Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

サンガツpresents"Hello World!"

2008年10月26日 | ダンス
10/25
えっと、どうもすいませんでした!
ことの発端は、10/22に

「突然なんですが、

今週土曜日1日あいていたら、スーデラでやるイベントにでませんか

ファイファイマーチをやるのですが、参加してくれたらと、、」

と快快のKさんから突如メールが入り、イベントのことは知ってはいたものの明らかに間違いメールだと思ってそういう返事を書こうとして、「い、いや、、、待て」とあらためて考えてみて、「マジか」と疑いつつも、彼らがそうしたいのならば、、、ということでオッケーのメールを返したのでした。当日三時にリハに合流、アニキと快快で1時間練習して、それで本番。「マーチ」は、誰でも参加出来るダンスという狙いがあるのだろうと「吾妻橋ダンスクロッシング」で見て思っていたので、アニキやぼくの参加は(半分はメンバーが足りない故のピンチヒッターなんだけど)、そうした外部も巻き込んで一緒に踊る行進したい、という彼らの意図を示すことにもなる、、、ということになるのでしょうが、まさか自分がこんな形で出演するとは、、、怖ろし快快。

と、自分のことはもうこれくらいにして、このサンガツ主催のイベントは、ちょっと歴史に残る素晴らしいものだったと言っておきたいです。ぼくが個人的に神村恵や快快をずっと評価してきたから、ということも当然あるわけだけれど、そんな彼らをサンガツがこんな風にスーパーデラックスというコージーな空間で並べて見せてしまったということに、感動と正直、嫉妬とが生まれました。DCのストイシズムと吾妻橋のポップとが、こんなにうまくミックス出来るのか!DCとも吾妻橋とも違う面はもちろんあるんだけれど、並べてみることもまた出来る。何より、いいと思ったのは、観客の集中力と楽しんでいる感じが、場を盛り上げていったところで、それが、難解にも受け取られがちな神村のダンスをすんなりと味わえるものにしてたと思うし、快快と神村を並べて見るというぼくからすれば違和感はないけれど多くの人にとってはなかなかそうはなっていない現状のハードルをすんなりと飛びこえさせてしまうことにもなってた。おそらく、演目が快快→サンガツ→神村という順だったことも功を奏していたと思う。つまり、真ん中がサンガツというのが、ちょうどよりポップな快快とより難解な神村との蝶番の役をスムースに果たしていたのだった。ということは、サンガツというバンドのふところの広さ、ポップと難解さとの振り幅をもっているということが明らかになったわけで、いや、サンガツの演奏には本当に興奮した。ドラムが四人でギターが2人でベースが1人という編成は、もうその時点で、なんだか全員がわがままな中学生バンドみたいな風情があり、つまり自分はドラム!俺はギター!と、アンサンブル無視して各自が自分の欲求のままに楽器を持ち寄ってしまった、みたいなところがあって、ギターをはじめて買ってはじめてアンプにプラグを差し込んで「ジャーッ」とコードも押さえずにただ、嬉しくて嬉しくてピックをおろしまくる中学生の熱情が、そのまま「音楽」の体裁をとってしまっている。もうほとんど奇跡みたいに、強情なエナジーを観客が共有出来るものになっているところがまさに「音楽」の体裁をとっている故、その故のなせる技なのだけれど、観客がキャーキャー興奮しながら興奮のヴォルテージを膨らませていきながら、ただそのためにだけ演奏が続けられていることに、演奏というものの可能性がぐっと迫り上がって来た。いや、ほんとに、いまの中学生はこういうバンドをやればいいのに。80年代の中坊がボウイのコピーに勤しんだように、00年代の中学生がサンガツの真似をすればいいのに。

サンガツpresents"Hello, World!"

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2008年10月25日 | Weblog
10/25
一ヶ月くらい前だったか、講義の前にたまたま研究室でラジオを付けていたら、高城剛がインタビューを受けていて、インターネットの情報というのは、二級のものだからネットではなく現実世界から情報を採り入れる方がいいというようなことを言っていて、確かに、例えば自分がブログに書くことというのは、雑誌に書く文章のあまりもののようなところがあって、本当に重要なことじっくり考えたことはブログでは書いていなくて、自分のことを考えてもネットは二級は分かるところがあるな、と思っているうちに、いまの不活性なエントリー状態になっています。ネットの有効性は確かにある。紙媒体に書かせてもらう努力や紙媒体を自力で作る努力に比べると楽に自分の意見が公表出来る。最近も、あまりにあんまりな誌面構成・時評文の質になったと思って、あの雑誌のオルタナティヴをどうにか自力で出来ないものかと考え、さしあたりやっぱりネットを使うべきかなとか思っていたところではあったのだけれど、それでも、大事なことは、情報よりもコミュニケーションというかコンタクトだと、結構切実に感じるようになっている。で、高城のインタビューをネットで(アレ、、、笑)見つけたので、貼り付けてみます。
高城剛「21世紀の正体」

『REVIEW HOUSE』の第二号が出ました。以前からお話ししているように、ぼくは会田誠と彼の周辺の若手作家達(とくにChim↑Pomや遠藤一郎)は、似て非なる存在であり、両者の差異を分析することで、今日の日本の美術がその相貌をあらわすのではないか、といった原稿を書きました。キーワードは「アイロニー」です。「アイロニー」は僕だけのキーワードではなく、パラパラめくると何人かの書き手が同様にアイロニーを問題にしています。そして、考えていることは、大方共通している。自分が書いたからということ以上に、是非RH読んでみて欲しいです。ここから始まる何かがある気がしてしようがないです。サブテキストとしていま書店に並んでいる堀北真希が表紙の『クイック・ジャパン』遠藤一郎インタビューもあわせてお読み下さい。あと、RHでは、この十年くらいコンテンポラリーダンスをフォローしてきた3人の書き手が寄稿しています。この3人がひとつの誌面で書くというのははじめてのことで、内輪的な話ではあるけれどとても画期的なことです(ぼくはこの件に関して何もしてません、編集者さんの尽力の賜です)。ただ、桜井さんは庭劇団ペニノ、武藤さんはアジアのダンサー、でぼくは現代美術と3人とも日本のコンテンポラリーダンスを取り上げていない。偶然でしょうかね。(ただ、小沢+桜井+木村の鼎談とか、鈴木ユキオ、神村恵のテクストとか、日本のコンテンポラリーダンスがまったく無視されていると言うことはなく、むしろ例外的にフォローされているというべきでしょう)



なんとなく

2008年10月18日 | Weblog
最近、こちらに何かを書き付けることにあまり意欲がかき立てられなくなり、それは一体何でなんだろうと思いながら、日々のことどもに忙殺されつつ、そういう「どうして書く気が起きないのか」ということくらい書いてみてもいいじゃないか、、、などとは思ってみたりもいするのだけれど、それにも意欲的になれず、秋という憂鬱を楽しむ季節にやられているということなのか、そもそも根本的な何かがもうブログというフォーマットに書くことを躊躇させているのか、それも分からず、確かに「吾妻橋ダンスクロッシング」を見たり、大学の講義で大学生御用達系のファッション雑誌(20冊近く)をマップ化して、それについて授業したこととか(これにいまはまっている)、昨日は昨日で、多摩美術大学の活きのいい若手作家(二年生)のH君が主宰する「かえりの会」に参加して、20人ほどの学生の作品を見て、講評をするという、すごく楽しいのだが、夜が深まるにつれどんどん寒くなり、でも非公式の会なので教室を借りたりなんて贅沢はなしで、半野外のスペースにノンストップで四時間半という過酷な空間・時間でもあって、でもやはりすごく楽しくて、学生たちのまじめで暗くて誠実な話(いまどき聞けないよね、、、でもいまの大学生くらいの若い人って結構「まじめ」で「暗く」て「誠実」なのではないか)をじっくり聞いたこととか、いろいろとこれまでのブログに書いてきたようなことは、いろいろと身の回りで起きてはいる。

『文学界』『新潮』をめくれば、鹿島田真希の新作短編がそれぞれ載っていて、やはり圧倒的に面白く、青木淳悟の作品もちらっと読むとグーグルのストリートビューを素材にしたもので、これはある意味、徹底的にタスクないしインストラクションな作品だよなと思って、面白いと思ったり、東浩紀の「なんとなく、考える」も、ぐずぐずで、「(ふ)まじめ」についてで、まずどうしてここまで東さんというひとはひとの人気を気にするのだろうと思ったりして(その一種の演劇性が気になって、それとポストモダンの思想との関係とか、、、)、でも、そんなこと思うと書かないブログを気にしている自分のことに考えが進んで、不可視の読み手ということについて思いが及んだり。いろいろと考えているのだけれど、あまり前向きにならない。

現在発売中の『クイック・ジャパン』に、「遠藤一郎に会ってきた」というタイトルで、横浜・寿町にて未来美術家・遠藤一郎にインタビューしたときの記事が載っています。彼は重要です。どう重要なのか、迫ってみました。ご一読下さい。ちなみに、ぼくのページの手前には、「超詳解!20世紀ダンス入門」でお世話になったプリコグ代表・中村茜さんのインタビューがありましたよ。

あと、そろそろ『REVIEW HOUSE 02』がどうも発売しそうです。出版予定の8月が9月に9月が10月になっていましたが、10月が11月に変更することなく、どうも出そうです。Aが家でそわそわしてます。ぼくは小沢康夫さんと桜井圭介さんと日本のコンテンポラリーダンス周辺の「流通と批評」という観点から鼎談をしました。今世紀のダンスの動向がかなりの程度明確になるだろう記事です。それと、単独では「彼らは「日本・現代・美術」ではない」というタイトルの批評文を書きました。もちろん椹木野衣さんの『日本・現代・美術』について言及していますが、会田誠とChim↑Pomや遠藤一郎は似て非なる存在ではないか、二組の間には時代を画する何かがあるのではないか、という問いを中心に据えて20枚にまとめました。簡略的にいえば、「ポスト戦後的美術の動向」ということになるでしょうか。こちらも、ご一読を願います。

それといま、一年前に開講したBRAINZ「フィジカル・アート・セオリー入門」の書籍化に向けて原稿を書いている最中です。乞うご期待。

DC2は批評文を募集します。(3)

2008年10月05日 | DIRECT CONTACT
9/9-11に行われたDIRECT CONTACT Vol. 2では、批評文を募集しました。先月末に締め切りとなりましたが、予想以上の投稿があり、大谷さんと会場のTemporary Contemporaryのスタッフの皆さんとで驚きまた感謝しております。近々、大谷さんと審査の段階に入る予定です。印象ですが、若い書き手が多いように思います、その点もとても嬉しいことです。

投稿してくださった皆さん、どうもありがとうございました。

もし投稿の原稿をいまだ執筆中の方がいらっしゃったら、早急にお送り下さい。

9/13-9/29

2008年10月05日 | Weblog
ずいぶんと間が空きました。備忘録的につらつらと最近あったことのメモ。

9/13横浜トリエンナーレ
横トリ初日。Joan Jonasのパフォーマンス公演があるとのことで、まずそれを目指して午前中から動く。ダンテの朗読にあわせて、映像や舞台上の仮面などを用いたパフォーマンスや、カメラにオブジェを写してアニメーションのようなものを作ったりとか、そうしたさまざまなことどもが舞台上で重なり合う。
赤レンガ倉庫のブースは、具体や土方巽や風の旅団などの映像を上映。チェルフィッチュ「フリータイム」も。続けて新港ピアのブースにも行くが、全体的にぼわっとしていて、作品の力強さがあまり感じられない。作品解説が不十分なのではないかとAの解釈。パフォーマンス・アートに焦点があるのは好感をもつところではある。ただし、これではパフォーマンス・アート嫌いを増産するだけばかりではないか。BankArtにも行く。オノ・ヨーコ「カット・ピース」。しゃがむパフォーマーから衣服代わりだろう白いテープを剥がしてみる。ハサミで切る野蛮さはない。ただ貼りついた糊を剥がすめりめりという感触は、パフォーマーの身体に間接的に触れる行為ではあった。中西夏之の絵画作品は、倉庫の改造した会場のワイルドさにさらされて、日光にもあてられて、ちょっとかわいそうに思う。脆弱なるキャンバス。

9/16-17箱根→鎌倉旅行(出張)
ポーラ美術館にて、レオナール・フジタの子供を描いた作品を見る。神奈川県立近代美術館にて、岡村桂三郎見る。

9/19清澄白河のhiromi yoshiiにて、泉太郎の新作。複数のビデオカメラと複数のテレビが交差しあい、重なり合い、重層的な映像をライヴで生成している。扇風機はカメラの前に吊られた切り絵の動物たちを揺らす。映像を見る者は茶の間のような引きこもれる場所が与えられずに、映像の一部になることを余儀なくされる。スタジオであり居間である居間でありスタジオである空間。
Dance As!a「Encounter: ジェコ・シオンポとディック・ウォン」(@森下スタジオ)を見た。「異質な他者との絶え間ない接触と共生が大前提とならざるをえない空間としての「アジア」なるもの」(当日配付資料)、それが立ち上がってくる空間を生み出し、「そこにおいてダンスはどんな可能性をもつのかと考えてみること」(同上)が、Dance Asiaの基本コンセプトなのだという。ジェコ・シオンポはインドネシア、パプア州のダンサー。『Tikus-Tikus(ネズミ)』『The Behind is in Front』10分程の2作を上演。ちっちゃくて、まるっこくて、手足が短くて、顔の大きいダンサーは往々にして魅力的なのだ。何故か。動きが小さくてはやいのと、短さが不十分な印象を与え、しかしそれによってリハーサル的な軽さ、いい意味での適当さを感じるからではないか。ちょっとへんなくせもあって、無駄な動きが、思いがけず、ちょっとしたスリルも生んでいる。見慣れない新味なダンスは、ユニヴァーサルな尺度も日本国内の尺度もうまく当てはまらずに、どう評価していいのか戸惑う。けれども、そこに「アジア」という中間的な尺度があるともいいきれない。ヒップホップの要素にミックスするシオンポの独特な身体からは、ポストモダンの多元性とマルチカルチュラリズムの多元性とのどちらも感じるのだが、そうした多元的なものを肯定するというだけではいまやあまり作品の価値を感じ取れなくなっているわけで、こうした作品にどう向き合うのかというのは、とても難しい問題だと思う。もうひとりのディック・ウォンは香港で活動するアーティスト。捩子ぴじんとのデュオ作品で、2人は、互いに相手の振りを交換したり共有したりする。先に挙げた言葉を使うなら多元的な世界での互いに異質な者の出会いが、テーマとなった作品。きわめて優等生的な作品。けれども、ここにあるのは「アジア」という切り口というよりは、各人のルーツであり、交換する試みとそこに生じるある一定の満足であろうか。ともかくも彼ら2人のダンサー、アーティストは、いまの日本にない個性を見せてくれた。その点で、こうした発掘作業を継続的にこのDance Asiaの制作者たちがしてくれるのなら、見る者はその度に何かを確実に得られることだろう。ただし、何故「アジア」という枠組みなのか?という疑問は残る。自分たちがアジアの一員だからというのは、安易だろう。これが「アジア」だという強い印象を、とくにダンスの分野においてどうしたら観客の内に引き出せるのか。「アジアの身体性とは何か」という問いをつきつめた先にその方途が見えてくるのだろうか。

9/20横浜・寿町にて未来美術家・遠藤一郎にインタビュー
すでに脱稿しているのだが、『美術手帖』と同サイズのサブカル雑誌誌面において遠藤一郎へのインタビューが出来ることとなった。初・寿町。すごい。もうなんていえばいいんだろう、空気の中になにやらひとを脱力させる薬が含有されているみたいに、そこここにいるおじさんたちは、みんな一様にだらーっとしている。地獄のようなところかと思っていたが、そのディストリクトに入ってしばらくして、ここは本当は天国なのだと分かった。職安の二階の野外でインタビュー。途中で救急車は来るわ、2人の目の前でひとが担架で運ばれるわ、ギャングのような子供たちが、騒がしく団地でドラゴンボールごっこしてるわ、お母さんは子供を叱って「鳥の糞はさわっちゃだめよ!」と絶叫するわ。

9/21勅使川原三郎「Here to Here」(@彩の国さいたま芸術劇場)
三方を取り囲む白い壁は実は膜と言いたくなるような布で、明るい白い空間は、その背後にいる者が影絵であらわれたり、幻想的な場にも変貌する。膜の柔らかさが硬質な勅使川原の身体とうまく響きあっていない気がした。ゴスな雰囲気とか、面白いようにも思ったが、全体としては単調な印象をもってしまった。
Chim↑Pom「オーマイゴッド 気分はマイアミビーチ」(@無人島プロダクション)
エリイ作の映像作品がちょっとよかった。「ERIGERO」にちょっと似ていて、椰子の木の木屑を吸飲する。

9/24多摩美のHくんとKさんとで打ち合わせ(下北沢)。多摩美周辺で今後イベントがはじまる予定。
会田誠「ワシはミヅマの岩鬼じゃーい!!」(@ミヅマアートギャラリー)
「判断力批判批判」という作品は、岩波文庫のカント『判断力批判』を一枚一枚ディスプレイして(壁一面を使って)、そこに落書き(ドローイング)がなされているというもの。会田はほんとに勤勉だと感じる。カントまで、会田のフィールドに入ってくるのか。美学・美術(の受容)批判としての会田美術のさらなる前進。愛憎。アイロニー。五階では、武蔵野美術大学の学生とのコラボ作品が展示してあった。ゴシック美術(教会)を元ネタにして、ダンボールでオブジェを制作せよとのインストラクションが学生に課せられていたらしい。

「都市のディオラマ」(@トーキョーワンダーサイト渋谷)
エキソニモ、アレックス・ガヴロンスキ、パラモデル、ゲイル・プリースト、ティム・シルバー、鈴木ヒラク

9/25後期の講義開始。

9/28「THE ECHO」展(@横浜ZAIM)
最後に見た泉の作品には、何というか素直に面白いと思えたのだが、それ以外のほとんどの作品には、ぴんとこなかった。なんか痩せた、髪型が鬼太郎みたいなよく見る若者の姿を透かし見ていた。どうしても「かっこつけ」ているように見えてしまって、それはおやじ(=ぼく)の愚痴なのかもとも思うので、若いひとの感想とかも聞きたいのだけれど、ぼくの周りの若者はもっと批判的なこと言っていたので、どう考えればいいのかよく分からない。等身大の自分を表現することに専心している気がして、芸術というのは自己表現に他ならないということなのか、、、そんなことも無いはずだ、、、などと。
川上幸之介、鬼頭健吾、田幡浩一、名和晃平、泉孝昭、榎本耕一、秋吉風人、大庭大介、星野武彦、政田武史、渡部豪、さわひらき、榊原澄人、天野亨彦、磯邉一郎、大野智史、竹村涼、泉太郎、増田佳江、山口智子、青山悟

大橋可也&ダンサーズ「Black Swan」(@BankArt NYK)
THE ECHO展の後、ZAIMから歩いてNYKへ。小雨がちらちらでも本降りにならずに終演してほんとに良かった、などと身内のような気分で見てしまった野外公演ヴァージョン。ダンサー(人間)は、横浜の年季の入った町並みの建物や道路等々と比べるととてもやわだ。そうした硬質なオブジェ達に囲まれた「Black Swan」は、月島のギャラリー・スペースで見るよりも、当然だけど、現実とぶつかり合っていた。遠くに見える車の流れが、シリアスな雰囲気をつくる音響とともに見るときには、まさに緊急事態で過ぎゆくもののように見えたりした。大橋作品で重要だと思うのは、記憶を喚起させるところだ。「緊急事態」をリアルに透かし見てしまったのは、ぼくの「緊急」なあれこれの時が想起させられたから、だと思う。記憶を喚起させる装置が振り付けとか、照明とか音響とか、さまざまに備え付けられている。それを可能にするデリケートな手つきが大橋作品らしさだと思う。それはなんだかときに催眠術のように感じる時がある。

9/29 イオネスコ「瀕死の王」(@あうるすぽっと)を見た。