Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

オシム

2010年06月21日 | Weblog
「チャンスがあればものにするという、殺し屋の本能が足りなかった」(オシム 0対1で終わった対オランダ戦について)

「もっとスピーディーなプレーが必要。ピッチの上にソファを出し、葉巻をくゆらせるような選手になって欲しくない」(オシム 中村、遠藤に対して)


オシム!

2人が見ている未来の美術

2010年06月20日 | 美術
SNACにて7/10にトークイベントを行います。

今年は個人的にぼくが会ってみたい魅力的な作家、制作者の方たちを誘ってトークするということに力を入れてみようと思っていまして(ただただ自分でそう思って実行しているだけなんですけど、いやほとんど気づけばそんなオファーをあちこちにしているという自分でもわけわからない状態なんですけれど!)、まあ今のところどこのメディアともつるんでいないのですけれど、可能ならば機会を見てどんどんやっていこうと。下の快快もその一環なんですが、この高橋さんと伊藤さんにお話を聞くというのは、ぼくにとってはかなり特別なものです。

2010年代のはじまりに、わくわくするような企画を産み出しているお二人。お二人の思いの中に美術の未来みならずアートの未来が隠されているような気がするんです。これは予感ですし漠然としたものですが、予感こそ大事なんじゃないかと思っている今日この頃です。

乞うご期待!

快快を招いて!

2010年06月17日 | 演劇
来週の火曜日
6/22
16:30-18:00
に、先日の『SHIBAHAMA』で新時代を切り開いた(本当にすごい、画期的な公演でしたね!)快快(北川陽子さん)をお招きして、お話しを聞くイベントを大学内(西生田キャンパス)で行います。

ゼミが四限にあって、そのゼミメンバー(有志)が五限にも残って何かする「火曜五限の会」というものをやや無理矢理今年度からやっていて、いまのところ毎月ゲストを呼んでぼくが話を聞くというのが主たるコンテンツになっているんですけれど、それは「ひょっとしたらちょっと芸術というもの、好きじゃなくなっているかもしれない」ぼくがもう一度芸術を好きになるリハビリテーションを兼ねています。

4月は、壺中天の村松卓矢さん、5月は期待の美大生平川恒太くんと高田冬彦くん、そして6月は快快、北川陽子さん(もしかしたら他のメンバーも来てくれるかも)!です。

(7月は、大学を飛び出して、さらに一層ユニークでわくわくする企画を準備しています、後日また告知します)

もし聞きたいという方がいらしたら、連絡下さい。
USTとかも考えたんですけれど、こないと聞けないという方が、いいんじゃないかなと思ったりして、あるいは「ここだけの話」といいながら話す話にこそ聞くべきことが詰まっているかもしれず(USTでの中継がなんとなく話の内容や方向を限定させてしまう可能性を危惧して)、そう提案します。来たいけど連絡ってどうすればいいの?という(ぼくのメアドが分からないひと)は、どうかがんばってメアドを探してみて下さい。(←答えにもアドヴァイスにもなってない!)

ちなみに、JWU大生は、もちろん自由に出席してくれてかまいません、どうぞ、連絡なしで28教室に来て下さい!

ああ、あの一個だけ。
最近見たんですけれど、『魔法にかけられて』とChim↑Pom(例えば「BLACK OF DEATH」)の繋がりというのは、誰か研究しているのでしょうかね。

I日記

2010年06月09日 | I日記
artscapeのレビュー/プレビューがアップされました。

いま十川幸司『来るべき精神分析のプログラム』を読んでいます。読んでいる途中ですが、Iのことを考えるのに役に立ちそうなところを抜粋します。

「さて、ここで自己システムと社会システムとの関係を考える上で参考となる一つの情景を想定してみることにする。それは、乳児が両親のコミュニケーションを傍らで聞いているといった、どこの家庭でも見られるごくありふれた光景である。そこでは両親は会話をする一方でときどき乳児にも話しかける。しかし乳児にとって両親の言葉はコミュニケーションとして機能しているのではなく、単に音を聞いているに過ぎない。つまりこの場面において、コミュニケーションは乳児の外部で作動していて、乳児はここで形成されているコミュニケーション・システム、言い換えれば社会システムの外に位置している。このような状況から、自らがコミュニケーションを生みだし、コミュニケーションの連鎖を形成する状況へと移行することが、乳児の自己システムが社会システムと交差するということである。それがどのようになされるかということがここでの問いになる。」(十川幸司『来るべき精神分析のプログラム』p. 74)

「このようなシステム論的な観点から、フロイトのエディプス・コンプレクスの構想を改めて捉え直すならば、エディプスとは自己システムと社会システムがカップリングを形成(および調整)していく過程で生じる自己システム内の作動上の変化だと再定義することができる。」(p. 76)

「フロイトのエディプス・コンプレクスは、両親に対する欲動水準の葛藤が、三歳から五歳までの性器的段階にある子供に起こることだが、クラインはその同じ葛藤が生後六ヶ月の乳児の心的世界においてすでに起きていることを見出した。これが彼女が早期エディプスと名づけた状況である。」(p. 77)

「早期エディプスは、クラインが児童のプレイ・セラピーから得た着想であり、彼女は零歳児が抱く空想を視覚的な形で鮮やかに示している。生後三、四ヶ月の乳児は、母親の身体の中に(赤ん坊やミルクなどの)宝物が満ちていることを妬み、母親に攻撃性を向ける。この攻撃性は生後六ヶ月からの離乳期にピークに達するが、この時期のフラストレーションを、乳児は母親の内部にあるペニスに口唇的欲求を向けることによって解消しようとする。これがクラインが描くエディプス状況である。」(p. 78)

I日記

2010年06月06日 | I日記
いまぼくは片手でこれを書いてます。左腕にIが寝ているからです。

とても不思議なことだけれども、そしてちょっと恥ずかしいことでもあるかもしれないけれど、ぼくは、Iがぼくに似ているのではなくてぼくがIに似ているのではないかという思いにとりつかれている。Iのなかに自分を見るのではなく(探すとしたら自分のというより妻の面影だったりする、いや、一番やってしまっているのは父の面影探しだ)、自分のなかにIを探してしまう。なにをしているんでしょうぼくは。Iが言語を話すようになったらぼくは「父」をやることになるだろう。その手前の不思議な時間。

Iはともかくダンスや歌が好きだ。乳児に共通のことなのだろうか。昨日は、朝、『シェルブールの雨傘』を一緒に見た。ギャハハ笑っていた。

昨日は、外出日。大学での仕事を四時頃終えると、夕方には國學院大學の常勤・非常勤の親睦会に出て、さらに夜にドイツの大学で舞踊論の博士論文を提出した旧友と渋谷のカフェ・アプレミディ(久しぶりに行ったら座席数が増えていてその分賑やかに、若干猥雑になっていた)でおしゃべりした。

I日記

2010年06月03日 | I日記
「幼年時代やその他あれこれの思い出からは、どこか買い占められていない感じ、したがって道をはずれているという感じがあふれてくるが、私はそれこそが世にもゆたかなことだと考えている。「真の人生」にいちばん近いものは、たぶん幼年時代である。幼年時代をすぎてしまうと、人間は自分の通行証のほかに、せいぜい幾枚かの優待券をしか自由に使えなくなる。ところが幼年時代には、偶然にたよらずに自分自身を効果的に所有することのために、すべてが一致協力していたのである。シュルレアリスムのおかげで、そのような好機がふたたびおとずれるかに思われる。」(ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』岩波文庫、pp.71-72)