Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

マトリックスを考えてみた

2005年12月12日 | Weblog
昨日の観客論の続き、
仮のマトリックスを考えてみた(何とも汚い手書きのチャートですが、右参照)。

ひとつの軸は芸術主義(技術主義)-観客主義(1)
ひとつの軸はダンシー-非ダンシー(2)

(1)芸術主義(技術主義)は、ダンスを芸術として強く規定しようとする傾向(表現主義のダンスとカニングハムの形式主義、コンセプト主義を念頭に置いている)とダンスを技術のレヴェルで捉えようとする傾向(バレエ、ストリート系のダンスも)を指すものとする。反対の観客主義は、ダンスを芸術としてよりもエンタメ(あるいは芸能)として捉える傾向、あるいは自らのダンスの内に観客との関係を反省する契機をもつものを指す。両者の中間には、従って、芸術(技術)としてもエンタメとしても不十分なものと、その逆で両者を巧みに総合させているものとが位置づけられる。
さらにこの軸は、ダンサー(振付家)側の論点として見るべきかも知れない。

(2)ダンシーは、単に「ダンスっぽい動き(一般的にダンスと呼んでいるものを想起させる動き)」ではなく、見る側をのせる、震わせる、驚かせる動きの魅力を指す(音楽で言えば、グルーヴ、ビート、スイングなどの概念がそれにあたる)。美学史上、「優美grace」という概念は、こうした動きの美の一端を説明してきたと考えられる。それは総じて、規則とともにありながら同時に規則から自由な動きを指してきた(もちろん、暗黒舞踏のダンシーを考える際には、優美では限界があるに違いない)。非ダンシーはこういった側面を欠いた動き、規則の履行にただ邁進する動き、動きの上で魅力を感じることのない動きを指す。
さらにこの軸は、観客側の論点として見るべきかも知れない。

こう仮にマトリックスを設定してみると、以下のような類別を考えることが可能になる。
(A)技術的ないし芸術的に見えるダンス、でもダンシーに見えないもの
→芸術的-非ダンシー ex.モダンダンス、形式主義ないしコンセプト主義ダンス(カニングハムを除く)、技術的-非ダンシーex.バレエ
(B)観客を魅了する楽しい時間を提供しているかに見えるダンス、でもダンシーが欠けていると思われるもの
→ex.コンドルズ(近藤良平を除く)、よさこい、エイサー
(C)観客のことはほとんど無視しているけれども、実にダンシーに見えるもの
→ex.フォーサイス(フランクフルト・バレエ団)、カニングハム本人
(D)技術(芸術)的にも説得力はありながらさらに観客に対するなんらかのアプローチを含んでいてしかも(いや、ゆえに)ダンシーであるもの
→ex.室伏鴻(暗黒舞踏)、黒沢美香、セヴィヨン・グローバー(タップ)、フレッド・アステア
(E)観客をわかせるエンタメでありながらダンシーにも見え、しかし技術(芸術)の要素はないように(希薄に)見えるもの。
→ex.お笑い(アンガールズ、南海キャンディーズのしずちゃん)、ピナ・バウシュ(ブッパタール舞踊団)

もちろん、この例示には多数の例外がありうる。モダンダンスやバレエでもダンシーだと思わせる瞬間はあるだろうし、室伏鴻のすべての公演がつねに(D)の位置を占めるに足るものであるとは、言い切れない。

ぼくがこのマトリックスで最も指摘したいひとつの点は、芸術(技術)主義に観客主義を対置する必要があるだろうということである。観客論に対する顧慮を促したいという気持ちがある。その上で、ダンシー/非ダンシーを考えること。ぼくのいま現在の考えとしては、ダンシー/非ダンシーの軸への問は(1)の軸を通してはじめて意義あるものになる。

そしていまひとつの点は、このマトリックスで最もよいダンスと考えられるのが、(D)に位置づけられるものだということ。ダンスというのは、(D)でなきゃだめだろ、というのがぼくのテーゼであり、ここにダンスを認めた上で、それがいかにして可能なのか分析することを、ダンス美学の研究とみなそうと思っている。いまのところ例としてはいわゆる日本のコンテンポラリーダンスシーンで活躍する黒沢美香、室伏鴻の名を挙げているが、彼らのダンスを分析することで、この芸術(技術)主義的で観客主義的でもありながらダンシーである(D)が、どういう論理のもとでそれを可能にしているのかについて理解を得られると、ぼくは思っている。また、コンテンポラリーダンス以外でセヴィヨン・グローバーを挙げてみた。『ノイズ&ファンク』をみただけであるが、彼のような角度からのアプローチも(D)の内実を理解する上で無視することは出来ないと思う。いうまでもなく、黒沢と室伏のアプローチはまったく異なる、それぞれが実にオリジナリティに溢れた方法を持っている。それはアステア、グローバーしかり。ぼくがしたいのは分類=mappingではない、このマトリックスを通してダンスの諸要素を整理すること、重要なポイントを絞っていくこと、そこでのさまざまなトライアルを分析出来るようにすること、である。