Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

矢内原美邦「さよなら」(@シアタートラム)

2006年12月23日 | Weblog
22日に見る。

踊る矢内原が大好きなぼくとしては楽しみにしていたこの公演、けれども、胸が熱くなるような瞬間はなかった。なんだろ。すべてが適度に整えられているが、どれもとびぬけていない。極私的でトリヴィアルだけれども強烈で具体的な出来事とかものに体を沿わせるなんてことがなかった、ということかな。記憶はなでられるがさかなでされない。あと、ぼくはこのところヤンキーの巣町田近辺に住んでいて、世田谷・杉並・渋谷的センスにリアリティを感じなくなってきているのかも知れない。音響・照明・衣裳・舞台美術すべてがスタイリッシュ、で遠い。ポツドールや五反田団にはすぐになじめるんだけど。

今週は、「超詳解20世紀ダンス入門」のチラシ作成に奔走しその後、祖母のお通夜と告別式のために母方の実家である木更津にAとともに行くなど、とても忙しくこころがくしゃくしゃしている。母の実家は瀬戸物屋でそこそこ木更津の顔ではあるのだけれど、いかんせんすごい不況の中にあり、大変なようだ。気志團やキャッツの人気も木更津を元気にするにはいたっておらず、商店街には意味もない駐車場ばかりが目立つ。ぼくが子供の頃は都会だったのになあ。夏休みとかよく釣りに行っていたのだ。それを思い出したからと言うのでもないんだけれど、「さよなら」を見る前に時間があったので、三軒茶屋の釣り堀で1時間糸を垂れていた。常連ばかりで、彼らは小さな水槽をまるで芦ノ湖のように思っているようで「(水槽のある部分を指して)あそこは二年前まではよく釣れていた」なんて言っているから可笑しくて、なかなか良い時間だった(釣果4匹)。

勅使川原三郎『ガラスの牙』(@新国立劇場)

2006年12月19日 | Weblog
を見た(12/17)。

公演はなかなか狂っていて素晴らしかった。ガラスのちらばる床でタップのようなステップを踏むところなんて、それとそのあとリバーブでワンワンな音になっている声をまき散らしながら、なんともいえないというかべたにカトちゃんにも映るみだらなダンスを繰るところなんて、もう。勅使川原、カッコイイ、再認。

ところで、小田急ユーザーが新国立劇場に行く最短距離は新宿駅からではなく代々木上原駅から歩くではないか、と思うのですが、いかがなもんでしょう。往復そうしたのですが、帰りなんて下り坂が多かったからか15分くらいで駅に着いてしまった。新宿駅から歩いて『エンジョイ』見た時20分歩いたから、ね、近いんじゃないかと思うのですよ。電車に乗る時間も短縮出来るし。問題は経路なんですけれど、住宅街をひたすら動物的勘を発揮し、新宿と中野の中間を目指して歩く。ただ嗅覚。でも、結構行けますよ、迷ってもまた楽しい。

ところでところで、勅使川原を見た際、隣に偶然高校時代の友人が座っていた!すごい、偶然!しかも、彼曰く、ぼくと彼の共通の友人で音信不通だった人物Rと昨日連絡がついて電話で話したばっかりなんだ、と。サイキッック。シュルレアル。Rには、五ヶ月になる赤ちゃんがいるのだそうな。会いたいなあ、絶対見たら感動して泣いちゃうな、だってあのRにそっくりな赤ちゃんなんて!

金魚(鈴木ユキオ)『犬の静脈に嫉妬せず』(@駒場アゴラ劇場 12/13)

2006年12月16日 | Weblog
手塚夏子のワークショップ、チェルフィッチュ公演、そしてまたこの金魚公演と、身体へ真摯な態度で向かっているひとたちに会ったり公演を見たりすると、ほんと彼らに敬服してしまう。身体って緩いから、簡単に動いてしまうからそれをどう縛って方法化していくかということが重要になる。金魚の新作はまずともかく、その点でいまの日本のコンテンポラリーダンスの水準を示すものに違いない。

さて、鈴木ユキオ(金魚)の公演をみるといつも青春の蹉跌という言葉が浮かんでしまう。観客としての自分の限界を感じる。コンビニの店員とか工事現場のメット被った人々とかが頭に浮かぶ。あまりにそうなので、イカン!違う視点で見なきゃとさえ思う。ピントがはずれている気がするからだ。けれども、今回も芯のところにある(とぼくが思う)のは、青春の蹉跌+ロボット的からっぽさ、で、ある種の叙情性とそれとは対照的でもある非人間的な身体性とがくっついたり離れたりしていた、というのが率直な感想。

自分の体を過剰にぶったたき続け、赤くはれ、けれどもそれが何かのイメージを誘発することもなく、赤くはれた体をただ舞台に置く。青春の蹉跌などと口にしているのは、だから生きるのがつらいとか目的が見えないとかそういうメッセージを舞台に読みとってのことではなく、ただただ空っぽの体を舞台に置くことにしか何のリアリティも感じないというメッセージを受け取ってのことだ。これは、目黒大路(nude)の公演から受ける感じと似ている。余計な肉をそぎ落とし、ひたすらストイックな身体をさらしながら、それがどんな目的も持てないことにいらだっているような、いらだっていることでしかいま生きていることを実感出来ないとでも感じているような。

さて、そういうわけで観客はいらだっている男を見る、ということになる、か。するとそこで観客が与えられる「余地」は、その男を愛すること・共感することかその反対かになる。もしそうだとしたら観客との関係がもう少しダイナミックでも良いのではないか、と思ってしまう。

体をぶっ叩き、しごき、、、というとやはり解体社を思い出してしまう。政治的な文脈をベタに貼り付けることで解体社はそうした身体をオープンな場に引き出していった。それが唯一の答えではないだろうが、パーソナルな今生きる自分のリアリティへと落とすことも唯一の答えではないと思う。自分からも他人からも自由に、スッとフェイントでそこから抜けてくようなスリルというか、猛烈に相手を引きつけながらあっけなくそこから離れるような軽さがあっても別にいいのではないかと。土方の「犬の静脈」とは、そういう見る者を引きつけつつも無視しつづける犬への嫉妬なわけで、それに「嫉妬せず」とは、その犬以上の犬になったのでもう嫉妬する必要がないと言うことなのか、そもそもそう言う犬に嫉妬することをやめました、ということなのか。ぼくは鈴木の選択が前者であってもいいと思うのだけれど。今作は、後者だと理解すべき?

公演は日曜日まで

大竹伸朗『全景』(@東京都現代美術館)

2006年12月10日 | Weblog
照れのないひとだ、というのが最初に感じたことだった。冒頭は、彼のライフ・ワークというスクラップブックが並ぶフロア。それを過ぎると小学校から予備校時代までの作品群が待っている。鉄腕アトムとかの、小学生時代のかなり大きく立派な落書きとその手前にあった無意識の手さばきで印刷物の切れ端をただただ貼り散らしたスクラップブック作品との間にほとんど違いが見出せない、いらつく。子供の落書きと作家になってからの仕事の間に差異が見出せない。見ていると鑑賞者は、この二つの部屋を殆ど区別する感じもなく等しく眺めているよう。フラットなすべてが等価な空間。この等価な感じは、さらに大学時代へまたロンドン時代へとクロニクルに進んでいっても大差ない。作風は変わる。しかしそこに何か作家のオリジナリティが滲み出てはこない。気になったものを絵に描いてみる、あるいは気になった過去のまた同時代の絵を自分なりに描いてみる。そのことに照れがない。いいと思ったら率直に自分の中に引き込んでしまう。作風は時代を反映しながら変化する。それぞれ新しい大竹なのかも知れないけれども、いや、大竹らしさは希薄でむしろほとんどが何かの反映の結果としか見えない。千変万化するが常にゼロ地点の大竹がいる。

半分以上進んだところ、B2のブースに入った辺り、1988年ごろの、ビニールシートを貼ったりプラスチック樹脂で表面を固めたテラテラと光る作品群を通り過ぎ、明らかに造船場やその脇にある船、それも赤黒くさびた鉄の固まりとしての船に範をとっただろう作品群を見はじめたところから、はっと気づくことがあった。黒い油絵の群れは、彼が描く人である以上に見る人であることを強く示していた。見たことの感じ、それが画布に定着される。感じる。まずそれがある。若い頃の美術史を素直に受容していた作品群のときも恐らくそうだったのだ。見る、感じる、美術作品だろうが風景の一部だろうが差はない。画布を見る内に、大竹の見つける、ものと出会う、集める、その時の目や手がリアルに感じられてくる。見る作業が大竹作品の本質であるように思えた。そういえば、大学を休学し北海道で酪農をしながら過ごしていたころのデッサンに、部屋の照明のかさを描いたものがあった、そこに描かれているのは、それを孤独に見つめる眼差しの様子だった。

世界の運動に不断に巻き込まれながらその瞬間瞬間の眼差しを定着させる試みが大竹作品の本質なのではないか、と思った。


昼に、大竹を見た後、すぐ近くの門前仲町へ。手塚夏子の「カラダカフェ」を覗きに行った。

ポツドール『恋の渦』

2006年12月05日 | Weblog
月曜日は研究会。上智の研究会は今メンバーが増えて「にぎにぎ」している。いまよんでいるのは、マイケル・フリードの最新(だろう)論考でロラン・バルトの『明るい部屋』を扱ったものだ(確か2005年のCritical Inquiry所収)。ロジカルでかつ大胆なフリードの文章には舌を巻くな。すごい。芸大の院生でバルトの専門家がひとり今回から参加してくれている。彼のぼくよりも(このぼくよりも!)一層ついついフランクになっちゃう喋り方が、つぶらといってはなんですがなくりくり瞳とまた冴えいてなお分からない時には実に正直に分からないと言えちゃう至極「まっとう」な姿勢と相まって、とても楽しく刺激的な時間になった。あと、S大でやっているゼミの学部生も参加した。

ということで、バルトがいま木村家で若干流行中。例えば、リズムについて。

「彼はいつも苦行と祝祭が相継ぎ、その一方が他方の解決となる、あのギリシアのリズムを信用していた(そして、労働/余暇という近代の平板なリズムは信用しなかった)。」(『彼自身によるロラン・バルト』)

「リズムというものが必ずしも規則的ではない、という点には注目するべきだろう。カザルスの名言によれば、リズムとはすなわち「遅れ」である」(同上)

あるいは、こんな演劇についての思考もある(言うまでもなく、バルトにおける演劇性への思考がフリードにとって自らのシアトリカリティ論をバルトに重ねる根拠になっている、ってことで)。

「演劇(切り抜かれた場面)は、《ウェヌス的魅惑》の場所、すなわち(プシュケとそのランプによって)見つめられ照らされたエロスの場所そのものである。エピソード的なわき役の一登場人物でも、自分を欲望の対象として感じさせるちょっとしたモチーフを体現しさえすれば(そのモチーフは倒錯的であってもいいし、必ずしも美に結びついたものでなくてもかまわないが、しかし身体的なあるディテールに結びついているべきで、それは、声の木目、ある息の吸いかた、極端な場合にはある種の不器用さであってもいい)、たちまち舞台全体が見るに耐えるものとして救われるのだ。演劇のエロス的な機能は添えものではない。なぜなら、あらゆる具象的な芸術(映画、絵画)において、それのみが身体を与えてくれるからだ。身体の表象をではなく、身体を与えるからだ。」(同上)

それで、そういうわけで(といっても上のバルトと直接関係づけたいわけではありません)昨日見たポツドール『恋の渦』なのだ。『夢の城』からのさらなる展開としてはなかなか「ものすごい」ものがあったのではないか。2時間半弱。ひたすら疲れる。ほとんど「消耗」って感じの疲労。この疲労に『恋の渦』の仕掛けがあるように思う。あれは、何かを見ていたというよりも、何かに見られ続けていたと言ってもいいような、そんな類の疲労だ。「窃視症的」というよりも(それは、ガラス窓で舞台内部と観客を隔てた『夢の城』にこそ相応しい形容詞だろう)、ほとんどネットのウェブカムとかで中継された映像を見続けているような、見続けさせられているようなといった方が近いだろう、より現代的な「覗き」の感覚。

そんな「覗き」の眼鏡をつけるよう観客を強要し、ただひたすらその欲望の装置に観客を縛りつける演劇。観客の内で勝手に喚起させられてしまう欲望は、舞台上がどんなにリアルに見えてもたいがいはあくまでも覚えたセリフを喋る芝居に他ならないじゃないかとたかが括れるのとは対照的に(それに対する恐ろしい例外については後で触れる)、何らフィクショナルなものではない。ネットで流出してしまった知人でもなんでもない個人の極めてプライベートな写真を見てしまっているあの時と、欲望の形としてはいかなる相違もない。だから、この演劇はフィクションではない。観客が感じる官能は虚構ではないからだ。そのことがつらい。疲弊させる。演劇の構造にはまちがいなくこのフィクションではない部分がある。それがこの演劇が語るものだ。

時折観客は笑う。うまいことフィクショナルな、観客の受けをとろうとする芝居的なものが現れたとばかりに笑う。「フィクショナルなもの」で笑う「フィクショナルな観客」になりすまそうとする。そんな逃げ口を観客に用意してあげるために「これって若者の生活をトレースした風俗劇じゃん」と思って安堵(し批判)することの出来るセリフや一見コミカルな登場人物が用意されていたに相違ない。4部屋にそれぞれ分かれた男たちが女たち(あるいは同居する友人)を同時に恫喝するシーンで起きた観客の笑いは、「可笑しいから」というよりも「可笑しいものと見なしてしまいたい」という気持ちから漏れているようにしか思えなかった(DVのイメージが濃厚で、そしてそう解釈する方がリアルだし正しいと思うが、そう考えてしまうとこれは全然笑えなくなるのだった)。演劇性(芝居らしさ)は、だからこの作品のなかでは、リアルなものから観客を解放するための装置として機能しているのだ。けれども、どうだ。あの瞬間、浮気の相手にブロウジョブされた男/役者のペニスは見事に勃起していた、それをさらす瞬間は!そのとき役者の身体は、役柄と共にあってしかし演じることを突き抜けてしまった虚構ではない身体を観客に不意に突きつけるのだ。

見る欲望を携えたぼくらが何らかエロティックなものを期待して演劇を見に来ているとするなら、これこそが見たい当のものであるはずなのに、「あいつ」は、こっちにとってたまらなく「こまった」「めんどくさい」存在としてこちらに顔を向けてくる(一瞬現れたそれは「顔」というべき存在感があった)。一番見たいものが露呈した瞬間、それは一番見たくないものとなる。それがあまりにリアルだからだ。リアルなのは、しかし勃起する身体のみならず、それを見る観客もだ。欲望の歩みが行き着く先にあるリアルなものは、欲望の主体の相貌をむき出しにしてしまう。それがたまらなく疲労させた原因だろう(かつて、ストリップを見に行って猛烈に疲労したことを思い出させる)。

そういうわけで、ポツドールはやはり、青年団的方法のまっとうな応用、それのもつ覗き見的な構造を可能な限りに肥大化させた、実に正統的なチルドレンであるに相違ない、そのことを再確認したわけだ。

雑記

2006年12月04日 | Weblog
最近、STスポットに足を運んだ方は、チラシを見て下さっているかも知れません。いまぼくは来年の初め横浜(@急な坂スタジオ)を会場にダンスのレクチャー(仮タイトル「超詳解20世紀ダンス入門」)を企画していてその準備に追われています。忙しーっ(でも、楽しーっ)!みなさん、これはとても楽しい面白い、ためになる時間になりそうですぞ。運動をつぶさに見るためのレッスン、ダンス史の隠れたアイディアの芽を発見するアドベンチャーです。実証的(ビデオやフィルムや写真や実演やインタビューなどなど)で地に足付けた議論をわいわいしようと考えてます。ダンスの作り手も見る専門の人も老いも若きもこぞって見に聞きに来て下さい。詳細は、また後日。

ところで、おとといと昨日と、舞踊学会の全国大会(@専修大学神田校舎)に行く。70才だったか日本のポストモダンダンスを牽引した厚木凡人さんを迎えたシンポジウムなどがあった。ひょうひょうと舞踊研究者を前にとぼけすかしまくる厚木さんのエンタメ精神と批評精神とシャイネスに涙流しながら笑う。土方巽が活躍していた同年代のダンサーがもつ、形容しがたい器というかフットワークというのはすごいな。

ところで、きわめて恥ずかしい気持ちになることなのですが、今の自分のことを備忘録的にここに書き留めておきたいので書いちゃいますが、最近、ぼくはCKBか菊地成孔しかきいてません、日本の音楽は。とりわけ菊地の「De Degustation a Jazz」しか聞いてない。なんかもう恥ずかしいのですが、彼のブログも読んでしまいます(ぼくが毎日チェックするブログは五件くらいしかない、そのなかのもう一つはなぜか宮沢章夫「富士日記2」)。読んでいると、菊地の住んでいる歌舞伎町というか大久保の辺りの情景が浮かんできて、ぼくが大好きなカムジャタンの店「松屋」のことを思い出させ、行った気食べた気にさせてくれるからか、それとも、彼の文体がなにやら中毒的な何かをぼくに与えるのか、分かりませんが。けれど先に挙げたCDが良い理由は分かります。彼のサックスの音や唄は「ほら」っぽいのです。あるいは、てれくさそーに本心を言うというか。「コブクロ」みたいな(コブクロ!)ストレートに語りかける類の姿勢じゃなくて、音が「なんてね、なんてね」というつぶやきと共に聞こえてくる。これが、いいんですね。「乖離」がすけて見える。「Isfahan」の冒頭のサックスの音なんて、「おしっこもれちゃった!」みたいな「ブワッ」ってふくらみがあって、よくて、もれたふりなんだろうけど、ふりでもしなきゃ言えないことというか隠していられないことでもあるのかよって感じで「ブワッ」って音が漏れ出す。