こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年5月23日 月曜日 世の中が切り捨てる物

2011-05-23 19:32:17 | スケッチブック
大竹伸朗という反逆児。
この人の発言で特に気に入っているのが「人間がある生活の瞬間の判断でゴミとして捨て去るもの。
実は、その捨てたゴミの方に何か真実が眠っているような気がする。」

さかんにゴミを拾い漁り、それを貼ったり、塗ったり・・・
そういう作品が大竹さんの作品には多い。
しかし、それに費やされた時間の濃さが作品の濃度を深める。



なかなか自分らが見ることの出来ない作品に、彼のライフワークであるスクラップブックがある。
ここには、例えばプラモデルの本体を作る為のパーツを切り取り終えて捨てられた残った「型」が貼られていたりする。
興味深深で、このスクラップブックを正直盗めるものなら盗みたい。



そうだ、盗みたい、という衝動こそが、自分(セルフ)が持つチカラかもしれない。
盗みは、法律上「違反」を意味するが、そういう盗みたいくらいの衝動こそが信じられる。
下着ドロボーは、どうしても下着を見たら盗みたくなる衝動が起きる。
それは実に、人間的なあまりに人間的な、原始的衝動。
それをしたら、世の中が乱れるからと、禁忌として法律があるだけの事で、それを思うこと・やることが「おかしい」「きちがい」というのは、そう言う方がおかしい。
已む無く法律は制御として設定されただけの事である。

鉄道好きの「鉄ちゃん」や、コスプレや、アニメにしろ・・それらが単に法律の外側にあるだけで、本質は一緒なのだ。

***

思えば歴史というものも、勝者が言う事・勝者にとって都合の良い事だけで形成されている。
敗者側にあった事実は、切り捨てられる。

様々な物事が今まで捨てられてきたのだ。

ゴミが宝に見えるという大竹さんと同じ感情を抱く場面は多々自分にもある。

自分が溜め込んだ宝物も、親が見ればゴミにしか見えず、よく小学校の頃、帰ってきたら、その宝物を親がゴミだと思って捨てられて泣いた想い出がある。

先日、母の日に家族一同集まった際に、昔ばなしになった。

兄「お前はよくネジを一杯拾ってきたよな。あと、人のラヴ・レターとか。
いつも、地面を見て歩いていた。」

家族は大笑いになったが、自分でも忘れていた記憶が他人によってよみがえる。
確かに小さい頃から、よく地面を見て歩いていた。
よく色んなものを拾っていた。

ラヴ・レターは、三ノ輪の駅の出口で拾った。



そして、色んな宝物としての、他人にはゴミで溢れかえり、実家を充満して収まらなくなったので、自分の家をほかに設けて、引越しをした訳である。

余りにもの物量に、引越しをし終えた業者のバイト君らは、いぶかしい表情をしていた。

そのなかの1人が自分に声を掛けてきた。
「何か、お店かなんか開いている人なんですか?」

1人で引越しをした人でこんな物量を運んだのは初めてだと言っていた。

***

1990年。
既にニューウエイヴは終焉し、昭和も歴史を閉じた。




【アラーキーの名作「東京物語」 1989年4月29日】

実に平坦でつまらない時代の訪れ。
「平成」という自堕落で堕ちて行く時代の始まり。

そういう中、東京湾岸を「東京ウォーターフロント」とか言って、再開発が始まっていた。
都市博が開かれるはずだったその地は、都知事になった青島が開催中止を宣言し、中途半端な残骸が転がる荒地。

そこで自分はよくアルバイトをしていた。

当時、見ることは出来なかったが、倉庫が沢山ある「東京ウォーターフロント」の1つ寺田倉庫はギャラリーだった。

そこで、大竹伸朗の展覧会とデヴィッド・シルヴィアンのアンビエントとラッセル・ミルズのアートのコラボレーションが開かれた。

下記は、そのアート展を紹介する貴重な当時のTV動画。

Shinro Ohtake/David Sylvian&Russel Mills interviews on Japanese TV

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