリッティが、今度眼に付けたのは、ニューヨーク。
そこで、一流ミュージシャンとのセッションで産まれた名曲の数々。新たなるソウルフルな音楽。
産まれた曲たちの大いなる変化に驚き、喜ぶのだが、一方では、グリーンは表層的な新しさにしか興味が無いのだな、と分かる。

2枚目のオリジナルアルバム「キューピッド&サイケ85」。
あえてアルバムにする必然性はなかった。
というのは、それまでの12インチの寄せ集め以上のものが無かったゆえの意味として。。
リスナーも音楽家もこのアルバム収録曲に影響を受けたものの、個人的には冷ややかな視線もあった。

グリーンは「坂本龍一のサウンドストリート」にもゲスト出演した。

まあ、グリーンのことだから、次は一体どんな手で、みんなを驚かすのであろうか?
そう思っているうちに、ニューウェイヴは壁に体当たりにて大破した。

グリーンは、さらに新しいアクロバットなワザを繰り広げる。。。であろう。。。という夢はかなわず、1988年・3枚目のオリジナルアルバム「プロヴィジョン」を発表。
極めて正直なポップス。そのことには寂しさを覚えた。
「仕方が無いさ。もう熱を持った時代は終わってしまったんだよ。」と自らをいさめた。

とは言えども、そんじゃそこらにある音楽とは違う。
「キューピッド&サイケ85」の「ウッド・ビーズ」にあった重いズシンと響くドラム・グルーヴ感は無いものの、音質的には前作の延長線上。

昨夜話した、クロスオーバーイレブンのカセットテープは今でも現存する。
1988年のこと。
ここで初めて聴いた「オーヴァーナイト」。
過去のグリーン/スクリッティ・ポリッティにあった奇抜さは無い。
しかし、夜を送るための、安らぐような音がここにはある。
「ホェン・アイム・セヴンティーン・・・」と始まる、アフター・ニューウェイヴの穏やかな夜。

ジャケットデザインは、地球が描かれたビニール風船の空気が抜けて、両手で握りつぶす様。

■Scritti Politti 「Overnite」1988■
アルバム「「プロヴィジョン」には、エフェクターもかけない生のシンセサイザーそのままの音が全面的に使われている。そこに女性的なグリーンのヴォーカルが乗る。
当時、CDプレイヤーも持っていないクセに「CD時代の音の触感だな」と思っていた。

この後、90年代、大阪という異国の地でグリーンの声に再会することになるのだが。。。それはまた別のお話し。
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2014年1月27日 月曜日 音楽風景 ~タイムズ・トゥー 「L.O.D」~

2014-01-27 21:58:05 | クロスオーバーイレブン

時は冬。季節がどうあろうが、日々に魂を込めねばならないと、しつこく思う。
元気、という言葉は嫌いだが、すこやかに日々をあるがままに暮らしたい、と思っている。
制約から解き放たれようと、みうらじゅん先生と安斎さんの、録り貯めたラジオ番組を聞く。
絶妙な2人ならではの、歳が逆転した立場のやりとりを聴いて、大笑いする。

自分は語った。
『80年代の後半、87年の分水嶺。
何も創造的なものなんか、もうここにはない、という空白感の中に、自分は漂っていた。・・・だからと言って、何も無かった訳でもない。』
当時、それでも・・・と、何かあるはず・・・と「音楽が終わったあとに」クロスオーバーイレブンをたまに聴いていた。
過去の熱心さは既に無い。

たまたま、スクリッティ・ポリッティの新譜曲が、クロスオーバーイレブンで掛かると知って録音しながら聴いた1988年の夜。当時の「ぴあ」だったと思う。今は亡き「ぴあ」のFM番組欄は省略形で、全曲掲載はされていなかった。

この録音されたカセットもやっかいで、その後聴いていくたびに、たまたま「流し」で録音したテープの中でのスクリッティ・ポリッティだけではなく、その前後曲をが次第になじんでいく。
次第に、前の曲である若い白人とおぼしき人の掛け合いソウルが気に入っていく。
でも、誰の曲か不明。

結果的に、この曲を探って、1996年東京に戻って以降、神保町で過去のFM雑誌をめくりながら、やっと正体にブチ当たり、CDやシングル盤を購入した。
今では多分、100円均一の中に埋もれているだろう。

■Times Two 「L.O.D (Love on Delivery)」1988■
ブチ当たってショックだったのは、2人組のタイムズ・トゥーというバンド。
その風体が、あまりにも「チャラ男」、バブリーそのもの。時代のアダ花。
しかし、それを知っても、この曲は未だに好きである。
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2014年1月26日 日曜日 音楽風景 ~冬の日々~

2014-01-26 12:23:21 | 音楽帳
今日は、3月春の気温、とラジオは告げている。
でも、冬らしい、時間が停止した白い空。

どんなことがあっても、そのときそのときを、0でも100でもない心境で過ごすこと。愉しむこと。
と言いながら、それはついつい、かっちりしたところに、自らで追い詰めていく性格ゆえ、そのようなことをあえて言うのだろう。

「我輩は猫である、名前はまだ無い」
漱石の碑を見てシャッターを切りつつも、もはや自分の皮膚そのものになってしまった、いつもの神保町をぷらぷらと漂い過ごしていた。

そうすると、初めての梅の開花に出会い、驚く。
早過ぎやしないか?と一人つぶやく。

「梅は咲いたか~YMOはまだかいな」と歌ってみる。アルバム「BGM」が何も出来上がっていない段階での、発売前のアルファ・レコード広告コピーである。
1981年春が近付く中、細野さん中心に3人が時間との闘いのさなかにいたというのに、少年たちはひたすら次のYMOのアルバム(BGM)を首を長くして待っていた。

冬のある日には、冬の記憶が甦る。
体内にインプットされたものがムニュっと顔を出す。



■ミカド 「冬のノフラージュ」1984■
リヴィエラの浜辺に わたしをダンスに誘うつもりなら
カフェであなたとキスをする前の グループフルーツはわたしのお気に入り
だけど忘れないで いつまでも パルスイートスリムが大好きなの

冬のある日にあたなが決めた・秘密の家へとわたしを誘う
あなたには付いてゆきたくなかった このステキな浜辺・・・

プロデュース:ミカド
エグゼクティヴ・プロデューサー:細野晴臣
レーベル:ノンスタンダード・レーベル
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2014年1月24日 金曜日 音楽風景 ~I’LL BE OVER YOU~

2014-01-24 23:47:28 | 想い出かたちんば

80年代の後半、87年の分水嶺。
何も創造的なものなんか、もうここにはない、という空白感の中に、自分は漂っていた。
かたわらで、シャカシャカ「ゆーろびーと」がどうたらこうたら。。。。とFMでは、ちんけな音が鳴っていた1シーン。

音楽カテゴリーの境界線があいまいになり出した時代。
だからと言って真に新しい息吹が産まれた訳ではない。
「ワールド・ミュージック」と呼ばれたものも、名前の付けようのない・ぼんやり漂うクラケ音楽・ただのゴッタ煮を、そうやって商品流通の活性化目的で呼んでいたに過ぎない。

だからと言って、何も無かった訳でもない。
まだヨーロッパの魂は残っていたのか!と驚いた、ケルトの奇跡=エンヤとの出会い。
89年には、教授の「ビューティー」・細野さんの「オムニ・サイト・シーイング」なる素晴らしき2枚のアルバムなど。。。。
だが、そんなものはごく一部に過ぎず、それぞれが、孤。
素晴らしいミュージシャンは、それぞれが優れた作品を創るのみで、流れるシーンなど存在しない時代。

そこには、時代に杭を打ち込むような、過激で革新的なムーヴメントなどありはしなかった。

そんな中、大学時代に入った廃人は、87年から、美術研究会なるアート倶楽部に身を寄せていた。
実際は、変わり者たちのたまり場。
そこは、音楽を聴く者、いかれた安物テレビを見る者、楽器をポロンポロンと奏でる者。
画材の匂いで充満した中、絵を描き・酒やタバコを飲みながら、毎日色んな話しをして過ごした部室。
大学では一番古い公認の倶楽部で、大学から予算を与えられて運営していた。
掃除もしない曇ったガラス窓からは、赤き中央線がガタンゴトンと走って行く姿が見えた、線路脇。

面倒見の良い先輩が、よく車でドライヴに連れていってくれた。しょっちゅう、彼のどくだみ荘に泊まっては、一緒にメシを炊きながら、本や音楽や絵の話しをした。
彼は新しいアルバムが出ると、アルバイトで稼いだお金で、精力的に何枚も新譜を買っていた。
もはや音楽に未来を見い出せなくなっていた自分。

そんな状況下で知りうるリアルタイムの音楽の多くは、彼によってもたらされていた。
U2の「ヨシュア・トゥリー」、マイケル・ジャクソンの「バッド」、スザンヌ・ヴェガの「孤独」等々のアルバム。

そんな中から好きな曲を選んだセレクションテープが、ドライヴの最中ずーっと掛かっていた。
彼の横に乗って、武蔵野や山河の風景に眼をやりつつ、多くの知らない曲に出会えた。

1986年に発表された、TOTOのアルバムに入った「I’LL BE OVER YOU」は、そんななかの1曲。
大学時代に何かあるたびに聴いていた、今でも好きな1曲。

それまで、新たなる音楽の地平を目指し、新たな実験結果としての産物が産まれるときにこそ、自らの「今を生きる」魂を込めてきた1986年のエンドロールを経て。
TOTOの曲は、極めて有り体で、何一つ新しいものはない。
単純にメロディアスな曲というだけである。でも、好きなのである。
矮小化されていく音楽業界の中。まるで何も買うものの無いお店の中で逃げ切れず、「何か無いかなあ」と無理矢理何かを探しているような感じだったとしても。

80年代の終わりから90年代をむかえるにあたって、奇妙な生命体としてアメーバ―のような変態を起こすハウス→アンビエント→・・・・→エレクトロニカの発生など、ゆめゆめ思わず、昭和の終わりに向けた静けさが支配していた時代の曲。

■ TOTO 「I’LL BE OVER YOU」1986■
夢に生きる人が居る
眼を閉じた人が居る
運命が通り過ぎていくままにする人も居る

保証されうるなにがしかもなく、証明するなにがしかもない
ぼくらの愛はなるべくしてなった
それをなぜか?とは尋ねないでくれ

そこには、一定の時間が必要なんだ
いつになれば。。。は天にしか分かりえない
それでもぼくは、いつか「あなた」が居なくなった悲しみを忘れることが出来るだろう

心を傷める日々が潮を引いて、
永久に思える悲しみが通り過ぎたら、
ぼくはきっと「あなた」が居なくなった悲しみを超えていけるだろう

1980年・中学生の頃に、銀座の山野楽器で買って聴いた2,800円のLPレコードの一枚は、ボズ・スキャッグスの「ミドル・マン」。
ボズのかっこよさ。
当時、AOR=アダルト・オリエンテッド・ロックなんて呼び方をしていたが、そんなカテゴリーなんかどーでも良くて、その後、ボズの過去の作品にさかのぼって聴いていった。
同時代進行では、ボズのバックバンドだったミュージシャンが独立して創ったユニット「TOTO」も聴いていた。
毎週のトップ10でワクワクしながら聴いた「セント・ジョージ&ザ・ドラゴン」そして名曲「99」が、私にはとても新鮮だった。
クリストファー・クロスやJDサウザーの登場。
ロビー・デュプリー、ルパート・ホルムズといった新しいウエストコーストサウンドと共に。
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2014年1月22日 水曜日 音楽風景 ~愛するひとへ・愛する音楽へ~

2014-01-22 22:58:37 | 音楽帳

同志・ゴウさんから頂いたお便りに、言葉が詰まった今日。

12月、そして1月と、カウンターパンチを喰らい続けるパンチドランカー。
それでも、生きていくんだ、と思いつつ、
今日の気持ちはネコ背で低く歩き、スローなところにココロを寄せざるを得ない。

あきらめだけではない。
改めて暗中模索まさぐりつつ、光の差す方向に手を伸ばす段階。

終わるつもりは毛頭無い。
そういう意味では無い。

しかし、今日、脳の中で鳴り続けていた、アッコちゃんが「オーエス・オーエス」でカバーした、細野さんの愛しい曲「終わりの季節」。
細野さんの原曲の別解釈。別ヴァージョンと位置付けしたい名カバー。
磨き掛かった才女・アッコちゃんのカバーに十代の頃出会って、胸を打ち抜かれたれた日。

本来は、出会いと別れが交錯する春間近の「さようなら」なのだが、今日はこの曲が鳴り続けて止まなかった。

1984年のアルバム「オーエス・オーエス」に入った「終りの季節」は、YOUTUBEにはない。
ぜひアルバムを買って、その素晴らしさを体感していただくしかない。

今夜は、細野さんとアッコちゃんが演奏した「終りの季節」を「あなた」へ。感謝と合掌を込めて。

■細野晴臣・矢野顕子 「終りの季節」■

とびらのかげで 息を殺した
かすかな言葉は さようなら・・・

6時発の 貨物列車が
窓の彼方で ガタンゴトン・・・

朝焼けが 燃えているので
窓から 招き入れると
笑いながら 入りこんで来て
暗い顔を 紅く染める

それで 救われる気持ち


今頃は 終わりの季節
つぶやく言葉は さようなら・・・

6時起きの あいつの顔が
窓の彼方で チラチラ・・・

朝焼けが 燃えているので
窓から 招き入れると
笑いながら 入りこんで来て
暗い顔を 紅く染める

それで 救われる気持ち
それで 救われる気持ち

ドラム:高橋幸宏
ピアノ:矢野顕子
シンセサイザー:細野晴臣、矢野顕子
アコースティックギター:細野晴臣

プロデュース&アレンジメント:矢野顕子&坂本龍一
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2014年1月21日 火曜日 音楽風景 ~雨の夜~

2014-01-21 22:46:39 | 音楽帳

昨夜、うすーい麦焼酎のお湯割りを呑んでいた。
いくら呑んでもキリが無くて、ぼーっと痛飲しているうちに、時は夜中2時を過ぎていた。

今夜、仕事場を出て歩き出すと、大つぶのポツポツとした雨が降り出した。
駅を降りても傘は無いので、濡れて帰る。

***

12月から1月にかけて、言語化しずらい事態ばかりが続く。
しかし、「生きられる幸福を何かに込めねばならぬ」と毎日思うだけで、へっぴり腰。

大瀧詠一さんについて、自分は語るだけの経験をしてきていない。
1981年「ロング・ヴァケイション」があちこちで鳴る中、とんがった当時の自分は「何がヒットアルバムだ」と、YMO・ニューウェイヴ・テクノ一辺倒。
はっぴいえんども、自分にとっては細野さんのもの。
YMOが基点となり、細野さんの源流を知る中で、体内になじんだもの。

なにせ、1981年3月21日は、YMO「BGM」の発売日。
大瀧さんの「ロング・ヴァケイション」も同じ日の発売。
元は一緒だった細野さんと大瀧さんは、こんな時代に、真逆の世界に居た。

***

「生きられる幸福を何かに込めねばならぬ」。そう思っている。
しかし、それだけではウソだろう。
大瀧さんの存在を、当時好まなかったにしろ、時代を共にした登場人物が不在になる恐怖を覚えた。
脳裡にピンク・フロイドのアルバム「狂気(ザ・ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン)」に入った「タイム」がよぎったのも事実。
もっともっとの核心は、実は怖くて言語化できないもの。

***

細野さんは、今、どんな想いをしてるのだろうか?
大瀧さんのことからよぎったのが、細野さんの心労への心配。(山下達郎さんのこともよぎったが)
それは、私には分からない。

大瀧さん・細野さん、2人の間の機微・距離感。それはお互いにしか分かりえない。
しかし、今まで音楽を聴いてきた中で、分かっていることもある。
2人の性格・「ソリ」は水と油。ゆえに、一緒に作品を創ることもまれであった。
ライバルともいえるし、お互いがお互いを意識して、共にセッションすることを忌避していたのは、目に見えている。

***

私に映るのは、大瀧さんは趣味人。別段、音楽を創らなくても苦悶することはない。
細野さんも音楽に対して趣味人である。
しかしながら、様々な葛藤と取り組み、大きなヤマをいくつも超えてきた。
細野さんの作品には、いつも、その時点・その時点でぶち当たってしまった事態に対しての、徹夜含む濃密な時間を掛けて作り出された集積体が有る。
それを私は聴いて愉しみながらも、痛々しさも感じてきた。共に生きてきた。

それを細野さんは望んでいた訳では無い。乗った船は、実に困難なる道のりであり、それを越えるために、また新しい地に向かう、という旅路の連続。
やっと細野さんが思うような、フラットで自由で楽しい音楽演奏に辿り着いたのは、この10年。

***

音楽の神様・細野さんの「いま」を、一緒に共有できる幸福。
近時のライヴ、作品「ヘヴンリー・ミュージック」、そして、FM番組「デイジー・ホリデー」。

特に細野さんの家に居るような気持ちで耳を傾ける、くつろいだ空間である「デイジー・ホリデー」は格別である。
だが、それも一応は、おおやけに開かれた番組ラジオ。
そこで、大瀧さんのことを語らずには済ませられない。それを細野さんに要求するのは酷であるのに。

そんな折、何も語らずにはいられないので。。。と、「デイジー・ホリデー」で大瀧さんのことについて、細野さんは語り出した。
初めて大瀧さんに出会った頃のことから始まり。

放送で知ったのは、2013年11月に大瀧さんに取材に行かれる方に、ことづてで細野さんは「ソロアルバムを創って欲しい。そこには全面的に手伝うよ。」
それに対して、大瀧さんが取材の方に返した言葉は「それは、細野流のあいさつだよ。」真意は別のことかもしれないが。

ここで分かるのは、昔も今も、2人がじかに会う、というには、合い間と距離があるということ。
よく年賀状に「また逢いましょうね」「どうしてる?」とはあれども、だからといって会うことは無いのだな。。。という関係性を思わせる。
結果的に大瀧さんと細野さんが再び時間をおいて、新しい何かを創る機会は無かった。

「ロング・ヴァケイション」の、あのジャケット、あの極楽な世界には惹かれていた。
しかし、当時の私の中では否定せざるを得なかった。そういうめぐり合わせというのは、音楽にはあるのだ。

***

ムーンライダーズ、はっぴいえんど、と続いて。
昨夜、突然、佐久間正英さんまでもが亡くなってしまったことを知り、「痛い」とそれから数分。目を開けられなかった。
なんともむごい。

オリジナルのプラスチックスさえもが成立しなくなってしまった。
頼むから、もうこれ以上、勘弁願いたい。天よ、どうかご加護を。

■ポール・ハードキャッスル 「レインフォレスト」1984■
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2014年1月20日 月曜日 東京風景 ~文京・須藤公園~

2014-01-20 22:31:10 | 写真日和

「TOKYO WALKER」というお手軽雑誌が出たのは、80年代の終わり・昭和の終わりの頃。
これは単なる1つの契機に過ぎない。
その後、やたらと情報誌片手にリュック・帽子姿の団体さま御一行が、街荒らしに来る姿を見るきっかけでもあった。
街は、メディアに取り上げられるたびに、その色・心骨を失い、資本主義アメリカナイズ・観光地化されていった。
なじみの隠れ家で、ひっそりお茶を飲むのを愉しみにしてきたなか、かれらのざわめきに、ココロを乱した。

***

今はすでに、そこから相当な年月が流れていて、個々の趣味嗜好が細分化され、四方八方に飛び散った。
そのおかげで、逆に大きな流れからは放たれた。
前に比べればマシな状況かもしれない。
まあ、スカイツリーなど、世界で一番高い塔というだけで、やかましい異国人が集まるのは、いつの時代にもよくあること。

***

昨日・日曜日は、大きな風がぼおおっと窓や樹々を揺らす、さぶい日だった。
昼の食事を作って食べたら満腹で動けなくなった。
だけども、冬の空は果てしなく晴れていて、
「どうしようかなあ」と、家に居るか?外に出るか?の間を揺られていた。
迷いの末に外に飛び出した。

電車に揺られて。。。とある駅で下りて、歩き出す。
手がかじかむので、携帯カイロで時々、指が動くようにする。

四つ辻のメインストリートに面して、マンションが今ではにょきにょきし出した通り。
そんなオモテ通りを離れて、ネコと一緒に、一本裏筋へと入る。
そんなジグザク迷走は、いつも通り。
D坂の一本となりの筋に入ると、上り坂があり、その左には古い民家、右には須藤公園。この風景が昔と同じように現れる。今でもひっそりとしていることに安堵する。

須藤公園も上野公園同様、佇んでいると時代からトリップさせてくれる場所。
坂道同様の傾斜面に自然に生えた草花、大樹が風に揺れて、ごおおっと言う。
公園の真ん中にある池では、鯉が泳ぎ、池の中央へと渡りを伝った先には朱塗りの弁財天がある。
傾斜を上るように、くねくねと作られた上り段を踏みながら登って行くと、勢い良い滝の水が落ち、そのしたたる水は池に流れていく。
目と耳と鼻(鼻とは、草木の香り)が敏感になる。

滝が流れていく様を、橋の上からじいっと眺めていると、毛糸の帽子をかぶった外人のおじいちゃんと幼いお孫さんがやってくる。
会話が聞こえる。
幼な子と目が合って、微笑むと、彼はシャイに照れて、おじいちゃんにすがりつく。言葉は分からない中、おじいちゃんと2人笑う。



くねくねと作られた木段を頂上まで登れば、子供向けのすべり台、遊具、そして井戸水の跡。
藤棚にあるベンチでは、ギターの練習をする方の音色。
今では頂上からスカイツリーが見える。

ここに佇んでいると、何もしないでじっとしていられる。
そして、まどろみ、我が身はその中に溶け、消えていく。



■ジョン・フォックス 「ザ・ガーデン」1981■

ぼくらは、庭園のなかで眠っていた
夏のいぶき
輝けるいぶき

丘のひろがりに背を向けると
空は燃えるような色を放っている

ぼくたちは消えていく
ぼくらは溶けていく

彼女は光のなか銀色に燃え尽きていく
長い歳月、光を放ち続けつつ
そして、全てのしぐさは、切なる想いに満ちて

いまもぼくは感じている
ぼくらが消えていくのを
溶けていくのを

長い光となって、きみが立つ姿が見える
ドレスを捨て去り
窓辺には、赤味が射す
粗野の地平線を抜けて、太陽は沈んでいく

ぼくたちは消えていく
ぼくらは溶けていく



(*エーゴの出来ない私の、いつもの個人的な思い込み訳詞。正しい保証はありません。)
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2014年1月19日 日曜日 東京風景 ~千住の門番~

2014-01-19 12:37:13 | 写真日和
冬へ。いとしいものたちへ。

***

小旅のさなか、宿場町・千住の道の三叉路で、門番のネコさんに出会う。

門番さんなのに、キレイな声で「ミャー」と大きく鳴く。
何かを訴えている、のだろう。現代の警察官の「ピピッ」と鳴らす笛の音として、指摘を受けて立ち止まる。
しばし、門番さんの詰問に、腰を落として話しを聴く。

やけに、わたしの身に頭突きを喰らわしてくる。
「お前さん、ええ加減にせいや」とばかりに。
「すみません」と言い、カラダをさするとふかふか。それに肉付きも良い。
さすが門番たるは、かなりな修行と人生を歩んできたことが、さするその手に感じる。
カラダの大きさ、毛並みの良さ、しっかりした骨格。

何も無いのも、旅人同志の不義理と思い、カリカリを「これでも、どうぞ」と差し出す。

白いカラダ。でも、冬なので、目やにが右目から出ている。
そんなことはお互い様の冬。

「お前さんは、貧弱なカラダだねえ。それじゃあ、そう長くは無いな。」
「ええ、そう思っておりやす。
いやねえ、この年明けに鏡にじぶんを映してみたんですよ。
さすれば、アバラは出るは、悪しき像を映し出す鏡に、あぜんとしましてね。
今は冬でしょ。だから、と思って、野菜が美味しい季節ですから、煮物にして喰い出したんですがねえ。」
「まだまだだな」
「へえ。。。」と、うなだれ、自戒する。

「おれなんざ、こうして、道行くヒトの往来を見ているだろ。
そうすると、かわら版なんか見るより、ようく世の中が見えてくるのさ」
宝石のような輝きを持つ薄いブルー。
そのまなざしの指すところ。

一緒になって、地べたから数十センチに眼を置いて、しばし往来を見ていた。
なるほど・・・と門番さんの言わんとする異世界が見えてくる。



■Cure 「Lovecats」1983■


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2014年1月17日 金曜日 音楽風景 ~フリーズ~

2014-01-17 22:31:05 | 音楽帳
フリーズという2人組を知ったのは、1983年にヒットした「I・O・U」というシングル。アーサー・ベイカーのプロデュース作品。
時間の隔世に鈍感なボクの脳みそ。
こんな30年後の今でも、時々聴きたくなって、自宅に居るときに聴いている。バックコーラスをなぞるような鉄琴の響きが好きだ。

この手のこと(フリーズの「I・O・U」)を書いている方は、ごまんといるので、何もお前が。。。と思われるだろう。
しかし。
昨年秋~年末年始にかけて、死への恐怖を実感したのを経て、今一度戒めたのは、あくまで「ボク」という個人の内発的な発露だけを大事にしたい、という想い。

一昨年、とある方の記事と出会って、ぐうの音も出なかった。
「ブログなんてえのは、しょせん、今インターネット上にあふれる情報を適当に組み合わせれば、いくらでも構成出来る」というまぎれもない事実。

ならばだ。
インターネットとの親密性からもさよならをしよう。
選んだ番組以外、垂れ流しテレビは見ず、もはや週0分のときさえあるようにして。
情報を無理矢理クチから詰め込み⇒うんこをする円環動物としてのネット病人(というほど闇に通じていないが)からバイバイして、自分の見た・聴いた・思ったこと以外を可能な限り排除し「ネット中毒を捨てよ、空の下へ出よう」という具合に。。。。
そう思って、年が明けた2014年となった。

■Freeez 「I・O・U」1983■
1983年当時、アーサー・ベイカーは人気の的のプロデューサーだった。
ニューヨーク―ブレイクダンス―表面に浮上し出したヒップホップ・スクラッチ―曲を掛けるのみから表現活動し出すDJ―リミックスー・・・そういう流れを汲んだ「プロデユーサー」という在り方の変化。
ニューヨークという都市は、アメリカという国家の中にあれども、アメリカとは別の世界。80年代、日本の中で、東京が独立した島世界であったのと同様。
アメリカンドリームというパターン化された思想とは別にして、ジャングルのようなカオスの中からアンダーグラウンドなエネルギーが形となって噴出してくる。

1980年代初頭時点で、同じ曲を7インチと12インチシングルとして発売しているのは、既に実在していた。
それは、レコードのミゾ幅にゆとりのある12インチ(=LPレコードと同じ大きさ)の方が、音が良いという理由からであった。
しかし、1983年においての12インチシングルとは、ヒットチャートに出てくるシングル(7インチ)では無いヴァージョンを納めた、新しい別のメディアとして現れた。
現代では、リミックスも、12インチのヴァージョン違いも極めて当たり前のものとなってしまったが、その根っこを辿れば、ここにたどり着く。

そんな新しい12インチシングルという分野で、アーサー・ベイカーにスポットが当たった。
ただ、当時の12インチシングルには、ただ分数を延ばしただけの「エクステンデット・ヴァージョン」や、エンジニアが遊びで入れた奇妙な音の展示会的な12インチも多くあり、このあけぼのの時期には、良いとは言いがたい12インチシングルが多数有った。

***

アーサー・ベイカーは、フリーズのほかに、シンディ・ローパー、ニュー・オーダー、ホール&オーツ、ネイキッド・アイズ、アフリカ・バンバータ、サンシティ等への関与が思い出される。
長髪にヒゲ、するどいまなざしという挑発的な風体。「カタギではないな」と思われるべらんめえがかっこよかった。マテリアル/ビル・ラズウェルを連想させる。

話しは大きく逸脱してしまったのだが、フリーズという2人組で知っていたのが1983年当時「I・O・U」だけ。
さまざまな場所で、このシングル曲はレコードとして掛けられていたのだが、それ以外の曲を聴く機会は無かった。
この「I・O・U」を含んだLPレコードが日本国内で発売されたのは、明けた1984年の雑誌上でのこと。マシュー・ワイルダーなどと一緒に「優れたジャケットデザインだなあ」と思っていた。

その後、フリーズに再会したのは、1984年~一度目人生最終の1986年の間のどこかの時点で聴いた「クロスオーバー・イレブン」。
1983年には「クロスオーバー・イレブン」も、アーサー・ベイカー作品集という特集を組んだけれども、そんなブームも去った後の放送だった。
その日、自分は途中からFMで掛かる音の心地良さに、ラジカセの録音ボタンを押した。
しかし、誰の何という曲、といったメモ紙をカセットの容器に入れておかなかった。
後にほこりをかぶって放置されたテープ整理の折、「あちゃー」と後悔すれども後の祭り。
とても心地良いメロウな音で、夜がやってくるたびに、このカセットを聴いて安らかになったのだが、やはり演奏者・曲名というルーツは知りたいもの。

必死こいて、FM雑誌の束をめくり、やっと「アタリ」がついたのが、「あのフリーズ(?)」の「スパイ・オブ・バクダット」なる曲。
分かりはすれども、「実にメロウでクロスオーバーなインストゥルメンタル曲」と「2人組フリーズ」が結び付かずに、居心地の悪さを覚えていた。

***

そんなもどかしさが解消したのは、2000年以降の神保町中古レコード屋さんでの偶然の出会い。
吹きっさらしの野外の段ボールという劣悪な場所に放置された100円処分LPレコード。
この中に「FREEEZ」という記載あるLPを、自分は見逃さなかった。「アイドル・ヴァイス」なる1985年のクレジットアルバム。

エサ箱にあったLPレコードのジャケットは、相当なダメージを負っていた。
裏ジャケットを見ると、髪の長い男を含む4人組?いかにもロック的なポートレイトで、自分とは縁遠い。
迷う。。。。
「しかし、これを逃したら二度と逢えないかもしれない」と思って購入。

「スパイ・オブ・バクダット」は、ユーチューブには無いが、下記のサイトで数十秒試聴できる。
もし、アンテナがぴぴっとキた方には、おすすめ曲。
ちなみに、この曲以外は・・・んんん~っ、という具合。残念ながら。

http://www.music-on-click.com/gl/product/4987/FREEEZ-Idle-Vice.html

レコード会社は、「I・O・U」同様のベガース・バンケット。
自分の国内7インチ「I・O・U」のシングルは、ヴァージンのレーベル記載品。
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