最近はブログの方が更新進んでいませんが、何人かの方からそれのために「忙しそうですね」と言われてしまいまして、ちょっと反省しました、今日は何か書いておこうと思います。
夏休みに入り、やりたいことをリスト化するとなんだか100日くらい欲しいなあと思わせるものになって困ってますが、佐々木敦さんの活動などを脇で見ているとそんなこと言ってちゃだめじゃんと反省させられたりもして、がんばってやっていこうと思います。
〈夏休みの宿題〉
A 後期の講義で80-90年代文化論が出来るように、資料整理をする
B 後期の講義で話が出来るように、現代女性ファッション誌分析を進める
C 後期の講義で話が出来るように、現代女性ポップ・アーティストのパフォーマンス論をまとめる
D 大学で行っている自主研究会(通称KAT)で文化祭イベントを行うのとメンバーと雑誌をつくり、文フリで売る計画をたてているので、それを進める
E 翻訳作業
F BRAINZ本『フィジカル・アート・セオリー入門』の出版
はー、多いですね。Fはいまのところ、第2校をチェックしているところでして、、、ずいぶんと遅れてしまっていますが(図版を収集するのがことのほか大変だったのです)、、、どうにか火急的速やかにやっていきます。Eは、ちょこちょこですね(Ramsay BurtのJDTを出したいのですよ、本ブログ中に部分的に訳と解説をつけているあれを、毎朝起きて1時間やって行けたらと思います)。
と、宿題は宣言化しておくと少しでも実現するかも知れないので、そのつもりでつらつら書いておきます。
Aは、個人的にぼくたちの思考のOSがどう変化していったのかということを考えるためにやりたいと思っています。学生にとっては、何となく知っているけれども、よくは知らないものを、ちゃんと文脈含めて学生達に知ってもらうためにやりたいと思っています。80年代文化が現在の日本のポップ文化のベースになっているところは絶対にある。と、それと同時に、機能不全になっているところもあって、力を残しているものと形骸化しているもの、ぼくたちを束縛しているものとそうでないものとを具体的な資料をブラウズしていきながら分析していきたいのです。田中康夫『なんとなく、クリスタル』のことを以前このプログで取り上げたのは、その一環でした。この本に小説にもかかわらず厖大な注がついているのはよく知られたことですし、そのことを言及して、この小説を位置づけることはありふれたことです。けれども、あそこで言及されたさまざまなアイテムがいま私たちの耳にどう響くのかを実際に確認する必要があると思うのです。その響きの中に、OSの変化を察知する可能性があるような気がするのです。
当時のソフトをさまざま手に取ってみることを通して、ソフトではなくOSについて考えることをしてみたい。
例えば、さしあたり集めたひとつは『宝島』(1980-1983分)です。ここには、「サブカルチャー」や「若者文化」のひな形や「雑誌文化」のひな形が示されているように思います。ここで機能している「サブカルチャー」や「若者」とはかくなりという思考の形態、「雑誌」とはかくなりという思考の形態は、今日の眼差しからすればかなり機能不全を起こしている気がします。今年の『STUDIO VOICE』の休刊は衝撃的な出来事ですが、その現状は、こうした80年代初頭につくられた思考形態がいま空振り状態になっていることを明かしているような気がするのです。余談ですが、1980年頃の連載の中に「さだまさし、ニューミュージック嫌いのための 月評さだまさし」というのがあって、要はさだまさしをこき下ろすことで自分たちのアイデンティティを確認するものなのですが、このさだまさしと『宝島』公認アーティストでもあった佐野元春が昨日、NHKで「ソングライターズ」という大学の講義をベースにした番組で共演していたのは、印象的でした。きっと80年代にはありえなかっただうこうしたカップリングが可能になるのが、いまだとして、それがまた生産的な何かであるとすれば、ぼくたちはかつてのOSがアップデートされたことをよいこととして考えることが出来るでしょう。とはいえ、その「月評さだまさし」(渡辺利一)のクオリティはそんなにダメなものじゃなくて(例えば、1980年4月の第2回)、「唄を本気で抱いた」ショーケンのパフォーマンスと「演技力」をもったさだまさしとを比較していて興味深い。ちょっと長くなりますが、「演技力ではなく表現力のある人間が欲しいと映画監督の東陽一が某新聞で言っていた」と筆者は書いた後で
「このニュアンスの違いには整合された意識の管理下にある熟練した"演技"と、"生"の一回性ということを見据える危ういがしかし溌剌とした"表現"という意識とは裏腹の狂気とでも言うべきほどの差がある。そういう"眼"でさだまさしを見るならまさしく彼は相当の"演技力"を持ったシンガー=ソングライター(役者兼作家)であり、、、」
と続けるんですね。演技か表現か、意識か狂気かといった二元論がこの時代の重要なOSだったことは、明らかです。そして、恐らく、今日のOSはこうした思考を(そのままの仕方で)起動させることはほとんどないでしょう。だから、さだと佐野が対談できるとも言えるし(だからものごとをうやむやにしてしまう今日のOS はダメなんだとかつてのOSを起動させてみることもできるし)、だから、今や80年代のOS意味ないよとも言える。
なんてことを夏休みにぐずぐず考えてみようかと、思っています。
で、
Bは、まだほとんど世間的には発表していないのですが、この数年こつこつと研究しているものです。去年20冊ほどの雑誌をマップ化して整理してみたのですが、『CanCam』の不振や『Ageha』の躍進など、この分野の状況はこの1年でずいぶんと様変わりしていると思います。出来れば、マップをアップデイトしておきたい、というのがBの宿題です。学生たちと「現代女性ファッション誌研究所」をひらく(といって狭い個人研究室に集まっておしゃべりするだけなんですけど)のがひとつの目論見です。
で、
Cは、去年の講義でもやった「見られる存在としての女性がパフォーマーとしてどのような戦略を立てて、不利な立場を反転させようとしてきたか」という内容をグレードアップするのが目標。マドンナのライブをともかく見られるだけ見たいのと、ブリトニー・スピアーズの復活についてじっくり考えたいのがありますね。プリトニーVSパパラッチは、いじめの構図として考えることで、一般化して行くことは出来ないか、自虐的に自分をプロデュースしつつ、自分の本当に知ってもらいたい部分へと観客をアクセストーさせようとする戦略は、なかなかに興味深いと思うのです。
Dは、学生達にがんばってもらって。上手くいけば何ですけれど、大学生の考えていること、とくに女子学生の考えていること(が書かれているテクスト)って、ほとんど世間に読まれていないと思うんですよね。静かに無視されている存在のような気がして、彼女達の発言をなるべくそのまま原稿化していって、ひとに読んでもらいたいというのがぼくが密かに思っている願望です。
夏休みに入り、やりたいことをリスト化するとなんだか100日くらい欲しいなあと思わせるものになって困ってますが、佐々木敦さんの活動などを脇で見ているとそんなこと言ってちゃだめじゃんと反省させられたりもして、がんばってやっていこうと思います。
〈夏休みの宿題〉
A 後期の講義で80-90年代文化論が出来るように、資料整理をする
B 後期の講義で話が出来るように、現代女性ファッション誌分析を進める
C 後期の講義で話が出来るように、現代女性ポップ・アーティストのパフォーマンス論をまとめる
D 大学で行っている自主研究会(通称KAT)で文化祭イベントを行うのとメンバーと雑誌をつくり、文フリで売る計画をたてているので、それを進める
E 翻訳作業
F BRAINZ本『フィジカル・アート・セオリー入門』の出版
はー、多いですね。Fはいまのところ、第2校をチェックしているところでして、、、ずいぶんと遅れてしまっていますが(図版を収集するのがことのほか大変だったのです)、、、どうにか火急的速やかにやっていきます。Eは、ちょこちょこですね(Ramsay BurtのJDTを出したいのですよ、本ブログ中に部分的に訳と解説をつけているあれを、毎朝起きて1時間やって行けたらと思います)。
と、宿題は宣言化しておくと少しでも実現するかも知れないので、そのつもりでつらつら書いておきます。
Aは、個人的にぼくたちの思考のOSがどう変化していったのかということを考えるためにやりたいと思っています。学生にとっては、何となく知っているけれども、よくは知らないものを、ちゃんと文脈含めて学生達に知ってもらうためにやりたいと思っています。80年代文化が現在の日本のポップ文化のベースになっているところは絶対にある。と、それと同時に、機能不全になっているところもあって、力を残しているものと形骸化しているもの、ぼくたちを束縛しているものとそうでないものとを具体的な資料をブラウズしていきながら分析していきたいのです。田中康夫『なんとなく、クリスタル』のことを以前このプログで取り上げたのは、その一環でした。この本に小説にもかかわらず厖大な注がついているのはよく知られたことですし、そのことを言及して、この小説を位置づけることはありふれたことです。けれども、あそこで言及されたさまざまなアイテムがいま私たちの耳にどう響くのかを実際に確認する必要があると思うのです。その響きの中に、OSの変化を察知する可能性があるような気がするのです。
当時のソフトをさまざま手に取ってみることを通して、ソフトではなくOSについて考えることをしてみたい。
例えば、さしあたり集めたひとつは『宝島』(1980-1983分)です。ここには、「サブカルチャー」や「若者文化」のひな形や「雑誌文化」のひな形が示されているように思います。ここで機能している「サブカルチャー」や「若者」とはかくなりという思考の形態、「雑誌」とはかくなりという思考の形態は、今日の眼差しからすればかなり機能不全を起こしている気がします。今年の『STUDIO VOICE』の休刊は衝撃的な出来事ですが、その現状は、こうした80年代初頭につくられた思考形態がいま空振り状態になっていることを明かしているような気がするのです。余談ですが、1980年頃の連載の中に「さだまさし、ニューミュージック嫌いのための 月評さだまさし」というのがあって、要はさだまさしをこき下ろすことで自分たちのアイデンティティを確認するものなのですが、このさだまさしと『宝島』公認アーティストでもあった佐野元春が昨日、NHKで「ソングライターズ」という大学の講義をベースにした番組で共演していたのは、印象的でした。きっと80年代にはありえなかっただうこうしたカップリングが可能になるのが、いまだとして、それがまた生産的な何かであるとすれば、ぼくたちはかつてのOSがアップデートされたことをよいこととして考えることが出来るでしょう。とはいえ、その「月評さだまさし」(渡辺利一)のクオリティはそんなにダメなものじゃなくて(例えば、1980年4月の第2回)、「唄を本気で抱いた」ショーケンのパフォーマンスと「演技力」をもったさだまさしとを比較していて興味深い。ちょっと長くなりますが、「演技力ではなく表現力のある人間が欲しいと映画監督の東陽一が某新聞で言っていた」と筆者は書いた後で
「このニュアンスの違いには整合された意識の管理下にある熟練した"演技"と、"生"の一回性ということを見据える危ういがしかし溌剌とした"表現"という意識とは裏腹の狂気とでも言うべきほどの差がある。そういう"眼"でさだまさしを見るならまさしく彼は相当の"演技力"を持ったシンガー=ソングライター(役者兼作家)であり、、、」
と続けるんですね。演技か表現か、意識か狂気かといった二元論がこの時代の重要なOSだったことは、明らかです。そして、恐らく、今日のOSはこうした思考を(そのままの仕方で)起動させることはほとんどないでしょう。だから、さだと佐野が対談できるとも言えるし(だからものごとをうやむやにしてしまう今日のOS はダメなんだとかつてのOSを起動させてみることもできるし)、だから、今や80年代のOS意味ないよとも言える。
なんてことを夏休みにぐずぐず考えてみようかと、思っています。
で、
Bは、まだほとんど世間的には発表していないのですが、この数年こつこつと研究しているものです。去年20冊ほどの雑誌をマップ化して整理してみたのですが、『CanCam』の不振や『Ageha』の躍進など、この分野の状況はこの1年でずいぶんと様変わりしていると思います。出来れば、マップをアップデイトしておきたい、というのがBの宿題です。学生たちと「現代女性ファッション誌研究所」をひらく(といって狭い個人研究室に集まっておしゃべりするだけなんですけど)のがひとつの目論見です。
で、
Cは、去年の講義でもやった「見られる存在としての女性がパフォーマーとしてどのような戦略を立てて、不利な立場を反転させようとしてきたか」という内容をグレードアップするのが目標。マドンナのライブをともかく見られるだけ見たいのと、ブリトニー・スピアーズの復活についてじっくり考えたいのがありますね。プリトニーVSパパラッチは、いじめの構図として考えることで、一般化して行くことは出来ないか、自虐的に自分をプロデュースしつつ、自分の本当に知ってもらいたい部分へと観客をアクセストーさせようとする戦略は、なかなかに興味深いと思うのです。
Dは、学生達にがんばってもらって。上手くいけば何ですけれど、大学生の考えていること、とくに女子学生の考えていること(が書かれているテクスト)って、ほとんど世間に読まれていないと思うんですよね。静かに無視されている存在のような気がして、彼女達の発言をなるべくそのまま原稿化していって、ひとに読んでもらいたいというのがぼくが密かに思っている願望です。