Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

村上龍『半島を出よ 下』

2005年03月31日 | Weblog
例えば、こんな文章も出てくる。カントの2005年的活用例。

「ただ狂気は自分の中にあるんだけど、正常さを象徴する共有感覚みたいなサムシングはどこかに浮かんでいるの。」(79)「共有感覚のエキスというのはどこかにふわふわと浮かんでいるんだ。イシハラはそう言った。それはとても弱々しくて、とても頼りなくて、とても曖昧なものなんだ。」「共有する感覚というのは静かなものなんだ、モリはそう思った。みんな一緒なんだと思い込むことでも、同じ行動をとることでもない。手をつなぎ合うことでもない。それは弱々しく頼りなく曖昧で今にも消えそうな光を、誰かとともに見つめることなのだ。」(85)

写真は、銚子ドライヴの続きです。つげ感。

ぶらりと銚子へ(2)

2005年03月30日 | Weblog
それで、
寿司屋の近くにある銚子電鉄犬吠駅がちょっと気になる。見ると15分後に銚子行きが、、、こりゃのらなきゃだ、ということで、日本一甘いコーヒー、ご当地名物MAXコーヒー片手に一両編成の電車の小旅行へ。古い電車の窓ガラスがスモーキーになってて、見える向こうの世界をどんどん幻想的にしていく。ここはバリか沖縄か、って両方電車ないじゃん。
そして、銚子駅についてもなにをすることもなく、おみやげ屋をひやかして、再び銚子電鉄に。今度の運転手はなんだ、茶髪だぞ、それに上下の制服色が違う。ヤンキーやなー。両側キャベツ畑の春の丘をヤンキー電車が進んでいく。さあ、ではラストは、温泉だねってことで、犬吠埼京成ホテルの「黒潮の湯」を満喫。塩っ辛いお湯が、旅情を煽る。それじゃあ、帰ろう、対バーレーン戦に間に合いますように。

ぶらりと銚子へ(1)

2005年03月30日 | Weblog
3/29、事務の仕事を終えて一目散に帰郷(ここまてで『半島を出よ(上)』読了。世界がまるで変わって見える。間違って、ひとに「いやあ、大変なことになりましたねえ」って言ってしまいそうになる。この小説のことはあらためてゆっくり書いてみたい)。
三週間ぶりで帰るとそこには、プラズマテレビが、、、10年振りの木村家家電改革らしく、他にも冷蔵庫とか新しくなっていた。それにしても、大画面テレビはでかすぎるよ、生活という場には!まだ、NHKのニュース映像とか、スポーツ中継とか、大自然とかはいいとしても、お笑い番組とか見ているとかなり気分が悪くなってくる。前から飛び出てくると言うよりは、前の方に吸い込まれていく感じ。ただでさえ、テレビっ子の父が長時間見続けたあげく、ポケモン失神(ピカーッ→コテン)しなきゃいいが、、、
夜中、ダンス知り合いの方から電話。これからバリに行くのだそう。スゲーうらやましい!いろいろと穴場を紹介する。この方は、その前にメールでぼくのHPや「ハウル」原稿のことなどレスして下さった!嬉しいっスね、やっぱ、自分のこといろいろと話してくれると。あの、いまからでも全然遅くないので、どなたでも、ぼくの原稿などへのレス下さいー。待っております。

3/30、そんで翌朝。朝から銚子に向けてドライヴ。一時間半くらいで銚子の岬に到着(写真のところ)。ここは、「えっっうそ、日本の風景じゃないみたい!」な場所で、こういう景色を独り占めするとスカっスカっとしますね。それにしても、こういう岬に来るたびに、「~岬旅情殺人事件」てなサスペンス番組を勝手に想像してドキドキしてしまう。こういう景色を大きいことの感動故に「崇高」と呼ぶならば、それはただこのぽっかり感に対して向ければいい言葉だなあと思う。「ぽっかり、、、」それだけ、あとは、ただ深呼吸。
定番の地球が丸く見える丘展望館でぐるっと地球を見回して(一週間前から同居し始めた同伴Aは100円望遠鏡で、「うあー民家丸見え!」と別の楽しみを堪能)、犬吠埼灯台通り越して、「ウオッセ21」(魚市場)へ。今度はセブンでオススメのお寿司屋を聞いて(店員のおばちゃんに。こういうのが旅情っすね)、「島武」という回転寿司へ。ここはオススメ、だけど、ネタがでかいっでかすぎるよ!タコとか丸々足一本、まぐろも手のひらサイズが二枚とか、でひと皿315円。安くてもそれひとつ取っちゃうと他の食べらんなくなっちゃうじゃん!って言いつつ結構食べたけれど。続く。

村上龍『半島を出よ』

2005年03月26日 | Weblog
いろいろなことが年度末に集中して、暴走した分、ぽっかりと空白な気分で、チトうつうつとしてしまう。
まだ寒いしね。
やるべきことはあるんだけれど、そこへ向かうエネルギーというか、リズムのようなものがでてこない。
ということで、
再度、大久保の韓国料理店でカムジャタンとネギチヂミを食す。これがいま、大ブーム。ううんまい!美味いということは何と幸福感を与えるものか!元気パワーをもらった。

村上龍『半島を出よ』(幻冬舎)
町田康『告白』(中央公論新社)を買う。村上をちょっと読み始める。オモシレー。かつて『愛と幻想のファシズム』を読んだ時に圧倒されたカルト感が、最近彼が積み重ねている経済や政治についての見聞によって、冷徹な裏付けを伴って一層増幅されている(ってまだ上巻の70ページまでしか読んでないけど)。今後が楽しみだ。日本のダメ社会をここまでおちょくるとエンタテインメントになるって、こりゃでも読み終わったらどうなる?「小島を出よ」って気分だろうか。確かに、村上小説を読むと語学熱が生まれるぼく。


続 澤田

2005年03月25日 | Weblog
澤田知子作品のことをBBSに書いた。
以前から、このあたりのことがずっと気になっている。
要するに、いまどきの10~20代のメンタリティーのこと。「俺はいまだに青春だぜ!だから彼らは仲間」みたいには考えられない、ぼくは。だから、分からないものとして気になる。フェミ男くん以後、男の子はユルキャラ化が進む。それ以前の男が、いばりちらしながらも結局判断を女性に委ねてきていたとすれば(例えば、ぼくの父親世代)、もはやいま男達は判断をすることもないし、いばることもないし、要するに何もしなくなった、この時代、女性はどう生きるのか、という問題として考える。あるいは男が追従の対象でも批判の対象でもなくなった場合、女性はどう生きるのか。ユルいひとにならざるをえない女性たちが急増しているとすれば、それは男性との関係においてそうならざるを得ない、ということがあるのではないか。
澤田作品の女性達が、自分を美の鏡に照らすことなく「なりたい自分を生きている」風に見える時の「不快」には、上記したような判断機能を停止させてしまっている男性というものも透けて見えてくる。それも「不快」の一部ではないか。

などと、もう少し書いてみたりしました。

うーんでも、こういうこと書くと正直緊張しますね。「ブス」とか「農家」とかの語彙は、いつか「痴呆症」がほぼ禁止語になりつつある現在、同様の事態に至るのでしょうか、ね。他意はありません。BBSの文でぼくは澤田さんがブスといったつもりはなく、彼女の中のブス性を活用したのが、彼女の作品なのでは、と考えているだけです。逆に言うと、自分の美しさになやまされるアーティストもいると思うんですね。「ブス性」で行きたいのに、ひとが自分をそう見てくれない。こういう場合は、相手を「美人」とか「天使」とか言うことこそ、問題になる(実際はあまりならないけれど、でもそういうこともあるでしょ)。


スガ秀実『革命的な、あまりに革命的な 「1968年の革命」史論』(作品社、2003)を読む。

福田定良『落語としての哲学』(法政大学出版局、1973)

2005年03月23日 | Weblog
を読んだ。素晴らしい。
文学と哲学ははっきりとした境界線で隔てられるべき、なんて考えるようになったのは、ほんの200年くらいのことで、カントだって、初期の論考は哲学とは言い難い、でも単純にエッセイ(文学)ともいえないものだったりする、わけで。
笑いを哲学で説く、とか、哲学の問題を笑ってしまおう、とか、そんなものではない。笑いが持っている分裂症のありようを徹底的に(この点が哲学的と言えば言える)演じるというか実践的に書いていくところに、この本のすごさがある。哲学においてパフォーマティヴであることはしばしば批判の対象となるが、本当に一蹴されるしかないものなのか。んなこたないはず。そもそも最初期の哲学は対話で書かれていたわけだし(誰かこのこと本気で哲学の問題として考えているひといないんですかね)。

あと、最近
別役実『言葉の戦術』(烏書房、1972)
も読む。これまた素晴らしい。例えば舞台上で役者が「トチル」ことについての考察。

「無意識的に「演劇」である時代は終わり「演劇とは何か?」「実生活とは何か?」と云う問いを、「演劇」と「非演劇的なるもの」「実生活」と「非実生活的なるもの」との関わりに於いて、それぞれ確かめなければならなくなった。つまり本質的なものは、「演劇」にも「実生活」にもないのであり、強いて云えばそれは、それでもなくこれでもなく、同時にそれでありこれであるものの中、つまりそのそれぞれの「関係」の中に見出さなければならなくなったのである」「舞台上に於いて役者がトチルと云う事は、云うまでもなく「演劇」から逸脱する事であるが、「演劇」的緊張感から解放されて白紙に還元されるのではない。つまり「実生活」に戻る事を約束されるのではないのだ。その役者にしてみれば「演劇」でもなく「実生活」でもない奇妙な虚空に立たされるのである。」(148)「この奇妙な緊張感を利用し、そこに「演劇」的虚飾にも「実生活」的虚飾にもまどわされない人間の実存を見出そうとしたのが、俗に云うアンチテアトルの手法であると、私は考えている。」(149)

「奇妙な虚空」?あれっ、これって、福田定良的には、観客と落語家の間の不自然な人間関係、すなわち「虚構のおかしみ」に通じる?

「落語のおかしさが不自然な人間関係、つまり、虚構のおかしみに由来するものだからである。/ところが、寄席の落語はいつのまにか落語家と客との人間関係よりも咄の面白さを重要視するようになった。両者の関係は話芸の専門家と話の味を理解する通の客との関係を中心とするようになった。先代の馬金よりも文楽や円生の方が本格的な落語家のようにおもわれるようになった。」(67)

両者とも、虚構の関係性こそが、舞台の中で生き生きしているべきだ、と言いたいのではないか。福田(落語)で言えば、「芸」の洗練に伴ってそういうものは看過されがちになっており、別役(演劇)で言えば、いまや、その点に注目が集まっている(アンチ・テアトルという場で)、と整理出来ようか。もちろん、ぼくとしては、このような視点を「社交」という概念で考えてみたい、そしてその諸方法を「社交のスキル」と呼んでさまざまな場所に敷衍してみたい、とくにコンテンポラリー・ダンスに、と思っているのであります。

こういうことは、理論構築のなかでしばしば消えてしまうものなのですよね。そういえば、『1968』(作品社、2005)という本の中で、蓮実(ママ)さん、座談会中でこんなこと言ってて、示唆的。

「大衆なり何なりにある基盤を置いてしまうと、動体視力なしでモノはいくらでも語れる。実際に、この作品がこの場面でこのような動きを見せているということを考えなくても語れるのが鶴見俊輔なんです。」(40)
「何か超越的なものを想定すれば、本来は動いているのに動かないものとして、それを分析することが可能だという動体視力なしの批評は、今日のカルチュラル・スタディーズまで続いている。それは、何かに思考が動かされたことを、どこかでカッコにくくってからモノを語り始めるということだと思うんですが、それを私は人類が「運動」が嫌いだからという理由で納得しました」(40)

そう、ぼくが言いたいのも「運動」のことで、それは「社交的」とでも言うほかないスリリングな接触のなかでのみ生じるものではないか、そしてこの運動を捉えて論じることこそ重要なのではないか、ということなのです。

DA・M+コンドルズ

2005年03月22日 | Weblog
3/21二つの公演を見る。

DA・M『Happy BIrth dayはっぷ ぴー ばーす でい』(@プロトシアター)
三人(女・男・女)が舞台左右と奥に観客に対して正面を向かない姿勢で鏡に向かう。化粧を施す、といって、例えば女が太ももにヒールをテープで巻いているとか、男が短髪に洗濯ばさみつけてみたりしているとか。ちょっと外れている。ナルシスそして没入。三十分ほどそんな時間が続く。これが意外と退屈しない。別の男があらわれて、それがきっかけに三人は重なり出す。日本にやってきた南米の娼婦?そんなこと想起させるつぶやきが聞こえる。南米の歌が流れる。この辺りから次第にぼくの中では「ピン芸人三人の合同コント」というアイディアが点滅し始める。ただし、笑いの先端三センチを切り取った、そんなところがある。
最近、何かと「没入」のことを考えている。そのきっかけは確かピン芸人のグランプリをテレビで見たことだった。ピン芸人(のなかの設定されたキャラ)は変な角度で自分に没入していて、自分の正常が世間の異常である事を気づいている場合もありまた気づいていない場合もあり、その辺りの幅のなかで、観客と自分との関係と距離をつくりだす。いずれ「ピン芸人考」とでもいうものを書きたいと思っていますが、簡略的に言えば、そういう没入の深さを観客はこの三人から受けとりつつ、楽しむ、そういう仕掛けになっている、どうもそうだ。ただし、笑いの先端三センチは切り取られていて、だから、笑いは全く起きないし、もちろん笑わせようとはしていない。もうちょっとではみ出して、観客と笑いの関係を取り結ぶ手前で「寸止め」、そしてひたすら「イ」かない時間を延長し続ける。その点では、良かれ悪しかれ「アートだな」と思う。数日前に見たOM-2はアートの外装を身に纏った催眠コントロール集団だったことを思い出す、そう、彼らと比べてもアートというラインの中で安定している気がどうもしてしまう。
そう思ってからは、だいたいその考えの中で見通してしまった。三人が絡むと対話性が生じて、さらに安定した演劇になってくる。そうすると「没入」もあるイメージのなかへの没入として、役への没入とほぼ同類のものとして受けとりやすくなる。

終わったのが六時半。次は七時だ!こりゃもう、タクシーに乗るしかないか。急げ!東京グローブ座。

コンドルズ『JUPITER』ENCORE(@東京グローブ座)
多分、DA・Mの安定感は、観客との距離の取り方が安定していることにある。そこにぼくは、「アート」なるものを読み込んでしまうのだけれど、一方、コンドルズはそういった「アート」なんてものを完全に放り投げていた。じゃこりゃなんなのだ???正直、客席にいての動揺の度合いは、こっちの方が大きかった。
まず、開演前。観客の顔が、普段コンテンポラリー・ダンスで見る雰囲気と全く違う。若い。そして純粋に楽しもうとしている。「笑いに来た」といった気合いが感じられる(ちょっと踊り見に来たんじゃないの?とは思っちゃうけど)。そして東京グローブ座が超満員という事実(追加公演でさえありながら)。どうしたら、これだけの観客が呼べるのだろう。『トップ・ランナー』出演は大きかったのだろうか。このマジックには、どんなコンテンポラリー系のダンサー、制作のひとも関心をもつべきだ、よ。だいたい出演しているダンサーたちは全員オッサンなわけで、かならずしも面白いとは言い難いネタと、必ずしも上手いとは言い難い正直周囲をだらけさせているダンスをコンテンツにし、たとえ抜群に面白い近藤良平のダンスがそこにあるとは言ってもわかりやすい認知度があるわけではない彼だけが目当てではないだろう観客は、いったい何をここで楽しんで帰ったのだろうか。
でも、笑い→ダンス→笑い→ダンスという構成など、明らかにコンテンポラリー・ダンスのひとつの戦略に重なるようにも思えるし、もはやいわゆるジャンルとしてのコンテンポラリー・ダンスには入れる必要はないだろうけれど、一部方法としてコンテンポラリー・ダンスの応用のように感じるところがある、わけで、、、ならば、ボクデスが、康本雅子が、森下真樹が、、、こういう熱い若い観客を獲得することもないわけではないのではないか?そんな連想が始まってしまった。例えば、(新)吾妻橋ダンス・クロッシングを東京グローブ座でやり、コンドルズとコンテンポラリー系のおもしろなダンサー達が対戦する的企画でいく、とか。この客にボクデス見せたいなー。
でも、冒頭にも書いたことだけれど、彼らはまったく「アート」に寄りかかっていない、その代わりにするのは観客とのコンタクト。ロック・コンサートのフォーマットを利用したそんな密なコンタクトがあってこその盛り上がり。そこ、どうしよう、コンポラ。

さて、せっかく新大久保にいるのだからと、コリアン料理の店を探す。「松屋」という店にはいる。凄かった。美味かった。

チェルフィッチュとマリー・シュイナール

2005年03月19日 | Weblog
チェルフィッチュ『ポスト*労苦の終わり』(@STスポット)
物語のプロットの幾つかは温存されているけれど、前作以上に過激に切り貼りが進み、ときにスクラッチみたいな猛烈な反復が続く。前作との違いは他には五六脚ほど椅子が舞台上に置かれて演じない役者は静かに座っていたりするとか、ビデオカメラが横向きに置かれてピンぼけの画像を映しているとか、照明は過激なスイッチングをするよりも緩やかに明暗を変化させていくとか、音楽の使い方が無意味なBGMの無意味性を加速させているとか(後半はずっと電車のホームのノイズ。多分前回では、音楽はほとんど使われていなかったと思う)。「緻密な混沌」と砂連尾+寺田の新作のこと書いたけれど、まさにそういう感じ。
前回ぼくが感じた「ダンス」は今回薄かった。前回出ていたうちの二人ほどは、ぼくの好きな役者で彼らは比較的動きで「ク」る。でも、他の役者達は、動きが奇妙であればそれだけ演出のコントローラーによって動いているのだよな、という風に見えてしまう。トチアキタイヨウは、しゃべりとか上手すぎて、「上手いな」と思わせる分見ている方は安堵してしまう、ついつい話を聞いてしまう、でも、何かある種の余裕の中で「ハッ」とする瞬間を捕らえ損ねているように感じてしまう。
舞台上がにぎやかな分、意識が分散されてしまって見ている方は集中を欠き、ただしその仕掛けは、まわりの役者がぼーっと座っているだけ(なんか、コントローラー握っていないときのウェイティング状態のキャラみたいだ)だったりして分散に見所が乏しい。すると、どうしても頭には「難しい」という文字が浮かんでしまう。
ちょっと、こじらせすぎかな、と思ってしまった。


マリー・シュイナール
『ショパンによる二十四の前奏曲』
立派なバレエ的身体にモヒカン頭(女達は三つ編みを垂らして)。スケスケのレオタードは局部に黒テープを貼っている。ああつぼを心得ているひとだな、バカのツボ。バレエ独特の運動を示しながら、そこから原始人的な動物的なモチーフが出てくる。バレエとこれらのモチーフとの関係がとてもいい。何かにバレエ的身体がなる、と言ったものではない。それではバレエはそのおすましを温存してしまう。かといってバレエとこれらのモチーフを完全に切ってしまうのではなく二つを接合させてみること、両者を共存させてみること。批評的だ、と思った。一方をダメにすると言うよりは、相互に批評的であるような関係。怪獣って大抵二つの身体のあり得ない融合だったりするけれど(ラオコーンとかスフィンクスとか)、その融合の接合面が面白いのであり、このダンスはそこをごまかさない、そんな気がして感動した。

『コラール~賛歌~』
こちらは、もうバレエさえどっかにほっぽっといて、あるいはその他すべての動きと等価に並置させて、いわばポスト・モダンなスーパーにフラットな空間を踊る。大駱駝艦などの暗黒舞踏を想起させる。セクシャルなイメージとか。舌をベローと出し、カクカクと悪い屈曲で踊る。大抵こういうこと西洋的身体がやるとダサイのだけれど、どういうわけかそういう地雷を上手くかわしながら良いポイントを突いていく。ありがちなオチに頼らない。それがあればすぐに白けるところ。でも、そこに行かずに自分なりの信じたツボに正確に向かう。グロテスクな中世の装飾絵画に出てくる怪物みたいな、装飾的なキャラっぽい仕草やポーズが印象に残った。ここの辺りは単純にぼくの趣味だ。直感勝負の賭けにどんどんベットするマリー本人は、アフター・トークであらかさまだったように、戦略的というよりは、素のひとだった。

『踊りに行くぜ!!vol.5 SPECIAL IN TOKYO』

2005年03月18日 | Weblog
『踊りに行くぜ!!vol.5 SPECIAL IN TOKYO』(3/18 @スフィアメックス)を見た。

中島由美子『とべた、とべたよかあさん』
こういった作品を見ると必ず思うのは、地方的な作品だと言うことだ。「地方的」といって、「ご当地的」なのかどうかは不明確、もしそうであるならば、それはそれで重要なのだけれど、とりあえずそういう意味ではなく(多分そういうことはなく)、ある種の凝り固まった観念を基に作品が作られている、ということだ。情報が乏しい、多様な作品に出会う機会が少ない、そういうことが原因だと推測出来る一種の「堅さ」がある。東京がいい、というわけではないのだけれど、例えば東京で生まれ育ったひとのなかには、過度に偏った感じがない、けれど、無趣味なのではなく、いろいろなものを味わったあとのこだわりのなさというか柔軟さを感じさせるひとがいる。
「一般人向け」とプログラムで自ら書いているのだけれど、中島は「一般人」をいったいどのようなものとして設定しているのだろうか。観客の一人であるぼくはどんどん取り残されていく。アイディアがどんどん消費されるが引っかからない。フリード的「演劇性」のことを考える。何か、観客というものがいて、自分が何かをするとその観客はそれを見ていてくれる、そこには自ずと何かが成立するのではないか、という約束事に基づいて時間が過ぎていく。観客-舞台という構造に頼るのが「演劇性」だとすれば(こういうことなのか、フリードをもう一度読み直す必要があるけれど)、「没入」とは、観客を「観客」という位置から引き剥がし作品への参加を促すような何かなのではないか。そんなことを思っていた。

星加昌紀『帰還者』
非常にコンセプチュアルな作品。方法はごく形式的。ここでの形式的とは、ある振りが次の振りの動機付けになって運動が連なる、いわば「しりとり」の形式をもっているということ。そんな形式的であることによって、ムーヴメントはある大義名分を得ている、何かしらアート的だということ、ただし一方でそのアート的なる何かが楽しいかと言えば疑問で、それは「しりとり」がそれ自体としてきいてて楽しいかということを考えれば分かってもらえるだろうか。体の小さいひとなので、腕を大きく振りかぶると小ささが目立ってしまう、小さい小刻みな動きは面白いのだけれど。最後の将棋盤を腕に抱えてコマがぼこぼここぼれて小川のようなあとになって、、、というあたりは、ちょっと出来事になっていた。テーマの「戦争」はいいのだけれど、戦争を踊るではなく、踊りが戦争だ、ということになっていなければ、絵に描いたもちを絵解きしているだけ、になってしまうだろう。

大橋可也&ダンサーズ『あなたがここにいてほしい』
前二者が「絵に描いたもち」の絵解きだったとすれば、大橋作品は、もちそのものをバコーンと舞台に投げつける。そのとき「もち」はそれ自体としてはささやかなものと思われるかも知れないけれど、「ベチャッ」とぶつかるその音は、それが何であるかなんてお構いなし、魅力的なのである(別に「もち」は作品に出てきません、一応)。
今日は、以前見たトヨタよりもいいと思った。スカンク、ミウミウ、大橋三者の関係が均衡を保っていて、とくにトヨタの時は後半から舞台に出てきた大橋が今回はかなり早い段階で登場した分、序列関係といったものを意識することがなかった。それは、まさに「演劇性」のようなものを回避する意味で良いのだ。とくに、眼を細めたり開いたりしながら、首をゆっくり回す、椅子に座った最初の振りは、催眠的で「コントロール的」だ。昨日見たOM-2がまさに催眠的な仕組みで観客を混乱の淵に落としたのににている、と考える。この動きに、さっきまで、ひとりで不安を一杯溜めた身体でおにぎりを食べては吐いていたミウミウは微妙に連動する。一見、スカンクの烈しいノイズなど相俟って観客を突きはしているようでいて、彼らは、誰よりも観客とのコンタクトを取ろうとしている。「没入?」。椅子からずり落ちて、椅子の下に頭を潜らせて椅子に絡まる大橋は意外にもユーモラスだ。いや、あの無毛の頭のつやなど、彼はかなりサーヴィスのひとだ。ゆっくり走るような動作。スカンクがギターでさらにノイジーな「汁」を流す。ミウミウの動作はテクを感じさせない分、ほっとけないものになる。

福岡まな実『夜島』
あがた森魚本人がでてきてコラボ。スキのある音楽に、スキのあるダンス。空虚な、闇のようなからっぽがズーンとくる。「スキ(隙)」は大事だ。振り付けの概念のなかにいてはなかなか出会えないものだ。屈曲のやや強い、故に美しさよりはコミカルさを喚起させる動きは、観客を引きつける。ただ、「福岡印」の動きといったものが萌芽としてはみえる、としても、スコーンと「これだ!」と思わせるほどではなかった。でも、「これだ!」と思わせるものが早いうちにあらわれる気がしたりも。

天野由起子『コノ世ノ』
冒頭、膝下を折ってブロンドのかつらを顔隠れるまで被った状態で、両の腕を水平にやや曲げて首を烈しく小刻みに(ただしデタラメではなく一ミリの動きに正確にコントロールするように)動かすあの瞬間、ぞっとした。「力量」というものは、こういうことか。ため息というか、圧巻だった。ただ、このテクをこのひとはどう遊べばいいのか、迷っているようにも、次第に思えてきた。クラス一の秀才が一層勉強に励んでとった100点の答案のよう。「悪い」はずはない。ただし、別にその答案をだれも楽しまないように、そこには、楽しむためのユーモアが欠けている気がした。こうやって「答案」のようなたとえが浮かんできて、「やっぱりいまのダンス界はお稽古事の範疇内なのかな、、、」と気になる連想がはじまり、ハッとして素早くしまいたくなった。どうもこの辺りの採点が厳しい、最近のぼくは。あのテクがどっか「ヌキ」のスタンスをもって観客との良い関係を取り結ぶことが出来るようになれば、それがいいなと思ってしまうのだ。




OM-2『作品No.3』を見た。

2005年03月17日 | Weblog
ハイナー・ミュラーとかはあくまでも、外装であり、理論的な下支え、時間をころがすきっかけになっているかも知れないとはいえ、ほとんど問題ではない。客を閉じこめ、パニック状態にし、視覚も聴覚も奪って、コントロールする。彼らがやりたいのは、たったひとつ、これだろう。一種の催眠術だ。しかも、パチッと指ならして魔法を解かない。リストカットにせよ、佐々木の暴力そのものといった肉体にせよ、すべては、そのコントロールの力学のためにある。
ああ、魔法解けぬまま、苦しい状態で、会場だった町屋の駅周辺の飲み屋に入る。「飲み屋」であって、「居酒屋」ではない。ディープな東京のはじっこ。でも、どのメニューもともかく上手かった。昔アイドルみたいな親父の控えめとか、客の爺さんのおしゃべりとか、それらも相俟って。

五反田団『キャベツの類』

2005年03月11日 | Weblog
五反田団『キャベツの類』(アゴラ劇場)を見た。

その帰り、買いました。『現代詩手帖3 特集 身体のポエジー』を。
何よりも印象深かったのは、康本雅子さんが対談中に三度も評論家を中心とした周辺の人たちに対して、レスポンスが少ないのが淋しいと発言していることだ。知らなかった感づかなかった、康本氏がそんな気持ちでおられたとは、、、。まさかあ、ぼくが彼女のなかで「評論家」と呼ぶ人の数に入っているとは思いませんが、昨年のトヨタのあと、打ち上げでぼくはほぼ康本氏の隣の位置にいて、そういえばぼくはどれだけ彼女に自分の感想を申し上げただろうかと、事実がうろ覚えなのも手伝って、すこぶる不安にまた申し訳ないような気持ちになってしまった。
公演を見る度に、ぼくはその公演を作った人たち、特にダンサーに手紙を出したい気持ちになる。何かを伝えたいというのは事実なのだ。終わった直ぐあとというのは、そんなに饒舌に言葉が出るものでもなし、また踊っていた当人に突然話しをするという考えてみれば非常に違和感ある行為にも慣れず、実際は、終わってそそくさと家路へ、と言うことが多い。とはいえ、いろいろ理由はあるにせよ、態度を改めなきゃと言う気持ちになった。反省。
でも、最近よく思うのは、批評の立場というのは、最下層に近い、のではということ。唯一のメリットがときどき招待を頂けて、懐の貧しさをやや救ってくれること。自分なりに責務を感じてやっていても、それこそレスポンスは皆無に等しい。そうそう、誰かぼくの原稿読んだら感想教えてください。よし、ここで突然、ぼくのHPよんでいる人の点呼を取ろう。あの、ぼくの「老体の城が動く、ということ」(『美術手帖』3月号)どうでした?渾身の作です、著者みずからまず感想を言えば(書いた感想、ですけれど、ね)。康本氏とぼくはおんなし気分です。最近会った人では、東谷さんが『踊ることと見えること』論文の感想を言ってくれて確かにそういうことはひとを勇気づけると思いました。読んでいない人は、読んでみてください。宮崎駿批評の衣を借りたダンス批評であり、教育問題への応答であり、諸々でありうるものだと思います。ダンサーの方読んでください。今回の「アートノヴァ」事件(アートヴァをめぐる色々な出来事)で、ぼくにとってもっとも重大なことだと思ったのは、諸々の間のディスコミュニケーションです。その意味でも、康本氏の発言は深刻に受けとめなきゃと思ったのでした。ある方と、今回対談形式で原稿を書きましたが、その発端にあったのも、批評に対するレスがない、と言う嘆息でした。どなたでもいいので、この日記読んだら、ぼくの原稿をお読み下さり、BBSか、シャイなあなたなら直接ぼくにメールでもまったく構いませんので、レスして下さい(単なる誹謗中傷、単なる感情的な言葉の羅列は勘弁下さい、当然ですけど)。とくにダンサーの方、ぼくとこれをきっかけに友達になって下さい。ぼく、友達の関係じゃないと上手く話せないことがたくさんあるのです。公演後のロビーで話すと、どうしても批評家の役柄を演じなきゃいけないのかな、と思って堅くなってしまいます。

ぼくにもレス下さい!

珍しいキノコ舞踊団『家まで歩いてく。』(彩の国さいたの芸術劇場 小ホール)を見た。

2005年03月10日 | Weblog
うっとりするような柔らかく光る膜が、あまねく舞台を包んでいる。ある種ディズニー映画が持つ独自の質と等価と言うか、等価の効果が効いている。その心地よさにうっとりするのもすやすやしてしまうのも一興だろう。でも、なんか歯がゆいような気持ちになっているぼくがいる。スキッとしない。これでいいのかな?て気になる。スィートなソウル・ミュージックあるいはシナトラみたいなメロウなポップスが漂い、そのリズムにかなり表ノリで反応する踊りが続く。合間にはダンサーたちがマイクを持って自分の子供時代を語る。その物語は、一見楽しい想い出にも映るが、兄弟げんか、姉のヒステリー、父親の躾(暴力というと大げさかも、でも)、飼い犬の暴走(セミを食べる)など、イタイ話ばかり。この現実と過剰なまでのファンタジーとがどう絡んでいくのか、と思ってみていたけれど、ささやかな兄弟げんか→仲直り的なフレーズが踊られてはいたものの、充分に説得的な展開を見ることが出来なかった、と言う印象を持ってしまった。NHK教育のお遊戯の時間的な演出が施されつつ、それはでも、一体誰に向けてのそれなのだろう、と疑問に思ってしまった。たのしくてそうかいでかわいい、という説明は、あまりに当たっていてはみ出さない今回の公演では、切なく響いてしまう。ぼくは個人的には、ときに観客も巻き込みながらの盆踊りなだれ込み系のキノコ公演がやっばりすきだな、と思う。

ところで、この公演、A席は3500円。この値段、ぼくが今週火曜日の朝、仕事がはじまる前に築地に行って食べたお寿司と同じ値段。初築地で、何も分からずネットで調べた「大和」という店にともかく並んで食べたのだけれど、いやあ美味かったッス。目を閉じて眉間に皺寄せて集中して食べたくなる一貫to一貫。職人の振る舞いも手つき表情会話の様子もともかく面白かった。せっまい店の細いカウンターの棒(?)上にどんと置かれた鮨の風情も面白い。ダンス公演は、この魅力に勝てるのか、そんなこと考えながら、さいたまをあとにした(とかいってぼくは全然美食家ではなく、この日の公演の帰りには「王将」で夕食でありました、が)。

みうらじゅん『正しい保健体育』

2005年03月09日 | Weblog
ああ、一週間長かった。ほとんどこれしか出来なかった、でも一大プロジェクトがひとまず完成を見た。ちょっと面白いコトしました。チャット、は関係ありです。後日お楽しみに。

ようやく、自分の時間が取れるー。ところで、週末実家に戻り、ハウル原稿にも登場した祖母の3回忌&祖父の17回忌を終え、戻ってくる電車のなかで読んでいたのが、みうらじゅん『正しい保健体育』。素晴らしい。カンドー。これは一家に一冊の常備薬です。文学のひとつの大きな到達点です。阿部和重なんてこれに比べれば可愛いです。スゲー。
これ読んでて、冗談めかして性を語る風に読むひといるだろうと思いつつ、それは完全に間違っている、とも言いたくなる。冗談いってたけどほんとはこういうことが言いたかったのよ(by天然系体育教師)、なんて言うそういうものではないのです、性は。冗談を通してしか言ってはいけないものなのです。そういう意味では、真理の書です。

あの、でも、この本の面白さは細部に満載されていて、それについて言及したい気もあるのですが、この本勧めてくださった人物が、ぼくに面白いトコ全部喋ってくれちゃって、飲み会でギャハハ笑って、その口まね以上のことおれ書けねえやって気持ちなので、ごめんなさい、本屋には走って読んでみてください。

川口隆夫×OPTRUM『ディケノヴェス』

2005年03月05日 | Weblog
川口隆夫×OPTRUM『ディケノヴェス』を見た(@パナソニックセンター有明スタジオ)。
以前にも増して、生理学=美学などという言葉が頭にグルグルした。強烈なフラッシュに目がやられ、激しいドラムとノイズに耳がやられ、舞台上でただくるくると回っている川口のからだが、そのような聴覚と視覚のノイズの嵐に対して「脆弱だ」と思う以上に、見ているこっちのからだもまたすこぶる「脆弱」であることを思い知らされる。その意味で、「からだ」を強烈に意識させられる仕掛け。作品としては、「三半規管」にことごとくこだわったもの。レクチャーみたいなところもあり、『ダム・タイプ』らしい独自のぼやぼやしたような雰囲気を保ちつつのパフォーマンス。「生理学=美学」という言葉は、カントがバークの美学に対して揶揄した言葉にちょっと絡めてのもの。カントによれば、バークの美学は生理学的な関心に貫かれていて、人間の問題を狭くしか捉えていない、とまあざっくり言えばそういう批判なのだけれども、むしろこういう「崇高」という言葉も浮かぶ公演を見ると、カントよりもバークの方がしっくり来ることも事実なのだ。以前、沖縄の残波岬に行った時、そこに立つ灯台に昇ると激しい風と激しい波の運動に、端的な恐怖をからだが感じてまさに「崇高」といった光景だった。そういう時に、でも、カントの言うような「道徳的なもの」との連関は実はあまり感じないな、と実感する。それよりもからだの持つ有限性、弱さちっこさの方が強くクローズアップされる。感覚がめくれ上がって無感覚になりそうな時、ああぼくはこのからだをもって生きていて、このからだの消滅とともに消滅するのだ、人間とはこういうからだと共に生きていくということなのかな、と思う。カントが言うのとは別の仕方で、崇高なものは人間性の意識を見るものに与えるのではないか、そして川口の公演は、そういう人間の脆弱さを感じさせることに集中していて、その点において見事成功している。からだは、最後にはメタリックなスーツをまとい、スタジオ中をスケートし続ける銀の玉となって、もはや人間であることさえ、静かに降りている。もう分子としてしか存在していないのだ、人間は。感覚する存在としてだけある、そこにからだがある。あまりにも純粋にそういう美学の公演だった、「純粋」過ぎたかもしれないが、そうしてはじめて見えてくる「人間」は強烈に切実に嘘偽りのないそのものだった、その点を解剖したことで、切実で素晴らしい公演であった。