Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

シャイネス2

2006年01月28日 | Weblog
さっき、午前中、近所の大学にてくてく歩いていった(歩いて15分で大学というか大学の図書館があるなんて、なんて素晴らしい!)。すると、今日は学会があるそうで、ポスターをみると「日本双児学会」とある。いろんな学会があるもんだなー、ついついあたりを見渡して、被検体にあたる双子を捜してしまったが、そりゃいるわけないよな。美学会の大会に別に美が転がっている、なんてことがないように。

細々した調べものが着々と進む。あの部分どうにかなってきた。と誰にも共有してもらえない充実感をひとり、誰もいない図書館で味わっていた。

荒川『~感想』がらみの日記が続いていますが、誰かいきおいで買っちゃった人いないですかね。というか、この話面白いですか、ねえ。ぼくはこのブログを閲覧しに来る人の8割はダンス公演の拙感想文を読むことが目的なのではないかと思っていて、でも、それ以外の内容がしばらく続いても一日の閲覧者が減らなかったりすることがあって、例えば今回なんかそうで、そういうときに、一体読み手は何を楽しみにしているんだろう、とちょっと思ってしまうのですね。というのも、案外「読んでいるんだろうな」と思っていたひとが読んでいなかったりするもので(結構、あるもので)、じゃあ誰がどんなこと思って、、、と気になってしまうのでした。

「シャイネスのひと?」といろいろ考えていて、三日前か、「あ、正津勉だ!」と思いだしまして。と、こんなブログがありますね。もう5年になるか、武蔵大学の文化祭で、詩人とダンサーがコラボレーションするという、なかなか面白い企画があったんですが、そこで異彩を放っていたのがこの正津勉。というか、そのときみて、それ以来、何か詩集を読むとかしてたわけではないのですが、ときどきふいに、気まぐれに思いだしてまして、三日前かもそうでした。どうだろ、ね、『脱力の人』というのが新刊か。あのときは、マイクにくちすごく近づけて、てれくさそーにしながら、「あなたのおっぱい、ふふ」とか読むんですよね、自作を。もーばかばかしくて、会場の体育館が変な雰囲気になって、「もやもや」だったのを思いだします。そういうものを、舞台上に引き出すのは、非常に難しい、はず。捉えてさらに捉えたものを解放してやんなきゃならない。絶対矛盾的自己同一(なわけないか)。

で、Aとこの件で少し話が盛り上がってまして、
大事なのは、シャイな赤面のみならず、むしろそこからひとつ踏み込んで踊っちゃってることだろう、という話になって。逡巡と決意。この辺り、多分、むかーし当ブログで書いた「ぶりっこ」のこととも関連するはず(あ、いまなぜかituneから、カルロス・トシキ&オメガトライヴ「ときはかげろう」が流れてきた)。要は、そうである際の、殻の柔らかい状態が、魅力的ではないかと思うのだ、そこに「他者と出会う」ということがある、と思うのですね。

『エル・ジャポン』に寄稿しました。あのセレブ系ファッション誌です。どういったことか、ダンス特集が組まれたのです。そこでぼくが担当したのは、「日本のダンスが繰り出す新たなステップ」という総論と観賞ガイドのようなものです。ファッション誌で日本のコンテンポラリー・ダンスを取りあげるから原稿書いてと言われて、「ドレスダウンするダンス」ってキーワードで書いてしまうぼくは、パンクスです。あともうひとつキーワードにしたのは、「ハピネス」でした。最終的に記事タイトルからは削除されてしまいましたが、ずっとタイトルは「ハピネスを目指して」でした。ダンスはそのジャンルの性格として、良い悪いは別として「ハピネス」を目指していると思うんですね。もちろん、そのためにさまざまな「迂回路」を凝らす、そこが大事なわけですよ、確かに。でも「凝らす」ことが目的ではないはず、で。「カッコイイ」でも「スゴイ」でもなく「ハッピー」であること、硬さを弛めること(硬さに対してつねに批評的であること、と考えれば、批評的な状態はハッピーの状態でもあると)、それがダンスだと。

シャイネスのダンス

2006年01月26日 | Weblog
一昨日のこと、東大での事務仕事を終え、てくてくと帰路につくその電車のなかで、荒川洋治の『~感想』を読んでいたら、先に触れたことのみならず、さまざまなよき刺激が襲ってきたのだった。そこで、なんでかぼくの頭に浮かんだのは、

もしいま「もっとも優れたダンス」というものを想定するならば、「シャイネスのダンス」だろう

、という言葉だった。『作家の値打ち』(福田和也)ならぬ『ダンスの値打ち』なんて本をもし書いたとしたら、これが最高峰100点満点。いちばん近くにあってしかし舞台上ではまずほとんど見ることのできないもの、それは気恥ずかしさがこぼれてきてしまった踊り手のダンスではないか。徹底して「作為」=「文学」を否定する荒川のまっすぐな意固地の姿勢につきあっていると、気づけばそんなことが頭に浮かんできてしまったのだった(それだけじゃなく、多分電車のなかでipodがThe Smithsをかけだして、Shyness is nice, and shyness can stop you.♪なんて歌う曲「Ask」のこと思いだしたこともひとつの誘因だろう、彼らはまさに「少年の赤面」を歌うバンドだった!)。だって素敵だと思いませんか?踊ることの気恥ずかしさを隠せずにこぼしてしまう瞬間のダンス、それが見られるなんて。そう、「ダンス」ってあるいは「舞台上のダンス」って、基本「恥ずかしい」ですよね。大体がして、ダンスがらみじゃない友人に「ダンス批評してます」って言うの、ちょっと恥ずかしいもの。であるからこそ、この「恥ずかしさ」は隠しちゃダメで、「芸術」とか何かとかあるステイタスを与えることで隠しちゃうのは、赤面の可能性を消去しちゃうマズイ術策、イマドキ言葉で言えば「偽装」(あーでもイマドキ言葉が「偽装」だなんて、なんかおもろい時代だなー、ドゥルージアンとかわくわくしてないのかな?ヴァレリーなひとたちとか)。マズイ理由は、硬くなっちゃうと言うこと。ぼくはみたことあります、恥ずかしがりながら踊るダンスを、これ、でもプライヴェートな場所とかでしかまず見られないですよね。で、あるからこそ、それ、シャイネスのダンスは魅力的で重要なのです、よ。

いま、時代は「ぶっちゃけ」じゃなくなってきた。かといって「賢しい人」もあんまり楽しくない(報道の踊り方はむかつくがホリエモン逮捕はひとつのムードをつくるのではないか)。話は違うかも知れないけれど、茶髪なひとたちも近頃ほんと見なくなってきた。時代は清純に向かってます。大事なのは「シャイネス」です。これ舞台上にひっぱり出せたらすごいなー、舞台芸術がもつのベクトルとは正反対のものだろうから、がんばればがんばるだけ消えてしまうもの。だから、こそですねえ、舞台上にあれば貴重だし、リアルだし、魅力的じゃないかと。

と、一昨日夕食に作ってくれたおでんつまみながら意気込んでAにしゃべったら、「あー、それ山賀さんじゃん」ときた。そ、そうだったーかー。

あるいは、随分「ひねくれ」の考えかも知れないけれど、「臆面もない」感じのこの前のピンクは、「臆面」という言葉をきちんと意識させながら「もなく」と打ち消しさせちゃうところで、「シャイネス」のダンスを外側からなぞるものだった。だから、放っておけなかったんだな、なんて思う。

ひとつ、訂正があります。
the GROUND-breaking 2006の主催は、プリコグのみならずSTスポットもでした。ぼくの読み落としです。失礼しました。若干の書き直しをしました。

小説の器量

2006年01月24日 | Weblog
荒川洋治『文芸時評という感想』(四月社)がいま話題である、どこで?いや少なくとも家では。
多分、Aもこの本にはいずれ「ぐび」ブログで触れることだろうけれど、ぼくなりに目に付いたところを拾ってみよう。例えば、

「僕はそれほど立派な人間じゃあない。残念ながらね。ならば実際はどうしているのかというと、いま君の家の家庭教師をしている通り、近頃はもっぱらアルバイトをしているよ。アルバイトばかりなんだ。僕のような人間にはね、それがいちばんふさわしいんだよ!何がって、アルバイトがだよ!」(阿部和重「トライアングルズ」)

この箇所を荒川はこう評する。

「最後の「何がって、アルバイトがだよ!」というのは、この文章ではまったく不要のものであろう。」「だが作者は、それを敢えて書くことになる。この文章(話)を聞いていながら、その内容をまったく聞いていないも同然の人物の存在、あるいは気配のようなものを「創造」しているのだと。これは小説のなかの世界ではない。これを読む人のこと、つまり読者の立場にも触れている、ということであろう。そのあたりにこの小説の「器量」があるのかもしれない。」

ぼくは阿部のこの小説を読んでいないので、純粋に言葉のパフォーマンスとして、荒川同様面白いと感じるし、面白いポイントも荒川と一緒だ。「読者の立場にも触れている」小説、うん。でもそれは「小説のなかの世界」からは少しずれたところを小説に書きこむところで起きている。多分この「少しずれ」は、小説の主人公の意識と主人公が語りかけているもう一人の登場人物の意識とそして読者の意識とがこの短い文のなかで交錯しておしくらまんじゅうみたいなことやっているってことで、だから面白いに違いない。具体的に言えば「何がって、」って言葉は、単に語り手の主人公に誰かが「何がふさわしいと考えているんだい」なんて実際に聞いているというよりは、そんな「気配」がするといったもの、でこの「気配」の内に重なり合うものたちがひしめいている、きっと。そう、そんで、この「少しずれ」たところをきちんと合わせもつものに観客論を認めるってことが最近の僕の興味なのだ、だから一層いいと思わずにいられない。この主人公は怒った風だが、それでも怒る仕方で読者に語りかけ、「読者の立場」をきちんと空けていてくれている。そういう阿部をいいと見つける荒川が、そんで、とてもいいと思うのだ。

それでこの本は、「座右の本」としての価値を帯びたところをいくつももっていて、

「感動をすなおに語ることが批評家たちにはどうしてできないのか。どんな言葉をつかうかつかわないかよりもそちらのほうが問題かもしれない」

なんて言葉は、あまり自分を「批評家」なんて座に置きたくないぼくがそれでも、何かそういう肩書きで書いてしまう文章について、つねに自省しておかなければならない何かを諭してくれる。

庭劇団ペニノと地点

2006年01月23日 | Weblog
庭劇団ペニノ『ダークマスター』(@アゴラ劇場)を見た。
失職した男が不意に訪れた「キッチン長嶋」には、謎のこびとがいた。男はこのこびとにトランシーバーで遠隔操作されることで、この洋食屋のコックを務めることになる。この洋食屋はとびきり美味しいらしく、連日大繁盛、でも客は帰り際トイレに行くと出てこない。そのうまさの秘密は何だろう、、、。
と、こんな話なのだけれど、すごいなーと思うのは今回も美術。アゴラの狭い空間に見事に洋食屋がある。「キッチン南海」みたいなカウンターだけの店、だけれど、事細かに作り上げられているというよりは、本物の洋食屋なのだ。「らしい」のではなく「そのもの」であることは、その細部によって記憶をさかなでされることもあるってことで、トイレ脇の洗面台の土壁がひび割れている様は、ぞくっとする、かつてどこかで嗅いだ匂いを感じる。料理も作る。オムライスが何皿出来たろう。その油の匂い、煙。視覚レヴェルではなく触覚レヴェルで立ちあがってくるものは、生理的感覚を刺激する。このことは、「こびと」「でぶ」も同様だろう。でぶったはらの垂れ具合とか。それは、観客に直接襲いかかる。その襲いかかり具合がペニノの真骨頂だろう、とぼくは思う。最後には、この建物の二階が光に照らされ浮かび上がる、とそこには一階とほぼ同様の洋食屋があった。しかもその天井がはずれ、二階のイスがガガガガと滑り一階に落ちてくる。この得体の知れない二階の世界と一階の世界をつなぐのは、男の硬直した怯えたような表情なのだった(この男は何を知っている?謎はのこされたまま)。

三時頃、駒場を出ると歩いて三軒茶屋へ、けっこう近い。通りがかりの古本屋で本城靖久『グランド・ツアー』(中公新書)を購入。面白い。

地点『Jericho』
三浦基のことはいろいろと話では聞いていたが、恥ずかしながら初めて見た。セリフをどもりというかつっかえながらしゃべる。どうもこれが基本形。「つっかえる」とは、意味内容とは関係ないところにブランクを入れることだけれど、それだけじゃなくて意味内容とは関係ない声色が突然あらわれたりする。すると「声」はセリフの言葉に従属しながらその意味とは無関係な響きをともなう。つまり声は二重の身振りをしているわけだ。意味から離れ響きが自律した声。このクールはときが進むにつれ、身体とその他の関係、オブジェとその他の関係にも敷衍されていく。つまり舞台上の様々な物は、舞台に半分奉仕し半分勝手な振る舞いをする。すべからく勝手になるというのとは違う点が、実は現代的なのではないか。ダンスで言えばカニングハムの試みはすべてが他のすべてから自由に自存していることを目指すものだった。けれども、それはそれぞれの関係が希薄になることでもあった(意図的に希薄にする、と言うことでもあったのだろうが)。そうではなく、半分かかわり半分無視するというのが、新鮮というか見ていて飽きない、面白い舞台の原因ではないか。ぼくだったらそれを「社交」と呼ぶのだけれど、そんな社交の次元の引き出されていることに、魅力を感じた。楽しかった。それにしても、緻密な松田正隆の戯曲はすごいな、おどろいた。

おかず

2006年01月21日 | Weblog
という名前にした、けれども、呼んでもまだ振り向きもしない。

ネコである。最近うちにくるようになった野良である。おかずは相反する感情の中で生きているようで、いまでは窓から部屋に入り込むようにはなったのだが、窓のサッシに首をなでつけて外と内とを何度も行ったり来たりさせる。逡巡。こっちに来たい感情と野良としての警戒心とがない交ぜになって、「ない交ぜ」が、時間軸上では、「行ったり来たり」といった身振りを生みだすことになる。仲よくなったかと思えば、平気で爪を出して引っ掻いてくるし、もう興味ないのかと外に出たところで窓を閉めると「なんでおいだしちゃったんだよー」とでも言いたげにみやーみやーとなきはじめる。えさが欲しくて媚びてるようで、えさをあげても30秒であきてみやーみやーなくものだから、今何の欲望を表明しているのかと首をかしげてしまう。
そういう複雑さこそ楽しいものだ。ネコは難解で飽きない。

the GROUND-breaking 2006

2006年01月21日 | Weblog
を見た(BankART Studio NYK)。手塚夏子(山縣太一、廣井陽子、木村美那子)+ほうほう堂+宇治野宗輝がそれぞれ公演した。企画として凄く面白いものだった。ここには、さまざまな制作の関係者が絡んでいる、難しい点もあるだろうけれど、是非良い企画のための提携(ゆるい繋がり?)は今後も試みて頂きたい、一観客として思います、です。こんなバラバラなラインナップを一日で見ると、点が線というか面になってきて、シーンの光景とでもいうものがひとつ出来てくる。チラシに手塚の推薦文を書いたから言っているんじゃないですよ、ほんとに。でも今日は何と言っても夕日と一緒に港に吹雪く雪を窓ごしにながめられたのが美しかった(公演前にサンバが流れて、暑くないというか極寒の雪のサウダージって雰囲気)、そんな瞬間を借景にした(することに幸運にもなった!)手塚の舞台からちょこちょこ報告。

手塚夏子『私的解剖実験-4 --表層から見た深層--』
二分ほどの三人がテーブルを囲んだある瞬間、それがややスローにした状態で繰り返し繰り返し「再生」される。まさに「再生」。録画したテープをそのまま再生するような現実の「トレース」。「トレース」ってのは、振りを身につけるという時のイメージと少し違う、解像度が違うのだ。相手に話しかけるあるいはその話を聞く、その時のシグサのディテールがかなり高解像度で解析され体にトレースされ、再現される。
このことはひとつに、いまそこにある体を徹底的にかつてあった体へ沿わせることでありだから徹底的な拘束を体に要求することである。生半可な拘束ではない、グロテスクなほどに体はあるときの一瞬に縛りつけられる。
このことはもうひとつ、あたかも19世紀の絵画が写真に影響されたように、写真(映像)によって既存の表現の観念にディストーションをかけることである。それは、いかにこれまでのぼくたちの身体観(ダンス観)がモダニズム以前であったのかを知らしめるものだった、といったら大げさだろうか。モダニズム芸術としてのダンスは、表現主義に依拠したことで「芸術」としてのアイデンティティを得ようとした。けれども、それは結果としてある種の「退歩」をダンスに引き起こしたのかも知れない。少なくとも、美術史において表現主義は必ずしも最重要のものではない。キュビスムの方が、あるいは19世紀の新古典主義や写実主義、印象主義の方が遥かに問うべき問題を孕んでいる。ただし、そこにダンスが接続することはまずなかった(コラボしたとしても、実際のところは別枠扱いだったのではないか)。そのためには、「表象」の媒体としての身体を徹底的に考え直す必要があったに違いない。けれども、ダンスというジャンルはそこにきちんと集中することをしなかった、のではないか、これまで。世界をトレースする身体について熟考すること。本公演で手塚のしたことを、まずはこう形容することが出来るだろう。
けれども、トレースのために身体を徹底的にコントロールすることはここでのゴールではない。トレースに没頭させると身体がどうなるのか。例えば、廣井が突然笑い出したりするのである。この笑いはどうも「トレース」の範疇外のものだ。コントロールを極めていくことで引き出されたのは、非コントロールの状態。どうしてもこれが漏れてきて、漏れてくることをけれど否定しないで開いたままにしておく。50分ほどの後半は、ショーケースみたいな、外へ続く窓があるガラス張りの部屋のなかで三人が野放図な会話とかをしている。これはもうほとんどフリー状態。けれど、それまで完全に細部に執着することを要求されてきたぼくの眼は、そのシグサの密林みたいな三人の体の細部につぶさに反応することが楽しくてしょうがなくなっている。容器を外された身体。さっきまでの身体が意識をとりはずされて死体みたいになっていたとすれば、いま見ているのは、その死体からさえ遊離した心霊のようなものか。いやでも、山縣のイスに腰かけてぼーっとしている姿は、本当にそんなふうな抜け殻というか霊のようなものを感じて、ぞくっとした。
表象としての身体をこねくり回す作業。確かに「実験」であることは否めないが、そういうならセザンヌの「サント・ヴィクトワール山」だって実験だろう。そんなステージにダンスを勝手に引っ張り上げてしまった、そんな舞台だった。

ほうほう堂『SHleep』
一種アンビエントな、微弱な変化をころころ転がしていく。知性派のポップスを聴取するような快感と倦怠。カラーはもうきわめて明確に出てきた、ブレがない。

宇治野宗輝『the Rotators』
一階の会場では、黒沢清みたいな廃屋の世界。いやでも、陳列されているのが廃屋の廃物と言ってはいけない、利用法を誤読したさまざまなアイテムがならんでいる。明らかに楽器ではないものが、幾つかのこじつけの内に堂々と楽器の顔してすましている。それがなんかとても痛快なのだ。例えば、ターンテーブルには一センチくらいの高さの駒をところどころ貼り付けたレコードがのせられ、その駒はテーブルが回ると上に据えつけられた「鍵盤」をたたき、そこで「音」が発声する。この音がさまざまにエフェクトされるが、聞こえてくるのは、全校生徒が運動会で披露する太鼓みたいなもの。ドンドンドドドド。しかもその音に連動して、脇にある廃車のランプがリズムをもって光る。

帰りは、マンネリズムで結構、三陽へ。六人のおばちゃんが占領していて店の雰囲気がいつもと違う。ここのセンスはガキのいたずら、だとすれば、そこにおばちゃんは基本入ってこられると困る。子供部屋にノリのいいお母さん軍団が乗り込んできたみたいな。

コミュニケーション・アート・バー

2006年01月20日 | Weblog
なるイベントがアサヒ・アートスクエアであった。前日に初めて知ったのだが、そこで横トリで活躍した神村恵、ユン・ミョンヘ、鈴木ユキオが実際に踊った。第一回目にあたるこの「アート・バー」は、今回清水永子さんという「楽の会」の名前でダンス関係の公演をプロデュースしている方が「ママ」になって、彼女のコーディネートで進行していくという企画であった。その清水さんの最近のお仕事にナカニワ・ダンス・パフォーマンス(横浜トリエンナーレ2005での企画)があって、そこに参加した10組ほどのなかから三人が呼ばれて、そのときの模様をおしゃべりしながら、しかも本人たちのダンスまでついて来るという、実に贅沢なイベントとなった。宣伝がほとんどなく、ほぼ口コミのお客さんしかいなかったことが実に残念だった。横トリの不意に現れたダンサーに観客がついついじっくりつきあってしまうといったあのときの幸福な出会いは今回再現されなかった。宣伝すれば、見たかった人も随分いたと思うんだけれど。
こんな悔しい気持ちにさせられるのは、何よりもこの三人が充実していたことが大きい。

あちゃこちゃと

2006年01月19日 | Weblog
どしどしどんどん、原稿の締め切りとか、校正の締め切りとかがやってきて、忙しい、けど、それがぼくにとっての楽しい人生ということですかねえ。好奇心が炸裂していろんなことについ手が出てしまう。昨日のレオ・スタインバーグなんてその好例。やっぱり、あの論考面白いよ。

今日は、午前中に非常勤の講義のテスト日で、年に二回だけある楽しい時間だ。半年頑張ってしゃべると最後に頑張って答案を書く学生が見られる。一生懸命な表情が新鮮。普段僕は君たちのボケーって顔ばっか見てきたから嬉しいよ。そんで、昼ご飯をトンカツ屋で。四月まで基本的には来ない場所なので、しばらく食べられないと思いいちばん好きな「みそだれ定食」を頼む。

夕方、ティップネスで水泳&サウナ&ジョグで久しぶりに汗をかきまくる。きっもちいい。

明日から横浜BankARTで手塚夏子、ほうほう堂、宇治野宗輝の公演があります。手塚夏子の推薦文をチラシに書きましたし、純粋にどの公演もとても楽しみなものですし、ご観覧なられることをオススメします。金、土、日、ぜひ。

『絵画の準備を!』

2006年01月18日 | Weblog
最近でました。松浦寿夫+岡崎乾二郎の対談によって構成されたモダニズム芸術論。これを読まずしていま美術作品を創造しようなんて思う輩は相当の天才かさもなければサルだ!というのが、浅田先生のお言葉であるが、独特の博覧強記というか何かにつけカントとかベンヤミンとか哲学者や批評家の名前や理論の一片を議論に貼り付けていく二人の言語パフォーマンスに翻弄されてしまうぼくは、彼らの天才的(!)な対談から見ればサルだな、とちょっと寂しいような気分になる。

とまれ、ある頁をめくっているとレオ・スタインバーグの『哲学的な娼窟』という批評文が面白いとのこと、ピカソの「アヴィニヨンの娘たち」をめぐって、なにやら見る者との関係が論じられていると言うこと、で。それに『美術手帖』の1977-78年に二回にわたって連載されたこともわかり、それじゃあと夜な夜な散歩気分で近くのある大学の図書館へ。(…寒くて暗くて寂しい行き、図書館での孤独な探索、そして再び寒くて暗くてなのに背中に汗(?)の帰りが挟まれてます…)で、コピーしたものを読んでみる、いま。うん、確かに面白いぞ。

「この絵は内部様式が分裂しているということで有名だが、この絵の統一性は何よりもまず、絵を見る者が見られているのを意識して驚くという点に存在するのである」

「娼窟の客間内に設定された主題は劇的な登場、つまり一人の男の到来である。」

なるほど。今研究会のみんなで読んでいるフリードのクールベ論では、クールベがいかに見る者の非在の状態へと絵画をもたらそうとしたかについて、「没入」というアイディアを通して彼が考えた、というフリードの説が語られている。見る者なしで成立する=自律した芸術=モダニズム芸術というわけだ、概略的にいって。
で、その考えに半分なるほどな、と思いつつ、見る者の非在を希求するフリードの姿勢にはアクチュアリティを感じないゆえに、半分不満を持っているぼくなのである。「没入」(何かに没頭している--寝てたり、クスリで気持ちよくなってたり、仕事にかかりっきりだったり--画中の人物に無視されていながら見る者はその人物の内に没入してしまう、という「没入」)って考えは、「見る者」の非在とは必ずしもイコールじゃないはずだし。
そこで、「アヴィニヨンの娘たち」をこうした「娼婦画」であることを重視し、しかもその正面向きの状態、すなわちこっち剥いている状態を「ラスメニナス」と引き比べたりしながら指摘し、そうした読みによって絵画の外にいる観者を買春者の立場に否応なしに置く絵だと「アヴィニヨン」を規定するこの論考は、一種の観客論として読める。

「「アヴィニヨンの娘たち」では、伝統的物語芸術の規則は反物語的な反対原理に屈している。つまり、隣り合っている人物は共通の空間も持たず、行動も共にしていない。お互いの間に会話も相互作用もなく、一人一人が見る者に直接結びつく。明らかにお互い同士が分裂していることは、見る者の主観的反応にアクションを統一する責任を負わせるための手段となっている。事件、顕現、人物の突然の登場は、やはりテーマになっているが、絵の対極と考えられる見る者のほうへ九十度回転しているのである。」

美術批評の蓄積に力を得ながらダンス批評(ダンス研究)に深さを与えること、出来ないかなー。

ところで、テレビをつければホリエモンのバッシングばかり(まだ、容疑者でもないのに)。なんだか、むかつく。出る杭をどんどんある程度まで出さしておいて、ある時期が来たらバコン!と打つ、というのが、昨今のこの国のマインドである。それがなにか、いやだ。でも、事象としては面白い。昨日なんかは、事務仕事の帰りの電車で珍しく駅売り夕刊を買って読む。言葉が踊る踊る。ねたましい人の不幸ほど、踊っちゃうらしいのだ、オジサン新聞のライターは。簡単に言えば、「熱」だ、これは。理性ではない。理性はここにはない。あるのはただ「熱」。考えれば、ホリエモンも株もそうだ、簡単に言えば「熱」をコントロールしてもうける世界にいる(ある)ものだ。経済というのは「熱」であってそれ以外ではない、多分。経済的にものを考えるというのは、「熱」のことを慮ること、そうだろう。

川口隆夫『TABLE MIND』

2006年01月17日 | Weblog
を見た(@アップリンク・ファクトリー)。

もうすぐ出るファッション誌に書いた原稿の些細な部分が気になってざわざわして出版社に確認の電話をしても繋がらない。日曜は休み??近頃頻繁に書かせてもらっているB出版社とは大違いだ、B社の編集者の忙しさったらない(このまえ、69年に出たその社の雑誌の目次を見ていたら編集者の数が今と比べて倍以上いたことが判明、それはたしかに大変だ)。それで、悶々とした気分で、集中力がなくなってしまったが、そんな気分で明日までいるのもなんだしと考えていると、不意に川口隆夫の公演があることを思いだし、渋谷へ。

当日券で満席の会場にはいると、ど真ん中のエリアに二席ある、そこに座る。小さな会場には観客が対面するように席が出来ていて、僕が座ったのはその両方に挟まれた舞台の部分の端という例外的なエリア。一般的な観客席では目の前にクリアボードが吊り下げられ、視界を僅かに遮るようになっている。
真ん中のエリアに置かれたテーブルのもとに川口は現れ、日記を書くようなシグサとそれを読み上げる声が繰られる。テーブルはときに白く輝き、粗いあるいは細い格子模様が映され、また、ピー玉の運動する軌跡が影となって映ったりする。独特の清潔感のある時間・空間。進退の動作は激しくなく振り向いたりくねらせたり、テーブルに置く腕を中心とした振る舞いに集中する。先日見た、黒沢美香の80年代の公演に彼は出ていた。そのときの、舞台のスーッとしたキレイで無機的な感じを思いださせる。そうした黒沢との繋がりで見てしまうと、川口の振る舞いを、没頭し、こちらを無視するような「余裕」ともとれるけれども、その空虚さに置いてけぼりを食ったような気にもなる。

まだ、そわそわ感は続く。で、なんにもしたくないけど、なんかしてないとなあ、という気分で、代官山まで歩き、目黒川沿いのCOW BOOKSを物色。笠井叡『天使論』(1972)が6000円で売っていた。んー、悩む。躊躇。

そこからさらに、歩いて歩いて渋谷というか駒場方面へ、途中氷川神社で柏手打って、さらに歩いて駒場高校前の魚屋(いや、金魚屋)に着く。水草を買う水槽に夢を膨らませる。

夜、芸術劇場でチェルフィッチュ『目的地』が放映されていた。見る、と随分カメラがスイッチングしている。セリフと身体がぎりぎり細い糸で繋がっている彼らの芝居でこんなことしたらほんとバラバラになってしまう、よ。ダンスが映像化しにくいのと同じレヴェルで映像では伝えにくい存在なのだ、チェルフィッチュは、よく分かった。

翌日、昼頃にメールが届き問題解決。途端に眠くなる。夜は上智大でフリードのクールベ論を読む研究会なのだ、ちょっと寝ておこう。

『脱アイデンティティ』

2006年01月12日 | Weblog
いろんな締め切りが過ぎつつそのままになっていたり、そうこうしている間に別の諸々の校正がファックスやら郵送やらで机を賑わしていて、ブログに手をつける余裕がない。んー。それでも「ダンスにおける目の問題」とか「モダンダンスの問題」とか色々ネタを凝らしていた原稿は、二〇世紀のダンスの観客論(モダンダンスから暗黒舞踏まで)といった主題でどうにかまとまってきた。これは面白いです。自画自賛です。自分の中でかなり整理出来ました。とくに、モダンダンスの根本的な部分の問題性とか。

上野千鶴子編『脱アイデンティティ』を読む。

田中泯 第五回朝日舞台芸術賞受賞に思う

2006年01月08日 | Weblog
今朝起きたら、Aが新聞を読み上げてくれて、朝日の舞台芸術賞(の舞台芸術賞)に田中泯が選ばれたことを知った。別に田中氏個人を批判したいわけではないのだけれど、思うところがあって以下の文を書きます。

「講評」というのが載っている。これをみると山野博大氏と佐々木涼子氏が田中を推したことが分かる。少なくとも二人は、田中の公演「赤光」「透体脱落」を褒めている。褒めることはそのひとの判断、けれど、その理由が気になる。

「「赤光」「透体脱落」などを自作自演した田中泯は、その肉体を山梨県白州での農作業で鍛え上げていた。土から生えたような彼の痩身が生みだす豪放かつ繊細なダンスからは、日本芸能のルーツである土地の神との交感を思わせる香気があった。」(山野氏)

「いっぽう田中泯の二つのソロ公演、「赤光」と「透体脱落」には舞踏家の人生が凝縮され、哲学的な奥行きと虚飾のない透徹した表現が胸を打った。」(佐々木氏)

また、田中はこう受賞のコメントを寄せている。

「劇場から野に飛び出し、衝動的に踊りたいという思いが強まっている。その矢先の受賞。がんばれよと言われたようでうれしい」(田中氏 受賞のコメント)

ぼくが「気になる」と書いたのは、これらのディスクールがすべてモダンダンス文脈のものだと思わずにいられないからだ。少なくとも、暗黒舞踏を評するときに「日本芸能のルーツである土地の神との交感」「舞踏家の人生が凝縮」と書くのは基本的に「ズレ」を感じざるをえない。これはぼくの意見とは異なるということではなく、そもそも暗黒舞踏を論じるに際して、作家の人生とか土地の神がどうしたという言葉は、基本的に機能するはずがないものだということが言いたいのである。
とはいえ、実はこういった僕の視点こそが「ズレ」を起こしているのかも知れない。すなわち、ぼくが田中を暗黒舞踏として扱うことが間違っているのではないか。そうか、そういえば、田中氏のコメントがそもそも相当に気がかりなのである。「衝動的に踊りたい」。これは、暗黒舞踏由来の思考ではない。少なくとも、土方巽はこういうこと言うだろうか。自分の衝動に忠実に踊ること--たしかに一見すると舞踏家はそういうコトしている気がする、が、舞踏のことを調べれば調べるほど、こういう通念にぼくの胸の内で疑問が浮かぶようになっているのである。

いや、暗黒舞踏は土方巽の手から離れて色々に変容していったのだよ、別にそれでいいじゃないか。そういう言葉を誰か掛けてくれるかも知れない。じゃあ、百歩ゆずってそれには頷いておこう。でも、ゆずれないのは、この田中氏をめぐるディスクールは明らかに、モダンダンス文脈のものではないか、ということだ。

モダンダンス文脈?何?と思う人も多いだろう。そもそも、この文章の手前に「モダンダンスとは何か」という説明が必要なはずである。いや、実はいまそのことにかなりかかりっきりになっている。そして、観客論の視点から、モダンダンスと暗黒舞踏の違いを明確にしようと研究している。

その最中なので、なんとも気になるのである。

ぼくの意見を簡単に述べれば、20世紀初頭に誕生したモダンダンスは当時の一大勢力であった表現主義の芸術運動に深く関わっている。それは、「個人主義」「直接性」「神秘主義」を顕著にあらわすといった性格のものである(ちなみに先ほどの「舞踏家の人生」「衝動的」「土地の神との交感」は見事この三つに当てはまるのでは!)。彼らのダンス観はさまざまに受け継がれているものの基本的には歴史的な遺産に違いない。彼らの芸術観に対する批判はすでにルカーチなどが同時代的に行っているものでもある(くわしくは、三月には発刊予定のある大学の紀要に書きますので、書けたら出たらまた報告します)。少なくとも、そのダンス観のままでピナ・バウシュもまた暗黒舞踏もやっているわけではないことは確認しなければならない。ピナ・バウシュや暗黒舞踏のディスクール(思想)はモダンダンスのそれと違うのだ(違うよね?? あ、ちなみに別にぼくはピナ・バウシュと暗黒舞踏を同一視してこう並べているわけではありません、悪しからず)。で、もしその点を明確にし、必要な批判をしなければ、現在の美術界に新しいキルヒナーやノルデ的な絵画が現れても美術界は注目しないだろうが、他方、ダンス界においては新しいマリー・ヴィグマン的なダンスに対して感嘆してしまうといった「ダンス界の遅れ」が問題化出来ないからだ(別にマリー・ヴィグマンを否定したいわけではない、もちろん、キルヒナーやノルデの素晴らしさを否定するものでもない、それをいまやるか、それをいま讃えるかということなのだ)。


単純に、「まあ「朝日~」なんだからそうムキになるなよ~」とか先輩諸氏から言われそうだ。うん、そうなんだけれど、さ。

あ、でも「はてな」をみると田中さんはモダンのひとだった、のだな。そうか。

黒沢美香『ROLL』(@神楽坂die pratze)

2006年01月06日 | Weblog
を見てきた。

基本的な部分はこれまでの二回の『ROLL』と変わらないのだろう。いくつか、食卓を組み立てるときはほとんど全裸に近い格好だったように思っていたが、今回は上下白い服を着ていたり、最後ビートルズをバックに張りぼておっぱいを装着しその乳首に接続して回すオブジェは金の鎖だけだった?とか違いを感じるところもあった(単に記憶違いなのかな)。そういったこと以上に、今回気になったのは、黒沢が「おばさん」ではなく「女」にみえたこと。最後の「乳首(にオブジェ)回し」のところ、そのシークエンスの最初でクリスマス的電飾を背景に踊るシルエットが「ショーガール気取り」ではなく「ショーガール」そのものに近似していて、裸になると以前よりやせたプロポーションが目立つ。「なる対象」と「なろうとする黒沢」のズレがクール!だったとすれば、そこ重なってくるとクールとは違ったニュアンスが出てきてしまう。それでも、冒頭の「女王?」な赤いコートで頭上にはアクセサリーを店頭で飾る用の小さな白い木みたいなものをアクセと共にのせ、不思議なリズムで直進とターンを繰り返すところなんかは、まさに黒沢的すっとぼけ=没入であって、その三頭身がマリオとかドラクエに見えてくると、その暴走振りに痛快さを感じずにはいられない。

途中、一時間の休憩を挟んで(神楽坂の広島風お好み焼き「くるみ」でお腹をみたし)、1988年の作品「EVE and/or eve '88」を見た。じっくり二時間しかし飽きない。五年ほど前、大倉山の教会で半年に一回くらい行われていた黒沢美香による企画「偶然の果実」を思いだす。ダンスを集中的に見に行きはじめた頃、いちばん難解だったけれど、いちばん刺激的だったのがこの企画だった。音楽をかけ続け、曲が変わるとダンサーが変わり即興をする。ダンサーとダンサーが重なり、即興に即興が絡まる、偶然に生まれる果実を模索する時間。見たビデオは、構成(構成には出口大介の名前が)がしっかりあって、即興の要素は決して多くない。「JAZZZZZ DANCE」でも見ることの出来る腕を大きく振ったり手を口にくわえたりする独特の振りは、ここにルーツがあったのか。あと、最後の方で、黒沢が登場するのだが、舞台脇でテーブルを組み立てているらしい(よく見えなかったが、上映後、黒沢さんが教えてくれた)、で、それが『ROLL』での食卓組み立てに繋がっていく端緒、との話だった。

Aがいない

2006年01月03日 | Weblog
そうかー、辺見えみりとキム兄結婚かあ、、、「えみり」って一見するより付き合うの大変そうな感じだけれど、そのめんどくさいとこがキム兄の「くせっけ」を刺激したのかなあ。え、アリとキリギリスの役者もやってた小さい人、離婚してたんだ、事務所に言えず番組内で報告って、、、などと勝手なこと考えながら(情報源yahooのニュースって、また)正月の三日目も淡々と過ぎていく。昨晩はアスファルト凍ってたなあ、はじめていった近所のマンガ喫茶で『のだめカンタービレ』『ハチミツとクローバー』『僕は妹に恋をする』など話題の少女マンガをガン読みしていく、夜だった。前二者は『NANA』でも感じた、細部へ細部へ入り込めばそうするだけ面白くなるという文法をやはり感じた。『のだめ』はでも不思議だな、音楽を中心にしたマンガ=聴覚の視覚化という結構ハードルの高いものに取り組んでいるはずなのに、実に読ませる。と言っても、一時間が限度だ。つまんなくなってきた。帰ると、テレビはお笑いさんたちの天国だ。ほんと「お笑い天国」というものがあるとしたら、この正月三が日のテレビみたいなものだろう、食傷もここまでくればスゴイってくらいあちこちの番組がそれだ。これじゃあ天国と言うより地獄だわ、見る方は。でも、たけし軍団のはちょっとレヴェルが違っていた。やっぱ、バカ度が違うなー、面白いなー、バカだなー、土佐犬をおんぶして駅伝するって、要するに軍団の背に乗った犬の腰つきだけが見世物なわけで、こんなにあほっぽいものテレビで久しぶりに見た。あんまりテレビに出ない彼ら軍団は実に堂々と、お笑いブームとは別のベクトルを年始のどさくさ番組で発揮していた。と、二時じゃん、A実家から帰ってくるはずじゃなかった?あれ?なんか事故にでも遭ったか?うそ、、、Aがいない、いない、いないZZZ。

謹賀新年

2006年01月01日 | Weblog
ダンシーはダンスに対する/の批評性である

ダンシーはダンスの自己批評である

日本の百一匹ワンちゃん、若沖『百犬図』でご挨拶します(→)。