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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

結婚披露宴

2005年09月25日 | Weblog
の司会を仰せつかる、の日でした。

一昨日、昨日と、本ブログのアクセスIP数が普段よりも多く、なるほどこの二日間は吾妻橋ダンスクロッシングがあったわけで、やっぱりここ覗きに来る人はダンス関係の文章が読みたい人たちなのだな、と(ま、あたりまえですかね)思ってました、が気にせず非ダンス的な日常もつらつらと書きます。

今日は人生初の結婚披露宴司会をしました。新郎のかつての指導教官で私の事務仕事先の先生は、「ぼくも三回くらいかつては司会やったよ」なんておっしゃってました。そういうものなのでしょうか。いやあ、緊張した、もうしばらくはいいです。でも、本当に心温まる会というか、司会しながら何度か「ぐっ」と来ました。友人や仕事仲間以上に、やっぱり結婚は家族にとって何より一大事な訳で、家族を思うのベクトルに最終的にヴァーっと進んでいくと、ぼくも何でか亡くなった自分の祖母のことを思い出したりして、なんかぐちゃぐちゃになっていくのでした(いや、宴はすみやかに進んでいきましたよ、ただぼくの気持ちの方が、ね)。よい思い出になりました、ぼくにとっても。




吾妻橋ダンスクロッシング

2005年09月24日 | Weblog
の一日目を見た(9/23)。

いまこれを書いているこの時間に、2日目が始まっているのだな。今日は今日でどんな雰囲気なんだろ。今日も見ようかと思ったのだけれど、何せすごい人気で、チケットは完売、会場は制作の茜ちゃんが言っていた通り「本当にパンパン」だったので、悪いなーと思ってさすがに断念しました。昨日で満足したこともあるし、フルコース食べておなかパンパンって気分。

桜井さんは、ぼくとのチャット対談(『舞台芸術』所収)で、今後は自分がいいと思うダンスの菌を世間にばらまいていきたいなんてことを言っていたのだけれど、今回はまさにその菌ばらまき作戦決行という感じだった。作戦成功だったかは、のちのち分かることだろう。でも、端から見ていて、そのばらまき具合はなかなか痛快だった、ちょっと嫉妬してしまうくらい、ちきしょう、なんかスゲーいいじゃん、と。

細かくレポートを書きたい衝動とその反対の衝動が自分の中で絡まってまして、ざっくりと幾つかのトピックに絞ってのメモに留めておきます。

正直、男子はだまってなさいよ、とボクデスがパフォーマンスした冒頭は、少し心配してしまった。MCのタイチ(山縣太一)が開演前にだらだらと「らしい」お喋りをしているときにも、あまり興味を示していなかった(見て見ぬふりみたいな?)観客は、この手のオフ・ビートにややとまどい気味。「ダンスを見に来たんですけど、、、」的な雰囲気が、「こんなんもダンスっしょ?」っていう桜井的提案を拒んでいる感じ。ボクデスの「チマチマダンス」は、ちまちまと指だけが踊るのも踊りジャンって「踊りとは何か」的ダンス原理主義でもあるのだけれど、ちと伝わりにくかったか、、、ぼくはその指がリズムをとって伸びたり縮んだりする運動より、そうしている時のまばたきが妙なリズムでおかしかったけど、ね。実はそんなとこが見所だったりする。康本雅子は、「ウサギ」(→バニーガール)のダンスがバニー姿のダッチワイフとのデュオダンスへと転がる。そこに、ジェンダー的な批判性を読み込むことは絶対に必要だろうけれど、そういう読みよりは、音楽との微妙な間合いで腕が脚がのる、外す、たたみかけるダンスを感じていたい。ぼくがよく書くことですが、康本は歌ものダンスのひとだ。歌にのる歌へ向けて踊ることはあまりに基本的で芸術ダンスが無視する領域。音域で喩えれば、中音域のダンス。過激な逸脱は派手だけれどそれがダンスを失うことは本意でない、そういう意思を感じるダンス。次、真っ暗闇で「ハーッ」と漏れる息だけが聞こえる、とそこに白い拡声器をもった得体の知れないひとがハーハー言っている、丹野賢一だ。息の音に観客が翻弄される。ウアッと叫ばれたら鼓膜が破れるかもって心配になるようなフルヴォリュームに設定された拡声器からの吐息は、恐怖で観客を支配する。丹野の面白いのは、さまざまな意匠(パンクとか、モンスターとか)を身に纏いながら、それらはすべて単なる外装であって、ねらいは別の所にある、ということだ。ただここで声に翻弄された、それだけが観客に残される。そして、見事にそれは観客を一気に熱っぽくさせた。そこに、今度は白塗りのゴスなひとたちがあらわれた。男と女、超近接。手振りが繰られる。変な角度のファンタジーが、着地点を示すことのないまま漂う。すると、同じ白いゴス的一段が列をなしてあらわれる。「ダンス☆ショー」で見せたシンプルな振りで、行進。難解さへと向かい及第点をゲットしようとするダンスとは対極にある、快楽と諧謔のためのダンス。その後、黒沢美香あらわれる。スリルとサスペンス、他にどう言えばいいのだ。フェイントとドリブルとシュート?KATHYは、黒いストッキングとブロンドのかつらで観客をKATHY化させ、シンプルな振りを舞台上で踊らせる。「指令」のユーモアと恐ろしさと陶酔感。「指令」が「ダンス」?

後半は、チェルフィッチュ。五反田団や青年団に出演している端田新菜がやるチェルフィッチュは新鮮だった。俳優として実に味のある彼女は、ひときわ観客からの笑いをとっていた。ちいさな振動がしだいに堪えきれずにバネのようにはじけると、こちらの身体もたえられず笑いを漏らす。いま最も観客との共振を呼ぶ方法を掴んでいるひとだと思う、岡田くん。ちいさな振動、そこに焦点をあわせる、それを見所にする。このことも桜井ダンス批評のエッセンスだろう。それが手塚夏子に飛び火して、岡田くんに飛び火した、なんてことを思い描きつつ見る。二回目の男子はだまってなさいよ!は一回目同様、この場を演劇的空間にしてしまうせいで観客の身体を少し引き気味にさせてしまう。それでも、彼ら役者たちの顔を見ているのは何とも楽しい。案外脇のセリフのほとんど無い若い男の子の、トホホみたいな表情なんかが見所だったり。で、康本雅子+山縣太一は、ボクロール公演の客演でも見せた、洗濯機になってひたすら回るやつとかを見せてくれた。回る康本は面白い。「フラッシュ」みたいな効果が発揮されてて、一瞬一瞬静止画があらわれては消える。そこに、リズムが起きる。二回目のボクデスは、実人生の伴侶でもある佐川さんとペー・パー気取りの夫婦コント風。中身は脚立のダンス。でっかい脚立に翻弄されながら、佐川さんとおんなし身振りを後ろのボクデスが脚立にやらせる。バカだなーを突き抜けると、脚立の身体がダンサーの身体とのでっかいズレを見せるそのふり振になんかこっちの体が引っ張られてくる。ダンサー佐川にシンクロしてればいいのに、脚立にシンクロしてもがくぼくの身体、がおかしい。あと、脚立の穴めがけて飛び込む、「輪くぐり」(?)は、今日本で見られるパフォーマンスの中でもっとも「シリー」に違いあるまい。くだんねーと体が笑う。二度ならず三度まで、いや何度?最後は、黒田育世+松本じろ。ヴォキャブラリーが云々とか、踊れる身体云々とかおいといて、音楽をからだに蓄えながらそれが我慢できずこぼれ出す瞬間の踊りであることに、ただ魅了される。ドリブルを繰り返し狙うはフェイントからのシュート。みたいなスリルは、体が歌っていることから始まっている。そして、歌う体を見るのはなんて楽しいことだろう。と思うのだ。

メモに留めるなんて言って、だらだらと延々書いてしまった!
ダンス公演を限りなく「演芸」に近づけながら(観客の気をほぐしながら)、ダンシーとはいまやシリーにありというメッセージを観客の身体にばらまく。これが、桜井さんのいまの批評行為なのだろうと思う。

下に載せた文章のように、人類は運動が嫌いなのだとすれば、そんな人類をシリーなダンスに誘うことは出来るのか。この挑戦が、早速年末に再び試みられるらしい。楽しみだ、しかも室伏鴻も(Ko&Edgeで)出演するらしい。

蔵出し(書評)

2005年09月24日 | Weblog
蓮實 重彦『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』青土社

 運動は例外的だ。あるのは殆どが停滞である。これが真実。だから運動はめざとくつかみ取られるべきであり、その時観衆は祝福の叫び声をあげなければならない。
 停滞とは文化(人工的なシステム)のことだと言ってもいい。あるいはルール。世界を統制し秩序立て、野蛮な自然が奔出するのを防ぐシステム。体裁は整えられ、大きな失敗は回避される。安全が最優先され、同時に運動は消滅する。驚異や美は安全の確保のために密かに隠蔽される。いやそれどころか、停滞こそ美だとの錯覚がひとびとに蔓延する。もはや運動は渇望もされなくなる。何が運動であったのかもはや思い出すことが出来なくなる。欲望を欠いた貧しき者の僥倖が迫る。存在しないものは望む必要もない。と、そこに、あるはずのなかった見事なパスが俊敏なドリブルが野蛮なシュートが出来(ルビ:しゅつらい)する。アクシデント?いやこれこそ僥倖!世界が回る。世界を回す。運動が起きた!
 著者の言う通り、人類は運動が嫌いに違いない。運動とはすなわち文化を蹂躙する野蛮なパフォーマンス。それを著者は美しいと呼ぶ。その不在は醜い。「「美しさ」とは「流動性を欠いた運動にストップをかける「事件」にほかならず、これはスポーツだけではなくて、われわれの日常生活すべてに通じているはずのことです」。その事件=運動をジャーナリストも哲学者も誰も抑圧する。運動に目もくれない鈍感なひとびと(運動音痴!)にとってスポーツは、ヒーロー(ヒロイン)の、根性の、青春の、リベンジの物語に過ぎない。物語を語る者は運動を見逃す。なぜなら試合の最中彼らは物語を書くことに夢中で、目はフィールドを注視していないからだ。彼らの物語至上主義をかいくぐって「批評」は、いま目の前で起きていることを鋭敏に捉える動体視力こそ持たなければならない。細部の細部へと分け入り、運動が起きた奇跡=「事件」を讃えなければならない。本書の批判は辛らつだが正しい。
 ぼくはワールド杯予選の日には必ずテレビの前にいた。けれども日本を応援していたわけではない。選手に愛着はない。ただ停滞を唾棄し運動に興奮した。そんな「批評」的眼差しは、醒めていたわけではない。「事件」をあきらめないで見続けていた、だけだ。
 事件を渇望する眼差しは、サッカーに限らずあらゆる世界の一瞬を捉えようと飛び回る。著者なら映画だろう。ぼくの場合、コンテンポラリー・ダンス。美しい運動?ここでも例外。でもあきらめない。ただその瞬間を待つ。いま、いま、いま、そこか、それか、こい、こい、こい。
(書評誌『ほん』所収、東京大学生協書籍部編 今年の夏執筆 若干の加筆修正あり)

BABY-Q(東野祥子)『ALARM』(@シアター・トラム)

2005年09月23日 | Weblog
を見た(9/22)。

後期の最初の授業。夏休み終わっちゃったよーって顔も、学校始まったぜって顔もある。
今日は、今後の講義のイントロダクションだけ、一種のリハビリテーションである。

その後、東野さんの公演へ。
見ながら、ずっと昨年の黒田育世公演のことを考えていた。あれは面白かった。なぜ面白かったか、といえば、彼女がメーター振り切った作品作りをしたからだ。単にそれは、ハイヒールにつば垂らして、、、みたいな部分だけを指しているのではない。後ろで延々立ち上がっては倒れるを繰り返すダンサー達とか、ギャハハ笑いながらジャンプし続ける黒田とか、それがどんなハードルを跳び越えることなのかをきちんと見据えつつ、「えいっ」と飛ぶ、あの公演でぼくが見たのはそういう瞬間だった、と思うのだ。東野さんの今作には、それが希薄だった。
映像やロボット+城のようなオブジェ、前方の水槽のようなものに寝そべる半裸の女、音楽、差し込まれるコミカルな演出。どれもそつがない。ほどよくテーマを支えている。そういうところに好印象をもつ観客もいるだろう。けれど、ぼくにはその「ほどよく」しつらえられた及第点的なものに何らの感動も見出すことが出来なかった。
しかし、もし彼女が「次代を担う振付家賞」を昨年受賞したその受賞者らしい「次代」を示しているとすれば、むしろこの「ほどよく」のあたりにその根拠があるのではないか、という気がした。
もはや今の時代は「新しさ」を求めてはいない。音楽が象徴的なように、別に新譜を無理に聞くよりも古き名盤に唸る方が自然な時代。あえてはみ出す必要もないのだ。重要なのは、編集力であり、何ほどか観客が納得するものを提供すること、なのである。もし、そうであるならば、及第点こそが狙うべきポイント、ということになる。
このあたりの感性がいま一番際だつのは、若手Jヒップホップのひとたちだ。彼らの及第点ねらい振りに驚愕すると同時によかれ悪しかれ、それこそがいまという時代のかたちなのだ、という気がする。
その背景にあるものとして、グローバル化の存在を意識するべきだろうし、リベラル化した多元主義があることを意識するべきだろう。つまり、様々なものに関与しながら、そこそこの現代的問題に反省を向けながら、しかしそこに真の他者性があらわれる亀裂を決してつくらないそういう身振りが背景にある、と言うことだ。今作はぼくにとってそうしたムーヴメントの中にあるものとして考えるべき作品、という気がしている。

何か、異様にでかい話になってきてしまった!
この、テキトーによさげな(正直に言えば、アートを「誰ピカ」経由で勉強してしまったひとにとってのアートみたいな)東野作品は、今後のダンスシーン、アートシーンの姿を予告するものであるのか否か、それが大いに気になっているのだ。

『NANA』

2005年09月19日 | Weblog
を読書中。あと、第13巻だけ残すのみ。

少女マンガの醍醐味というのは、「逡巡」にあるのだろうと思う。あるひとつの出来事(それは大抵恋愛に纏わるものなのだけれど)が主人公に与える波紋の襞を丁寧に描けば描くほど、このジャンルの真価が発揮されることになる、そういうものなのだろう。いかにひとつの主体は不安定で流されやすく変わりやすく、すなわちひとつではないか、ということがこれでもかと描写される。

その点、『NANA』は登場人物達ひとりひとりがすべてこの「逡巡」の味わいに寄与している、この徹底振りがすごい。昨日の決意は今日裏返され、そんな自分に明日は怒りを向ける。この振幅がすべての登場人物のリズムになり、それらがクロッシングし、次第に大きなうねりとなっていく。

それが顔の造形にあらわれる時は、ホントに短時間での心の揺れ(振動)をときにコミカルにときにシリアスに表現する。なんで?ってくらい、少女マンガでは登場人物達の意志の強さが高まるとキリリとカッコよくなる。これ、バカっぽいなーと思っちゃう反面、見事なくらいのリズムを紙面に与えるなーとも感じてしまう。

あと「したたかさ」がひとつの大きな価値観として描かれているのが、気になった。サクセスは、単にまじめであるとかカッコイイとか、やさしいであるとか、正義であるとか、そういうことでは起きない。人生はスリリングな綱渡りである。ということを謳うリアルさが、このマンガのヒットと無関係ではないように思う。

あ。ところで、
一年ほど前、『STUDIO VOICE』で美学の本十冊紹介する記事を書いたのですが、そこに原書を紹介した『知覚の宙吊り』翻訳でました。平凡社から7200円ってたけーよ!でも、超重要な本です。今後、いろいろなところで話題になること必至です。別に平凡社から一円も貰ってませんが、一読おすすめします。もう読み始めているダンス系の知り合いもいますぜ。ダンサー、振付家、関係者諸氏もきっといろんな意味で役に立つ(まあ立たなくても)面白い本ですよ。家では二人で折半して買いました(ちなみに、Aがまずいま先に読んでいるので、実は翻訳では一文字もまだぼくは読んでません)。

雑感

2005年09月15日 | Weblog
ビールやめた。2日目。付き合ってくれているAはフキゲン。まあ、そりゃそうだろう。昨日、ある用事で医者にいったら、X線検査の結果、ぼくの心臓は体の幅の半分以上の大きさがある、つまり異常に大きいと言われた。要するに無理をしているのだそうだ(トラックに搭載された乗用車のエンジン状態だと)。こりゃ、マズイ。からだに悪い(申し訳ない)。マジでディー・アイ・イー・ティーしなきゃらしい。
サラダ、そば、サラダ、そば、豆腐、こんにゃく、、、


今日は上智大での研究会。今日でグリーンバーグは一段落。今度はマイケル・フリード「芸術と客体性」読みます(次回は10/3、五時から。参加自由です、参加者随時募集中です。興味ある方は気軽にお越し下さい、連絡下さい)。帰り際、十年来の友人J嬢から『NANA』全巻借りる。ウォー。少女漫画読むの何年ぶりだろー、『まばたきもせず』以来??


ITMSにアクセスするようになる。アルバムのなかの一曲だけでも買えるのはいい。佐野元春の「世界劇場」、ちょっと気恥ずかしいポエトリー・リーディングなのだが、この中の一節、

ひとびとは美しく支配されたがっている

が気に入っている。というか、いまの日本に切実に響く。支配/被支配の問題はダンスそのものの問題である。そこんとこ、もっともっと言いたい(誰か書かせて!)。

東京芸術見本市2005インターナショナル・ショーケース

2005年09月14日 | Weblog
「Take a chance projectコンテンポラリー・ダンスの現在」を見た。

山下残『せきをしてもひとり』
背後にディスプレイされた「字幕の言葉を身体で翻訳する」のが本作品。「セキュリティ」な身体をお客さまに提供、という趣向に思える。つまり、身体がどんなにときに激しくせきこんでも、それは「せき」という言葉の翻訳以上でも以下でもない、「ああこういう翻訳ね」と安心してみていられる。翻訳というルールは決して揺るがない。ルールがしっかりあるという点では、「振付」の(権力)構造みたいなものをシンプルに呈示したともいえる。安心安心、はみ出さない。「保守系無所属」的作品。

東野祥子(BABY-Q)『Error Cord』
激しく速く、極めてよく動く東野の、ほぼソロの作品と言っていいだろう新作。コントロールの極みにコントロールを逸脱する(ように見える)奇妙な動きが炸裂する。その快楽はなかなか凄まじい。できる身体の今日的極みのひとつを見たという感じ。でも、タイトルにも反映されている物語というかイメージというか設定がよく分からないし、あまり読み込みたい気持ちを引き起こさない。ありがちなアンドロイドものの小エピソード、既視感が随所に。こういうところのダサさとダンスの快楽とのギャップが実は今日的なのかも、という気がしたり。

砂連尾+寺田『男時女時』
三度目か。前半は二人が密接(密着し)すぎてて、関係として見えてこない気がした。二人のダンスは重層的な二人の関係性をじっくり煮詰めていくプロセスを必要とするし、それを待つことを観客に強いるところがある。「強いる」感じが際だつときというのは、見ている側に照れくさいような恥ずかしいような気持ちが生まれたりする。前半、どうしてもその感覚にぼくは囚われてしまった。後半に、ピンポン球が登場する。過剰と言うべき程にピンポン球が舞台にあふれかえる。寺田がぽんぽん球を投げる。それを淡々と拾う砂連尾。ピンポン球という第三者が舞台を少しクールにし、観客には距離をとる自由が与えられる。このピンポン球がホントに饒舌で、無数の解釈を見る側に引き出させる。バラバラに床をバウンドするそのリズムが何でか知らないけれど、無性に切なく見える。どうしようもなくはみ出してしまうもの、自分の力ではどうにもならないこと、が色々と感じられ、胸に迫る。というと、この作品の主役はこいつになってしまう?


六時半頃、東京国際フォーラムを後にし、ウォーキング開始。一時間で歩けるところまであるこうと決める、ゴールの場所は未定、ただただ歩こう。帝国劇場脇を抜け、皇居と日比谷公園の十字路までくると新橋方面に日比谷通りを真っ直ぐ歩くことに決定。ずんずん歩く。結局ほぼ真っ直ぐなまま、麻布十番まで行けた。

最近読んだ本

2005年09月14日 | Weblog
所謂お仕事のためではない本で最近読んだものを紹介。

□ 井山弘幸『お笑い進化論』青弓社、2005年。
非常に丹念に、最近のお笑いの分析をした本、方法は社会学的。カントの笑いの定義は出て来るが、あまり拘泥しないし、フロイト関連の笑い論がまったく出てこない(結論部に、「人はなぜ笑うのか」と問うているのに、フロイトとかが言及されないのはなかなかすごい)。その代わりに、お笑いのネタを通して現代を眺める的な結論で結ばれていく。

「なぜ人は笑うのか。パラレル・ワールドを比較対照するためには、必要な視点の距離を確保して中景のなかに作品世界を封じ込める必要があった。舞台の上に二つの仮構の世界が立ち現れ、どちらもリアルに見えるとき、新世紀の笑いの受け手たちは新しいアイデンティティーをそこに発見する。多重化したリアルのなかに非局在化しながらも、芸人のしたたかな演技にリアルの感触を得るとき、彼らは(そして私は)自分たちが属するパラレルな現実世界をそれ自体受容しうる可能性を実感する。」

「リアルが多重化した社会」では、ある現実世界が、別の奇妙な世界とつながっていることを示すようなネタ、パラレル・ワールドを呈示する最近のお笑いのネタ、我々はそんな「秀逸なお笑い作品を通じてパラレルな真実を掴むのである」。そういう井山さんのしばしば取りあげるのはインパルス、ラーメンズ。

正直、インパルスやラーメンズをぼくはあまり好きではない、何か理屈っぽいと思っている。井山さんは、ネタを台本にして論述に乗せるけれども、そこには多少なりとも限界があるように思える。つまり、笑いは、言葉をしばしば使うけれども、言葉の表情とかそのときの身体の動きとかがより重要だろう。そこには、あまりフォローがない。アンガールズを説明することはこれだと難しい。

それに、そもそも笑いが機知の文脈で美学史の中で論じられてきた背景を思えば、パラレル・ワールドお笑い論は、とくに目新しさはなく、むしろ機知のポテンシャルの一部だけを語ることでしかないように思う。機知は異なると思われている二つのものの間に類似性を見出す能力のことである、ちなみに。

それでも、逆に言えば、パラレル・ワールドお笑い論は機知のポテンシャルを語ることにはなっているわけで、その点では、曖昧に笑いを論じてきたこれまでの日本の(お)笑い論と比べれば一歩前進、というべきだろう。

常識とその逸脱(井山さん流に言えばパラレル・ワールド)のあわいにある振幅運動をよりディテール豊かに書いて下さればきっとより一層面白いものになったろう。


□ 上野千鶴子、小倉千加子『ザ・フェミニズム』ちくま文庫、2005年。
もとは2001年頃に行われた対談、で2002年に出たものの文庫版がこれ。要するに四年前の二人の話、ではあるのだが、2005年の現状の萌芽をすでに非常にするどく掴んでいて、リアル。リアルすぎて切ないくらい。とくに世代差と学歴差を丁寧に読みとって、非婚率の増加の理由を明らかにしていく前半などは、秀逸。

それと、「リベラル・フェミニズム」批判も面白い。「リベラル・フェミニズムの基盤にあるものは何かと言うと、代表数の増加を要求するが、世の中の枠組みそのものは問わない。だから軍隊にも半分行きましょう、となる」(上野)。それに対して、両者ともラディカルな、つまり枠組みそのものを問題にするフェミニズムを強調するのだが、世の中は、このリベラルの物語に沿って進行している。ジジェクにもでてくる「リベラル」は、リベラルが呈示する物語のシンプルさとも相俟って非常に恐くもあり強力でもある。「郵政民営化」なんてまさにそういうリベラルな物語のひとつだろう。中身ではない。全てを民営化せよ、の号令の中、「よいといわれているものはよいのだから賛成」が国民の意思というわけだ。こういう296自民党時代に、一人一フェミニズムと語る二人の声は届きにくい。


投票率67%で自民党議席296という日本におけるダンスシーン

2005年09月12日 | Weblog
という視点でこれからものを考える必要がある気がする。いや、マジで。

ともかく驚いた。もう少しすると政治評論家などによる分析などが目に入ってくるだろう。四年前の同じ日もテレビが消せずに夜中付けっぱなしだったが、昨晩もそうだった。

民主党の劣勢が意味するものは。

パフォーマンスの時代なのだと思う。このことを、「小泉劇場」という言葉で何となく分かった気になるのではなく、じっくり考えておきたいものだ。政治とは政策である以上にパフォーマンスである。このことの意味。

投票率75パーセントの先

2005年09月11日 | Weblog
と勝手に、「75%くらい行こうよ」と思っているだけなのだが、どうだろう、ないか。

朝起きると宮沢喜一がET度をさらにました表情でテレビに出ていた。ぼくはこのひとなんか好きだ。政治家と言うより評論家な顔をしていたな、総理の時も。いや大事なのは彼の表情ではなく、その中ででていた話。いまアメリカはハリケーンによって、富める都市のひとびとと貧しい地方のひとびとの格差あるいは政府からの愛情の違いがはっきり暴かれた。さて、日本はこうした富めるものはもっと富み、貧しいものはテキトーに生かすだけのアメリカ型の社会にするのか、あるいはあまり派手ではないけれど、マイノリティの擁護もするヨーロッパ型の社会にするのか、いま焦点はここにあるという。面白いのは、ザ・自民党だった亀井氏などはこうみるとヨーロッパ型で、小泉はアメリカ型という見方が出来ると言うことだ。変なのー、なるほどー。

すると明らかに、貧しきもの、マイノリティーに対して冷たい社会が小泉ビジョンのひとつの顔であるのに、小泉は批判されるよりもむしろ支持されているようだ(真の結果は夜出ることになろう、が)。要するに、貧しきものが貧しきものを斬り捨てる小泉を支持するというネジレが起ころうとしている。それは一体どういうことか。

どうも、こうらしい。むしろ問題は野党。民主党にせよ、新党日本の田中康夫にせよ、彼らが一生懸命アピールするのは、自分たちが小泉に比べいかにクレバーか、ということ。どれだけ秀でているか、優秀か。これがよくないみたいなのだ。あるところ(ブログ)で、小泉はニートと呼ばれる若者達からの支持も得ているという。ニートと呼ばれる若者達(って嫌ないいかただなー、一応便宜的に)は、エリートに対して不信感がある。すると、ちょっとおっちょこちょいなところがある小泉の方が親近感が持てる。秀才くん達にバッシングされている彼の方が好感が持てる。要するに、政治も「ダメ」の時代なのだ。でも、ダメなやつがいい、というパラドックスは、スゴイ暴力を生む、自分を斬る剣をもつ者の剣を磨いたりしてしまう。

でも、本当に75%の投票率でもし自民党圧勝という事態になったら、相当不気味なハリケーンになるのではないか。

勅使川原三郎『Bones in Pages』(@神奈川県立青少年センター)

2005年09月10日 | Weblog
を見た。

十一年前に初演された作品の再演。やはり、その時代の雰囲気を濃厚に漂わせている。それは舞台美術。乱雑に積まれた本、その手前には、ガラスが突き刺さった机。その前に座る勅使川原の頭が光る。明るくなると、見えてくるのは奥に四角く並べられた白い瓦のような本、右には後で黒い靴と分かったもごもごしたものの山。左の壁面には本棚のようなスペースがあり、開かれた本がぎっしり詰まっている。正面、透明なパネルに真ん中からカットされた机と椅子。これも途中で分かったことだが、こういうオブジェ群がそろえられた舞台は客席と細かい目の網で隔てられている。白い清潔感のある空間。そこにいる、黒い勅使川原、とカラス。

あのころ、例えばアンセルム・キーファーとかインスタレーション系の現代美術が流行した。アフター・トークではイリア・カバコフと並んで展覧会をした話も出たけれど、そういうある種の現代美術として、安定したイメージと説得力を持つ。まず、こうしたことについて言及しておきたくなる。

基本的にソロ作品であるということがもちろんあるのだけれど、こんなに勅使川原のソロが堪能できたのは久しぶりな気がした。理屈抜きに、彼が運動しているのを見るのは楽しい。わくわくする。なんだろう。非常にいろんなものが見えてくる。統制された身体がちらつくかと思えば、軟体動物みたいな逸脱が頻出したり、マイム的なコントロールとそのコントロールがあるビジョンを見せる前にビジョンがくしゃくしゃになったりする。動いているをみて楽しい、というのはいい。見ながら、このひとはイメージと戯れているのではないかと思った。普通ダンスは振付というものがあって、それに身体を沿わせる。振付にゴールがある身体の統制は、見ている側にはあまり魅力がない、ときがある。それに比べると、イメージとの戯れに身を置くことは、イメージとの距離感を自在に移動しながら、遊んでいる感じが濃厚に伝わってくる。この点、暗黒舞踏にもそういう方法がある。勅使川原は暗黒舞踏よりもずっと自由に作品を作っているけれども、この点に関しては重なる点をもっているように思った。

もの(本、靴、机、椅子、ガラス、、、)とダンサーは、簡素な場をこうやってつくればそれだけ、違和感を感じさせる関係だ。ダンサーはどうしようもなく意図をもつ、意識をもつ。ものはそれから自由だ。勅使川原はものへと身体を引き戻そうとしている気がした。ものへと向かうダンス、という矛盾。いや、ダンスは意識的なものの中にある意識を超えた部分?ものとダンスをとりもつのが、カラス?という風に感じた。カラスは勅使川原を見ている。このカラスという最高に自由な観客に勅使川原は自分のダンスを見せたいのでは?とさえ思わせる。カラス、実によく作品にかかわった。激しい音に怯え、近づくダンサーに警戒し、一端逃亡し、再び不意に戻ってまた見ている。ものとダンサー、観客とダンサーとの中継ぎ役として、このカラスの役割は大きかった。

ああ、いつも簡潔に書こうとしてだらだら書いてしまう。

夜は三陽。今日も盛り上がっていて、元気になる。厨房の奥のウィレム・デフォー(!)似の餃子担当の店員は、ぼくと目が合う、と決まって「餃子すぐ出来るから」と遠くからつぶらな瞳で語りかける。頼んでないよ、とこちらも目で応える。このデフォーのつぶらな瞳に今晩はうなされるな、きっと。

『ファイト・クラブ』

2005年09月08日 | Weblog
をみた。とうとうみた。

なぜ避けていたのか。分からない。いや「避けていた」のか?んーともかく、「避けていた」と言わずしてこれまで見ていなかった事態をうまく説明できない。ぼくのなかの何がこれを避けるよう促していたのか。んー、本当のぼくが?ブラッド・ピットみたいな顔したもうひとりのぼくが?

と恥ずかしいことにはじめてみました、告白します。「自傷系」映画?いや「暴力(バイオレンス)系」映画?ノー、ならば、「革命系」映画、うん、そう。あるいは「自傷」的「暴力」こそが「革命」の道である、というメッセージ(故に青春)映画。ジジェクの『迫り来る革命』はこの映画からさまざまなエピソードをもってきて自分の思考をうまく例示するのだけれど、いや、そうではなく、ジジェクはこの映画を哲学的に翻訳・解説しただけなのではないか、とさえ思えてくる、そう思うとますますスゴイと言わずにはおれなくなる。

あと、各所に散りばめられたノイズ。ブラット・ピット扮する男は、映写技師で、アニメ流しながらその合間に一枚だけポルノのフィルムを混ぜる、というサブリミナルないたずらをしかけたりする。それって、ただ「いたずら好き」って話じゃなく凄く本質的なものなのでは。要するに、映画のスクラッチ=唯物論、なのではないか、それは。こういうエピソード以外でも随所にこのサブリミナル・ノイズが起こる。幽霊があらわれる。いや、それはただの「もの」なんだぜ。フィルムがただ一枚一枚とめられてはすすむを強烈な光の前でしているだけなんだぜ。そういわれているような気がする。そんな映像のなかでは、男達がひたすら町中でいたずらを繰り返す。そういう仕方でのテロ。本当のことへと向かってひたすら闘うためのマニュアル映画。こういう映画を商業映画としてつくらせてしまうアメリカのすごさ、っかクレイジー。

別役実『ベケットと「いじめ」』白水Uブックス

2005年09月06日 | Weblog
を読む。再読。

この本の素晴らしさは、十年くらい前から知っていた。田舎の市立図書館で、大学院生なりたてのそわそわとしつつひまだったぼくがつい手を伸ばして出会ってしまった、一冊。その頃既に絶版状態で、上智大学で身体論研究会なるものを二年ほどやったあのころ、最初にぼくがとりあげたのがこの本だった。この本で身体の問題を説くなんてちょっと変なこと考えていた、どんなこと考えていたのかの細部は、あれ、もう忘れてしまった!

これが再び白水Uブックスのなかで再販された。素晴らしい。でも、どうも以前読んだ感動がない。どどうしたことだろう。少し自分でもとまどった。

この本にぼくがもっとも影響を受けた考えは、近代的な自己主張をする主体ではなく、現代は「いじめ」の人間関係をからあきらかなように、明確な主体があらわれない、関係のなかでそれぞれが個ではなく弧になってしまっている、といった認識だった。主体が消え残るのは関係だけである、それが現代。そうそう、と思っていた、これは別役経由のポストモダン的思考だと思っていた、それに随分影響を受けてきた、つもりだった。それがいつの間にか、これでは物足りなくなっていた。今回読みかえして、そのことに驚いた。

近代的な主体が消えても、欲望が消えた訳ではない。欲望が我が物顔で振る舞っている、それが現代なのではないか。この「我が物顔」で振る舞っているものに、「主体」というステイタスを与えることは難しいとしても、主体に準じた何かをここに読み込みたくなる。いわば、公的な主体に対して私的な主体とでもいうべきものが、いま溢れている。閉じた自己、関係さえも否定しているかに見える、そういうひとびとの状況。

もしこれが2005年の現代だとすれば、『ベケットと「いじめ」』の「現代」からは少しズレはじめている。それは、事実だろう。ああ、どれほどぼくたちは遠くへ来てしまったのだろうか。

とはいえ、この本の価値は、こうぼくが批評したとしても減じるものではないはずだ。ぼくは隔たりを感じつつもここから出発したんだ、とも思いながら読み続けた。ここが、ぼくなりに出発点だ。考えることの、現場でかんがえることの。

『クレールの刺繍』

2005年09月06日 | Weblog
を見る。

こんな映画なのです、が。
理由があって、Aのブログにはぼくの書くものよりも具体的で的を射た紹介がのるのではないかと思うのだけれど、個人的な感想を若干。

冒頭、水を吸った黒い土塊が映る。パンするとそこはキャベツ畑、主人公の女の子クレールがキャベツを収穫している。「収穫している」ことよりも、キャベツの葉の質感、そこから発出する香りが際だつ。この映画は、何よりも感覚の映画なのだ。

感覚の映画。徹底してカメラはズームアップして「もの」に迫る。クレールが赤いソバージュの髪をむしるところがある、それは、彼女が抗ガン剤を飲んでいるのだと嘘をつくというシーンのなかでなのだけれど、映像はその物語を表象する以上に髪の質感の呈示に向けられる。純粋に「もの」の映画、「もの」を「感じる」その出会いの映画、シンプルな一本道の物語は、この出会いを映画にするためのファンクションに過ぎない(幸か不幸か監督が物語を描けない、ということでもあるのかもしれないが)。

刺繍というのは、徹底してその感覚の世界なのだ。糸は半ば強引に、さまざまな素材、さまざまなかたち、さまざまな色を出会わせる。その魅力は少し開くことが出来たが、その恐ろしさまで観客に突きつけることは出来なかった、かな。

小川紳介が撮っていたら、あるいはこの監督が小川を愛していたら、きっとスゴイ映画になっていた、そんな映画だった。