美術作家の平川恒太くんの展示が
原爆の図丸木美術館で行われており、ぼくは20日にトークで呼ばれて行ってきた。最近は、土曜日のおでかけは、車で妻とIとでというのが多い。思いのほか渋滞がはげしくて、予定の倍近い時間がかかってようやく到着。丸木美術館なかなか素晴らしい田舎にありました。
はじめて見た「原爆の図」は、ぼくには裸婦群像に見えました。子供も描かれているけれど、大人の男は基本的に描かれていない。描かれている女はほぼ全員が裸。この裸は衣服が焼かれてということではなく、まただからか裸体はとてもきれいなのだ。そして、ふくよかで柔らかで美しい。女性の、おそらく子どもを産んだ女性のつよく柔らかい美しさが、屏風にほぼ等身大の大きさで描かれている。だから、裸体の女性に直接出会っている感じに近く、そこには、例えばピカソの「アヴィニヨンの娘たち」を見るような手応えさえある。美しい裸体がしかし、単に美しいだけだったら、あまり説得力はないのだけれど、そこに赤・黒・青などの色が強くその美しさを汚している。両者のバランスがなんともすごくて、ここに圧倒されてしまう。うーん、やっばり、これはいい作品ですね。見ておいてよかった。
それでトークは、平川くん、ぼく、楠見清さんとバトンを渡しながら進んだ。平川くんは、これだけ表現的には「戦争」や「平和」を連呼していながら、そうした言葉は本当は使いたくない、自分は日常に向き合っていたいと話していた。そして、おそらくそのことと関連して、自分はアートを超えたいのだとも話していた。正直、彼の描く油彩画はなかなか素晴らしく、説得力があり、その方向も決して忘れて欲しくないなあと思うのだが、彼が今回「The Never Ending Story」と題して展示した作品群は、戦争と平和のテーマを、コンセプチュアルな方法で展開するものだった。彼の敬愛するボイスに確かに似ているところもある。ぼくは、そうした彼のコンセプチュアルな作品のなかにも滲み出てくる、彼らしいかわいらしさやユーモアに惹かれてしまう。透明な旗の連なる万国旗に、反戦のメッセージが描かれているものには、旗のエッジに切れ込みが1センチごとくらいにあって、それによって透明プラスチックがきらきらと光るのだけれど、こういうセンスが彼らしく、また魅力的だ。
ぼくは以前、ここにも描いた、9月の広島の旅の話をした。ヒロシマをテーマに描いた芸術家の作品よりも、広島平和記念資料館やヒロシマの人々が描いた絵の方がずっと優れているのではないかという話をした。すると、楠見さんが、それは自分の力を表現するpaintと客観的な事実を伝えようとするpictureの違いなのではないかというまとめをしてくれた。なるほど、ぼくはpictureの可能性について興味があるのかも知れない。
「けいおん!!」のことを下に書いた。と、いうより、これいいと思うと書いた。さっきお風呂に入りながら「サイゾー」の11月号(2010)を読んでいたら、アニメーションの合評が載っていた。中川大地なるひとが言うには、
「性愛や闘争といった近代的ドラマツルギーの一切をあえて排除し、成熟社会における最大限の可能的「幸福」のイメージを結晶化することで、「抵抗」が失効した世界でのロックやパンクの代替的モデルを新たに示す達成が本作だ!」
という整理をしていた。といっても、中川氏本人は、それを「信者な皆さんの心情」とし「わかるし、否定しない」として、肯定はしない。その理由として「普遍性は低い」から。つまり、「学園」ものは卒業してしまえば終わってしまうので、そんな幸福論は、人生の一時期のみのものだから空しい、ということだろう。「おれたちの身体も入りうる、その先の「楽園」像を、諦めずに探そうぜ」というのだ。
多分、「けいおん」が終わって生き甲斐を亡くしたみたいなネット上の誰かの発言に対するリアクションなのだろう。その意味では分かるのだけれど、また相も変わらず「学校」モデルにしがみついてしか物語(ここで展開されるのは、物語なき物語だろうけれど)が描けない(=普遍性は低い)のかという意味の批判としても分かるけど、大事なことは読み手がそこから転じて自分でなにをするのかに委ねられているわけで、物語がある場面を舞台にする限り「普遍性は低い」のは当然だし、もし普遍性が高い物語を描こうとしたらいいのかといえば、ぼくは疑問に思う。といって、ぼくはまだアニメーションをまったく見ていないので、なにかをいう資格はないのだけれど。
ところで、「おれたちの身体も入りうる」のくだりあたりで気になることなんだけれど、以前も書いたでしょうか、同性集団を描く物語がいま多いですよね。あるいは、歌のグループでも同性集団がとても多い。ここに、身体の入りがたさを気にするひともいるのだろうけれど、人気があるところを見ると、それがいいということもあるはずで。AKB48「ヘビロテ」なんか見てても、監督した蜷川実花の金魚を撮ったシリーズみたいな、かわいさとグロテスクさを感じる。そのあたりが気になるなあ。
と、久しぶりにちょっと長く書けた。昨日は、Iと二人でいて、そうするとパソコンの前で文章を書くなんて全然出来なくなる。しかたないので、体力作りで、長沼公園を散歩。山下達郎のラジオを聴きながら、ぷち遭難を繰り返す(たぶん、人口密度としては高尾山の100分の1というか、藪のなかを登ったり降りたりしているのはぼくと負ぶったIだけだった)。秋を堪能。Iは最近、ぶぶっーと口を尖らせてつばを飛ばすのがお気に入り。食べながらそれをするもんだから、米とかなんだとかが飛び散りまくる。インプットとアウトプットは別々にして下さい。