Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ダンスの観客論

2005年12月11日 | Weblog
つい三時間前からYahooで「観客論」と入れ、検索してみている。
驚いた。
観客論と言えば、どのジャンルが最もヒットするか、演劇?ダンス?パフォーマンス・アート?いやいやまずは、

プロレス、次は
サッカー、その次が
映画、なのである。

人気に比例しているとか、いろいろと言えるかも知れないが、ダンスの観客論など皆無に等しい。あってせいぜい伝統芸能の観客論(これはそこそこ文献がそろいそうだ)。演劇は平田オリザの『演劇入門』の一章に観客論とあるようで、それがヒット。あるいは寺山修司の観客論、、、とあと目立ったものはない。まあ、でも別役実には何かあるに違いない。唐十郎にも。さあ。でも若手で観客論を語っているあるいは明らかに作品の中に独自の観客論を秘めている演出家はいるのだろうか(まあ、演劇については経験が足りないところがあるので、誰かに教えてもらいたいところだ)。

プロレスの場合、この「おまえらの好きにはさせねえ!」ブログの書き手がめだつ。ここにあるチャートは彼のものなのだろうか、だとすればなかなか秀逸ではないか。プロレスのファンというのは、ブログで見る範囲でも、(よい)書き手が多い。プロレスというものが自ずと批評を要求してくる、ということもあるのだろう。

socksという名の「おまえら~」ブログの書き手が提出している、技術論---観客論という軸とそれに直交するノン・フィクションーーーフィクションの軸に興味がわく、とくに前者。技術か観客かというのは、テクの追求かエンタメの追求かと読み直せば、これはダンスの世界にもあてはめることの出来る軸だろう。ただし事態は検討すれば錯綜してくるはずで、技術が観客を唸らせるエンタメになることもあるだろうし(例えば、ある種のフォーサイス)、観客を楽しませる技が観客を唸らせるということも起きるだろう(例えば、ある種のピナ・バウシュ)。とはいえ、こういった軸を検討してみることがこれまでダンス批評の中であまりに希薄だったのではないか。この辺り、考察する意義がありそうだ。

技術論---観客論を、アート主義---観客主義などと修正してみたらどうだろうか。で、これに直交する軸をダンシー---非ダンシーとするのは、、、いや、どうだろ。

でも、こまった。モダンダンスの観客論、カニングハムの観客論、土方巽の観客論はだれも研究していないのか?ダンス研究とは!

ブルース・スプリングスティーン

2005年12月11日 | Weblog
について、村上春樹『意味がなければスイングはない』に一章がある。タイトルからしてジャズの文章ばかりだろうと思っていたらスプリングスティーンが!と読み始める。進むと「スガシカオ」の章もある。

「救いのない町に生まれ落ちて
 物心ついたときから蹴飛ばされてきた。
 殴りつけられた犬みたいに、一生を終えるしかない。
 身を守ることに、ただ汲々としながら、

 俺はアメリカに生まれたんだ。
 それがアメリカに生まれるということなんだ」(「ボーン・イン・ザ・USA」)

1984年今の言葉で言えばメガヒットした同タイトルのアルバムの一曲目、国威発揚に利用されもしたこの曲の冒頭の歌詞がこれ。やっぱり、凄い歌詞だと、そしてその不理解の結末は切ないことだと思い、昨日の横浜に向かう電車の中でうるうるしてしまった。スプリングスティーンは、非常に大きな誤解を受けた人だと思う、とくに当時。彼の「ボス」というニックネームは、彼の書く歌詞の繊細さとはずいぶんとずれたところがある。よく言われることだけれど、当時の彼のファンは、このアルバムよりも「ネブラスカ」や「リバー」や「闇に吠える街」が好きだった(ぼくは「闇~」を高校の頃よく聴いていた)。暗く繊細で希望のない日々、そこでかりそめの救いを期待して夜のドライヴをする、そうする他ない人々が主人公の歌は、そういった「地味」めな彼の作品にこそじっと潜んでいた。

村上の着眼点で面白いのは、彼とレイモンド・カーヴァーを重ねてみる点だ。そうか、どちらも未来のないワーキング・クラスのアメリカ人が見る景色を、単に労働者階級の歌(小説)というのにとどまることなく、普遍的な人間の問題として展開した二人なのだった。そうか、この着眼点は、やはり、スプリングスティーンの本質をちゃんと見定めないとでてこないものだ、んー、面白い。

あとひとつ。

「「ハングリー・ハート」の出だしのヴァースとコーラスを客席の聴衆にそっくり歌わせてしまうのは、ブルース・スプリングスティーンのコンサートの定番のひとつだが、八万を超える数の聴衆が声をそろえてこの曲を合唱するのを実際に耳にすると、何度となく彼のコンサートに足を運んだ人でさえ、「おきまり」とわかってはいても、その迫力に背筋がぞくぞくするということだ」

この章はこう切り出され始まるのだが、この「ハングリー・ハート」の歌詞はこう、

「ボルティモアに女房と子供たちがいたんだよ。
 あるとき俺は車で家を出て、そのまま戻らなかった。
 行く先もわからずに流れていく川みたいに、
 まずい方向に折れて、そのまま流されてきたんだ。
 
 誰もが飢えた心を持っている。
 誰もが飢えた心を持っている。
 賭金を張って、とにかく役をこなし続けるしかない。
 みんな飢えた心を持っているんだよ」

八万人が歌う歌詞とはとても思えない、がこういう「とんでもなく暗い」絶望状況をみんなで合唱することには何かしらスゴイ意義がある気がする。村上はこれを「物語の共振性」と指摘したけれど、歌の力というのは、多分こういうところにこそ探し求められるべきだろう。いまの日本の歌には相当絶望してしまう。ラジオから流れてくる新曲はほんとに表層的な恋愛の歌ばかりだ。いや「恋愛の歌」のコピー(のコピーの~)でしかない(自分より若い人がそういうコトしていると思うと、シンプルにむかつく)。歌がない国に、悲劇が連続している。毎日のように小学生が大人の力で殺されている。事件の悲劇だけじゃなく自分の絶望感をこういう形でしか補填出来ないと思ってしまう加害者の悲劇。世間は「臭いものにふたをする」方法ばかり話をしているけれども、きっと足りないのは、「歌」なんじゃないかと思う。

若干でも、そういう「歌」のようなものを感じるのは、ドラマ「野ブタ。をプロデュース」だろうか。ここには、絶望感をトレースしようとする意思が感じられる、チト。