Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

発動する/させるイメージ――シュルレアリスム、アンフォルム、キャラクター

2010年09月27日 | 美術
最近のこのブログでは「妻」と呼ばれていますが、伊藤亜紗がイベントに出ますので、紹介します(妻から来たメールを転送します)。

司会、パネラーともメンバーがともかく素晴らしいので、分かる人には予想される面白さが分かってもらえると思うのですが、個人的には、観客論の今日的展開についてかなりつっこんだ&有意義な議論が展開されるのではないかと楽しみにしています。(多分、ぼくはIをだっこして、彼がぐずったら退席しながら合間合間で拝聴するといった感じになるでしょうが、学術系の方のみならず、美術系、演劇系、ダンス系の実践者のみなさん、ぜひ。)


* * *

いっきに秋に突入した感じですが、いかがおすごしでしょうか。

10月9日(土)に上智大学で開かれるイベントのご案内です。
イメージが何かを発動させること、あるいは発動させられること、そこに働いている条件や力学について考えます。
シュルレアリスムの鈴木雅雄さん、アンフォルムの近藤学さん、そして私の3人が30分ほどずつお話をして、そこからディスカッションをたちあげます。企画&司会は林道郎さんです。
わたしは、文学における描写が、どのようにしてキャラクターと読者の関係を操作するのか、描写を排除するとはどのようなことか、といった問題について考えます。
いまから、とてもわくわくしています。ぜひぜひ、お出かけください。


発動する/させるイメージ――シュルレアリスム、アンフォルム、キャラクター

鈴木雅雄「キッチュを愛すること―ブルトン、ダリ、ジャコメッティ」
近藤学「鏡と蜘蛛の巣―クラウス/ボワ『アンフォルム』の観衆論的射程」
伊藤亜紗「嫌・描写―まなざしなきイメージ」
司会:林道郎

主旨:イメージ――広くオブジェや「作品」と呼ばれるものも含む――は、それを見る者、読む者、受けとる者に一体どのように働きかけるのだろうか。そのような「パフォーマティヴィティ」の視点からのアプローチは、近年のイメージ研究の潮流の一つを成してきた。このワークショップでは 、三つの異なるケース・スタディを踏まえながら、あらためてそのような方法の可能性と限界について精細に論じてみたい。シュルレアリスム研究の最前線を突き進む鈴木雅雄、出版が待ち望まれる『アンフォルム』の訳者の一人である近藤学、独自のキャラクター論を展開する伊藤亜紗の3人の発表を一部とし、二部では司会と参加者を交えた自由討議を展開する。

日時:10月9日(土)午後3時~6時
場所:上智大学四ツ谷キャンパス10号館301号室

主宰:The Image-Site-Audience Project
後援:日本学術振興会

I日記

2010年09月27日 | I日記
今日は大学、午後、自分の研究とは関係のない論文を読み続けている。午前中は、この1年くらいの「CanCam」の変遷について雑誌を分析していた。すごいです。今月のコーディネイトのページでは、主人公の女の子は、会社が外資にのっとられてしまいました!にもかかわらず、さすがCanCamガール、上司に気に入られ見事キャリアアップに成功してます。その後、ついでに「S Cawaii!」の最新号も読んだのだけれど、10周年の特集号、最初期のあの輝くような異質性はもうなくなっていて「ゆるエロ」がいまは「ゆるカジ」になって、いまのキーワードは「大人め」。なんだか、この10年の間にどんどん力を失っていった日本をそのまま映したみたいだ、なんて思ってしまった。CanCamが呈示するようなハッピー・パワーは、いまとても貴重だな。最近、こうしたこととかもまた、学生に不人気だということもあり、一層「CanCam」を応援したい気持ちになってしまう。

Iが大人になる20年後は、この国はどうなっているのだろう。

そうとうタフじゃないと。

Iは最近、夜泣きがはげしい。「夜泣き」といっても、涙を流して泣くというよりは、「遠吠え」にちょっと似ていて、ともかく大きな声を「あーあー」と出して際限がない。妻によれば、それは新しいことを覚えるときに出るらしく、脳が新しい段階に自分をアップデートする音なのかもしれない。赤ちゃんらしい「ばーぶー」みたいな声が出るようになってきた。とてもかわいい。寒くなり、暖かくするのに着ぐるみみたいなもこもこしたものを着るようになって、これまたかわいい。指でモノをはじくのがとても上手。離乳食にがっつくようになった。最近、新宿で託児所に預けたら、「もう少し、人前に出すようにして下さい」と保母さんに怒られてしまった。甘えん坊の内弁慶。人見知りもそろそろか。

「里山の古い建物にて」→秩父神社→長瀞

2010年09月26日 | 美術
昨日、車で埼玉県比企郡小川町というところに行ってきた。あきる野から圏央道に乗り、関越道にスライドして嵐山小川まで、一時間ちょっと。あっというまに降り立ったところは、なかなかすごい田舎の景色だった。下里分校。手塚夏子さんが地元の藤野でGWなどにイベントをやっているけれど、あの景色ととても似ている。あれもたしか学校を改装したところが会場だった。まず、近くを流れる小川を眺めたり、牛の声に耳を傾けたり、学校に居着いたひとなつっこい猫を撫でたりした後で、さて、展示を。

目的は、小林耕平。周知の通り基本的に映像の作家。「2-9-1」というタイトルの新作が小さな教室で流されていた。

あたりまえといえばあたりまえだけれど、素晴らしい。17分ちょっとの少し長い作品をなんども見続ける。作品のなかに登場するオブジェ(ティッシュ箱、土偶、ペットボトル、羽の付いた車用ブラシなど)が教室のあちこちに置いてある(撮影場所はこの教室ではなかった)。ご本人からいろいろと興味深い話をうかがったが、ぼくが思うに、この作品は、ダンス作品といっていえるのではないか、ということだった。別にいわなくてもいいけれど、これをダンス作品だといってもいいし、いったときに、いわゆるビデオダンスについての考え方も様変わりするだろうし、ダンスそれ自体についての考え方もフレッシュなものになるのではないかと思ったのだ。

特徴としては、ひとつに固定カメラ。小林の最近の作風は、カメラマンをたてて、自分はファインダーの内側に入ったり出たりと出演者になるというものだった。今作も、小林は出演するが、カメラマンはいない。さしあたり「カメラマンと被写体」というテーマはだから発生しなくなり、ぼくはそこに小林作品の面白さを感じていたので、最初「あれ」と思ったけれど、「カメラと被写体」のテーマはもちろん健在で、これまでより一層見応えのある深みのある作品になっていると思った。

もうひとつの特徴は、言葉。小林はしゃべる。しかも、そのしゃべりに合わせて字幕が出る。パフォーマーの言葉は、見る者を冷静にさせない。期待を与えたり、暗示を与えたり、見る者を待たせる。さてそこでパフォーマー/見る者、どうするか、といった事態こそ「パフォーマンス」といわれる場の真骨頂だろうし、そこで起こる両者間をまたいだスリリングな時間こそ「ダンス」という呼び名を与えるに相応しいなにかではないだろうか。また身体動作のレイヤー、身体から発せられた音声のレイヤー、またそれに基づいて作られる字幕のレイヤーなど、小林の身体から発せられる情報だけでも多くのレイヤーの重なりからなっている。その小林が、さまざまなオブジェをあれこれと動かし、またそれらについて言及する。オブジェの質、色、大きさ、相互の関係などが、ここで、強い作用をともなっている。見れば見るほどそうした緊張ある関係に気づく。

この展覧会は、他には伊東孝志、柳健司、新井淳一、滝澤徹也の作品展示がある。28日まで。都合によりあまり宣伝ができないということなので、知らない方も多いかもしれませんが。是非。また小林さんは柏islandでの展覧会「脱臼」展でも同傾向の作品を出品予定らしい。楽しみだ。

午後には、妻もぼくもはじめて土地なのでぶらぶらしてみようということで、和紙の里でそばを食べた後、秩父駅周辺へ。そういえば、椹木さんの地元ってこのあたりなんだっけ、とか話しながら、観光地のようであまりそういう感じでもない不思議な町並みを散歩した。高校生の自転車は、なんだかチョッパー化されていて、この土地の若者風情を感じる。名物という豚の味噌漬けを買う。秩父神社はカラフルで、虎や猿やクジャクが本堂の外壁を元気に飛び交っている。「見ざる・言わざる・聞かざる」ではなく、ここの猿は「見る・言う・聞く」なのだそう。情報化社会に対応してて、また高齢化社会の理想でもあるらしい。そんな立て看板の口上がおかしい。

帰りに長瀞の岩畳に寄る。岩畳までの100メートルくらいの道は、両側びっしりとおみやげ屋になっていて、江ノ島とか井の頭公園とかを連想させる。いつか船下りしてみよう。

「せーの!」

2010年09月22日 | 美術
9/19は柏のislandでトークイベントに招かれた。Iと妻と3人でてくてく1時すぎくらいに家を出て、武蔵野線などを乗り継いで、会場についたのが3時半過ぎ。長旅でした。柏は面白いなー。今年の夏は、軽井沢、青森、京都、広島などいろいろな街に行ったけれど、都心に近い田舎ほど田舎的なところはないのではないかと思った。「田舎的」というのは、他人への意識が乏しいと言うところで、ファッションのセンスにしても、若いカップルのいちゃつき方にしても、人々の目線の感じとかにしても、何かがちょっと違う。洗練されていない、といえばいいか。具体的に何がとはいいにくいのだけれど、何かがちょっとずつ歪んでいる。パラレルワールド。いや、未来の日本なのかもしれない。

「Neo New Wave」展に出品している若者たちとの「しゃべり場」。ぼくは「大人」役ということだったので、話を聞き出すことに専念。同じ大人役の窪田さんがとても大人だったのでぼくは随分楽してた。大人はあんまり表情を変えちゃいけないんだなーと窪田さんの涼しげな横顔をチラ見しながら思っていた。

会がはじまる前に遠藤一郎君と「せーの!」の話をしていた。彼は、わくわくKYOTOプロジェクトでたくさん「せーの!」と書いてきた、と。佐藤雅彦特集の『美術手帖』では、彼の連載頁にやっぱり「せーの!」とある。「せーの!」のこと、遠藤君が家に来たときに、話題になったのだった。ここでも書いたかもしれないけれど、小林耕平さんが行った展覧会に出品していた作家・川戸由紀さんが、小さなフェルトの刺繍の上に「いくよ!」とか「せーの!」とか書いてて、それがなにやら遠藤君の言葉とシンクロする気がして、面白かったと彼に伝えたのだった。そのとき、彼の発言で印象的だったのは、川戸さんの刺繍を見せたらその筆致に「(自分と)似てる」と漏らしたことだった。遠藤君は、そういえばと絵はがきを見せてくれた。それは彼が活動の最初期に富士山をバックに「GO FOR FUTURE」というロゴを掲げて未来へ号の上に乗っている写真で、写真の上部には彼の宣言文らしきものが載っている。「一生懸命やっていこう」とはじまるその文の最後に、

「せーの いくぞ!!!!」

とあるのだった。

「せーの!」とはなにか。それはアートなのか。それのどこがアートなのか。それをアートと見なすとした場合に、どんな地平が広がるのか。

なんてことを考えつつ、「しゃべり場」がはじまり、その後半で、加藤翼君が「幸せ」というテーマを出してきた(この「しゃべり場」、各作家がひとつしゃべるテーマをスケッチブックに書いておくことからはじまったのだった)。そして、加藤君は、ある程度話が進んだところで、自分が幸せなだけじゃ幸せではない、といったことを口にした。加藤翼君は、ご存じのように、巨大な箱を紐で引っ張って倒したり立てたりするパフォーマンスを行っており、そのアイディアを「ハードコア・コミュニケーション」と呼んでいる。巨大であると、一人では倒せない。彼の最初期の作品では、自宅の駐車場で、ひとり箱を引っ張っている加藤の姿に、加藤の母親が気づいて、手伝う、という模様が映像化されている。こまっているひとに思わず手を貸してしまう状況を設定することで、「力を合わせる」という状況を自ずと生む、というのが加藤の戦略。ここにあるのも、いうなれば「せーの!」だ。

遠藤の「せーの!」と加藤の「せーの!」。遠藤は「せーの!」という標語をあちこちに書くことを自らの表現行為にする。そうした標語を先に置くことはせず、自ずとそうした状況に巻き込まれた参加者が気づけば「せーの!」と息を合わせる、それが加藤の表現。

川戸さんも合わせて、「せーの!」の作家がとても気になる。

神村×大倉

2010年09月19日 | ダンス
昨日は、神村恵と大倉摩矢子「尻尾と牙とまた尻尾」を見るべく、車で出たら井の頭公園あたりで渋滞。まったく動かず。土日は車ででかけちゃだめだったららしい。とても楽しみにしていたのに、残念無念、、、気をつけます(涙)。

広島→京都旅行(with KAT)

2010年09月18日 | Weblog
9/12-14、広島と京都に旅行してきました。(その前日には、蓮沼執太イベント「音楽からとんでみる2」を六本木に見に行っていた。いまは実家の新潟で暮らしている昔の教え子に遭遇。ぼくのブログで蓮沼君を知ってわざわざ見に来たのだとか。とってもすばらしいイベントだったので、よかった。そっかー、ブログ見て新潟から来るひともいるんだよなーと、最近更新頻度が落ちていることを反省。そうそう、素晴らしいイベントでした。けど、翌日五時起きで新幹線乗らなきゃ行けなかったので、その点辛かったです。)

広島は、広島市現代美術館の特別展「もっと動きを:振り付け師としてのアーティスト」を見るのがメインの目的だったのですが、んー、ちょっと残念な気持ちになりました。橋本聡は、とても注目しているのだけれど、装置だけ置いてあって、観客にやってみてとインストラクションを与えるといった作品ばかりで、正直「やってみたけれど、なにか?」と思わせられた。橋本本人がいて、へんなこと延々やっているというのは一度遭遇して面白かったし、そういう方向では大いに期待しているのですが、こうした作品群は、オノ・ヨーコ的アイディアのシンプルな変奏としか思えなかったです。今村悟にも心惹かれなかったなー。正直、企画意図があまりよく分からなかったんですよね。なぜ「振り付け師」として「アーティスト」を見るのか、そう見ることでなにがどうなるのか、現代美術史にそういうポイントがあることは、多くのひとにとってはもう了解済みのことだと思うので、さて、それをどう考えるか、ということにちゃんと応えて欲しかったです。やっばり、小林耕平や泉太郎(田中功起、田口行弘、Chim↑Pom etc)という作家をフォローせずして、このテーマを扱うのはとても難しいのではと思いました。

それよりも、「メモリー/メモリアル 65年目の夏に」の展示に一層の違和感をもちました。メモリーをメモリアルにすることには、つねにどこかしら思い上がりというか、やってはいけないことが含まれてしまう。「メモリー」(広島におちた原爆の記憶)は、当事者によるのでなければ、それを扱おうとしたときにどうしたって社会に媒介されてしまったり、すでにあるイメージやイデオロギーに媒介されてしまうものだ。この危うさ、恐ろしさを意識することの難しさ。まあ、簡単に言えば、なぜChim↑PomはNGでここに展示されている作品はOKなのかがぼくにはよく分からないのです。それに加えて、ここに展示されているどの作品よりも、Chim↑Pomの作品の方が優れていると思わずにはいられないのです。そのあたりのことの始末がついていないのに、平然とこうした展示が展開されている、そのことに薄ら寒い気持ちにさせられました。

そして、その足で、平和記念資料館を見に行きました。この展示を「美術」という視点から見るならば、どの広島(原爆を扱った)美術もこの展示にはかなわない、そう思いました。「美術」という視点を外して、ではありません、「美術」という視点から見て、かなわないと思ったのです。多分、「広島美術」の作り手は、自分の作品がこの展示に並べて評定されると考えてはいないと思います。思っていたら、内容(取り組み方)が変わる気がするからです。まず、おそらく、絶対駄目だ、勝てない、と思うはずです。その上で、自分はどうそれでも拮抗するなにかを生むかと考えるはずです。そう、「メモリー/メモリアル」の作品にはここと「拮抗する」ものにするという発想はきっとない、と思いました。平和記念資料館の展示は、「美術」の視点から見れば、プロセスアートの展示です。ぼくは即座にロバート・スミッソンを思い出しました。テクノロジーを利用したロマンティシズムを現実の空間に展開してみようとしたのがスミッソン的アートであるならば、そのひとつのエクストリームとして、原爆投下とその結果としての資料館の展示を見ることが出来る。もちろん、この資料館は、悲惨な原爆投下の現実を忘れないようにし死者を弔い平和を祈念する場所です。それはもちろん、そうです。けれども、資料館は、その思いへ見る者を導くのに、見る前に予想していたように、過度に感情を煽るようなことをしていませんでした(少なくとも、ぼくはそう思いました)。むしろそこで起きたことを追体験させ、そこで起きた事実へと見る者を向き合わせることに重心が置かれていると思いました。実験芸術が、「もし~したら」→「こうなる」という指令と応答(結果)のセットからなるものだとすれば、そのエクストリームがこれなのではないか。これ以上の実験はありえない、してはならない、けれども、過去に現実としてこういう結果として行ってしまった。そこに向き合うこと。その点で、もちろん高熱で歪んだ瓦や、燃えた衣服や眼鏡なども印象的だったのですが、もっと考えてみたいのは、生き残った方たちの手による絵でした。決して優れた絵画ではないかもしれないけれど、そこでなにが起きていたのかを伝えるのに十分説得力のある絵。ここに、絵のポテンシャルを見ることは無意味なのでしょうか。絵になにができるのか、そうしたことを考えるのにふさわしい対象としてこうした絵を見つめることはありなのではないか。そんなことを思いました。

その後、ひろしま美術館に行きました。夕食には、ひろしまつけ麺を食べてみました。昼は、麗ちゃんでお好み焼き。小麦粉がもちもちしていて、これが本場かと。

翌日は、京都へ。携帯でやりとりして竜安寺の枯山水の前で寝そべっているKATメンバーと合流。はじめてのKATでの旅行。超まったりペースで京都を満喫。祇園 小森で一時間以上だべる。銀閣寺近いけど明日に回して、夕暮れの時間は鴨川土手でさらにまったりを選択。近くの居酒屋で三時間くらいまただべる。

3日目は、単独行動させてもらって、午前中は、京都国際マンガミュージアムで、フィギュアの特別展を見て、さらに京都国立近代美術館にて、「「日本画」の前衛」展を見る。そこから南禅寺に行って、狩野派のふすま絵で踊る虎たちを堪能。無茶かわいいのだ。石庭でしばらくぼーっとしていたのだけれど、あれはやはりいいですね。ぼーっとするのには、何も考えるのではなく無意味に脳を働かせることが大事なようで、無意味に働くために、巨石とか松とかあるんですね。巨石が3つ並んでいるのは、虎の親子なんですと、境内に響く自動アナウンスが教えてくれたときには爆笑してしまいました。だって、ただの石にしかみえない。それを虎に思うこの無意味なイメージの遊びに耽溺しているときこそ、無心なのか、と思ったり。そして、この時点で2時くらいだったのですが、バスで駅の方に向かって、新福菜館へ。何年ぶりだろう、あの黒い焼きめしが忘れられなくて忘れられなくて(でも、せっかく京都に来たのに焼きめし食べるのもなーというのがあったりして)、ようやく食べることができました。やっぱり、美味い。とても美味い。ラーメンも美味い。見ていると、ほとんどのお客がチャーハンとラーメンを注文。1200円くらいになるのに、みんなそうやって注文している。そのあたりが、この店の人気を物語っている気がした。

祝!快快

2010年09月05日 | Weblog
もう少しブログ更新のペースを速めたいなあと心で思いつつ、まったく実行できず。8月は論文書くのにからだぼろぼろになりました(あまりよくない感じのできものとか顔に出来たりして)。

artscapeの八月分がアップされました
8月は月末に体調を悪くしたりして、大事な二本を来月回しにしてしまいました。Chim↑Pomの「Imagine」とロロの「ボーイ・ミーツ・ガール」です。あと、プレビューを提出し忘れました!しばしお待ちを。

ところで、快快がチューリッヒの演劇フェスティバルで賞をとったそうです。おめでとう!

9/2-3に青森旅行に行ってきました。
十和田市現代美術館青森県立美術館をはじめて見てきました。しかし、1日目、なんと十和田は、メンテナンスのために臨時休館してまして、なかに入れなかった(泣)のですが、それでも、ガラス張りの建物の構造故に、なかに入らずしてかなりの作品を(なんとなくですが)見ることが出来ました。窓越しのロン・ミュエクおばさんetc.。道を隔てた向かいの公園には、草間彌生の作品がジャングルジムや動物の乗り物のように展示してあって、美術館が日常へと広がってゆく感じがとても面白く、なるほどこうやって現代美術を活用する方法があるのかと思いました。2日目の青森県立美術館も、現代美術の今日的なあり方について考えさせられる展示でした。奈良美智の展示。よかった。奈良の強さをすごく感じた。美術史的文脈から自由に、躍動する子供たち。とくに今回は、音楽との関係が気になった。ギターを下げた子供の絵の下に「1.2.3.4」と数字が書いてある。どうみても、これは曲のはじまるときのかけ声だ。見ていると、かけ声が聞こえてくる。それはきっと「パンク」ミュージックを聞いたことのある者ならば誰の頭からも聞こえてくる声だろう。そこに理屈はない、誰もが感じられる躍動だけがある。あと、そうした情熱の絵画化と関連するのだけれど、奈良には宗教性がある(キェルケゴール曰く「信仰は人間にとって最高の情熱」)。村上隆には、こうした側面が希薄だ。奈良にしかできないこと。ここに、なにやら興味深い秘密が隠されているように思われる。

Iは「嵐を呼ぶ男」で、退院する日も、妻の実家から引っ越す日も嵐のような天気だったが、今回も1日目の夕方、突如、台風上陸のニュースが入って驚かされた。2日目の午前中、八甲田山を登って降りる間、嵐に見舞われた。

なんとかキェルケゴール論文脱稿。「國學院雑誌」に掲載予定。キェルケゴールのことを考える機会にはなったけれど、ドゥルーズのこと(主に「生成変化」や「シネマ」のミュージカル映画論)とミュージカル映画(ジーン・ケリー論)のことまで展開できなかった。そのあたりについて、もう一本、夏休み中に書きたい。

とかいって、目下のところ、課題は泉太郎論。秋に彼の個展があり、それに向けて書いてます。

それと、室伏鴻について論考を依頼されているので、それもやらねば(8月のsnacで突如上演された「常闇形」はよかったっすよ~~~)。

あと、アウトサイダーアートについても考えたくて、実は今一番勉強したいのがこれで、さてそんなあれこれ考えているとまたからだがあちこち凝ってきた、でも「アート・アフター・アート」(「アート」が終わった後のアート)について本気で考えなきゃな感じが益々高まっている、そんな気がしてしょうがないのですよ。