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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

講義修了であとはテスト

2005年12月22日 | Weblog
いまぼくが観客論についてぶつぶつ考えているのは、ここで何度も取りあげていることだけれど、どうもひとつの重要な極点として、ナンシーの『無為の共同体』で展開されている共同体論を考究するべきであることが分かってきた。ナンシーはそこで、バタイユの思考をたたき台にして、主体の形而上学を批判し、それでもなお成立する共同体のかたちを模索している。例えばそれは、こう語られていたりする。

「共同体は他人の死のうちに開示される。共同体はそうしてつねに他人へと開示されている。共同体とは、つねに他人によって他人のために生起するものである。それは諸々の「自我」--つまるところ不死の主体であり実体であるが--の空間ではなく、つねに他人である(あるいは何ものでもない)諸々の私の空間である。共同体が他人の死のなかで開示されるとしたら、それは死がそれ自体、諸々の自我ではない私の真の共同体だからである。それは諸々の自我を一つの自我あるいは上位のわれわれへと融合させる合一ではない。それは他人たちの共同体である。死すべき諸存在の真の共同体、共同体としての死とは、それら諸存在の不可能な合一である。」(J=L・ナンシー『無為の共同体』以文社、28)

このような「死」の問題に接近出来たのは、僅かにアルトーの演劇論かさもなければ土方巽のダンス論くらいであろう。暗黒舞踏がいまなおリアリティをもちうるアート・フォームであるとすれば、おそらくこの「死」を通した共同体の可能性を宿しているからではないだろうか。そして、室伏鴻や彼のみならず黒沢美香、チェルフィッチュ、手塚夏子を考えるためには、恐らくこの論点と摺り合わせる必要があるだろう、きっと。

とはいえ、それはいかに。よく分からないところがある、よく考えないといけないことがたくさんある。この「死」はハイデガーをナンシーが参照してのものだろう。現実の人間にとっては確かに死は分有された他性ということになる。けれども、ダンスがそれを担うためには、死がどう扱われるかについて、つねにクリティカルでなければならないはずだ。ちょっとまちがえるとすぐに主体の形而上学にすり替わってしまう。

舞台と客席の間に作られる共同体の問題は、『BT/美術手帖』の室伏鴻との対談で最後に触れたことにぼくとしては大いに関わっている。

それと、今考えているのは、「死」を「他者の他者性」と言い換えてみてはどうか、ということ。そうすれば、無為の共同体というアイディアは、抽象度の高い思考からより現場に接近した思考へと読み替えることが出来るようになるのではないか。



吾妻橋、ぼくは23日に行きます。

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