Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

アートのセクシュアリティ

2006年04月28日 | Weblog
「この間、魯山人の呼続茶碗というのを触ったんですけど、それを持つと全身の神経が手に指に、集中していく異様な快感があった。ああ、このために人は大金を払うんだなあと思った。つまりセクシーなんですよ。っていうと綺麗ごとになっちゃうけど、そうじゃなくて、「生きたい!」っていう猛烈な欲望というかね。そういうのって結局セクシュアリティなんですよ。西洋の人たちはそれが純粋に視覚に特化していて、裸体とかを見ると目にぐっと神経が集中していく。だから、単なるポルノと切り捨てられるものではなくて、もっと切実な、延命したい!みたいな思いがある。目でもって若い血を飲むみたいな」(村上隆『ユリイカ 特集藤田嗣治』)

「西洋人はアートに常にポルノを見ているという部分があるんです。それも上位のコレクターであるほどそうなんだよね。彼らはポルノとアートの接点を提示しているものに必ず敏感に反応してくる。それを日本人は未だに心の底からは理解できないで、短絡的な自由がテーマだ、なんて思っていたり、矮小なコンセプトこそ尊いなんて思ってるんですよ。」(村上隆『ユリイカ 特集藤田嗣治』)

こうした村上の発言を読みながら、自分が最近「観客論」なる視点でダンスだとか絵画を議論しようとしている理由が分かったような気がした。

この点にダンス論の分野で関わっていく場合、ひとつ非常に重要な参照すべき事柄は、桜井氏がある時期強くダンスがセクシーと結託することに対して警戒していたことだ。例えば、「アダム・クーパーとか、マシュー・ボーンとかね。金森穣だって、ダンス自体はともかく、その受容のされ方から見たら、「セックス・アピール」ってことかよ、ってね」(『舞台芸術』08号、2005年)。ダンスがセックス・アピールの場「でしかなくなる」ことに対して、桜井氏の危惧があるとすれば、それは妥当な指摘ではある。けれども、ダンスが観客との間でセックス・アピールをめぐる関係に置かれていなければ、ダンスはたぶんそのポテンシャルを発揮し得ていない、ということも言える(言うべきな)のではないだろうか(最近、この点から壺中天はぼくにとって気になる存在なのであり、ピンクもまたしかり、なのである)。ただし、さらに確認しておきたいのは「それを持つと全身の神経が手に指に、集中していく異様な快感」は、必ずしもオン・デマンド、お客の期待に応えて生まれるものではないということだろう。むしろそれまでの期待が吹っ飛んでしまうような「異様な」快感が発生しなければ意味はない。陶酔は逸脱を伴う。ダンスというのは「揺れ」の逸脱、だとすれば、ダンスは異様な快感を発生させてこそダンスなのであって、ダンサーはそれを発生させてしまう怪物でなければならない。

注記 桜井圭介さんの発言は、ぼくがお相手をしたこの対談からの引用です。

付記
コメントに貼られたYukihiko YOSHIDAさんからのメッセージを読んで、自分の文章がこういう誤解をいささかなりとも受けるおそれがあるのかと、思い至りました。

まず、確認しておきたいのは、上述の文章を通してぼくが欲したのは、ダンスはセクシーさの衣をまとうべきだと主張することでも、ダンスにはセクシーさを「表現」している作品がありどんなものがあるのか列挙することでもありませんでした。

むしろぼくには、短絡的にダンスにセックス・アピールしか見ない観点に対して、警戒心が強く働くところがあります。例えば、ダンスは体を媒体にするジャンルである故に、「体」自体に注目が集まりすぎる嫌いがある、とも思いますし、むしろ、そうしたことに対して自覚的なのかそうでないのか、安易に裸になってしまうダンサーには、それでいいのか、とつっこみたくもなります。だから、基本的には、桜井さんの意見に大賛成なのです。体とか、そこから出てくるかっこよさ、かわいさじゃなく、ダンス見ようよ、と言いたくなるということです。これが大前提。

ただし、「体」を人前にさらして踊る以上、窃視的な状況を見る者に喚起させがちであると言うことは否めません。「メイル・ゲイズ」の問題は、恐らくこうした「窃視的な状況」のなかから出てくるのでしょうが、ぼくが目下のところ思うことを言えば、こっち(観客あるいは男性)がのぞき見するというよりも、むしろこっちにのぞき見するようダンサーが「見せている」という面もあるのではないでしょうか。いや、こう言うべきかもしれません。ダンサーが踊るとき、すでにそういう「見る者-見られる者」の構造のなかへと否応なしに観客は置かれてしまうのではないか、と。そして当然、ダンサーもしかりなのであって、踊ること(舞台に立つこと)でダンサーも否応なしにこの構造のなかに据え置かれることになります。さて、で、そうであるならば、「見られる」こと、あるいは「見る者」を踊ること(舞台に立つこと)で発生させてしまう状況をどうするべきか、という点は、作品を作る上でダンサー(振付家)にとっての考えどころになるのではないでしょうか。例えば、ダンサーが自分の「見られる」立場に立たされている状況を覆そうとしたのが、カニングハムなどが試みたこと(=ダンスのモダニズム)とぼくは考えていて、彼などは、観客もダンサーも舞台美術も音楽もどれもすべてが自律した自由な状態にあることをめざしました(故に、踊っている間、観客は寝ていてもいい、とさえ口をすべらせます)。ちなみに、ぼくはカニングハムのアイディアが最終的な解決だとは思っていません。

その上で、ぼくがそこから進んでさらに考えていきたいと思っている点を絞って言うと、よいダンスには「誘惑」の戦略があるのではないか、ということです。のるかそるかは観客次第の面もあるけれど、ともかくダンスが内包(しているはずの)「誘惑」の仕掛けに関して敏感でいたい、というのがぼくの考えです。逆に、つまらないダンスには「誘惑」の要素が希薄だったり、仕掛けとして不十分であったり、何かその点に過剰になりすぎて我(また観客)を忘れてしまう、と言うことが起きているのではないか、と考えます。そして、ぼくが上述の文で「ダンスが観客との間でセックス・アピールをめぐる関係に置かれて」いる点を無視したくないと書いたのは、そういった「誘惑」の問題を「セックス・アピール」という語彙に(誤解を恐れずに)託してのこと、だったのです。

また、こうしたことは、ダンスに限らず、様々な芸術のジャンルにも起きていることだと思います。実際、上智大を会場にして目下続いている現代美学研究会では、まさにこうした点を、美術を対象にして問題にし議論しています。

行方不明

2006年04月28日 | Weblog
Aは自身の「グビ」ブログで、ぼくがもう「おかず」(「うし」とも呼んでいた)のことを忘れようとしてしているみたいに書いてますが、そりゃ違いますよ。気分は、山崎まさよし「One more time, One more chance」なのであって、「いつでもさがしているよ、どこかにきみの姿を」なのであります。

不在の苦しみは、足を切断したひとがないはずの足をかゆく思ってしまうといった妄想を抱くのににている。あるはずなのに、ない。さらにつらいのは、この喪失感をいつか喪失してしまうことで。


「動物は狭い、理解し難い深淵から人間を観察する。人間が動物を驚かせるのはそれゆえである。しかし動物も--たとえ飼い慣らされていようとも--人間を驚かせる。人間も、全く同じではないにしろ似たような理解し難い深淵から動物を見ているのである。それはどこでも同じである。人間はいつも無知と怖れを通して見ている。だから人間が動物に見られているとき、人間は自分が周りのものを見ているように動物に見られているように感じるのである。こうした認識が動物の視線に親しみを感じさせる。しかし動物は全く異なるものであり、人間と相いれることはない。人間の力と同等の、しかし全く異なる力が動物には備わっている。動物は秘密をもっている。それは洞穴や山々や海の神秘のそれとは違い、人間に向けられている。」(バージャー『見るということ』ちくま学芸文庫)

彫刻というかメカ娘

2006年04月26日 | Weblog
毎朝、二時間ほど仕事をしたあとご飯の時間になり、「とくダネ」を流しつつパンをかじりながらしばらくAと会話をする。それは大抵、いまぼくが考えていることをぶつぶつとAと議論する時間。最近の話題は彫刻。そんで先日、Aは仕事先の生徒から教わったのかメカ娘ってのを見せてくれたのだった。この手のものにきわめて疎いので、GWにはアキバ・ツアーしようと話をしているくらいなのだけれど、それでもこういうのを見て考えるのは面白い。身体が兵器化した美少女、それは生まれたことの意味が外部から規定された状態をこそ求めているように見える。戦闘のバイオレンスが皆の幸福という大義を背景にしているのならば、身体が兵器であることは生きていることの意味になる。言い換えれば、生きていることの意味が外から与えられていないという自由は、そうとうキツイのではないか、ぼくたちにとって、少なくともメカ娘に萌える(アイデンティファイする)人たちにとって。無垢な身体は、重い。戦争への淡い憧憬は使命が与えられる幸福の希求に映る。

『ヒストリー・オブ・バイオレンス』

2006年04月24日 | Weblog
クローネンバーグの新作を昼間見てきた。
以前見たもののなかでは『クラッシュ』(96)が印象に残っている。交通事故に遭ってから、トラウマに悩まされて事故を繰り返してしまう話だったか。事故→セックス→事故→セックス……と続くので、事故が起こると「次またセ?…やっぱそうかい!」とつっこんでしまう(orボケてるように感じさせさえする)映画だった。意味なく盛り上がる反復がファット・ボーイ・スリムを連想させたり。

遺伝子関連の論考を書こうとして最近、鬱々としていたのだけれど、彫刻論にしちゃえばいいじゃんとひらめいて、早朝すっきりな気分になったところに、知り合いのOさんから「イーストウッド+北野武だよ」とのメールが届いていて、「久しぶりに映画行こう!」と思い立って見に行った。確かに「謎の露呈と和解の話+座頭市(絶対に死なないヒーロー)」(?)という意味ではそうともとれた。

新しい広くなったユーロスペースがガラガラだった。クローネンバーグ人気ない?お暇な人には是非見に行ってみてほしいので、ネタバレなことは言いません(ちょっと言っちゃったか?)。気になったのは、「死」をどう表象するのかということ。物語の進行のために誰かが死ななきゃならない場合、死の瞬間ないし死体をどう表象するのかは、難しい問題。適当な死体だと、物語進行上の約束事(記号)としてしか見えない→醒める、ということになる(大抵の映画はそうなので、醒めていることさえ忘れてしまうのだけど)。この映画の死体は丁寧に死ぬ。死体は寸前までぴくぴく動き、血しぶきと肉片を相手にぶちまけ、顔が吹っ飛ぶ、それらがもうこのまま世界には居られないと告げる。異形になってしまったことがこの世からの離別のサインになっている。あるいは、動かぬ首の下から血溜まりが広がるとか、死の表象でも動きがないと説得力がない。これらの光景をカメラアイは超至近距離で見つめるので、観客はまるでゴーストとなってつきあうことになる。

大谷先生の「ドリル」

2006年04月23日 | Weblog
中村公美を銀座で見た後、表参道のアジア料理屋で腹を満たすと、今度は、渋谷の坂を上って、大谷能生氏が先生を務めるドリルに足を運んだ。ぼくとAが着いた21:30くらいには、先生のレクがいったん終わっていた。どうもこれから大友良英作曲の「ポータブル オーケストラ 家電編」(2001)を「生徒」たちが演奏するということになっているらしい。ぼくがよく行くダンス公演とかと比べると明らかに客層が若い。で、なんか「いきいき」してるぞ。ワイン飲みながら、レコード屋の狭い空間に(先生が話題の大谷先生とはいえ)レクチャーを聴く若い客がこんなにひしめいているのにショックを受ける。「ドリル」ってタイトル、洒落というかなんかしらアイロニカルなニュアンスでつけたものだと「フーコー」バイアスな視線でつい考えてしまうぼくの思惑とは異なり、彼等は「素」でよい「ドリル」を受けたいらしいのだわ。よいdisciplineなら進んで受けたいって感じで、その向上心と遊び心の混ざり具合がよくて、ちょっとうらやましい(ニューアカ時代なら「楽しい知識」とか言った?)。目覚まし時計の「チャイム」が鳴ると学級委員役のスタッフが「起立、礼!」と促す。気分は盛り上がる。で、ipodやライターや電動歯ブラシや、電動○○やらをもった「生徒」たち20名くらいがそれらを自分の考えた(作曲した)タイミングでオンしオフしていく、それが曲。あちこちで不意に起こるオンに、「漏れた!」みたいな衝動を受け取りつつ、その衝動もいつかオフされてしまうその刹那を待つ、その連続。なかなかスリリングな20分の演奏だった。

「放課後」、大谷さんとも少し話をして思ったことは、音楽は楽器とかレコードとかipodとか「もの」とかかわる分、自ずと身体が自分自身から自由になる可能性があるのだけれど、ダンスの場合それを設定するのは簡単ではないということ。以前、スクラッチは唯物論的だとこのブログで書いたことがあるけれども(読み返すと、このころ元気ですね、ぼく)、そうした唯物論的な事態をダンスは自らの内にどう招き寄せることができるか、それは重大な問題だと思う。最近ブツブツと書いている「闇」の問題は、もちろんこのことに関わっている。

中村公美『耳が冷たくなったので』(@銀座ペッパーズ・ギャラリー)

2006年04月23日 | Weblog
横トリでのパフォーマンスなど、中村は「もの」に絡むとすごく魅力的な時間を生み出せる作家だ。もの、に驚く。そのとき、作為から解放された身体がとまどいながらいきいきとしてそこにある。ぼくとしてはどうしてもそうした中村ならではの希有な瞬間の出現を期待してしまうのだけれど、最近の中村は、「もの」にあまり関わらず自分の身体だけで時間を作ることに興味があるらしい。

自分の指をなめ、腕に息を吹きかけ、壁のコンクリをひっかく指の感触と音に集中し、最後は自分の腕や上体をさすり、なで回す。タイトルも、自分を感じるということを示すものだろう、一貫している。自分にさわる。それは最終的に、官能的なニュアンスを増幅させることになる。自分を「もの」にしなめる。となめる舌の感触が感じられる。こういう循環は、自慰的と言ってもよいか。よく表現は自慰的であってはならない、と言う言い方をすることがあるけれど、そういうときの自己満足とは異なる角度に今作があることは事実で、体がふれられていることの感触がこちらの体にも伝わってくることにもそれはあらわれている。ただし、自分に触れ自分が感じるという出来事(デリダならば「語る-聞く」と言うだろう、自分と相手との透明な関係)は、やはり内省的で内向的なのだ。こちらに伝わる感触がそうした内向性であってもあまり意味がないのでは。何かある驚きを伴っていなければ、観客としては伝わったことの意味がない。「もの」に関わるときに不意に起こる中村の驚きは、しばしば、こちらにとっても驚きの事件として共有するに足る豊かさを含んでいるのだけれど、結局のところ、自分のなかで循環している感じさせる/感じるの回路は、見る者を驚かせる「もの」の次元を開くことのできないまま、パッションを発熱させるも見る者を発火させることなく冷めていってしまうのだった。ダンスがあるひとつの体を媒体にするものだとすれば、自己の体の内に閉じていく傾向がダンスにはあるのかもしれない(とくにソロの場合)。そこをどう崩すか、ダンスにどう外部を確保するのか、桜井氏ならば「ダメ身体」と呼ぶだろうひとつの問題圏がそこにある。

とはいえ、中村の試みは、毎回、ダンスの根本的な問題をとらえていて、ダンスの古びた固定概念を再生産するだけのひとたちとは一線を画すものなのだ。今作だって。なのに、ね、お客さんが少ない!あう。実に、実に残念なことだ。

ツノウサギおまいさんは何者?

2006年04月21日 | Weblog
金森修による『現代思想』所収の諸論考や『優生学と人間社会』(米本昌平ほか)などを読みあさる。遺伝子学というのは、遺伝学でもあって、遺伝学というのは大抵優生学に躓くもののようだ。要するに、そのひとの良し悪しは個人に基づくものである以上に親から受け継いだ血(遺伝子)によるものだする思考仕方(通念?)をどう扱うべきか、悪いやつはいなくなった方がいいし、それは根こそぎなくしちゃえたらそうしたい、こういう考えが、科学技術による実現可能性を背景に根本的な反省を求められている。悪いことをする遺伝子がもし見つかれば、すべてのひとがスキャニングされて、その遺伝子を持つひとと持たないひととが区別され、持つひとは隔離され差別され、、、ということがあり得るわけである。まあ、多くが空想を元に議論が展開される(だって「悪い」って何なのか、その実体が分からなければそんな遺伝子探しようがないじゃないか、と思うのですね、でそんな実体的な悪はこの世に存在しないと思うし)ので、ないものをあるとみなして気分悪くなっていくって感じで、正直楽しい研究ではない。

そんなわけで、図書館に行けばよけいな本に手が伸びる。荒俣氏編集の怪物ばかりを集めた図録をめくる。悪い遺伝子たくさん抱えている?みたいな怪物くんたちがかわいく思えて仕方ない。ところで、きみ、ツノウサギくん、おまいさんの足とか胴体とかはどうなってんの。ウサギなのに、オタマジャクシみたいっすね。

ところで、今年のK先生の講義は、学生数が少なくなった分、よく聞いてくれる精鋭が集まってくれた。だいたい、最初の一、二回目の講義というのは、学生に担架を切るパフォーマンスをしなきゃなんないんだけれど、今年はそんなことしなくてよさそうだ。去年も来ていたある学生たちと帰りにおしゃべりを少しして帰る。人なつっこいひとり(男)がスティッチのマスコットを持っていたので、興味津々「なんでこれ好きなの?」と聞いたら「きもくてかわいい」と。最近のダーク・アイドルNo.1だと思うんですね、スティッチは。センター・ガイ、マンバさんたちが必ず持っているアイテムってこともあって気になってたんだけれど、やっぱりダークだ(きもい)からいいんだ。

カンギレムの「健康」

2006年04月20日 | Weblog
最近、今年最大の難事のために、生命倫理、特に遺伝子学関連、優生学関連のテクストを渉猟している。結論のでない、未来に向けた不安と空想に満ちたテクスト群。ここから自分なりの見解を導き出さなければならない。んー、どうしようか。

ともかく、読む、読む、読む。そのなかで、ちょっと面白い考えを発見。カンギレムの「健康」概念。

「健康を特徴づけるものは、一時的に正常と定義されている規範をはみでる可能性であり、通常の規範に対する侵害を許容する可能性、または新しい場面で新しい規範を設ける可能性である」(『正常と病理』)

健康とはふつう、ひとつの基準値、規範に適った状態と考える。けれども、カンギレムはむしろ一定の範囲から自由にはみ出ることができることこそ、健康の状態とみなす。エレヴェーターじゃなく階段でも大丈夫、とかそういうことだろう。逆に、「病気は、規範からの逸脱ではなくて、むしろ一つの規範に忠実でありすぎること、そこから逸脱したり、はみ出たりできないこととして定義される」(市野川容孝)のであって、「病人は、一つの規範しか受け入れることができないために、病人である」(『正常と病理』)ということになる。

これは規範でなくゲームを優先するウィトゲンシュタインのアイディアみたいだ。確かに、病とはひとつのところに停滞してしまうことなのだろう。痛みとかは、それ以外のことを考えさせなくするものだし、例えば。健康であることは、様々な改変に、異なる考えを持った他者の出現に柔軟に対応できること、ゲームが膠着しないこと、なのか。なるほど。

合間に、小島信夫『抱擁家族』を読む。このおもしろさはいったい何だ?

アヴィニョンの娘たち

2006年04月16日 | Weblog
について書かれたいろいろなテクストにふれる。レオ・スタインバーグとかウィリアム・ルービンとか。

来年で100才の絵から何を読み取るべきか。娼婦=絵画としての観客との社交的関係とか、娼婦=アフリカ、オセアニア系の表象としてのオリエンタリズムないしエキゾティシズムの問題とか。面白いのは、この絵が最初の段階では娘たちのお客さんが描かれていたこと。彼女たちは娼婦で、そこは待合室、男たちが二人その部屋にいる。一人は船員で、娘たちの真ん中でぼーっと座っている。もう一人はドクロと本をもった医学生、彼は梅毒にかかるだろう船員のためにそこに来ている(写真がそれ。真ん中の惚けた男が船員で、左端の直立した像が医学生。ピカソはこの絵を描く1907年以前、梅毒にかなり興味を持っていて、ルービンによれば、娼婦たちが治療している現場を見学に行っているそうだ)。男たちは最終的に消える、いや消えるというよりも、視点が90度回転した末、鑑賞者がその二人の男たちの立場に立たされることになる。

物語から経験へ、エロティシズムからホラーへ。未知のものへ触れる(巻き込まれる)ドラマの渦中に見る者をどう招き入れるのか、『アヴィニョンの娘たち』から得るヒントの一つはそれ、ではある。

けれども、時代は娼窟というよりもメイド喫茶なわけで、そうした現在にあって、表現する人たちには、「甘い」世界のなかにハードな事件を持ち込むことが求められているのか、むしろその甘さのなかに潜在しているホラーを開いていくべきなのか、なんて考えてみる、ちょっと。

ibookがしばらく前から調子悪くなって、とうとう二台目のibookを購入することになった。やはり二年前のものよりもいろいろと快適。ところで、新しいのの梱包を開いたとたん、旧ibookが「うん」とも「すー」とも言わなくなった。すねてんのか?パソコンのこういう「機嫌」みたいなものを想像せずにはいられないところが(そういう想像を許す調子の波のようなものが)、実に不思議だ。結局、移行のためにずいぶん時間がとられ(ところで、ituneの移行はできないのでしょうか。もしそうだとしたら、困る!)、夕方2時間くらいしかピカソに時間が割けなかった。その後、Aと水泳へ。さすがに日曜日は込んでいる。水泳の後、ジョギングしながら「からくりテレビ」を見ていた。あれは人間の見本みたいな番組っすね。「瑠璃」ちゃんもキュートでおかしかったが、何より「のど自慢」の面々が、ぎりぎりアウトな人たちばかりでやはりすごい。帰りは、町田のお好み焼き屋へ。なんてことない休日、が幸せなのであった。

2006年04月16日 | Weblog
室伏鴻氏より便りがあり、第三七回舞踊批評家協会賞を受賞するとのこと。昨日、そのお祝いに青山へ馳せ参じた。
「ミニマル舞踏とも言うべき、舞踏的肉体の原点を鮮烈に見せた成果に対して」が、受賞の理由だと言う。ちなみに、ぼくは舞踊批評家協会には所属しておりません。

写真は、バレエの森下洋子と室伏氏とのツーショット。「舞踊」という言葉があることで、まず出会うはずのない二人がこうして顔を合わせる、のはちょっと面白かった。

「授賞式」というものは、ともかく幸福感がみなぎっていて、遅れてちょこんと立っていたぼくにもその気分がおこぼれでやってくる。新人賞を受賞した壷中天の向雲太郎氏ともお話ができたのはうれしかった。拙ブログも読んでくれたということで、その話で盛り上がる。なぜ、いまここに闇がないのか、、、など。こうした「春」気分を、そういえば去年は友人の結婚パーティで「おこぼれ」したんだった。春のイメージがそうした「いい気分」で、今後どんどん埋め尽くされたらいいなあ。

そんな高揚した気持ちで、てくてくと六本木まで歩き、夜にミーティングの約束をしていたデザイナーの方と、恵比寿のneuf cafeで面会。というか、彼は今日はDJとしてもここに来ていて(というか彼がDJするからって行ったのだったっけか)、いろいろと音楽情報をいただく。岡本一生が、いい、とか。ふむふむ。

マイクがないと

2006年04月14日 | Weblog
マイクがないと人前で話せないことが発覚した。

一昨日、昨日と今年度の講義が始まって、年度初めのいわゆる「お見合い」があった。一昨日は、今年一年という約束でゼミを担当することになった大学に足を運ぶ。コピー機が何処にあるのか解らなかったり、とか新人の初々しさも手伝い、また久しぶりに(三ヶ月ぶり)学生の前で話すこともあって、やや緊張してしまった。というか、何か「ノリ」がでない。ん?何でだろ、と思うのだが、その理由がすぐには見えなかった(準備不足かはたまた準備しすぎか)。で、昨日、今年で四年目の大学の三コマでは、例年通りマイクを使って話をした。すると、自分のペースでしゃべっていられる。あっ、そうか、ぼくはマイク越しでだらだらしゃべると調子が出るのか。調子が出ればもう「心配なし」で、一時間半の内どのクラスでも三回くらいは学生が笑うシーンを作ることが出来るのだった。

ひとに何かを伝えようとするときには、一旦自分を閉じた状態に出来ないといけないんだな、閉じて自分に自分が集中出来てはじめて、相手に何かを伝える(相手をコントロールする)余裕が生まれる。閉じないと開けない。

理由は分かった。でも、こまった。ゼミの部屋でマイク使うことも出来ないし。そもそもその教室にマイク付いてないし。こりゃもう「妄想」に頼るしかないですね。マイク持っている妄想=「妄マイク」。

菊地でした

2006年04月14日 | Weblog
菊池じゃなく、菊地でした。ぼくこそ誤植マスターでした!ひとつの前の記事直しておきました(まだある?)。

よく読めば、『ユリイカ』の記事の1/3は菊地のこの誤植の話で、しかも意図的だというのは、ほとんど自明のこととして論じられている。例えば、岸野雄一なんてタイトルが「確信的な正誤の蛇行」なのだから。「思うに、菊地は積極的に間違えることによって、矛盾の内包、つまり世界そのものと関わろうとしているのだろう」。

なかでも傑作は、村井康司の「美しき妄想としての引用」で、それは『スペインの宇宙食』の冒頭、ナボコフ『ロリータ』のある文章を引用する際に、単に誤植でも、翻訳ではなく原文を参照したした故の変更でもない、まともに考えたら、どうしてこんな変更がなされているのかわからない「超訳」が菊地によって施されていることを明かしている(でも、結果としては、その「超訳」は「正訳」に取り替えられてしまったというのだけれど)。

菊地の好きな表現に「妄~」がある、「妄香」とか。これも一種の「妄訳」なのだろう。それは、一面では間違いと言うべきだとしても、「妄訳」の側面が否定されたらものをつくるなんてことは出来ないだろう。だから、「妄~」は間違いなんじゃなくて、創作性の一部というべきなのかも知れず、それがオーセンティックなものからの許諾を得るかどうかなどかまわず「妄~」が氾らんしている状態は、危険だけれど、豊かなことに違いない。豊かなこと、で危険なことでもある。「積極的に間違えること」は、紙面の上に刺青をいれるようなものかもしれない、グラフィティを施すことかもしれない、世界の内に錯乱をセットすることだろう。

12日に、NUDE『部屋』(@神楽坂die pratze)を見た。四人の男たち。もの(あるいは機械)になってしまういそうになって、そのギリギリ手前で、まだ生きていることに戸惑っているような、そんなダンスだった。

最近出た『東京大学のアルバート・アイラー』

2006年04月12日 | Weblog
を読みながら、仕事場へ。もちろん言うまでもなく、菊地成孔と大谷能生による東大での講義を本にしたもの。

この本は歴史編に続く第二弾で、キーワード編と副題がある。そのキーワードのなかに「ダンス」が含まれている(他のキーワードは「ブルース」「即興」「カウンター/ポスト・バークリー」)。浜中康子『栄華のバロック・ダンス』とトニーティー『黒人リズム感の秘密』をダンスを語るさいのベースにして、ジャズがどうダンス・ミュージックであったか、という問題を整理している。ダンスを語るのに本当に本がないんだなーと、この二冊しか取りあげられていないことにちょっとショックを感じつつ(この二冊がよくない本だと言うことではないですよ)、西洋がステップ(足)、アジアが手振りときて、アフリカ(黒人、もちろんジャズのルーツとしてあげられている)がアニマル・ダンスと来るところは、そこそこ面白い(もうちょっとダンスの定義とか、リズムとの関係とか読みたかったけれど)。いや、とくに面白いのは、

「スワヒリ語でワガンダっていうね、ヒーラーのリードで共同体全員でダンスすることによって、おじいちゃんから子供までみんな踊るっていう側面もあるんだけど、ヨーロッパのダンスはその点に関して凄いマゾヒスティックに屈折していると思う。治癒よりもむしろ神経症を量産する装置としてヨーロッパのダンス文化っていうものはあって、カップル・ダンスにおけるチーク・タイムっていうのはその安全弁として機能してるってこともあるんじゃないかと」

高まる(極まる、構築する、統制する)ことをダンスに求める西洋的価値観に基づいたダンスばかりが、ダンスではない。というのはもっともであって。また西洋のダンスも、例えば大抵の社交ダンスはその発端が農民の享楽的な踊りで、それを洗練させて社交の舞台に相応しいものに仕立て上げたもの。だから洗練の容器の中にダンスを押し込めることの内には、農民が享受している享楽的な狂騒的なダンスのエッセンスに憧れつつも批判する、いかがわしいと非難しつつどうにかその力を自分も玩びたいという二律背反的な思考をともなっていたのだ。それがいつのまにか、洗練(高まること)こそが素晴らしい、と考えるシンプルなひとたちがダンスの場所を牛耳るようになった(?)。

西洋のダンスが神経症的なものへと迫っていることに、ダンス学(ダンス教育)はどれだけ自覚的であるのだろう。神経症的あるいはマゾヒスティックだからダメだという気はさらさら無いけれど、そのことに自覚的であるかどうかというのは、きわめて重要な気がするのだ。

そんで、ついつい、『ユリイカ』の菊地特集にまで手が伸びて。帰りの電車で読んでいたのは、例えば、『構造と力』というアルバムのタイトルについて、ある著作の中で、菊地が次のように語っていると、廣瀬純が取りあげているところ、とか。

「リズムの構造が力を生み出してゆく。という、ファンク・ミュージック本来の意味と、ダンスを踊りながら、その音楽(とダンスの動き)の構造を、身体(肉体の概念)で自然と理解してゆくことで(主に精神的な)治癒と解毒が成される。というアフリカのダンス治療(…)の意味を持たせています。ダンスやファンクに触れた事がある人々ならお解りの通り、これは、何も目新しい所のない、最初から根元的に存在した、あらゆるダンスの存在意義であり、そういう意味ではとても象徴的な書名ですね」(菊地)

音楽の構造を身体が理解していくプロセスは、つまり音楽に促されてそれに合わせて踊ることは、治癒と解毒である。この身体が自然に理解していく、というダンスの受け止め方には、あたりまえだなという気持ちと共に、そう、もっともだ、と歓声を上げたい気持ちにもなる。

で、もちろん(このブログでしばしば言及される)問題は、さて、そうしたダンスへと向かう欲求(A)と、そのダンスをひとに見せる欲求(B)、またダンスするひとを見たいという欲求(C)は違うよね、ということであり、(A)と(C)は結構近いのだけれど(Cは要するに、ダンスするひとを見ることで自分の身体でそのダンスを理解する、という欲求なのだから、だとすれば)、(B)は少しそこから浮き出ていて、さて、こまった、こりゃ彼ら(ダンサーや振付家)の自意識の問題を解かなきゃ(その問題を解決してもらわなきゃ)、見ていてのれない踊れないジャン、というのが、僕にとってのダンスの観客論なのでして。

ああ、それにしても、なぜ菊地成孔はひとを元気にする力があるのだろう。そこにむかつきますね、はい。ズルイですよ。うらめしくうらやましい。多分それは、『ユリイカ』で三田格が指摘しているように、宮台的ではないから、かもしれない。三田はまず菊地にアンケートする形式で自分の原稿を作っているのだけれど、あるところでそのアンケートについて強調するべきは「まずは宮台真司が絶対に書きこまないであろう「知らない」「解りません」が計三回もあること」だといっている。何より、「想定の範囲内」男のレッテルが宮台真司に捧げられていることが痛快で、誰もが感じていることに言及したところは三田氏批評的、ここ笑えた。で、宮台的ではないということは、ボク的にはマッチョではない、ということも含意していて、その最たるものは「メタからベタへ」(三田によれば東浩紀)ということになるだろう。「あいつら馬鹿」だとほのめかし超越した地点に常に自らを置く(メタ)ことで「想定の範囲内」を確保する宮台的身振りから遠ざかって、「知らない」と軽く言い放ち、内だろうが外だろうが「想定」することの限界にどんどん自らを晒していく(ベタ)こと。ベタのことでとくに凄いのは、菊地の文章の誤字脱字、へんな「。」の活用の仕方で、この点で、やはり『ユリイカ』所収のエッセイのなかで菊地の文を転載するとき「メールによる返答をママで転載した」と但し書きしてしまう大谷の身振りも両者の関係として興味深いのだけれど(世代論か)、菊地が校正なしの文を出版し続けるのは、確信犯的なことなのではないだろうか、とさえ読めば読む程思えてくるのだ。「ベタ」な身振りを垂れ流すさまが菊地の真骨頂なのでは、と(あのかつてのブログを思い返せば、一層のこと)。

それは多分、と言うか間違いなく「ヴァルネラブル」な位置に自らを置くことだろう。「想定の範囲内」で超越的な立場を確保するのとは対照的に、脆弱性をさらした、攻撃誘発的な立場に身を置くこと。このことは、前半に書いた菊地の西洋的なダンスに対する批判にも相通じる事柄だろうし、ぼくの最近考えている範囲で言えば、ダンスする怪物であろうとするってことは、まさにこのヴァルネラブルな立場に自らを置くことに繋がっているのである。

絵画と見る者

2006年04月09日 | Weblog
最近、新たに「絵画と見る者」と(仮に)題する論考を書いている。これは最近書いた二つの論考「二〇世紀のダンスにおける観客論」(『上演舞踊研究』所収)、「さりげなさについて」(『ART FIELD』所収、こちらはナディッフのような美術系の書店に置いてあるはずです)の姉妹のような考察になる予定。簡明に言うと、絵画における観客論である。最近は、批評文よりも、研究者としての書き物に集中している。今の自分にとって、しっかりとした足場こそ必要なのである。そんな気がしている。

今の構想では、ルネサンスから現代に至る美術史の流れを、絵画が見る者に対してもつ意識をどのようにして画中にあらわさないようにしてきたか、といった切り口で捉えていく、というものになりそう。ダンスを論じるときにそうであったように、ここでも重要になるのが「さりげなさ」である。マイケル・フリードがシアトリカリティを批判する際に参照するディドロは、まさに絵画の優美を問題にしている。そこで議論になるのは次のこと、見る者の食指を掻き立て見られるものになるには、逆説的なことに、見る者がいないように絵画は振る舞わなければならない。見る者の不在を「至高の虚構」と呼ぶフリード(=ディドロ)の視点が前半のトピックになる。

後半は、むしろ観客なしには成立しない絵画あるいは観客を意識し誘惑することを仕掛けとする絵画を論じる。「アヴィニョンの娘たち」と「アンタイトルド・フィルムスティル」が範例。また最後に、ソンタグのキャンプ論に現れる演劇の問題(「経験の演劇化」)に注目する。ここでは「さりげなさ」に対立する「わざとらしさ」がむしろ重要な価値を帯びてくることになる。

最近は、このことばかり考えている。