Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

日本が壊れる、多分それは本当に起こりうるだろう

2010年08月28日 | Weblog
民主党党員になって代表戦に一票入れるには、5月中旬までに手続きしておく必要があったんですね。なんかいらいらしますよね、いまの状況。民主党の内部で国民による選挙なしに総理が決まることになんか釈然としないものがあるのですが。

8月26日(木)のつぶやき

2010年08月27日 | I日記
09:41 from web
恵比寿で見逃した森村泰昌、昨日豊田市美術館で見た。キェルケゴール=ドゥルーズ(ガタリ)を読んでいる体には、かなりのインパクトだった。実存哲学としての森村作品。一部と二部が「男になる」と「女になる」に分かれているんだけれど、男になる方がずっと面白いのはなぜなんだろう。
by kmrsato on Twitter

あいちトリエンナーレ2010

2010年08月26日 | Weblog
「賭博では無用の利益を得ることがある。それはあぶく銭といわれる。儲けがあぶく銭であるかどうかの境界を見定めるのは非常に難しい。それは根源的には、はずみとしかいいようのない贈与であること、自然からの贈与である部分が入っているからだ。近代資本主義の所有の概念は、ロック以降、自分の能動的な努力において獲得されるものを、正当な所有物として捉えてきた。しかし、どう考えたところで、そうした能動的な努力をなすより以前に、われわれには身体が与えられ、身体的な力能が与えられている。能力自身がそもそもあぶく銭ではないのか。あぶく銭を前提にしないと、正しく稼ぐことはできない。あぶく銭は労働の前提ではないのか。」(檜垣立哉『賭博/偶然の哲学』p. 151)

行きの新幹線で読書。はずみとしかいいようのない贈与としての各人の能力。それは労働の前提である。この労働(work)を芸術作品(art work)と言い換えてみてもいいかもしれない。作品はすべて能力の反映である。能力、ぼくだったら性能(performance)とかスペックとかいうかもしれないこれを、作品は映している。あいちトリエンナーレでぼくが考えていたのは、そのことだった。

山本高之の作品は、こどもに地獄をクラフトさせるといったものと、動物園の動物のために「一週間の歌」を替え歌したものをその動物の前で子供たちに合唱させるものの二点、長者町のエリアで展示されていた。こどもの性能の観察。

島袋道浩は、篠島の漁師たちに魚をさばいてもらう映像など。島民の性能。

平田オリザは、ロボットに演劇をさせる。ロボットの性能。

ぼくたちは必ずしも素晴らしい能力ばかりを見たいのではない。誰もが北島康介になれるわけじゃないし、なれたらいいのかもよく分からない。なったときの感触とか知りたいけど、「ああこうなんだ」という確認作業は、感動の大きさは多少異なっても、その他のどんな能力になる場合にだってできること。スーパーアスリートの能力は、人間の能力のレンジのあるエッジに触れているように思われる。けれども、エッジはきっといろいろなところに、各人の能力の内にそれそぞれあるはずだ。それぞれの能力はたまたまの「あぶく銭」で授かったものかもしれない、けれど、だからこそ各人の身体は魅力的なはずだと思う。各人の身体は、すべて、人間というもののエッジを示している。
ぼくたちはどんな身体にも興味がある。人間じゃない身体にも興味がある。アーティストの身体の反映(としての芸術作品)にばかり興味があるわけではない。むしろアーティストは、性能実験の運営者であればいいのかもしれない。運営者としての力量が問われる存在であればいいのかもしれない。

なんてこと、一昨日、昨日とあいちトリエンナーレ2010で名古屋市街をうろうろしながら思っていた。

学生たち15人を引率してだから、ときどき、作品よりもそれを見ている学生たちのことについて考えたりしていた(1/3くらいは、いい主婦、お母さんになるだろうなと思わせるおっとりでだからあんまりアートに反応しない女の子たち、彼女たちが専業主婦に収まる社会的環境は日本の未来に残されているのか?と、ちょっと心配になったりなど、余計なこと考えながら、うろうろしてました)。半分以上が「現代美術」初心者。だからこそ、反応が面白い。
ピップ&ポップがだんとつ一番人気だった。これだけたくさん見ていると「床に粉をまく」という方法にあちこちで出くわす。すると、その方法のコンペみたいのが見る者のなかで勝手にはじまったりするけど、「床に粉をまく」アワードの一位だろうな~。ジェラティンもよかったけど、学生たちは「???」ってなってた。

忙しくて、一週間近く妻子と別居状態。Iはぼくのこと忘れていないだろうか、、、

8月25日(水)のつぶやき

2010年08月26日 | I日記
00:51 from Keitai Web
「森の奥」は、もちろん基本的にはすごい面白かったのだ、けど「人間との会話がスムース」=リアルなのか「人間との会話がたどたどしい」=リアルなのかが学生との会話で問題となった
08:20 from Keitai Web
喫茶店をはしご。淺井くんのカップでコーヒー。クラウンからコメダへ。名古屋の喫茶店文化にはいつも驚く。仕事前のくつろぎの時間を楽しむ余裕が、かっこいいなー
08:23 from Keitai Web
今日は名古屋市美術館→豊田市美術館。
13:42 from Keitai Web
いま豊田市歩いてる。暑い~学生はふらふら
19:08 from Keitai Web
あいちは「性能」問題に溢れてた。平田の「ロボット」しかり、山本高之の「子供」しかり、魚をさばける島の「漁師」(島袋)しかり。
19:11 from Keitai Web
それにしても出に会いたい。こんなに長く離れて暮らしたことなかった~。四日目。
by kmrsato on Twitter

8月24日(火)のつぶやき

2010年08月25日 | I日記
11:50 from Keitai Web
いまあいちトリエンナーレに来ています。
11:52 from Keitai Web
今日と明日。久しぶりにツイッター使ってレポートみたいなことします。
14:21 from Keitai Web
いま「いば昇」。ひつまぶし待ちです。
15:29 from Keitai Web
二度目のいばはやっぱり美味。名古屋めしはぐちゃぐちゃカオス
15:30 from Keitai Web
いまから長者町会場へ!にしても暑い?
16:45 from Keitai Web
山本高之の子供にじごくの景色をつくらせたり歌を歌わせる作品はおもしろい
16:48 from Keitai Web
アウトサイダーとアーティストの中間的存在としての子供
16:54 from Keitai Web
山本いま暫定一位
ジンミ・ユーンもちょっとよかった。
18:17 from Keitai Web
長者町が面白い。芸術文化センターより。ピップ&ポップに学生たち夢中です。「死んじゃう!」と
18:27 from Keitai Web
ピップ&ポップは中央広小路ビル。そしてこれから平田オリザ。学生たちねるなよ~
by kmrsato on Twitter

夏の雑感

2010年08月23日 | Weblog
「現代人が必要としているのは、恐れることなく、そして清廉に、自己の使命を告げ知らせる正直な厳粛さなのではないか、愛情をもって自己の使命をかかえ守る厳粛さ、性急に最高のものを捉えようとして人々を不安におとしいれることなく、使命をば、見る目に若々しく、そして美わしく、そして気高く保ち、万人の心惹くものでありながら、しかも困難であって高貴な人々をのみ観劇せしめるものたらしめる、正直な厳粛さではないか?高貴な心の持ち主は困難なことにしか感激を覚えないものなのだ」(キェルケゴール『おそれとおののき』)

いま、8/23、朝の8時。蓮沼さんの「wannapunch!」を聴きながら、論文をまとめる心の準備をしている最中だったのだけれど、なんだか150年以上前のデンマークの若者の言葉が、いまに響いても全然いいような気がして、引用してみました。いいでしょ?

「wannapunch!」は、なにかするときのバックミュージックとしてはいまのところ最強で、なんども繰り返し再生しながら、『おそれとおののき』についての論文を書いてます。

今年は、このアルバムに出会えたよい年だ、と思ったり、その他にもいろいろと目の覚める上演や作品に出会ったりしていて、さすがテン年代だぜ!という気持ちがパンパン。なんてときに、また新しい希望に遭遇した。昨日、王子小劇場での上演、ロロ、「ボーイ・ミーツ・ガール」。

いま、一晩が過ぎ、こうやって自宅でワープロに向き合っているなんてときにも、思い出すと背筋がぞくぞくする。

ぞくぞく
ぞくぞく
ぞくぞく
ぞくぞく

もちろん、いい意味で、わくわくが未来形だとすれば、結果として残った興奮の炭火が熱を放つように、

ぞくぞく
ぞくぞく

(熱い気持ちが「ぞくぞく」だと寒い表現になってしまうのか、だから言い当ててない気がワープロで文字化するとあるんだけれど、事実、腕のあたりにさむいぼでて、背中が震えているのですよ)

こういうとあれなんだけど、なんだか「自分の作品だ」なんてことさえ思ってしまった。正直「いなほがゆれるやっさやっさ」と盆踊り曲が流れた瞬間は、心底驚き、あっけにとられましたが(この曲は、ぼくの故郷千葉県東金市で毎年夏に行われる「やっさ祭り」の曲で、朝から晩までこの曲を無限にループさせながら踊りつづけるのですが、そんな曲がなんで突然!と自分の心のHDDを覗き込まれてえぐられるような、偶然の瞬間でした。どうも主人公役の男の子が同郷なのらしい)。いま自分が思っていること(キェルケゴール、ニーチェ、ドゥルーズ、、、生成変化、、、あるいはジーン・ケリー)、あればいいなあと感じてきたこと、ものについてのアプローチ、ユーモアの感覚、そしてなによりも「愛」をテーマにしちゃうっていうその感じ(いま、つとめて大雑把に書いてます、さらっと書けない、書いたことにしたくない)。『おそれとおののき』は、愛というか信仰がテーマなんだけど、でも、信仰(ある宗派に限定したなにか)と思わないで愛と言い換えちゃった方がいいように思うのだけれど、そうした信仰がテーマで、これって、不可能事を不可能事として徹底的にみとめた(あきらめた)上で、みとめることを徹底することでそれを同時にあきらめない、ということなんですね、信仰って。そういう徹底してあきらめることであきらめないひとをキェルケゴールは「信仰の騎士」と呼ぶんだけど、この信仰の騎士をドゥルーズ/ガタリは生成変化する人間と呼ぶんですよ。

そして、このことは、魔法(魔法論)と関係あります。ドゥルーズ/ガタリは「われわれ魔法使い」と自称してますから(昨日の晩、ある日のアフタートークでゲストだったという藤原ちからさんと終演後話をしてたら、ぼくの魔法論ことを話題にしてくれたらしい。進み方がスローですいません、でも、その話題とこの公演はどんぴしゃです、確かに)。

50回恋をして、さらに100回の恋をする主人公桃田くんは、そんな哲学的考察で頭がいっぱいのぼくには、信仰の騎士にしか見えなくて、あるいは嬉々として永遠回帰し続ける超人みたいなもので、これまではかたっくるしくか、過度に叙情的にしかそんなものは舞台化されなかったかもしれないのだが、「ボーイ・ミーツ・ガール」は、余計なものは高速運転で吹き飛ばして、純粋な本質的なところだけがっつり取り出して、観客を楽しませてくれ、泣かせてくれるのだった。すげー。アイロニーはゼロ。それでいいじゃん、全然いい。グッド・バイ逡巡(さようなら「何言ったって裏返っていく彼や彼女」)。ただただ、情熱が作動すること、それが重要なのだ。いや、それが難しいのだ。そこにとてつもない困難があるのだ。

「信仰は人間のうちにある最高の情熱である。おそらくどの世代にも、信仰にさえ到達しない人がたくさんいることだろう。しかし、その先まで達したなどという人は一人もいはしない。はたして現代にも信仰を発見しない人がたくさんいるかどうか、そんなことをわたしは決定しようとは思わない、わたしはただあえてわたし自身を引き合いに出すばかりである。そのわたしは、信仰への道は遼遠だ、と隠さず申し述べておく。」「しかし信仰に達した者は(格別に才能に恵まれた人であろうと、愚鈍な人であろうと、それは事態になんのかかわりもない)、信仰でとどまることをしないのである、それどころか、立ち止まれなどとといわれたら、彼は憤慨するにちがいない。それはちょうど恋をしている男に向かって、おまえは恋にとどまっている、といったら、彼が怒るだろうと同じことである。なぜかというに、ぼくは恋に生きているのだから、けっして立ち止まってはいないのだ、と彼は答えるにちがいないからだ。けれども、彼はその先まで進むわけでもない、何か別のものに達するわけでもない、なぜかというに、もし彼が別のものを発見すれば、彼はまた別の話をするはずだからだ。」(同上)


ところで、
いま発売されている『美術手帖』に快快と遠藤一郎のこと書きました。「ここがあるだけでその外部はない」というタイトルです。ぼくとしては『RH02』に書いた「彼らは「日本・現代・美術」ではない」の続編にあたる文章です。ようやく続編書けたという気持ちがあり、またここからはじまるいろいろがある気がして、ぞくぞくしてます。本屋で図書館で立ち読みよろしくです。