Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

春のイベント

2009年03月31日 | Weblog
3/29
DENPAに行ってみた(なんと昼の二時に開始)。その後、ル・デコ近くの釣具店で、何故か蛍光色のキャップを購入。コスプレしたいという潜在意識がつい出たのか、冷静に考えると自分でも何故買ったのか分からない。早めに就寝。Aが風邪気味でうなされている。その声で突然目が覚めてしまい、何だかすごい不安な気持ちになって二時頃にテレビをひとりで見ながら、呼吸を整えていた。コスプレの「変容」ってよく考えるとちょっと怖い、子供の頃ってそういうの怖かったよねとか、そんな話を昼にしたからか。

3/30
昼に浅草へ行く。海外の旅行客は半袖姿で吾妻橋を歩いている、けれど、まだちょっと寒さが抜けたわけではない。しぶとい。4/5に迫った、gudp (grow Up! Danceプロジェクト)のCRP(クリティカル・レスポンス・プロセス)の準備のために、打ち合わせがあったのだ。ご存じない方もいると思うので説明すると、gudpとは、「自分の作品をブラッシュアップしたい」と考える振付家を昨年11月に公募し、選考されたアーティストがいろいろとワークショップや稽古を重ねながら半年後に公演を打つ、という企画。石川勇太くんと捩子ぴじんくんが選ばれた。ぼくは選考委員のひとりとしてこれに関わっている。作風は違えど今後が大いに期待できる二人。今日は、五割くらいの出来のものを見てきた。「五割」なので、わくわくとどきどきが半々。彼らの本公演(4/24,25,26)もお勧めしますが、その前、4/5にはCRPがあります(13:00-17:30@浅草アサヒアートスクエア)。これは、観客の方に作品をめぐっていろいろと作家と意見交換をしてもらうイベントです。中間発表→観客との意見交換が主要コンテンツです。入場無料。作家の制作過程に興味をお持ちの方、自分も作品を作っている作りたいと思っている方、批評やキュレーション、制作などに興味のある方には、有意義な時間になることと思います。興味のある方は、お名前、電話番号、メールアドレスを明記して、gudp@arts-npo.orgまで連絡して下さい。

その後、東京国立近代美術館で明日(3/31)からはじまる「ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ」のオープニングレセプションに。50点ほどの作品が展示されているということ、これは少なくはありません、じっくり見ようとすれば時間がかかりますよ。是非、時間に余裕のある時にいらっしゃることをお勧めします。前記しましたが、5/23の14:00には、ぼくのレクチャーがあります。60年代のダンスと美術の話をする予定です。いまのところは、「タスク」-「「見出された(ファウンド)」ムーヴメント」-「レディメイド」(アンフラマンス)-「演劇性」あたりをめぐるお話しをしようかと。
見所のたくさんある展覧会だと思いますが、昨日気になったのは、泉太郎と小林耕平の違いです。二人を比較対照するなんて、こういう機会がないとなかなか思いつかない。けれど、こうやって一カ所に集まった状態で見ると気づくのは、泉が徹底してひとりで制作するのに対して、小林作品は出演者である小林とカメラマンの二人によって制作されているという違い。あえていえば、小林が漫才的であるとすれば、泉はピン芸的で、小林の場合、カメラマンと出演者のセッションが時間を推進させているとすれば、他方、泉の場合、セッションの相手として観客の存在が不可欠になっている。泉の作品を見ていると、作家に「おいおい!」とつっこみを入れたくなる。観客との関係がダイレクトで、作品の一部になっているのだ。だからだと思うのだけれど、泉の作品は、どれもインスタレーションに工夫がある。観客の「見ること」に対して、作家がさまざま介入している。簡単には見せてくれないのだ。その点、小林の作品は、そうした工夫を必要としていない。なんちゅうところとか、見所のひとつじゃないですかねー。

「カオス*ラウンジ」→「転校生」

2009年03月28日 | 演劇
カオス*ラウンジ展に行くというのでAに同行。国分寺駅から10分くらい、六畳のワンルームみたいな広さのところに、五十人近くの作品が展示されていて、なんだろう、うん、ともかく、じーっと眺めている内にどんどんと好感が沸いてきました。37才のぼくが「共感する」なんて言ったら彼らに失礼だと思うんだけれど、実際、「共感」というのとも違って、もう届かないものに対してうらやましいというか嫉妬しながら、「いいな」と思うという意味で、「好感」を持ちました。「自分の思い」と「描かれているもの」とその「クオリティ」とがちゃんと一致していて、しかもそうした作品がこれだけ集まり、しかもそうした作品を作る作り手がこれだけ集まっていることに、いまの時代の若い世代ってこんなうらやましいことが出来ているんだ、と思いました。ちょっと前、GEISAIで見た國方真秀未は、ジャポニカ学習帳にエロ・グロのマンガを描き、そうすることで美術の世界とアクセスしていた。それは「アクセス」するための秀逸なアイディアに当時見えた。けれども、いま振り返ると「アクセス」するためになぜ努力する必要があるのか、と思わないでもない。村上隆とつるむのもよいが、「別につるまなくてもいい」ということになっているのかも知れない。Aとも帰りに話したんだけど、別に「マイクロポップ」でもない、つまりマイナーの抵抗でもない。ただ自分の思うところを近くの仲間と共有できる仕方で差し出し合っている。その姿勢がなんだかいいなと思う。アイロニーとか諧謔とか批判とかじゃなくて、まっすぐ。暗いけれど、肯定感がある。「限界芸術」のような、裏返った芸術至上主義でもないと思うんですよ(むしろ芸術至上主義ではないかな、自らの感性に忠実であろうとしているという意味で)。展示の主催者藤城嘘さんは、「ダストポップ」なんて言葉を使っているんですね。「ダストポップ」3/10の記事にでてくるDJ_Takkという描き手を形容する言葉がいいですね。「「可愛い」の乗算によるふわりとした世界がとってもくすぐったくって、でも静電気のようにビリリとくるカッコいい画面」など。ポジティヴな意味で彼らの画風は「微弱だなあ」と思ったんだけれど、そうした点が「くすぐったく」とか「静電気」とかいう言葉にあらわれている気がします。
これだけの作り手が集団になるのは、どうしたら可能なのだろう。mixiやtwitterの時代のなせる技、ということなのだろうか。「シャイで内向的」に見える作り手が、とても上手い感じで仲間を集めている、すごいうらやましい気持ちになった。

その後、池袋に直行し、飴屋法水『転校生』を見た。本当に感動した。必見です。

Melty Love

2009年03月26日 | 美術
3/20に、学内の卒業式があった。卒業式の袴姿と謝恩会のドレス姿と、学生は一度着替えタイムがあって、そんなこと知らないから謝恩会では袴姿を拝めるのだと思っていたら、みなドレス姿であらわれたので驚いた。会場となった四谷のオータニは、ぼくが自分の卒業式の時にちょっとした「すったもんだ」をした場所で、何だか恥ずかしくも懐かしい気持ちになった。
3/21に、「神村の手塚と手塚の神村」(@Studio Goo)を見に行った。神村が「私的解剖実験2」をする、そして出来てしまっている。なかなか衝撃的だった。この二人を軸に日本のダンス界は回っている(と思っているのはぼくだけなのでしょうか)と確認。その後、たまたまGooで一緒だった美術作家のKさんと連れだって、武蔵小金井へ。途中、どんな話題になっても「あらびき団」のネタで返すKさんだった。大木裕之のイベント「たまたまVol. 7」(@アートランド)を見に行った。松井茂、中ザワヒデキらによる演奏を見た。大木さんは、狭くて観客がぐちゃぐちゃに収まっている空間で、トリシャブラウンに倣った(?)パフォーマンスを行った。
3/22に、梅田宏明新作公演(@赤レンガ倉庫ホール)を見に行った。風と雨でぐちゃぐちゃになった。
3/23に、平田オリザ、アミール・レザ・コヘスタニ、シルヴァン・モーリス『ユートピア?』(@あうるすぽっと)を見に行った。大きな感動はなかった、けれど、とてもよくできたコラボだった。平田の底力を感じた。帰りに、大勝軒に行く。つけ麺のブームはぼくのなかで全然さめていないのだけれど、ただここの店の麺は正直苦手だ。丸くてスープや麺が熱い時に食べるとなんだか苦手なにおいがする。そう感じるのは多分ぼくだけなのだろう、ただあのにおいにはいつも後悔させられる。

21日に大木さんのイベントで帰り際お会いした梅津庸一さんの作品のことがずっと気になっていて、それはVOCA展に展示してあった。「Melty Love」っていうんだけれど、タイトル通りShaznaのIzamらしき顔をしておなかが膨らんでいる人物が、クラナッハのような裸体でポーズをとっている。どの作品よりも強さを感じさせられた。どういうことなんだろうと思ってしばらく「Melty Love」を見ていた。当時、1998年頃だろうか、彼らの存在はとてもぼくにとって煩わしかった。サウンドは、明らかにボウイのそれに似ていて、いわゆるヴィジュアル系が形成されていくその発端の嘘くささに嫌悪感を持っていた。けれども、じっと曲を聴いていると、いまさらいいと思ってしまう。「嘘くささ」は感じない、むしろこういう語り方しかできない恋愛ソングもあるんだという気持ちにさせられる。ぼくは、この曲を過去との比較で聴いてしまっていたのだ。けれども、ここを出発点にしてはじまったことというのが絶対あって、そうしたことについてぼくは適当にしてきたと思った。何かを見たり聞いた時に、過去との比較を通して見聞きするのがおじさんというものだとすれば、おじさんが知らないのは、比較しないでダイレクトに作品に直面することだろう。梅津君の作品を見て、ぼくが打ちのめされてしまったのは、比較を超えた力があったからだと思ってみようかな。ご当人もとてもいい存在感のあるひとだった。

イチローと物語

2009年03月25日 | Weblog
昨日(3/24)、WBCの決勝戦があり、10回の表、イチローのセンター前ヒットによって二点差がつき、宿敵韓国に対する勝利が決まった。あらかじめこのようなラストエンディングのシナリオがどこかに用意されていたかのような、身震いするような結末だった(押さえで出場し、9回の裏に同点弾をゆるしたダルビッシュ有も正に「身震いした」とこの瞬間を語っていた)。この試合というよりも今回のWBC全体が、最後のイチローの一発によって、あまりに美しい物語へと結晶されていった。イチローの不振は、このエンディングを最も派手に輝かせるためにあったかのように、こう終わってしまえば、すべてはキラキラした思い出と化すのだろう。

ぼくたちはこうしてあっさりと忘れてしまう、イチローがずっと不振だったこと、そしてその様子を、見る側の呑気なぼくたちはイライラして見ていたこと。この「イチローの不振」は、何か面白いテーマだと思って見ていた。哲学的というと大袈裟なんだけれど、考えるに値するものが含まれている気がしていた。岩村だったか、今朝のワイドショーのインタビューで語っていたけれど、「イチローも人間なんだ」とみなが感じた。イチローが天才だとして、天才が打てないというのは、どう考えても概念に対して矛盾しているわけだ。だけれども、こうした矛盾が現に起こってしまうということこそ、ゲームなるものの面白さなのである。

この矛盾の原因は、イチローが身体的な存在だということにある。誰もがそうであるように。身体は、ダメな時もいい時もある。気まぐれなところがある。「調子」なんて言葉があるとおり、身体というのはとても不安定。しかし、この不安定な身体なしには、プレイは出来ない。

A 天分と努力のたまものであるイチローの身体は、性能としては天才である。性能(技術)からすれば、まあだいたい打席に立てば打てるはずだ(4割程度としても)。

B しかし、現実は打てるか打てないか分からない不確定要素を多分に含んでいる。単に個人の「調子」だけでなく、敵の「調子」「気持ち」「力」なども不確定性を高める。


スポーツというのは、このAという可能性とBという現実を可能な限りイコールにしようとする物語である。Aという性能が、未来の可能性としての勝利を夢見させる。そして、その夢がBにおいて実現するとき、それは勝利の実現であり、また夢の実現ということになる。スポーツは、ラストシーンで胴上げしている自分たちという絵空事を現実にしていく過程であり、敵もまたそうした過程を生きているわけで、ラストシーンがハッピーエンドである状態を互いに奪い合う、「勝利の物語」(A’)を「奪い合う物語」(B’)が試合であって、「勝利の物語」(A’)=「奪い合う物語」(B’)となることを目指すのがプレイヤーの仕事なのである。プレイヤーは、自分の性能Aを信じてその性能が最大限発揮されることA=Bを目指し、敵に対峙する。

このAもBも英語で言えば、「パフォーマンス」だ。performanceには、「性能」という意味と「遂行」という意味がある。「やれること」と「やること」はともにパフォーマンスと呼ばれる。「出来ること」(A)と、「やること」(B)と、「出来たこと」(A=B)あるいは「出来ないこと」(A≠B)はそれぞれ違う。それぞれ違う局面に、物語を喚起する要素がちりばめられている(例えば、A≠Bという「イチローの不振」なる事態は、イチローという才能はもちろんあるとして、しかし大将気どりをあらわにしたそんな男のふがいなさを世間に物語らせた)。Aは即Bではないということ、その間にパフォーマンスというものがそうとくにいわれる何かがあるのではないだろうか。あらためて辞書を見てみると、動詞形のperformは、per(完全に)+form(供給する)という意味があるという。

ぼくたちは、しばしばAを固定的に考えてしまいがちだし(「イチローは天才」など)、Aは即座にBを意味するものだと考えてしまいがちだし、もっとそうしがちだと言えるのは、AがBとイコールにならないと、すぐにAの主体をバッシングするということ。「ありえない!」などと嘆息するのは、まさにそうした思いがさせることだろう。けれども、そうは問屋が卸さないというのが現実というものだ。

それでもプレイヤーは夢見る。他人がこのA=Bという式を夢見ていることをプレイヤーは夢見る。そして、その夢にうなされながら、どうにかその夢が単なる夢ではなくなることを勝利という現実を手中にすることを夢見る。舞台のパフォーマンスは、夢が現実になる必要はない。夢を夢として呈示できればいい(そのための現実の努力はスポーツに似ているかも知れない)。スポーツのプレイヤーは、物語の書き手であり、物語をフィクションではなくノンフィクションにする労働者でもある。いわば労働する書き手だ。作者としての彼らにさほどの苦労はない。けれども、この書き手は言った傍から現実へとその物語をダウンロードしなければならい。その苦労は、想像を絶する。

イチローは、最後の打席で、「いろいろなことを考えていた」と発言している。「無心」でいたかったけれど、そんなことは出来ずに、いま日本ではすごい視聴率なんだろうなとか、いまここで打ったらおれは「持っている」なとか、自分の現状を実況しながら打席に立っていたというのだ。イチローには見えていた、AとBが。「無心」というのは、AもBも意識せずにいられる状態のことだろう。ただ、バットがボールに見事ミートするその等号(=)の瞬間だけをイメージする状態なのだろう。イチローは、等号に集中せず分裂していた。分裂したままだった。それでも打てたということは、彼にあらたな成長を与えることとなった(といったことを本人は述べていた)。彼はつい「神」という言葉を漏らす。「持っている」という言葉を漏らす。「持っている」という言葉は、面白いなあ。イチローはよく使っていたな、松坂に対してとか。これこそまさにperformanceだよね。単に性能ではなく、性能を証明する遂行がなされたということこそ、イチローに「持っている」という言葉をいわせるポイントなのだろう。

なんてことを思いながら見ていた。見ている時には、Aとくだらないおしゃべりをしていた。突然、応援するチームを変えてみることは出来るのか、とか。延長戦が決まった辺りで、眠くなって、横になったりした。ぼやぼやといい気なものだ、応援する側なんて。ぼくはあのセンター前に飛んだ(ほとんどテレビ画面を見るこちらに飛んできた)あのボールを、あの一瞬をぼくはいつまで覚えているのだろう。前回のWBCのこととかほとんど覚えていないもんなー。いい気なものですわ。

昨日は夕方、同僚の先生とご夫人とAとぼくとで新百合ヶ丘にてご飯を食べた。1年がようやく終わろうとしている、なんて気持ちになった。

『広島!』

2009年03月20日 | 美術
Chim↑Pomの新作展覧会『広島!』が22日まで行われている。事件云々ではなく「作品」としてこれを見ること、個人的に勧めます。「あの、あれか」といったネタ的な消費は、あの事件の性質とは言えても、Chim↑Pomの作風とは言えない。すべてのフライングめいた発言をネットなどに書き残したひと、ネタとしてワイドショー的にこれをとりあげたひと、「ピカッ」を作品として、Chim↑Pomの批評をして欲しい。

「ネタ的な消費」の不毛から逃れるためにぼく達が出来ることは、作品が自分に与えた衝撃を大切にすること、そこから言葉を見つけ、そこからしか言葉を見つけないようにすること、それしかないのではないか。「作品」を論じるのが批評の仕事だとすれば、ぼくはこの日が来るまでは何も言うまいと心に決めていた。「ピカッ」騒動を語るのは、ぼくの仕事ではないと感じていた。あと、いっておくべきは、ぼくはChim↑Pomの応援団ではない。少なくとも批評の立場でぼくがしているのは、そういう全面的な賛同者としてというものではない。ダメだったらダメと書く。けれども、そう書く時、そのぼくの言葉は、また誰かに批評される可能性がある。そしてその批評の批評も誰か別の視点からの批評の憂き目にあう。

昨日、展覧会と同時に発売されていた『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないか』には、「戦争反対の反対の反対」という言葉が帯になっていた。こうした反対を累乗化していくように、批評を累乗化していくこと、それしかひとの出来ることはないんじゃないか。まだ中身は読んでいないのだけれど、広島での展示が不可能になってから、彼らがずっとしていたのは、被爆者・被災者の方々とコミュニケーションをとることだった。こういうプロセスこそ、彼ららしい。そういう労を惜しまず生きることしか、ぼくたちに意味のある生き方はないようにさえ感じる。

その後、六本木スーパーデラックスに駆けつけ、ボクデス『スプリングマン、ピョイ!』を見た。Bestというよりも、全部盛りという印象。何度あったか、5回ほど休憩を挟みながら、ソロのパフォーマンスを続けていく振る舞いは、「おっさん」風情をみせつけていた。ボクデスがしばしば力説する論理性は、ようはだじゃれの積み重ねであり、その点もおっさんぽいのだけれど、何より、そうしただじゃれのネタが80年代的というか、単に古いというよりも、ある世代のある種の傾向を強く感じさせる。簡単に言えば、テレビ的なものということ。舞台の両脇に、「休憩」などを表示するブラウン管テレビが置いてあるのはその象徴で、ネット的なものというよりはテレビ的なネタが何度も何度も置かれていく。本人も恐らくファン達からすれば、「テレビの人」だ。全体として、近年まれに見るテレビ的なテイストの作品。そういうのが好きな人のための和やかな公演だった。裏原宿から六本木という流れで見たからといって比べるのもなんだけれど、ボクデスは、Chim↑Pomと関係ない存在だろう。ぼくは、『Review House 02』に「彼らは「日本・現代・美術」ではない」という論考を書いた。会田誠のアイロニー的な作品を批判する一方で、遠藤一郎やChim↑Pomはそうしたアイロニーとは似て非なるものであると論じた。この日のボクデスは、アイロニーを濃厚に感じさせた。「なんちゃって!」といった振る舞いは、すべてのまじめをふまじめにし、すべてのふまじめをまじめにする。だからよいともいえるし、だからだめじゃんともいえる。ともかくも、そうした振る舞いとChim↑Pomを同列に語ることは出来ないし、そうするのは危険なことにも思う。残念だったのは、新作を見ることが出来なかったこと。ぼくはムニャムニャ君が好きなんだけれど、もっと乱暴に観客を想像力の冒険に誘って欲しかった。河童次郎は、あたふたするのが真骨頂だと思うのだが、そのあたふた状態が真に熱くなるまでの間をつくらずに終わってしまって残念。30分くらいやってもよかったのではないか。(音がバンド名)が2時間半やるのに比べると「ショー」だよな、と思う。いや、「ショー」として人気が出るのかも知れない。コンドルズみたいなファンがつくのかも知れない。

極私的ベスト5(3/16付)

2009年03月16日 | Weblog
第1位安室奈美恵「Dr.」
素晴らしすぎ。名曲。今年は、ユニコーンの「WAO!」といい、よい曲がよいと評価されるまっとうな年だ(といいなあ)。Perfume人気のやや80年代と90年代のノスタルジーが含まれているのと比べると、圧倒的に今日的で前向きな印象を受ける(Perfume好きだけど、けど「ワンルーム・ディスコ」はどうなんだろ、リサーチ曲という気がしてしまう、というか、徹底的にリサーチするとこういうテーマじゃなくなるんじゃないかな)。Aと一緒に一週間前に、横浜アリーナで彼女の公演を見て、本当に興奮し感動してしまった。アイドルって本当に、人びとに力を与えてくれる存在なんだよね。性欲を満たすとか、そういうのアイドルっていうのちょっと狭いよ、ずれてるよ、って普通の批判を述べたくなります、いまの安室のパワーに乗っかって。どうも、曲の途中に2回はいる「タッ、タタタタッ」ってリズムのところは「ボレロ」を素にしているらしいんだけれど「ボレロ」というよりマーチとか「軍隊的」なイメージがありますよね。この展開がなんだかとてもクレイジーでいいのです。それでいて、「あの時の言葉を消して/二人を未来へと繋げて/give me a chance」と歌う辺りは、なんだか初期の曲調にも聞こえてくる。あの頃「Chase the Chance」と歌っていた安室がいまもまだ「give me a chance」と歌っていることのなんともいえない切なさに、この十年の社会の停滞とかも透かし見てしまう。

この曲は、ライブでは確か、テクノな銀色のスーツを着て踊っていたんです、それでPerfumeのことを重ねて見ていました。そのときの安室のダンスはストリート文脈のもので、2009年らしいのはテクノなPerfumeの方だと思うんだけれど、躍動的で人間味を残しているダンスはそんなに悪い気がしなかった。というか、2時間半、踊り続け、歌い続けなので、ただただ圧倒されてしまった。

ところで、3/6に快快の「MY NAME IS I LOVE YOU」を見たんですけれど、ゲネプロだったので善し悪しは正直判断つけられないところがありました。改善の余地がたくさんあったのは事実でした。けれども、未来世界の渋谷に徘徊するダッチワイフのロボットというのが登場人物でいたんだけれど、これ見ながら、なんだか未来の話だけれど、すごくリアルだなあって思って、こういうキャラとかテーマとかいまの彼ららしいなあと好感持ちました。そのリアルだなあって思ったというのは、彼女達の客へのアピールとかサーヴィスとかはすべて「プログラム」化されたものだというところでした。いま、ぼくたちのメンタリティというのは、こういう話を聞くとSFだよなあとか、非現実的だなあと感じてきた昔とは違って、まあ、ぼくたちもそんなもんだよな、と受けとるようになってきている。ぼくたちの身体も神からデータを入力されたロボットみたいなものだよな、といった気持ちというのは、いまのぼくたちにとってそんなに突飛ではないだろう。90年代の後半くらいから、まさにアムラーの登場してきたあたりから、社会の流れとして個性とか自己肯定とかが推進されていった。それは努力云々ではなく私たち自身をその存在をそれ自体としてみとめて!肯定して!というメッセージが語り語られる風潮を生み出した。努力ぬきに存在を肯定するということは、がんばる能力というよりもそもそも備わった性能でそのひとの価値を決めるということを随伴していた。だから、実は「存在をそれ自体としてみとめて!」というのは、結構怖いメッセージだった。プログラムされていなければどんな努力しても出来るわけないじゃんという思考は、近代的な啓蒙思想に相反するものだろう、であるならば、それはまた教育というものは無意味、という思考でもあろう。その視点からすれば、ダメなやつはダメ、ということになる。

それは、脳を含めた各人の身体の肯定であるとともに、強力な否定としても作用するように思う。なぜならば、性能を持っているか否かが重要であるならば「やってみなきゃわからない」といった次元は否定されることになるだろうから。けれども、この「やってみなきゃわからない」ということこそ、身体の存在意義なのではないかな。いまWBCでイチローが苦しんでいるけれども、「やってみなきゃわからない」次元にイチローの身体もまた置かれているからだろう。イチローもまた苦しむことが出来るのである。ゲームというのは、そういう失敗する可能性のある身体があってはじめて成立するものだ。100発100中の身体には、ゲームは出来ない(といったのは前田司郎)。そうしたゲームの可能性としての身体を否定する傾向が、「ロボットとしての身体」「プログラムとしての自分」という思考のなかにあるとぼくは思う。

こうした2つの身体観が拮抗している時代として、いまを考えてみてはどうだろう。

安室は、そうした消せない過去を抱えて過去の自分に対して歌う。過去が示したプログラム(あるいは過去に書き込まれてしまったデータ)は書き直せないものなのだろうか、と。青山テルマも誰々も盛んに過去の恋愛への後悔を歌っている。それはどうしてなのだろう。追憶ほど甘いものはない、からなのか。追憶は裏切らないし、追憶はいくらでも解釈可能だからか。安室の「Dr.」はちょっと違う気がする。絶望の度合いが違う。歌のなかで「助けて」と叫ぶ。この叫びのリアリティが安室の人気なのだと思う。

「行き場所のない愛」こそ、ぼくたちの愛なのか。成就する愛は、しょせんプログラムが作動しただけのこと、であるとすれば、不可能の愛こそが、「ぼくたちの愛」なのであって、そのなかにだけ「ぼくたち」といいうる何かがあるということなのか。(ってちょっと雑誌に寄稿するみたいにまとめてしまった……恥)

「ヴィデオを待ちながら」

2009年03月08日 | 美術
「ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ」が、3/31-6/7にかけて国立近代美術館で行われます。5/23(14:00-15:30)には、「映されたパフォーマンスする身体 60-70年代のダンスと美術」というタイトル(仮題)で、90分のレクチャーをすることとなりました。まだ先の話ですが、どうぞよろしくお願いします。ぼくを除くレクチャラーのメンツがみなさんとても素晴らしいのです。乞うご期待。
この展覧会自体とても刺激的なものになる予感がします。ヴィト・アコンチやリチャード・セラ、ナウマン、スミッソン、、、というチョイスはもちろんのこと、日本の作家達のラインナップもいいです。とくに小林耕平、泉太郎は、いいですよ!泉さんのことは何度かここで紹介していますが、小林さんもきわめてユニークな作品を制作している作家で、二月のWE DANCEで、神村恵公演のアフター・トークのスピーカーになってくれていましたが、もっと注目されていい存在です。美術の界隈では十分メジャーな人気者なんですけれど。どちらの作品もぼくにとっては、ダンスという観点から十分味わえるものなのです。そして、とてもユーモラスでかわいいのです。

昨日(3/7)は、学内の何人かの有志の学生を呼んで研究会(KAT:K先生と楽しくArtについてTalkする会)を自宅で行った。パリへ旅行した話をする学生、チルチル座を紹介する学生、古谷実『ヒミズ』を紹介する学生、三村京子を紹介する学生、「オネエ★mans」が気になると分析をする学生。どの話も面白くてぼくはただ話を聞くばかりでとても勉強になった。つい、学生を「~先生」と呼んでしまう。その後、山海塾『金柑少年』へ(東京芸術劇場中ホール)。横浜の大橋可也&ダンサーズ公演は、見ることが出来なかった(残念、大橋さんごめん)。三月の公演ラッシュは尋常ではない。にっちもさっちも。

極私的ベスト5(3/7付)

2009年03月07日 | 極私的ベスト5
第1位 少女時代
坂本龍一特集の『ミュージック・マガジン』今月号を読んでいたら、どこかの記事で紹介されていた少女時代。くわしいことはよく知りませんが、永遠にソニョシデ(少女時代)!などを参照すると、彼女達がいま韓国で爆発的な人気となっていることが分かる。「ミュージックバンク」という番組(ベストテン番組がまだ健在なんですね、日本の80年代みたいというべきか。音楽番組をお笑い番組化してしまった日本がひとり迷走してしまったとみるべきか)で7週連続一位、それがこの曲少女時代「Gee」。インド・ポップスのごとき陶酔的な要素があるリズム隊、振りもそれを増幅させるようなキュートな仕草の連続。しかも、えっと、はっきりいって超可愛いですね。あからさまぶりっこな佇まいは、松田聖子世代のぼくだからなのか、悪くないなーと思ってしまう。韓国のモー娘。という言い方があるようだけれど、これを未来のアイドルの原型として受けとめる誰かがあらわれたとき、何か面白いことが起こるのかも知れない、かな?これにもちょっと似てますよね。聴けば聴くほど良くできた曲だと思ってしまう。東方神起みたいに、日本で人気になるのもそう遠くないかも。日本男子のオタク化が批判されたりするけれど、将来、日本男子の韓国アイドルびいきなんてことが社会現象化するかも知れない。そんなことになれば、ドメスティックなオタク文化論は、色あせてくるのかもね。元気がいいのがいいですよね。日本の場合、学校文化、オタク文化、ゴス文化、テクノ文化くらいしかソースがなくて、病んでることがアイデンティティみたいなのばかりで、音楽が痩せてしまっている気がするのにくらべると、パワフルで前向きでかわいくて、だから残酷で、いいなと思ってしまう。(今日はベスト1のみ)

最近見た公演
初期型「DUMB!」
中村公美「はじまりはじまり」
手塚夏子「プライベートトレース2009」
Port B「雲。家。」
TPAM 鈴木ユキオ、手塚夏子(神村恵は遅刻して見られず)
小川水素(「グリッド3.5」)、ノシロナオコ(code20xx 「小さな部屋のための試作("trans-mission<GROUP>第一案")」)、鈴木一琥(「ゑびす」)
快快「MY NAME IS I LOVE YOU」


GUDPの2人

2009年03月03日 | ダンス
artscapeの連載、2月分がアップされました。ご覧下さい。

昨日(3/2)は、GUDP(Grow Up Dance Project)の稽古を見に行った。夕方、吾妻橋のあたりは突風が吹いていた、さむー。

こちらがGUDPのブログです。本公演は、4/25-27(アサヒ・アートスクエア)です。ただいまフライヤー作成中。

あまり今の段階で詳細を語るのはまずいと思うのだけれど、選考のときに提出してくれた作品と比べものにならない格段によい作品が4月には上演されるのではないかと興奮した。選考から漏れた応募者の方々には申し訳ないけれど(彼ら以外にもすぐれた応募者はいましたから、もちろん)、彼らを選んだのは正解だったと思った。とても前向きに作品の再構築をしている、その姿勢にこちらが励まされた。石川勇太は、作品作りに対して「明確にする」ことを重視していると話してくれた。この調子だととてもデリケートな作品になると思う。微細でありかつ強い作品。最奥のダンサーの右手の親指がちょっとへんな角度で曲がっているなんてことから感情が強烈に揺さぶられてしまう、といったような(伝わりにくい?)。捩子(ねじ)ぴじんは、神村恵と福留麻里をダンサーに作品を制作している。石川もそうなんだけれどこちらも、テーマは活かしつつ内容面ではそうとう新しいアイディアが盛り込まれていて、正直驚いた。こんなユニークなアイディアを思いつくなんてところ、捩子らしいなーと思うと同時に、このアイディアが本当に捩子の目指しているところへと到達するのはもう少し先のことになるだろうとも思った(ってこれだけじゃ分からない?)。2人それぞれ相当ダンス観とか、たどり着きたい地平とか違うにしても、どちらも、今後の日本のダンスの未来を予感させるものを作ってくれることだろう。ともかく、2人にワクワクさせられた一日だった。

合間に、夕食として、浅草で何か食べたいと思い、アサヒ・アートスクエアのスタッフの方に聞いたところ、「あづま」がいいと教えてもらい、寒風のなか街に出た。DXラーメン(800円)。醤油スープがとても澄んでいて、中華料理店で味わうような全部飲めるやつでした。チャーシューがサイコロ状だったのも特徴。あと、純レバ炒めがおいしいそうです。店のおじさんが二枚目でいいひとです。もうひとりのおじさんとの仲がちょっと気になりました。水がセルフ、おしぼりがセルフまでは分かるんだけれど、ビールもセルフで驚きました(入り口にある冷蔵ケースから自分で取り出して店主に栓を抜いてもらう)。

今朝、この展示のことを知った。この本の話は以前から卯城くんから聞いていた。期待したい。

「広島!」展

一つ手前の(つまり下の)記事でリンクだけしておいた、リチャード・ムーヴ、ちょっと面白いですよね。ヨーロッパでもダンス・アーカイヴを繙くことで、ダンス作品を作る趣向がひとつの流れとして出てきているという話をあるひとから聞いた。アメリカでは、彼がこうした「なりきり!マーサ・グラハム」とでもいったらいいような作品『MARTHA』をかなり以前から上演していて、しかもかなりの評価をうけている。軽薄なパロディにしないところがいいと思う。ただ愛し過ぎた結果マーサになってしまいましたといった風でもなく、よく研究している。奇をてらっているわけではないのだ。ところで、グラハムってスーザン・ソンタグの「キャンプについてのノート」でも取り上げられているくらい「キャンプ」な存在なんですよね、昔から。そんで、そもそも「キャンプ」ってゲイカルチャーと深い繋がりがあるものなわけで、グラハムをキャバレーショーで踊っていたゲイ(恐らく)がとりあげて作品化するというのは、整合的すぎるくらい整合的なアイディアなんですよね。ぼくがムーヴに興味をもつようになったのは、レイナーを取り上げた映像作品『Rainer Variations』(2002年、チャールズ・アトラス監督)で、グラハムそっくりのムーヴがレイナーに「トリオA」を振り付けてもらうという場面があって、それがたまらなくおかしかったからなんだけれど、ムーヴは、、彼が積極的に映像作品を制作している点でも注目に値すると思う(下の記事のリンクで飛べば、新作『Bardo』は部分的にYou Tubeで見られます)。You Tubeの映像で彼は、自分のアイディアについて「デコンストラクション」という言葉を使って説明していたけれど、こうしたデコンストラクションは、流行うんぬんではなく方法の一つとなって、日本でも定着していったらいいのにと思う。