Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

3/22

2007年03月22日 | Weblog
火曜日(3/20)、事務の仕事をしている大学で仕事の合間図書館で『美術手帖』の72年ごろから(76~81年ごろが製本作業中で欠本していたが)84年までを借りてザザザーッとブラウズ。必要な部分をコピーしていった。本当に70年代半ばのしらけムードはなかなかすさまじい。60年代にあらゆる新しいトライアルは生まれそこで出尽くし、10年後ブームが去った後、指針がつかめぬままひたすら続く迷走。ポップアートの勉強。ハプニングとの親和性などについて。

水曜日、前夜から田舎に帰省。父親の仕事の話を聞いて慰めたり(世間が教育問題と言えば、まっさきに批判の対象にするあの役職に就いている)久しぶりに家族とゆっくり話す。午前中だけ、ドライブをして過ごす。ふらっと寄ったここが、いやよかった。Aともども温泉好きな2人の新しいお気に入りですね。白子町の砂風呂。昼ご飯は、帰省すると定番のぐぅ ラーメン。この真っ黒なスープが美味いのです。横浜・野毛の三陽に並ぶ、ぼくのなかの「ワルい」料理ですね。餃子がこれまた凄くて、ニンニクが強すぎて一口食べると苦いと感じるくらい。その後、東京に戻り、山賀ざくろのリハーサルを見学に行く(本番が見られないので!)。六割くらいの状態、でも、期待出来ますよ。これ、見逃しちゃだめですよ。すべては当日の山賀の気分に掛かっていたりもしますが、水物的なところがあるのは、パフォーマンスというもののなかにあるきわめてデリケートな部分へ果敢にアプローチしているからこそなのです。

明日(3/23)からバリへ旅行に行きます。以前ちょっと覚えたインドネシア語を思い出しています(「スラマッ・パギ!」「トゥリマカシッ」「ティダ・アパアパ」、、、音がかわいいんですよね、インドネシア語。ちなみに例えば、男性のことは「ラキッラキッ」女性は「プルンプアン」と呼びます。ね、かわいいでしょ?)。今回は椹木さんの奥様から紹介してもらったガイドさんが待っていてくれています。バリは深い襞が何層にも重なっているような不思議な場所で、どんなナビゲイターがついてくれるかで、そしてその人物がどの襞にどこまでの深さでアクセスするかで何が見えてくるかが変わってくるのです。前回の旅行では、ウブドの美術館、アルマのオーナーであるアグン・ライさんが偶然にもナビしてくれて、ほんとに信じられないくらい美しいみずみずしい世界を堪能出来たのでした。三年前のバリ日記、もしよかったら覗いてみて下さい。4/2に帰ってきますが、それまではメールの返信が滞ると思います。

あと、wonderlandに今月の吾妻橋ダンスクロッシングについて寄稿しました。現在は、メルマガでのみご覧頂ける期間ですが、しばらくすればHPにアップされるはずです。ご一読を。

では、真っ黒になって帰ってきます!
サンパイ・ジュンパ・ラギー!

山賀ざくろ「卒業」を推薦します

2007年03月19日 | Weblog
山賀ざくろの新作公演が迫って参りました。あの、松井みどりさんとぼくとで二月のレクチャー中熱く語り合ってしまった、山賀ざくろです。おじさんだし、ダメ系だし、コンドルズみたいな愛嬌もないけれど、必見です。何周遅れなのか何周先なのか、どっちか分かりませんが最先端です。シャイネスのダンサーです。当日フラリ行ってみようかと思ってらっしゃる方も、当人が喜びますので、予約してあげて下さい。

** 山賀ざくろソロダンス公演「卒業」**

日 時:2007年3月24日(土)19:00開演
        3月25日(日)15:00開演
   (開場は開演の20分前・各日定員30名)

会 場:Studio GOO(京王線千歳烏山駅下車徒歩10分)
    東京都世田谷区粕谷4-7-19
    http://www32.ocn.ne.jp/~stgoo/dh/goomap.html
    03-3326-4945(公演当日のみ)

料 金:前売・当日とも2000円

予 約:zakuroro@gmail.com
    JCDN ダンスリザーブ http://dance.jcdn.org/

お問い合わせ:090-3595-4464 zakuroro@gmail.com

*24(土)は席が残り少なくなってきております。
 25日(日)も含めお早めのご予約をお願いいたします。

◎3月30日(金)・31日(土)にダンス公演を予定している手塚夏子さんとの
 対談が手塚さんのホームページにアップされています。手塚夏子との対談

中野区出張ダンスレクチャー

2007年03月18日 | Weblog
昨日(3/17)は、大橋可也&ダンサーズの大橋さんが企画をしてくれて、ダンス関係者(振付家、ダンサー、技術スタッフなど)をお迎えしての出張ダンスレクチャーをした。13名もお越し下さった。チラシなどでの告知なしにこれだけのひとが集まってくれた、これはもう企画して下さった大橋さんの人望の賜、スゲー、とちょっと感動。しかも今後、月一回のペースで行うことになった(次回は、4/21を予定。暗黒舞踏を取り上げることになりそう)。作り手の側の方々に話をするというのは、二月の「超詳解!20世紀ダンス入門」のときに思い描いていたことだった。今回の機会は、まさにそうした意思を実現することになる。とても嬉しい。ただし、のんきな(と言ったら失礼かな?)学生向けの大学の講義と違い、本気で明日の自分の公演に活かそうと思って真剣に来て下さっている方々の前で話すのだから、より具体的で本質的なところに迫る話をしなきゃいけない、と思うとまだまだするべき準備があると痛感した。でも、ここで踏ん張ることで、ぼくも成長出来るだろうし、それがこの出張レクチャーの受講者の方々の作品作りにきっと良い結果をもたらすことになるだろう。そう信じて、四月の回を準備しようか、と。それにしても、四時間のレクチャーが終わり22時を過ぎた中野は凄く寒かった!雪降りそうなくらいの冷たい風。ちょっと風邪ひいた?

今日は、先月まで通っていた英会話学校の先生でいまは友人のアメリカ人Q(あだ名)が、午後に遊びに来た。2人であるプロジェクトを立ち上げようと相談。日本にいる外国人向けに日本のArt&Cultureを紹介するBroadcast Web pageを彼が作りたいというので、それについて色々と話し合う。簡単ではないだろうけれど、上手くいけば何らかのnextを生み出すに違いない。その後、入れ替わりで、今年度ゼミを担当した大学の学生が遊びに来る。珍しくお客さんの多い日だった。


■17日発売の『美術手帖』に、「マイクロポップの身体:美術とパフォーミング・アーツの今日的交点」というタイトルのエッセイを寄稿しました。西島大介さんのポップな批評漫画(?)の隣です、そのこと、ちょっと嬉しい!ご一読を。

■また、その『美術手帖』に告知が出ていますが、4/13(金)の六時半から、青山のナディッフで松井みどりさんの『マイクロポップの時代:夏への扉』出版記念トーク・イベントがあり、そこにゲストとして出ます。せっかくなので、ダンス、演劇、美術、音楽といった諸ジャンルのなかで、ぼくがマイクロポップの境界線上にあるのでは、と思う最近の作品を松井さんと一緒に見て、マイクロポップの内と外を検証し、マイクロポップの輪郭を明らかにする時間にしようとひとり目論んでいます。ぼくのみならず、美術作家の泉太郎さん、水戸芸術館・学芸員の森司さんもいらっしゃるとのこと、です。是非、お越し下さい。

五反田団「いやむしろわすれて草」(@アゴラ劇場)

2007年03月17日 | Weblog
四姉妹の三番目が病弱で、彼女を中心に回っている家。母はずいぶん前に蒸発し父は先日倒れた。弱いものを囲むように出来上がった家族のなかで一番孤独なのはとうぜんその弱いもの(三女)なのであり、その弱いものが外との関わりのなかで震えているさまが丁寧に描出されている。とくに、構造としては、現在が語られる合間合間に過去の場面が差し込まれるのが特徴的。ほとんど移動することがなかったろう病床を中心とした三女の生活がどのように積み重なっていったのか、過去の描写とともに明らかになる。近作「さようなら僕の小さな名声」ならば、現実にはありえないファンタジー空間が現実とつながっていたが、それがこの過去の作品(の再演)では、ファンタジーではなく過去に現実がつながる分、大きなダイナミズムは生まれない。静かな、叙情的な舞台。姉妹相互あるいは父親や友人との関係のディテールを丁寧に開いていく、その点では素晴らしく面白いのではあるが、何か物足りない気持ちにもなる。

はじめて読んだ西尾維新

2007年03月16日 | Weblog
これまで読んだことなかったんです、すいません。『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』(2002)を読みました。なんだこれは、す、す、す、すごい面白い。そしてさらに驚いたのは、彼はこれを二十歳で書いたということ。凄い。ライトノベルというジャンルのことをぼくは正直よく把握してないんだけれど、これ、傍流ではなくむしろ正統の文学じゃない?と思うんですよ。例えば、スターンの『トリストラムシャンディ』が文学のある種の王道であるとすれば。引き続き『きみとぼくの壊れた世界』を読書中。これも、やっぱり面白い。中学生でこれを読めたら、と中学生を恨めしく思う。青春小説ってやっぱり読む側に「旬」が絶対ある気がするから。現代の『フラニーとゾーイ』(サリンジャー)だよなー。いろいろと考えるところはあるんだけれど、レトリックのこととか。でも、一番良いと思うのは、言葉をどんどんちぎってはパッと紙面に置いてどんどん次に進んでいくようなところ。ひとつひとつの言葉が等しい価値をもつ必要なんて考えてみればないんであって、大事なところはじっくり進み、走り抜けたい部分はポンポン言葉を投げ捨てていく。その運動、紙面空間(=イメージ空間)の疾走感とかが心地よいし、それを読者がとてもリアルに体感出来るようになっていることにまた驚く。

ここ数日は、20世紀美術の資料集めと整理に奔走。
火曜日は、『美術手帖』の1968-71年ごろのものを、とくに同時代的な事象に関わる部分を一通り読んだ。興味深かったのは、68年は誌面が非常にホットなのに対して71年ではその熱が消え明らかに「しらけ」が起きてしまっていること。単純に、カラー図版が68年には多いのに、71年くらいになるとめっきり少なくなってしまう、とか。70年頃から起きるのは、ドメスティクな関心。それまでニューヨーク事情を知ることに躍起になっていたのに、突然、日本のアート・シーンや演劇、映画、ダンスシーンに振り返えるのがなんか特徴的。そこから出てくるのは、まねっこばかりであんまり生産的なものが出てきてないよね、という失望感で、笑っちゃうのは、72年の8-9月合併号(合併号!)の特集タイトルが「ああ 現代美術」。
水曜日は、アマゾンで注文したヴィト・アコンチの本と美術作家の言葉を集めた1000ページほどのアンソロジーが届いたので、それらを中心に、59年-70年代前半のパフォーマンスアートのおさらい。ケージの色合いが濃い(故に、コンセプチュアル臭の強い)アラン・カプローの「ハプニング」「エンヴァイラメント」から自己反省的でみみっちいヴィト・アコンチへの展開をつらつらと考える。
木曜日は、彼らの考えのもとを辿っていくとダダや未来派にどうしても戻らざるを得ない、ということで、ダダと未来派の宣言などを読みあさる。未来派=モダニズムVSダダ=反モダニズムの対比とか。60年代の主流が美術や音楽の運動だったとすれば、前世紀初頭の運動は文学が主導的な役割をになっていた。そのことのパフォーマンスという観点から見た意義について考える。そう、文学ってどこに存在するって、活字ではない、というか活字だけではないっていうか、そもそも活字のないときから文学的なものはあったわけで、そのとき(例えば、竪琴弾きによる口承伝文学としてのホメロス作品とか)、文学的なものとそれを身体を媒介にして伝達するというパフォーマンス的なものとは、切り離せない一つのものであったわけで、そうした文学におけるパフォーマンス的側面を、19世紀のググッーと諸芸術を純粋化しようとしたベクトルがないものとしようとしたにすぎないわけで。で、ないと思っていたものを再び「ある」といったのが、ダダや未来派だったんじゃないかと思ったりしてみる。ただ単に「反芸術」(ダダ)とか「愛国主義→ファシズム」(未来派)という切り口で見ていても面白くないじゃん。意味からの自由は、(既存の)観念からの自由であるばかりか、また内容の放棄=形式の内容化ばかりでもないとすれば、意味の伝達の際にも含まれていたはずのしかしそこでは意味のレヴェルに隠れて見えにくくなってしまうところの伝達の仕方やそこに生じるコンタクトの次元(社交的空間)を開くものだったのではないだろうか(ぶつぶつ)。

今晩(3/16)待望の五反田団「いやむしろわすれて草」(@アゴラ劇場)を見に行く。なにせ、来月放送予定の「さようなら僕の小さな名声」が見たくて、シアター・テレビジョンに入会しようとしていくるくらいですから。待望。

それで、明日は、あるカンパニーとその周辺の振付家、ダンサーの方々の前で「出張20世紀ダンス入門」をします(インテンシヴにジャドソン的なものに限定。イヴォンヌ・レイナー「トリオA」→モリス「サイト」→トリシャ・ブラウン→ピタゴラスイッチなどなどといったメニュー)。今回はとりあえずあまりオープンにはしてませんが、「ダンス入門」の出張版を今年どんどんやっていきたいと思っています。二月に横浜にお越しになれなかったダンサー、振付家の方々、iBookとDVDもってどこでも出張しますよ。ダンス史に興味をもったら、そのアイディアの宝箱をがさごそしてみたくなったら、気軽にご連絡下さい。何分、目下のところ、ぼくにはダンス史を講義するコマがどんな大学にもない(涙、美術ならあるのに、、、)!ので、ゲリラ的にやろうと思っています。随時希望募集中です。メール(アドレスは、木村HP内の「About」を参照)下さい。

Performa

2007年03月12日 | Weblog
いま、来年度の講義の準備でいろいろな調べものをしている。基本的にネットを活用。一昨年に行われたローズリー・ゴルードバーグのキュレーションによるイベント「パフォーマ」。そこでアブラモヴィッチが行ったパフォーマンスの記録を残しているページがあった。これは、凄い。Performa (2005)
とくに、ヴィトアコンチの「苗床Seed Bed」のことを調べていて行き着いたんですが、レクチャー第8回で東谷さんが取り上げてくれた例の「引きこもりパフォーマー」(?)ヴィトさんです。この「パフォーマ」今年もあるそうなんですが、行きたいなー。『美術手帖』で連れてってくれないかなー(無理だろうなー)。

ポツドール『激情』(@本多劇場)

2007年03月11日 | Weblog
3/10
北国の田舎町、隣の農地を買い占め事業拡大を図った両親、二度の台風が彼らを自殺へと追いやる。冒頭、両親の首つりのシーンから突然始まる。その息子が主人公、無気力で借金を返す努力をしない彼の周りに集まった男たち。肩代わりをした暴力団員風の男からの借金をさらに彼らが肩代わりすることになる。先輩後輩、同級生、事業に成功した元いじめられっ子とやんちゃしていたが今はうだつのあがらない元いじめっ子(このいじめの関係は被差別へと繋がっていることが最終的に明かされる)、そうした男たちの力関係のなかに3人の女が絡まっていく。性欲という人間の動物性が暴力的に実現されようとする時、人間の道理が都合良く暴力の理由付けに浮上する。その曖昧にあらわれる道理の形のなかにしか「人間」がここには残っていない。いや、そんな人間が消滅しても残っているのはやはりある種の人間である。というか、その「ある種の人間」こそ、人間そのものなのかも知れない。べたないいかたではあるがポツドールほど「人間とは何か」を深く問うている劇団はないのではないか、と見た後のショックのなかでそう呟いてみたくなる。

ふっー。
見に行ったのが土曜日の昼と言うこともあって、カップルで来てしまったお客さんが多くて、観劇後のロビーでうろうろしている彼らの硬直した顔が一層、ぼくのなかにある劇のショックを増幅してしまうのだった。

吾妻橋ダンスクロッシング

2007年03月10日 | Weblog
吾妻橋ダンスクロッシング、The Very Best of Azumabashiをいち早く見てきた(3/9)。
「吾妻橋~」で企画・構成の桜井圭介が一体何を実現させたかったのか、それが本当によく分かる快作だった。The Very Best of~であり、かつThe History of ~というか。「吾妻橋~」をまだ見ていないひとはほんと、今日はお見逃しなく。残念ながら、昨日そうだったようにkiiiiiiiは体調不良のため出演しないようだけれど、そのかわり(というのでもないのだけれど)、話題(!)のChim↑Pomのプロジェクト、渋谷のセンター街でネズミ捕まえて剥製のリアルピカチューを作った作品とか、その捕獲の模様を映したビデオが見られる。こうしたちゃめっ気というか毒っ気というか、悪ノリも吾妻橋的な何かだということが前作の鉄割アルバトロスケットのネギバトルあたりから浮上してきた。あと、少し早めに行くといいですよ、会場入り口で、河童次郎の「かっぱ橋ダンスクロッシング」やってます。

プログラムリスト(3/9)
o. 河童次郎「かっぱ橋ダンスクロッシング」
1. オープニング
2. 康本雅子「姉?」
3. ボクデス&チーム眼鏡「小手指商事・営業課」
4. 身体表現サークル「ザ・ベスト」
5. 宇治野宗輝&ザ・ローテーターズ「EVEN THE BEST CAN GET BETTER WHEN IT'S BIGGER」
(休憩)
6. Off Nibroll「Chocolate」
7. 康本雅子「ブッタもんだすって」
8. ほうほう堂×チェルフィッチュ「ズレスポンス」
9. KATHY「MISSION / R」
10. Bonus Track「!?????!」

松村卓矢「どぶ」(@シアタートラム)

2007年03月09日 | Weblog
大駱駝艦の若手集団を壺中天と呼ぶ、そのなかの1人、村松卓矢による公演を観てきた(3/8)。

最近、舞踏と称する個人・集団のなかで群を抜いて活きがいい壺中天。とくに、男子たちのどう猛で愛嬌のある野獣振りは、束になると妙なパワーを発揮する。室伏鴻と組む目黒大路や鈴木ユキオがストイックで故にマッチョな方向に突進しているのと比べると、壺中天の男子はふざけているようで不真面目のように見えるが、そのスキが観客とのコンタクトを豊かにしている。白塗りはしていても、リアルないまどきの男の子の正直な感じがあって、それがいいなと思う。

5メートルほどの高さの、一段が130センチくらいある三段の階段(幅は1メートルくらい、結構狭い)を中央に設け、そこからガタンゴトン倒れながらぞくぞくと全裸に近い白塗り男たちが転がってくる。その無鉄砲な「もの」ぶりが最初から引きつける。どろのかたまりのようにもみえるし、下水に潜む魑魅魍魎といった風でもある。常に彼らの主要なアイテムとなっていたのは、2メートル弱の板。八人ほどの集団が板の下に仰向けになって、布団にくるまった(首の辺りに固定の枕を付けた)支配者がどぶを通るための道を造る。いなばの白ウサギ状態で、若者たちが踏みつけられるためにせっせと道を作る。あ、これ、神村恵「山脈」でも似たようなシーン見たぞ、と思う。ひとがつくる山の稜線を次々とひとりずつ渡りながら渡り終わると今度は自分が稜線をつくっていく例のあれ(「しはに」にもちょっと似たシーンがあったっけ)。神村の場合、残念なことにその「渡る」というゲームをダンサーが実にするするとクリアしてしまった。それだと、タスク性があまり発揮出来ず、へたするとそういう振付なのかという印象しか残さなくなる。そのときそのときにおこっている出来事の変化を楽しむ余地を観客がえられなくなってしまう。その点、このワイルド男子たちは、板の下から体を踏みつけられるという過酷な試練(ゲーム)を設定する(タスクとする)ことで、その「渡る」プロセスを観客が十分に味わえるものにしていた。どっちに行こうかなと支配者が意地悪く逡巡すると、新しい道を右に造ればいいのか左に造ればいいのかと両端の者たちはまさに右往左往し、また真ん中ではその逡巡する足に踏みつけられて苦しむ者もいる。あ、これって日曜の昼にたけし軍団がたけしにいじめ倒されていたあの「ガンバルマンズ」じゃん!と思って、そうなるとさらに可笑しくなる。タスクな状況がきちんと成立しつつ、そこからエンタメの要素もしっかりでている。こりゃ面白いわけだ。「もの」として粗末に扱われるなんてところ、舞踏的な要素がたけし軍団的エッセンス(っていうか、そもそも壺中天は部活っぽい、上下関係とか感じさせるし)とふれあっている気がしてしまう点だ。

そう、今回強く感じたのは、壺中天の構成要素のなかに「タスク」的なものがしっかりあるということ。この板以外で今回目にとまったのは、大駱駝艦お得意の「スッ」と小さい息を漏らしてする合図。この合図があると、それまでの振りから次の振りに移行するのだけれど、その不自然とも思える「次」の合図が「指示」として全員に伝わり、「前にゆっくり歩きながら右手を下でぶるぶる回しつつ顔は笑って舌べろべろ」とかを全員がすることになる。やっている動きは奇妙だし、いかにも舞踏的なフレイバーではあるのだけれども、その構造だけを取り出してみれば、実にジャドソン的なポスト・モダンダンスのそれなのではないか。つまり、先ほどから言っている「タスク」というか「インストラクション」のこと。大事なのは、いちいちの振りをフォルマリスティックにとらえ全員がそれを美しく均一にやろうということではなく、それぞれの解釈で振り=お題をやっているところ。結構、解釈によってバラバラな形やスピードが起きている。そこが、今回ぼくの目に「タスク」だなあと思わせた最大のポイントだろう。

若林淳が途中、ほとんど死体っていう状態でこれまた奇っ怪な3人娘(?)たちに囲まれ慰み者になっているところは、壺中天の身体的かつ娯楽的力量を見せつけるものとなっていて、そこもまた魅力的ではあった。けれども、ぼくにとって今作はやはりともかくも板。後半も板は中心的なアイテムであり続け、とくに、寝そべって板に白い体を巻き付けるところは、なんだか今度は板が「白いキモい男たちにからみつかれる」というタスクを課せられているようで、板レヴェルにもの扱いされる男たちと、男たちレヴェルにいたぶられる存在と化した板という奇妙なコントラストが感じられた。最終的なところにあまりしまりがなくてそこは残念だったのだけれど(「2001年壺中の旅」みたいなスペクタルの方向にもっていかない分、ラストはどうしても不完全燃焼気味になるとしても、その姿勢によって上記したタスクの要素が味わえた気がするからぼくは良いと思う、しそもそも「どぶ」だもんなタイトル、「どぶ」にスペクタクルは似合わない)、実に色々なポイントで楽しめた、壺中天のいまの勢いを感じる作品だったな。

黒沢清『叫』(@シネセゾン渋谷)

2007年03月07日 | Weblog
2月のレクチャーから昨日の大谷さんとのトークセッションまでが、ぼくのなかでひとまとまりのイベントだった。それが終了し、ようやく余裕のある時間が出来た(大谷さんはきっと今日も原稿書きで忙殺されているのだろう、頑張ってくださいー)。

ぶらぶらするために、渋谷へ。そして、久しぶりに映画を見た。黒沢清の新作。東+北田の『東京から考える』も買った。

東京芸術見本市

2007年03月06日 | Weblog
3/6
東京芸術見本市(@東京国際フォーラム)での、大谷能生さんとのトーク・セッション「「映された」身体表現にみる戦後から現在までのアートの諸相とこれから」、お越し下さったみなさん、早朝からありがとうございました。トーク中に大谷さんがお客さんの数を数えたらしいのですが、70名はいらしていたとのこと。今後も、大谷さんとのセッションは何らかの形で続きそうです。

今日は、「ゲイジュツなんておいていけ!「踊る身体」はストリートにあり!」「舞踏という生き方」の二つのイベントが午後にあり、次のパフォーマンスを見ました。

ひとりでできるもん
ISOPP & O-HASHI
はむつんサーブ

金沢舞踏館
イマージュオペラ
舞踏舎天鶏

その後、夜に丸の内ホールに会場をかえて「JOYFUL CALCULATION!/楽しい計算音楽!」というイベントもあった。
ここでは、

杉本けい一
d. v. d. - itoken+jimanica+ymg
PARA

を見た。とくにd. v. d.は凄かったナー。これいまからぼくのかっこいいの基準。山本精一のPARAもさすがのかっこよさ。3組とも映像を使ったパフォーマンス。インストのバンドのストイックになりがちなところがビジュアルと組み合わされることでいいポイントで楽しめるものになっていた。

返信にかえて

2007年03月05日 | Weblog
先日のレクチャーに来てくれていた若いダンスファン(「ファン」なんて言葉はあれですが、下記を見るように彼はnibrollのこの作品「no direction。」を、妻有ver.も福岡ver.も見ているわけで、これを「ファン」と呼ばずになんと呼ぶか、という気持ちで)から、次のようなメールを貰いました。ありがとう!こういうことがはじまるんだね、レクチャーの後に(ほんと、嬉しい)。彼から承諾を得たので、彼のメールにレスするという仕方で、ぼくの「ださい」発言の真意を書きたいと思います。

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blog拝見したのですが、nibrollについて後日追記予定ということですので、
今回初めてnibrollの本公演を見たnibroll初心者から、便乗質問させてください。

木村さんが今になって「ださい」と言いだした、ということは、

(1) 「ドライフラワー」までの作品はださくなかったが「no direction。」はださい。
(2) 「ドライフラワー」までの作品と比較すれば「no direction。」はださくはないが、
  時代が3年進んでいるので、相対的にださくなっている(=時代から取り残されつつある)。

のどちらかだと思うのですが、どちらなのでしょうか?

過去作品を生で見ることができなかった人間としては、
発売されているDVDに収録された断片的な映像を頼りに憶測するしかないのですが、
その限りにおいては、
本作でいきなり急に「だささ」が前面に出てきたようには思えず、むしろ
「過去作品や本作の妻有/福岡版に比べると、本公演ではだささが減ったなぁ」
くらいに感じていたので、軽く驚くと同時に興味を持っています。

なので、ずっとご覧になっている木村さんから見て、
もし本作で、「ドライフラワー」までの作品と決定的な違いがあるのであれば、
ばしばし指摘してください。
本作しか見れなかった、私を含む新しいコンテンポラリーダンスファンには知り得ないことなので。

P.S.
飲み会の席(*第5回レクチャー後に飲みに行った:木村)では木村さんとあまり話せなかったので、
自己紹介がてらnibrollに関する私の属性を書きます。

・木村さん同様、踊ってる矢内原を見るのは大好き
・チョコレートも大好き&松井さん同様心底感動した、
 横浜ダンス界隈で終演後ソファから中々立てなかった、来週泣きそうでヤバい。
・生で見たnibroll作品は、本作のみ(妻有/福岡/東京)、
・過去nibroll作品は、DVDで断片的に見ている
・生で見た矢内原作品は、さよなら、青い鳥、チョコレート(ダンス界隈、抜粋?)、
  public=un+public(抜粋、吾妻橋)

で、東京公演を見る直前までのnibrollに対するスタンスは、

・DVDを見る限りでは、テーマは設立当初から特に新しくないのでは、と思っている。
・テーマ自体にもあまり共感できない。「コーヒー」とかは全く共感できない。
・作中の発話シーンや演劇っぽいシーンは個人的には嫌い。
・「コドモ身体は身体がコドモであって、頭が子供なわけでは断じてない」
 と、表象文化学会で桜井さんが説明していたが(その通りだと思うが)、
 nibrollに限っては、(DVDのトークやアフタートークを見る限りでは)
 頭も子供っぽいというか中学生が会話しているような感じを受ける。
・踊る矢内原や矢内原の振り付けは超好きだけど、
 妻有/福岡を見る限りnibrollはあまり好きじゃない、むしろ嫌いかも?と思っていた。
・なので今回の東京公演は個人的に
 nibrollが好きか嫌いかはっきりさせてやろう、という意気込みで見に行った。

で、東京公演を見た結果は、嫌いな要素はいっぱいあるんだけど
(上述の通りテーマにはあまり共感していないし、音楽もコンテンポラリーじゃないと思う)
全体としては結構好きだという感想を持ちました。

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まず、こんなにマジメに熱心にダンスを見ている若いファンがいるということに、感動とフンドシ締め直さなきゃ(?)的な気持ちを感じます、片足はダンス業界のインサイダーになってしまっている僕としては。

で、僕の返答なんですが、その前にまずは、これまでブログなどネットで見られる状態の場所で書いたニブロールについての言葉です。そのときそのときに、ぼくがニブロール(というか矢内原の振付。ぼくにとってこれまでほとんどニブロール=矢内原の振付でした)に感じたことがとりあえず分かります。

矢内原美邦プロジェクト「青の鳥」
横浜ダンス界隈#3「チョコレート」
吾妻橋ダンスクロッシングのOff Nibroll「Public=un+public」
企画公演「ボクロール」での「chocolate」
Yanaihara Mikuni Project『3年2組』
BankART1929での「Public=un+publci」
妻有の「ノート(No-To)」
シアタートラムの「Notes」
ニブロール「ドライフラワー」
ニブロール「ノート(裏)」
ニブロール「コーヒー」
ニブロール「駐車禁止」

さて、
  木村さんが今になって「ださい」と言いだした、ということは、

  (1) 「ドライフラワー」までの作品はださくなかったが「no direction。」はださい。
  (2) 「ドライフラワー」までの作品と比較すれば「no direction。」はださくはないが、
  時代が3年進んでいるので、相対的にださくなっている(=時代から取り残されつつある)。

  のどちらかだと思うのですが、どちらなのでしょうか?

についてですが、まず「ださい」(という言葉が適切かはあるけれども)と言った時、ぼくがそれを90年代の意匠との関連で言ったことは重要です。で、それを彼らが意図的にやっているとさえ思っている(思いたい)ということも理解しておいてください。

モー娘。との繋がり以上にまず確認するべきは、90年代日本のシアター・パフォーマンスのなかで飛び抜けて新鮮だったのはダム・タイプであり、アーティスト集団というか一種の総合芸術を志していた彼らがニブロールの兄貴分として日本にいたということは、まず90年代的意匠と言った場合、無視することが出来ません。これは、松井さんもレクチャーで(また佐々木敦さんもご本人のブログで)触れていたことですが、松井さんが言っていたことで忘れてはならないことは、ダム・タイプはシアター・パフォーマンスのなかでエイズであるとか消費社会であるとか戦争であるとか非常に大きな社会的テーマを扱ったということです。つまりダム・タイプ的セッティングが私たちに夢見させたのは、シアター・パフォーマンスが政治を扱う可能性でした、しかもぼくたちの身の丈の延長線上で。しかし、硬直化というか空転というか、ダム・タイプは2000年以降にぼくたちの身の丈を見失ってしまった。ぼくはつよくそう感じました。リアリティがなくなってしまった。ぼくとは関係ないことやっているや、という気がしてました。

ニブロールを、ぼくは「駐車禁止」から見始めました、それはぼくにとってとてつもなく衝撃的で勇気のわいた作品でした、リアルでした。簡単に言うと、この人たちと友達になりたい、と思ったんですよ(笑)、見終わった後、ぼく、猛烈に。横浜の相鉄ホールというところでやったときです。2001年だったかと思うんだけれど、公演後、どうしたら彼らに話しかけられるんだろうとドキドキしながらロビーみたいなところをブラブラしていて、でも話しかけられないまま帰ったという記憶があります。

いま市販のDVD「Nibroll 1997-2004」で「駐車禁止」を見ましたが、やっぱり素晴らしいと思う。気取ってなくて、フツーのひとが舞台でどたばたしている。セッティングはダム・タイプ的でありながら、やっている方向性はまったく異なっていて個別的なもの、個人的なものに関心がある。それがともかくも、僕にとってのニブロールでした。ちなみに、「駐車禁止」は二回見たんですが、2回目は、明日ぼくが出る東京芸術見本市の舞台でした、2001年9月12日の。見た後友人と日比谷のパスタ屋で、ぼくらはきっと半年後には戦争にかり出されるぞ、なんて戦々恐々としていたのを思い出します。その戦慄と共に見た「駐車禁止」はやっぱりリアルだった。

やや説明が長ーくなってきてるので(笑、でも思い入れがあるんだからしょうがない!)はしょると、上にリンク貼った日記で確認出来るように「コーヒー」もぼくは好きな作品でしたが、「ノート」あたりから距離が出来ていきます。簡単に言うと、矢内原の作るダンスの部分は好きなのに、それ以外の部分がほとんど理解出来ない、という気持ちになってきます。観念(コンセプト)先行、というか。その傾向が、きわまったのが今作ではないかというのがぼくの考えです。そして、それはあえて強引な整理をすれば、初期にもっていたダム・タイプ的セッティングにおけるダムタイプ的ではなかったニブロールらしいアプローチが、なにやらそのダム・タイプに接続・連続するような空転を見せてしまっている、といえるのではないか。

こう書くとダム・タイプがすべからくダメみたいになってしまいますが、そんなことはなくて、「voyage」以降の個々の活動にはすばらしいものがあり、とくに彼らの身体へ向けた真摯な凝視はかねてから取り組んでいた政治的なものと絡まりながら一層強いものにまたパフォーマンスとしても迫力のあるものになっていることは、名前を挙げるまでもなく明らかです。

あと、90年代的意匠としてのモー娘。との関連のことで考えていることもありますが、これは書きません。


そんで次に、ダム・タイプだったら、個々の作家の思考の深さというのが確かにあるわけなんだけれど、さて、そうしたものがニブロールのアーティストたちにはあるのか否かという件について。

「ださい」という言葉、やっぱいい言葉ではないですね。これもまたある時代の意匠ではないかと思ってあえて使ったんですが、やっぱりいい言葉だと思えない。でも、それを言い換えると程度が低いとかになっちゃう。まあいいや、冷静に考えて、映像、衣裳、音楽、すべて程度が低い。ああこれもやめよう、映像、衣裳、音楽、すべてぼくの生きている世界(いわゆる日常の身の周りという意味も舞台芸術の世界という意味も含め)とはほとんど関係のない次元で展開されている、そういう気がした、ということです。映像や衣裳や音楽はすべて「あえて」「ださい」ことをやっているとみるのでなければ納得出来ない。「こういう最低のものも世界にありますよね、その中でぼくらはがんじがらめになっていますよね」みたいなメッセージとして投げているのではない限り、理解出来ない。見せたくないもの、聞かせたくないものを見せたり聞かせたりあえてしている、としか。

でも、そうなると次に分からなくなるのは、そうしたものをなぜあえて見せる聞かせる必要があるのだろうと言うことです。例えば、OM-2などは、あえてノイジーなものを目の前に置くということをします。生々しい恐怖を与える、それが彼らの舞台の狙いであり、そこに問題提起もカタルシスもある、ということなのだと思う。けれど、ニブロールの映像、衣裳、音楽はそういうことをしようとしてのことなのでしょうか。観客を一種のパニック状況に追いやりたい、と言うことだった?ぼくはあまりの情報の多さ(しかも低い程度の)になんども目をマッサージし斜めの客席で寝そべってリラックスしようと努めていました。それが彼らのしたいことだったのでしょうか。そこには、個々にみるべきものがなかった。塊をどんと放り投げられた気がした。そのありようが、なにやら僕には「抽象表現主義」(ポロック)のように思えてきて、のれなかったわけです。

ブログに「ださい」と書いた最初からそうだったんだけれど、やっぱりニブロールの批判を書くのは気が乗らない。あまりに託している気持ちが多くて、悲しくなってくる。でも、ぼくはニブロールに愛情をもっているよ!だからなんともいえない気持ちになってるんだ!頼むよおおおおおって気分だよ!

ニブロールにとって観客とはどんな存在なんだろう。ぼくらはヒーローを必要としていないよ!「ヒーロー」を必要としているのはおじさんおばさんばっかだよ!商業目的の。

「「ヒーローはいつだって君をがっかりさせる」というタイトルは、中学生の頃に、音楽雑誌に載っていたインタヴューか何かで読んだセリフで、ずっと頭に残っていた。この本にこのタイトルを付けようと思ってから、何人もの友人に聞いてみたけど、ついに元ネタはわからなかった。「子供の頃は、ロック・スターに憧れて、ポスターを部屋に貼ってみたり、彼らの真似をしてみたるもするけど、そのうち君は、彼らのインチキに気付いてしまう。結局、君はも君自身で何かを始めるしかないんだ」。そのような意味として、僕の頭の中には残っているんだけれど、本当は全然違う意味なのかもしれない。
100人ぐらいしかお客さんがいないパーティ。100枚ぐらいしかつくられていないCD。100人ぐらいにしか知られていないアーティスト。この本には、そんな"ヒーロー"からほど遠いやつらが、たくさん出てくる。その後、"ヒーロー"になってしまったやつもいれば、いつまでもなりそうもないやつもいる。というか、"その後"のことなんかどうでもいい。僕は、たったいま、目の前で起こっていることを、見る。ただそれだけだ」(磯部涼『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』)

メールくれたダンスファン君には悪いけれど、ニブロールにはやや冷静さを欠いてしまうんだよ、おっかしいかもしれないけどさ。あとは、言外のメッセージをくみ取って貰いたいというところです。

というか、ぼく以外のひとの感想が知りたい。若いひと、なかでもこの作品ではじめてニブロールをあるいは日本のコンテンポラリーダンスを見たというひとの率直なところを。もちろん、「no direction。」よかったという感想、歓迎です。ぼくの意見が全面的に正しいはずはないので。

3/4

2007年03月04日 | Weblog
午前中、原稿を書きメールで送る。一応、ある用事のメドを立てるとさて、東京都現代美術館へ。Aの希望で松井みどりさんがRobert Smithsonのことを話すのを聞きに行く。昨日、ニブロールのアフター・トークに出ていた松井さんはとても元気であった。スミッソンの「脱差異化」「粉砕化」「堆積化」のアイディアを聞く。松井さんはさらにスミッソンと菅木志雄の芸術論とを重ねる。現代美術には60年代美術と重なる面があるという趣旨のお話へと続いたのだったが、むしろ現代と重ねることによって60年代美術のことがより一層リアルに理解出来てくる気がして、そちらに興味がわく。ダンスでもそうだと思うんだよな、60年代のトライアルに注目することだけがいまダンスにリアリティを与えられる唯一の手だてだ!と極論してみたくなっている(あるいは今こそ60年代のトライアルをよりよく理解するチャンスでは!と)。今日のお話を聞けば一層その気持ちは強まる。昼は、渋谷の「やすべえ」で辛味噌つけめん(中盛)、夜はAと水餃子をつくり食す。

踊りに行くぜ!!+ニブロール

2007年03月04日 | Weblog
昨日(3/3)、次の二つの公演をみた。

「踊りに行くぜ!!vol.7 Special in Tokyo」(@アサヒ・アートスクエア)
酒井幸菜「Noon」
納谷衣美×山下残「シビビビ」
坂本公成+佐伯有香「怪物」
江藤由紀子「砂遊び」
康本雅子「ナ花ハ調」
Ko & Edge Co. 「DEAD 1+」
ごめんなさい、これが日本のコンテンポラリーダンス(とくに上から4組)ということならば、ぼくはコンテンポラリーダンスあまり好きじゃない派です。すいません。

ニブロール「no direction。」(@パナソニックセンター東京 有明スタジオ)
まず、見に行く前に読みとるべきだった重要なポイントは、タイトルの「。」であったようで、モーニング娘。が1997年にデビューということを確認すると、この公演の全ての(「全てが」ではない)「ださい」部分が90年代の意匠と関係していると言うことに思い至る。なるほどニブロールの設立も1997年なわけで、、、とそんな仕方でニブロールのすべてを否定する気持ちにはなれないのだけれど(そんなことしたら僕のダンスに傾けた「青春」が否定されてしまう!)、このだささは確信犯でないとすればどう理解したらよいか皆目分からない。「ヒーローはいつだって君をがっかりさせる」(磯部涼)
あるいは、抽象表現主義(ポロック、上掲写真)としてのニブロール

後記
上記2公演は、日本のコンテンポラリーダンスの分野のなかで重要なものであり、しかもネガティヴな発言をぼくはしているわけで、そうした態度を見せるならば「ださい」とは何を指してのことか「好き」ではないということは何を意味するのかを明確にするべきだと思うんですが、少し、元気が出ないので、後日書くことにしたいと思います。すいません。