Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

山田せつ子+天野由起子『奇妙な孤独』

2005年12月18日 | Weblog
を見ながら考えたこと(@スパイラルホール)。

天野由起子はいままで見たどのときよりも動きがシャープで、腕などの描く線は「正確さ」を感じさせる。動き始めが強い動き、ロボット的というか。それは最近ブツブツ考えているモダンダンス(ドイツ系)の硬い動きを彷彿させる、その硬さは、ある時は痙攣的にさえ見え、ゆえに「自閉的なひと」のそれにも思えてくる。
と、いろいろなイメージがわき、それにともないいろいろな可能性が浮上する。ん、でもそれらがひとつでもふたつでも何かの激しい傾向を生みだすことはなかった。
彼女らしい昆虫の手足みたいなこちょこちょした動きは、先に言ったモダンダンス的な堅い動きとも連動しているものであるが、これが見ている内に「キャラ」化していく。この子こういう子ね、といった安堵感が生まれる、と同時にそうなるともう執念深く見ようとする気持ちは萎えてしまう。「キャラ」となってしまった踊り手は、あとは好き/嫌いの対象となり、好きなキャラと思えたひとにとっての愛好の対象にはなるのだが、もはやそこで見えているのは「キャラ」であって踊りではない。と、こういう流れを追ってみてしまった一時間半だった。
何が悪いのか、彼女は何も悪くない、凄く勤勉、自分のスタイルを確立してその洗練に努めている。けれども、それが作品の体裁を構築することはあっても踊りとして魅力的かと言えば、頷けないところ、が、問題で、となると、そこに気づくかどうかは彼女の問題なのであって、、、

以前、枇杷系にはユーモアが欠乏しているとぼくは自分のブログに書いた記憶がある。今回もやっぱりそう思ってしまう。別に笑いを求めているのでは無論ない(この点は「観客が笑うとき観客は笑っていない」の議論を参照)。「ユーモア」という言葉が含んでいるのは、観客との接点へ向けたトライアルがどこまで狙われているかということである。いま構築としようとしている技術のレヴェルに比して、この点がかなり素朴なレヴェルにある、ということに気づいて欲しいと思ってしまう。いや、ひょっとすれば、この公演の観客設定がぼくを除外するものになっていると言うことなのかも知れない。ぼくが『婦人公論』(?何を例に挙げるべきだろう)の読者ではないということか。

帰りに、京都からはるばるいらした方(ダンサー)を含め、何人かと近くのプロントでおしゃべりした、ビール飲みながら。話題は、社会の暗さに。日本はいっそのことバブル再来した方がいいとの意見が出た、それはいまの日本の暗さが気になるという話の裏返しでだ、と。なるほど、少女殺害事件などの暗さは、何か孤独な自分というものを自己肯定するさまざまな身振りの暗さとパラレルのように見える。他に、リリー・フランキーの『東京タワー』が話題になったりした。サブカルのキングがこういう「素」で勝負すんなよ!と誰かが言う。ん、「引きこもりに」象徴される、自分に閉じこもってその自分を一生懸命肯定する時代がいまだと思う、ほんとに。携帯をいじりながらすたすたと混んだ街中を歩く女性達にも、ぼくは同じ空気を感じる。また、その「暗さ」をただ現状肯定する「表現」がどこでも目立つ。ピン芸人のネタとか(とくに決まり切った台詞や進行にただネタをあてはめるだけの人たち)。今年は流行歌のない時代だった。この事実も、かなり凄い。「遊び」がないんだよな、ここには。ひとはもうそうした事態に辟易しているんじゃないかな、実は。

前にも書いたけれど、講義で土方巽の踊りを見て感動したのだ、この踊りの馬鹿さ加減に匹敵するひとはいまいるのか、と思ってしまった。ほんとに、「江頭2:50」の「ボス」みたいに見えるときがある。恐らくそういう連続性は何かしらあるのだと思う。いまダンスが足りないのだ。暗さの原因はここにある、きっと。土方があのとき到達した錯乱。「錯乱」は決して楽なものではない。それに、「錯乱」の状態はある時達成されれば、ひとはその段階をいつまでも享受出来る、といったものではない。いつでもひとは停滞の中にいる。ひとの常態が停滞なのだ、でもそこからは何も生まれない、何も楽しくない、それなのにひとは気づけばその状態をとってしまう。ダンスはそれ自体が停滞に対する批評なのだと思う。ダンスの機能はたかだか停滞を覆すことであって、それ以上ではないかも知れない。けれども、それは相当重要な機能なのではないか。

停滞はひとのこころにも起きるし、からだにも起きる。ときどきぼくは二つをほぐしに泳ぎに行ったりジョグしたりする。すると、バカみたいに気持ちが軽くなる。このとき、ジョグや水泳は停滞する僕への批評だと言っていい面がある。
冬はまさに気候ごと停滞する。長野県の山奥にある坂部地区で毎年正月に行われる村祭りに数年前行ったことがある。そこで、たまたま中沢新一氏と隣で鬼のダンスを見ていたのだが、このダンス(祭り)は神様に「こんな吹雪の中でもぼくたちは生きているぞー」と告げるためにするのだと、彼はある本で書いていた。その話をいま思いだす。ひとは容易く硬直するものだ。それをほぐすことはきっと永遠のテーマであり、問題のこじれ方に応じてそのやり方は異なりこそすれ、もっぱらそのあたりを目指したジャンルがダンスであることは疑いのないことではないだろうか。少なくともぼくがダンスとつきあいたいと思ってしまう気持ちの大半は、ダンスがそういうものだからだ。