Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

See Dance開催中

2011年02月11日 | 身体と映像
ひとりでダンスのことをぶつぶつつぶやくイベント
See Dance
を開催することにしました。10日間、1日複数回、投稿し続けるつもりなので、
ぜひ、(1日1)アクセスしてみてください!

タイトルはちょっと似ていますが、横浜のあのイベントとは、とくに関係ありません。

Rube Goldberg

2011年01月15日 | 身体と映像
作品集『ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス』刊行記念!で、先週末一緒だった泉太郎がトークイベントに参加するらしい。フィシュリ&ヴァイスも泉くんも、広義のRube Goldberg Machineの作家と考えることも出来るんですよね。今読んでいるMachine-Age Comedyという本に、Rube GoldbergとMarcel Duchampとの関連が論じられていて、このあたりにいま注目しているのです。あまり知らなかったのですが、Rube Goldberg MachineとYou Tubeで検索すると厖大にでてきます。

「さまよえる三つ子の魂」も、Rube Goldberg的なところがあった。現代美術とRube Goldberg Machineとの相関性、あらためてちゃんと考えてみたい。

ダンスと「結び目」 「編むこと」と「解くこと」への愛着

2011年01月12日 | 身体と映像
「ダンスと色」という話を書きましたら、そこそこ好評だった(気のせいかも知れませんが、、、)ので、さらに。

ダンスと「結び目」について。

エイゼンシュテイン「無関心な自然でなく」(全集9)より。

エイゼンシュテインは、人間の本能として2つの原理が捉えられると見なして、その一つを追跡のうちに見る。この追跡の本能について、主な典拠にしているのは、ホガースの『美の分析』のなかで展開される考察である。(ホガースのことは、「舞踊学」に以前書いたこともあるし、このブログ(昔のHP)でちょくちょく書いてます、チェックしてみて下さい)

「追跡にあたって日々直面する困難及び絶望が絶えず増大していくことがないならば、狩猟、射撃、釣り、その他多数のゲームの魅力は、一体、何に支えられるのか?兎がその巧妙な狡さを十分に発揮する可能性を与えられぬならば、兎狩りのスポーツ愛好者は、どれほど退屈なことか!」「このような追跡への--追跡そのものへの--愛着は、人間固有の本能であり、疑いもなく、必要かつ有用な目的に役立っている。」「理性は、複雑な問題の解決に立ち向かい、それと苦闘することを好む。つまり寓意や謎は、いかに無意味でつまりらぬものであっても、常に理性を引きつける。理性は、筋立ての複雑な戯曲あるいは小説の、多数の事件の糸が絡み合った過程を追跡して楽しむ習性がある。最後に謎が解けてすべて明白になるとき、理性の喜悦及び充足感は、非常に大きい!」(p. 58)

そして追跡と並んで、人間の本能としてあげられるのは、編みそして解く本能。追跡が男性的本能であり、女性のものとして編み籠の本能は構想されているようだ。エイゼンシュテインは、次の文章を引用しながら論を展開している。

「デューラーが描線にたいして非常に愛着した源泉は、さらに深部に探さなければならない。つまり、それは、古代ゲルマンの遺産である。デューラーのそのような愛着は、形の絡み合い及び相互吸収の作用(プレイ)、交差しながら発展する帯状の紐の絡み合い(プレイ)、及び自由に運動する線の果てしない旋律の遊戯(プレイ)などに北欧人が味わった原始的な喜悦及び充足感を、後期ゴシック的ヴァリエーションにおいて復活したものであった……」(ヴェツォルト『デューラーと彼の時代』1935、p. 62)

そこでエイゼンシュテインが注目しているのは、デューラーの「六つの結び目模様」という六枚の版画。レオナルドの「有名な網目模様」が元になっているこうした表現を集めた著作を愛好するものたちについて、「全く単純な「縄紐」を複雑に絡み合わせたりといたりするゲームに愛着をもつ相当多数の読者層の存在を物語っている」といい、エイゼンシュテインは、こうした読者というのは、「さまざまな形式のミステリ小説にも愛着をもっている」のではないかと推測している。

デューラーの結び目模様の例

そうして具体的に、縄紐の図を書きながら、紐の進行が、結び目を作るそのループによって、一旦反対方向へと進み、そして戻るという運動を行うところに注目する。その結び目には、一直線に進んでいく運動のなかに潜んでいる「潜在的な」流れの存在が意識されるのだとエイゼンシュテインは捉える。

「引き締められた縄紐の結び目は、常に、複雑に絡み合ったその線条の、一点に圧縮された「潜在的な」流れでもある。つまり、結び目を解く場合には、交叉及び絡み合いなど、複雑な縄紐の動きがあるので、それを一直線に伸ばす--「結び目を解く」--ために、複雑な過程を必要とする。結び目とは、そのようなものである。」(p. 63)

また、エイゼンシュテインは、この結び目というものが、結ぶ際に反対方向からの力を加えることで出来上がっていることにも着目する。「縄紐の両端に反対方向の二力を加える」ことで、結び目は締められている。面白いのは、そうした結びのように、スリリングな物語の展開というものは、複雑に絡み合っているのではないか、と物語論へとこの結び目が展開されているところで、

「真のドラマツルギー的結び目とは、複雑に絡み合うドラマチックな出来事の何本もの縄紐の複雑な交錯及び交叉の可能性を多数はらんでいるものである。」(p. 64)

こうやって、具体的に、紐の結び目として、時間の進行を考えてみるというのは、いいのかもしれない。どこに力の拮抗を作るか、力の拮抗をどういうものとして作るのかで、運動にスリルを与える(エイゼンシュテインが思うところの人間の本能に訴える)ことが出来る。けれども、さらに大事なのは、結び目を作ることのみならず、結び目を解くことなのかもしれない。解くのには、反対の2つの力に第三の力が介入する必要がある。

「結び目は、その内部で葛藤する反対方向の力が強く働けば働くほど、それだけ堅く結ばれる。……結び目を解くことができるのは、複雑な過程のみである。それは、ほとんどの場合、反対方向に働く基本的二力に打ち克つ「第三の力」の介入によって行われる。」(p. 64)

エイゼンシュテインの議論は、ここから小説の事例をあげ、フーディーニという奇跡的脱出のプロの話に移り、さらにバッハやピラネージの内に「フーガ」(追跡から逃れること)へと進んで行くのだけれど、このあたりで、ダンスに戻すと、たとえば、こうした「二力」の話でぼくがとっさに思い浮かべるのは、舞踏の方法論で、なかでも鈴木ユキオの踊り。

こうしたものとか。

あるいは黒沢美香。この映像で考えるならば、20秒くらいで前進をやめて反対方向へ行く(それは2つの力の存在を暗示することになるだろう)。そして、24秒くらいで反対方向に進みながら右腕を後ろにした状態で手のひらを返しなどしている(ここにも2つの力の存在が感じられる)。黒沢の動きは「ため」が利いている。この「ため」こそエイゼンシュテインのいう「結び目」だろう。面白いのは、黒沢の場合、きっちりと拮抗した力の関係を発生させながら、同時に、「第三の力」を置くことで、それによってそこにあった緊張が一瞬解け、魔法から解放され、別の魔法に吸いこまれていく(52秒ごろの「トントントントン」)。

ダンスと色

2011年01月10日 | 身体と映像
昨日、大橋可也振付による「驚愕と花びら」を見に都心へ向かうなか、電車でエイゼンシュテイン「無関心な自然でなく」(全集9)を読んでいた。エイゼンシュテインは、ウォルト・ディズニーを友と呼び、とくに「シリー・シンフォニー」について高い評価をしている。この点について研究したくて読んでいるのだけれど、そのなかで、気になる文章があった。

「私自身、かつてのマリィンスキー劇場の舞台でフォーキンによって演出されたバレエ『ショピニアナ(レ・シルフィード)』を記憶している。三十年以上も古い記憶であるが、今でも銀色から紫色、白色から空色へ向かう色彩の変化と音楽の変化との完全な融合の感覚が想起され、光と色彩とがバレリーナの白い衣裳をかすめて、バレリーナの眠気を催すような緩慢な詩的運動をなぞり反復する光景が眼に浮かぶ……。」(全集9 p. 175)

エイゼンシュテインは、文章中で、音楽や風景が俳優と融合する必要性をとき、その方法を説いている。ちなみに、ディズニー作品は「子どもっぽく下手に色彩された背景と、主要な前景の動くキャラクターの運動、及び描線の驚くべき完成度との間の完全な文体亀裂が欠点となっていた」とされ「ディズニーは、線の独立した運動と音楽の内的過程(リズムばかりでなくメロディさえも!)の線画的解釈とによって音楽にたいする視聴覚的等価物を創造する、驚くべき巨匠であり、またとない天才である」とエイゼンシュテインは、個々のキャラクターの運動がもつ音楽性についてきわめて高い評価を下す一方で、ディズニーにはそのキャラクターと風景を融合させる才覚が欠けていると批判している。「風景及び色彩の完全な非音楽性」。ディズニーを批判する一方で、彼が連想しているのは、フォーキンの「レ・シルフィード」。

ところで、ここで出てきた「音楽性」とはなにを意味するのか、これはこれでとても重要なのだけれど、いまは飛ばして、ぼくが昨日この部分を読んでいて思い浮かべていたひとつのPVを紹介しておきたい。ダンスと色彩の関係について。

Mia Doi Todd "Open Your Heart"

これは、ミッシェル・ゴンドリーの最新PV。どうでしょうか。パフォーマーは、いわゆるダンサー的な身体ではほぼないのですが、ご覧のように彼らが身につけているTシャツの色が利いていて、その色のグラデーション、補色関係などがリズムをつくっています。エイゼンシュテインに戻ると、彼は前述した文章のあたりで、

「移行が可能なのは、色彩だけである。色彩は赤色から青色に、緑色から紫色、緋色、オレンジ色に、容易に移行することができる。色彩であって、ビロードではないのである。」(p. 174)

と述べて、「ショパン」という映画で用いられた「ばらばらになった色彩の破片のごった煮」に対して批判しつつ、必要なのは色彩の移行関係であり、おそらくこういってよいとおもうのだけれど、色彩によるリズムの生成であるとエイゼンシュテインは考えています。

なるほど、色彩によるリズムの生成か。こうした文章を読むことで、ぼくはダンスと色彩の関係、あるいはゴンドリーのように、色彩をいわばダンスさせるという可能性について、蒙が啓かれた気がした。色彩のリズム性(ダンス性)を無視しないこと。たとえば、ゴンドリーのさっきの作品を見た目からは、パトリック・ドーターズという監督がとったこの映像は、正直「「ばらばらになった色彩の破片のごった煮」」と思わずにはいられない。

Feist "1234"

どうでしょうか。うーん、でも、これはこれ、という感じもします。あるいは、これを見ると、やや統制が取れすぎている(マス・ゲームみたいだ)とむしろゴンドリーを問題視したくなるひともいるかもしれない。

一方は、色を用いつつ、そこに自由さを演出する(そしてダンスとしてはさほど目新しくない)。一方は、色を用いることから生まれるダンスの可能性を追求している。一方は色を象徴的に用いている。一方は色をリズムの生成に用いている。少なくとも、2作を見て、ダンスに色を用いる2つの可能性に気づかされる。

もしぼくが大学の舞踊学科の教員だったら、さっそく課題を学生たちにだしてみようと思うな。

「色で/色のダンスを作りなさい」

色というのは、とても直接的にぼくたち見る者を束縛してくるので(意味機能としてもリズムの機能としても)、「色については問題にしません!」と宣言することで、この危うさを回避するというのが、いまどきのダンスでは定石になっているのかもしれない。あるいは、定番でまとめる、みたいなね。「舞踏はモノクロ」とか、「コンテンポラリーダンスはパステル」とか。それ、じゃあやめてみたらどうなるんだろう。定番をやめてみると同時に、色をダンスとして用いるという縛りを作ったら、どんなダンスが生まれるんだろう。なんて、夢想します。

世間じゃどうかといえば、AKB48は、そうとう色の問題にこだわっている、と思う。新曲は徹底的に「白」で行く、とか。でも、まあ意味機能としてですよね、これも。そして、AKBは基本的にモノトーン。同じ色の同じデザインの衣裳を同じような髪型のメンバーが身につける。AKBの魅力(麻酔作用)って、そうした同化圧力だと思うなー。「同じゃなきゃ」プレッシャー。

AKB48「チャンスの順番」

これに比べるとモー娘。は、個性尊重型。AKBの「白」とは対照的にカラフルっちゃカラフルです。「ばらばらになった色彩の破片のごった煮」ですけどね。新曲。

モーニング娘。「女と男のララバイ」

この曲のダンス、見れば見るほど面白い!一瞬、ベジャールの「ボレロ」みたいな振りが出てくるし。AKBよりいま注目すべきはモー娘。なのでは。

誰か面白い「色のダンス」つくってくれないだろか、、、

今日 泉太郎イベントです。

2011年01月08日 | 身体と映像
「さまよえる三つ子の魂」が今晩(1/8)行われます。
詳細はここで。

チラシにあるのと随分違ったものになるようです。イベントと言うよりも、泉太郎の新作といった方がよいのではないか、と思います。ぼくもただのトークゲストとして呑気に座っているわけにはいかないようです。乞うご期待。

といって、今日は、SNACで神村恵、VACANTで蓮沼執太があり、こりゃこりゃですね~。


身体と映像の件は、資料を集めている最中です。昨日、講義が終わったので、ようやく週明けくらいから着手できそうです。

ところで、昨日大学に行ったら「ミュージック・マガジン」の新刊が来てまして、講義の後読んでいました。大学院時代の同輩輪島裕介が演歌についての新書を書いたんですね、書評が出てました。読みたいっす。あと、「ミュージック・マガジン」を読む楽しみの1つが、土佐有明さんの演劇評を読むことですが、ぼくが見逃してしまったFUKAI PRODUCE羽衣「も字たち」を取りあげてました。んー、見ときゃよかった。

ちなみに、特集が2010年のベストアルバムで、ロック(アメリカ/カナダ)部門の一位が

Sufjan Stevens「The Age of Adz」

でした。もうほんとに全然フォローできていないので、こういう特集はお勉強になるのだけれど、なるほどね。Vampire Weekendもそういうとこあるけど、アフリカンテイストが流行っているんですな、NYあたりで。ハピネスな香りがします。ところで、昨年末12/30にこれ聴きながらビッグサイトに行ってきました。そういう日だったんだと思うんですけれど、BL女子のかたまりをはじめて肉眼視してしまいました。圧倒されてました。妻の方がノリノリで(余談ですが3日目に筒井宏樹くんが編集した雑誌も出品されたようで、妻はその執筆者でした)、しばらくBL的読み替に熱中していて、横にいて辛かったです。どうしてこう、BLのトークというものは男子をこれほどいたたまれない気持ちにさせるのでしょう。ぼくも対抗して『神のみぞ知るセカイ』にはまってみました。これ、すごい。ギャルゲーの神と呼ばれる男の子が、ひょんなことから、リアルの女の子をギャルゲーの攻略法で口説いて行くという設定なのですが、なによりこれが少年サンデーの漫画というところに、驚かされます。「指令と応答」のアイディアは、いま、パフォーマンス的アートのなかでさまざま展開されていますが(今日の泉くんのイベントもそうしたものになりそうです)、「攻略」ってキーワードでさらに展開するひとがいたら面白いかも、なんて思ったり。

身体と映像の運動論(仮)

2010年12月30日 | 身体と映像
来年度、「身体と映像の運動論」(仮)なる講義をしようと思っていて、その準備のノートをこのブログにアップしていこうと思っています。ダンスやパフォーマンスを考えるのに、映された身体(の運動)という論点を無視しては片手落ちになるということは以前から思っていたのだけれど、あらためてちゃんとやろうというのが動機です。先日のベクトルズでもアニメーションと実写のことを話しましたが、まだまだ考察が不十分だったなと反省してたりして、もしよかったらときどき覗いて読んでみて下さい。

少しは来年にならないうちにいろいろと書けると思っていたのですが、育児やらなにやらでなかなか進まず、まとまったノートにまだなっていません。でも、ちよっとこんなもの見て考えてますというイントロのイントロみたいなものでよかったらと、いくつか。

Walt Disney "Merbabies"

Walt Disney "Dumbo--Pink Elephant"

Walt Disney "Three Caballeros"

Max Fleischer "Betty Boop--Minne the Moocher"

いやー、ディズニーは深いですなー。面白いでしょ、結構すごいでしょ。

あと、フライシャーは「ロトスコープ」について考えるのが楽しみ。でも、こうあらためてこの時代(1930年代)のアニメーションを見ていると、これはミュージカル映画といってもいいんじゃないか、と思わされますねえ。