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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

アングル

2005年12月02日 | Weblog
先週の日曜日、横トリの帰り、山下公園からゆっくり歩いて馬車道通りのはずれまで来たところに、古本屋があった。ちょっと覗いてみることに。その階段脇にアングルの図版が置いてあった。購入。これが、すごく、いい。

アングルの魅力は、誰もがそういうように、ちょっとクレイジーなところだ。新古典主義の巨匠ダヴィドに学んだ生粋の古典主義者はラファエロを信奉するそんな「まっとう」なひとのはずなのに、いざ筆を握ると本人の中に眠っているなにやらおかしなところが滲み出てきてしまう。彼のそういうおかしさが現れているのは、「ユピテルとテティス」とか「アンジェリカとルッジェーロ」などの歴史画に違いないのだけれど、肖像画もなかなかえぐい。例えば、青い服の貴婦人は、艶やかな肌とか聡明そうな表情とかその辺りには素直に古典主義的な魅力が現れていると思うのだけれど、ね、その、あの髪型何なんですかね。過剰な装飾的な髪型、それを実に楽しそうに描くアングル。あと、白い手。長く見ていると、ちょっとクる。

で、もっと凄いのは、赤い服の婦人。まずこの女性の目が怪しい。少し、目がずれている。ずれている事実をリアルに描かなくてもいいじゃないか、と依頼主からはクレームこなかった?、いや画家の関心はまさにそこに集中しているよう。そのずれを、そこに起きる奇妙な感覚を嬉々としてあらわす、そこに幾分かの悪酔いを感じた人は、もうその額にある「うずまき」に目がいってしまっているに違いない。これ、なに?少し前に『うずまき』って恐怖映画があったけれど、あの恐怖感に似た感触。いやー当時はこういうのが流行ってたわけでして、、、なんていい訳がましい説明に納得するよりも、このビザールにただオドロキ+魅了されていたい。

そこで思ったのですが、アングルの女性たちはまるで「金魚」ではないか。ひとの欲望のために人工的に加工された愛玩動物の愛くるしさのむこうにある異常さ。これを、木曜日の美術史の講義で学生達に力説してしまった。さぞかし変(ビザール)な先生と思われたことだろう。