Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

天安門

2011年01月15日 | 演劇
昨日(1/14)は、王子小劇場でシベリア少女鉄道スピリッツ「もう一度、この手に」を見た。必見ですよ!(下記はネタバレ有り)

シベ少、結構久しぶりに見た。3年は前だ。面白かった。なんとなく、岡田チェルフィッチュがロスジェネ(死語?)世代の演劇代表と考えがちなんだけれど、5年前くらいを思い返せば、他にも若い面白い演出家が一杯横に並んでいて、いろいろな可能性のるつぼ状態だったわけで、そんなだったなあと思い出しながら見ていた(これはあくまでもぼくの問題、忘れていました)。

8本のショートが次々と上演される。暗転があり、タイトルがプロジェクトされる。けれども、かっちりと切れているわけではなく、ゆるくつながっていて、とくにそのつながりをつくっているのが、半分架空の「役者」の設定。後半からの町田マリーによる「ナレーション」によって明らかにされるのだが、この芝居には、役者に「役A」のみならず「役を演じる役者」という「役B」が与えられている。「役B」は、「ヨーロッパ企画の役者で京都出身」というリアルな内容の場合もあるし、「アンドロイド」とか「整形手術をした元男性」(これを女優・篠塚茜が演じている)とか、まったく非現実的な場合もある。「ヨーロッパ企画の役者で京都出身」は、さらに「台本がぐずぐすだし関西のお笑い感からしたらこれのどこがおかしいと感じて不満を抱いている」といったキャラ設定がされているので、「その不満から舞台に身が入らず携帯をいじったり漫画を読んだりする」ことになる。

それぞれの「役者=役B」は、「役A」を演じながらそれぞれの悩みを抱きつつ、舞台のストーリーとは別にその解決を模索する。だから、この「もう一度、この手に」は「8本のショート」作品ではなく、実は〈2階建て〉になっていて「8本のショートを演じることになった八人の役者たちのリアルストーリー」の作品なのだった。もちろん「リアルストーリー」ではないのだけれど、半分は実話なので、なんとなく錯覚も起こす。このあたりが本作のきわめてすぐれたところで、一緒に見に行ったKATの学生たちも、どこまでがリアルでどこまでが仕掛けられた(台本にある)演技なのかが分からなくなっていた。

それにしても土屋亮一は「伏線の名手」だ。冒頭の1話は、遺産争いをする異母兄妹がいつのまにかTV番組「ごきげんよう」をやってしまっている、というものなのだけれど、そのきっかけが四角い遺骨の箱を怒りに乗じて投げてしまうというところにあって、その瞬間、あまりのことにぞっとするのだが、そのあと「遺骨の箱」=「サイコロ」か、とわかるとその安堵とともに爆笑する。そこには充分「お笑い」の要素が含まれているのだけれど、実は、シベ少のすごさは、笑いよりもその手前にあった恐怖の方にあるのかもしれない。

前半から、「なんとなく」役者の動きがぎこちない。「整形手術をした元男性」は、後から見れば「女性としての自信がないのでもじもじとしてしまう」という人物設定がなされていたのかと分かるのだが、前半ではただもじもじとした演技が不自然に遂行されていた。「タネ」が明かされれば、安堵するにはするが、実は見せたいのは、「ネタ」が明かされる前の不穏さなのではないか。伏線の魅力というのは、伏線があるということに乗じて、ありえないおそろしいリミックスを平気で実行しうるところにあるのではないのか。

それにしても、篠塚茜はいいなあ。以前よく見ていた時にも思っていたのだけれど、声や振る舞いの漫画っぽさ。独特の抑揚があって、抑揚を曲線になぞらえれば、その曲線にはなぞるとひっかかり(フック)があったりして、そのひっかかりがとてもいいかんじなのだ。篠塚に匹敵するのは、ぼくのなかでは安めぐみ。金曜の夕方東京FMで彼女の司会番組があるんだけれど、いつも帰宅中の車で聴きながらひとり声真似しちゃってます。ポップなのだ、このポップさはとても貴重。

タイトルの「天安門」は、観劇後、KATの学生たちと行った中華料理屋。リアル中国が体感できる店。北東京はユニークないい店が多いとあらためて思う。

快快を招いて!

2010年06月17日 | 演劇
来週の火曜日
6/22
16:30-18:00
に、先日の『SHIBAHAMA』で新時代を切り開いた(本当にすごい、画期的な公演でしたね!)快快(北川陽子さん)をお招きして、お話しを聞くイベントを大学内(西生田キャンパス)で行います。

ゼミが四限にあって、そのゼミメンバー(有志)が五限にも残って何かする「火曜五限の会」というものをやや無理矢理今年度からやっていて、いまのところ毎月ゲストを呼んでぼくが話を聞くというのが主たるコンテンツになっているんですけれど、それは「ひょっとしたらちょっと芸術というもの、好きじゃなくなっているかもしれない」ぼくがもう一度芸術を好きになるリハビリテーションを兼ねています。

4月は、壺中天の村松卓矢さん、5月は期待の美大生平川恒太くんと高田冬彦くん、そして6月は快快、北川陽子さん(もしかしたら他のメンバーも来てくれるかも)!です。

(7月は、大学を飛び出して、さらに一層ユニークでわくわくする企画を準備しています、後日また告知します)

もし聞きたいという方がいらしたら、連絡下さい。
USTとかも考えたんですけれど、こないと聞けないという方が、いいんじゃないかなと思ったりして、あるいは「ここだけの話」といいながら話す話にこそ聞くべきことが詰まっているかもしれず(USTでの中継がなんとなく話の内容や方向を限定させてしまう可能性を危惧して)、そう提案します。来たいけど連絡ってどうすればいいの?という(ぼくのメアドが分からないひと)は、どうかがんばってメアドを探してみて下さい。(←答えにもアドヴァイスにもなってない!)

ちなみに、JWU大生は、もちろん自由に出席してくれてかまいません、どうぞ、連絡なしで28教室に来て下さい!

ああ、あの一個だけ。
最近見たんですけれど、『魔法にかけられて』とChim↑Pom(例えば「BLACK OF DEATH」)の繋がりというのは、誰か研究しているのでしょうかね。

「カオス*ラウンジ」→「転校生」

2009年03月28日 | 演劇
カオス*ラウンジ展に行くというのでAに同行。国分寺駅から10分くらい、六畳のワンルームみたいな広さのところに、五十人近くの作品が展示されていて、なんだろう、うん、ともかく、じーっと眺めている内にどんどんと好感が沸いてきました。37才のぼくが「共感する」なんて言ったら彼らに失礼だと思うんだけれど、実際、「共感」というのとも違って、もう届かないものに対してうらやましいというか嫉妬しながら、「いいな」と思うという意味で、「好感」を持ちました。「自分の思い」と「描かれているもの」とその「クオリティ」とがちゃんと一致していて、しかもそうした作品がこれだけ集まり、しかもそうした作品を作る作り手がこれだけ集まっていることに、いまの時代の若い世代ってこんなうらやましいことが出来ているんだ、と思いました。ちょっと前、GEISAIで見た國方真秀未は、ジャポニカ学習帳にエロ・グロのマンガを描き、そうすることで美術の世界とアクセスしていた。それは「アクセス」するための秀逸なアイディアに当時見えた。けれども、いま振り返ると「アクセス」するためになぜ努力する必要があるのか、と思わないでもない。村上隆とつるむのもよいが、「別につるまなくてもいい」ということになっているのかも知れない。Aとも帰りに話したんだけど、別に「マイクロポップ」でもない、つまりマイナーの抵抗でもない。ただ自分の思うところを近くの仲間と共有できる仕方で差し出し合っている。その姿勢がなんだかいいなと思う。アイロニーとか諧謔とか批判とかじゃなくて、まっすぐ。暗いけれど、肯定感がある。「限界芸術」のような、裏返った芸術至上主義でもないと思うんですよ(むしろ芸術至上主義ではないかな、自らの感性に忠実であろうとしているという意味で)。展示の主催者藤城嘘さんは、「ダストポップ」なんて言葉を使っているんですね。「ダストポップ」3/10の記事にでてくるDJ_Takkという描き手を形容する言葉がいいですね。「「可愛い」の乗算によるふわりとした世界がとってもくすぐったくって、でも静電気のようにビリリとくるカッコいい画面」など。ポジティヴな意味で彼らの画風は「微弱だなあ」と思ったんだけれど、そうした点が「くすぐったく」とか「静電気」とかいう言葉にあらわれている気がします。
これだけの作り手が集団になるのは、どうしたら可能なのだろう。mixiやtwitterの時代のなせる技、ということなのだろうか。「シャイで内向的」に見える作り手が、とても上手い感じで仲間を集めている、すごいうらやましい気持ちになった。

その後、池袋に直行し、飴屋法水『転校生』を見た。本当に感動した。必見です。

サンプル「家族の肖像」(五反田)

2008年08月29日 | 演劇
8/27
例えば、青年団がひとつの舞台空間に複数の組を登場させ同時にしゃべらせたようなそんな「共存」がひとつの身体で起きているというみたいな、サンプルの今作が混沌と称されるなら、そうしたところにその混沌のクオリティは見出されるべきだろう。自分が自分でよく分からない、というモティーフが頻繁に出てくる、分裂そのものとしての自分。複数のレイヤーが無軌道に交差し、ひとつの役者の身体はひとつの役柄に宿るひとつの精神のかたちをみせるものだという先入見が歪まされる。その歪み方が、実に正確にある一定の角度で行われるので、混沌は、ロジカルというかエステティックな説得力をもつことになる。劇団名にちなんで「サンプリング」とかあるいは「シミュレーション」とかいってみたくなるすべての類型的にコピペされた役柄(コンビニの店長、店員、万引きする女、元教員のコンビニ店員、仕事をしないその息子、学生カップルとその友だち)たちは、そうした一種の「計算された混沌」のために見事に操作されている。ひととひととの重なり合い、違和感、生じるいちいちの交差が、とても見事なのだ。とくに面白いと思ったのは、会話の起点の多くが、誰かが自分勝手な(自分ルールな)振る舞いをしているのになんか言いたくなって、というものだというところ。隣に夫がいるのに尻をぼりぼりと掻く妻に夫がとがめるとか、コンビニ店員の弁当の食べ方がおかしいとからかうとか、会話ではなく「つっこみ」。相互に相手に対する違和感を感じてそれを表明して、言い合いになって、、、とする間に進む時間。

面白い。とても面白いんだけど、このベクトルの向かう先にあるのは、ある種の美学的な巧みさ、技量の完成なのではないかと思い、10年先とかにいったいどんな達成がなされるのだろうという興味がわく一方で、そうした職人的な技量の達成はぼくの本当に見たいものなのか?などと思ってしまったりする。さまざまな文化事象を類型的にサンプリングしてきて、その組み合わせの緻密さや、意外性や、バランスなどをこらす。あえていえば「ニューペインティング」みたいなところがある(歪んでいく感じはフランシス・ベーコン?)。チェルフィッチュやヤナイハラミクニまたfaifaiが、世界の表象の仕方に対して独自の方法を模索しているのを「分析的キュビスム」だとすれば、そうした表象方法の独自性をサンプルはあまり試みておらず、簡単に言えば共通に「演劇的」なフィルターを通して世界はサンプリングされている。並べ方の緻密さは、ときに感動も爆笑も起こす、それは素晴らしいデザインなのである。

庭劇団ペニノ『星影のJr.』(@スズナリ)

2008年08月17日 | 演劇
8/15
薄闇の中で、子供が一人。舞台前面にリアルに設えられた畑に向かって水鉄砲を放つ。脇には、演出・脚本のタニノクロウがいて、何かをささやいている。ラヴェルヌ拓海というフランス系(だったか、パンフレットにあったのだが紛失)の子役に、教育を施すという設定。役者はだから教師的存在でもあるようで、だけれど、この教師の教師としての素顔などはまったく示されず、ただ冒頭に、大人の役者たちがスーツを着た状態で台本を読んでいるというシーンが置かれているだけ。けれども、そうした設定が、子供に大人の世界を教えるということと同時に大人の世界を子供の視点から(観客が)見ることを可能にしてもいる。まだ昭和的な一軒家。暗転後、太った男が茶の間に寝ている。父親の弟分のような男。そこに女があらわれ、彼にそうめんを勧める。彼女が妻。貧しいが楽しい家。けれども、そのバランスは、父に子供の弟を求める辺りからどんどん崩れていく。ひとつ、この舞台で大きいのは、性というモティーフだ。子供にとって身近にあり、決して触れられないもの。子供の目線からは、不可解なことだらけ。まるで『ブリキの太鼓』のように、子供とセックスの関係が描かれていく。「描かれる」とは言ってみたものの、舞台にあるのは、子役のみならず観客にとっても、「描写」という穏やかなものじゃなくて、タニノ一流の「遭遇」とでもいうべき出来事の連続。マメ山田は、赤いレオタード姿で奇怪な「赤ウインナー」なる存在で子役の前に立ち、その他にも、屋根に暮らしているという浮浪老婆が、彼の前に立つなどして、それはほとんど納涼妖怪大会みたいだったのだが、そうした異常さは、舞台空間にあるすべての事物を、不確かなものにする。
けど、なんだか、スーッとするのだ。ぼくは庭劇団ペニノを見るたびに、変に聞こえるかも知れないけれど、「カタルシス」を感じる。自分のなかのなにかが浄化されるような気になる。妻であり子役の母である女は、あるとき夫によって犬にされ、終幕まで舞台上で犬として存在する。代わりに、別の妻=母があらわれる。その母はなんだかセックスばかりして、父を翻弄するが母役に熱心ではない。と、ともかく異常事態が連続する、その光景になんだかカタルシスを感じてしまう。それは例えば『アンダルシアの犬』を見ている時のカタルシスに近いのかな、なんて思う。Aと見た後話す。話している内に、これは男性的なカタルシスなのかも知れないと思わされた。男の女へのコンプレックスが主題になっているのは確か。2人の母のそれぞれのなんともいえないなまめかしさも、マメが導く不思議な感覚も、どれもどうしても「好きだ」と言って、言い放ってしまいたくなる。

「@@ has a headphone」(STスポット)

2008年07月29日 | 演劇
7/27
チェルフィッチュの山縣太一とfaifaiの野上絹代と山崎皓司ら(あとパパタラフマラの松島誠)が出演するグループの1st live。演出はfaifaiのシノダ。STスポットの空間をオールスタンディングにして、ある一角を舞台とし、その一角を取り巻く壁に映像をディスプレイする。クラヴのパーティのなかに劇団が紛れ込んだような世界。観客とプレイヤーの隔たりが希薄な親密的空間は、ワンドリンク付きというライヴ的な演出が促してもいた。物語の断片がおかれる。だいたい二つ。ひとつは、友人と遊びの待ち合わせをするが相手にドタキャンされたという話。もうひとつは、バイクに乗っていたら交通事故にあったひとを一瞬みかけたという話。だから、どうしたということではない、「物語」というレヴェルから見たら破片に過ぎないような出来事が、「物語」へと結実しないからこそ、リアリティあるひとつの現実として浮かんでくる。そうした出来事とそこに漂う感傷にだれもが思い当たる節をもっていて、けれども、それは泡のようなものだから、だいたい不意に浮かんで消えていく運命程度のもの。こうした「泡」のようなものへのまなざしを丁寧に舞台化する力がfaifaiにはあるんだよなーとあらためて思う。

もうひとつ思ったのは、映像がとても効果的に用いられていたんだけれど、そうした映像に映る身体と舞台上の生身の役者たちがなんかほとんど等価なんだけれど、でも、絶対に等価ではあり得ないというなんだかとてももどかしい不思議な感覚について。今回に限らず、faifaiの身体は、とても映像的あるいはアニメーション的だ。いつも過激なディストーションが身体にかけれていて、その無理を笑ったり、その無理に非現実的なマンガ的身体を見たりしてきた。しかし、それは当然映像化された身体やアニメーションの身体がもつ「2次元性」には、とうていかなわない。どうしても、目の前の舞台上の身体は汗かくし生々しいし「3次元性」をともなってしまう。現実の身体は、なんか現実感の希薄な2次元性を帯び始めているのに、それでも実際はどうしようもなく2次元性をまっとうしきれないままでもある。このなんともいえない、じりじりするような「2.5次元」な位相こそ、ぼくたちの身体がいまおかれている現実なのかもしれず、そして彼らは、映像と身体とを乱暴に舞台上に共存させることで、その現実を意識させるのだった。

あと、以前から思っていたのだけれど、野上絹代のダンスは、これはとてもいいのではないか。オリジナリティの有無とかいっている視点からではこぼれてしまう、野上的ダンス(小指値→faifaiのダンス)の魅力について言葉が尽くされる必要があると今回強く思った。レディメイド的なダンスだということと、なんかとてつもないポジティヴな感じというのが、ぼくがいま思っていることで、どこにでもあるようでどこに行っても見られなかったダンスを野上のダンスに見ている。ユーモラスでかわいくてフレッシュなのだ。日本のコンテンポラリーダンスを語る際によく出てくる手垢のついた言葉ばかり並べてしまったけれど、そうした言葉の本当に純粋な部分にふれているような気がするのだ。もっと、じっくりと作り込んだものが見てみたいです。


Chim↑Pom、ヤナイハラミクニ「5人姉妹」

2008年07月13日 | 演劇
7/12
ようやく講義がほぼ一段落した(國學院の講義を月曜に一コマ残すのみ)。あ、ゼミはもう一回残っているか。ゼミでは学生と雑誌を読みまくってきた。なにかしらぼくの中で、彼女たちの視点が内在化してきたような気がする。いずれ、どんなゼミだったのか書き残しておきたいと思う。

午前は引っ越しダンボールをともかく片づけまくり(といってもまだまだ30箱は中身が詰まった状態で部屋に、廊下にある)、午後に恵比寿へ。Nadiffが再開した。小径を下って、ひょいと曲がる。と幽霊が出てもおかしくなさそうなアパートの隣に目新しいビルが建っていて、その地下にChim↑Pomの最新展示があった(Nadiff a/p/a/r/t)。「日本のアートは10年おくれている」というのがそのタイトル。ホワイト・キューブではなく、そうなる前のコンクリむきだしな空間に、スプレーで落書きがいたるところにしてあり、真ん中には、ションベン小僧がおしっこし続けている。床は水浸し。工事現場の足場を通路にして、そこから観客はその「いたずら者が夜中したい放題をした現場」みたいな場所を眺める、という作品。あまり、ぼくには正直「ピン」とこなかった。タイトルがそうであることにひっぱられ、「(日本の/世界の)アート」を相対化するような作風と解釈されがちなことだろう。けれども、不断に相対化するべきは、自分たち自身ではないだろうか。「アートを相対化するアーティスト」とみなされることは、Chim↑Pomを「アート」というものの内部で理解されることになろう。要するに、これを見た観客の多くは、こうしたタイトル、展示だと「ああこれがうわさのChim↑Pomかあ。なるほど会田誠の弟子たちという話の通り、偽悪に満ちていて、いまどきのアートって感じね、、、」と安全な、安易な解釈を容易に誘発してしまうことだろう。上階での書店の売り方と連動して、そう見られてしまうだろうことに、なんともいえず苛立ちをぼくは感じてしまった。むしろするべきは「アート」についてではなく「自分たち」についてであるだろう。自分と恵比寿とか、自分と書店とか、、、。そうした「自分たちへ向けた不断の相対化」こそがChim↑Pomの恐ろしさ、爆発力だとぼくは思いこんでいるのだけれど。「万引き」とか地下に書いているならば、是非、展示期間中Nadiffで彼らが万引きしたものを最後に展示会場の水たまりに放り投げるとか、そのくしゃくしゃになった図録だかから何か作品をつくり上げるとかして欲しいものだ。

帰り道、Aがアイスクリームのなかに鯛焼きを乗っけたカップをもつひととすれ違う。そ、それはなんだ?ということになり、うろうろすると、こんなところに!というところに、鯛焼き屋を発見。美味でした。Nadiff帰りの定番になりそう。

夜はアゴラ劇場でヤナイハラミクニプロジェクト「5人姉妹」を見た。
矢内原の「演劇」をみるといつも思うのは、演劇というのは、絶対的な存在である台本に対してそれをどう役者に読ませるのか、その形式に対する遊びなのだなということ。少なくともそこに「演劇」の遊びがあり、少なくとも矢内原や岡田は、あるいはファイファイなどは、そこにある「演劇という遊び」を遊ぼうとしている。さて、矢内原の「遊び」には、ではどんな特徴があるかというと、ぼくには、それは「漫画」のモードに近い何か、という気がするのである。以前「青ノ鳥」をSTで見た時にも、そんなこと思った。ギャグマンガや少女漫画(ラブコメ?)を実写でやろうとしたら、吹き出しなら一応収まる長いセリフは、役者に喋らせようとしたら、超早口でないとリズムが出ない。コマ割りのテンポが出ない。だから、ガンガン早口でどんどん展開する。過剰な舞台上の動きも、そうした漫画モードとして見るとそんなに違和感なく見られる。とはいえ、「漫画」を実演することがもちろん目標ではなく、いわゆる通常の「演劇」のモードを別のモードに切り換えてみること、切り換えても全然見られるし楽しいし、切り換えたって演劇じゃんということが言いたいというか、矢内原が最も言いたいことかは分からないけれども、そういうことになっているのではないかと思う。

そんで、ぼくは今回のこの「5人姉妹」を、とても楽しんで見た(とくに後半)。面白かった!5人娘のかしましい、かまびすしい感じからは、これまでの矢内原演劇の「群」のような役柄たちにはあまり感じられなかった類の「個性」が強く出ていて、それぞれの勝手な様子が演劇のキャラを読み取り味わう楽しみを与えてくれていた(前夜たまたま『ひぐらしのなく頃に』コミック版を読んでいたので、とくにそうしたゲーム的漫画的キャラ性に敏感になっていたこともあるのだろうけれど)。前半は、まだそうした個性が意識出来なかったのだけれど、一日6時間しか起きていられないという設定のひとりが目覚め、唯一の男である召使いを姉妹たちがいじめたおすあたりから、それぞれのキャラは見えやすくなり、激しい振り付けも、矢内原のスパルタ性(?)よりは、各個性がときおりはっきりと顔を見せる運動として、見る者が「つぼ」を得やすくなっていった。その「眠り姫」状態だったひとり(役名失念)の役者がなんだかとてもよかった。これまでの矢内原のダンス作品にも芝居作品にもいままであまり出てこなかったようなマイペース(おっとりさん)系(に見える)。そう、矢内原さんに縛られすぎないわがままさを役者がはっきしてくると舞台はすごく生き生きとしてくるのではないか。その点では、最初期の「駐車禁止」を見た時に感じた奔放さが、今作にはあったようにも思う。極めて一貫したテイストで構築された振り付けの完成度は、その時期以上に高まっているのはそうで、そうした点では明らかに異なっているのだけれど。

「アルプスの少女ハイジ」や「グリーングリーン」とか、世代を感じさせるネタよりも危うく交通事故死するところを助けてくれた「広島東洋カープのキャップを被って通勤するおじさん」という話の方がいいと思う。つまり、矢内原さんの世代から自ずと出てくる話題は、世代限定感を醸してしまうけれども(そして、そういうところに矢内原さんの実存というか作家性というかが色濃く出てくることになるのだけれど)、むしろ世代に閉じないネタこそ、舞台を推進させていたのでは。ぼくはそうした方向に突き抜けていく矢内原作品が見たいし、そんなこと平気で出来るひとのように思う。シリアス傾向が強くなって観客が固まっていく作品ばかりが矢内原さんの本領ではないはずで、簡単な言い方をすれば、ラブコメも出来るひとなのではないか、今作を見て、そっち方向への期待が強まったぼくなのであった。

faifai民家公演

2008年06月05日 | 演劇
6/2
下井草の民家を会場にしたfaifaiの公演「Chotto DaKeYOn~」を見た。ストーリーの細部は、彼らからのお願いで(公演後にそのような話があった)書くことができないのだけれど、ぼくは前作「ジンジャーに乗って」でも興味深く感じた、「自分たちについての語り」という形式をいま彼らが選んでいることについて、観劇後ずっと考えていた。基本的に、faifaiメンバーたちの過去の経験や現在の暮らしが話の素材になっていて、彼らはその自分が経験したこと、いま直面していることを観客に話し、その経験を追体験するような一種の遊びを用意する。
チェルフィッチュにとくに顕著な、観客に向けて自分のことを話す、というスタイルが、どんなポテンシャルを秘めたものなのか、ということについて、faifaiは、いま、取り組んでいるのではないか、となんてことなのか?とも思ってみている。チェルの場合には、観客に役者が語ることもあれば、役柄が語るということもあり、そして両者ははっきりと切り離されているわけなんだけれど、faifaiのこの公演や「ジンジャーに乗って」のとくに後半は、自分たちが自分たちを演じつつ、自分たちとして観客に話しかける。演劇の可能性というのが、演劇という形式の内部で更新されようとしているのがチェルのなかで起きている出来事だとすれば、faifaiでは、より現実に出会っている役者と観客との間で、だからもう演劇という芸術ジャンルの形式的なあり方というよりは、それが観客の手にわたり観客との共同作業として成立しつつある出来事が問題になっている。ほとんど、演劇のファンや関係者にとっては「意外」と言うよりも理解不能だろうし、そもそも未知の存在に相違ないchim↑Pomメンバー林が不意に登場したことは(chim↑Pomとfaifaiにある接点って???)、しかし、その点を考える上で、今後、とても重要になってくる気がしている。

快快(faifai)「ジンジャーに乗って」(@王子小劇場)

2008年05月18日 | 演劇
2幕構成。1幕は、ジンジャーに乗った男2人が、いつ降りるのか何をするのか決めかねている内に、強盗に襲われたり、「金持ち」と「ホームレス」があらわれたり、デモに遭遇する。2幕目は、どうして1幕目では何も起きなかったのかをめぐって議論をするかに見えて、役者たち本人が「焼酎ナイト」という飲みをしたときのことを中心におしゃべりをすることになる。
「あて振り」(『Review House』)とか「カラオケ」(「ベクトルズ」)とか、小指値(現快快)のことをまとめてきたぼくにとって、本作「ジンジャーに乗って」の何も起きないという事態(こーじは芝居の冒頭でこの作品のテーマは「無駄」と言う)は、これまで形式として示してきた演じることの、生きることの空虚さに、より具体的な肉付けを与えることになった気がしている。何かの出来事と何かの出来事が重なり「物語」といえるものが展開する、そうした展開の皆無な芝居は、もちろんベケットとか連想させるわけだけれど、一瞬一瞬のひとがひとと接触する際のすれ違い、出来事のおきない状態が、非常に丁寧にトレースされ、戯画化され、記号化され、遊びの道具になっていく。そこには、もう「あて振り」などととりたてて形容する形式など無くても、その方法の根底にあった、「何もやることがないけれども、それなのに生きている」とでも言っているかのような余剰感、あぶれ感が強烈なインパクトを見る者に与えている。なんだか強烈に切ないが、同時になんでか異常に躍動的な舞台。「芝居という嘘の場に何を持ち込んで遊ぶか」という演劇ゲームに対して、小指値から改名した快快が最初にしたのは、そうか芝居を演劇にすることも日常を演劇にするのもそんなに変わらないし、セグウェイ(ジンジャー)に乗れる未来といまもそんなに変わらないし、この変わりなさ(永劫回帰)がデフォルトなのだとすれば、さて、ぼくたちは「安楽死」と「国会自爆テロ」以外の希望をどうもてばいいのか?という問いかけとそれに対するひとつの回答だったのではないか。(途中)

快快「ジンジャーに乗って」のゲネプロを学生は見た

2008年05月17日 | 演劇
元小指値、現在は快快(faifai)と名を改めた彼らの新作「ジンジャーに乗って」が始まりました。当然の事ながら、相当な問題作ですが、それについてぼくがコメントする前に、いまぼくが勤めている大学(首都圏の女子大学)の学生を招いて、本番が始まる前日のゲネプロ公演を見てもらいました、それを見た彼女たちの感想をここに転載したいと思います。

これは「批評」という名にはほど遠いものなのかも知れない。けれども、同時に思うのは、ぼくでは絶対書けない何かがひとつひとつのコメントに絶対にあること。そこにあるのは、ぼくの盲点だとぼくは思いながら読みました。やや大げさかも知れないけれど、その点で彼女たちのコメントはぼくを批評しているようでもある。

ちなみに、ゲネ公演の後、ちょっとしたアフター・トークをしました。あと、セグウェイの試乗コーナーも。

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私は、プロの演劇を見たのがfaifaiが初めてでした。
他に比べるものがないので、良し悪しは言えませんけど、私はfaifaiの劇を気に入りました。
表現力のすごさに驚かされました。
こんな素人の意見は参考にならないかもしれませんが・・
劇終了後の質問タイムのときに、製作者は観客の”?”を解消しようとしてましたが、私は”?”が頭の中に浮かぶことは、この演劇にはあっていいものだとおもいまいした。”?”が心地よいというか・・・
同じ年代の人たちがこんなものを作れるなんて・・と、自分の凡人さも改めて思い知らされました。

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小劇場での公演を観るのは初めてだったので、舞台と客席が地続きなことからまず驚きました。
演者の方と目線が同じなので、こちらが見ているのと同時に、観客の私たちも見られているという
感覚があって、大劇場では無いことなので、どきどきというか、緊張しました。

無駄がテーマということで、会話のぐだぐだっとした感じが、例えるとしたら、
バンドのライブの間のMCを引き延ばした感じかなと思いました。

その感じは好きなので、決着がつかないまま流れていく会話とか、突然話が切り替わったりというのが
おもしろかったです。救命胴衣の方?が話していると、だんだんみんないなくなっていくというのは、
自分にも身に覚えがあって、若干切なくなりました。

一幕と二幕の間が、切れているのかいないのか分からなくて、ちょっと戸惑いました。

衣裳がすごく可愛かったです。

セグウェイの乗り心地は立ち乗りブランコみたいで楽しかったです。

遅くなってすみません。
夜分に失礼致しました。

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昨日はゲネを見学させていただくという機会を設けてくださってありがとうございました。私は劇団四季、東宝、宝塚などのミュージカルしかみたことがなく、演劇を生でみるのは初めてでした。とても面白かったです!ストーリーがどんどん展開して人の環境や心情がかわっていく…というストーリーではありませんでしたが、なにもすることがない空の時間の中でも会話は続き、動き続けているとおもうと不思議な舞台だな、おもしろいなと思いました。同じ会話がたびたび繰り返されていて初めはその会話によって時間の経過の仕方がよくわかりませんでした。しかししばらくたった今なんとなく分かってきた気がしました。やはり最後のお話の(セグウェイに乗っても乗らなくてもかわらなかった)という言葉をきいて時間の経過の流れがひとつにつながった気がしました。
面白い舞台を見させて頂きありがとうございました。またこのような機会がありましたらぜひ参加させていただきたいです。

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 無駄がテーマであるという舞台のコンセプトはとても面白いと思いました。そうした行為を通してさまざまなモノが見えてくるように思います。

 最終的に無駄をして、何が残るというか、感じるのかという問いが私には生まれました。しかし、最後に無駄は何の意味があるのか理解できませんでした。
無駄は無駄だっただけですか。それとも、飲み会の最後に主人公の一人が感じたように、生きていることを実感できる感覚を得るのは、人と人が関係性から生まれ
ることを意味しているのでしょうか。そして、最後にみんなで踊って、無駄だけどやっぱり人といるのはいいよね!ということを伝えたかったのですか。

 この演劇が伝えたかったことは、観客に楽しんでもらえるということだけでなく、「現代社会の私たちがいかに生きているのか」ということを伝えたかったのでしょうか?
若者の日常を内面・外面ともに如実に表していました。人と人とが生きていくには、コミュニケーションは不可欠です。
しかし、主人公二人のやり取りを見ていると関係を築いていくのさえ難しい、面倒だという内面が浮かんできます。
これは、とても変なことだけれど、だれも答えてはくれない。現代は、不安に不安を感じずにはいられない社会になっています。
そして、それは私たちの言葉の中に現れています。今回の舞台のワンシーンでは、役者が口々に「・・・・かもしれない」と言っていました。
まさに、社会や人への不安、自信をもてないことをこの言葉は表しています。そのような背景を含んで演じられていたのでしょうか。

 また、間によく、天気の話が出てきますが、これは何もないときによく天気の話を持ち出す・・・つまり無駄話?ということでしょうか。
または、富士山という象徴があるように、日本人の特性(天気の話しをよくする)ことを含んでいるのでしょうか。
そして、人は自然によって大きく左右されていくものであるという見解があるのでしょうか。

変な質問ばかりになってしまい、申し訳ありません。
ジンジャーやアスレッチクのような舞台は、観客を引き付け、とても面白いと思いました。
激しいダンスは、舞台ならではの迫力があり、とても楽しむことができました。舞台が現代の社会をこのように訴えかける場でもあるという新しい発見ができました。
ありがとうございました。
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ジンジャーに乗っての感想を送ります。

ダンスがすごく楽しかったです。
確かに、「ジンジャーに乗っても何も変わらなかった」ということを
言ってくれたら、とても分かりやすくなる気がします。

あと、これはすごく書いていいのか悩みますが・・
私は学校で人権を勉強するゼミに入っています。
人権といってもいろいろな問題がありますが
自分のテーマはホームレスです。
ゼミに入る前からホームレスに興味があり
その頃からホームレスへの夜回り(パトロール)に参加していました。

私の場合、ホームレスはさすらい人というイメージが強かったです。
たしかに、夏は野宿がしやすく
ブルーシートでテントを張るホームレスに自由や幻想を見た気がしました。
しかし、冬場になるにつれて
ホームレスの生活はとても厳しくなります。
さすらい、自由など
そうした憧れを表面部分だけ見ていた自分がとても情けなくなりました。

そして、何よりも思うのが
ホームレスは社会のゴミでは決してありません。
現在の社会の問題、あるいは社会構造が生んだ
私たちと同じ普通の人であって、被害者なのです。

そうしたゴミとか普通じゃないものが、社会一般の常識なのかもしれません。
「社会のゴミだから殺してもいい」というのが
ホームレスを襲撃する子どもの言い分であることが多いです。
けれど、それが当たり前となっている部分があるからこそ、変えたい
そんな風に思い、ホームレスをテーマに卒論へ取り組んでいます。

ホームレスがいい人ばかりではもちろんありません。
怒鳴りつけてくる人、アル中の人・・いろいろいます。
さすらい人もいます。
ゴミをあさる人もいるでしょう。
けれど、それは本当に仕方がないんです。
死ぬわけにはいかないのです。

快快さんの劇の発言に、私は悪意を感じません。
しかし、悲しくはなります。
ホームレスの人は劇を見に来ないでしょう。
だから問題ないかもしれません。
けれどもし、ホームレスの支援団体や人権にかかっている人がきいたとしたら
問題となる発言だと思います。
同時に深く傷つくかもしれません。

とても生意気ですみません。
あまり劇の感想ではないので、役に立たないのですが。
快快さんの劇自体にはメッセージがあって、とても考えさせられます。
何より、表情が生き生きとしていて大好きです。
明日からの公演も頑張ってください(といっても今日ですね)
今日はありがとうございました。

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 今日の快快の公演は想像より(失礼かもしれませんが...)かなり面白かったです。小劇場系の劇団というと、なんの意味もなく、何も考えず、ただの自己満でやっているというイメージがありましたが、今回はいくつかのテーマがあり、面白いと思いました。
 凄いなと思ったのは、まずデモのシーンです。手を広げてウヲォーと言うだけで大勢の人々が行進して押し寄せてくる感がありました。また、特に2幕目では、ただしゃべっているだけでなく、体で表現している事で、観せるという点でかなり楽しかったです。あまり変化のなく、普通のセリフだけでは面白くない所をあのように体を動かしてやると、観ていても面白かったです。次どのように動くのかある意味スリリングで、緊張感と脱力感が交互に来ることで面白かったのだと思いました。
 しかし、いくつか気になった点がありました。
 �劇場でも言ったのですが、最後の質問タイムで「ジンジャーに乗っていても乗っていなくても結局何も変わらない」ということを言いたかったと聞いて、やっと芝居後に1幕目と2幕目が繋がりました。ずっと2幕目は「どうやって1幕目ができたか」という説明だと思っていたので...だから、一番最初に何を伝えたいか遠まわしに言ったらどうでしょうか。例えば、劇の内容とかぶるような歌を流したりするとか...(←これはあまりいいアイデアではないですが。涙)それか、幕間か最後に主人公(?)以外の他の子達に「結局何も変わらないじゃん」みたいな事を言わせるとか...あまりいいアイデアは出せないのですが、テーマが伝わりにくく、それだけで面白みに欠けてしまい、残念だと思いました。
 �いまいち、いつから劇が始まって、2幕目はいつ始まって、最後はいったいいつ終わったのかメリハリがつかなく、劇がすこし締まりが悪かったと思いました。どっから真剣に見ればよいのか戸惑って、最初は内容に入れなかったのが残念です。
 �最初のダンスですが、「無駄」というのがテーマなら、もっと振りを崩して、もっと馬鹿馬鹿しい感じでやった方が面白いんじゃないかと思いました。先生のダンスの授業で見た、路上で素人がダンスしてて、MTV か何かに取り上げられた人達のダンスっぽくすれば良いと思います。あれこそかなり無駄であり、でも面白いから、その要素を取り入れてみたらどうでしょうか...?意外と皆、ダンスが揃ってたり、上手い人もいるので、逆にいまいち無駄というものは感じられなかったです。
 �「ゴドーを待ちながら」を参考にしているのなら、パンフレットか何かに、あらすじを載せておくとかしたら、それを基盤にして見るからより面白く、伝わりやすくなるのではと思いました。
 �何度か同じ事を繰り返しているとこがありましたが、もうちょっと最初と二回目を同じにすると面白いのではないでしょうか?特にヤンキーが出てくる所で、赤い子が「あぁーー」って叫ぶことがありましたが、あれが最初と二回目が長さが全然違い、「?」と思いました。そこで、一気に引いてしまいました。でも、同じセリフを繰り返すという意味によって、まったく同じにするべきかしないべきか変わってくるので、その辺は明確にしとくと分かりやすいなと思います。
 �あれだけのセットがあるから、もっと活用したらどうかと思いました。逆さまにぶら下がるとか。...でも、それが無駄という事で、テーマに沿っているから良いのかも...とそこは分からないのですが。笑

私は普段あまり小劇場系は観ないので、これらの意見が間違っていたり、失礼に当たりましたら本当に申し訳ありません。

最後に質問なのですが、
・何で「無駄」というテーマになったのですか?
・演劇というのは例えば「何かを人々に伝えよう」とかインドの演劇なら「神への祈り」や「伝統継承」など色々な思いがあると思います。今回の芝居では、今まで私が考えていた「演劇」という定義というか常識とはまったく違うものだったので、疑問を持ったのですが、今回の芝居は何の為の演劇なのでしょうか?「何かを伝える」という点が今回の芝居に当たるのかとも思ったのですが、「無駄」ということを伝えて受ける側として何を感じてほしいのか?正直、見終わった後、何を感じたのかいまいち分からず終わってしまって...例えば「何も感じない」で良いとしたら、演劇であるべきじゃなくて良いのではないか。極端に言えば劇場がなくても客がなくて照明がなくても良いのではないか。そこで、じゃあなんで芝居にするべきなのか?と思ったのですが、そこの所はどうなのでしょう...?(こんな事を考えている事自体「何かを感じた」という事になるとは思うのですが。笑)

自分の考えを文章にするのはとても難しいと今回、この感想を書いていて思いました。また、明日も公演があるようなので、早めに送らなければと思い、いまいち考えがまとまっていない所もあって・・・意味不明な所が多々あると思いますが、大目に見てください。

それでは。

PS・ジンジャーに乗れたのはかなり楽しかったです。小泉さんが乗っていたのをテレビで見たときから、憧れていたので・・・笑

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今日はお疲れさまでした。

わたしは最初の「ムダなこと」っていう言葉を聞いて、すんなり劇をみれました。

後半のも、ジンジャーがなくても、仲間がふえても相変わらずな感じで、ステキでした。


みんなで共食い?からどんどんといつめあってたシーンとか、ホームレスのところとか、がなんかいいなと思います。

実際の出来事の入れ方もよかったです。
あと、鉄の骨組みとか、タイヤのセットに登ってるときの雰囲気がすごく好きです。
それに、映像がながれるのも、映像とかとても好きで、興味があるので、不調だったみたいですけど、でも好きです。

みた感想というか、どう思ったかとか、何がのこったとかが、まとまってないというか、はっきりとはいえないんですけど、何かはしっかり感じたし、残りました。

演劇をちゃんとみたのは初めてで、でも初めてみれたのがこんなおもしろいと思える作品でよかったです。
ありがとうございました、明日からの公演もがんばってください。

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一番わかりやすかったのは、2幕で「なんで?」って鬼ごっこしているところ。

全体的に「よくわからない」という印象を与えるのは悪い事では無いと思うけれど、わからないまま放棄されないためのお土産というか時限爆弾を見に来た人に渡せたらいいと思います。

テーマである「無駄」の印象を最後まで強く残せたらもっと良くなるのではないでしょうか。


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劇団員の人はわかりやすい方が親切だからと言っていましたが、分からないままの方が私は面白いと思います。観劇後、色々と考える事ができるからです。自分なりの解釈を楽しむのも観劇の魅力の内だと思います。(演出家的には微妙でしょうか?)私は今日でた質問によっての変更はいらないと思います。
…でもビデオの音量はあった方がいいかもですが。


後先ほどは言うタイミング逃しましたが、焼酎ナイトぐらいは理解しました。説明は不要ですし、あるとむしろ微妙です。


庭劇団ペニノ「苛々する大人の絵本」(@青山 はこぶね)

2008年04月20日 | 演劇
ぼくの初ペニノ体験は、「小さなリンボのレストラン」で、その作品は、今日の活躍を予感させる過剰さと異常さに満ち満ちていた。とくにおかしかったのは、小さな青山のマンションの一室が客席と舞台になっていたことで、しかも狭小空間には、モノとしての自己主張の強いアイテムばかりがひしめく気味の悪いレストランが本当に建っていて、しかも足元には畑のようなものさえあり、本物の野菜が転がっていたりして、その異常さの質は、今となってはよくわかるのだけれど、あのときは興奮ばかりかき立てられ、青山通りを歩く帰り道まで、その余韻が残っていたのを覚えている。今回、そのマンションが再び会場となった。期待せずにはおれない。
修道女のような被り物をつけた女2人が暮らす部屋。天井と床には本物の木が突き刺さっている。女たちは、その木が漏らす樹液を楽しみにしている。それをかけると食べ物の味が毎回変わるのだそうで、女たちはミルクに芋を溶かしたような液体を食べ/飲んでくらす。ボート屋をやろうかと1人が言い出す。でも、湖を彼女は知らない。何か軽くある必要な知識や知性を欠如してしまったような状態の2人。鳥が死んだと嘆く1人に、もう1人は困った末、壁の孔に死体を突き刺す。後半、床の下の世界が現れる。そこには「受験生」が制服姿、ガリバー状態で寝ている。洞窟の世界?股間の辺りに、上からつららが降りてきている。受験生は、母にも妹にも受験を口実にわがままをしているようで、ぶつぶつと話す言葉の端々にそのひとりよがり加減があらわれる。彼も標準から逸脱した人間。この三人のすれちがったままの関係が最後まで続く。
「絵本」というタイトルにも連想が促された、奇妙なファンタジー。今回僕が面白いと思ったのは、乱暴な設定であるからこそ、演劇を作ることの面白さ、というか演劇そのものの面白さがあらわれる気がしたこと。子供のままごと遊びというか、砂場でのファンタジーが演劇公演になったような舞台。いや、本当に、リハーサルを見学する限り、正にそのような発想で積み立てられたものに他ならなかった。タニノの妄想の襞を現実の空間に、現実にあるものを利用しながら具現する、その乱暴狼藉、その身振りを観客は賞味する。「このストーリーにはどんな意味があるのか?」などという問いに向かうことなく。それは、タニノが役者たちに食べさせている奇妙な食事を食べるようなものだ。目の前にひろげられた光景をただただ見ること、それが以上だろうが何だろうが。けれど、そうした乱暴が、ある種の開放感を与えてくれる、ペニノの不思議なところ。何か人間の本質を言い当てられたような、それだからすっきりとした気分になるというような(仮に不治の病だとしても、病名が言い当てられたらすっきりする、というような)。ペニノの奇妙な癒し効果は、昨年秋のイプセン「野鴨」公演で、多くの人が知るものとなったものだけれど、このことについて、いずれ突っ込んだ考察をしてみたいものだなあと思っている。(4/20観劇)

参考資料
日記より 庭劇団ペニノ「笑顔の砦」
日記より 庭劇団ペニノ「アンダーグラウンド」
wonderlandより 庭劇団ペニノ「アンダーグラウンド」
庭劇団ペニノ「ダークマスター」
日記より 庭劇団ペニノ「小さなリンボのレストラン」(2004年5月28日)

4/3-4

2008年04月06日 | 演劇
4/4
三時の回で「非現実の王国で ダーガーの謎」を、シネマライズで見る。その後、庭劇団ペニノの稽古場へ訪問。来週金曜から始まる新作「苛々する大人の絵本」のリハーサルを拝見した。前回のはこぶね(青山のマンションの一室に作られた舞台空間)公演「小さなリンボのレストラン」に匹敵する奇怪な景色(あるいは庭)。役者の身振りもその頃のペニノにあったどくとくの「くせ」があらわれていて、反応する人はそれに強烈に反応してしまうことだろう。んー、演出家タニノクロウの脳の襞が舞台空間に具現化するみたいな、彼らの舞台の秘密がちょっとわかった気がした。タニノさんにはあらためてじっくりと話を聞かせてもらおうと思った。ぼくにとって、近年の小劇場系劇団の(中堅の)中で、もっとも今後の展開が楽しみな存在が庭劇団ペニノでして、演劇を根本から更新していくダイナミズムを感じているのだけれど(昨年の「野鴨」も本当に素晴らしかった!)、今回は、あえていえば、ペインティングではなくドローイングみたいなところがあり、その生々しい手さばきを堪能するのがいまからすごい楽しみなのだ。

wonderlandでかいた庭劇団ペニノ評を紹介しておきます。
「アンダーグラウンド」の舞台評

4/3
入学式。たいそう忙しい。

3/4-8

2008年03月09日 | 演劇
3/4
『ベクトルズ2』(仮)へ向けたミーティング。ベクトルズは(批評の)バンド。

3/5
古巣の研究室で祝ってもらう。

3/6
髪を切る。下北沢のプレゼンスという店に行っていたのだけれど、いつも切ってくれた若い男の子が、ヘアメイク・アーティストを目指し独立するという話を聞かせてくれた。インディペンデントで、貸し美容室を借りて今後切ってくれるそう。その後、立川で沢山のサインをし沢山のはんこを押す。

3/7
昼間、所用で役所巡り、都庁とかも(なぜあんなに立派な建物を造ったのか何度行ってもよく分からない)。その後、中野のタコシェに行く。『Review House 01』発見(平積みであと4,5冊になっていた)。『奇刊クリルタイ2.0』『コルプス 三号』『PLANETS』などを購入。六本木は、雨、ヒルズのエストネーションで「4:33」と宮島達男みたいな文字をソル・ルウィット的に並べたTシャツがあり、面白そうだと手にしてみたが18000円。買えるわきゃない。
チェルフィッチュ「フリータイム」を見る(@スーパーデラックス)。

3/8
JCDN「踊りに行くぜ!」を見る(@アサヒアートスクエア)。
KENTARO!「東京で会いましょう」
KIKIKIKIKIKI「サカリバ007」
プロジェクト大山「てまえ悶絶~3000円くらいの自己肯定~」
白舞寺「過火Crossing Fire」
今回出演された方たちが「コンテンポラリー・ダンス」の代表者なのならば、ぼくは「コンテンポラリー・ダンス」はあまり好きではない、ということを確認しました。恥ずかしくて、どうしても頭が垂れてしまいました(白舞寺の前半は、執拗な反復がダンス的な快楽にふれていた、けど)。総称としての「コンテンポラリー・ダンス(日本)」とは「ちょっと」ふざけてて「ちょっと」まじめで「ちょっと」かなしくて「ちょっと」くるしい、、、みたいな「ちょっと」感が構成するもののように見えて、それとぼくの好きなダンスとは、クリスチャン・ラッセンとピカソ(でもなんでもいいんですが)くらい違うのではないか、などと、、、きっとぼくじゃないしかるべき書き手がその価値を語ってくれることでしょう。それは読んでみたい。

五反田団「偉大なる生活の冒険」を見る(@駒場アゴラ劇場)。
その後、知人とミーティングす。