Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

I日記

2010年04月29日 | I日記
眠っている時に、「にたあっ」と笑うのは、夢を見ているからだろうか。
だとしたら、どんな夢なのだろう。
夢は言語的なものだと以前どこかで読んだ気がする。何かビジュアル・イメージを見ているようでそれはかなりの程度言語的なものだという話だった。言語というか観念が繋がって、ストーリーのような何かが生まれる、とすると、言語以前のIが、そんな夢を見ているとは言い難い。
「ああああアーーーーー」っと、突然絶叫して、五秒くらいでまた寝てしまうこともある。
どんなに哀しい夢を見たのか、と思うが、これまたどんな夢なのか、そもそも夢なのかどうかも分からない。
(2010/4/29)

火曜日に、大学に村松さんに来てもらって話をした。ところどころすごく面白い話が出来た。じっくり話すのはほとんど初めてだったので、不安だったけれど、最初の30分くらいが過ぎるとリラックスしていい感じで話が進んだ。とくに、学生に向かって話しかけてくれるようになってからよくなった。

I日記

2010年04月27日 | I日記
朝のごきげんと夕方のゆううつ。一日何度Iは泣くのだろう。とてつもない哀しみが襲うのか。「ひっくひっく」して体全体で泣く。「体全体」という話でいえばぼくが好きなのは、脱糞のときの絶叫。「ぎゃーーーーー」と叫びながらおならと一緒にジェット噴射。この「体全体」で脱糞する様は、絶叫の響きが素晴らしく、豪快で見ているこちらも気持ちがいい。

今日は、壺中天の村松卓矢さんを大学にお招きしてお話しを聞くことになっている。毎月一回ゲストを呼んで、そうしたトークをしたいと思って、これはほとんどアートを無邪気に愛せなくなってきたぼくのリハビリみたいなところがあって、学生にも聞いてもらいながら質問してもらいながら、ぼくの芸術愛を治癒していきたい。できたら、公開したいとも考えてます。

と、なんとなく、ここに文章を書くのを復活させてますが、「ブログに書く」という行為について自分でまだ思いが定まっていないというのが、正直なところなんです。子供についての文章だけは書いていても楽しいし、読んでもらいたいひともいるな、と思うので恐らく今後もそれを中心に書いていくでしょう。ひとの育児日記なんて読みたくないというひとは、悪しからず。

I日記

2010年04月25日 | I日記
「I!」と声をかけてもまだ振り向かない。「声をかけられた」と思って反応することはあるのだけれど、「名前を呼ばれた」こととしてその声を理解してはいない。昨日、今日くらいで、随分、気持ちが安定してきた気がする。椅子に座る姿勢ができるようになって(首がすわるようになって)、視野が広がり、刺激が増えたこともその安定につながっているだろう。付いているとテレビにずっと目を向けている。こんな時期から見せては、とも思うので消してしまったり、椅子の位置をずらしたりすることもある。ともかく、モビールが好きなように、動くものが好きなのだ。今朝は、『ザッツ・エンタテインメント』を見ていたら、寝そべっていたIがテレビを見ながらきゃははと笑い、体を激しくシェイクしていた。フレッド・アステアを見て喜び、自分も踊ろうとしている?なんて思って、おかしかった。Iはダンスに、とまではいえないにしても運動に随分興味のある人間みたいだ。
(2010/4/24)

さっき「エフエム芸術道場」を聞いていた。GEISAI大学の黒瀬陽平(くん)の回の後だろう飲み会の模様が放送された。Iは、9時に就寝すると12時、3時、6時にだいたい起きてぐずる。だから、夜中の3時台というのは、結構起きていることが多く、この番組をうとうとしながら耳にすることも最近たびたびある。村上隆と東浩紀がしゃべっているなかで、黒瀬も加わるといった流れで、ちょっと面白かったのは、東がマチエールの話をしはじめたときだった。村上隆の絵画の特徴は、ネットや紙媒体に落としても負けないアイコンの強さにあって(性格ではないがだいたいそのようなことを話していたと思う)、ただしそれだけではなく、実際に作品を目の前にするとマチエールの魅力がはっきりとある、そうした二面性を村上作品は持っているという話だった。このことは、作品論を飛び越えて、鑑賞論に展開するところがあって、つまり、ネットで村上作品を鑑賞することと、ギャラリーに行って本物の作品を鑑賞することとの違い、その二面性が村上(のみならず今日の美術)作品を見ることの内に矛盾として孕まれていること、またその二つの鑑賞態度に応える力を村上作品はもっているという議論へと広がる、面白い着眼点だった。さらに、話が盛り上がり、「サイトスペシフィックというのはマチエールの問題だ」(といったようなこと。うとうととあまりクリアではないしかも小さな音で聞いていたので、カギ括弧の中身は正確ではない)と東が漏らしたときに、村上は爆笑とともにこの定義を称賛したのだった。確かに面白い。で、2人のトークを聞きながら思っていたのは、昨日見たホナガヨウコとd.v.dの公演のことだった。

ギャラリーに行って作品を見るという行為が、何らかの意味でサイトスペシフィックでありまた同時にマチエールの問題だというのは、正しくダンスをあるいは演劇を鑑賞するという際に起きていることとでもある。この会場へわざわざ足を運び、舞台上で作品をライブで見ること。それは、ネット上で作品をチェックするのとは相当に異なる行為、とくに情報の量という点で大いにそうだろう。基本的には、ライブで見ることはYou Tubeで見るのに比べ情報が多いといえる。マチエールの効果が映像よりも強くあるからだ。でも、本当にそうなのだろうか、とも思う。それがホナガヨウコの公演を見て思ったことで、振付というのは、メディアである身体の情報を増やすのではなく減らす方向にあるものなのではないか。「振付」というか表現というものにはおおよそそういうところがあるのではないか。自然と芸術という対で考えてもみている。芸術というのは、おうおうにして自然のもつ情報を制限することで自らの可能性を示すものだったりするよな、などと。

Iが泣く。ぼくはその泣き顔から短時間に多様な情報を受けとってそこから多様なイメージを喚起させられる。昔の父親のこととか(Iはぼくよりも親父に似ていると思わせるところがある。隔世遺伝?)、自分の子供の頃の泣いた経験とか、徹底的に絶望的な表情をするときもあるのでそうした絶望的な境遇に置かれているひとのこととか。音の響きも素晴らしくぐっとくる。顔もたまらなく切ない。これは、Iに限ったことではなく、人間の身体という媒体は、それ自体でそうとうに豊かな情報をまき散らして存在している。芸術的表現というのは、その豊かさを隠して別の何かを見せることかもしれない。見ることの豊かさは、芸術を見ることでひょっとしたら貧しくなるかもしない。あと、目の前で踊るライブのダンスというのは、どうしても粗い。ぶれるし、間違うし、自分の本当にしたい動作の何割かしか実現できていないはずだ。この粗さというものを作家たちはどのように考えているのだろう。美術作品は、その点ダンスと違っていて支持体が生きていないので、徹底的に仕上げて固定することができる。音楽演奏にももちろんこうした粗さはある。けれども、ある程度誤差の範囲で収めるテクニックとか、誤差をさほど頓着しないようにする作品性などが一種の常識として共有されているように思う(もちろん前提としてItokenとJimanicaというドラマーの優秀さというのは昨日の公演ではあったと思うけれど)。また、あっという間に動きが生まれては消えていってしまうそれに観客をつき合わせるという点、観客の座席から見えるものに限界がある点など、一般的に考えればマイナスといえる(鑑賞という点で粗くなってしまう)点もいくつかある。ということは、ダンス表現というのは、粗さに目をつむってもするべきこと/したいことというのが目指されていると考えていいのだろう。ならば、それは、ということを知りたくて見ることになる。

芸術はマチエールの豊かさを自分の武器にするところもあるけれども、同時に素材の豊かさを隠しながら別の可能性を引き出そうとする行為なのではないだろうか。その点では、先に書いた村上の二面性というのは、さして大きな違いをもつものではないともいえる。
(2010/4/25)

I日記

2010年04月21日 | I日記
いま寝ている。昼の3時。昼食の時、生後3ヶ月を祝って、お食い初めを行った。Iがすることはほとんどないのだけれど(ぼくが間違えて口に入れてしまった黒ゴマと赤飯の粒をはき出すことくらい)、こちらはなにやら儀式めいたことをして、また自分たちの食事をして、その間、Iは先述のリクライニング・チェアーに腰掛けてにこにこしていた。Iはかなり早い段階で(一ヶ月前くらいからか)「疎外感」というのをもつようになっている。自分以外別行動していることが気に入らないようで、食事の時間によく泣く。赤ちゃんというのは、案外と孤独で淋しがり屋で、ブルースだ。

2時に妻が仕事に出かけ、2人きりになると途端に泣き出した。発作的な強い泣き方。妻の不在が哀しいのだと思ってあやしていると、簡単に泣きやみそうにない状態になってきた。あわててミルクをつくる。最近は、レンジでお湯をつくるというコツを覚え、早くできるようになった。発作泣きは、ミルクをあげることで解決した。ぐいぐいと飲む。そうか、やっぱり「妻(ママ)」と「ぼく(パパ)」ではなく、Iにとって今のところ2人の違いは「ミルクの出る人」と「出ない人」なのだ。出ない人のことが心配で泣いてしまうのだ。ミルクを与えるとその点の安堵感が生まれるのだろう。「さしあたりミルクの心配なし!」と思っているのだ、きっと。柔らかい表情になって、安心して、寝てしまった。

と、パソコンに向かっていると、「うわーん」と泣き出した。パンダを眺めていたら突然孤独が襲ってきたらしい。あやしてみるが、泣きやむ感じではない。ミルクはあげたばかりだし。では、とおむつを替えてみた。すると、泣きやんだ。よほど気持ちいいのか、うんちのついたお尻を拭く間、Iはたいてい嬉しそうにしている。Iは同じ「泣く」という表現でしか、自分の希望を伝えられない。「ミルク!」のときでも「おむつ替えて!」のときでも、泣くというサインしか出せない。孤独な存在だ。けど、希望が叶えば、こんな笑顔があるのかというくらいの笑顔になって、過去は綺麗に忘れてしまう。

Iが生まれて、ぼくのなかに起きた最大の変化は、未来を考えるようになったことだろう。Iにはともかく未来しかない。現在の彼はまだ、完成されていない製品のようなもので、現在の状態をもって彼がどんな人間なのかを決めることはできない(だから乳児や幼児や子供たちは亡くなってはならないのだ)。Iは未来そのものだというのは、きわめて具体的な話でもあって、彼が二十歳になるときを不意に思い浮かべたとき、六十歳手前の自分というものもおのずと考えさせられた。彼が成人式を迎えたり大学の卒業式を迎えたりするとき、自分はどうなっているのか。ほとんどその日暮らし的にしか生きてこなかったので、そんなことを考える自分に戸惑うということもあるけど。Iがやってきて未来がやってきた。
(2010/4/21)

I日記

2010年04月20日 | I日記
パンダが五頭たわむれるモビールがともかくお気に入りで、天井から吊した彼らをベビーベッドから見上げてIはひたすらにこにこしている。ときには声をきゃっきゃっと上げて大喜びする。そんなにパンダが好きなのか!とくま好きのぼくは嬉しく思うが、考えてみれば、Iはようやく妻とぼくの区別ができてきたくらいで(Iにとっておそらくぼくは「おっぱいのないもの」程度の存在でしかない)、モビールの図を見て「これはパンダだ」などと理解できているはずはない。実物はもちろん知らない。そうであるならば、Iはなににこんなに興味をひかれているのだろう。ものの運動に?そうかもしれない。ともかく車に乗っているあいだはご機嫌で、車窓の景色を見たり寝ていたり、泣くことはほとんどない。スピード好き?運動好き?空気の移動で揺れるパンダたちが大好きなIは、だからまだ自分の好みでそれが好きなわけではない。IというよりはIの脳がきゃっきゃっいっているわけだ。

Iというよりも脳が笑っている。

まだ人格も自己もない。あるのではと見る側が努力して見ることで、あるような気がするという程度にはある、のだけれど。

この感覚が不思議なのだ。笑顔がはっきりと出てきた二ヶ月目以降、次第に顔を見合わせて笑いを交わすようになってきた。とても幸福な気持ちになるのだけれど、同時に、この笑顔の交換はほんとうに「笑い合っている」といえる類のものなのか判然としないところがある。Iにとってぼくがどんな存在なのかよく分からないというところに、そもそもの原因がある。Iにとってぼくは誰なのか。いや、そもそも「誰」(ひと)というものをどれだけ認識しているのか、それが分からない。

Iの「笑顔」がよく分からない。「笑う」というのがもっぱら喜びの表現だとして、しかし表現というよりはただひたすらこぼれ出ているというのがIの「笑顔」だろう。笑顔はこうだと教えたわけではない。

脳が笑っている。

満3ヶ月が近づいてきている。一週間くらい前から手をつなぐ感じが出てきた。ぼくの手でIのこぶしを包むとIはこぶしをひらいてぼくの指を一本握る。最初、握る力が弱くてすぐに離してしまったのが、最近は力強くしっかりと握り続ける頻度が増えた。握りが断続的ではなく持続的になってくると、なんだかそこに「意志」のようなものを読みとりたくなる。「もっとここにいて」とか「ぼくはこの指掴んでいたいよ」とかメッセージしている気がしてくる。真意は分からない。分からないけど(分からないので)思うのは、持続的な動作に、「思い」を感じる、ということだ。

まだIの身体は充分に統合されていない。思わず腕が大きく動いて顔を強くひっかいてしまうなんてことがときどきある(思いと動作がまったくとはいわないまでもかなりの程度適合していないのだから、Iの動作のほとんどは「思わず」起こっている)。小さい傷が顔のどこかにひとつはある。泣くと全身が砲弾のように固まり(エネルギーがこもっている気がしてそんな喩えをしたくなる)、中心に向かって全身が縮まる感じになる。笑うと全身がばらばらに動いたり、伸びようとする動きからリズムが生まれたりもする。あとは寝ているか、ものをぼーっと見ているか。ものを両手で掴むなんてことはまだできない。首がまだふらふらしているので、すわることもできない。すわると「前」が生まれて、寝そべっているときよりも両手が自由になることもあって、前にあるものを掴むとかそんなことがはじまるのだろう。身体の位置がすべて他人によって決められてしまういまの状態では、上下や左右や前後ろは、きっとIのなかでとても曖昧な状態なのだろう。
(2010/4/14)

顔が少しずつ少しずつはっきりしてくる。「はっきりしてくる」とは、ディスプレイに使う色の数が多くなってゆくさまに似ていて、顔に表情が出てくるということだ。生まれた瞬間はモノトーンのようだったのが、かなりの色を感じるようになってきた。同じことが泣き声にもいえる。泣き声にうっとりすることがある。レインボー・カラーのように感じられる哀しい訴えに、手をさしのべつつ聞き入ってしまう。うーん、このカラフルさは、とくに泣き声の豊かな表情は、成長するにつれて訴えがより意図的になりまた社会的なコードへと変換されてしまうと失われてしまうものなのかもしれない、などと思ってしまう。どこへと向けたらいいかわからぬまま、不安で、不快で、体が泣く。その響きは結構美しい。

いまIはリクライニング・チェアーに腰をかけている。そういえば、同じ年頃の妻がここに坐った写真を見せてもらったことがある。仰向けに寝そべった姿勢から徐々に状態を持ち上げて、そうして直立にまで至る、すると人間のできあがり、ということになるのだろうか。なんて思って見ていたら、突然泣き出した。あやしてみると、にこにこに。しばらく手をつないでみる。手をつなぐことはいま笑顔を交わすことと同じくらい深いコミュニケーションのひとつになっている。握ると安心するようだ。顔が海になぞらえたら「凪」の状態になる。安定したと思って、手を離してパソコンに向かう。と、また訴えだした。訴えは、胸のあたりからうねりとなって哀しみが溢れてくるといった風にあらわれる。「うっ、うっ」とこらえつつこらえきれない気持ちが体の起伏と泣き声になって表出される。「わー」っと泣き出した。さざ波が大津波へ。もうこの欲求は、ぼくを通り越して妻へと向かっている。お母さんの柔らかい優しさが欲しいみたいだ。といっても、お父さん/お母さんの明確な区別はおそらくまだない。2人の輪郭は成就したい欲望のかたちとしてIのなかにセットされているのであって、いまのところそれ以上でもそれ以外でもきっとない。
(2010/4/19)