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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「私は『トリオA』にばかに興奮していました」

2008年02月06日 | 『ジャド』(1)レイナー・フェミニズム
ラムゼイ・バート『ジャドソン・ダンス・シアター パフォーマティヴな足跡』研究ノート

◎写真は、ジャドソン・メモリアル教会でおこなわれた公演で、パクストンやゴードンと一緒にレイナーが『トリオA』を踊っている一枚。

Yvonne Rainer <Trio A>(部分)の映像(1978年サリー・ベインズが制作しレイナーがソロで踊るヴァージョン)。


第3章 ミニマリズム、理論、ダンスする身体
(1)導入(原書には小見出しなし)




 観客たちにとって、1960年代のジャドソン・メモリアル教会でのダンスのコンサートの最中、もし外出しようとすれば、その唯一の手だては、演舞空間を横切ることだった。イヴォンヌ・レイナーがリン・ブルーメンタールに語っているところでは、スティーヴ・パクストンやデヴィッド・ゴードンと競演し、彼女がはじめて『トリオA』を上演したコンサートで、「ひとびとは、不機嫌な気が滅入った様子で、外出するために空間を横切ろうと、みじめな気持ちで、えっちらおっちら歩いた。かなり嫌な気持ちであったに違いなく、相当みじめな気持ちでその横切る途中、[演舞空間に]自分のスペクタクルを拵えてしまうのだった」(Rainer 1999: 65)。例えば、「最初のダンス・コンサートFirst Concert of Dance」と呼ばれる、ジャドソン・ダンス・シアター初の公演は、1962年の7月6日に行われた。華氏90度、エアコンの効いていない部屋に、約300人が観客として集まった。そして、3時間半の「マラソン」公演だった。彼らのおこなっていたのがこうした長丁場の公演であったために、ここで外出するときのことが話題になっているわけです。ジャドソン・ダンス・シアター名義の公演は、64年まで行われた。そこにあった基本的なモットーは「民主的」だった。つまりリーダーを立てることなく、各人が自分のアイディアで作ったダンス作品(ほとんどが短い作品)をみんなで協力して上演していた。ブルーメンタールが、この様子は自分の作品の批判とみなすかと聞くと、レイナーはこう答えた。「私は『トリオA』にばかに興奮していました。何か困難で真新しいことをやったのだと感じました」(ibid.)。レイナーは、確信をもっていた。それは、ジル・ジョンストンのような書き手によって支持の表明されている批評に基づくものではなかった。私がこれから論証するように、その確信は、理論的な仕方で思考したその過程に基づいており、また「スペクタクルにノーを」ではじまる極端な陳述や1966年の論考「過剰の直中にある量的に「ミニマル」なダンス活動におけるいくつかの「ミニマリスト」の傾向についての擬似的概説あるいは『トリオA』の分析」(以下「擬似的概説A Quasi Survey」)のなかで、自分の行っていることが生んだラディカルな成果について叙述したその過程に基づいていた。

↑すぐあとで議論されていくポイントとして、アートのミニマリズムにレイナーが影響を受けていた、ということがある。それが最も良くあらわれているのが、この「擬似的概説」の冒頭に付録としてついているミニマルアートとダンスの類似性を分析したチャートだろう。ちなみに、このテクストは「心は筋肉」というタイトルで翻訳されている。『モダンダンスの巨匠たち 自ら語る反逆と創造のビジョン』(ジーン・モリソン・ブラウン編、根木富久子訳、同朋舎、1989年、184-197頁)所収。

 1966年に初演されたとき、このレイナー作品のフルタイトルは『心は筋肉パート1:トリオA』だった。レイナーは、1968年の4月、『心は筋肉』完全版の最初のフル公演のためのプログラムのなかで、長々しい声明文を公表した。この声明文のはじめに、彼女はこう書いた。「もしたいていのダンスがもっている考えや、ナルシシズムや、偽装されたセクシャルな展示主義exhibitionismを根絶やしにするようなそれらへ向けた私の怒りが清教徒的道徳化とみなされてしまうとしても、真実は、私が身体を愛しているということ----その実際の重さ、マッスそして増進されていない肉体性を愛しているということなのである」(Rainer 1974: 71)。声明文の終わりで、彼女が記しているのは、自分の

身体の状態は、テレビに映る狙撃され死んでゆくベトナム人を見ると恐怖と不信をもって反応してしまうのだ、しかし、死の光景にというのではなく、むしろ悪しき西洋人がするようにその後あっさりテレビを消してしまえるという事実に。「私の身体は永続する現実に留まっている。」(ibid. 強調は著者による)

ところで、自分の身体は永続する現実に留まっている、といったときに、彼女は正確には何が言いたかったのだろう。トリシャ・ブラウン、シモーネ・フォルティ、ロバート・モリスそしてレイナー本人のダンスに関する議論を通して、また1960年代にレイナーが出版したダンスに関する論考の理論的な文脈についての議論とともに、この章は、レイナーの書いたダンスやミニマリズムについての理論的著作とジャドソン・ダンス・シアターのメンバー間での創造的な解剖学的意識の広がり----それがコンタクト・インプロヴィゼイションの1970年代における展開を導いた----との間の繋がりを同定する。
 アン・クーパー・アルブライトは、一方でコンタクト・インプロヴィゼイションを包含するダンス活動の領域と他方でジャドソン・ダンス・シアターのラディカリズムとを挙げ、両者の繋がりに注意を向けている。

 70年代に発展したコンタクト・インプロヴィゼイションであるが、その根は60年代の社会的で審美的な革命に認められる。コンタクトはすぐさま、ジャドソン・ダンス・シアターのような初期ポストモダンダンス・グループによって愛好された歩行やタスクに基づく動作に関する実験に加えて、社交ダンスの気軽で、個人主義的で、即興的な慣習を取り入れた。(Albright 1997: 84)

前章で私は劇場系のダンスのアヴァンギャルド的な再評価について議論した。本章でもそれについてさらに見ていこう。アルブライトが示したような、こうした再評価は、ダンサーたちが特定の神経・骨格・筋肉に対する感性neuro-skeleto-muscular sensitivitiesを発達させるよう鼓舞する運動の題材の創造や実演へと繋がっていた。そうした感覚は、さらに、コンタクト・インプロヴィゼイションの発達を下支えした。新しいダンスは、パフォーマーが新しい種類の具体的な感覚を発達させるよう促したばかりか、主流の劇場系ダンスが保持している観客についての考え方からラディカルに抜け出て、踊る身体の物理的な現前physical presenceを観客たちが認知するよう求めた。第1章で私は、マイケル・フリードが同定したミニマルな彫刻にある新しい種類の現前を、ジャドソン・ダンス・シアターに関わりのある幾人かのダンサーたちがパフォーマティヴな現前の慣習的なモードに挑戦を仕掛けたやり方と連関させた。フリード自身はシアトリカリティを否定的な質であるとみなしたわけだけれど、皮肉なことに、シアトリカリティは、1960年代と70年代のミニマル・アートやコンセプチュアル・アートの対してのみならず、20世紀アートの広範な議論のなかでも、アーティスト、批評家また歴史家が用いる便利な価値評価用語として採用されてきた。1980年代初頭にルシンダ・チャイルズの作品について書くなかで、スーザン・ソンタグは「ミニマリズム」という用語がこれまで用いられてきたあり方についてはっきりと拒否を示して、その語をくだらないものと呼び、チューインガムのようにしつこく「ある画家たちや彫刻家たちに」(ソル・ルウィット、ロバート・モリス、カール・アンドレ)」くっつき、さらに「[「ミニマリズム」という語は]建築家、作曲家、はたまたファッション・デザイナーにまで広がり、売名行為が相変わらず横行するのと同様に、多様なアーティストたちの種的な統一を強要した」と注意した(Sontag 1983: 105)。ミニマリストと呼ばれることは、ソンタグの視点では、障害になってしまうことなのであった。つまり「マイブリッジ、モンドリアン、スタイン、小津は、そのレッテルを背負い込むことなく、オブセッシヴな反復や強烈なパターン化の名人としてキャリアを幸福にも追求してきた。しかし、フィリップ・グラスやルシンダ・チャイルズはそうはいかなかった」(ibid.: 108)。ソンタグは、ミニマリズムがとりたてて高評価を受けていなかったときにそれを書いている。その一方で、1990年代の終わりに、それ[ミニマリズム]は、いくつかの芸術形式をまたにかけた最初の純粋にアメリカ的な芸術運動だったとある批評家たちは主張し始めたのだった(Meyer 2001: 3)。ぺーぺ・カルメルは2004年のミニマル・アートに関する3つの主要な展覧会を批評する際に、こう述べている。「ポップ・アートと一緒になって、ミニマリズムはコンテンポラリー・アートの基本的な言語を供給し続けた」(Karmel 2004: 90)。しかし、「ミニマリズム」という用語がアーティストの作品に誤解を導いてきたとソンタグが不満を漏らすとき、ソンタグは確かに正しい。ただし、そうであるとはいえ、1960年代の彫刻家や作曲家、ダンサーたちの間には一連の共有された考えや関心をめぐる繋がりがあったのである。彼らの作品は、良かれ悪しかれ、ミニマリストとのレッテルが貼られてしまう審美的な感覚を例示していたのである。

 ダンスにおけるミニマリズムと視覚芸術との間の連関を見据えてきた数少ない歴史家の一人に、アンナ・C・シャーベがいる。彼女の論考は、ミニマル・アートを明らかにフェミニズムの視点から見ており、混乱した受け止め方がなされてきた。男性アーティストが隠してきたミニマル絵画や彫刻の意味を同定しようとして彼女は批判されてきた。彼女はミニマル絵画や彫刻を男根主義的なイメージとの関わりから解釈してきたのである。この章にとって有益なのは、ミニマル・アートの非人間性がアート・ワールドにおいて男性優位的な立場を維持する手段になっているとの主張である。彼女はこう指摘している。
 
自分の芸術を公然と個人的なものにすることで女性がポップやミニマリズムの事例に抵抗するのは、自分の作品に退行的との汚名を着せるリスクを冒すことであり、同じように、男性は「道具的instrumentalな役割と方向」をとるのに対して女性は「表現的expressiveな役割と方向」を想定するという暗黙の内に決まっている労働の分配を強化するリスクを冒すことでもある。(Chave 2000: 151)

シャーベは、それ故、彫刻家のエヴァ・ヘッセローズマリー・カストロまた振付家のシモーネ・フォルティやイヴォンヌ・レイナーのようなある種の女性アーティストたちがミニマリストの規範の範囲内で不公平にも周辺に追いやられてきたと論じている。こうしたことが理由となって、女性であるために彼女たちの作品が、男性の仲間たちの作品と同様に、クールなほどに非人間的であるとか自伝的な参照を取り除いているなどと受け取られないのである。

 シャーベが指摘するように、モリスは男性のアーティストとしてフォルティよりも学術的な注目を受けてきており、その理由は、彼女が女性であるからのみならず、彼女が近代西洋世界で女性化した芸術として受け取られているダンスという分野で活動しているからなのである。新しいダンスをまじめに受け止めていた1960年代初頭のダンス批評を吟味すると、デヴィッド・ゴードンやフレッド・ヘリコ、キャロリー・シュニーマンのようなアーティストは、自らの作品中により一層偽装されていない個人的な題材を含んでおり、あまり賛同を得ていなかった。次章で示すように、彼らはこの時期の規範的な評価のなかでは周辺に追いやられてきた。しかし、ルシンダ・チャイルズ、スティーヴ・パクストン、イヴォンヌ・レイナーのようなその他のアーティストは、クールな非人間性を暗示するミニマリズムの形式性をもって作品を呈示しており、より注目を集め支持をえていた。サリー・ベインズは、これら三者によるダンスは「ジェンダー的な関係という観点においては、旧態依然の批評」を示していたと論じ、さらにこう付け加えた。

彼らのダンスはフェミニストの論争術として呈示されはしなかったけれども、ふり返ってみて明らかなのは、それらはジェンダー的な期待に対して----ダンスの伝統(アヴァンギャルドの伝統さえ)におけるまた社会文化的な慣習というより広範な領野における同時代の分別にショックを与えるような仕方で----挑戦していたのである。(Banes 1998: 216-17)

従って、ベインズがこれらのダンス制作者たちにある種の代理行為some agencyを帰するのに対して、シャーベが注目するポイントは、その代理行為が、アート・ワールドのなかで慣行化した性差主義によって、女性の振付家にとって制限されていたその程度にある。ベインズが「振付家は、ダンスの伝統のなかで自分たちが過剰に感情的な女性的な役割として理解しているものに対してのオルタナティヴ[他にとりうる道]を呈示した」(ibid.: 219)と考えているのに対して、シャーベの説が暗示しているのは、女性のダンス・アーティストは、アーティストとして真剣に受け止められようとすれば、どんな個人的ないし女性的な特徴も最小化しなければならないということである。しかし、私が論証しようとしているのは、非人間的でパブリックなミニマル・アートの本性は、単に1960年代のアート・ワールドがもっていた性差主義者的なヒエラルキーの本性の結果ではなく、ミニマルのアーティストによって探究された理論的な立場の統合的な部分だということである。それにもかかわらず、新しいダンスとミニマル・アートの間には複雑でちょっと矛盾した関係がある。ミニマリストの感性を探究する選択をしたことで、1960年代のある種のダンス・アーティストはより広範な文化環境を行き来することができた。1987年にその点をふり返って、イヴォンヌ・レイナーはこう述べている。

個人的なレヴェルで、ダンサーとして始めたときに当たり前にあると思っていた自分自身の得意とするところが徐々に発見されていったその展開を、私は記述出来た。怖れを与えない「女性化された」芸術形式を含んでいたから男性のアーティストたちによって、ニューヨークのアヴァンギャルド的な環境という文化空間へ自分が易々と入っていったなどとは思っていなかった。(Jayamanne et al. 1987: 47)

ミニマリズムがレイナーやその他の者たちに「自分[ダンサー]たちが過剰に感情的な女性的な役割として理解しているものに対してのオルタナティヴ[他にとりうる道]」とベインズが呼ぶものについて探究する方法を与えた一方で、それはまた、個人的で自伝的な題材の呈示からの撤退をもたらした。それだから、興味深いことは、中立的で非人間的な役割を採用することで、ダンサーたちが[個人的で自伝的な題材の呈示をしないという]不履行を冒しつつ公共空間で踊る身体の重要性を再定義するその瞬間なのである。その点を、私はこの章の終わりでふり返ることになるだろう。