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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ちょこちょこ

2011年01月25日 | Weblog
1/20、昼に会議を終えると、新百合ヶ丘でIと妻とをつかまえて大倉山へ。ギャラリーかれんで、念願かなって、川戸由紀さんの作品を購入した。

1/21、卒論の面接と定期テスト(小田急線が遅れたことで、遅刻する学生が続出。大変だった。)の試験監督を終えて、夕方、3331へ。island Mediumにて、遠藤一郎のライブパフォーマンスを見る。はじまる前に時間があったので、北かまへ。美味いし、テーブル席があって子ども連れにはいい店だったのだけれど、お客が少なかった。秋葉原はラーメン激戦区なのか。ライブパフォーマンスの後、ある方からこのパフォーマンスは音楽的だという感想をうかがい、とても納得した。んー、遠藤の表現はもっと批評されて然るべき、とあらためて思う。

1/22、一日、卒論の面接。今年は15人ほどの学生を受け持った。就活のせいで卒論に取りかかったのが遅くて、みんな苦労したけれど、結果的に完成したものを読むと各人らしい論文が多くて嬉しくなる。「ヘタリア」の擬人化を論じた腐女子論が木村ゼミのとりあえず一番と言うことで、この学生に一週間後の卒論発表会で頑張ってもらうことにした。

1/23、遠藤一郎の展示を見にBeamsに行く。さらに歩いてトーキョーワンダーサイト渋谷にも行って、わくわくShibuyaとカオス*ラウンジの展示を見た。2時に、あるダンスグループの方たちと西武の地下でお話し合いをした。ちょっと数年活動が地味になってはいたけれど、メンバー内のミーティングは週2で行っていたのだそう。かなりはちゃめちゃにも思える構想だけれど、はちゃめちゃじゃない芸術表現なんて何の意味がある!と思っているので、基本的に賛成し、応援してゆくことになった。ダンスの新しいコンセプト。4月半ばになにかがあります、よ。

1/24、今日はお留守番。Iはとても元気。よくしゃべる(まだ言葉はしゃべらないけど)。「おかあさんといっしょ」が大好き。あそこに他のテレビ番組にはないどんな成分が含まれているというのか、とても気になる。寝る隙を突いて「glee」の一話~三話を見て、さらに「ロシェフォールの恋人たち」も見た。ジャック・ドゥミでまだ見ていなかった一本。とてもとても素晴らしい。ちょっと前にこのブログで「ダンスと色」について書いたけれど、ゴンドリーのルーツに当たるものが恐らくこの色世界なのではないか(憶測だけど)。大事なのは、これがスタジオセットではなく、ロケで撮影さていることで、ミュージカル的シーンが展開されている近景とは別に、遠景では普通に車が走っていたりひとが歩いていたりする。ほんとの日常のなかで非日常が展開されているのだ、日常とは別に、ではなく。日常/非日常の境界は明確ではあるけれども、なにやら日常へと非日常が浸食しているようにも見える。その端的な例が服の色なのではないか。服は服のまま、でも色遣いがとても非日常的(とはいえ、まったく奇抜というのでもない)。色はゴンドリーほどではないにしても、リズムを生み出し、人間関係を映し出している。こんな色世界に、そういえば遠藤一郎がライブパフォーマンスで用いる絵の具が似ているような気もしてきた。遠藤のあのシンプルだが鮮やかな色は何を示唆しているのだろう。

1/25、今日は一日採点。サッカー日韓戦がはじまるまで。と、いいながら、読みたい本についつい手が出る。"Duchamp in Context"がともかく面白い。いままで読まずにすいませんでした!ベルグソンの「笑い」論とデュシャン「レディメイド」概念との関係、、、など。今日は、Kupkaとデュシャンの類似性と相違点について書いてあったところを、ちらちらと。それにしても、Kupka、むちゃくちゃいいなー。テレパシーとか電磁波とか、目に見えないものについての物理学に随分影響を受けているのだそう。そのあたりのことも、いまとても気になっている。

KAT vol. 2 会場でお会いしましょう!

2010年12月02日 | Weblog
12/5の文学フリマで、学生たちと作っている雑誌「KAT」を今年も販売します。

今年も、強気な

800円

です。すいません。学生たちが「どうしても安売りしたくない!」(アンチ・ファスト文化らしいです)というもので。

昨年販売したvol.1も置く予定です。どうぞ、2冊お買い求め下さい。

今日は、表紙を決めて、紙を折っていたんですけれど(徹底的にローテクで進めています。製本は全部自分たちの手とコピー機だけです)、昨年同様二枚重ねで、薄い青の紙に下のクリーム色の紙がすけていて、かなりフェティッシュです(肌色上に履いた青色のストッキングみたいな、、、)。こんな色味の雑誌は、文フリで他にはないと思いますよ。

内容も、面白く仕上がっていると思います。ぼくとしては、学生たちと同年代の男の子、女の子に読んでもらいたいです。エリイのインタビュー読めば、就活で暗くなっている文化系B&Gも元気になるに違いない!篠田千明のインタビューも、彼女の幼少の頃から、来年の計画まで、「こんなことまで聞く?」ってところまで、根掘り葉掘りしてます。これは、女子大学生ならではのインタビュー集です。


マッチョな芸術界・批評界に、明るくてさわやかなガーリーパワーが飛び跳ねている88ページ、みたいな雑誌です。


ふろくは、彼女たちで「編集後記」をおしゃべりした音源がCD-Rで付きます。聴きながら読むと、なんていうか、、、「臨場感」あり、です。

当日学生たちが手売りしてます(ぼくも行きます。ひょっとしたらIと一緒です)。

KAT vol. 2ただいま編集中!

2010年11月23日 | Weblog
日本女子大学の三年生六人とすすめているKATが今年も雑誌を作ってます!
と、以前も紹介しましたが、乞うご期待です。

twitterもはじめました。
アカウントは、

kkatkatkatt

です。よろしくお願いします。

12/5は文学フリマにお越し下さい。ぜひぜひ。ブースはU-08です。

今回は、インタビューがテーマ。学生たちが、緊張でばくばく心臓いわせながら果敢に挑戦してきました。
ラインナップは、「エクス・ポ」に負けないぞ(笑)!

エリイ(Chim↑Pom)、小泉篤宏(サンガツ)、武田力(チェルフィッチュetc.)、tomad(Maltine Record)、篠田千明(快快)その他、あのひともこのひとも!

いまは、ふろくの話で盛り上がっております。

「CD-Rつけよう!」

「じゃ、なに入れる?」

「クリスマス・プレゼント?」

……


今日は、「トランスフォーメーション」(東京都現代美術館)→託児所→飴屋法水作品と遠征予定。合間に、3331でエイブルアートジャパンに立ち寄れれば。佐々木卓也さんの作品がみたいな、と。

「KAT vol. 2」近況

2010年11月16日 | Weblog
昨日、学生たちがインタビューを実行してきた。エリイ(Chim↑Pom)と武田力(チェルフィッチュなど)さんに。ぼくは先週大学にサンガツの小泉さんをお招きしてトークした。そして明日は快快の篠田にインタビュー。これで、tomadくんとあと何人か済んでいるのを含め、記事はそろってきた!なかなか、盛りだくさんの雑誌になりそうです。

いまのアートシーンを女子大学生たちが伝える!ってなかなかレアですよね。

乞うご期待!


雑記2

2010年11月03日 | Weblog
artscapeのレビューを更新しました。ご一読下さい。

ところで、昨日(11/2)神奈川県身ホールギャラリーに泉太郎「こねる」展を見てきました。
ここにも何度か書きましたが、今回カタログに4000字程度の原稿を書きました(カタログは今作含め泉くんのこれまでを網羅した作品集になっています。泉くんのエッセイ、学芸員の中野さんの論考とあとぼく以外では五十嵐太郎さんが執筆しています。2000円)。段落替えなしで五つのパートに分かれた文章、自分としてはちょっと特殊な原稿です、遊び心で泉くんに負けないようにしたいと思ったのでした。展示の内容は、ぼくが今回そういう仕方で関わっているからいうのではなく、素晴らしいです。少なくとも、金沢の「フィシュリ&ヴァイス」に匹敵する、いやそれ以上の面白さです。泉くんの作品は一見しただけでは単にふざけているように見えるかもしれませんが、そこにはそうとう知的な仕掛けがしこまれています。カタログにも書いたことなんですけれど、彼の作品のひとつ大きな特徴として、展示する空間で展示される映像作品を撮る、というやり方があります。すると、空間と映像は相互に照らし合い反省的になるわけですけれど、そうした仕掛けに頭がクラクラしまたそのクラクラに中毒的な感覚をもつのですが、今作ではとくに会場が広いために、映像が奥行きを活かしたものになっていて、とくに前後(手前と奥)に広く使っているために、遠近法的でありキュビスム的でもあるダイナミックな空間性が生まれています。かなり新鮮です。昨日の時点では、まだすべての空間が作品に埋めつくされていなくて、今後さらに新しい展示が増えていく予定だそうです。必見。

ところで、
いま12月の文学フリマに向けて、KAT第2号を制作しています。
KATというのは、ぼくが大学生と作っているサークルのことで、昨年、レビューやエッセイなどを載せた「KAT」という名の雑誌を文フリで販売しました。今年のテーマは「インタビュー」。学生たちが話を聞きたい相手に直接オファーし、インタビューを目下進めているところです(ぼくもインタビューしてます)。いまのところでオッケーが出ている(orインタビューを終えた)方を紹介すると、

チェルフィッチュの役者で独自の活動も行っている武田力さん
Chim↑Pomのエリイさん
快快の篠田千明さん
Maltine Recordsのtomadさん
サンガツの小泉篤宏さん
などです。

なかなか豪華なラインナップではないですか?
乞うご期待です。

ちなみに、先週の木曜日、tomadさんに新宿に来てらって学生二人とお話しをうかがいました。いやあ、すごい面白かった。生まれたときからポストモダンな世界に生きている人間がどう音楽や表現一般に向き合っているのか、すごい参考になりましたね。

ぼくがこの雑誌に期待するのは(この雑誌、ぼくはファシリテーターかもしれないけれど主導者ではないのです、編集長もぼくではなく学生だし)、若い女性の思考のかたちが言葉になること、です。いつまでたっても軽視・無視されたままでありつづけているそれを、どうにか顕在化させたいのです。

雑記

2010年10月31日 | Weblog
最近のことを書きます。

□先週の日曜日と月曜日(10/24-25)に、金沢に行ってきた。学会などの機会に何度か行ったことがあったけれど、金沢21世紀美術館が出来てからは行くことがなかった。と、ということは、実ははじめて行きました、この美術館。今回の目的は、フィシュリ&ヴァイス展にかこつけてこの美術館を見に行くことと、育児ストレスを抱えているだろう(なんて本人は一切言わないのだけれど)妻の慰労をかねての1泊旅行。フィシュリ&ヴァイスについては、もう少ししたらartscapeにレビューを書いたので、そちらを参照していただきたい。それにしても、金沢21世紀美術館、お客さん入っていたなー。これは、すべての現代美術系の美術館は嫉妬しているのだろうなー。午前10時、まだ開館したばかりの時間に行ってみると(四時起きで、羽田発7:20の飛行機で行きました、ねむねむ)、すでにレストランは満杯、ひっきりなしにバスから観光客が団体様ご一行で降りてくる。「現代美術で街を活性化!」の最良の例なんですね、ここは。普通考えると明らかに「???」なゲンダイビジュツ。それが集客を誘う人気者になっている理由は、「現代美術の美学化」にあると思いました。まあ、難しいことはおいといて、「かわいいー」「きれー」といってそれで完結しうる作品を上手く選定して、上手く展示してあるのだ。いわば「美学の回帰」が、いま起きているわけですね、こういうところで。ある意味で、フィシュリ&ヴァイスもそんな受け止め方が出来るように展示してありました。

□金沢の目的の裏第1位は、「のどぐろ」を食べること。頑張って、「料亭」なるところに行ってみようということになって、泊まった片町のAPA HOTELから歩いて5分の、なんていったけな、ああ、勝一、ここに行ってみました。おいしかったけれど、赤ん坊がいるので、座敷でのんびり食べていると、カウンターでは、店主とお客二人がなんというか、マッチョな政治話に花を咲かせていて、なんとなく耳に入ってくるたびにお酒がまずくなり、どんどん酒が進んでしまった。金沢は文化的な街なのだ、とかつてそんなことを聞かされたのを思い出した。いやいや、それにしても、金沢は上品な文化の街だと思った。堅町というエリアの通りは、2泊目の早朝に散歩したのだけれど、とても洗練されていて、雰囲気は裏原宿に似ているのだけれど、ずっとおしゃれで、東京のごみごみした感じがない。なんだかそう思うと、男の子も女の子もとてもおしゃれだ。女子高生のローソックス人気は、なんとなく理解しがたかったけれど(大抵の女子は健康的に日焼けしている)。散歩の後、2日目は、白川郷へ。とてもよく整備された「日本の田舎」のテーマパーク。リアルだけどなんだかヴァーチャル。少なくとも、昔の日本人はみんなこういうところで暮らしていたんだ、なんて思っちゃいけない、これは宿場町としてまた養蚕などで成功した裕福な町の一例。

□そうそう、ひとつ考えてしまったことがあったのでした。ひがし茶屋街というエリアで、とても綺麗な町並みにあるカフェにいたときに、背の高い女装の男性と会いました。畳敷きの部屋とその並びにいろりのある木の床の部屋があり、ぼくらは畳、彼はひとり木の床で二組、同じ時間を過ごしていました。その後も、通りで彼とすれ違ったりしたんでけすが、彼の衣装が女装であったことは個人の趣味の範囲として別段問題にするつもりはないのですけれど、その衣装がミニスカートで時折パンチラしていたんです。ポリティカル・コレクトネス的には、彼の異性装に寛容であるべきだと思うのですけれど、エステティック・コレクトネス(なんて言葉はないですけれど)からすれば、ちょっと参る、やめて欲しいと思ってしまったのです。個人の生き方に対して社会が寛容である必要はあるけれど、社会が見たくない気持ちに対して個人はまた寛容であるべきではないか、なんてこと思ったのです。(ぼくはパンチラまで寛容であるべきなのか、と悩んだのです)









「大丈夫」と現代日本のポップス

2010年10月10日 | Weblog
昨日の上智大のワークショップで伊藤が「ヒルクライム問題」「レミオロメン問題」と口にしましたが、このテーマはぼくも気になっていて、今年の頭に出産後産婦人科を毎日通っていたとき、J-WAVEであまりに頻繁にレミオロメンの「花鳥風月」がかかるので、そしてその歌詞があまりに貧しいので、二人で「問題」と呼んで笑っていたのに端を発するものです。

それ以来ずっとになっていた「問題」ですが、あらためて考えてみようかなと思って、いまヒルクライムの「大丈夫」の歌詞ってどんなだったっけと調べていると、歌詞の情報の脇に「大丈夫」というタイトルの別の歌手、別の曲のリストが出てきて、こんなに多いのかと驚きました。夏川りみ、古内東子、斉藤和義、ウルフルズ、たむらぱん、その他にも何曲かある。さらに、You Tubeで「大丈夫」と検索してみるとあるある。(「大丈夫だよ」というタイトルの曲もたくさんある)

気になる点は二つで、
ひとつは、描写が貧しくなる傾向と貧しいことの効果
ひとつは、三人称から一人称/二人称で語りかける「大丈夫」へ
ということ。

描写が貧しくなるといわゆる芸術性(作家の技量の呈示)は低下する。また、表現の個性が減少する(表現が陳腐化する)。その一方で、それは敷居が低くなりまたある特定の状況が歌われるという限定性が減るから聴き手がアクセスしやすくなり、また聴き手の勝手な解釈が可能になる。

それはまた、曲中で展開される物語を聴くという傾向が減る分、聴き手各人が求める欲求に応えやすくなっているということでもある。音楽のドラッグ化なんて話がここにある。

そして、それはまた、物語をある情景の描写を通して堪能させるのではなく、むしろ聴き手を登場人物の一人にして--聴き手を「あなた」と呼びかけて--送り手と受け手のダイレクトなコンタクトを生むことを目指すということにもつながってゆく。

じっくり考えてみたいテーマ。でも、正直、そんな暇はない。誰かやってくれないだろうか。ゼミの学生でもいいんだけど。

それにしても、聴き手(歌詞のなかの「君」)に「大丈夫」と語りかける歌い手は、一体どんな存在なんだろう。なんで「大丈夫」なんて言えるんだろう、ちょっと尊大すぎやしないか。普通、そんな批判なり警戒なりが起こると思うのだけれど、それどころじゃなく、ともかく誰かに「大丈夫」といって欲しいのがいまのこの世ということなのだろうか。だとすると、宗教の時代あるいは絶対者を希求する時代ということ、なの、か。

ヒルクライム「大丈夫」

「俺が大丈夫っていえば、きみはきっと大丈夫で」「そして世界は君に告げる/「あなたはきっと大丈夫」って/心を開いた君に世界中が愛をくれる」

FUNKY MONKY BABYS「大丈夫だよ」

「君が今 夢を目の前に立ち尽くしていても/大丈夫 大丈夫 みんなが君の努力を分かってるから/今日はゆっくり休んで 明日頑張りなよ/大丈夫 大丈夫 明日がやさしく君を迎えてくれるから」


ところで、こういう批評っていまとても少ないと思うんだけれど、ぼくの勉強不足でしょうか。音楽批評って、自分たちの好きな音楽を理屈でを作って好きだというものになっていませんか?時代が要請する問題を設定するというよりは、自分の属する趣味の共同体の枠のなかで言葉を生成している気がして、ぼくは行かないつもりなのですが、明日のエクス・ポナイトではそうした点は話題にならないのでしょうか。

広島→京都旅行(with KAT)

2010年09月18日 | Weblog
9/12-14、広島と京都に旅行してきました。(その前日には、蓮沼執太イベント「音楽からとんでみる2」を六本木に見に行っていた。いまは実家の新潟で暮らしている昔の教え子に遭遇。ぼくのブログで蓮沼君を知ってわざわざ見に来たのだとか。とってもすばらしいイベントだったので、よかった。そっかー、ブログ見て新潟から来るひともいるんだよなーと、最近更新頻度が落ちていることを反省。そうそう、素晴らしいイベントでした。けど、翌日五時起きで新幹線乗らなきゃ行けなかったので、その点辛かったです。)

広島は、広島市現代美術館の特別展「もっと動きを:振り付け師としてのアーティスト」を見るのがメインの目的だったのですが、んー、ちょっと残念な気持ちになりました。橋本聡は、とても注目しているのだけれど、装置だけ置いてあって、観客にやってみてとインストラクションを与えるといった作品ばかりで、正直「やってみたけれど、なにか?」と思わせられた。橋本本人がいて、へんなこと延々やっているというのは一度遭遇して面白かったし、そういう方向では大いに期待しているのですが、こうした作品群は、オノ・ヨーコ的アイディアのシンプルな変奏としか思えなかったです。今村悟にも心惹かれなかったなー。正直、企画意図があまりよく分からなかったんですよね。なぜ「振り付け師」として「アーティスト」を見るのか、そう見ることでなにがどうなるのか、現代美術史にそういうポイントがあることは、多くのひとにとってはもう了解済みのことだと思うので、さて、それをどう考えるか、ということにちゃんと応えて欲しかったです。やっばり、小林耕平や泉太郎(田中功起、田口行弘、Chim↑Pom etc)という作家をフォローせずして、このテーマを扱うのはとても難しいのではと思いました。

それよりも、「メモリー/メモリアル 65年目の夏に」の展示に一層の違和感をもちました。メモリーをメモリアルにすることには、つねにどこかしら思い上がりというか、やってはいけないことが含まれてしまう。「メモリー」(広島におちた原爆の記憶)は、当事者によるのでなければ、それを扱おうとしたときにどうしたって社会に媒介されてしまったり、すでにあるイメージやイデオロギーに媒介されてしまうものだ。この危うさ、恐ろしさを意識することの難しさ。まあ、簡単に言えば、なぜChim↑PomはNGでここに展示されている作品はOKなのかがぼくにはよく分からないのです。それに加えて、ここに展示されているどの作品よりも、Chim↑Pomの作品の方が優れていると思わずにはいられないのです。そのあたりのことの始末がついていないのに、平然とこうした展示が展開されている、そのことに薄ら寒い気持ちにさせられました。

そして、その足で、平和記念資料館を見に行きました。この展示を「美術」という視点から見るならば、どの広島(原爆を扱った)美術もこの展示にはかなわない、そう思いました。「美術」という視点を外して、ではありません、「美術」という視点から見て、かなわないと思ったのです。多分、「広島美術」の作り手は、自分の作品がこの展示に並べて評定されると考えてはいないと思います。思っていたら、内容(取り組み方)が変わる気がするからです。まず、おそらく、絶対駄目だ、勝てない、と思うはずです。その上で、自分はどうそれでも拮抗するなにかを生むかと考えるはずです。そう、「メモリー/メモリアル」の作品にはここと「拮抗する」ものにするという発想はきっとない、と思いました。平和記念資料館の展示は、「美術」の視点から見れば、プロセスアートの展示です。ぼくは即座にロバート・スミッソンを思い出しました。テクノロジーを利用したロマンティシズムを現実の空間に展開してみようとしたのがスミッソン的アートであるならば、そのひとつのエクストリームとして、原爆投下とその結果としての資料館の展示を見ることが出来る。もちろん、この資料館は、悲惨な原爆投下の現実を忘れないようにし死者を弔い平和を祈念する場所です。それはもちろん、そうです。けれども、資料館は、その思いへ見る者を導くのに、見る前に予想していたように、過度に感情を煽るようなことをしていませんでした(少なくとも、ぼくはそう思いました)。むしろそこで起きたことを追体験させ、そこで起きた事実へと見る者を向き合わせることに重心が置かれていると思いました。実験芸術が、「もし~したら」→「こうなる」という指令と応答(結果)のセットからなるものだとすれば、そのエクストリームがこれなのではないか。これ以上の実験はありえない、してはならない、けれども、過去に現実としてこういう結果として行ってしまった。そこに向き合うこと。その点で、もちろん高熱で歪んだ瓦や、燃えた衣服や眼鏡なども印象的だったのですが、もっと考えてみたいのは、生き残った方たちの手による絵でした。決して優れた絵画ではないかもしれないけれど、そこでなにが起きていたのかを伝えるのに十分説得力のある絵。ここに、絵のポテンシャルを見ることは無意味なのでしょうか。絵になにができるのか、そうしたことを考えるのにふさわしい対象としてこうした絵を見つめることはありなのではないか。そんなことを思いました。

その後、ひろしま美術館に行きました。夕食には、ひろしまつけ麺を食べてみました。昼は、麗ちゃんでお好み焼き。小麦粉がもちもちしていて、これが本場かと。

翌日は、京都へ。携帯でやりとりして竜安寺の枯山水の前で寝そべっているKATメンバーと合流。はじめてのKATでの旅行。超まったりペースで京都を満喫。祇園 小森で一時間以上だべる。銀閣寺近いけど明日に回して、夕暮れの時間は鴨川土手でさらにまったりを選択。近くの居酒屋で三時間くらいまただべる。

3日目は、単独行動させてもらって、午前中は、京都国際マンガミュージアムで、フィギュアの特別展を見て、さらに京都国立近代美術館にて、「「日本画」の前衛」展を見る。そこから南禅寺に行って、狩野派のふすま絵で踊る虎たちを堪能。無茶かわいいのだ。石庭でしばらくぼーっとしていたのだけれど、あれはやはりいいですね。ぼーっとするのには、何も考えるのではなく無意味に脳を働かせることが大事なようで、無意味に働くために、巨石とか松とかあるんですね。巨石が3つ並んでいるのは、虎の親子なんですと、境内に響く自動アナウンスが教えてくれたときには爆笑してしまいました。だって、ただの石にしかみえない。それを虎に思うこの無意味なイメージの遊びに耽溺しているときこそ、無心なのか、と思ったり。そして、この時点で2時くらいだったのですが、バスで駅の方に向かって、新福菜館へ。何年ぶりだろう、あの黒い焼きめしが忘れられなくて忘れられなくて(でも、せっかく京都に来たのに焼きめし食べるのもなーというのがあったりして)、ようやく食べることができました。やっぱり、美味い。とても美味い。ラーメンも美味い。見ていると、ほとんどのお客がチャーハンとラーメンを注文。1200円くらいになるのに、みんなそうやって注文している。そのあたりが、この店の人気を物語っている気がした。

祝!快快

2010年09月05日 | Weblog
もう少しブログ更新のペースを速めたいなあと心で思いつつ、まったく実行できず。8月は論文書くのにからだぼろぼろになりました(あまりよくない感じのできものとか顔に出来たりして)。

artscapeの八月分がアップされました
8月は月末に体調を悪くしたりして、大事な二本を来月回しにしてしまいました。Chim↑Pomの「Imagine」とロロの「ボーイ・ミーツ・ガール」です。あと、プレビューを提出し忘れました!しばしお待ちを。

ところで、快快がチューリッヒの演劇フェスティバルで賞をとったそうです。おめでとう!

9/2-3に青森旅行に行ってきました。
十和田市現代美術館青森県立美術館をはじめて見てきました。しかし、1日目、なんと十和田は、メンテナンスのために臨時休館してまして、なかに入れなかった(泣)のですが、それでも、ガラス張りの建物の構造故に、なかに入らずしてかなりの作品を(なんとなくですが)見ることが出来ました。窓越しのロン・ミュエクおばさんetc.。道を隔てた向かいの公園には、草間彌生の作品がジャングルジムや動物の乗り物のように展示してあって、美術館が日常へと広がってゆく感じがとても面白く、なるほどこうやって現代美術を活用する方法があるのかと思いました。2日目の青森県立美術館も、現代美術の今日的なあり方について考えさせられる展示でした。奈良美智の展示。よかった。奈良の強さをすごく感じた。美術史的文脈から自由に、躍動する子供たち。とくに今回は、音楽との関係が気になった。ギターを下げた子供の絵の下に「1.2.3.4」と数字が書いてある。どうみても、これは曲のはじまるときのかけ声だ。見ていると、かけ声が聞こえてくる。それはきっと「パンク」ミュージックを聞いたことのある者ならば誰の頭からも聞こえてくる声だろう。そこに理屈はない、誰もが感じられる躍動だけがある。あと、そうした情熱の絵画化と関連するのだけれど、奈良には宗教性がある(キェルケゴール曰く「信仰は人間にとって最高の情熱」)。村上隆には、こうした側面が希薄だ。奈良にしかできないこと。ここに、なにやら興味深い秘密が隠されているように思われる。

Iは「嵐を呼ぶ男」で、退院する日も、妻の実家から引っ越す日も嵐のような天気だったが、今回も1日目の夕方、突如、台風上陸のニュースが入って驚かされた。2日目の午前中、八甲田山を登って降りる間、嵐に見舞われた。

なんとかキェルケゴール論文脱稿。「國學院雑誌」に掲載予定。キェルケゴールのことを考える機会にはなったけれど、ドゥルーズのこと(主に「生成変化」や「シネマ」のミュージカル映画論)とミュージカル映画(ジーン・ケリー論)のことまで展開できなかった。そのあたりについて、もう一本、夏休み中に書きたい。

とかいって、目下のところ、課題は泉太郎論。秋に彼の個展があり、それに向けて書いてます。

それと、室伏鴻について論考を依頼されているので、それもやらねば(8月のsnacで突如上演された「常闇形」はよかったっすよ~~~)。

あと、アウトサイダーアートについても考えたくて、実は今一番勉強したいのがこれで、さてそんなあれこれ考えているとまたからだがあちこち凝ってきた、でも「アート・アフター・アート」(「アート」が終わった後のアート)について本気で考えなきゃな感じが益々高まっている、そんな気がしてしょうがないのですよ。

あいちトリエンナーレ2010

2010年08月26日 | Weblog
「賭博では無用の利益を得ることがある。それはあぶく銭といわれる。儲けがあぶく銭であるかどうかの境界を見定めるのは非常に難しい。それは根源的には、はずみとしかいいようのない贈与であること、自然からの贈与である部分が入っているからだ。近代資本主義の所有の概念は、ロック以降、自分の能動的な努力において獲得されるものを、正当な所有物として捉えてきた。しかし、どう考えたところで、そうした能動的な努力をなすより以前に、われわれには身体が与えられ、身体的な力能が与えられている。能力自身がそもそもあぶく銭ではないのか。あぶく銭を前提にしないと、正しく稼ぐことはできない。あぶく銭は労働の前提ではないのか。」(檜垣立哉『賭博/偶然の哲学』p. 151)

行きの新幹線で読書。はずみとしかいいようのない贈与としての各人の能力。それは労働の前提である。この労働(work)を芸術作品(art work)と言い換えてみてもいいかもしれない。作品はすべて能力の反映である。能力、ぼくだったら性能(performance)とかスペックとかいうかもしれないこれを、作品は映している。あいちトリエンナーレでぼくが考えていたのは、そのことだった。

山本高之の作品は、こどもに地獄をクラフトさせるといったものと、動物園の動物のために「一週間の歌」を替え歌したものをその動物の前で子供たちに合唱させるものの二点、長者町のエリアで展示されていた。こどもの性能の観察。

島袋道浩は、篠島の漁師たちに魚をさばいてもらう映像など。島民の性能。

平田オリザは、ロボットに演劇をさせる。ロボットの性能。

ぼくたちは必ずしも素晴らしい能力ばかりを見たいのではない。誰もが北島康介になれるわけじゃないし、なれたらいいのかもよく分からない。なったときの感触とか知りたいけど、「ああこうなんだ」という確認作業は、感動の大きさは多少異なっても、その他のどんな能力になる場合にだってできること。スーパーアスリートの能力は、人間の能力のレンジのあるエッジに触れているように思われる。けれども、エッジはきっといろいろなところに、各人の能力の内にそれそぞれあるはずだ。それぞれの能力はたまたまの「あぶく銭」で授かったものかもしれない、けれど、だからこそ各人の身体は魅力的なはずだと思う。各人の身体は、すべて、人間というもののエッジを示している。
ぼくたちはどんな身体にも興味がある。人間じゃない身体にも興味がある。アーティストの身体の反映(としての芸術作品)にばかり興味があるわけではない。むしろアーティストは、性能実験の運営者であればいいのかもしれない。運営者としての力量が問われる存在であればいいのかもしれない。

なんてこと、一昨日、昨日とあいちトリエンナーレ2010で名古屋市街をうろうろしながら思っていた。

学生たち15人を引率してだから、ときどき、作品よりもそれを見ている学生たちのことについて考えたりしていた(1/3くらいは、いい主婦、お母さんになるだろうなと思わせるおっとりでだからあんまりアートに反応しない女の子たち、彼女たちが専業主婦に収まる社会的環境は日本の未来に残されているのか?と、ちょっと心配になったりなど、余計なこと考えながら、うろうろしてました)。半分以上が「現代美術」初心者。だからこそ、反応が面白い。
ピップ&ポップがだんとつ一番人気だった。これだけたくさん見ていると「床に粉をまく」という方法にあちこちで出くわす。すると、その方法のコンペみたいのが見る者のなかで勝手にはじまったりするけど、「床に粉をまく」アワードの一位だろうな~。ジェラティンもよかったけど、学生たちは「???」ってなってた。

忙しくて、一週間近く妻子と別居状態。Iはぼくのこと忘れていないだろうか、、、

夏の雑感

2010年08月23日 | Weblog
「現代人が必要としているのは、恐れることなく、そして清廉に、自己の使命を告げ知らせる正直な厳粛さなのではないか、愛情をもって自己の使命をかかえ守る厳粛さ、性急に最高のものを捉えようとして人々を不安におとしいれることなく、使命をば、見る目に若々しく、そして美わしく、そして気高く保ち、万人の心惹くものでありながら、しかも困難であって高貴な人々をのみ観劇せしめるものたらしめる、正直な厳粛さではないか?高貴な心の持ち主は困難なことにしか感激を覚えないものなのだ」(キェルケゴール『おそれとおののき』)

いま、8/23、朝の8時。蓮沼さんの「wannapunch!」を聴きながら、論文をまとめる心の準備をしている最中だったのだけれど、なんだか150年以上前のデンマークの若者の言葉が、いまに響いても全然いいような気がして、引用してみました。いいでしょ?

「wannapunch!」は、なにかするときのバックミュージックとしてはいまのところ最強で、なんども繰り返し再生しながら、『おそれとおののき』についての論文を書いてます。

今年は、このアルバムに出会えたよい年だ、と思ったり、その他にもいろいろと目の覚める上演や作品に出会ったりしていて、さすがテン年代だぜ!という気持ちがパンパン。なんてときに、また新しい希望に遭遇した。昨日、王子小劇場での上演、ロロ、「ボーイ・ミーツ・ガール」。

いま、一晩が過ぎ、こうやって自宅でワープロに向き合っているなんてときにも、思い出すと背筋がぞくぞくする。

ぞくぞく
ぞくぞく
ぞくぞく
ぞくぞく

もちろん、いい意味で、わくわくが未来形だとすれば、結果として残った興奮の炭火が熱を放つように、

ぞくぞく
ぞくぞく

(熱い気持ちが「ぞくぞく」だと寒い表現になってしまうのか、だから言い当ててない気がワープロで文字化するとあるんだけれど、事実、腕のあたりにさむいぼでて、背中が震えているのですよ)

こういうとあれなんだけど、なんだか「自分の作品だ」なんてことさえ思ってしまった。正直「いなほがゆれるやっさやっさ」と盆踊り曲が流れた瞬間は、心底驚き、あっけにとられましたが(この曲は、ぼくの故郷千葉県東金市で毎年夏に行われる「やっさ祭り」の曲で、朝から晩までこの曲を無限にループさせながら踊りつづけるのですが、そんな曲がなんで突然!と自分の心のHDDを覗き込まれてえぐられるような、偶然の瞬間でした。どうも主人公役の男の子が同郷なのらしい)。いま自分が思っていること(キェルケゴール、ニーチェ、ドゥルーズ、、、生成変化、、、あるいはジーン・ケリー)、あればいいなあと感じてきたこと、ものについてのアプローチ、ユーモアの感覚、そしてなによりも「愛」をテーマにしちゃうっていうその感じ(いま、つとめて大雑把に書いてます、さらっと書けない、書いたことにしたくない)。『おそれとおののき』は、愛というか信仰がテーマなんだけど、でも、信仰(ある宗派に限定したなにか)と思わないで愛と言い換えちゃった方がいいように思うのだけれど、そうした信仰がテーマで、これって、不可能事を不可能事として徹底的にみとめた(あきらめた)上で、みとめることを徹底することでそれを同時にあきらめない、ということなんですね、信仰って。そういう徹底してあきらめることであきらめないひとをキェルケゴールは「信仰の騎士」と呼ぶんだけど、この信仰の騎士をドゥルーズ/ガタリは生成変化する人間と呼ぶんですよ。

そして、このことは、魔法(魔法論)と関係あります。ドゥルーズ/ガタリは「われわれ魔法使い」と自称してますから(昨日の晩、ある日のアフタートークでゲストだったという藤原ちからさんと終演後話をしてたら、ぼくの魔法論ことを話題にしてくれたらしい。進み方がスローですいません、でも、その話題とこの公演はどんぴしゃです、確かに)。

50回恋をして、さらに100回の恋をする主人公桃田くんは、そんな哲学的考察で頭がいっぱいのぼくには、信仰の騎士にしか見えなくて、あるいは嬉々として永遠回帰し続ける超人みたいなもので、これまではかたっくるしくか、過度に叙情的にしかそんなものは舞台化されなかったかもしれないのだが、「ボーイ・ミーツ・ガール」は、余計なものは高速運転で吹き飛ばして、純粋な本質的なところだけがっつり取り出して、観客を楽しませてくれ、泣かせてくれるのだった。すげー。アイロニーはゼロ。それでいいじゃん、全然いい。グッド・バイ逡巡(さようなら「何言ったって裏返っていく彼や彼女」)。ただただ、情熱が作動すること、それが重要なのだ。いや、それが難しいのだ。そこにとてつもない困難があるのだ。

「信仰は人間のうちにある最高の情熱である。おそらくどの世代にも、信仰にさえ到達しない人がたくさんいることだろう。しかし、その先まで達したなどという人は一人もいはしない。はたして現代にも信仰を発見しない人がたくさんいるかどうか、そんなことをわたしは決定しようとは思わない、わたしはただあえてわたし自身を引き合いに出すばかりである。そのわたしは、信仰への道は遼遠だ、と隠さず申し述べておく。」「しかし信仰に達した者は(格別に才能に恵まれた人であろうと、愚鈍な人であろうと、それは事態になんのかかわりもない)、信仰でとどまることをしないのである、それどころか、立ち止まれなどとといわれたら、彼は憤慨するにちがいない。それはちょうど恋をしている男に向かって、おまえは恋にとどまっている、といったら、彼が怒るだろうと同じことである。なぜかというに、ぼくは恋に生きているのだから、けっして立ち止まってはいないのだ、と彼は答えるにちがいないからだ。けれども、彼はその先まで進むわけでもない、何か別のものに達するわけでもない、なぜかというに、もし彼が別のものを発見すれば、彼はまた別の話をするはずだからだ。」(同上)


ところで、
いま発売されている『美術手帖』に快快と遠藤一郎のこと書きました。「ここがあるだけでその外部はない」というタイトルです。ぼくとしては『RH02』に書いた「彼らは「日本・現代・美術」ではない」の続編にあたる文章です。ようやく続編書けたという気持ちがあり、またここからはじまるいろいろがある気がして、ぞくぞくしてます。本屋で図書館で立ち読みよろしくです。

ベクトルズのトークを行います(7/25@snac)

2010年07月23日 | Weblog
ベクトルズのトークイベントが今度の日曜日、snacにて行われます。
よろしくお願いします。

今回は、三人(佐々木敦さん、大谷能生さん、とぼく)が一個ずつ話したいテーマを持ちよって、それについて三人で話すという内容になっています。

それでぼくは「魔法」をテーマに話をしようと思っていたのですが(今後、このキーワードを通していろいろな芸術現象について考えてみようと思っているんですけれど)、今回、そのテーマについて話す準備がまだ整っておらず、いや、そういうこともあるけれど、別に話しておきたいことが出てきたので、違うテーマで話をするつもりです。

来月号の「美術手帖」に、快快の「SHIBAHAMA」について書いて欲しいと依頼があり、ならばせっかくの機会と思い、快快と遠藤一郎という二組の作家を通して、今日のポストモダン的状況について整理してみようと考えています。単にベタでも単にメタでもない、ベタでもメタでもごっちゃに煮込まれてしまっているような状況、ハイ/ローとか、演劇/非演劇(ex.日常)とか、美術/非美術(ex.生活)とかの境界線がとても曖昧になってきているような状況というんですかね、そういう状況について真摯に応答しようとしているが故に、ユルく見えたり、イージーに見えたりもする、故に批判されやすいヴァルネラブルな彼らについて、まじめに考えてみようと思うんです。なんでこれほどまでにぼくはひかれているのか、、、ほとんどそれは予感でしかないんですけれど、自分の予感に賭けて文章を書いてみようかな、と準備しています。

それで、日曜日の「ベクトルズ」では、草稿段階の原稿をお配りして、それをもとにプレゼンをし、佐々木さん大谷さんの二人から、またフロアにお越し下さったみなさんからコメントをもらおうかと思っています。

このこともまた、ぼくの原稿に関わっていることになるかもしれなくて、つまり、完成稿/草稿の区別とか、原稿/つぶやきとかの境界線が曖昧になっている状況のなかで文章を書くってどんなことだろうと考えるひとつの機会になればと思います。

ということで、ここに、当日配る草稿のさらに草稿(草稿中の草稿)をアップしてみようかとも追っているのですが、今晩あたり。


ところで(そうだ、このこと書こうと思っていたのだった)、ポストモダン的状況なんて話の延長で、月曜のトヨタについて考えることができるし、そういうこと書かずして「分からない」とだけぽつり言っているのはよくないと思っていたのでした。いや、あの、シンプルに言うと、ダンスの世間における「相田みつお問題」というのでしょうか、そんなことを考えたくなる、考えないといないように思うということです。キミホ・ハルバートの作品は、美術で言えば「クリスチャン・ラッセン」みたいなものではないかと思います。ダンスにおけるラッセン的なものについてどう考えればいいのか。




「2人~」へ(9)

2010年07月10日 | Weblog
ぼくは今日のイベントの冒頭で、自分なりの考えを少し話そうかと思っています。それは、高橋さん、伊藤さんをお招きする理由にも関連するわけですが、最近の美術の動向でぼくが興味を持っているのは以下のような傾向を示す作品ではないかと、感じています。

・アイロニー/ナショナリズム(ex.スーパーフラット、悪い場所論、会田誠、カオス*ラウンジ)から自由
・マイナーな抵抗としてのアート観(ex. マイクロポップ)から自由
・単独ではなくグループ(集団、集合)を重視すること
・観客とのコミュニケーションを重視すること
・魔術性(別の世界の開示/偶然性へとひらく)
・未来志向

最初の2点、この十年くらい現代美術の批評を賑わしたこうした傾向から自由であることが、ゼロゼロ年代からテン年代へ進んだなかで起きた大きな変化なのかもしれません。もちろん、最初の2点が指摘した現状(社会や美術界の現状)が大きく変化したわけありません、おおざっぱにいって「ポストモダン」な状況をぼくたちが生きているのは間違いありません。現状の認識をそうした志向と共有しつつ、「悪い場所」のナショナリズムにこだわることなく、また(メジャーと対になる)マイナーの立場に自分を置くこともせず、根本的な仕方で芸術の可能性を探究し、この場で、なにが出来るのかをフラットに思考すること。すべての価値が相対化された後で、凝り固まった思考をほぐしてゆくこと、その上で、あらためて芸術の可能性をダイナミックにひらいてゆくこと。

昨日は、お客さんが少なくてもいいなどと書いてしまいましたが、もちろん、高橋さん、伊藤さんのお話を多くのひとに聞いてもらえらたと思っております。よろしくお願いします。