Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

DC2

2008年09月14日 | DIRECT CONTACT
DIRECT CONTACT vol. 2にお越し下さったみなさま、どうもありがとうございました!
次回の企画を大谷さんと進めています。ご期待下さい。

批評文を募集しています。こちらも、よろしくお願いします。

9/9は爆音

2008年09月09日 | DIRECT CONTACT
今日は、第1日目です。
大橋可也&ダンサーズは三日間新作「Black Swan」上演していきますが、音楽の秋山徹次は、作品が毎日異なります。今日は、爆音です。昨日のリハを見る限りでは、秋山さんのパートにはまったらこれは三日間こないと、という気持ちになってしまうこと必定です。ご期待下さい。

明日(9/9)からDC2はじまります

2008年09月08日 | DIRECT CONTACT
9/8
昨日、DC(DIRECT CONTACT)2のリハーサルがスタート。大橋作品のリハの間考えていたのは、壁が白く塗られた天井の高いこの空間は、いわゆる劇場ともSTスポットの様なスタジオとも違って、見ることに集中するにはとてもいい、ということ。ギャラリーというのは、見るために工夫された場所なんだな、と当然のことかもしれないけれど、あらためてそう感じた。幕とか余計なものがなく、過剰にドラマティックでもなく、ただ白い空間がぽっかり空いている。「すべて平等に感じるために」などと、宣伝文に書いたけれど、ちょっと残酷なくらい、ここはそれにふさわしい場所だと思う。


明日から三日間、とうとうはじまります。

秋山徹次×大橋可也&ダンサーズという組み合わせは、やっぱりすごいんではないか。

予約なしでも大丈夫です。どうぞ、お越し下さい!
(秋山の「Lost Weekdays」は、毎日違う作品を演奏します。)
また批評文を募集します。こちらもよろしくお願いします。


DIRECTCONTACT Vol.2
すべて平等に感じるため、同じ空間に置かれた演奏行為と身体表現

2008.09.09~09.11
OPEN 19:30 START 20:00
Charge 2,000円
会場:TEMPORARY CONTEMPORARY(中央区月島1-14-7旭倉庫2F)

PROGRAM


○大橋可也&ダンサーズ 新作『Black Swan』

09.09~09.11

【出演者、スタッフ】

出演:皆木正純、前田尚子、多田汐里、山田歩
振付:大橋可也
サウンド:牛川紀政

【大橋可也&ダンサーズ プロフィール】

「ダンスとは何か」という問いに立ち向かうことを活動の主題としているダンスカンパニー。その作品は舞踏の振付方法を援用して現代社会における身体のあり方を追求している。
1999年、結成。2000年、「バニョレ国際振付賞2000ヨコハマプラットフォーム」に出場するも、出演者が全裸であるという理由で非公開の審査となる。以降、活動を休止。2003年、活動を再開。2005年、ニューヨークの代表的なアートスペース「The
Kitchen」に招聘される。2008年12月28日には新国立劇場小劇場にて『帝国、エアリアル』を発表予定。

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○秋山徹次 3DAYS CONCERT 『Lost Weekdays』

【出演】

Day 1 (9/9) : 「Don't Forget to Boogie extended」
出演:秋山徹次(electric "boogie" guitar)

Day 2 (9/10):「The Stake (for acoustic guitar and electronics)」
出演:秋山徹次(acoustic guitar)、中村としまる(no-input mixing board)

Day 3 (9/11) :「U-Day」
出演:Satanic Abandoned Rock & Roll Society
[秋山徹次(dobro/high frequency)、宮本尚晃(electric guitar/high-mid frequency)、TAMARU(electric bass/low-mid frequency)、ユタカワサキ(synthesizer/low frequency)]


【秋山徹次 プロフィール】

秋山徹次/Tetuzi AKIYAMA(ギター、その他の楽器による即興および非即興音楽
演奏家)
1964年4月13日東京生まれ。

ギターという楽器の持つ特質に、自身の欲求をミニマルかつストレートな形で加
えていくことによる、原始的で即物的な意味合いを含んだ演奏を得意とする。ミ
クロからマクロに至る音量を、繊細に、ときには大胆にコントロールし、身体の
電子化を試る。

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【企画】大谷能生、木村覚、長嶺一徹、タマダプロジェクトコーポレーション

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【予約・会場お問合せ】

info@space-tc.com
03-3533-0880(アートバンク)
(お名前、人数、お日にちを公演前日までにお知らせください。折り返し予約番号をご連絡いたします。)


盗用

2008年09月04日 | Weblog
下に、DC2に関する新しい記事を書いたばかりですが、備忘録として。

ちょっと前の宮沢章夫「富士日記2.1」に、学生のレポートのことがあった。ぼくも2つの大学で7月の末から8月にかけて採点をしていた。400人分のレポートとかテストとかに目を通して、宮沢さんとほぼ同じ経験をした。ぼくの場合は、なんとぼくのHPからまるまるコピペした輩が出た。頭と尻尾にちょっとコメントしているのだが、それもほとんど内容に触れておらず、しかもその内容の部分で引用先がまったく記載されていなかった。つまり、その学生は自分が書いたことにしていたのだった。「それ、書いたの俺だよ」って言ってやりたいが、もう講義は終わってしまった。ホガースという美術家が書いた美術理論書にダンスのことが書いてあって、という非常にマイナーだがぼくにとっては大事なポイントについてメモしたもので、でもまさか学生がホガースのダンス論のことなどひとりで思いつくわけはなく(講義でも今回取り上げなかった)、誰の本を読んだんだ(誰もいないよな)?、、、と読み進めたら、文体に何だか見覚えがあるよ、ってこれ俺じゃん!

こんなレポートに単位をやるべきか。どうしたかはここでは触れないけれど、一個考えることがあった。学生はなんでこんなに簡単に、コピペした文章を大事な、自分の成績に関わるレポートとして提出してしまうのか。ばれないと思っているのかも知れないけれど、別件で、学生番号の近い、つまり学科の友人らしい2人組は、あからさま似ている内容の文章を提出してきたりして、それはどこかのHPから借用して、適当に自分の言葉に直して提出しただけだろーと、そんなのすぐばれちゃうじゃんってことを実に平気でしてしまったりするのもいた。レポートの1割弱は、そうしたコピペレポートだった(どこの大学かは明記しないでおく)。

何でこんなに簡単にコピペレポートを出してしまうのか、ばれないと思っている以外では、どんなことが考えられるだろう。

ひとつの仮説は、デスクトップに映るデータは自分の物という意識があるのではないかということ。windows95が出て、自分のパソコンとネットが繋がった時に、一番感動したのは、ネット上にあるデータを自分のパソコン内に所有出来るということだった。画像とかとくに。デスクトップには故に、自分の物と他人の物の区別がつきにくくさせる、というところがあるのではないか。

もうひとつの仮説は、自分の意見というのは、すべて他人の意見のコピーだから、他人の意見をコピペして自分の意見にしてもあまり気にならないということ。人間のレディ・メイド化。自分の考えなど、他人に同調することでしかない。コスプレみたいなもの。自分の意見は思い凝らしてえるものではなく(ネット上にあるものから)選んでえるものと考えているのではないか。

この夏の一番嫌な出来事だったなー。

DC2は批評文を募集します。(2)

2008年09月04日 | DIRECT CONTACT
 ぼくと大谷さんが、今回のDC2で批評文を募集するのは、それによって弟子を育てようとか、それによって自分たちの企画に賛同する者を増やそうとか、そうした動機からではない。

 大谷さんがぼくとの会話のなかでよく使う表現を流用するなら、「ただ」見て、見たものについて「ただ」書いたものが集まったとき一体何が起こるんだろうという期待と不安を実現させたい、という気持ちが、この呼びかけの動機でありそれ以外ではない。

 作品が内側に作る波紋と外側に作る波紋、そして作品が2つ並んだことでうまれる波紋の乱れ、そうした出来事の一々と総体について、観客となった各人が「あれは一体何だったのか?」と消えつつある感触を手繰って主体的に言葉を紡ぐこと、そしてその言葉たちがさらに複数の波紋を引き起こして乱れていくこと、そうした芸術の運動をめぐるありうべきだがそうは上手く転ばないことしばしばな事態を期待してのこと、なのである。

 「ただ」とは、作品に向き合う者の態度を指す。第一次テクストである作品こそ尊重されるべきであり、批評文は作品に向き合った身体が作品と衝突したそのショック体験から決して離れてはいけない、ということが「ただ」の意味内実をなす。無防備な「ただ」見る行為の直中では、ぼくたちは「何が何だか分からない!」という戸惑いを何らかの第二次テクスト(他人の批評や身の回りに漂っている批評的言説)によって中和し解消することが叶わず、いつまでも戸惑っているに相違なく、その戸惑いとともに書くことこそ「ただ」書くということだろう。

 批評は自己満足でもその裏返しの他者批判/称賛でもなく、自分が当の作品と出会ってしまったこと、その出会いが引き起こしてしまった両者の接合と分離あるいは痙攣状態を吟味すること、「ただ」それだけである。書くことは見たことに条件付けられていて、見たことで揺るがされたアイデンティティを回復するプロセスが書くことでもある。そこに新たな批評のフレームが生まれたり、既存のフレームが鋳造し直されたりすることだろう。その道程が不安に満ちていればそれだけ、批評は見たことのディテールの内に呪縛され、そしてそれだからこそ固有の輝きを保ち続けるだろう。自分語りの魅力も、分析する技術の誇示も、この「ただ」見た経験の細部から離れていってしまうなら、批評と呼ぶべき何かではとくにない。

 ところで(唐突に話題が飛びます)、自分の書いた小説よりも評論の方に十倍影響力があると嘆息しつつ、東浩紀はその理由について「本当に語りたい対象があまりに複雑で、こちらに沈黙を強いてくるだけのときに、その緩衝材として立ち現れ、人々にネタを提供し、おしゃべりを円滑にする」(東浩紀「なんとなく、考える」『文學界』9月号)のが評論だから、と最近書いていた。「ネタ」(あるいは「超訳」といってもいいか)としてしか評論の意義はないとする東にとって興味は評論の「力」(波及効果)である。「ブログ論壇」「サブカル論壇」の「隆盛」を論じることで「論壇」なるものを再生産させようする東が考えるような、対象(作品)のネタ化を促進する類の言葉とは別の言葉は、ないのだろうか。「沈黙」(分からない)と「ネタ」(分かる→消費の対象となる)の間に言葉を立ち上がらせてみることは、出来ないのだろうか。その苦しい楽しみは、ぼくたちのものではないのだろうか。「円滑」な「おしゃべり」以外のコミュニケーションは、ぼくたちにもう出来ないのだろうか。

 大谷さんとぼくとの企画ということについて、ひとは様々な憶測(先読み)をするのかもしれない。「何故この秋山・大橋という二組なのか?」あるいは「何故大谷と木村なのか」という企画意図について推測するメタ批評が投稿されることもあるかもしれない。けれども、あらかじめ断っておくと、当人たちは「ただ」企画しているのである。ミシンならぬ大橋可也&ダンサーズとこうもり傘ならぬ秋山徹次を解剖台ならぬ月島のギャラリーに並べてみたらどうなる???とギャハハ笑いながら、背筋をぞくぞくさせながら膝を付け合わせているだけなのである。何が起こるか当人たちだって分からないよ。分かるわけないじゃん。

 例えば、そもそも、大谷さんのこと、ぼくはよく分からない。分かることより分からないことの方がずっと多い。ひとつの肉体に収まっているのは、むちゃくちゃ謎めいた多様体なのだから当然。大谷さんにとってのぼくも、そうしたものだろう。そんで、互いがわけ分からないからこそ出会うってことの意味はあったりして、その直接的な衝突に賭をするっていうようなことが、このDCだったり、批評文の募集だったりする(とぼくは考えている)。


批評執筆を予定している方は、招待します!奮ってご参加を!
   ↓
批評文募集 要項

「排気口」「紙ひこうき」

2008年09月01日 | ダンス
8/24
イデビアン・クルー「排気口」を見た。旅館を舞台に演劇的というかダンサーが役柄をまとった形で登場、もちろんほぼ無言ですすむのだけれど、ダンスやしぐさだけで、人間模様が的確に表現されていて、さすがな演出。客演の安藤洋子は三味線をもって旅館の女主人?ぱきぱきと踊る。その一方で、井手のダンスは小さい。ちょっとした手や腕や体の部位の角度をつけることが、踊りになる。これがたいそう魅力的なのだ。小さい変化の方が効果が大きいというのは、いったいどういうことなんだろう。安藤の方は、自分の思い描いた軌道を十二分に身体がなぞらないと気が済まないみたいに見えるが、井手の方は、思い描いたものと実際にやってみている動きとにギャップが(距離が、マチが)ある気がする。出来ないというのではなくやらないというか。その余裕が余白が、単に動きの形ではなく、間とかグルーヴとかを生み出す。イデビアン・クルーが、日本のコンテンポラリー・ダンスの代表選手(メジャー級)と考えると、救われる気になる。ふわーっとした定まらない各役柄のアイデンティティが、からむ相手によってあっちにいったりこっちたにいったりと揺れるところもダンス的だ、というと、これはそうした「アイデンティティ」の問題を深く鋭く追求してきた井手であるからこそ、出てくるものなのであって、よく言われる「コンテンポラリーダンス」=「なんでもあり」みたいなこととそれはまったく無関係だ。感服。

8/28
ファビアン・プリオヴィユ&バレエ ノアの公演を見た(世田谷パブリックシアター)。二作品。「EDDIE」は、プリオヴィユのソロ。最初の最初、水を飲むと体が変容していくという演出で、それはちょっとベタだよと思いつつ、ごくごくちいさく、右手の人差し指と親指が何やら痙攣的に動いている、それが気になった。人差し指は伸ばして揺らすとバレエダンサーの脚のよう。ぼくは以前から小さく動くべき!と唱え続けてきておりますが(上のイデビアンについても同様)、やはり、こういうのいいと思うんですよね。身体へのデリカシーを感じる。後半は、いわゆる踊りっぽい動きになっていくのだけれど、立たない立てない状況を積極的に設定したりして、それもユニークな身体が生まれる一助をなしていた。手の形とかささいなところで、個性を感じさせるひとだなと思った。最後の蛍光スーツ(部分的)で踊る、べたな変身とかは、なんだか「ご愛敬」って思ってしまいましたが。
後半は、問題作「紙ひこうき」。高崎市のバレエ組織バレエ ノアの若いダンサー達が、プリオヴィユの演出・振り付けで踊った。高校生の日常をピナ・バウシュの方法論で「コンテンポラリー・ダンス」の作品へと仕立てた、といったところか。「女子高校生がバンドをはじめてレッド・ツェッペリンを完コピした」みたいなところがあって、それはよくやったともいえるし、しかしそれを今日の日本のコンテンポラリー・ダンスに一石を投じたみたいにいうのはさすがに言い過ぎになるだろうとも思った。別にバウシュに引きつけて考えなくてもいいが(しかし誰がどう見ても「バウシュ」のべたな応用なのだ)、あえてそうするなら、バウシュの「タンツテアター」のように、観客の方に向きときに観客に語りかけながら、日常的なオブジェとともに日常的な身振りを反復するという点では類似点があるものの、決定的に異なるのは、動きの意味や人間の相互関係が定まらず、あっちにこっちに変容していくという契機がないところ。日常がかなりシンプルな形で舞台に陳列されていく。故に単線的。ただし単調にならないのは、これだけ溌剌と女子高生たちが自分をオープンにしてくれているからだろう。頭を大きく上下にしながら長い髪を振り回すといったバウシュ的な「女性性」を強く意識させるダンスも出て来て、しかし、やはり若いと言うこともあるのだろうが、女性性の深みへと沈潜していくわけではなく、乱れる髪にはむしろ心地よい若いエロティシズムが発散されていった。恐らく、この作品の魅力の多くはそうした若さのエロティックさなのだろうと憶測するが、それが演出家の手腕によるものか、ダンサー達の自分への反省によるものか、あるいは制服というものに貼りついたコードのなせるわざか、よく分からず、そのよく分からないところが、この作品の評価を最終的に不確かにさせるところかもしれない。あと、この作品を作品たらしめたのは、演出家によるものと思われる一貫した音楽のセンスというのが大きいだろう。これもまた、リズムに特徴のある「バウシュ好み」といいたくなる選曲だった。
こうした外国人作家の日本ダンス界進出というのは、今後、増えていくのではないか。ぼくたちは「欧米」という冠に弱い。これほどベタに「バウシュ」な方法論を展開したプリオヴィユに対して「おまえそれ、何考えてるんだ?」と質すよりも、日本人の女の子にバウシュを踊らせてくれたことに、評価が与えられるとしたら、ちょっと!と思う。『DDD』の基調もそうだけれど、お稽古(レッスン)文化としてのダンスが一層ダンスのシーンを席巻していくことだろう。その際、いろいろなことがうやむやになっていくのかもしれない。