Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

最近購入の本とか

2005年12月30日 | Weblog
ディドロ『絵画について』(佐々木健一訳、岩波文庫)
レヴィナス『全体性と無限』(熊野純彦訳、岩波文庫)
宮下誠『20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)

どれも素晴らしい仕事(翻訳・書き下ろし)で机の脇に置いておくだけで身が引き締まる。んー、いつかこんな仕事僕にも出来るのか、したい。
朝に、ひとつの仕事をすすめる。来年の雑誌に寄稿する原稿の第一発は、なんとファッション誌。知人からは、ダンス・バブルを警戒する言葉をいただくも、ぼくが子供のころいろんなものがクロスしていた時代を彷彿とさせるこんな企画に、ぼく個人としてはネガティヴな気持ちがない。いい原稿になることをひたすら目指して、執打(執筆)する。

朝ご飯を食べるとトイレやバス・ルームなど普段掃除を怠りがちな場所にぞうきんをかけ、たわしをふりまわす。
午後は、年賀状書きにAと没頭。共通の恩師、知人が多いので、二人で一枚に書きこみ、を続ける。
夕方、今年最後の営業であるジムに行って泳ぐ。そして、ぼくは走る。走りながら『ガンダム』の放送をたまたま見た。当時、ぼくはあまりガンダムが好きじゃなかった、その理由が分かった。あのガンダムの「白」。とくに白い足。なんか体操の選手みたいで、しかもちょっと内股気味じゃないか。これだ、この「白」はぼくのヒーロー像じゃない、そうあのとき思ったんだ(とはいえ、あのころのぼくのマンガヒーローは釣りキチ三平だったわけで、ロマンチシズム=おセンチは共通点があったりして)。
夜、年賀状作成しながらAが作ってくれていたおでんに舌鼓。NHKの紅白番宣番組をみながら二人でぶつぶつ。前日の阿久悠トリビュート番組はよかったなーなんてうなづきあったり。そうあの番組で50才になったピンクレディーのメドレー後、ダブルユーちゃんたちがピンクレディーの曲をちょっとアレンジして歌ったのだけれど、おばさんに完全に負けていた。魅力的にも薄い。こりゃどういうことなんだ???つんく系のみなさんの勢いのなさは、なんか根本的ないまの日本の欠陥によるもののようにさえおもえてくる。そうそう、紅白は、ただ歌だけを聴かせよ。時間は一時間半、出るのは20組。で、淡々と究極の二十曲を聴かせる。それだけ。これの方がひとは見ると思うなー。


ピンク『子羊たちの遊覧船』(@銀座ペッパーズギャラリー)

2005年12月28日 | Weblog
を見た。

問題作、、、
黒沢美香をボスとする一団の若手出世頭な三人(「磯島未来、加藤若菜、須賀めぐみによる過呼吸乙女ユニット」パンフによる)。吾妻橋にも二回連続出場(前回は黒沢美香&ダンサーズとして、今回はスナッキーズのチア・ガールとして)。トヨタのショーケースでも踊るなど、注目度の高い三人。小さい会場(銀座のいわゆる画廊)ながら結構お客さん入った。
公演後、息もまだ荒い磯島氏にあいさつをする。二言三言、「あー、照明が始終明るかったのは、潔くてよかったっすねー、でもそれぞれがソロで踊るときには踊ってない二人の佇まいが重要だから、そこは何か考えないとー」なんてかっこつけて言うが、ことの本質はそこにはないことにうすうす気づいているぼく。ただあてられてしまっただけなのだ「過呼吸乙女」に、その事実に絶句、が本音。
黒沢美香的な無表情でへんてこなことするセンスと、いわゆるアカデミックな美しくキメるダンスのテクとが混在していて、その感じが表層的には特徴。猛烈なスピードで突如ターンをしたと思えばこれまた一瞬のうちに倒れ込み何ごともなかったかのようにぼーっと体育坐り、とか。二人が支えひとりがポーズをとる「組み体操」状態で下の二人が支えきれずあたふたしたり。小技を利かせる。実にアイデアに満ちている。少なくとも若い振付家・ダンサーのなかではその点、図抜けている。一時間の公演を退屈させない。もちろん、もっとこうすれば!と思うことはあるし、正直「作品」というレヴェルではなんとも言えないな、という点は否めない。けれども、だから、問題はそこではないのだ。
正直に言うと、三人はとてもかわいいのだ。そのかわいさが「ダンス」という迂回路を通って迫ってくる。これは挑発、若さというポイズン。それに防御しようと「えー、技術はいいけれどへんてこ感はヤミーダンスの方が上、、、」とか考えたりするも、その毒は、最後、観客の面前で着替えをしいつものチア・ガールというか70年代アイドルみたいな格好で、ストレートに「ピンクのテーマ」(?)みたいな曲と共にアイドル踊りをするころには、完全にからだにまわってしまっている。
技術論でどうこういうよりも、「萌え」なダンスとして正直に降参することがピンクを見るときの正しい鑑賞法なのだ。いや、ダンス的なテクの外装をまとって実は自分たちの若さというポイズンをあてつけようとするところに彼女たちのテクというか術策があるのだ、きっと。ズルい!そう、こんな嘆息に、ピンクの本領があるのだ。その点では、参りました、と言う他ない。
あと、特筆したいのは、彼女たちの毒が非常にハッピーな類のものだということ。「私」にこだわるナルシスな、自傷系だったり引きこもり系だったり「一人語り」的だったりのダンスとは無縁であること。

次作も是非こんなピンク、相変わらずなピンクがみたい。来年の注目株。

前田司郎『愛でもない青春でもない旅立たない』

2005年12月28日 | Weblog
を読んだ。

五反田団の主宰者としてある程度名の知れた彼が書いた小説。はじめからさいごまで大学生のセックス話で構成されていて、その点がともかく特徴。ダメなひとのダメさを描くには相応のテクが必要、それができる希有なひとだ前田くんは。個人的には、主人公の大学生が通う大学の近くにいま住んでおり(前田くんの母校と予想してのこと)、ときどきその図書館や学食に行くので、大学が描写されるとやけにリアルなイメージがわいてきて楽しかった。あと、ちょうど数日前、ぼくの勤務する大学の教員会があり、そこで学生の就職状況のことなどで相当「寒々しい」話を聞いたばかりだったので、いまのあまり偏差値的に良いわけではない大学に通う学生のマインドがイタイくらいに伝わってきた。んー、世間的には「ニート小説」と言われたりするのだろうか、芥川賞でも取ったなら。

コドモ身体批評

2005年12月27日 | Weblog
『舞台芸術』08号に掲載された桜井さんとの対談(チャットによる)がウェブ化しました。

『BT/美術手帖』先月号のダンス特集で、ぼくが「コドモ身体とは何か」という記事を書く前段にはこういった対談がありました。あの記事、最初に編集部に送ったときにはこの対談のことも註でも作って触れるつもりだったのでしたが、いろいろあってその部分がカットされました。まだ、「社交としてのダンス」に関してなど、整理されていないままいろいろと発言している面もありますが、「コドモ身体」論に関してのぼくの見解とか当時(今年三月)考えられる限りのことを質問したつもりです。ご一読下さい。

「ダンス」を「見る」という矛盾

2005年12月26日 | Weblog
一つの公演に数千円し払って観客(ぼく)はダンスを前に何がしたいのか。
ときどき、わからなくなる。

以前、室伏鴻の『quick silver』公演のDVDを撮影者の方から頂いて見ていたときのこと。実際の公演の時も思っていたのだが、いたるところで生まれている静かな微動の瞬間瞬間をぼくたちは見ることが出来ない。目は確かに見ている。でもそれを記憶に止めることは非常に難しい。そこで頭はついつい意味のレヴェルでそこにあるものを捉えてしまおうとする。「これは、ミイラだ!」とか、例えば。するとなにやら「ミイラ」のように見えてきて他の部分も分かりやすくなる気がしてくる。「quick silverだから水銀か!」とか。
でも、意味で捉えた瞬間動きは静止画になる。目は意味に捉えられ、細部の微動の瞬間瞬間を「ただ眺める」ことが出来なくなる。体全体でそれをすることを忘れてしまう。
だから大抵ダンスの身体は見えないのだ、見過ごされてしまうものなのだ。イメージに絡め取られてしまう、「絵的なもの」に支配されてしまう。
けれど、ダンスを見に行く欲望というのは、この絵的なものの支配に従属するわけでは必ずしもないだろう。体を委ねにいくものなのだ、ダンスは。目から自由になること。意味から自由になること。絵として理解した部分と部分の間にこそ、興味深い瞬間がある、はずなのだから。

壺中天+Noism05

2005年12月25日 | Weblog
新国立劇場で行われていた二つの公演をハシゴした。壺中天については、後半の30分を見逃しているので、十全に観賞したとはいえない。けれども、不勉強でこれまで壺中天を見ていなかったので、その欠を埋めることには多少はなった(壺中天のスタッフの皆様、無礼をお許し下さい)。

『2001年壺中の旅』
暗黒舞踏の衣を纏ったコンドルズ、というと誤解が多いだろうか。冒頭の、観客に正面を向いて「カーテンコールに応えるとき」のように横並びになって、緑と赤の混じったクリスマスカラーの花吹雪のなかスローモーションの動きを繰る。例えばこのときの「正面性」が、ぼくにとってはコンドルズ的な、観客へのサーヴィスに重点を置く振る舞いに見える。これは、純正の「土方巽」的アイディアではない、と言うべきだろう。白塗りの男たちは、観客を無視して没頭する没入度が低く、むしろ柔らかいくねった、しかし赤子というか知恵遅れというか独特の逸脱の表情をともなってすぐに観客にアピールしようとする。呆けた恍惚を含んだような佇まいの八人ほどがしゃがんで舞台の前景に並ぶ。ひとりひと呟き(「おえ」「スゴイ」など)を漏らし、それが絡まる。その姿は、昨日たまたま行った鎌倉・長谷寺で見た、仏像だの羅漢像だのを思い起こさせる(写真は鎌倉大仏)。「日本的なもの」のとくに「ゆるキャラ」な面が発揮されている?このテイストには非常に興味をもっているけれど、やっばり「キャラ」を目指すとキャッチーになる分、動きは止まりがち。暗黒舞踏の身体を用いたコント。
その後、一人がちゃぶ台とともに踊る。ちゃぶ台の円形が上半身を隠し脚とその円だけになるとなにやらシュルレアリスティックに見えたりはするのだけれど、これも多くは「絵」としての魅力であって、あまりはらはらはさせられない。
バットをもち体に電飾を巻きつけた男(鬼?)が、白塗りの男たちを脅して、パンツからはみ出したソーセージを一人ずつ包丁で切り落とさせられる。立て切り輪切り、「指つめ」にも見える。悪夢の光景?人体改造の快楽?醜くソーセージが切断され嗚咽がもれ、とこれらはまさにコント。ここに、なにやら読み込みをすることも「あり」かもしれないけれど、そういうことよりも、こういう一見グロなパフォーマンスが笑いを喚起するショーになっていることの方が重要だろう。
でも、これは次のパートのための前段に過ぎなかった。去勢された男たちが苦悶しながら横たわり、そして次第に踊り出す。自分のペニスをまたの裏に挟んで、一見女性的デルタができあがると、眉毛のない白塗りのごつい男たちが「女性のヌード」に見えてくる。案外柔らかい下半身の曲線。悶絶と諦めと恍惚がさまざまなポーズを作る。それは、いわばストリップ的な何かだ。いや、ストリップを演じているのではなく、暗黒舞踏の衣を借りてのストリップそのものだ。
観客とのかけひきも、社交もない。あくまでもどこまでも観客にサーヴィスする。観客は大いに笑い自分の欲望の成就に満足している(ように見える)。彼ら異形の人間たちから、こんな形で観客の欲望を満たす回路が引き出されていることには驚くが、でも、それは多分アブジェクションの諸々の対象がもつ様々な機能を考察した上で、その機能をエンタメ的に(ただし批判的にではなく)使用した結果に過ぎない。衣は舞踏でも中身はそうではない。演劇的に見える。芸能的に見える。そこに麿赤児らしさが見える。

Noism05『NINA 物質化する生け贄』
「物質化する生け贄」とは「人形」化した人間ということか。女性ダンサーは、白と言うより肌色のレオタードで硬直している。この「硬直」が「物質化」のイメージ化した部分なのだろう。そうした体によって硬くシャープに引かれる線が終始この作品のカラーだというように現れる。あとは基本的にバレエ的なヴォキャブラリーでやはり力強い運動がこれでもかと繰り出される。迫力としてはスゴイ、これは否定出来ない。けれどもこれは「ダンス」なのだろうか。ダンスでないとしてならば「アート」なのだろうか。ダンサーの身体は迫力があるが、振付にダンシーやアート的な批評意識が余りない。「はっ」とするような関係への反省がない。技巧至上主義。うん、そういう点では、例えばダンサーにとってこの作品は見応えのあるものなのかも知れない。「凄い正確な動き!」と感嘆するのかもしれない。出来ないことが出来ているのを見るのは、端的に感動的なものだろう。でも、その感動はダンスなのだろうか、アートなのだろうか。
後半の後半に、突然それまでにないカラフルな舞台になると、赤い服を着た金森が柔軟なまさにダンシーな動きとともに現れた。うわ、いい、でも、それずるいジャン?彼以外のダンサーたちはことごとく統制されていて管理されていて--その様が美しい、とはいえ--その一方で金森本人は気持ちよく舞台で暴れる。そこ、金森さんのなかでどうなっているのだろ、土方を筆頭にしばしば言及される、振付家のダンスはいいんだけれどその下で踊るダンサーの動きがどうしても硬くなりがち、という問題、気になった。

吾妻橋ダンスクロッシング(第3回)とは(K村目線)

2005年12月25日 | Weblog
Off Nibroll「Public=un+public」
今年の春に横浜で行われた同タイトルのデュオ作品の素材をもとに新しく作られた作品。ニブロールについては『BT/美術手帖』では大きく取りあげることが出来なかった、という後悔がある。それは(ぼく個人の気持ちを言えば)、ダンスの諸要素の中でもダンシーを強調して特集しようとしたために、感情を強く揺さぶる、ナラティヴ的要素の強い矢内原のダンスをそこに位置づけにくかった、ということがあったのだけれど(もちろん、桜井氏は「ダメ身体」論のなかに矢内原を入れ込んでいるのだけれど)。あえて取りあげる必要のないくらい評価の定まった存在、ということもあった。ん、でも、けれど、やっぱりニブロール(とくにダンサー矢内原)の存在感は凄い。始まった瞬間、矢内原が身をかがめたり、腕を大きくうえに伸ばしたりまたねじ込んだりするときににじみ出てくる感情というのは、他のどんなダンサー、振付家の作品にもない「リアル」な手ごたえがある。舞城とか西尾とかと並べて考えることの出来る唯一の存在ではないか、例えば。閉塞した、それなのに何かがやってくるのを渇望している、切実ででも身勝手ないまの「わたしたち」を表象している唯一の存在ではないか、例えば。「腕」ということを書いた。「腕」の表情から何かを引き出す方法は、ピナバウシュにまで続くモダンダンスの女性性の表現(女性的な表現あるいは女性性の表現)へと接続するものと思わずにはいられない。けれども、その表情が伝える豊かさにおいて矢内原に匹敵するひとが他にいるだろうか。ピナ・バウシュのダンサーたちに決して勝るとも劣らない地点に彼女が立っていることは、「共通認識」にしなくちゃばならないことだろう。「リアル」ということで言うと、ぼくはほんとダメなのだ、彼女が踊り出すと訳も分からず矢も楯もたまらずからだが泣き出してしまうのだ。そういうこと、をリアルというのだろう。

ボクデス&チーム眼鏡「親指商事・営業課」
ボクデスのポテンシャルを可能な限りエンタメ極へと引っ張っていった舞台と言ったらいいか。ボクデス含め五人でやると、「Watch man」(体のいろいろな場所に付けた「時計に目をやる振る舞い」が「ダンス」となる作品)や電車の中で突然もよおしてしまう「内股のこすれ具合」が「ダンス」となる作品など、これまでのボクデス定番作が説得力を増して見えてくる。もちろん、五人に増えれば五人の身体それぞれの個性が露出し、ときに「演劇的」にできあがった身体の持ち主からはボクデス的バタバタ感が希薄で、ボクデス本人の身体とのズレが気になる場面もなくはなかった。でも、ラーメンを食べる作品で、白い麺が三本ぐにゃぐにゃと揺さぶられつつ勢いよく運動する様は、チーム眼鏡とやることでできたスペクタクルだろうし、その瞬間の迫力と説得力は十分だった。

康本雅子「ようこそココへ」
チーム眼鏡とのコラボで、彼女が踊っていると突然彼らが彼女に衣服を着せたり脱がせたりする。

ko&edge「DEAD1」
今回は、鈴木ユキオを欠いた三人で。暗転すると銀粉を塗った三人が逆立ちしている。首が折れて切れているように見える。脚や腕の佇まいが樹を連想させる。オブジェ?美術作品のようだが、無理な姿勢で体が微妙に揺れる。まったくクレイジーな静止いや微動。脚が折れ体が屈む、それでも止まずまだそのまま、いやさらにまた脚が上がりだした。そこから、何が始まる?この苦行の意味は?次の展開を待ち望む観客の前で、立ちあがるでもはいつくばるでもなく、不意に照明が消えた。「死体」に誘惑される観客に、誘惑だけ与えて「えさ」をやらない。吾妻橋という場所に相応しいワン・アイデア、でみせた。

SNACKY! & GIRLS (ピンク)「わたしはSNACKY!」
ダム・タイプに所属していた砂山典子がSNACKYいうキャラになって登場、バックでピンクがダンサーズになって援護。タイトル曲を歌う男装(ダイク?)のSNACKYは、ナルシス(のばかばかしさ)を、コミカルにまたある種かわいくアピールする。エンタメであって、クリティカル。そして多分、演劇という枠でもパフォーマンスという枠でもできないこと。ダンスのポテンシャルを考えさせられる。明るさと批判、批判と明るさが共存する作品は、今回の「目玉」だった。

alt.「言葉に揺れる水」
宮沢章夫氏の主催する遊園地再生事業団が近年行った作品の一部を用いた作品らしい。「alt.」の名は彼が演劇以外のパフォーマンスをするときのグループ名称。ある日犬地散歩していた男が川べりで若い女の死体を発見する、というエピソードを映像で見せ、舞台上ではその死体の女が青いワンピースを着て仰向けになっている。そこに、独白を続ける女性や男性が水を満たしたコップを舞台上に等間隔に並べてゆく。正直、どこからダンスを引き出そうとしたのか皆目分からなかった。コップをもって歩く身体?いやそれだけではダメだ。こなれている役者の動きは水をほとんどこぼすことがなく、その身体は役割をこなす身体に甘んじている。

(休憩20分)

ボクデス「夢で会いましょう」
横トリの「ナカニワ・ダンス・パフォーマンス」でやったもの。倒れたボクデスが独り言をむにゃむにゃ呟く、その「夢の実況」?に反応して、背中を床につけた窮屈な格好ながら手足がばたばた動く。これ、好きだな。言葉がどんどん勝手な誇大な妄想を膨らませるのに、こっちのイメージも膨らんでいく、でも、ボクデスの体はそんなに激しく変形するわけはない。そのせいで、そのイメージの誇大さがむしろきわだち滑稽さが増す。「あっ、右腕20メートル、左腕20メートル、右脚20メートル、左脚40メートルになっちゃった!」と言われると、その変な体が頭に浮かぶ。「浮かんだイメージ」が「ダンスの身体」となるならば、例えば舞城の小説が身体を表現するやり口とこれはおなじじゃないか。でも、それを舞台上でやる、というとき、現実のボクデスの身体にぼくたちはイメージを重ね、分身を見る。それは、舞城が描くイラスト以上に面白いものではないか。

マトリョミンアンサンブル”マーブル”「黄金の下に大集合」
マトリョーシュカ人形がテルミンになっている「マトリョーミン」を操る楽団。ボクデスがむにゃむにゃしている間に登場。ロシアのサイキック(心霊的)なものへの愛好と科学とが出会ってうまれた(?)奇妙な楽器。一曲ごとにしなきゃならないらしい演奏前のチューニングのときの様子とそのとき出ちゃう音が最高で、人形が怒ってたりイヤイヤ言ってたりしているみたい。

ほうほう堂×チェルフィッチュ「ズレスポンス」
チェルフィッチュというよりは岡田利規くんがほうほう堂と一緒に作った作品、ということなのだろうが、コラボした成果が際立って見えてくることがぼくの目にはなかった。「レスポンス」も「ズレ」もそれほどピンと来る感じではなく、むしろ装飾的なある意味では「ノイジー」な部分が二人だけでは出なかった部分の「匂い」を感じさせた、というくらいか(あと、あの、後半に流れる曲がよかった。あの曲の選択は岡田くんだろう)。シンプルで太いひとつのアイディアで何かを示して欲しかった、と正直思う。

康本雅子「雨ったれ」
ボクデスが最初と最後登場したりしたが、そのことよりも特筆したいのは彼女の作品が以前よりもシャープになり彼女のダンスのポイントがクリアになって見えた、ということ。つまり、彼女のダンスはナラティヴ(物語り)の要素をダンスへと転化させるところにある。この点は、矢内原のダンスとも共通点があるのだけれど、何か「感情の発生する瞬間の動き」がフラッシュバックのように、あるいはパッチワークのように並べられていて、それがどういう物語を語るものなのかの一本線こそ明らかにはしないものの(一本化することを巧みに避けながら)、物語の一片(一瞬)がもつ力をいわば駆動力にして進んでいく。切って貼って切って繋いで。その欠片ひとつひとつには、観客を引き寄せ、誘惑し、あるいは引き離し、にらみつけるさまざまな要素が含まれていて、観客は一定の筋にのって安穏とすることを許されずそれを次々と瞬間瞬間受けとめる他ない。そのひとつひとつの欠片と、それらの連なり、が彼女のダンスであって、そこには独特のユーモアと批評とが含まれている。

首くくり栲象/室伏鴻「わが魂のジュリエッタ/DEAD2」
「首くくり」は、ぼくの目からすれば自傷系のナルシシズム。「オタク」とか「少女殺害事件」とかに遠く近く連なる引きこもり的パフォーマンス。それを中心に黒沢美香や室伏鴻が脇を囲む図は、正直この企画のベクトルとは正反対のものを生みだしてしまった。これはアカン。この儀式のために「舞って」しまった黒沢は、首くくりのための重い台を運ぶ冒頭での実に安易な動きに象徴される一種の「ミス」をここでおかしてしまった、と言う他ない。唯一、その儀式の間何もしないで「首くくり」を無視し続けた室伏の「放置」には、僅かなりとも自傷系ナルシシズムへの批評性が示されて救われた。

C. Snatch Z. 「How to use the weapon」
砂山典子が尖った胸とペニスをつけたアンドロギュノスなコス姿、タイトルへの答えとして、機関銃の先に花をさして登場。ボクシンググローヴをはめて背後のロープに現在の権力者たちの写真を並べ、彼らをひとりひとり陵辱していく。最後に、米大統領の写真の周りにイラク戦争の犠牲者らしき死者の写真を並べ、彼らとブッシュを向き合わせる。ダンスと言うよりは、パフォーマンスというべきではあろう、が、こういうパフォーマンスを提示する場はいま演劇にもパフォーマンスにも用意されていないだろう。また、この砂山が投げる批評性をダンス・シーンは担う勇気を持っているのか、なんてことを思う(ダンスというアート・フォームはどこまで批評性をもつものであるのか、という議論がここに控えている)。単にヴァリエーションという意味ではなく、時にブッシュ批判としてコドモ身体論をまとめたこともある桜井氏のメッセージの一つとして、これら今回の砂山の舞台を見るべきだろう。


吾妻橋ダンスクロッシング(2日目)

2005年12月24日 | Weblog
を見た。

一日目とぼくの見た二日目ではプログラムに変更があったらしい、内容と言うよりは登場順になんだけれど。

Off Nibroll「Public=un+public」
ボクデス&チーム眼鏡「親指商事・営業課」
康本雅子「ようこそココへ」
ko&edge「DEAD1」
SNACKY! & GIRLS (ピンク)「わたしはSNACKY!」
alt.「言葉に揺れる水」

(休憩20分)

ボクデス「夢で会いましょう」
マトリョミンアンサンブル”マーブル”「黄金の下に大集合」
ほうほう堂×チェルフィッチュ「ズレスポンス」
康本雅子「雨ったれ」
首くくり栲象/室伏鴻「わが魂のジュリエッタ/DEAD2」
C. Snatch Z. 「How to use the weapon」

細かい感想を書く時間がいまない。前回や前々回を見たひとならば共感してもらえると思うが、今回明らかに全体的なグレードが上がったといえる。正直、「なぜこれがこのラインナップにはいるのか、、、」と不可思議な気持ちに陥るものもあるにはあったけれど。トータルに見れば、桜井圭介の撒こうとしている「ダンス菌」は観客にきちんと伝わったのではないか。ぼくはこの企画に具体的に関わっているスタッフでは全くないのだけれど(何かそういう誤解が生じているようだ、けれど)、これならば「これが日本のダンスの現在です」と言って他のジャンルのひとびと(演劇、美術、音楽、映画、、、)に堂々と紹介する気持ちになる。いや、どうなんだろう。打ち上げの席で観客の書いたアンケートを幾つか読ませてもらったけれど、あれをみたひとりひとりがどんな感想をもったのか、知りたくなった。
ぼくの感想や意見は、時間を探してなるべく早めに書きます。

講義修了であとはテスト

2005年12月22日 | Weblog
いまぼくが観客論についてぶつぶつ考えているのは、ここで何度も取りあげていることだけれど、どうもひとつの重要な極点として、ナンシーの『無為の共同体』で展開されている共同体論を考究するべきであることが分かってきた。ナンシーはそこで、バタイユの思考をたたき台にして、主体の形而上学を批判し、それでもなお成立する共同体のかたちを模索している。例えばそれは、こう語られていたりする。

「共同体は他人の死のうちに開示される。共同体はそうしてつねに他人へと開示されている。共同体とは、つねに他人によって他人のために生起するものである。それは諸々の「自我」--つまるところ不死の主体であり実体であるが--の空間ではなく、つねに他人である(あるいは何ものでもない)諸々の私の空間である。共同体が他人の死のなかで開示されるとしたら、それは死がそれ自体、諸々の自我ではない私の真の共同体だからである。それは諸々の自我を一つの自我あるいは上位のわれわれへと融合させる合一ではない。それは他人たちの共同体である。死すべき諸存在の真の共同体、共同体としての死とは、それら諸存在の不可能な合一である。」(J=L・ナンシー『無為の共同体』以文社、28)

このような「死」の問題に接近出来たのは、僅かにアルトーの演劇論かさもなければ土方巽のダンス論くらいであろう。暗黒舞踏がいまなおリアリティをもちうるアート・フォームであるとすれば、おそらくこの「死」を通した共同体の可能性を宿しているからではないだろうか。そして、室伏鴻や彼のみならず黒沢美香、チェルフィッチュ、手塚夏子を考えるためには、恐らくこの論点と摺り合わせる必要があるだろう、きっと。

とはいえ、それはいかに。よく分からないところがある、よく考えないといけないことがたくさんある。この「死」はハイデガーをナンシーが参照してのものだろう。現実の人間にとっては確かに死は分有された他性ということになる。けれども、ダンスがそれを担うためには、死がどう扱われるかについて、つねにクリティカルでなければならないはずだ。ちょっとまちがえるとすぐに主体の形而上学にすり替わってしまう。

舞台と客席の間に作られる共同体の問題は、『BT/美術手帖』の室伏鴻との対談で最後に触れたことにぼくとしては大いに関わっている。

それと、今考えているのは、「死」を「他者の他者性」と言い換えてみてはどうか、ということ。そうすれば、無為の共同体というアイディアは、抽象度の高い思考からより現場に接近した思考へと読み替えることが出来るようになるのではないか。



吾妻橋、ぼくは23日に行きます。

高野美和子『不埒な身体』(@BankART NYK)

2005年12月21日 | Weblog
を見た。

前半、赤いポンチョのような服を着て顔をなかば隠しその代わり三つ編みの髪を一本はみ出させる。その衣裳は「脚」をみせるため、だろう。二年前か大阪の踊りに行くぜ!!で彼女のソロを初めて見たときにも、脚さばきの実に繊細で正確なところに魅了されたが、今回はかなり自覚的にその見せ所の脚を前面に出す。必ずしも「脚のダンス」といった枠づけで純粋にダンスをするというだけではなく、脚そのものへのフェティシズムを喚起させるような企みが含まれている。そのエロティシズムは観客に対する術策として見える限り、決して悪いとは思えない。いやむしろ、大人の女性(主婦というのではない30才代の女性)のダンスというものが現在不在、ということを考えれば、高野の存在というのは新鮮に見えてくる。「コドモ」というキーワードは、それが際立ってくると、それ(コドモ)以外に対する渇望も当然出てくるだろう。より微細に見れば、ダンシーな身体の可能性というのは、どこにだって(「コドモ」以外のポイントにも)ある、はず。高野はその点で、実に丁寧に自分の引き出しの中で、確かにダンシーのありかを探っている。
後半は、直立して呪文を説くような、不思議な腕の運動を繰り返すところから始まる。その後は、ヒステリックな運動が髪を引っ掻いたり、壁に張り付いたりとさまざまに展開される。ある種の清潔感(サニタリーな感じ)と平衡を失うリズムとが共存する高野のダンスが、ダンスを余り見ない女性の方々の琴線を震わせるなんてことを今後起こすといいのに、と思ってしまうのだった。

山田せつ子+天野由起子『奇妙な孤独』

2005年12月18日 | Weblog
を見ながら考えたこと(@スパイラルホール)。

天野由起子はいままで見たどのときよりも動きがシャープで、腕などの描く線は「正確さ」を感じさせる。動き始めが強い動き、ロボット的というか。それは最近ブツブツ考えているモダンダンス(ドイツ系)の硬い動きを彷彿させる、その硬さは、ある時は痙攣的にさえ見え、ゆえに「自閉的なひと」のそれにも思えてくる。
と、いろいろなイメージがわき、それにともないいろいろな可能性が浮上する。ん、でもそれらがひとつでもふたつでも何かの激しい傾向を生みだすことはなかった。
彼女らしい昆虫の手足みたいなこちょこちょした動きは、先に言ったモダンダンス的な堅い動きとも連動しているものであるが、これが見ている内に「キャラ」化していく。この子こういう子ね、といった安堵感が生まれる、と同時にそうなるともう執念深く見ようとする気持ちは萎えてしまう。「キャラ」となってしまった踊り手は、あとは好き/嫌いの対象となり、好きなキャラと思えたひとにとっての愛好の対象にはなるのだが、もはやそこで見えているのは「キャラ」であって踊りではない。と、こういう流れを追ってみてしまった一時間半だった。
何が悪いのか、彼女は何も悪くない、凄く勤勉、自分のスタイルを確立してその洗練に努めている。けれども、それが作品の体裁を構築することはあっても踊りとして魅力的かと言えば、頷けないところ、が、問題で、となると、そこに気づくかどうかは彼女の問題なのであって、、、

以前、枇杷系にはユーモアが欠乏しているとぼくは自分のブログに書いた記憶がある。今回もやっぱりそう思ってしまう。別に笑いを求めているのでは無論ない(この点は「観客が笑うとき観客は笑っていない」の議論を参照)。「ユーモア」という言葉が含んでいるのは、観客との接点へ向けたトライアルがどこまで狙われているかということである。いま構築としようとしている技術のレヴェルに比して、この点がかなり素朴なレヴェルにある、ということに気づいて欲しいと思ってしまう。いや、ひょっとすれば、この公演の観客設定がぼくを除外するものになっていると言うことなのかも知れない。ぼくが『婦人公論』(?何を例に挙げるべきだろう)の読者ではないということか。

帰りに、京都からはるばるいらした方(ダンサー)を含め、何人かと近くのプロントでおしゃべりした、ビール飲みながら。話題は、社会の暗さに。日本はいっそのことバブル再来した方がいいとの意見が出た、それはいまの日本の暗さが気になるという話の裏返しでだ、と。なるほど、少女殺害事件などの暗さは、何か孤独な自分というものを自己肯定するさまざまな身振りの暗さとパラレルのように見える。他に、リリー・フランキーの『東京タワー』が話題になったりした。サブカルのキングがこういう「素」で勝負すんなよ!と誰かが言う。ん、「引きこもりに」象徴される、自分に閉じこもってその自分を一生懸命肯定する時代がいまだと思う、ほんとに。携帯をいじりながらすたすたと混んだ街中を歩く女性達にも、ぼくは同じ空気を感じる。また、その「暗さ」をただ現状肯定する「表現」がどこでも目立つ。ピン芸人のネタとか(とくに決まり切った台詞や進行にただネタをあてはめるだけの人たち)。今年は流行歌のない時代だった。この事実も、かなり凄い。「遊び」がないんだよな、ここには。ひとはもうそうした事態に辟易しているんじゃないかな、実は。

前にも書いたけれど、講義で土方巽の踊りを見て感動したのだ、この踊りの馬鹿さ加減に匹敵するひとはいまいるのか、と思ってしまった。ほんとに、「江頭2:50」の「ボス」みたいに見えるときがある。恐らくそういう連続性は何かしらあるのだと思う。いまダンスが足りないのだ。暗さの原因はここにある、きっと。土方があのとき到達した錯乱。「錯乱」は決して楽なものではない。それに、「錯乱」の状態はある時達成されれば、ひとはその段階をいつまでも享受出来る、といったものではない。いつでもひとは停滞の中にいる。ひとの常態が停滞なのだ、でもそこからは何も生まれない、何も楽しくない、それなのにひとは気づけばその状態をとってしまう。ダンスはそれ自体が停滞に対する批評なのだと思う。ダンスの機能はたかだか停滞を覆すことであって、それ以上ではないかも知れない。けれども、それは相当重要な機能なのではないか。

停滞はひとのこころにも起きるし、からだにも起きる。ときどきぼくは二つをほぐしに泳ぎに行ったりジョグしたりする。すると、バカみたいに気持ちが軽くなる。このとき、ジョグや水泳は停滞する僕への批評だと言っていい面がある。
冬はまさに気候ごと停滞する。長野県の山奥にある坂部地区で毎年正月に行われる村祭りに数年前行ったことがある。そこで、たまたま中沢新一氏と隣で鬼のダンスを見ていたのだが、このダンス(祭り)は神様に「こんな吹雪の中でもぼくたちは生きているぞー」と告げるためにするのだと、彼はある本で書いていた。その話をいま思いだす。ひとは容易く硬直するものだ。それをほぐすことはきっと永遠のテーマであり、問題のこじれ方に応じてそのやり方は異なりこそすれ、もっぱらそのあたりを目指したジャンルがダンスであることは疑いのないことではないだろうか。少なくともぼくがダンスとつきあいたいと思ってしまう気持ちの大半は、ダンスがそういうものだからだ。

「広田さくら」って何者??

2005年12月17日 | Weblog
いま論文三本同時並行で執筆中、「執筆」というか「執打」。いつまでもやるべきことばかりの師走だなー。

そんで、観客論のことがでも今いちばん気がかりで、とかいいつつも、 inputもしたいということで、『共視論』(北山修編、講談社選書メチエ)を和光大で借り、アマゾンからとどいた『プロレスファンという装置』(小田亮/亀井好恵編、青弓社)を手にする。『共視論』は視線を論じる論集で、特にポイントになるのは、だっこした子供と母が同じ方を見る「共視」。他者の視線を自分の視線として生きることが認識のはじまりの段階としてある(とされている)ことは、知っていたけれど、絵画的表象を通してこれでもかと議論されていて、ちょっと圧倒される。本書で展開される「視線」の問題をダンサーの目の扱い方を考えるのに応用出来ないものか、と思ってみたり。「共視」ではないが、「自己視線恐怖」という概念に興味をもった。自分の視線が相手を傷つけていると思ってその視線に恐怖する病。加害者の恐怖、病。

『プロレスファンという装置』は、小野原教子「〈仮縫い〉のようなプロレス」が読み応えあった。ぼくは知らなかった、広田さくらって誰?小野原の説明を読むとなんかすごい面白いレスラーだ。コスプレをするレスラーで、自分の衣裳を自分で作るから「仮縫い」のようということらしい。いや、でもそれだけじゃなく、対戦相手のコスプレをしちゃったりするというのだ。パロディを本人の前でするって、、、本人曰く、

「自分の個性は個性としてこのまま続けて、気付いたら強くなってたっていうのが理想です…今までになかったような何かになりたい。分類できないもの、得たいの知れないものになりたいんですよ。不思議な物体Xになりたい」

スゴイ。パフォーマンスみたいと思ったら、女子プロレスはいま大変な状態になっているんですね、ガイアやら全日本女子やら大きな団体がのきなみ解散してしまい、広田もいまは引退して女優(?)に転身してしまった、らしい。残念。ビデオ市販されてないのかな、、、なさそうだ。ビデオ貸して下さる方おりましたら、ご連絡下さい(さすがに、そんな「通人」はおりませんかね)。

他にも驚いてしまう話は幾らでも出て来る。例えば、広田のオリジナル技というのがあるらしく、その名は「ときめきメモリアル」、なんと相手のレスラーにキスをするという戦法らしい。デタラメだ。ふざけている。いや、それこそがプロレスだ、というべきなのか。

写真は、最近やってくるおしかけコネコ。かわいさを振りまいてえさをねだるが、目は据わっている。名前はまだない。

森下真樹ダンスショウ!!(Bプロ)

2005年12月16日 | Weblog
を見た(@駒場アゴラ劇場)。

「peel slowly and see」
白井剛と二人で。針カヴァーのところがカラフルになっている安全ピンが頭上から数百本落ちてきて床を埋める。それとバナナが数本。カラフルなピンが危険でもあり一定のテンションをつくる。そのなかで、ときに土方を思い起こさせる(というと大げさ?)知的に不具なひとのごとき状態で予測出来ない奇声とか表情しながら歩いたり騒いだりの二人。些細なことのの寄せ集めのようでいて、集まってくると妙な迫力がうまれてくる感じがあり、ぼくとしては『禁色』のときよりも白井剛のポテンシャルが発揮されていて今年見た白井のなかではいちばん面白い公演だった。どこまでも「素」を出さない感じが、伊藤キムならば裏の裏の裏に表がほの見えるところで、決してそういう「生」が出てこない感じが、ぼくにとっての白井らしさ。いやむしろ、彼の「素」の部分には決して共有出来ない深い狂気が孕まれている気がする、と言った方がいいか。ひとを寄せ付けない不可解な部分、そこに多分、「彼のダンス」と呼べる核心が潜んでいるように思う。チェーンにした安全ピンにバナナを刺して、ぶらぶら引きずったり。でも、こういうセンスは白井濃度の濃い分、森下濃度は薄い。どうしても、白井を見てしまう時間だった。

「森下ひとり芝居+β」
セロリと卵を取り出して花の女王?「マキちゃん」が彼らとの三人芝居をしながら、セロリと卵が地球の穴を目指して上っていくまでの物語を、一人で演じる。今日は前回にまして語りに引っかかりがなく、観客が反応するきっかけを失っていく。間がとれないで、するするとしゃべってしまうと、一人芝居は本当に一人になってしまう。
けれども、この作品の最大の狙いは、観客に迫って、セロリを食べさせたり、観客の似顔絵を描いたりするところだろう。花の女王の「イタイ」ところが、観客にとって入り込めるスペースをつくる。でも、それもなー、もう少し「執拗」に何かをする時間があってもいいのに、と思うなあ。「似顔絵を描く」ということにもいろいろな可能性があるはず、とか。そこに変則的リズムが発生してもいいのではないかと。「次」「次」と進みすぎているのだ。

「モリシタアワーヅ」
森下真樹の妹?が登場し、二人でクチリズムボックスみたいなことをはじめる。そこから、アフロ頭の粟津、白井などが登場し、リズム祭りのようなことをする。


観客論のことを考えながら見てもいたので、その点について覚え書きを少々。

「観客が笑うとき観客は笑っていない」とは、最近同居人Aがぼくに呟いた名言の一つだが、このことの意味がよく分かった。観客は、分かりやすい球が飛んでくると「打てる」(笑える)と思ってバットを振る(笑う)。けれども、それは本当に笑っているわけではない。突然、白井と森下が「知っている曲」を歌い出す。すると観客はクスクスと笑い出す。それは、打ちやすい球であって一種のサーヴィスである。そう、サーヴィス。それは笑いというよりも「どうぞ!」と笑顔と共に差し出されたお皿(料理)のようなもので、その振る舞いに観客は喜んで笑う。でも、それは笑いなのだろうか、観客はそこで笑ってはいないのではないか。

「観客主義」とは、観客のための「イス」を用意するそういう振る舞いだ。観客はそこに座ればよい、しかも舞台に立つあの人がしつらえてくれた「イス」なのだから、嬉しくないわけはない。けれども、それはある意味では単調だ、出来レースだ、スリルに乏しい。そこで、「はぐらかし」が重要なアプローチになる。悟られすぎではつまらない。ダンスが批評的であるとき、そこにまずあるのはこの「はぐらかし」だろう。ダンスが笑えるものである必要は必ずしもないけれど、「笑い」がこう来るこう来ると予期していた気持ちを裏切る意外性の内にある、とすればそれはダンシーとかなり近似する事態であるだろうし、ならばダンスの批評性はこうした笑いのベクトルへと向かう(このベクトルと並行するように進む)ものでなければならない。

けれども、それが甚だしくなってしまうと、観客はただただ取り残されていく。めまいを起こす。そのこと自体は全く悪くはないけれど、観客との接点がまったくなくなってしまえば、それは「はぐらかし」の意味がない。さて、、、というあたりがダンサー、振付家の考えどころだろう。

ということで、ダンサー、振付家の方は観客の反応が踊りながら気になるようですが、笑い声はかならずしも笑っている証拠にはならない、ということを是非ご了解のうえ。

講義の中で

2005年12月15日 | Weblog
ぼくはいま木曜日に三コマの講義をある私立大学で受け持っている。

大学院生ないしオーヴァー・ドクター冬の時代(極寒!)にあって、非常勤ではあっても自分の考えを講義出来る機会にめぐまれているのは、まことにありがたいことである。「美学特殊研究」という講義では、前期に笑い(機知)論を後期にダンス(優美)論を話した。来週で早くも今年の講義は終わってしまいますが、クライマックスに近くなった今日は、学生達に土方巽のダンスをじっくりみてもらうことにした。

というか、こういう機会があるとぼくもじっくりみることができる。そうすると、ああ、土方巽自身のダンスというのはやはりスゴイ。まったく古さは感じない、むしろ今のコンテンポラリーダンスがあせてみえるくらいだ。いつもいい反応をしてくれる学生Kくんも、「土方さんは、スゴいっスね、これまでのビデオは正直余り楽しめなかったけど、土方さんのダンスは先読めない、スゴイ」と開口一番。コンテンポラリーダンスの世界で踊ろうという人は、まず最初に、『土方巽と日本人--肉体の叛乱』『疱瘡譚』など見ておきましょう。美術界で生きていこうとする人が、ピカソやマティスを見ないなんてことはありえない、というような話です。幸いにも、お金を払えば(先の映像は『土方巽の舞踏』に所収)見ることが出来る時代ですから。

んー。最早先月号になってしまいましたが『美術手帖』ダンス特集でぼくが書くべきだったことは、「土方巽を我々は超えられたのか」というタイトルの論考だったのではないか、とちょっと反省してしまった。いまだ土方のポテンシャルはくみつくされていない。そのことは、これからちょこちょこ書いていくことだろう。