こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

BRIAN ENO 「AN ENDING(最後の上昇) 」’84年8月25日

2009-02-28 22:17:49 | 音楽帳


1984年8月25日の「日立サウンドブレイク」の最後の曲は、ブライアン・イーノの「An Ending」だった。

風景は、夕焼けの夏雲が流れる中、手前には、おもちゃの怪獣たちがミニゴルフ場のグリーンのピンの周りに配置された映像だった。

海獣たちのシルエットと、雲の美しい移ろいと、イーノの音楽がマッチしていた。
1984年夏の終わりのことだった。

***

昔、坂本龍一はよく言っていたが、
「自分には、歌詞を聴くとかそれを味わうとかいうのが、よく分かんないんだよね。
あればいいという程度の添え物としか思ってないんだよね。
歌詞を聴くって、要は音楽を聴いてないのと同じなんじゃないかと思っちゃう。」

自分も、80年代前半、「オレのウタを聴いてくれ~ベイビー」みたいのには、絶大なる嫌悪を抱いていた。

若いというのは、イコール、敏感で耳が鋭いからもあるが、結局、「言語」という「概念」の「縛り」から放たれることこそが、音楽が最大に能力を発現させるものだと思っていた。
実際、歌詞も「音」の一部というか記号的にしか聞こえてなかった。
コクトー・ツインズが、英語もどきで、実際は英語ではないという事実にも象徴されるように、その考え方に深い共感・共鳴した。

***

中学から高校にかけて、カラダの疲れが取れない現象が起き初め、それは、今も変わらない部分である。
それを、世間が「ウツ」と呼ぶなら、自分は明らかに筋金入りの「ウツ」である。

今日も泣きぬれて仕事を、昼すぎから21時近くまでしていたら、眼と脳が疲れて、電車乗っても、車内広告の文字が「うざくて」たまらなかった。
「文字」という「文章」という概念が迫ってくるのが、苦しいのである。

当時、高校生だった頃と基本的には変わらない。

ただ、人生を経た分だけ、素晴らしい歌詞に出会うことで、変わる部分は変わったのではあるが・・・・・・。

まあ、とにかく、当時は、男子校の「文武両道」+バレーボールで心身ぼろぼろのゾンビのような状態であって、そのリハビリは、優しい音楽と可愛い・優しい女性にだけ癒されていたのだった。
そこだけに救いを求めていたのだった。

ブライアン・イーノのこの曲にも、癒されたものである。
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antena 「camino del sol」 ’84年8月25日

2009-02-28 11:22:12 | 音楽帳


アンテナは、当時3人の女性のユニットだった。
クレスプキュール・レーベルから、ひっそりと、ボサノバを基調とするサウンドで、12インチ的なミニ・アルバムを出していた。



そういえば、彼女らの曲に「ボーイ・フロム・イパネマ」という曲があり、それは、「イパネマの少女」をひねったタイトルだったが、このシングルは、ぬあんと、あのウルトラヴォックスのジョン・フォックスがプロデュースしていたな。

この「カミノ・デル・ソル」という名曲は、水彩画タッチのジャケット(画像)もうっすらした夏の木陰を思わせるやるせない曲調も素晴らしかった。



1984年8月25日の「日立サウンドブレイク」の3曲目にかかった。



***

80年代後半になると、イザベル・アンテナとして、1人でソロをやることになり、日本の「オシャレな音楽好き」(=音楽を聴く耳の無い連中)に受けることになるが、そういう何でもいいから、たらたら流れる「オシャレ風BGM」では無い、当時は、きちんとしたニュー・ウェイヴの軌道上にあるバンドだった。
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Durutti Column 「Never Known」 ’84年8月25日

2009-02-27 18:53:49 | 音楽帳


今日、やっと、高校3年生の頃のメモ帳が出てきた。
記憶というのはあいまいだ。
そのノートには、当時の苦悶する自分がいた。

イラストや、テレビで見た曲などが記されていた。

***

1984年8月25日の「日立サウンドブレイク」は、よく覚えている。
曲目も素晴らしかったが、風景がひたすら、プールを写し、そのバックを夏雲がゆったり移ろっていくシーンばかりを捉えていたのだった。



当時、高価なビデオデッキなど持っていなかった自分は、それをノートにイラストにして書いていた。

<曲目>
1・ドゥルティ・コラム 「Never Known」
2・ミカド 「パラザール」
3・アンテナ 「カミノ・デル・ソル」
4・ブライアン・イーノ 「An Ending」

***



ドゥルティ・コラムの「Never Known」などは、当時、夏に聴く音楽だった。
音楽自体暗く思われがちであったが、あのギターのかき鳴らす感じは、夏にこそという気が自分はしていた。

YOUTUBEで発見したビデオクリップは暗いが、音楽そのものを、雲が流れるまんまに、ゆったり聴いていた自分であった。
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オールナイトフジ⑤ 真夜中のコンサート 「午前2時の鏡」

2009-02-27 12:47:50 | 想い出かたちんば


この「午前2時の鏡」は、非常に好きな曲です。
歌っているのは、片岡聖子・深谷智子ちゃん・松尾羽純ちゃんの3人。

***

今日は、こないだの大腸の内視鏡検査の結果を病院に行くのもあり、上司からお休みをもらいました。
病院の待合室で待っているうち、外は「春の雪」が降り出した。

先生から見せられた結果は、問題なし、とのこと。
ただ、ヒトより大腸が長いそうで、それが、便秘の理由のようだ。

傘を差して、雪の中、家に帰る。
寒くて、コタツに入り、暖房を入れる。

そして、この大好きな「午前2時の鏡」を聴く。
やはり、羽純ちゃんは、可愛いなあ。

***

2ちゃんねるを見ると、「オールナイトフジ」の追憶を語る人々が案外多くて、意外だった。
自分が、夢中になったのは、1983年4月のスタートから、最初に終了する1985年3月までのこと。
そのあと、「オールナイトフジⅡ」というのが始まったそうだが、自分はいっさい見ていない。

自分にとっての、蜜月はあくまで、83年~85年までのこと。

そんな中、こういうコメントを発見。

「オールナイトフジなんて馬鹿馬鹿しかったかもしれない、
下らなかったかもしれない…
しかし、誰にだって何かに一生懸命になれる時がある
大人になってからでは出来ない、無我夢中になれた季節がある
その時には気付かないが、振り返った時、人はその時代を青春と呼ぶ

そして、そんなたわい無い事に笑っていた自分、泣いていた自分を
今の自分とはまるで違う人間であるかのように懐かしく思う時がある

八年間、四百回の歴史の中で、延べ四百人にも及ぶオールナイターズたちが
確かに青春という時代を過ごし、僕たちはその瞬間を見届けてきた
もちろん彼女たちにはオールナイトフジを卒業してからも様々な青春が
あっただろう
八年という時間を振り返った時、僕たちにも色々な出来事があった様に
恋をし恋をなくし…何時の間にかお母さんになった人がいる、
お父さんになった人がいる

しかし大人になった僕たちは彼女たちと同じ様に心の底から笑い、
何かに夢中になれた時代があった事を忘れないだろう
彼女たちの青春は小さなブラウン管を飛び出して僕たちにも確かな記憶を
残してくれた

その一つの時代が、今…終わる
ありがとうオールナイトフジ、ありがとう土曜日のシンデレラたち
君たちが過ぎ去った時間を思い出す時、そこに僕たちの姿があるように
僕たちもまた君たちの笑顔を、きっと…忘れはしない。」

***

「土曜日のシンデレラ」、実にうなづける表現だ。
まさに、高校生だった自分にとっても、彼女たちと出会える土曜日だけが、幸福な癒される時だった。
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TBSラジオ 「アクセス」 渡辺真理さん

2009-02-25 23:09:09 | 写真日和


くたびれぽっちょ。
帰り道、家に着くと、また、「さささっ」と走り寄る影。
ネコの「ミケちゃん」だった。
「あそんで・あそんで」と絡んで来るが、とても相手にする、気力も無いので、今日はかわいそうだが、断って、家に入った。

今日も、ラジオを点ければ、TBSラジオ「アクセス」。
ステキな渡辺真理さんの声。

一般の人への話し方、コメンテイターとのやりとり、そこに、そこはかとない、この人の優しさが漂う。

聴いていて、癒される。
この写真も可愛いなあ。

<ちなみに、一般の人を見下ろしたしゃべり方しか出来ない大嫌いな麻木久仁子の金曜日のアクセスは聞かないことにしている。>
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Malcolm McLaren 「Madame Butterfly」'84年9月

2009-02-24 22:46:31 | 音楽帳
Malcolm McLaren - Madame Butterfly


当時、菊池武夫とスネークマン・ショーの桑原茂一さんが共同で、仕事をした催し物があって、それを記念したラジオ番組「BE COOL」という1時間番組が、FM東京であった。

それは、スネークマン・ショーのように、音楽と寸劇で構成された、実に「クール」な番組だった。

名選曲家=桑原茂一さんは、自分も関わる「メロン」(=プラスチックスのトシとチカのユニット)の曲やら、ブライアン・フェリーのカバー「What A Wonderful World」などをかけていた。

僕は、そこで、初めて、このマルコム・マクラレンの「マダム・バタフライ」を聴いて、一発で気に入った。

元々は、オペラである「蝶々夫人」の曲に、様々なカバーを重ねて作った曲。
彼の1枚目のアルバム「俺がマルコムだ!」も良く出来たアルバムだったが、今度は、オペラを使ったか!と、彼のセンスの良さに感心した。

そして、それを、真っ先に発見して、ラジオでかけた桑原茂一さんのアンテナの広さにも感心したのだった。

1984年。正直、ニューウェイヴ・音楽の行く末に対して、インポテンツのような状況になりつつあった自分、希望が持てなくなりつつあった自分にも、すんなり、カラダの中に入ってきたような気がした。

どちらかというと、夕暮れ時にかけると、凄くシーンとマッチする雰囲気を持った曲であった。
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便秘との闘い3

2009-02-23 22:30:45 | 雑記帳
昨日、日曜日、一人で泣きながら会社で仕事をしたお陰で、今日は少し楽だった。
こんなことやってたら、身体にも精神にも良い事は無い訳である。
便秘との闘いは続いているのだ。

***

18日に行った大腸の内視鏡検査は苦しかった。

まずは、朝7時に起きて、それから4時間かけて、2リットル(!)の下剤を飲み、ひたすらトイレに通うのだ。
便という便を出し、さらに、大腸を洗浄するかのように、ひたすら肛門からシャワーのような水を出し続けるのである。

「シャワー♪したいね~♪生まれたまんまでさぁ~♪」(シャワーな気分)などと、トシちゃんみたいに歌っている場合では無かった。
また、この下剤が旨くないのだ。
まあ、薬が旨い訳がないのだが…。

レモン風味に塩味が混じっている。
ただ、起きてからひたすらそれを飲み続けるのである。
ただ1つの救いは、たばこだけは吸える事くらい。

何もかも出した空っぽのカラダで、今度は、何も食えないまま、15:00からの検査を待つのである。
不安が募る。

そして、いよいよ検査。

優しい看護婦さんに連れられて、「少し異物感あるけど、行きますわよ…」 などという想像は、淡い夢見事だった。

やってきたのは、見るからに雑(ざつ)そうな、白ヒゲの「おいちゃん」が来て、
「あんた、かたちんばさん?
はい、こっち来て、これに着替えてね」

事務的に手術室に案内されると、尻の部分が裂けている、いかにも情けない紙パンツに、浴衣をはおる。

「さあさあ、台の上乗って、横向いて胎児みたいに丸まって」

おいちゃんは、さかんに「そうじゃなくてこう!」
俺のカラダをおもちゃでも扱うみたいにねじまげる。

すると、もう1人の先生は、あいさつをするなり、いきなり肛門にジェルみたいなのを塗って、ブスッと機材を入れる。
おいちゃんは、さかんに「力抜いて!」というが、紆余曲折している腸に沿ってもぞもぞとはい回り、奥へ奥へと突入していく、得体の知れない居心地の悪さ・不気味さに、力なんか抜ける訳がなかった。

さらに、その機器は、腸の中の写真を撮る為、先端の首を回すので、その気持ち悪さに、メガネも外して、眼をつむって手で顔を覆った。

一番辛かったのが、一番奥の直腸で、S字で入りづらいらしく、おいちゃんがへその辺りをいきなり押し込み、「はい、力抜いて!」と先生との連携プレーを演じるが、「ジジイ!いてえよ!」と叫びたくなる痛さ!
「はい、もっと力抜いて!」と、空気読めないおいちゃんは、我が意を無視して、「ほらっ」「そりゃ」と漁師の網引き並に勝手に盛り上がっている。

***

…しかし、何とかその痛みを抜けたら、後は機器を抜く作業に入り、無事、元のカラダに戻った。

少しほっとした。
ただ異物感は体内に残っていた。

「空気入っちゃってるから。我慢せずに、ぶーぶーおならしちゃってね」
用具を片付けながら、おいちゃんは、雑に言う。

終わると、やっと看護婦さんが現れ、手術台から車イスに乗せてくれて、別室のベッドに連れてってくれた。

かわいい看護婦さんだった。
そして、点滴を受ける。
「終わったら、着替えて帰ってもらっていいですからね」

30分くらいして、点滴の針を抜いてもらい、着替えて、ふらふらしながら家に帰った。

***

帰り道、おにぎりとコロッケパンとビールをコンビニで買って帰る。
その日初めての軽食をして、ビールを「グビグビ」した。

トイレに行くと、おいちゃんが言うように、長~い長~いおならが出た。

こたつに戻って、ネコのように丸くなっているうち、様々な心労から開放された安堵感から、眠ってしまった。

***

当日の結果は、今週金曜日だ。
当日、先生からは「ポリープはありませんでしたよ」と言われているので、大事ではないだろうが。
じゃあ、便秘の原因は何なのだ!

便秘との闘いは、さらに続くのである。
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Penguin Cafe Orchestra 「古いハーモニウムの唄」'84年9月

2009-02-22 22:30:51 | 音楽帳


おかわりシスターズのシングル「素顔にキスして」が出た前後、1984年9月に、ペンギン・カフェ・オーケストラの3枚目のアルバム「ブロードキャスト・フロム・ホーム」が発売された。

「ブロードキャスト・フロム・ホーム」、つまり、「自宅からの中継」。
まさに、音楽マーケットとか商業世界とかスタジオなんていう固い世界から放たれて、自宅で、ゆったり、ポロロンと仲間で奏でている、そんな、そっとした優しさがあふれているアルバム。

このアルバムも、「土曜日」という特別な日に流れてしかるべき、ゆるい感じが満開であった。
まさに、「ボクたちの週末にバックグラウンド・ストーリーを」という雑誌「LOO」のコピーにふさわしいアルバム。

「HEARTWIND」、つまり「ココロの風」には、坂本龍一が参加している。これは、「音楽図鑑」の制作の際に来日していたサイモン・ジェフスとの共演。

個人的には、「MORE MILK」という曲が好き。

今日は、YOUTUBEにあった「古いハーモニウムの唄(Music For A Found Harmonium)」をアップしてみた。

<曲目一覧>
1. Music For A Found Harmonium
2. Prelude And Yodel
3. More Milk
4. Sheep Dip
5. White Mischief
6. In The Back Of A Taxi
7. Music By Numbers
8. Another One From The Colonies
9. Air
10. Heartwind
11. Isle Of View (Music For Helicopter Pilots)
12. Now Nothing

「日立サウンドブレイク」でも、横浜の赤レンガ倉庫をバックにして、このアルバムから、何曲か美しい映像が流れていたな。

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坂本龍一 「SEIKO ALBA SUCCESS  CM」'84年10月

2009-02-21 20:40:39 | 音楽帳




1984年10月、2年以上をかけて作った坂本龍一のアルバム「音楽図鑑」が発売になった。
映像は、当時、CMでかかっていたアルバの時計のCM。

背景にかかっているのは「マ・メール・ロワ」という曲。

***

1984年秋ともなると、高校3年生で、大学受験が目の前に見えてきたが、ほとんど高校生になって以来、落第生であった自分は、もう大学などはいけないと確信していた。
しかし、厳しい家庭の強要もあって、駿台予備校には通っていた。

中学生から自分の身体的なひ弱さに気づき始めた自分は、何とかそれを挽回しようと、高校生ではバレーボール部(排球部)に入ったものの、伸びたのは背の高さだけであって、挽回どころか、日々の体育の時間の厳しさも加えて、正直ぼろぼろになって、毎日、よれよれになりながら、満員電車に揺られて、暗く蒼白い顔をして、学校に通っていた。

身体的にだけではなく、精神的にもかなり状態はおかしくなっていた。


ただ、希望は、平日は、夜に聴くラジオ日本の「サウンド・プロセッサー」(DJ:大貫憲章・スヌーピー)・「サウンド・ストリート」・「クロスオーバー・イレブン」。

そして、毎週土曜日の夜の「オールナイト・フジ」含む一連の番組と、少々のお酒だけが、楽しみだけだった。
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Mike Oldfield 「To France」'84年9月

2009-02-21 18:24:16 | 音楽帳


おかわりシスターズの「素顔にキスして」の一方で、こういう曲も聴いていた。
マイク・オールドフィールドの「ディスカバリー」は、「ムーンライト・シャドウ」も入ったPOPなアルバムだった。

この曲は、1984年9月の発売。
よく、クロスオーバー・イレブンでもかかった。
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