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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

横浜ダンス界隈#3

2006年03月29日 | Weblog
いまTSUTAYAが半額で『リング』『呪怨』(一応この二本は研究のため)と『ケツメポリス4』などのCDを借りる。昼間、背筋をぞくぞくさせながら『呪怨』を観賞。何度見ても怖いところは体が勝手に怖がる、ぞくぞく。画面をデジカメで撮りながらさらにぞくぞく。ともかく、いろいろとアイディアを掴んだ。六時前に家を出て、横浜へ。ipodでケツメイシなるグループのCDを聞いてみる。RYOというメンバーだろうか、沖縄の人らしい少しなまりの入った声振りが妙にメロウで印象に残る。テレビとかで知っているイメージよりもずいぶんとニュアンスをもった(味のある)グループなんだなと思わされる。ヒップホップの設定の筈なのに、OSは日本の歌謡曲とかニューミュージックなところも悪くはない。でも、いくらなんでも「三十路に花を咲かそう」なんて歌詞は恥ずかしすぎる。「三十路」とか「さくら」とか、恥ずかしいはずの言葉を恥ずかしがらずに使ってしまう感性が、ともかくも今の日本のヒップホップにある、その代表の一組?それを批評性の欠如ととるのか、何にでも乗っかってしまう思い切りの良さととるのか、意見の分かれるところだろう。前者の立場をとるぼくは、自動的に彼らの感性を欠いた存在(オッサン!)になってしまうんだろうな。なんて思いながら、BankART1929へ。

「街のあちこちにダンスが溢れる」(チラシ)がキイワードの企画。ぼくは番外編を含め三回見たことになる。どれも実に面白かった。ダンスを見る場所は劇場やスタジオとは限らない、いやそうした場所じゃない方がいいことは多いのでは、という強いく思わされた企画でもあった。
今回のトップ、金魚(鈴木ユキオ)『Focus-ミルク-』は、神奈川県立歴史博物館の脇のスペースで。動物の置物のように四つんばいで腕と首だけ機械的に動かす男の子二人を後景に、女の子が無関係に立っているところからはじまる。無関係のところで二つを繋ぐのは、気配への気づき。でも、「気づく」だけでは関係が転がっては行かない。この転がる手前のもじもじしたような時間だけが過ぎていく。最初、逆さにしたテーブルの上に仰向けに寝ていた鈴木が「無理矢理!」な感じで垂直に伸びたテーブルの脚のてっぺんに自分の両手と両足をのせていく。無理矢理よつんばいに起きあがった体は、起きあがれた成功もそこそこに片足片腕を宙にバランスを失い墜落する。最近の鈴木がよくする物とのからみは、体の強さを示しつつその強さが無意味に消費されていく虚しさのようなものを伝える、今回もそれが凄く感じられた。閉塞感、と言ってしまうとつまらなくなるけれど、あてのないむなしい可能性をただただ蕩尽する他ないといった気持ちにさせられると、リアルな感動が起きる。全然アプローチは違うのだけれど、ポツドール『夢の城』の男女と行きつく絶望は同じなのではないか、と、さえ。
次は、馬車道通りの道路を交通規制し(!)舞台にした、モモンガ・コンプレックスの『フリーター・コンプレックス』。モモンガ初見。桜美林大出身の二人(白神ももこ、高須賀千江子)らによるグループであるとのこと。タイトル通り、金のためにバイトをする女の子の張り切りと切なさとけなげさを踊る。踊りに個性が出るといいなあ、構成は結構細かくアイディアを持っているのだから、と思う。ともかく、道を隔ててこっち側が観客(しかも大入り200人くらい?)で、反対側が舞台アンド背景ということは、本物の眼鏡屋とかラーメン屋とかカレー屋とかがそこにあるわけで、正に「サイトスペシフィック」な作品であったし、そのあたりをかなり考えて作ったことでほんとに楽しい時間になった。眼鏡屋の看板おばさん(もちろん眼鏡掛けてる)がこっち見ているのをこっちから見ているってことがもう本当におかしかった。界隈の真骨頂を見たって感じで。
東京藝術大学横浜校地で、中野成樹(POOL-5)+フランケンズ『ドラマリーディング』。こちらも初見。「ドラマリーディング」というのに、無言劇。どうも12分である海外の戯曲を全部やってしまった、ということらしい。だからといって「早回し」な動きではない。内容は分からないので、ただ体の動きの表情を受けとる。物語の構造を背後に秘めた身体のひとつひとつの表情は、何かしらの必然性の下にあるわけで、分からない割には表情の魅力を淡々と受けとることができて、そのことが面白かったりした。また、演劇の身振りだけを抽出するとダンスとは違うレヴェルで運動を賞味できるのか、と教わった。
県民共済馬車道ビルのホテルのロビーみたいな場所で、矢内原美邦(ニブロール)『チョコレート』。今回は三人(矢内原、佐川智香、藤瀬のりこ)で。「見て!」と声を上げる矢内原は、少女というか幼女。脳から噴出し続けるイメージの洪水に乗っているだけで一日が過ぎてしまうころの子供。身勝手で傍若無人な子供なのに、「見て!」と相手を必要とする(で、ちょっとズルイ)。ロビーのソファなんかも使って、なんか子供だったり大人っぽかったり、不安定な気分になりながら、あまりにもいろいろなイメージにぼくも溺れだして、なんだか久しぶりに、コンテンポラリー・ダンスを見始めたときに感じたワクワク(ゾクゾク)を思い出したりした。でも、どうなんだろうな、20才くらいの観客の目には、ぼくとは違うものがきっと映っているんだろうな。ぼくが冷静になれない部分を結構クールに受けとっていたりして、分からないが。
ここからは、一旦二手に分かれる。C.l.c.o.を見ないで、元ルノアールでやった、ひろいようこ『状態系「ティータイマー」』を見た。これが、凄くよかったのだ。ひろいようこは、以前、STで子供用の鉄棒を舞台に持ち込んでそれと絡むなんて作品を作ったりした。そのときは、後半鉄棒を何度も何度も前回りし始めてからぐーんと面白くなった覚えがある。面白くなったのは、執拗な繰り返しの果てで体が勝手に運動し始めた、からだろう。今回は、最初から体があやしい。椅子があり、またテーブルにティー・カップがのっている。そこに、紅茶の入ったガラスのポットをもってひろい登場。椅子に座ると、ゆっくりこちらを見回す。その眼が何も見ていないようで見ているようでやっぱり見ていないような「不穏」を湛えている。カップに注ぐ。その音が変に乱れていてみだらで、さらに飲みながら体が急に前屈みになったり、足をすり足して音を立てたかと思うとズズズと腰が椅子からずり落ちたり、じっとしていられない。要するに、なにをしでかすかわからないのだ。次が読めない動きは、恐怖と痛快さとがない交ぜになって、眼を逸らすことが出来ない。クツを脱いでテーブルに上がると、腕を高く上げて下のカップに注ぐ。べちゃべちゃと音が響き空間がみだれる。それを涼しい眼で続けるひろい。なんかちょっとにやけてもいるぞ。あやしい(危ない!)。その腕を激しく振り落としてポットを粉々にしちゃいそうな予感さえする。こんなちっちゃな、しかもどこにでもあるカップとかポットとかのあるだけのなんてことのない空間が、こんなにも激しいレンジを蓄えてしまう。そのホラーは、からだを出来る限り解放しようとすることによってのみ生まれるものに相違ない。で、ぼくはそういうものをダンスを思い込んでいる。ダンスはリズム、でも予測不能のつねに前人未踏のリズム、何か久しぶりにそのことが確認出来たのだった、嬉しかったなー。
同じ場所で少し空間をずらし、次は吉福敦子の『The Chamber Dance in Former Coffe Shop』。八〇年代から黒沢美香&ダンサーズのメンバーだった吉福の、シンプルでミニマルな、それでいてダンスを溜め込み瞬時に吐き出すような作風は、そのルーツ込みで興味深く、時に激しくダンスをぼくに感じさせるものである。今日は、少し観念的に見えた。
最後はNYKへと到着。能美健志&ダンステアトロン21(『空華』)とブシタギ(白井剛+スカンク+峯岸誠 今回は白井出演せず)の公演があった。

ダンスが狂気でないならば

2006年03月28日 | Weblog
ダンスを他の芸術ジャンルに匹敵するものにしようと考える場合、方法として理知的なものへと高めると言うことがあるだろう。ぼくは、それに、端的に反対する。ダンスが狂気でないならば、ぼくはダンスを見ることを止める。というか、人がダンスと言っているものを捨ててぼくの思うダンスだけを愛好する。

最近、少し時間に余裕が出来て、土方巽のことを考えている。『土方巽全集』をゆっくりめくり、メモを取る(あるいは、土方の反映としか思えない『人造人間キカイダー』の悪の首領、プロフェッサー・ギルや『恐怖奇形人形』のことを考えたりしている)。すると、彼がどうにか確保しようとしたものが、ダンスの狂気であることが分かってくる。狂気が不在のダンスは切ない。破綻とか錯乱とか不安とかが足りない、そこへ前のめり突っ込む瞬間のないダンスは切ない。

写真は土方ではなく、最近の仮面ライダー・ショーに登場しているギル。ちなみにギル率いる悪の軍団の名は「ダーク」。

「子供というのは、欲望がいっぱいあるし、感情だけをささえに生きているために、できるだけはぐれたものにであおうとする。ところが大きくなるにしたがって、自分のはぐれているものをおろそかにして、他人との約束ごとに自分を順応させる。それではぐれていない、と過信してしまう。飼いならされてしまうわけですね。」(『土方巽全集』より)

「肉体というのは、テクノロジーの発達などによっていつも犯されつづけている。キコリとステップの国のソ連のバレー団でも西欧のバレー団以上に人工化されてしまった。ところが日本人の肉体というのは独特の空間をもっていて、犯されにくいですね。」「人間というのは、自分の一個の肉体の中にはぐれているものにであえないばっかりに、何か外側に思想でも欲望でもいいから外在化して納得したい。しかし、そういうとき、日本人の肉体というものを、けんめいにこらえながら熟視すれば、そのはぐれたものにであっていたのではないか、ということをマジメに考えるんです。」(『土方巽全集』より)

トリシャ・ブラウン2

2006年03月28日 | Weblog
下の記事に引き続き。

さて『Accumulation』というタイトルにこだわってみると、なぜダンスが「集積」であるのか、ということが気になってくる。積もるのは何か。動きが積もるのだ、と簡単に言えればいいけれど、ずっと動いているものというのは、川の流れみたいなもので、積もることからはかけ離れている。流れちゃ積もらない、どこかで止めないと。その止め、が集まって積もることが可能になる。では、その「止め」とは何か、ということが今度は問題になる。

ひとつ考えられるのは、ブラウンの一定のテンポは、あるポーズをピークとして止まる場合が多いということ。ある姿勢で静止、運動してまたある姿勢で静止、、、とこの点から見る限りでは、ポーズの連続が積もるということになるだろう。そして、これは彼女の作風を造形的に見る場合の手がかりを与えてくれるものであるに違いない(まだ精読していないけれど、『トリシャ・ブラウン 思考というモーション』の岡崎原稿はこのあたりのことを言及しているかも知れない)。形のヴァリエーションが重なっていく。それはまるで、彼女自身が描いた重なる手のドローイングのように。

ただし、もう一つ考えることは出来る。微妙な点なのだけれど、動きの印象が積み重なる、とはいえないか、と思うのだ。印象深さは目を止める(目にとまる)。カニングハム(のダンサーたち)と明らかに違うと思うのは、動きに独特の味(ニュアンス)があるところだ。単にコンセプチュアルには見えない、独特の楽しさがある。とくに手首の柔らかい動き、曲げた脚を下へと伸ばすときの反った背中の感じ、首を回す一定の優しい感じ、例えば、こうしたところは、動きの印象として見る者の記憶に蓄積されていく。

下の記事にも言えることなのだけれど、ブラウンを受けとめようとすると、両義性を意識しないわけにはいかなくなるようだ。いま書いたことは、造形性(空間性)と運動性(時間性)といった両義性あるいは(クールとハッピーの両義性?)で、下記のは統制(あるいは非ヒューマニスティックなもの)と非統制(あるいはヒューマニスティックなもの)の両義性なのだけれど、つまりは、ひとつのポイントだけでは読み解けない豊かさをもっているような気がするのだ、ブラウンは。

トリシャ・ブラウン

2006年03月27日 | Weblog
トリシャ・ブラウンにまともにはじめて遭遇した。

昨日、公演を見て、また今日『トリシャ・ブラウン 思考というモーション』という本と『Teisha Brown Early Works 1966-1979』というDVDを見ながら、少し思ったことをメモしておこうと思う。

さっき『Accumulation』を見ながら、その「ある一定のテンポ」について考えていた。腕を前に伸ばして、手首を回す、その「ねじり」からはじまるこの作品は、次第に首を横にひねるとか膝を横に上げるとかヴァリエーションが増えていく、けれど、テンポは一定だ。ヴァリエーションをもつ簡素な動きよりも、気になるのはその一定のテンポだ。それはまず音楽の否定というか音楽への従属から身体を解放するプロセスを前提にするものだろう、まず。でも、そこにリズムがないとは決して言えない。独特のテンポ感がある。それは何だ?考えながらふと思いだしたのは、細野晴臣が、ベースを弾くのに飽きてしまったエピソードだった。

「基本的にはグルーヴといわれるようなノリは捨てる方向の動きに入っていったんですよ。単純化の行き着く先は、ディスコの四つのキックのビートで押し通しちゃうということで。それでべつにいやではないわけです。やっているほうは。逆にこだわらなくて済むようになって楽になったというところがあってね。ミュージシャンとしての誇りというか自覚の崩壊ですね(笑)。マニアックな部分がどんどん崩壊していくということに自虐的な快感があって。だからもうベーシストだなんていう気持ちはないわけですよ」(『細野晴臣インタビュー』平凡社)

「グルーヴ」の「ノリ」はある意味で揺れているものだ。つまり、人間が創り出すノイズであって、でも気持ちいいものである限りは望ましいノイズである。それを捨てるきっかけになったのが、言うまでもなくコンピューターを導入するという契機だった。コンピューターの一定のリズム、テンポは、しかし快感に結びついていない単に冷徹なものではない。むしろ「気持ちのいい音」がそこにあった、と細野は言っている。

「それまでわれわれは非常にアナログ的な演奏をやっていて、コンピューターの演奏とは大きな差があったんです。長い間やっている間に、やっとコンビューターと太刀打ちできるようなリズム感を身につけたんですけど、最初のころは、コンピューターの真似をして手で弾こうとしてもだめだったんです。甘くなっちゃう。われわれがそういう甘さをもってたおかげで、コンピューターに触れたときの感動がより大きかったんです。」

グルーヴは、ようは人間の「甘さ」でもある。それを消し去った「リズム感」のもつ快感。細野がテクノの黎明期に感じたこの感覚は、トリシャ・ブラウンに70年代半ば触れた日本人が感じた感覚と似てはいないのだろうか。

けれど、ほんとはここからが問題で。つまり、テクノはコンピューターにテンポやリズムを一任することで「甘さ」をリダクションすることに成功するわけだけれど、ダンスの場合はどうしようもなく身体をメディアにする他ないのだから「甘さ」からは逃れようがないはずなわけだ。そこで、逃れていないはずなのに、消し去った身振りというか「消してあるというお約束」をされてしまうと、そのダンスをぼくたちは「コンセプチュアル!」(頭でっかち!)という烙印を押して批判の対象にする。そこで興味深いのは、『Accumulation』の場合少なくともぼくはそうした非難をする気にならない、ということだ。つまり一定のテンポを呈示しようとしているがしかし甘さは残っている、のであるにもかかわらず実に面白いのである。なぜだ?

ぼくにとって、トリシャ・ブラウンの謎はここにある。うん、そしてこのことは、昨日の公演を見ている間にも感じたことだ。一定の秩序へと身体の動きを統制しようとしながら(それによって確かに、細野が感じたコンピューターの「リズム」がもつ快楽と類比的なものも感じはするのだけれど)、そうすることで当然のごとく統制しきれない部分が生じてしまう、にもかかわらず、そのことをごり押しせずに(故に「コンセプチュアル!」と思わせることなく)、むしろそこに起きてしまう「揺れ」に自分らしいスパイスを利かせている。これがトリシャ・ブラウンのダンスのツボではないのか。

腰を一旦否定しているはずなのに腰を感じるのだ。それは、統制の産物のようでもあり、また統制からこぼれた部分によるもののようでもある。

もうちょっと書きます、、、


吾妻橋ダンスクロッシング

2006年03月25日 | Weblog
を見た(@アサヒアートスクエア)。

前半後半(SIDE AとSIDE B)合わせて12作品が並んだ。2時間半。新しい作品、新しいコラボ(組み合わせ)など、意欲的な作品もあった。けれど、それらを単体で「良い/悪い」とぼくなりに言葉にすることに、あまり気が乗らないのだった。見終わったすぐ後も、またいまも。なんでだろう。もしそういうものを期待して読み始めて人がいたとすれば、悪しからず、です。例えば、赤い着物をまとった康本とのデュオのなか、康本的なダンスを通してなお濃厚に自分の匂いを発散して踊った岡本真理子は、見ていて実に新鮮だった。このシーンにとってのひとつのニュースであるに違いない。そして、「お祭り」の演目としては楽しいものだったし、康本の「らしさ」も光っていた。それは常樂泰(身体表現サークル主宰)と康本とのデュオに関してもそう。でも、内輪の遊びにどうしても見えてしまう。いや、「遊び」であるのはそもそもがお祭りなのだから、いいじゃないか、そう思う人もいるだろう。うん、それでオッケーならオッケー。でも、ぼくは欲深なもので。

あらためて。確かにこの企画は、いわばお祭りイベントだ。日本のダンスシーンの桜井氏的感性にピンと来たダンサー&振付家を使った「お祭り」、だからガチンコよりも気楽に楽しむ「アナザー・サイド・オヴ・ジャパニーズ・コンテンポラリーダンス」な企画。で、そうだから、観客はお祭りを楽しむ「縁日の客」的な気分で見ることになる、そしてある意味では、そう見る他なくなる、とも言える。ダンスは楽しいものだ、ぼくはちょっとまえあるファッション誌に日本のコンテンポラリーダンスを紹介する機会を得た時に、「ハピネス」をキイワードにした。でも、多幸感を得るための企画というだけでは、いまや弱い。不況が続く中で「ハピネス」を主張することは、重要な意味があった、その主張それ自体が批評性を帯びたものでありえた。でも、いま、日本に蔓延している気分そのものが、多幸症的になりつつある。そこで、では「クロッシング」は何をするべきなのか。ズッコケるだけでは、観客の気分を揺らすこと(批評性を持つこと)が出来ないとすれば。多分、このイベントは、ただのお祭りではないはずなのだ。桜井圭介氏の批評の実践であるはずなのだ。だから、「身勝手」と思われるくらいの「ごり押し」をぼくは見たかった。人選においてはそれが発揮されている気はしたのだけれど、ダンスの質についてはそう言えるのだろうか。「これが、いまぼくがビリビリ感じてしまうダンスなんです」と思いっきり直球勝負してほしかった。例えば、桜井氏のレクチャーでは定番になっている「ジェームス・ブラウンの歌いながら痙攣する脚」とか「印刷屋のさかいさん」とか「トーランス」のダンスとか、そういうダンスの感覚をもっとこのイベントのなかで具体化して欲しかった(それらの映像をディスプレイするとか、あるいはゴングショー的に桜井的感性に訴えるヘンな動きをしちゃう天然な人or玄人たちが10人くらい続けて出る、とか。あるいは、そうだ、できれば桜井氏の教室、南烏山ダンス教室のダンサーたちと作品がここにあったら、それだけでも見え方は変わったろう)。「ごりごり」の押し押しであることは、好き嫌いが別れるとかそういうこととは関係なく、ひとが求めている姿勢だと思うのだ。その「変な角度」(こだわり)を強く呈示することこそ、クロッシングが単なる多幸症的日本人の感性からはずれていくものになるはずなのだ。そうしてはじめて、この「お祭り」が何を祭ったものかが見えてくると思うのだ。

プログラムを

SIDE A
ボクデス「僕道一直線 ジェスチャー編」
たかぎまゆ「独り舞踏会 in吾妻橋」
康本雅子+岡本真理子「オトギ巫コ」
ぼくもとさきこ「I Get on You」
山賀ざくろ「ヘルタースケルター」
身体表現サークル「ベストセラー」

SIDE B
HINOBI「エチュード」
室伏鴻「DEAD 3」
ピンク「子羊たちの夕焼けボート」
ロマネスク高木「ある障害をもつ彼女のブルース」
康本雅子+常樂泰「ブッタもんだすって」
ボクデス「僕道一直線 ファイナルアンサー編」

それにしても、ピンクはずぬけている。ピンクの凄さを一生懸命考えると、来年の今頃のダンスシーンが見えてくる気がする。

『男振り』(白井剛・川口隆夫・三浦宏之)

2006年03月24日 | Weblog
を見に行く(@新宿パークタワーホール)。

白井剛の急病によって森下真樹のソロ(「コシツ」の一部?)に入れ替えられたりと、ちょっとハプニングもあった今企画(3/29には横浜ダンス界隈もあるし、大丈夫だろうか白井さん)。ともかく川口隆夫と山川冬樹のパフォーマンスが素晴らしかった。

『D.D.D. 私の心臓はあと何回鼓動して止まるのか』
突然、足の低いシンバルを山川が激しくけっ飛ばすのを合図に、川口が白いマスクと白いレスラー・コスチュームをまとって1.2メートル四方ほどのテーブルに飛び込む、滑る、ずり落ちる、そしてまた乗って回転する。この小さな空間が彼のリングであり彼の舞台。仕立ては「レスリングの試合」になっており、時々休憩を挟みながら、山川のホーメイとか、心臓の鼓動を増幅させるのとか、ギター演奏などによるバラエティあるパフォーマンスが川口とタッグ状態になる。あるときは、執拗に腕が体に絡まり、まさにレスリングを見ている時のような歯がゆい気持ちにさせられたり、あるときはからだのさまざまな部位(ふくらはぎ、腹、ペニス、、、)をプルプル揺らす、ということを次々したり、またあるときは、上から油を垂らしながら、ぬるぬるの体をその小さなテーブルの上で執拗に運動させる。滑って回って、テーブルから落っこちたりもして。凄いのは、そうした一回3分ほどの時間を埋めるのに、何らのテクニックも頼りにしないということだ。何かの方法論を体に与えれば、時間をつくることは容易いだろう。けれども、何にも頼らなければ、方法ではなく、体の部位への興味や動きへの興味から時間を作る他ない、そしてそのことが川口のパフォーマンスを際立ったものにしている。またそうである体は、頼りない不確かさに満ちていて、脆弱で、見ている観客の体と親和性をもことが出来る。
脆弱ないつか死ぬ体が、よりどころなく動き続ける様は、方法に拘泥しがちな、あるいはセルフイメージに縛られがちな「暗黒舞踏」の面々よりもはるかに死をあるいは暗黒を感じさせるのだった。





珍しいキノコ舞踊団『また、家まで歩いてく。』

2006年03月23日 | Weblog
を見る(@スパイラルホール)。

去年さいたまでみたものに比べて格段にバランスがよくなっていてた、というのが何より最初に思ったこと。ダンスに力点が置かれ、また切り絵のような背景の舞台美術などキノコの「デザイン性」が遺憾なく発揮されていて、このグループの完成型を見たとでも言いたい気持ちになった。コンテンポラリーダンスの世界にはあまり興味なくてもキノコは好きというファンが会場を満たしている感じも、若手のグループの中では際立った存在であることを実証している。観客が見たいと思っているものを見せる、期待に確実に応える、期待の幅を無理に広げるよりは、期待の深さを探っている、という感じもした。
一種のそうした成熟は、ただし、批評を必要としないもの、でもある。そこにニーズがあって見事それに応える、それでもういいではないか、というのであれば。
「かわいい」キノコ舞踊団には、「珍しい」の要素は希薄であって、その「かわいい」に「キモ」みたいな変な要素は含有されていない、ただただかわいいのだった。



2006年03月22日 | Weblog
「闇とは何かを、今度は、闇がまったく失われているケースとの対照によって、考えてみよう。闇がまったく失われているケースとは、たとえば、ハードコアポルノである。そこでは、すべてが見せられている。つまり、性器や、その結合までが見えるのであって、闇の断片、不可視であるべき部分、あるいは焦げ穴がどこにもない。だが、逆説的なことに、ハードコアポルノにおいては、われわれは、まさに、すべてを見てしまうがゆえに、何か肝心なことが見落とされているように感じられる」


大澤真幸「闇」(『美はなぜ乱調にあるのか 社会学的考察』所収)の一部。ハードコアポルノはいわば闇であるべきものに光が当てられてしまった映像である。それが不快なのは、闇のなかにいて欲しいものがあらわになってしまっているからだろう。見落とされている「肝心なこと」とは闇であり、闇がないということが不快なのである。この闇を希求する心情は、恐らく、闇をXとして置いておくことで光を確保したいとする思いと表裏一体なのであろう。ということは、「闇は、接近し続ける限りで存在している。言い換えれば、それは、逃れ行く限りで存在しているのだ」と考えるのは、光のなかに安らおうとする主体のすること、ということになる。闇がないと困るのは、そうした一部の(近代的)主体に他ならない。

何を書いているかというと、ひとつはやはりポツドール「夢の城」なのである。あれは、いわばここで言われているハードコアポルノだった。それを「闇の不在」として見ることも可能である。「案外いやらしいと思えなかった」ってよく聞いた感想は、そうした闇の不在への意識から出てきたものに思われる。

で、その時の「不快」が重要な気がするのだ。見たくないものの所在を指しめしたことが、「夢の城」の果たした重要なことである。闇の存在が明るみに出たからといって楽しいものじゃない。そこには、見たい欲望はあっても見たかったものが見られるわけではない。けれども、その不快にこそ、現在の状況において希有なものがあったというべきじゃないだろうか。(そしてち、この点においては、チェルフィッチュが語りの中で「ヤリマン」という動物状態を表象する点で、不快は軽減されている。もちろん、そのときの身体の動きは動物性を残していて、そこにリアリティが温存されてはいるのだけれど)

もうひとつは、最近、土方巽と70年代初頭の映画や実写変身ものとの関係について考えている。あの時代は、「奇形」とか「不具」という言葉が生き生きとしていた。そういった「闇」にあるべきものが社会のなかである地位をえていた。善玉だけじゃなくて悪玉にこそひとは引きつけられていたのではないかと思ってしまうくらいだ。ぼくは71年生まれなので、そうした影響を幼児体験として受けている。当時のテレビは暗かったし怖かった。「ゲゲゲの鬼太郎」とか「ドロロン閻魔君」とかコマーシャルが映る度にぼくは眼を伏せていた。「仮面ライダー」の怪獣たちも、いまの「響鬼」とは比べものにならないくらい奇怪だ。あの時期、不思議なくらい悪(禍々しいもの、忌み嫌われるもの)は元気だった。そこから今に至るまでの30何年は、そうしたものにフタを被せることに集中した時期と言うことが出来る。

この変化についてじっくりと考えてみたい。情報開示の時代、セキュリティの時代、ガラス張りであることをよしとする時代、そして故に闇を確保することが困難な時代、この時代に土方巽のことを考える、「暗黒」の意義について考える。

カンパニー・ジャント-ビ『FAGAALA』

2006年03月21日 | Weblog
を観た(@新宿パークタワーホール)。

ジャンメイ・アコギーと山崎広太が共同振り付けをした作品。セネガルのダンサーたちの身体性が欧米(白人)のものともアジアのものともことなる独自の強さを湛えていて、それにただただ圧倒される。振りは違えど『RIZE』を見たときのような圧倒的な力を感じる。速いし強いし、まさしくゴムまりのよう。この「ハード」にどんなOSをインストールし、さらにどんなソフトを起動させるのか。と考えてみていたのだけれど、実に押しつけがましくなく、「ハード」のもつ魅力にしなやかに線を与えていく。山崎らしいというか、いまや日本らしいと言うべきコミカルでダメな感じのユーモアは、彼らの快活な身体でやると妙な形で増幅されて意味が変わる。少なくとも「ハード」(肉体)がダメダメではないので、妙にキュートに映る。けれども、押しつけがましくないので、それは彼ら一人一人の個性が浮かび上がるようなものになっていて、見ていて純粋に楽しい。

チラシには、ルワンダの惨劇、ジェノサイドを描いたものとあるが、決してそれがこの作品の結論とは思えない。それはいいことだと思う。そこに収斂するりっぱだけれどつまらない作品にはならずにその点を語り得ている。あえて欲を言えば、セヴィアン・グローバーの作品には、ダンスを踊ることの必然性が物語と絡まっていたように思うが、そうした必然性が単に踊れるひとたち(「ハード」)ということのみならず、その物語とも絡んでいれば、それは実に凄い作品になっていただろう。そして当然そこには、「ハード」はアフリカ系だけれども、「OS」には欧米的なものが用いられていて、しかも「ソフト」はアジア的な視点も付加されているといった、ハイブリッド(カラフル)である点が強く際立った形で示されたことだろう。

S.グリーンブラット『ルネサンスの自己成型』

2006年03月21日 | Weblog
を読んでいると元気が出て来る。

「その[ルネサンス的行動]様式を私は即興演技と呼ぶことにするが、それによって私が意味するのは、予期されなかったものを利用し、また、与えられた素材を自分のシナリオに沿うように変形させる能力である。即興演技といっても、ここで必要なのは、興に応じる当意即妙の才より、固定され確立されているように見えるものを自分の都合に合わせて把握する能力である。実際、カスティリオーネを初め多くのルネサンス人がよく理解していたように、即興演技に見られる咄嗟の機転という性格自体が、往々にして、計算された仮面、周到な準備の所産である。逆に、筋たてというものは、文芸的なものであれ行動上のものであれ、すべて必ず、その起源を、形式の整合に先立つ瞬間--与えられた利用可能な素材が新たなかたちに矯められる、そういった実験的で偶発的な衝動の瞬間--に持っている。どこまでが純粋に意図して用意されたもので、どこからが純粋に偶然の産物なのかなど、特定出来るものではないのだ。本質的なのは、繰り返し原住民の既存の政治的ならびに宗教的構造に、さらには心的構造にすら、巧みに入り込んで、そういった構造を自分たちに有利なように変えてしまうヨーロッパ人の能力である」

サーフィンのように、あらかじめ示されている物語や役割に乗っかりながらも、そこに同一化しないで(半ば同一化しつつ半ばそこから抜け出そうとして)自らの都合でその状況を次々と読みかえ書きかえる、拘泥しない。そうした能力がグリーンブラットの言う「役割演技」。ここにあるのは、自己の欲望の肯定であり、決定論的思考から自由であるための「術」である。

それは、自分から自由であることでもある、すなわち、

「即興演技は、まず第一に、役を演ずる--たとえごくわずかのあいだでも、そして、内面的には保留しつつであろうとも、自分を他者に変容させる--能力と意欲に依拠している」

「演技」とは多分、「演劇」と入れ替えることはできない(たとえグリーンブラットが『オセロウ』のイアーゴウをもとにこのことを説明しているとしても、重要なのは『オセロウ』の劇的構造よりもイアーゴウの生き方=即興演技だから)。むしろこうした「演技」が表にあらわれる可能性の場は、ダンスにある、とぼくは思っている。何かに「なり」ながら「なりきる」ことではなく、いわば生き抜くために一旦「なってみる」、そうしたパフォーマンスの場は、ダンスのなかにある(あった)。

ぼくがダンスにこうした「即興演技」の豊かさを期待することは、何か「間違い」なのかも知れない。ときどきスッーと背中を冷気が流れるようなそんな気持ちとともに、そう思うことがある。ダンスのことは、ひとは大抵振り付けのことだと思っているし、振り付けの洗練こそがダンス芸術の課題だと思っている。フォーサイスやマリー・シュイナールの先日の公演とかを観ているとそういう通念が極めて強く存在していることに気づく、そして少し寂しくなる。

そして、ぼくが(そして「即興演技」を尊重するグリーンブラットが)考えている近代的主体のダイナミックなあり方の可能性は、いまや殆どひとから期待のかけられていないもの、であるのかも知れない。ぼくは、この「即興演技」の可能性を考える「明るさ」を持ち続けたいと考えている、けれど、例えば、ポツドールやチェルフィッチュが現実を描く描き方が、こうした人間の可能性に注目していないという事実は、忘れることはできない。

ところで『RATIO 1 ラチオ01号』(講談社)という雑誌を読んでいる。その小泉義之「自爆する子の前で哲学は可能か --あるいは、デリダの哲学は可能か?」は、すごい論考だとぼくは思う。世界を「決まりきった世界」と認識する絶望的な決定論的思考から、脱構築の思考は新たな事態を切り開いてくれるように見える。けれども、それは現実的にはいったい何をもたらしているのか。脱構築は決定論に対し別の視点を与えることで(再)解釈の可能性を与えるものかも知れないけれども、同時に、あらゆるところに脱構築的「改憲」が行われることで、自由は喪失し、その一方ですべてが経済的な機構のなかに巻き込まれることになる。そこでは、死は(さえ)出口ではなくなる

「実際、デリダは、「脱構築の名において」、決定不可能なゾーンに新たなルールを構築することを推奨する。状況によっては、自爆テロの暗黙のルールを明示化することを推奨したかもしれない。しかし、奇妙ではないか。世界に脱構築の実践しかないからこそ、死が出口に見えたのではないか。その死をも脱構築の実戦の対象にしたところで、死んだ者には何の関係もない。むしろ、自らの死までもが経済に巻き込まれ、脱構築的な改革に引き込まれることに、世界の底知れない善意ないし悪意を感ずるのではないか。それとも、純粋な贈与が各種の経済に汚されると知ることをもって自ら死ぬことの愚かさを悟るのだとでもデリダは言いたいのだろうか。あるいははまた、自爆テロが結局は不純な仕方で利用され尽くすことを事前に知れさえすれば自爆を踏み止まるとでも言いたいのだろうか。」

さらに小泉氏は、デリダのもつより重要な局面は次のことだと議論を進めていく。

「動物と漠然と呼ばれているもの、したがって、ただ生きてしてそれ以上のものではない生き物」は、「法や権利の主体ではない」

こうした、「生きているか死んでいるか定かではない状態」に置かれた状態のひとこそ、小泉氏によれば「脱構築の決定不可能な最悪のもの」に直面するひとであり、であるからこそ、「最悪の状態であるにしても、決まりきった世界、脱構築だけが進行する世界において、底知れぬ善意や悪意の歯の立たないような最善のものを告げる予兆であるかもしれない。そして、自殺に失敗した若者、自爆に失敗した女性、死線を潜り抜けた病人は、明日の哲学者の予兆であるかも知れない」のである。

法や権利の主体ではない「動物」とは、やはりどうしようもなくポツドール「夢の城」の登場人物たちを思い起こさせる。あそこのワン・ルームは、地獄(最悪の状態)だけれど、主体性を発揮した瞬間すべてが秩序化と再秩序化の波のなかで形をなくしてしまうそんな主体でいることからの回避を可能にする特区でもある。グローバル化の避難民として彼らがいるということは、「夢の城」に対して考えられる一つの解釈ではないだろうか。けれども、彼らは避難民であって、そこからどうサヴァイヴするかはやはり徹底的に他人任せであって、彼らの非難もまた脱構築されて、ある種のレールのなかに置かれてしまう。

さて、もう少し、小泉氏の意見に耳を。

「「生きるのに疲れた」「生きているのがシンドイ」「生きるのをやめたい」「死ぬ自由ってあるよね」。ならば、死んだことにすればよい。死んだも同然の生、生きたも同然の死、生かつ死、非死かつ非生を試してみればよい。おそらく、デリダが、ブランショのテクストに仮託して言わんとしていたことも、そんなことである」

これは「結び」にあてたられた文章の部分である。ん、ここから少し気持ちが明るくなる。なってきた!生きるという幻想も死ぬという幻想も、決定論と脱構築の運動の中で勝手に消費されてしまうならば、ひとは「生かつ死」を平然と生きればいい。これは、端的に言うと「嘘」をつくことだろう。嘘をつき続けること。それが決定論から自由であることの数少ない手だてなのではないか。それは法の前でそれと付き合いながら自由でもあること、であり、またそうした運動をひとはダンスと呼んできたのではないか。法の空転、「会議は踊る」。同化(同一化)の運動の中に「ゆるみ」を保つこと。そして、この「ゆるみ」こそ「即興演技」が遂行される現場のはずだ(おっ、話が円環した!)。


ダンス 即興演技 生かつ死 すべて、同化から自由であるための方法


PCの不具合

2006年03月21日 | Weblog
が発生してまして、そのせいで数日ブログが書けませんでした。昨日は、渋谷のApple Storeに行って来たのですが、行くと「症状」が出ない、PCは「直ったよ」と言いたげにすましている。「病気じゃないから、熱下がったから、注射打たないで!!」と医者の前で動転している子供みたい、でおかしいやらむかつくやら。仕方なく様子を見ることに。アップルのスタッフの方も、よくあるんですよね、と言ってはくれた、が。いまもそのPCで書いてますが、突然書けなくなったりしてしまうかも、、、心配だ。

突風の吹いた金曜日には、マリー・シュイナールの『牧神の午後への前奏曲』と『春の祭典』を見た。ぼくの周りの人の中でもっとも人気があるんじゃないかと思われるシュイナール。好きだという人は、実に多い。ぼくもシュイナールは好きだ。けれども、ぼくが好きなのは他の人とはポイントが違うかも知れないし、そもそもぼくが普段ダンスをみて「いい!」と思う「つぼ」ともちょっと違う気がする。ちょうど一年前にみたときとその印象は変わらない、つまり、ぼくにとって彼女の魅力はデザイン(装飾性)にある。それは反面、必ずしも「ダンシー」だとは思えない。動きの連なりの魅力と言うよりは、ポーズの面白さ、楽しさ、味わい深さ、というところにシュイナールの魅力はある、とぼくは思っている。今回の作品もまさにそうだった。どちらも「性(生)の息吹」が根幹にあるダンス、で、それが呼吸のリズムをもとにダンスとなって表出される。性(生)と呼吸とポーズ。これらが実にシュイナールの内なる確信(センス)からブレなく繰り出されるとき、その魅力は必然性を湛えているようにさえ見える。

ああ、どうにかここまで書けた!やっぱり、君(PC)、直ったの?

ほろほろ号『るる ざざくろ』(@BankART Cafe Live Series vol. 9)

2006年03月15日 | Weblog
を夜に見た。

ほうほう堂+山賀ざくろというユニークな組み合わせ。ほうほう堂の新鋪美佳が振り付けて、同じくほうほう堂の福留麻里と山賀が「るる ざざ」を踊る。つまり、新鋪のパートを山賀が担当するいうこと、基本的には。けれど、単に入れ替わるというのであれば、意味がない。いつもは孤独な男風情が否が応でも漂ってしまっているのが山賀のダンスなのだけれど、山賀が踊ることで、ほうほう堂の作品に表情が加わった。ときどき必要以上に驚いたり、笑ったり、怒ったりする福留。それを促したのは、山賀のちょっかいを出すリズムである。いつものほうほう堂のクールさが今日は崩れて解れている。そこはともかくも面白かった。もちろんこれは、番外編であることから来るハプニング的な表情という面はある。とはいえ、ほうほう堂の「方法」があまり表に出すことを良しとしなかった面が出てきたことは事実だ。

踊りの合間に出るこうした表情は、ダンスの時間を乱す非ダンス的な瞬間でもある。簡単に言うと、二人はそのとき照れている。照れていてはダンスにならない。けれども、照れてしまうことは事実としてあるわけで、それが不意にこぼれる。相容れない二つのもの。よく分からないのだけれど、こうした瞬間が結構尊いようにぼくは思う。ダンスする身体が振りを完全に身につけてその上で自由闊達に踊る、というのはもちろん重要なことだ。その上で、こうした瞬間、ダンスの裏面が透けて見えるような瞬間がリアルだと思う。それは、山賀が男らしさを発揮するタイプであったり、あるいは何かキャラを端的に示してしまう人であれば個性が固定して、ドラマティックなものへと昇華してしまうことだろう。そうなりきれないところで山賀と福留が踊っているからこそ、ぼくの言っているリアルなものはあらわれてくるのだと思う。とはいえ、これはやはりダンスとは水と油なのだ、恐らく、そこがなんとも難しい。上手く踊れるようになればなるほど消えていってしまうもののように思うのだ。どうなんだろ、そうでもないのか。少なくとも、山賀が最近試みていることはこうしたことを課題にしているとぼくは思っている。

ノイエ・タンツ『リヴォルヴァー』(@新宿パークタワーホール)

2006年03月15日 | Weblog
を見た(15:00開演)。

「ノイエ・タンツNeuer Tanz」とはグループ名、デュッセルドルフで15年以上活動している、とのこと。本作は、2004年に初演、その後ドイツ国内外で公演されてきたという。10人ほどの男女が、真っ白い空間にあらわれる。巨大な白い戦車の風船が膨らむ中で、ミュージカルの主題歌(?)のような曲を歌いながらにこやかにみんなで踊る。気持ち悪いくらいの楽しそうな「雰囲気」。その後、戦車はしぼみ、白いシートの下に敷かれてしまう。その上でひっきりなしに着換えをしながら(トータルで100回くらいしていただろうか)、舞台の脇に一人マイクの前に立つ男がおり、その男が「好きにならずにいられない」(プレスリー)を変な声で歌いながら、一人ずつ、ときに二人とか三人で舞台で振りをみせる。後は、1時間ほど延々、このエッジの効いていない、みせどころの乏しい振りをダンサーは踊る。「何をやっているんだろ、何を見せたいんだ??」と思いつつ1時間が過ぎる。

そのあたりでようやく分かってきたのは、ダンサーたちがしているのは振りの「フリ」だということ。考えてみれば、そもそも振り付けられるものである振りは、そのひとが自発的に行うということというよりも、基本的にはやらされるものだ。だから、振りは振りを踊るダンサーとの間に距離がどうして生じてしまう。だから、普通はその距離を縮めて、振りを身につけて、さらに振りを自在にこなしつつそこにさらに自由の仮象を引き出す、というところにまでもっていこうとする、ものだ。けれども、ノイエ・タンツはそれを頑なに拒んでいるように見えた。どこか醒めている。振りが振りの「フリ」でしかないことの前にただ立ち止まろうとしている。踊ることの快楽の拒否。それどころか、あらゆるものがリアルな出来事であると思ってしまうことさえも拒否しているように見える。例えば「ひとを叩く」ということをやる、でもそれは戯画化された「フリ」でしかない。実際に人や壁にぶつかったりすることもある。けれども、それも「当たる」ところにリアリティがない、何か酩酊したような「麻痺」の状態に見える。繰り返しへんな声で歌われる「好きにならずにいられない」は、その「いられない」という衝動が空回りする。その虚しさ、無意味さが、無気味になってくる。

すべてがアイロニーで、すべてが「~っていうフリ」と一言付けないではいられないような心情。これは端的なダンスへのアンチと言うべきだろう。執拗で強烈な否定性は、見ていて正直つらいのだけれど、リアルでもある。リアルになれないということのリアリティ、それはでも到達点というよりも出発点ではないかと思う。これは、恐らく「いま踊ること」に対する間違った理解ではない、きっと正しい、けれど、そこにいてそこから批判することですべてよし、ということでもないだろう。

チェルフィッチュ『三月の5日間』(@Super Deluxe)

2006年03月13日 | Weblog
を見た。

『ポスト労苦の終わり』『目的地』と最近の作品には、ある種の難解さというか、なぜそこにこじれていくのかというか、わかりにくさをぼくは感じてしまっていたのだけれど、この作品にはそれはなく、端的に言えば「ポップな作品」だと思った。ポップなバンドの15曲いりCDみたいなバラエティと統一感とがあった。まず、そのことに唸ってしまう。これだけ自分のしたいことを実際に作品化出来ているひとは他にどこにいるのだろうか、すごいな。というのがともかくの印象だった。

「ポップ」という言葉で言えば、とくに1/3くらい進んだところで登場する松村翔子がいわゆる「きょどり」の人物をするところが実にポップだった。たまたま映画館で知り合った男の連絡先を聞き出したい。そのとき、自分の言いたいことを遠回りしながらでも言わずにはいられないという感じで痙攣的にばく進する様はポップ。というのも、それは誰でもいたいくらい思い当たる節のあるこころの形だから。それが身振りレヴェルで展開されるので頭で理解する前に体が分かってしまう、そんなところが、いやがおうでも受けてしまう観客発生の原因だろう。

でも、今回いちばん考えさせられたのは、動きのこと以上に、戯曲の内容のこと。これ、本であらかじめ読んでいたので知っていたけれど(初演は恥ずかしながら未見)、五日間であったばかりの男女がセックスを猛烈にしまくる、ざっくり数えると40回くらいする、というエピソードが中心に置かれている。このエピソードはばかばかしいようなファンタジーにしか思えないけれど、そうとしか思えない分強烈な関心を観客にかき立てることになっているのではないだろうか。最も都合の良い欲望のすがたというものを描くとしたらまさにこれではないか、例えば、女はインドカレー屋で久しぶりの食事を取りながら、渋谷が外国に見えるという、まるで新婚旅行の気分のような、でも後腐れなく3日後にはきっぱり別れる。けれど、それはまたきわめてグロテスクだ、動物的(もしないかもしれない)セックスなのだから。

アフタートークで、『新潮』の編集長と話しているとき、話題は、男と別れた後、女が公園で人間が脱糞しているのを犬と見間違えて嘔吐してしまう、という部分に集中した。「錯視」というか、日常見慣れているものが別の何かに見えてしまうという話だ(「嘔吐」ということも含めて、ここにはサルトル的な面があるようにも思う)。岡田君は、後から考えると、こうした「錯視」がなければ戦争でひとは殺せないかも知れない、という連想から戦争の問題とゆるやかに繋がる部分に図らずもなった、といったことを話していた。なるほど、そういうこともあるのかもしれない。けれど、「錯視」は、岡田君の作品中のいたるところに溢れているものだろう。例えば、五日間で40回くらいセックスし続ける男女はそれ自体グロテスクで人間とは思えなくなるときがあるのだから。

そして「どんな人間がそんなこと出来るんだ」と思いながら役者の顔見ると言うよりも、「そんなの人間じゃないよな」と思いながら役柄と距離を取って役者の振る舞いを見ることが出来るのは、チェルフィッチュの方法がセリフと振る舞いを分離させているからだ。セリフと振る舞いが分離するというこは、おそらくそれを担う役者もこの二つとそれぞれ分離することを可能にしているだろう。舞台のパーツであるそれぞれが適度に距離をおいてある。そして、その「スキ」に何が起こりうるかというと、人間が人間じゃないものに見えてくる「錯視」というわけだ。

ところで、人間の欲望の果てがグロテスクというのは、ポツドール『夢の城』のことをやはり想起させる。何を舞台上に現して何を現さないかという点では、コインの裏表的に異なるけれども、焦点は非常に近い気がする。動物的なセックス。両者の違いは、ただあとは登場人物がヤンキー(マンバ)かサブカルかの違いくらいしかない。その違いにはどんな決定的な違いがあるのだろう。分からない。多分この点を真面目に考えるとすれば、それを観劇する者は一体誰か、ヤンキーではないな、どちらかといえばサブカルだな、ということを問題にするべきだろう。ポツドールはだから異文化接触(異文化収奪?)が舞台と客席の間で起きている、チェルフィッチュはむしろ同じ文化圏の者同士が舞台と客席を埋めている、ということになる?

あと忘れないように一つ書き残しておきたいのは、やはりSuper Deluxeなんていう場所で演劇を見るのは実に刺激的だったと言うこと。「劇場」「小屋」とか呼ばれるものでは感じることの出来ない気分で見られたのは、よかった本当に。こういう配置換え(デペイズマン)をするだけで、ことは面白くなっていく気がするんだよな。カレーとビールをやりながら見る演劇。で、そのことにたえられるだけチェルフィッチュはポップだった。

ダンス・ヒストリー・ツアー(バレエ・ダンスの歴史をたどる旅)

2006年03月12日 | Weblog
というものを、日本女子体育大学で行うという情報が今朝入り、夕方千歳烏山に。

近年、「にちじょ」出身というひとがコンテンポラリーダンスの世界で増えているのは気になっていた。その
にちじょ」ではいったいどんな教育が行われているのか。そもそも「ダンス」と「教育」の問題というのは、それ自体大きな問題であり、一種の矛盾をはらんだ関係にあるものとさえ言いうる。さて、、、そういう思いも込みで見たので、1時間半の企画を通して「ダンス虎の穴」にちじょ編を見ることになった、ということも出来る。

タイトルにもあるように、西洋のダンス史を学生たちが会場を変えながら踊っていく。つくりは横浜ダンス界隈みたいだ。最初は、ルネサンスのダンス、ノヴェールの朗読にダンスが絡む、ロマンティック・バレエ、プティパの『ラ・バヤデール』、フォーキン『瀕死の白鳥』、ベジャール『火の鳥』と続く。形式的にはこういった名だたる作品の振り付けを教えるんだな、と思った。ただし、その振りがもっている意味というか文化というか趣味というかまでは十分に学生たちに浸透していないのかもしれない。まだまだ外側から型押しされている、風にしか見えない。けれども、ダンスを理論的にではなく振りそのものから理解していくスタンスはぼくにとっては新鮮で、興味深かった。

それで後半、ピンクの三人が『牧神の午後』をバックにいつものままに踊る。もうぼくは彼女たちのことを「こパンダ」としてしか見られなくなっている、のですが、その「こパンダ」的傍若無人をこういう場所でも平気でやっている感じが、ま、とても痛快でした。

最後の演目では、高野美和子、牧琢弥、高橋春香がピナ・バウシュの『カフェ・ミューラー』をやってみる。狭いこともあるし、客が近くにいることもあって、椅子を片づける男の真剣振りが発揮出来ぬまま、必然生ぬるい感じになってしまったのだが、その分、ピナ・バウシュ作品であるために必要なものが浮き彫りになった、ということも出来る。こういう実際に踊ってみるというやり方でバウシュとつきあう、というのは、いろいろと分かることもあるのだろうな、と踊れないぼくからすればなんともうらやましかった。

ライヴでダンス史を概観するというアイディアは、かなり面白かったし、ダンスに興味をもち始めた初学者にとっては、継続していけば十分魅力的な企画になりうるだろう。アカデミズムの場がダンスの世界にどういった貢献をしうるのかという点からして、ありうる形のひとつ、とも思った。今回は、宣伝がほとんどなかった内輪的企画ではあったけれど、次回以降(がもしあれば)是非、宣伝をしてお客を集めてもらいたい。またそうなれば、真剣味もまた違ってくると思うし。

帰ってあらためて外出、町田でお好み焼きを食す。烏山や町田に行く時にもずっと昨日の『夢の城』のことが頭から離れない。なにやらそういう空気感をもっている若者が目の前に現れると、辛い気持ちになる。夢の城の世界が「夢」なんかじゃなくひとつの紛れもない現実だと思わされるからだろう。引きずる作品だ。その点ではすごい、近年すばぬけて引きずる作品だ。しばらくこの辛い気持ちは消えないだろう。