Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

日本から離れます

2006年09月21日 | Weblog
9/24から10/4まで、日本を後にします。ヨーロッパで学会発表をしてきます。

その関係で、メールを見られる状況につねにあるとは確約できませんので、ご用のある方はご注意下さい。できれば、自宅の電話にかけて下さい、家の者(A)が対応します。


ブログも更新できるか。できたらちょっと面白いんですけど。

ということで、幾つか気の早いインフォメーション。

その1。webマガジンwonderlandに庭劇団ペニノの新作について文章を書きました。24日からではなく27日からメルマガで読めることになっているはずです。

その2。『TVBros』がダンス特集を組んでくれました。27日発売と聞いてます。インタビューや幾つかの原稿を書きました。

男三人+砂連尾+寺田

2006年09月18日 | Weblog
9/17
Three men's Choreographyという企画を夕方見た(@吉祥寺シアター)。

梅田宏明『Duo』
金魚『dulcinea』
まことクラヴ『事情地域』

その後、雨の中傘を持っていなかったせいですっかりずぶぬれになって、ハーモニカ横町でビールを一杯飲んでパルコで音楽関係の本をしこたま買って、駒場東大前へ。途中で偶然的にAと合流、携帯の充電が切れていたんでよかった。

砂連尾理+寺田みさこ『I was born』(@駒場アゴラ劇場)を夜に見た。

帰りには、最近お気に入りの下北沢の広島風お好み焼き屋に行く。少し胸焼け。

ダンスは聴覚的なもの2

2006年09月15日 | Weblog
以下、ほとんど自分用の備忘録です。

ダンスが聴覚的なもの(非視覚的なもの)であるとすれば、それはまずは内的なもの、受容するもの、受け止めて感じて体が動くと言うことだろう。ジャドソン・ダンス・シアターの全てに当てはまるかは分からないけれど、例えば、トリシャ・ブラウンがこう言うときに、これはまさに、受動的な運動の内的な感受からダンスが始まっていくプロセスとして理解できるだろう。つまり、ディスコでミニマルな反復的な音楽を聴いているうちにハイになっていくように、箒を動かしているうちにブラウンの体はハイになっていた。

「アナ[・ハルプリン]のところでは、インストラクションのないまま押し箒を持たされた。このワークショップは夜3時間続き、夜中にうるさくしすぎて、警察が来て一部は止めさせられたり。テンプル山の野外デッキで。ハマってしまって一時間でも、もっと長い時間でも、デッキの隙間から埃を掃き出す作業をやっていた。そのうち私はもう箒とその行為とアクションと一つになってしまい、箒の柄を軸にして、後ろ足でつっぱって、自分を空間へ押し上げ、箒を持って宙に浮いてしまいました、箒も体も床に水平の位置でね。これは、とても深い、深い経験となりました。」(DVDパンフ)

で、こうなってくると、ジャドソンのミニマルなダンスは、見せるものとしてよりは感じるものとして、つまりここでのダンサーは観客を意識した存在と言うよりも、むしろ自らが観客のようになってダンスを感じる存在だということが明らかになってくる。だから、タスクな動きを進めていくことは、それを見る側以上にやる側にとってダンスを生む方法なのだ。タスクな動き、言い換えれば単調で機械的で一定の速さの無味乾燥した動きが心地よくなってくるのは、ダンサーの側だ。見る者は、ダンサーが内側で気持ちよくなっていくのを外側から眺めなくてはならず、そもそもが非視覚的な何かを視覚的に受け止めざるを得ない。観客は傍観せざるを得ない→観客は退屈を余儀なくさせられる。

風のようにさっていった

2006年09月15日 | Weblog
KATHY'S HAPPENING EVENTに行った。原宿ナディフのレジ前スペースで、一曲、本を抱えながら踊った三分。踊りはカワイイのに、ときどき落ちちゃう本は結構「ドサッッ」と強い音を立ててちょっと驚かされる。痛快。で、この曲が終わるとまさに風のように去っていった。観られなかった人、多数。観た人もどうしていいか分からずしばらく店内をブラブラしてたりして、Kは残酷だよなーっとこれまた痛快な気持ちになったり。

で、あの本当は内緒にしたいというか、あまり余計な人たちにはお伝えしたくないことなんですが、10/7 17:30より横浜美術館でKATHYがイベントやるらしいんですけど、なんかスゲーことするそうです。三人のひそひそ話を楽屋に潜り込んで盗み聞きしたんですけど(嘘)。核心部分聞いちゃうのがもったいなかったので、聞いてません、ぼくも具体的には何をするのか知りません。が。一回しかできないこと(?)するんだっていうので、KATHY好きの人だけでわくわくしながら見に行きましょう。

ダンスは聴覚的なもの

2006年09月14日 | Weblog
テクノ・ミュージック、あるいはブラック・ミュージックを主軸とした世界の音楽の本を読んでいると、そこには頻繁にダンスないしダンス・ミュージックという言葉が出てくる。次第に、ダンスとは音楽の中の何かなのだと思い起こさせられる。当たり前といえばそうなのだが、一旦音楽との縁を切るという仕方でアート系20世紀ダンス史ははじまるということもあり、その当たり前に気づくことがなかなか出来なかったりする。

ダンスとは音楽の中の何かだ、とすれば(こう言うとこの時点でじゃあまず「音楽」とは何か?というとてもでかい問題に答える必要が出てくるわけだけれど、とりあえずペンディングしておくとして)、ダンスとは聴覚的な何かなのではないか。あるいは少なくともインナーな、身体内的な、非視覚的な何か。だとすると、ダンスを見るものとして捉えることから出発しているダンス観というのは、何か最初からはき違えを伴っていると言うべきなのかもしれない。ここに、つまり本当は聴覚的な何かであるモノを視覚的な何かであると勘違いしているところに、ダンスというジャンルが抱える「こじれ」があるいは少なくとも問題や課題や破るべき壁(いじくりがいのある何か)が潜んでいるように思う。

ぼくが言いたいのはだからこういうことだ。視覚的な価値基準で作り出すとダンスはダンスではなくなってしまう。形の美しさはだからどれほど美しくてもダンスがダンスでなくなる瞬間(可能性)なのだ。ダンスがダンスでなくなる?面白いじゃないか!という言い方も出来る。それがダンス的快楽を批評的にブレイクしようとする戦略であるのならば。でも、ダンスがダンスでないのに何か形式的にそれをダンスと呼ぶというのは、形骸化であり様式化であり、ただの非ダンス化である。ダンスであり続けようとする身体は、よって聴覚へと再び変換されうる視覚的要素たらねばならない。それは相当デリケートさを要する試みだろう。体がダンスになっている、音楽になっているのでなければならない(さて、再びここで「音楽」とはじゃあ一体何?と問いたくなる、リミックスも音楽だとするならば、音楽する身体とはリミックスを繰り返す身体でもあるだろう)。

磯部涼『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』

2006年09月13日 | Weblog
最近、これを読んでいる。読んで簡単には言えないことをたくさん考えている。このことと、9.11を取り上げたTBSの番組(ちくしーとあずみーの)で繰り返し崩壊する建物の映像を見ていたせいもあるかも知れないが、今日は午後から雨の渋谷でぼーッと時間を過ごしているうちにどんどん気分が落ちていく。「殺伐」とか「崩壊」とかその手の言葉が浮かぶ。ipodでテクノ聴きながらぶらぶらしていたのもあるかも知れない。テクノは(あったり前のことしか書きませんよっ)ゼロの音楽だ。乾燥した感情ゼロの音楽だ。これが車に乗るときに気持ちいいのは、いつだろ、もう四年くらい前になるか、ある人物と車で群馬に日帰りした高速で知った。電車に乗るとそれもあっていると思う。けれど、一番いいのは歩いている時じゃないだろうか。「ドッ、ドッ、ドッ、ドッ」と刻む音に「右足、左足、右足、左足」と合わせて進む、これがいい。音楽とはリズムだ、ともし言えるのならば、そのリズムとはひとの体が両手、両脚をもつシンメトリカルな形姿であることに端を発するものなのではないか?と考えたくなる。つまり音楽とは右と左だ、と。右足の次に左足を伸ばすその瞬間は不安定さを隠し持っている。ここに、ブレとかズレとかが蓄えられている。「えっちらおっちら」の不安定こそスリルある音楽でありダンスではないだろうか。サッカーのシュート・シーンを見ていていつも思うのだけれど、優れたストライカーは、右足と左足のコンビネーションがいい。ダメなのは、左足を踏み込みすぎて右足がボールとの間隔を捉え損なっているなんて時で、リズム感がサッカーなのではないかとさえ思えてくる(バスケなどはその最たるものだろう)。なんてこと、テクノ聴きながらBunkamuraの脇を通るときに考えた。即物的であり、感情ではなく位置どり、というか寒暖ではなく高低しかないテクノの展開は、それ故に、音楽におけるリズムの問題へまっすぐ向かっていく。とはいえラテンな何かもあるけどそれより大抵はやっぱり音自体は機械的な一定のリズムでしかなかったりするんだけれど。

ひとつ、例えば。「つーか、すべては同じなのである。菱沼彩子も、モユニジュモも、DJバクも、ECDも。ブラック・カルチャーに真直ぐな愛を持ちながら、なぜかそれを表現しようとするとどこかネジまがってしまうという点で」とか。この「ネジまがってしまう」に対してどれだけ真直ぐ(正直)であるかが重要だという点は(コンテンポラリー・)ダンスのシーンでも同じだ、きっと。でも、ねじ曲がり方が「型」になって「J」何々とか呼ばれたりするのはまたつまらない。この「つまらない」は、SFPの今里が「土方パンク」をカウンターの対象として考えていたなんてあたりを読むとその形がリアルに見えてくる。何か形(様式)をもってしまった「パンク」なるもの、にがっかりした気持ちというのは90年代の後半にある種のひとたちはみな共有したものではないか。大学の五歳くらい歳下の後輩とそんな話をして盛り上がったのを思い出す、「嫌いな音楽はパンクです」ととんがってたその後輩が漏らしたときのこと。じゃあなになら「つまらなくない」か、といえば、やっばり形無き形を求めていくことなんだろう。それもイデア的な何かではなく、常に即物的な「無き形」「無名のもの」だろう。まあ、きわめてまっとうで恥ずかしいくらい当たり前のポイントだと思うのですけどね。とか、読みながら考える。

帰りに、西川美和監督『ゆれる』を見た。非モテ男の兄とモテ男の弟の話かと思ったら、いかに弟はおっちょこちょいでダメなのかという話だった。思い当たる節満載で、ちょっと落ち込む。

ヲタ芸

2006年09月10日 | Weblog
ヲタ芸というのは、これどうなんでしょうか。
これとか
TVもこーやってフォローしてるんですか。
いくらでもYou Tubeで見られますね。まじめにフォローしてなかったんですが、これあきらかに80年代的な何かですよね。秋元康的なアイドル・ブームのもっていた形式がこういう仕方で伝承され、いまに生きている。バカ・ダンスだなー、でやっているひとたちは実に楽しそう。このオタクがダンスするという一種のパラドクス(?)は気になるなー。二番目の映像でオタさんがヲタ芸を説明するのに「熱く強く面白くキモく応援するわけです」といってる。自分の「キモ」さをあえて面白がる自虐的だけど明るい居直り(いい汗かく)がダンスになってる。ん、自己反省はある、けどそれが自己肯定にすぐ接続されてしまうところがオタさんぽい、それだから、欠けているのは批評性ということになるのか、、、
Wikipediaなど見ると最近メディア的に話題になっているのにはいろいろな「絡み」があるよう。

ダンスするオタク

ということと、

ヲタ芸のもつ言葉遊びのセンスが80年代ならばサブカルがになっていたものではないか、つまりサブカルなオタク

ということとが、気になるわけですよ。


ところで昨日は、枇杷系『FOOL'S PARADISE』(@吉祥寺シアター)を見た。枇杷系というとぼくは天野由起子が四、五年前丁寧な作品づくりをしていたなと、そのことをまず思い出す。作品性を重んじる枇杷系という一面。それと、その作品性とは異なる即興性を重んじる枇杷系の側面もある、でそこにひととひととが出会う、とかその際に個々の多様性を大事にする的な印象を生んでいるのだろう。ぼくはいま作品性(起承転結的な展開とか、何らかの意味をそのひとまとまりの時間に与えることとか)もあまり興味がないし、即興にもあまり興味がない。だからだろう、魅力を感じることが出来なかった。すごくシンプルに言うと、作品性も即興性もやっているダンサー側の問題にしかならず(あるいは、にしかならなかった)、だからそれらは見ている観客との関係の問題には転がっていかないのではないか。「見せている」という意識はあっても「見られている」という意識が希薄なのではないか。

野田努『ブラック・マシン・ミュージック』

2006年09月08日 | Weblog
この三日くらいはひたすら家に引きこもってノート・パソコンの前で唸っているのですが、時間は作っているのに進むべきものが進まなかったりしてます。体が滞っていると思考も滞るんですよね。運動しに行った方がいいんだろうなーと思いつつ、やけに熱をもっちゃってるパソコンの前で余計なことばかりしています。

ひとついま楽しみになっているのは、野田努『ブラック・マシン・ミュージック』(河出書房新社、2001)を読むこと。素晴らしい。六十年代後半から九十年代にかけてのディスコ、ハウス、デトロイト・テクノのことをまとめた、超大作。一人で書いた本で500頁弱もある!すごい、頭が下がる。でも、尊敬してしまうのは分量だけではなく、本当はかなりマニアックな話だろうことをロジカルに整理し、実に読ませるのだ。こういう本、なぜダンス研究の中から出てこないのだろう!哀号!

それでも、やはり音楽本を読んでいると出てくる音楽が聴きたくなる。そんなときに本当にi tuneとかって便利だよなーと思う。サンプルが聞けるだけで理解がぐーっと広がっていく。すごい時代だ。十年引きこもり状態で自分の好き勝手な研究して人を驚愕させるような本を書いてしまったなんて話、あってもおかしくないですね、今の時代。可能性ばかりダダ広がりしている。

さっきも「チャールストン」ってダンスのジャンルが気になったのでYou Tubeで検索してみるとやんなるくらい出てくる。ダフトパンクがPVでチャールストンのダンスシーンをリミックスして使っているのが出てくれば、しばらく調べているとその元ネタのビデオも出てくる。
これが元ネタ、Al Minns & Leon James
こっちがダフトパンク
見ていてほんとにチャールストンて力が抜けてて(とくにこのAl Minns & Leon Jamesのなんか、何という繊細な腕のダンス!何というブロークンな脚のダンス!)いいダンスだなあと思う。

で、野田本に戻ると、この本の冒頭で語られているのは「キル・ディスコ」のこと。ディスコは音楽を汚している、そういう非難をダンス・ミュージックは受けていたと言うんです。例えば、ジェームス・ブラウンは、こう言っているそう。

「ディスコは私がやってきたと彼らが考えていることや、私がやってきたことの多くを単純化したものだ。ディスコはファンクのほんの部分でしかないんだ。何よりもそこには歌ってものがないし、反復に過ぎない。男をたらしこめる妖婦のようなものだ。ファンクとの違いで言えばグルーヴに入り込めるかってことだ。ディスコは表面的なんだ。彼らは私が教えたことをやっているが、私が教えたすべてをやっているわけではない。ディスコは私をさんざん傷つけた」(18)

ディスコの快楽主義は音楽の意味性を無視して機能性のみに着目した。

「意味性を欠いた機能的で快楽的なふたつの大ヒット曲[註 マッコイ「The Hustle」とドナ・サマー「Love to Love You Baby」。そう言えば、この曲のタイトルからハッスル・ダンスを調べている内に「チャールストン」へと流れていったのだった!]によって、本格的にディスコ・ヒットの時代がはじまった。」(62)

このディスコ批判は例えばさらにこういう言葉へと繋がっていくんですね。

「アーティストの自我が滲み出た実存主義的なロックよりも、当たり障りのない歌詞の匿名的で快楽主義的なダンス・ミュージックのほうがやがて売れるようになってしまったのは、先に引用したナイル・ロジャースの発言が物語っているように、裏を返せばリスナーがもはや音楽のなかに変革への期待や社会参加を望まなくなったからだった」(62)

でも、音楽の意味性、自己表現性を無視するダンス・ミュージックは、社会変革を全然望まないノン・ポリ保守層の音楽ではなく、むしろマイノリティが意味の呪縛から解かれてただただ忘我的に、ダンスする快楽を貪るための解放区を生み出す音楽だったらしい。ゲイカルチャーがディスコ創出に大きく荷担していたことをチェキしながら野田さんはこうこの辺りのことを整理しています。

「そもそもこの文化は絶望的状況から発したものなのだ。自分たちにとっての自然である状態が異常と見なされる世界に絶望しないゲイなどいるのだろうか。たとえそれが消費の快楽であり刹那的なものだとしても、この世には刹那的な美しさというものもあり、その一瞬の快楽のなかに人生のすべてを賭けることもあり得る。そして、その刹那性は、ダンス・ミュージックと呼ばれる音楽を確実に磨いてきた。痛みから徹底的に遠ざかろうとするこの音楽は、長い年月のなかでいくつもの煌めいた瞬間を生み出し、多様な音楽性を獲得してきた」(24)

刹那的にその瞬間のダンス的快楽だけに希望を持つという絶望に端を発したカルチャーがディスコだ、というわけです。

このこともすごく面白いのだけれど、ぼくにとってさらに気になるのは、ディスコ・ミュージックの反復性とミニマル系のアートやダンスの反復性がほぼ同時代的に生じていると言うことです。つい数日前、「あっ、そうじゃん!」と気づいたのです。前者はサブ・カル(アンダーグラウンド)、後者はハイ・アート(でもマイナー)、分野やそこに集う人たちは異なれど、反復性に活路を見出しているのは共通しているのです。しかも、この反復性によって自ずと否定されていくのが意味性(あるいは自己表現性、また物語性)ということも共通しているのですよ。

「反復とシンコペーション、ブレイクの使い方や音の抜き差しなどは、まったくその後のダンス・ミュージックを予見しているようだ。」(47)

考えてみれば、ターンテーブルの発明というのは、一曲を全体として捉える発想から自由になって、いつまでもある曲のあるフレーズをひとつのユニットとして切り出してきてただひたすらそれを反復して流すことが出来ないかという欲望に端を発しているのであり、ミニマル・アートのもつセンスと接することは大いにあるはずなのだ。て、思うと(すごくマニアな議論展開になっていますが)、現代美術批評家マイケル・フリードが『芸術と客体性』(1967)で取り上げたトニー・スミス(ミニマル・アーティスト)のセンス、高速道路をただひたすら疾走する経験にそれまでの既存の芸術経験以上の何かを感じ取るセンスに似たものを、次の文章に感じてしまうのです。

「突然わかったんだ、完璧な音楽とは何かってことがね。それは夜明けから日没への流れのように、いかに真昼を創出するのかということでもあるんだ。そこには時間があり、その時間は強くもなり、柔らかくもなるだろう。日没がやって来て静かになるとコオロギが鳴くように、ぼくはそれをリズムの感覚とした。そう、感覚の知識とね」(43)

サウンドシステムに最初に興味をもったDJとして紹介されているデヴィッド・マンキューソのこの言葉はぼくにとって、ディスコからクラヴやレイヴへと繋がっていくカルチャーとジャドソンダンスシアターからローザスやほうほう堂などへと繋がっていくカルチャーとの「重なり」を意識させてくれるもの。60年代に生まれたミニマルのセンスが、ひとつは快楽主義的な傾向へともうひとつはアート=批評主義的傾向へと分岐していった、、、なんて考えられるのだったら、これ、ずいぶん面白くないですか?

日々

2006年09月06日 | Weblog
ダンス特集をするなんて全くあり得ない雑誌(でも個人的には超ファンだった、コンビニに行けば必ず立ち読みしていた、、、立ち読みですんません!)がダンス特集をするということになり、インタビュー取材やその整理、コラム原稿などの仕事が突然入って、面白いけど以前に考えていた予定はかなりぐちゃぐちゃに崩れてしまっている日々。ということで、なかなかブログに記事書くことが出来ない状態が続いております。でも、いろんなひとのお話を聞いたり、質問をしたりしていると、「地殻変動」とでも言うべき事態が起きていることに気づくんですね。もう来年は、「コンテンポラリーダンス」という言葉は消えて新しい言葉が生まれているかも知れないって、それくらいの「変動」は本当に起きる気が。多分、どれだけ真摯にリアリティあるものを感じ続けようとするか、そこに各人の真価が問われてくるように思います。なんか漠然とした話ですが、去年の秋『美術手帖』でダンス特集をしたときの気分とは全く違う何かが内側に沸いてきているんです。あのときは、これまでのシーンをひとつの視点で総括しておきたいという気持ちがぼくにはありました。それは確かにひとつの形をしめしたとぼくは(勝手に!)思っています。それで今年の一月頃か『ELLE JAPON』にいまのダンスを紹介する記事を書いたときには、何か本質的に新しい状態というものへの予感を感じながら書いていたのだけれど、いまその「予感」はかなりリアルな姿をともなって迫ってきているんですね。

ところで、
高橋しん『最終兵器彼女』を恥ずかしながら今頃完読しました。感動しました。逡巡。あとマンガのメディア的可能性について。Aに勧めたらおととい読んでくれました。本当にこれだからロリ・マンガはだめなんだよ、と怒られました。んー、そう言われちゃうと二の句が継げませんでした。Aが『最終~』読んでいる間、ぼくは古谷実『シガテラ』読んでまして、また感動してしまいました。いじめられっ子が普通に恋をしてそれを成就させ温めていくという話。あらゆるネガティヴなものに取り囲まれながらときどきそれらに浸食され傷つけられたりしながら、でも前を向いていくという至極まっとうでよい物語だと思いました。ちょっと「マンガ熱」中です。

あと気になって昨日珍しく『キネマ旬報』なんて買ってしまいました。若手女優特集。いかに長澤まさみは素晴らしいか、ということをみうらじゅんや森直人が語っているんですけど。映画が復活するって言うのは、つまり映画女優が復活するって言うのはなかなかすごいことで、今後の日本ちょっと楽しくなりそう、ってな期待してしまいます。ある女優の一瞬の表情がその時代を表象してしまうなんてことあると思うんですけれど、そして80年代とはそういう時代だったと思うんですけれど、また復活するんですかね、それが。と。

『アパートメントハウス1776』

2006年09月02日 | Weblog
アルディッティSQ+ケージ+白井剛『アパートメントハウス1776』を見た(8/31)。クラシックというか弦楽器の生演奏を聴くのはすごい久しぶりだったので、新鮮で、とくに前半に演奏された3曲中(他はベートーヴェン「弦楽四重奏曲 第13番 作品130「大フーガ」」細川俊夫「花の妖精 弦楽四重奏のための」)、西村朗『弦楽四重奏曲 第2番「光の波」』(1992)が面白かった。四人で一つのフレーズを弾くといったパートがしばしば出てきて、それは音の列を一旦切断し再び繋ぐといったもので、パフォーマンスとしては「ギュン、ギュン、ギュン、ギュン」と響くところに四人ぞれぞれが弓を振り下ろし「ギュン」「ギュン」「ギュン」「ギュン」とやる、そのストロークがユーモラスにも見え楽しい。全くの門外漢の戯れ言ですが、なにやらノイジーなものを物理的にもて遊んでいるその風情は、スクラッチのそれとにているように思ってしまった。

後半に、タイトルの作品が演奏され、そこに白井のパフォーマンスが組み合わされていた。この曲は、アパートのたくさんの部屋からそれぞれ別個の(ルーツをもった)音楽が聞こえてくる、といった趣向から生まれたものらしい。浅田彰の批評文でそのことを知った。ならば、全44曲中の20曲を横並びにして演奏する事自体、ケージの意に添わないもののように思うし、実際聞いていて、シンプル(ミニマル)な演奏が淡々と続くだけだな、という淡泊な印象しかなかなか持てなかった。それをケージの意に添う「ミュジサーカス」にしたのが白井だというのが浅田の論旨。ぼくはそこまでの想像力を喚起されなかったけれども(予備知識があれば違ったのかは分からないけれど)、白井の重さを失ったかに見える身体がはらはらと四人の演奏家の回りを漂う姿に、白井らしいデリケートさとそれが人々を柔らかく繋いでいくしなやかな力をもっていると実感した。一見すると紙ヒコーキや鏡のようなバルーン(最近白井のお気に入り)やマイム的な動きや、モダンにも見えてしまいそうな内的な感情のままに踊っているかに見えるところなどは、わかりやすすぎるくらいわかりやすく「かわいい」とか「男の子」とかの言葉を観客の内に引き出してしまう。けれども本当に魅力的であるのはそうしたアイテムを使う手つきにある。場を作る力。とくに白井が舞台端に抜け、五つのバルーンと演奏家だけで、限りなく無音に近い演奏をした辺りの何とも言えない繊細で落ち着いた空間が生まれた。その場を作る力は、なんだか発条トの初期の作品で白井はあまりでないで、独特の全てのひと(ダンサー)が尊重されている場を作ろうとしていたあの感じを思い出させた。白井はごり押しを徹底的にしないで舞台にいるという考えてみれば極めて難しいスタンスを守ろうとした。それを感じる瞬間瞬間の彼は本当に魅力的だった。その魅力を観客がしっかりと確認したのは、最後の最後、アンコールに応えて短い演奏があったとき、白井はお辞儀で垂れていた首を次第に上げるだけというパフォーマンスをただした、そのときだった。すごく納得がいった、そしてそのことが大きな拍手を引き出した気がした。