Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

小西真奈美というホラー

2006年05月31日 | Weblog
そうか、月曜日もやってたんですね『モーターサイクル・ドンキホーテ』。見に行けばよかったかも、と少し後悔しながら、愛読する宮沢章夫ブログのなかに、青土社のMさんというひとの本作の劇評が載っていて、そこに、〈「人はなぜ女優になるのか」。この問いへの答えは、意外にもあっさりと提示されます。「なんとなく」。これが事実だ。〉とあり、何か気になったのは、日曜日に情熱大陸を見たからだ、きっと。その日は小西真奈美がフィーチャーされていて、見るともなく見ていたのだけれど、しばらくしたら「このひと、ちょっと怖い人だ」と思えてきて、徐々にゾクゾクしてきた。ディレクターというかカメラマンの相当な思い入れを感じる番組は、小西の映画撮影の日々やカンヌでの映画宣伝の日々を粘着質的に追いかける。そこでの小西の表情になかなか「素顔」らしきものがあらわれないのが気になる。いつでも瞬時に生まれる笑顔は、見慣れた彼女の魅力を反復再生する、がその様子がどうも怪しい、と感じる。他人にとって魅力的な笑顔というのを知っていて、スッとそこに逃げる。小西にとって笑顔を作る(=演じる)ことは、本質的なものを隠すために行うことなのではないかと気づく。番組が進んでぞっとしたのは、素をルーツを感じさせないとぼくと同様のことを感じたのだろうディレクターが昔の写真を見せてくださいとお願いしたとナレーションした直後のテロップ。「ないんです」。何かこの「ない(本当にないかどうかよりも重要なのは「ない」と言って隠蔽してしまいたい何かが予感できる)」ことに根本的な何か、小西が女優になりたいと思った真理があるような気がした。現実的なもの(ラカン)が露呈するのをひたすら回避しようとする身ぶり、それこそが小西の笑顔ではないのか。

とすると、女優になるというのは「なんとなく」ではないぜ、という思いが噴出する。女優になることは、あるいはよりグリーンブラット的に言えば「役割演技」をすると言うことは、そうとう切迫した「やむをえず」ではないのか。あるいは、気づけばそうせざるを得ないような場に生きている、そういうものだろう。だから、女優をやめることは出来ないというMさんの結論はその通りだろう。というよりも、人生を生きることは俳優を生きることそのものなのだ、きっと。

でも、小西の笑顔がある「女優=人生」の真理を語っているとして、でも、何かもう少し「悠々」と女優=人生を生きることもできるのではないか、そうだったらいいな、とも思うのです。役を生きつつ、つまり「他者を同化すること」をしつつ、グリーンブラットが『驚異と占有』の序で挙げるバリ島人みたいにその際に「元の形状に戻る弾力」があってもいいのではないか、と思うのです。つまり、押しつけられる役割の中でひょうひょうと自分のしたいことを遂行する、といったようなこと、が。

でも、それも「現実的なもの」の恐ろしさを幼年期に回避することの出来た人間の無邪気な理想なのだろうか、などとも考えてしまう。と、そのくらい底知らずの「ホラー」をぼくに意識させた小西だったのである。

桜井さん

2006年05月30日 | Weblog
再コメントありがとうございます。と、さっきチェックしたんですれけど、ちょうどその前に事務仕事をしている場所で、武蔵野美術大学の美学美術史研究室が作っている『美史研ジャーナル』第3号に、久郷雄一朗という方の「対峙し続けるダンサーの身体 イヴォンヌ・レイナーとジャドソン・ダンス・シアター」という論考を見つけて、それがしかも「一九六七年のミニマリズム批判の論文「芸術と客体性」で美術批評家マイケル・フリードが看破したように、、、」と始まる論文で、レイナーとミニマリズムの関係をシアトリカリティ問題から論じるといったものだったんですね。ちと、いやいや相当驚きました。タイミングよすぎない?って。

で、そこの注に色々あるものだから、Yvonne Rainer, A Quasi Survey of ..., in Minimal Art (1968)をコピーしたばっかりで、今読んでいるところです。

あらためて、整理するつもりですが、さしあたり、こういうことが言えるのではないでしょうか。「ジャドソン・チャーチ派の運動は、方法としてミニマリズムを採用し、しかしその目標においてはモダニズム(フリード)と共通点を多く持つ」と。まず指摘しておくべきは大きなねじれです。

レイナーの場合、
モダンダンスversusイヴォンヌ・レイナー(ミニマリスム)
という対で左の旧体制に対して新しいダンスを唱えるの図、なのに対して、

フリードの場合、
ミニマリスムversusモダニズム
という対で、退行的に(フリードには)見える左に対して、右が正統でありまたモダンな姿勢として(フリードによって)考えられた観客と見る者との相互に自律した関係を求めるの図なんですね。

で、フリードはもちろんおおよそレイナーも、
(シアトリカル)versus(アンチシアトリカル)
の対になっているわけです。

で、だからそうなると、レイナーはミニマリズム的要素が方法の中に有りはするものの、目指されるものはモダニズムに近い、とも言えるわけです。久郷さんが述べているのを参照すれば、「観者なしに自律するダンス」をレイナーは志向している、のであって。(また、ぼくの考えでは、この点は、レイナー以上にカニングハムに該当すると思います。)

ただし、それは「ダンスの伝統と観客の期待とが常に共謀して構築してきた性的イデオロギーへの対決姿勢の表明」としてなのだそうです、久郷さんによれば。

んー、そうなると、どうなんだろ。フリード(モダニスト)が見る主体を確固としたものとしてつまり自律したものとして確立することを求め、それがどうも水槽をのぞき込むいわば窃視症的主体としての近代的主体を温存させることであったとすれば、レイナーの試みは、観者から自律する点ではフリード的で、しかし観者(が温存しているイデオロギー)に対して批判的な点では非フリード的ということになりそう。少なくとも、フリードがモダニズムの作品の特徴を瞬時性(内部で自律しており瞬時に感得できる作品)に見たのに対して、レイナーが強調しているのは、「Dance is hard to see」だし。その局面になるとミニマリスムとの親近性がやはり浮かび上がってくるというべきでしょうか。

それでやはり、その久郷さんもジャドソン・チャーチの空間ということではあるにせよ、視線の安全を壊すものとして、レイナーのダンスを捉えてます。

「このダンサーと観客との間の距離が限りなく縮小した空間において、観客は自分の視線を安全な位置に保つことが出来ず、ダンサーの身体の対峙が観者の観る行為自体を不意に当惑させ緊張を与えたりする。いわばダンサーの突然のムーブメントの変化は観客の身体感覚にダイレクトに訴えかけるために、伝統的な舞台と客席が仕切られた空間での観者の視線の安全は、このような空間では保証されないのである」

またあらためて書きます。

最近

2006年05月28日 | Weblog
ともかく首が凝って困っている。こりが、歯痛や耳のあたりの痛みにまで発展したりするから困る。

昨日は、瀧口会という研究会というか文芸サロンのような場所に顔を出した。バレエの経験者であり研究者でもある方が、最近、土方巽のことも調べていて、発表をするという話で、行ってみるとこれまでぼくが読んだことのある自著論文を紹介するというので、半分肩すかしだった。でも、半分は大満足で、それはすなわち『恐怖奇形人間』(石井輝男監督)を一部だけれど見ることが出来たからだった。いまや、よっぽど酔狂な企画の中ででないと見られないだろう、言うまでもなくDVDは出ないに違いないこの作品、土方が主役級で出演しており、また「奇形人間」の多くは土方の弟子たちが演じているというので、気になっていた。まあ、いざ見ると、隔靴掻痒、なんとなく煮え切らない、偽物っぽい「ヒジカタタツミ」が登場するだけなんだけれど。セルフイメージ(キャラ)を反復することに忙しい時期の土方の姿を確認した。

この研究者が言った言葉が気になっている。(ダンス)経験者でなければ分からないことがある、と。こういう考え方に一理あることは否定しないけれど、同じ言葉は、文学、音楽、美術、演劇、映画、スポーツなどでも言えるのだろうか。まあ、ある先生が会の時間の中で言っていたとおり、そのジャンルの「技術」が問題であるときには、しばしばそういう事態が起きる、ということはあるとは言える。サッカーのプレイは、サッカー経験者でなければ批評できない。でも、本当だろうか。経験者といっても幅は広い。「プロ」という言葉も実に曖昧だ。この議論を突き詰めれば、ロナウジーニョのことはロナウジーニョにしか批評できない、ということになろう。ロナウジーニョのプレイを正確に経験できているのは彼しかいないのだから。

技術の話になるとどうも「専門性」という言葉が幅を利かせはじめ、また閉鎖的になる気がする。「わかるやつにしかわからない」と。そういう面もあるだろう。けれど、この言葉はなにやら「わかるやつ」というのを限定したいという欲求から発せられるような気がするのだ。だって、誰にだって自分しか「わかるやつ」じゃないぜ、って言いたいことがあるのじゃないか。でも、そう主張するととたんに議論が閉じてしまう。だから大事になるのは、せめて「わかるやつ」がわかる範囲で「わからない」と規定したサークルの外の人にも分かる言葉で議論を展開することだろう。な。で、その努力において初めて、その特権性は、正しく効力を発揮するのだろう。

それにしても、踊れない人間がダンス美学をする、というのは実に肩身の狭いことだ。こういう気持ちを、音楽や美術の研究者は感じるのだろうか。

あれが終われば次はこれ、金にならない論文をこつこつと書き続ける日々。いまは、二本(+一本、かな?)の論文を整理している。一本は、英文で書くことになっている。こつこつ、と。

あっ、いまニュースのなかで妻有トリエンナーレのことやってる。そうか、冬には4メートル積もったあのあたりなのか。いきたいなー。一週間くらい居たい。ああ、そうしよう。A、そうしない?三年前に行ったとき(夜にニブロールの怒濤の「ノート」を見たのだった、ああ、ああいうの見たい、見たい!)は、棚田の感じがウブドみたいで、澄み切った空気と風の感じと本当によかったな。

別にぼくがお願いしたからではないだろうけれど、「えんぺ」に「モーターサイクル・ドンキホーテ」評がいくつか載っている。うん、「実験が実験しただけで終わっている。結果は宜しくないようでした。景色褒めてもしょうがないし。 (taka)」との評価が、気になる。そうか、宮沢章夫は「実験」したのか。「役割演技」は、そのなんだっけ「文化の流動性」(?)というテーマにひっかけられつつ、実験されたというのか。それとも、「シェイクスピアが試みたセルバンテス」という主題においてどう両者が刺激し合い、スパークするかという実験はあったのか。ぼくの愛読ブログ「富士日記2」を読む限り、地上波で放送の予定があるのだそうだ。それでぼくは確認します。

と雑文。

「サービス精神をすべて発揮」(小野島大)

2006年05月25日 | Weblog
ファットボーイ・スリムの評が、朝日新聞の夕刊に掲載されていた。小野島氏の文章でタイトルがこれ。まあまさにそんな感じだったなー。「すべて」とあるあたりが重要かな。「観客のほうを見ることもなく黙々とプレイする黒衣的DJも多いが、ファットボーイは手を振り、手拍子をうながし、愛嬌を振りまき、はては客席に降りてきて観客にエフェクターを操作させたりと旺盛なサービスを遺憾なく発揮。お客様を喜ばせることが自分の使命と思い定めた、その芸人根性には頭がさがる。」と。そういえば、先日行った大谷先生の「フランス革命」でも、演奏した狩生さん(ぼくより若い、というかAと同い年だから「くん」かな)が「お客さんから2000円くらいもらってんのに、今日のこの演奏では、、、」みたいなこと言っていて、どんなに小さなシーンの場合であれ音楽業界は経済観念(というかお客さんからお金もらっているという意識)が高いのかな、と思った。(コンテンポラリー・)ダンスの世界で、満足できない公演をしたダンサーが「すいません、お金返したいです」みたいなこと言わないものなー、冗談でも。

ところで、いま横浜レンガ倉庫で行われている宮沢章夫の『モーターサイクル・ドンキホーテ』が気になっているのですが、評判が聞きたいです。見た方、「えんぺ」に書き込みとかしてくださいませんでしょうか。結局日曜日の公演が売り切れで行けなくなったので、行くことに消極的になっているのです、が、つまり、日曜日のアフター・トークに「あの」グリーンブラット先生が登場するのですよね、それ聴きたかった一人なのです、ぼくは。『ルネサンスの自己成型』『驚異と占有』で有名なあのグリーンブラットが関わる今回の舞台、期待と不安が入り交じり、結局いまは行くことに消極的になってしまっているのです。けれども、そりゃ気になるわけです。どこまで、あるいはどういう仕方で「役割演技」によるブレイクスルーを宮沢氏が舞台上で語っているか、フォローしているのか、どうか。見たいような、見たくないような、、、是非どなたか、感想を聞かせてください。

桜井さんコメントへのアンサー

2006年05月23日 | Weblog
5/20付けの桜井さんからのコメント「単純な疑問 (桜井)」へお答えします。

>常識的に考えれば、実際に目の前にいる生身の他者ではなく(単なる)絵に描かれた人物が、こちらにまなざしを向けている(という仮定)だけで、絵を見る者に心理的バイアスがかかるものでしょうか?ちょっとフリードのこれ、論理が苦しいような気がするんですよ。

「論理が苦しい」と考える気持ちはわかります。ただ、フリードをフォローすれば、絵画に(絵画の)自意識を感じてしまうことがある、という前提から話が始まっているわけで、ドニ・ディドロなどが、十八世紀にロココ的な絵画とくにあからさまに顧客のニーズに応えようとしてこびている絵画に「わざとらしさ」を感じて、それとは異なる自然な優美(自分の行動に没入している優美)を絵画の振る舞いに求めた、フリードはそこに注目したわけです(『没入とシアトリカリティ』)。それと、「こちらにまなざしをむけている」絵画については別の文脈から論じるべきで、このあたりのフリードが対象にしている絵画は、歴史画かリアリスムの絵画で、肖像画のようなあるいは『アヴィニョンの娘たち』のようなストレートにこちらに目を向けている絵画については(没入やシアトリカリティの文脈では)論じていません。

>作者が描こうとする対象を捕らえる態度にはもちろん覗き魔的欲望があるというのはわかるんですが。

なるほど、そういう欲望もあるかも知れませんが、とりあえずフリードは基本的には見る者の側から議論を展開しています。

>それと、近年のフリードの研究はよく知らないんですが、彼が「客体性」「演劇的」ということを一番最初に言い出したときは、端的にロバート・モリスとかのミニマリズムのインスタレーション的彫刻を批判するためだったわけですよね。その際に、彼が言っていたのは、インスタレーション(=演劇)的な彫刻はあらかじめ作家が見方を(演出として)お膳立てしてしまうので、見る者の主体性、自由を奪うというような話だったと思うのですが、それも、ごく常識的に考えるとちょっとおかしいような気がする。だって、鑑賞者は自由に歩き回ることが出来るんだから。

見る者が、客体を見る主体として設定させられてしまうところにフリードのミニマリズム批判はある、ということがまずあると思います。それはいわば、劇場的構造を内包する絵画、に対する批判です。「見る者を主体とし、当該の作品を、、、客体とする」よう見る者を強要するリテラリズム(ミニマリズム)の作品にフリードは「舞台の現前stage presence」を見ています。
ただし、より重要なことは次の点だと思います。「それ[舞台の現前]は、リテラリズムの作品の押しつけがましさobtrusivenessの作用、またしばしば攻撃的でさえある作用であるのみならず、そういった作用が見る者に無理強いする特殊な共犯性の作用である」。リテラリズムの作品は、単に劇場的構造を呈示するのみならず、その構造の内に身を置くことを観客に押しつけてくるのであり、その「押しつけがましさ」こそ、フリードが批判する重要な点です。
それで、さらに重要なことに、鑑賞者が自由に動き回れたとしても、その際、ユニタリーなオブジェが並んでいるだけで見るべきものが乏しいという点があると思います。ある意味では、ミニマリズムの作品が呈示するシアトリカリティは、絵画史が克服しようとした事態そのものであって(とフリードは考えていて)、それをことさら観客に示したところで、だから何なの?という批判がフリードのなかに強くある、と言えるのではないでしょうか。
でも、これは個々の鑑賞者の受け取り方によって、評価が分かれるところかなとも思います。中身がないことから作品が始まるといった態度には、作品の自律性(作品内部の有機的関係性)をことさら重んじアンソニー・カロの彫刻などを尊重するフリードとは違った意味でのモダニズムが看取できるとも言えるからです。フリードはミニマリズムを斬る刀でケージも批判していますが、ケージの呈示するサウンド・スケープが実にユニークな瞬間に思えることもあるに違いありません。ぼくもそう感じることはあります。ただし、反対に、それが実にコンセプチュアルでまた「押しつけがましい」と感じる場合もあります。ノイズを、ある価値をもった「サウンド・スケープ」として聴くように説得されているように感じてしまう、なんてことが。フリードの批判は、後者に大きく振り子が揺れたときの感じを反映しているとぼくは思っています。

ただ、ミニマリズムの意義については、1968年のフリードだけで判定しても不公平だと思いますし、例えばハル・フォスターの『現実的なものの帰還The Return of the Real』(1996年)でのミニマリズムの扱い方なども参照して考えるべきだと思います。これについては、後日何か書くかも知れません。

狩生建志+小川てつオ+大谷能生、(音がバンド名)

2006年05月22日 | Weblog
の二組を見た聴いた。(一度書いたら、訳分からず消えてしまい、再度書いてみた関係上、ノリが悪い文です、はい。なんかもうちょっとうまく書けてたのだった、のに残念)

前者は、まず、キャップにキツネみたいなぬいぐるみの端切れを二つつけた長靴姿の小川が、サンプラー、ポータブル・レコードプレイヤー、音の出る洗面所のおままごとおもちゃなどにまじって、何かが入ったゴミ袋や段ボールなどをこすったり、揺らしたりして音を出す、そこに狩生がドラムマシーンをいじって応戦、といった感じ。低い椅子に機材などを置いて、見えるような見えないような感じでプレイし続ける小川は、小動物(リス)みたいなたたずまいで、冒頭いきなりツメを切る(?)など、不可解で意味不明な所作を、連続的に脈絡なしに連ねていく。対して狩生は、アフタートークで話していたように、小川にどう対抗すればよいのかとっかかりを見出すことが出来ぬまま、あたふたと現状をマイク越しに実況したり、キーボードをたたいてみている。という感じとかが意外によかったりする。瞬間瞬間に起きることに忠実であろうとするプレイは、うまくいかず巻きこまれている状態が呈示できているときこそ面白かったりする、ようだ。それをどう、わざとらしくなく設えることが出来るか。大谷が後半、管楽器で参戦する、ノイジーだが十分に「音楽的」なその音は、危うくこの音空間をわざとらしくしそうになる。猛烈に没頭する小川みたいな人というか状態がないとこの手のものは見ているものにとっても困る。というか、こまったなーと置いて行かれないと、コトははじまらない、のだ。

次は、(音はバンド名)。二人組。外見上で整理すれば、「学校ではぼーっとしている中学生が放課後盛り上がっている子供部屋をのぞき込んでしまった」感じ。ところどころで突発する、きゃしゃなひょろっとした体が内向きにけいれんしながらシャウトするときの腕の線がやけにユニークなのだった(アフタートークで判明したように、それはかなり自覚的にやっているもののようで、というかなにやら自尊心=ヒップ・ホップの傾向(?)に感染しているかのようなところがあって、「こう、動いた腕の線がそのまま伝記となって残る」ことが未来に起きることを疑っていないとのこと、ん?)。基本は最初期のファミコンをいじりながら実況をしたり、戦闘機の機能を解説したり、「ロックマンの新しいキャラクター」を思いつく、、、などをつぎつぎと進めていく。こっちはほとんどみない。けれども、漫才風のかけあいでのおしゃべりや、最初の方でテープ逆回しで何を言っているのかのクイズを客に応えさせたりするところなど案外こっちにコンタクトをするところもある。でも、それも届く1メートル手前くらいでワンバウンドして消えていってしまう、のだった。不思議な距離感。でも、確信犯的だ。こうしたカオティックな身体の揺れ、ふらふらした音をフォローする概念は(恐らく)音楽系もダンス系ももっていない。けど、これ、相当面白い、ぞ。

最後に、代々木公園(代々木上原駅でも代々木公園駅でもないですよ、公園そのもの)で暮らしているという小川さんが、ゴミってユニーク、ゴミに近づきたいとアフタートークで言っていたのが実に印象的だった。サウンドスケープに興味ある人は、結局すべてを価値あるオブジェとしてみる、聴くと言うよりは、すべてを等価なゴミとしてみる聴くべき、というメッセージと受け止める。キノコ学会まで作ってしまうケージが音楽は「マッシュルーム」というのとは異なり、小川が音楽は「ゴミ」と言うことでケージの持っていたアカデミズムへの色目が批判された、という気になった。そうそう、そう考えながら、アカデミズムからどう逃れるかがいま、表現に求められている、と痛感したのだった。(音がバンド名)が演奏中しきりに「コンセプチュアルでアヴァンギャルドなぼくたち~」としゃべる、のは、マジのようでも自嘲のようでも、アイロニーのようでもある。方法に対する意識以上に方法に対する必要な距離をとることに十分に意識的であること、それをこの二組に共通に感じた。

その後、十一時過ぎ、いまや相当お気に入りになってしまったつけ麺屋(やすべえ)に行き、そのまま恵比寿のヌフ・カフェへ。秘密の相談をしに行ったつもりが超疲労状態の店長とのおしゃべりは全くなく、代わりにお知り合いになったDJの選曲にうなる時を過ごす。すごいセンスがいいのだけれど、ときどききちっと流れの中で、佐野元春の「バルセロナの夜」とかがかかったりする。同年代感ありまくりで、お酒の棚を見ると「フラニーとゾーイ」の原書が飾ってあったりするから参る。

ああでも、ここで、昨日の晩にFatboy Slimを見たことも、さっき(音がバンド名)を見ってことも言えないなー。いや、大谷さんに、Fatboy Slim見たとも、これから行くところでは時々佐野元春のジャジーなのとかかかって楽しみとかっていうのも言えないしなー。などと思うと、小川てつオに負けないくらいぼくも無理矢理な横断を重ねているなーと思ったりしたのだった。帰りは、宿が見つからず、渋谷に戻り少年少女に混じって漫喫で朝を迎えた。で、昼は吉祥寺で大駱駝艦「魂戯れ」ってなんなんだ、オレ。

円盤で起きていること

2006年05月21日 | Weblog
大谷能生さんの「フランス革命」で、円盤系アーティストを見た、聴いた。なかなか興味深い時間だった。というか、ぼくはほんとうにこういうのが基本的に好きなんだよな、と再確認してしまった。

いまから、大駱駝艦の新作を見に行ってきます、時間がないので昨日の円盤系アーティストについての感想を、桜井さんからのコメントへのレスも含めて、早めにあらためて書きまーす。

DANCE BITCH!=舞踏病?

2006年05月21日 | Weblog
19日にFATBOY SLIMのオールナイト・イベントに行ってきた。

その前に、上尾信也『歴史としての音』(西洋中世の音楽研究)に所収された「ダンスダンスダンス」の節などに目を通す。さらにそこから芋ずる式に、『現代思想』の15年ほど前の特集「もう一つの音楽史」に所収されたやはり上尾氏の中世から盛期ルネサンスにかけてのダンス様式史のチャートが手にはいる(写真)。

このチャートのすばらしいのは、「専門の踊り手による場」(A)「宮廷の場」(B)「民衆の場」(C)とダンスをそれが踊られる場に応じて分類しているところだ。こういう分類によって、普段アカデミックな議論の場では見過ごされがちな(B)(C)の場でのダンスがフォローできる。この三種を現代に置き換えれば、(A)はプロダンサーによる劇場の場(B)は社交ダンスの場(C)はクラブやレイヴなどの場ということになろうか。

で、この夜は、(C)で遊ぼうと幕張メッセへ。FATBOY SLIMはCDで聞く以上にシンプルなビートで、盛り上がれば盛り上がるほど、単なる熱の上下をコントロールしているだけじゃないかと思ってしまうが、それに踊らされてしまうのだ。熱の上下にただ身を委ね、いたるところで突発的に、でたらめにあばれたりするだけの観客の異様な幸福感(もちろんぼくもそれを感じてしまう一人だったりするわけだけれど)。1万人は集まっただろう波の中で、舞踏病としてのダンスはいまこんな感じでここにある!などと上尾氏のチャートを反芻しながら思ったり(「現在と同じように当時の人々にとって、踊ることは娯楽をこえた何らかの「魔力」であった」上尾氏)していた。それを支配する神は、なんか「音楽をする高田純次」みたいで、ひたすら無意味なのだった。これは、音楽の聴取、なんてものではなく、ただ造波プールの遊びなのだった。

近代的主体と窃視的主体

2006年05月13日 | Weblog
これは、ごく個人的なノートでありある種、備忘録なので、つまんないと思う人は無視しちゃってください。でも、最近、このあたりのことがかなり気がかりで。


-- フリードの没入する人物を望むモダニズムと平田オリザの世界を呈示する演劇はともに、
  観者を窃視的な主体にさせる点で類似点がある(とともに相違する点もある)--


最近、美術批評家(美術史家)のマイケル・フリードが近代絵画の理想として論じた「没入」について調べている。それは、絵画が観者の見せ物であるにもかかわらず、見られていることを過剰に意識するとわざとらしく(シアトリカル)になってしまうため、それを克服し、観者が居ないという「至高の虚構」を目指して、画中の人物が自分の行動に没入して、見ているこちらを意識しないで居る状態を理想とする、そういう理論である。この最も端的な身ぶりは、見る者に背を向けること、である(写真を参考のこと。クールベの「石割人夫」)。

画中の人物を見る観者は、無視されることで、むしろ人物をじっくり見ることが、強制されず自由な自律した主体としてみることが可能になる。このことは、さらに考えると、無視されればされるほど追いたくなる、というか追うことが出来る、ということにもなると思うのだが、そこには恐らくこの自由な主体の眼差しの窃視的な側面が指摘されるべきだろう。実際、アイヴァーソンは『Alois Riegl』のなかでそうした指摘をしている。

「フリードの見る者/描出の関係の理想が窃視的魅惑の構造に類似していると言うことは、はっきりしている。見る者は自分たちが見られていると気づいていないひとあるいは人々のグループを熱心に凝視する。没入の絵画は、[ローラ・]マルヴェイがハリウッド映画について論じるように「見る者の現前に無関心で、魔術的にほぐれた状態の、外部に左右されないよう封がされた世界」である」(133)


こうした窃視的な眼差しの主体を生みだすものとして、ぼくが真っ先に思い浮かべるのは、青年団(系)の静かな演劇である。没入は、観客を一端無視することで、観客との間に幕をつくる。それとかなり重なり合う点のあることを、静かな演劇の特徴として指摘することが出来るだろう(補足的に言えば、ポツドール「夢の城」にもこの特徴があった、というよりもまさに舞台と客席との間にはガラス窓という隔たりがすくなくとも最初の数十分存在していた)。確かに平田は、こう書いている。

「かつて演劇はメディアとして「見て来たような嘘をつく」役割を果たしていたと、先に私は記した。しかし現代においては、宇宙の果ての風景から人体の内部まで、およそ形のあるもので私たちの眼に見えないものは何一つないかのようだ。しかし、それでも見えない、そして何よりも私たちが見てみたいものがただ一つある。私たちの精神、私たちの心の在りようを覗き見てみたいと、私たちは切に願っている」(平田オリザ『都市に祝祭はいらない』)

確かに、「見て来たような嘘をつく」演劇の「嘘」っぽさに私たちがもはやあまり魅力を感じにくくなっているのは事実。そこで平田が試みようとする(現代演劇として称揚する)のは「小さな振幅を拡大して描く」ことであり、それは岡田利規(チェルフィッチュ)の方法にまで波及したひとつのまさに現代的なアイディアではあろう。そして、さらにフリードが思い描く観者と類似して、観客はこの覗き見の演劇空間によって「自由」を獲得すると平田は考えている。

「感想は、主体的な観客の自由な感受性に任されている」(同書)

「私はこれまで、「客席に共感を求めない」とつねづね語ってきた。どうも、これがまた誤解を招く点の一つのようだ。私は作り手である私と、自立した観客一人ひとりが、一対一で共感することを拒否しているわけではない。この場合の共感とは、創り手と受け手の世界観の共有、イメージの共有のことである」(同書)

こうした考え方は、間違いなく「モダニズム」的というべき思考回路であって、例えばダンスで言えば、カニングハムが観客と舞台との間の理想的な関係としてていたものに、この「自由」はきわめて近い。カニングハムはもはや「共感」さえとくに関心を持たないのではあるけれど。


さて、では、平田的な窃視的主体(ただし自律的で自由なモダニズムの主体)はいまどれほどリアリティがあるかと言えば、かなり疑わしいと言うべきではないだろうか。例えば、「何よりも私たちが見てみたいものがただ一つある。私たちの精神、私たちの心の在りようを覗き見てみたいと、私たちは切に願っている」と平田はいうのだが、こうした観客像は、モダニズムの視点から見ればまさに理想的な主体に相違ないけれども、他面で、観客の可能性をかなり限定してしまってはいないだろうか。「ただ一つの」見てみたいもの(私たちの心の在りよう)にのみ、私たちの視線は向けられるわけではない。「細部を拡大して描く」演劇で、私たちの眼差しは実にさまざまに浮遊しうる。その可能性に対して演劇はどれだけ開いていけるのか。(いや、だからといって、動物化する観客の欲望に応えていればそれでよし、ということでもないだろう、が)

ところで、この近代的主体に対するリアリティの欠如は、『小説トリッパー』(spring 2006)の大塚英志「セカンドチャンスとしての近代をいかに生きるか」が提起する問題に関わってもいるだろう。現代の日本において、近代は主体の確立という仕方では達成されているとは言い難く、このことを、これまでひとは無視しつつ、ポスト近代の「戯れ」ばかり語ってきた。こういた傾向を批判して、大塚は、まだ達成されていない理念型のままの近代的主体「私」を、そのまま劣化したと言って捨ててもいいのかと声を荒げる一方、具体的な方策として、中高生に自分の言葉で憲法前文を書いてもらう運動をずっとしている、のだそうだ。多分、でも重要なことは、憲法を書くというコースを作ることではなく、他者に出会う経験を用意することだろう。憲法を書くことが、何か立派な主体に一瞬なってみたということではなく、それによって他者(の他者性)に出会ってみたということでなければ(これまでの自分が揺るがされる、踏み外す、ズッコケル、その意味で何らかのダンス性がここにはあるはず)、あまり意味はないはずだ。そうそう、重要なのは、他者に誘惑されつつそれによってこれまでの自分がむき出しにされること、あるいはこれまでの自分に自由になること、これまでの他者の認識が再考を促されること、であろう。

だから、こう言うべきかもしれない。観者の自由を保証することが必ずしも演劇(あるいは芸術的行為)の理想の最終形ではない。観客の前にうまく自らの思い描く世界を反映した出来のよい水槽を置くことよりも、むしろ、観客に対して積極的にどのような仕掛けを講じたかが重要なのであって、その仕掛けのあり方こそを作品というべきなのではないだろうか。その際、基本的な考えになるのは、見る者と舞台とが対称的な関係にあると考えることではなくむしろ、非対称的な関係にあると考えること。

そう考えたとき、フリードの「没入」は、近代的な主体の自由にもまたがりながら、この観客への仕掛けという論点にもまたをかけている点でぼくにとって魅力的なのだ。観客を誘惑しつつ、そこからどんな新しい局面を引き出すことが出来るのか、と考える潜在的な可能性があると思うのだ。

ピナ・バウシュはシアトリカルな状態を逆手に取る

2006年05月12日 | Weblog
彩の国さいたま芸術劇場で、ビデオダンスのフェスが行われている。ピナ・バウシュの「コンタクトホーフ」公演のヴィデオとそのドキュメンタリーを見た。
「コンタクトホーフ」は、1978年初演の彼女にとっては初期の作品。くすぐるとか、ゆったりとした手の動きでダンスするとか、絶叫するとか、彼女らしい現在にまで続く、けれども現在よりもずっとフレッシュで軽快で楽しい振りの連続。で、それを初老の男女たちが踊る、と言うのがこのヴィデオ、2002年の作品。

初老の男女たちに対するピナ・バウシュの態度は、なかなかサディスティックな感じ。振り付けをやや強引に彼らの体に押し込める。速い細かい動きでは、十分にはついて行けてない感じが、ばれてしまってたり、する。けれども、なんか、それが結構いいのだった。ダンスの構造がこの遊離によってむき出しになっている気がするのだ。ダンスの構造って、要するに、振りを体に型押しし、体はそれをこなそうと努める、という構造。で、ふつうはこの(振りと体の)二つが密着して離れないので(つまり離れように稽古を重ねていくので、そしてその稽古をこなせてしまうので)、この構造のありさまにひとは気がつかないまま見てしまう。まあ、隠れててほしいものなのだ、ふつうは。むしろ綺麗に踊ることは、この「隠す」ことに夢中な振る舞いとして見えてくることさえある(体を消そう、なんてことがモットーだったり)。でも、その構造がここでは、もたもたしたおじいさんのステップとか、手振りとかで、露わになる。すると振りに隠れていたそのひとらしい体の表情が自ずとあふれてくる。知らないのに「その人」というものが、前面に出てくる。そして、それを愛でることがここでは許されている。ピナ・バウシュの真骨頂は、こういうところにある、とぼくは思ってしまう(で、この点において、ソンタグの「キャンプ」論がぼくのなかでちらついたりしてる)。

また、振りとそのひと(の体)との適度な距離は、老齢の知恵というか奔放さを発揮出来るようにもしていて、ふくよかな体のおば(あ)さんが腰を器用にクイックさせたりするところがたまらなくおかしい(薄いドレスでクイックイッと腰を振る彼女は周りの老年ダンサーのモデルみたいな存在になって、みんなに「こうよっ!」なんて感じで見せつけたりする、そういうシーンがあるのだ)のは、振りの強制によってその女性が、なかばいたしかたなく、なかば悪のりして、自分の腰の案外機敏なさまを、露わにしたりしてしまうからなのだろう。「いわれてるからやってんのよ」みたいなエクスキューズが、普段はしないのだけれど故にそのひとの個性として眠っていたままの何かを引き出す機会になっている、ここでは。フツーの人たちである彼らはフツーの人たち同様シャイだけれど、だからこそ、彼らにとって「振りの強制」という機会は、そのシャイネスからちょっと距離を取り、いつもの自分からはみ出るいいチャンスになるのだ。しかも、彼らは「振り」からも適度に距離をとっている(とってしまう)わけで、実にクールな場が成立しているのだった。で、そういう瞬間にこぼれる「その人」を微笑とともに愛するということが、ピナ・バウシュの作品には起こる、のであり、それは確かにかなり希有な瞬間だと思うのだ。

三日間、学生の前で話す

2006年05月11日 | Weblog
火曜日に、母校上智大学大学院の哲学研究科の演習で発表(レクチャー)をさせて頂いた。内容は、「至高の虚構--絵画のシアトリカリティ批判とその行方」(タイトルより)。ようするに、絵画における観客論である。ルネサンスから現代まで。フリードをとりあげつつ、さらにスタインバーグを通してのフリード批判へ。「30-40分くらいで」と言われていたのに、1時間たっぷりしゃべってしまった。おかげで、(アカデミックな場所で)美術を論じるための見通しが立ってきた。

水曜日に、S大学で、ゼミ。今は、恥ずかしながら、年度初めのテクストとして柄谷行人『探究 1』の第1章「他者とは何か」を読むことにした。アカデミックな場での知り合いがこの記事を読んでいないことを祈る!読んでいたら「おまえは何を読ませているんだ!」と冷笑されそう。でも、いいんです。つくづく、自分のものを考えることの出発点のひとつと言わざるを得ないところがあるな、と思いながら学生諸君と読んでいる。「語る-聞く」=「内省」としての形而上学に対して批判しながら、「売る-買う」の立場からものを考えよ!と促す柄谷。これ、つまり(ぼくが考えている意味の)観客論じゃないか!自分を「売る」舞台上のダンサー(とそのダンス作品)と、それを「買う」(かどうかと思案する)観客という関係からダンスを考えること。それには、自分の作品の正当性を(他者=観客の視点を内に含めることなく)押しつけてくる式の(故に、俺の「語る」のを黙って「聞け」的な、つまり内省的な)ダンスに対する批判がともなっている。つねに、買われるかどうか分からない「命がけの跳躍」に身を委ねていることに不断に注意を促したい/促さなきゃということが、ぼくが観客論こそ今書かなきゃいけないと思った大きな動機であった(ことをこのゼミを通して思い出した!)。と言って、これは別に売れ線がいい、とかそういった簡単なことではない。観客への誘惑の戦略がどれだけユニークなものであるかこそが競い合うべき事柄ではないか、と思うのだ。少なくとも、観客を欠いたダンス論(ダンス観)は、内省的(形而上学的)であるに過ぎない。このラインを突き抜けないとダンスは、美術や音楽や演劇またその他のジャンルと並ぶ地点にたてない、に違いない。

木曜、K大学で連続三コマの講義。最後の講義は、カントの笑い論について。理論は面白いと思うんだけれど、カントが挙げる例(小咄)は、どれを紹介しても学生には受けなかった、というか極寒だった。

劇団、本谷有希子『密室彼女』(@スズナリ)

2006年05月09日 | Weblog
乙一(おついち)原案で、本谷が作演出、という舞台、などと分かったように書いてみたものの、乙一の小説を読んだこともなければ、本谷の舞台も初めて(恥ずかしながら)。初々しい視点でちょっとメモ。

第一印象は、最近行っているスポーツジムでしか見かけないスポーツドリンク「das」みたいだ、ということ。ノンカロリーで薄味。だからって意味なし!水と一緒!と切り捨てる気も起きなくて、、、といったコーラみたいな主張の多いものばかりが飲みたいんじゃない最近の感じに近いと思ったのだ。二人の男が友人(恋人)だった女を殺し、その現場を見てしまった別の女を監禁する。この監禁された女は記憶喪失のふりをし、さらに二人は殺されたはずの女であるとのふりをこの女に要求する。男たちは失ってしまったものの再生を期待し、女はそのふりによって自分の記憶喪失状態を(ゼロの状態でひとりの女に扮していることの)証明をしようとする。いないはずの殺された女は、そうしてひとつの「役柄」として狭い部屋で生き返らされている。と、面白い部分は、多分ここにあるんだけれど、3人ともそんなにこのことに超熱心というわけではない。自分の出来る範囲で、男たちは犯してしまった罪の「犯人」役を、また女は捕まっていることから生じる「監禁された女」役を、あるいはその上で「殺された女」を演じる。自分とその役柄が遊離して、どこまでも一体化しない、それゆえに「もたもたした感じ」がつねに漂う。このもたもた感が、本谷の「自意識」の形を伝え、いまどきの女の子のある種の姿を輪郭づけているのかも知れない。それに、自分(これも役柄としての自分なのだけれど)と役柄の遊離は、どこかチェルフィッチュのもつ身体とセリフと役柄のちょっと距離を保った関係ともそう遠くはなく、故に方法的な読みも、できなくはない。

このもたもた感が、スポーツドリンクのなんとも煮え切らない味となんか似ていると思ってしまったのだ。いつまでもギアの入らない、抜けた感触。

ロダンのピグマリオニズムと逆ピグマリオニズム

2006年05月07日 | Weblog
ジョン・バージャー『見るということ』には、ロダンの旺盛な性欲について指摘したところがある(「ロダンと性的支配」)。巻き込まれたのが、イサドラ・ダンカン(モダンダンス黎明期の最重要ダンサー)なところがちょっと面白いのだが、最終的には拒んでしまったことを彼女は後悔しながら、ある時期のロダンとの接触をこう述懐している。

「ロダンは髪を短く刈りあご髭をたくわえた、小柄でいかついエネルギッシュな人物だった……。時折彼は彫刻の名前をブツブツ唱えていたけれど、聞いている人はその名前が彼にとって何の意味もないことを察していた。彼は腕を伸ばし彫刻を愛撫した。彼の手の下の大理石が溶けた鉛のように流れ出すのではないかと思ったのを私は憶えている。最後に彼は粘土を少し取り、両手の掌で強く捏ねた。いつものように彼の息づかいが荒くなった……。しばらくして彼は女の胸を形作った……。思わず私は新しい舞踊についての私の理論を説明するのをやめたが、彼がまるで聞いていなかったこともすぐに気づいていた。彼は燃える目をして瞼を伏せ、作品を前にして見せるのと同じ表情を浮かべて、私を凝視し、近づいてきた。私のお尻や裸足の脚に手を這わせ、私の身体が粘土ででもできているかのように、全身を捏ね始めた。彼が発する熱は私を燃え立たせ、蕩けさせた。私のすべてを彼に与えること、それが私の望みのすべてだった」(ダンカン『我が人生』より)

女を愛するように彫刻を愛し、彫刻を捏ねるように女を捏ねる。ほとんどギャグみたいなエピソードだけれど、これがおかしいと吹いてしまうのは、嘘っぽいからじゃなくむしろ彫刻に関するある真実が含まれているからだろう。ところで、粘土化されちゃっている自分をむしろダンカンがここで受け入れていたら、抱えている新しいダンスの理論なんて放って、彼女はまったく新しい次元のダンスを発見していたのかも知れない。

今後、ロダンの彫刻を見たら「もえー」の声がぼくの耳にこだましてくるかも。

GW6

2006年05月06日 | Weblog
「げんべい」の近くにあった、これも目的の一つだったイタリア料理の店へ。東京でこれを食べようとしたらそうとう高くついてしまうだろう、というフレッシュで繊細できちんと味覚を痛打してくる味だった。でも、さっき取ってきた、みたいな魚は、東京ではやはり無理なわけで、来た甲斐があった、というもの。

その後、とりあえず海見るか、ということで、ともかく南のほうに、潮の香りのするほうに。いやいや、レストランから海までは100メートルなかった。釣りしたり、ウィンド・サーフィンしたりの人々の脇で、鮫の死骸を発見するくらいしかぼくたちには何も出来なかった。

その後、「江の水」に行く案が浮上したが、鎌倉で江ノ電に乗りかえようとしたら、乗るまで30分待ちの大混雑。早々にあきらめた瞬間、今年のGWの小旅行も実質the end。藤沢から乗った帰りの電車で、目の前に座る若い男二人が、いかに自由に生きるかで熱い議論を戦わせていた。そのためには、金をいかにセーヴするかが大問題で、その際、彼女をつくることが最もまずい、という結論になったのだった。

GW5

2006年05月06日 | Weblog
5/4

朝に千葉を出て、今度は関東の西海岸、葉山に行く。「げんべい」のサンダルをみにわざわざ行ったのだった。小一時間、迷って歩いた後、あっけなく現れた。