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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

宮台・中森『サブカル真論』

2009年09月05日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
『サブカル真論』(ウェイツ 2005)は、2004年に行われたトークイベントを基に翌年に出版された。そのなかに宮台真司と中森明夫と宮崎哲弥の鼎談が収録されている。80年代が生んだ「サブカルチャー」が00年代に停滞しているのは何故かをめぐって、宮台と中森が興味深い議論を展開している。80年代文化論にとって、必須の文献である。
細かい解説を加えるときりがないので、さしあたり、重要な発言を引用しておく。

「宮台 一口でいうと、差別語としての「サブカル系」とは、実は「自意識系」の別名なのね。サブカル趣味が、ある種の痛々しさの自己表明みたいに受け取られていたんです。サブカル系ということで、『エヴァンゲリオン』の碇シンジ扱いされてしまうんですよ」(p. 157)

「宮台 九〇年代前半に大月隆寛がよく言ってたでしょ。「どこかでうまいことをやっているやつがいるという八〇年代的感覚」と。正確には八〇年代後半的なものだけどね。ところが、いまはあまりない。その意味で、ルサンチマンはかつてほどはないというのが現実です。」(p. 164)

「宮台 すなわち、「モテるもモテないも、自分の責任」という場所を通過したあと、「過剰にモテ『ようと思う』のも過剰に退却し『ようと思う』のも、自分の責任」というふうに、いっそう再帰化--かつて前提だったものを選択対象にすることですが--しました。」(p. 165)

「中森 九〇年代に僕が何をやったかというと、「中森文化新聞」とかその他諸々そうですが、舞台をつくったわけですね。つまり新人類を増やせばいいんだと。もちろん僕が才能をつくったわけでも何でもなくて、舞台を提供しただけなんですけど、その中には鶴見済さんとか、しまおまほさんとか、いろいろな方がいました。」(p. 174)

「宮台 僕は湾岸戦争からオウムへの流れを見て、中森さんだけが「八〇年代文化人」だと思いました。というのは、何もかもわかったうえで「楽しくなければ文化じゃない」(フジテレビのキャッチコピーのもじりですが)ばりに戯れていたのは、中森さんだけだったなと。
 中森さんであれば、「いつまでも戯れていちゃいけない」はありえないでしょう。むしろ、「戦争が起こったのなら、なおさら、いつまでも戯れていよう」となるはずです。少なくとも僕ならそうです。表では永久に戯れつつ、裏でロビー活動をする。
 その意味で言えば、やっぱりネタで始まったものがベタになっていたんですよ。だからこそ、他国で戦争が起こった程度のことで「こんなふうに戯れていちゃいけない」などとベタに言いだすわけ。
 「あえて」が続いていると思っていた僕らは、頭を抱えたわけ。「エーッ」って。このセリフはあまりにマズイ。ベタに遊んでいたって話になっちゃう。過去が貶められちゃう。最初の「闘争ならぬ闘争の勧め」や「パラノならぬスキゾの勧め」はどうなっちゃったの」(p. 177)

「宮台 僕の認識では、オリジネーター(原新人類)は、高橋留美子『うる星やつら』の友引町のような「戯れに満ちた、外のない異世界」をつくって戯れようとしたけれども、わざわざそうするぐらいだから、自分たちには間違いなく「外」があったんですよ。
 それが、わかって「あえて」やっているんだという意識でした。それが、すでにつくられた「異世界」に単に住み込むだけのサクセサー(後期新人類以降)になると、外が消えてしまう。そのことを詳しく記述したのが『サブカルチャー神話解体』だった」(pp. 177-178)

「宮台 三島由紀夫は周知のとおり「サブカルの権化」です。」「サブカルというのは、三島由紀夫のような、劣等感や屈折ゆえにアイロニーや諧謔をよくわかっている人間が、そうした感受性をベースにして、ベタにではなくメタに、あるいは、ナイーブではなくあえて表現するときにこそ、大きな力をもつものです。」(p. 186)

「宮台 八〇年代は確かにスカだった。でもその意味は、中森さんのような確信犯が少なく、ベタな人が多すぎたということ。「メタ八〇年代的」よりも「ベタ八〇年代的」がもっぱらだったこと。「九〇年代に入ってみたら、八〇年代の本義を貫徹する者がいなかった」ということです。
 だから、僕は逆に「八〇年代的なもの」すなわち原新人類的な「メタ八〇明代的なもの」を完全貫徹するぞ、という明確な意図をもちながら、九〇年代の活動を開始しました。すべては横並びか?然り。「やっぱりリアルがあった」などとホザくヘタレ文学者は、クズ。
 「すべてが虚構だ。然るに、虚構のゲームを俺はこうやる!」という言い方をするのが、僕ですよ。」(p. 195)

「宮台 現実社会で上昇できないやつが教団内での上昇を目指すという宗教的な「地位代替機能」と同じで、性的なフィールドで上昇できないやつが「オタクの階級闘争」での上昇を目指すという振る舞いがありました。
 でも、援交ブームがピークを過ぎる九七年には、オタクの階級闘争も終わる。現実のセックスにコミットするのも「ときメモ」みたいなギャルゲーにコミットするのも等価。本当の島宇宙=フラット化が、九六年から九七年にかけて起こったというのが、僕の分析です。
 その結果、オタク連中の抑鬱状況が消えて、ハッピーになる。すると、上質な送り手がどんどん減って「萌えー!」的な受け手ばかりになる。それが理由で、ワンフェスが一時中止になる。」「社会が幸せになって文化が衰退する」(p. 211)


『美少女症候群』と富沢雅彦

2009年08月19日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
昨日まで、大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレに行ってました。自然とアートの関係、村おこしとアートの関係、田舎と都市の関係などいろいろと考えさせられるやっぱり見るべき展覧会でした。

さて、また再開して、こつこつとノート作り進めていきます。

『おたくの本』でも取り上げられていた80年代のおたく批評の重要人物といっていいだろう富沢雅彦。彼の見解を理解しようとするのに『美少女症候群』(ふゅーじょんぷろだくと 1985年)は格好の素材、相当に読み応えのあるテクストが収められている。本書は、ロリコン同人誌のなかで代表的なマンガ・イラストを富沢の編集のもとでピック・アップしたものであり、全10章で各章の冒頭には、編者・富沢のコメントが600字程度添えられている。目次は以下の通り。

第1章 ロリコンその世界
第2章 猟奇天国、少女の地獄
第3章 10万本の触手
第4章 メカフェチたちの饗宴
第5章 ラナちゃん、ラムちゃんいっぱいされちゃった
第6章 メカアニメDEカルチャー
第7章 SEXY SFXギャルズ
第8章 少女はやっぱり女の子のもの
第9章 猫耳を、もっと猫耳を!
第10章  美少女幻想は時空を越えて

「触手」、「メカ」+少女、「猫耳」など、今日のオタク的なものとして連想するイメージがすでにこの時期(1985)に存在していることに、不勉強だった僕は驚きました、まず。もうひとつ面白かったのは、第8章なんだけれど、女性の手によるロリコンマンガの存在。これは現在はどうなんでしょうか。どこか乙女チックな女の子を「可愛いものを可愛いものとして愛する方法」をもつ女性が描く。そこには性的な表現(本書に収められているのは、レズの性描写)も含まれる。ジェンダーを跨ぐものとしてロリコンの存在があることを富沢は強調している。この強調点は、富沢批評の興味深い特徴である。富沢は、三次元イコール男性的な価値の支配する社会と考えており、二次元の世界はその枷から自由になれる場として想定しているのである。これは、しばしば比較される本田透との違いをつくるところだろう。二次元に三次元の男性的な価値原理を持ち込む男、相も変わらず対象を犯すことしかできない男を憎む富沢は、それをアイデンティティとするところでおたくの外部にいるおたくである。そのスタンスが富沢を批評的な存在にしている。

富沢の文章をいくつか抜粋しながら、さらに詳細に見ていく。

第1章では、「本来の語義と切り離された”ロリコン”」(p. 8)を、富沢はこう定義している。

「マンガ・アニメファンにとってロリコンとは何なのかを自問してみると、それは自分たちを現実よりも二次元のイメージを求める存在として認識するときの称号であるとしか言いようがないのである。」(p. 8)

性欲のかたちというよりは三次元ではなく二次元に生きるひと=ロリコンだというのだ。そこで例えば、女性のロリコンの存在をこう指摘している。

「ロリコンが必ずしも少女を性的対象とすることを意味しないのは、マンガやアニメの可愛いキャラを好む女の子たちもまた往々にして自分たちをロリコン・ショタと称したがることからも明らかである」(p. 8)

二次元に生きる故に、富沢にとってはロリコンは、「ビョーキ」であるとされても責を免れた存在であることには違いない。

「ロリコンという言葉は絶対の免罪符としてあらゆる責からの解放を約束する--なぜなら、それは”ビョーキ”なのだから。」(p. 8)

ちなみに、この「ビョーキ」という語彙は、80年代前半に大流行したものであり、例えば先述した野々村文宏『新人類の主張』にも出てくる。自己アイデンティティを「ビョーキ」に求めるという点で、両者は重なり合う(では「ビョーキ」とは何か?)。

第2章には、「触手」に関して的確な論が展開されている。性的な欲望の主体(=男性的な主体)になりたくない性的欲望者の願望が「顔のない男根」としてのメカ触手を生んだ、と富沢は考える。

「マンガ・アニメ少年たちは己れの性的欲望を認めながらも、自らを凌辱の主体とすることに踏み切れないのではないかと思われるのだ。少女が何者かに犯されている姿はイメージしたい、しかし二次元の世界においてさえ自分をフィジカルな力の行使者とすることの出来ない彼らがほとんど無意識的に創り上げたのが、この顔のない男根としてのメカ触手だったのではないか、と。」(p. 48)

第4章には、共同幻想を形成する場としてロリコンを規定していて面白い。富沢のこういうところは、きわめて秀逸だと思う。

「SFをはじめ美少女とは無縁の姿勢を保つ同人誌は存在している。だがそれらは、同人誌というマイナー文化の中の更なるマイナーとして埋没しつつあるという印象なのだ。我々はロリコンと自己規定するときのみマスとなり得る。」(p. 58)


第5章は、アニパロを話題にする。アニパロの発端は、女性によるホモネタ同人誌だった、と富沢らしい女性への眼差しを元に、男性のパロディが「エロのためのエロ」に向かうのに対して、女性のそれの多様性に注目している。

「70年代のアニパロ・ブームの先陣を切ったのは「ヤマト」「ガッチャマン」ファンの女の子によるホモネタ同人誌だった。男の子によるエロ・パロはその後塵を拝する形で発展し、今では完全に形勢が逆転したという感がある。
 だが女の子のホモ・パロが本来そのキャラの画面に現れることのないプライベート・ライフを垣間見たいというパトスを中核とし、ヒワイ画を描くのも耽美趣味の一環という感じだったのに対して、男のエロ・パロは往々にしてエロのためのエロとしてより不毛度の高いものにしかなり得ていないのも否めない事実なのだ。」(p. 80)

「例えば「サザエさん」等のほのぼのマンガをエロ化して己れのセンスをひけらかしてみせるとか、メジャーな美少女をこれみよがしに冒涜して”私物化”してみせるとか。それらを見るとき、オトコというものは二次元の世界においてさえも競争原理から脱却できないということを思い知らされるようで、暗たんたる想いにかられずにはいられないのである。」(p. 80)

富沢らしい視点の真骨頂(に僕には見える)は、第8章。

「その[ロリコンブームの]膨大な群の中には、女の子による美少女同人誌というジャンルも存在しているのだ。トラディショナルなモチーフとしての可愛い少女から詩的なメルヘン画、ロリコンブームにフィードバックを受けた女の子による美少女エロマンガまで、多彩なスペクトルをもってそれらは活況を呈している。だが、女の子にとってそれら全ては、美少年志向も含めて、広義の少女趣味の一環だったのだ。
 他方、少女趣味に相当する嗜好の様式--可愛いものを可愛いものとして愛する方法--を持ち得なかった男たちは、相変わらず対象を犯すこと、自分のビョーキをひけらかすことしか自己アピールの手段を得ずにいる。」(p. 128)

本書の最後には、編集後記(「世紀末美少女症候群伝説」)が付いていて、そこに富沢はまとまった分量で、自分の考えの形をより明確に披露している。前半、おたくたち自身が自嘲していさえする自分たちの外見を取り上げ、論を展開してゆく。

「このこと[おたくたちが外見に対して無頓着なこと]は、現実よりも二次元のイメージの世界に閉じ込もることを選択したマンガ少年たちの無意識的な自己表明ではないかと思えるのである」(p. 176)

そして、引き続く次の文章は、まるでおたくの側からの「新人類」(非おたく)批判のようにも映る。

「筆者自身に関しても、あるときタワムしに髪染めちゃおーかしら、ファッションもロンドンっぽっくキメちゃおーかしら、なんて思ってみたりして、そこですぐに気づいたことには、しかしそうしたならば行動もファッションに規制されて従来の生活--書店で嬉々として「コミックボンボン」を立ち読みすること……等々が非常に困難になってしまうであろう、と。で--マンガ少年にとってそういう”現実”への自己アピールが関心の外に置かれているということは、例えて言うとアメリカの生活に憧れを抱く日本人があえて着物を着たりチョンマゲを結ったりする必要を認めない、というのと同様のことと思われる。」(p. 176)

現実への自己アピールを欠いた存在がおたく。ファッションに規制されて自分たちの二次元への欲望を発揮したりや現実での無頓着な振る舞いが出来なかったりすることこそ、問題と思うのがおたく。だから始めから現実で「モテ」ることは、度外視している訳だ。非モテ=おたくというのは、ある意味では、自分たちの了解事項であるはず。というかむしろモテるモテないにかかわらず現実から逃避することこそが、おたくのおたくたる所以、おたくのアイデンティティである、というのだろう(ちなみに、富沢の文章から「おたく」という言葉は出てこない、代わりに出てくるのは「マンガ少年」)。

「三次元界と二次元界は、物心ついた時から目の前に並存していた。三次元の現実とは我々にこの社会内でのアイデンティティを確立せよ、”現実”の生活や家庭や出世、”現実”の女との恋愛やセックスに欲望を持て、それによって社会に帰属せよと迫る。ぼくらはどうしてもそれに対する齟齬感を抱かずにはいられなかった。この肉体が三次元界に存在しているのは残念ながら(!)動かしがたい事実として、観念のレベルでぼくらは各々のイメージの支えとして心を満たしてくれるものは何でも良かったのだ。……ロリコンというキーワードが登場して初めて、誰もが実感しうる”性”を媒介に美少女が唯一最大の共同幻想となり得た。」(p. 176)


『新人類の主張』(野々村文宏)

2009年08月15日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
野々村文宏『新人類の主張』(駸々堂出版、1985.7.25)

広義の新人類は、八〇年代なかばに20歳前後(若者)だったひとたち、ということになるだろうけれど、狭義には中森明夫、野々村文宏、田口賢司の3人を指す。この3人からさらに枠を拡げて生まれたのが前述した「新人類の旗手たち」といえるだろう。

中森明夫
野々村文宏---「新人類の旗手たち」(木佐貫邦子、平田オリザ含む)---世代としての新人類
田口賢司

ネット的には、80年代半ばに大活躍した西武ライオンズの若手選手を「新人類」と称すのが目立つ(清原ら。物怖じしない振る舞いを称して)。けれども、狭義の3人が思想的な基礎となったのは間違いない。

ということで、野々村の『新人類の主張』を読んでみる。

本書は、現在和光大学表現学部表現文化学科の教員である野々村の最初の著作である(もちろん、ぼくのこのノートは、過去のまた今日の野々村氏を誹謗中傷するつもりは全くありません。当時の言説のモードを本書から抽出してそこにどんな思考のOSが作動していたのか、それを分析することが目的です)。所収されているのは、「新人類の逆襲」「新人類の主張」「秘孔宣言」「私たちは新人類じゃない」「大リーグボール3号的言説へ向けて」「KYON2の書記法をめぐって」「RGBの共通領域」「クラフトワーク・ユーゲント」「テクノポップと未来派」「関係妄想機械」「怪獣図鑑的想像力」「ソフトビニール人形に愛をこめて」など(すべて論考のタイトル)。歌謡曲、テクノ、怪獣、マンガあたりが中心的な考察の対象。タイトルはほぼすべてすでにどこかでつけられたタイトルのパロディ。自分の言説をつくり出すのに、既出のものに身を隠しながらするというのが、まず特徴として見えてくる。

◎「新人類の逆襲」「新人類の主張」
この二本は、野々村について中森と田口が語り合うという鼎談。自分たちのアイデンティティを明記するのに、スペシャルズやYMOやセックス・ピストルズや鴨川つばめやイーターや『週刊プレイボーイ』やディーボやイーノやトーキングヘッズの名が次々とあげられてゆく(pp. 8-9)。「知ってる」ということが、自分の存在をかたちづくる。しかもひとつの対象の内に深まっていくと言うよりは、あれこれと話が飛んでいって深まっては行かない、その移動自体が彼ららしい身振りを示しているようだ。

「田口 誰がいちばん好きなの?
 野々村 もはや、そういう質問が死語と化しているところに、超ミーハー化社会の構造的不況があるわけだ。あえて言うなら、とんねるず!違うか、じゃあKYON2!違うか、じゃあ、風見慎吾!じゃあ、岡田有希子!ええい、網浜直子!!(笑)
 田口 イーノでしょ。
 野々村 僕、イーノに会ったんだよ。いや、東京で、エヘヘ。」(p. 17)

領域横断的に(歌謡曲も現代音楽あるいはニューウェイブも等価に)ミーハーであること。あいつもこいつも結局等価なんだよね。イーノに握手してもらったけど、全然感激薄くて、KYON2に会ったときの方がアガったなんて台詞も出てくるのだけれど、こうした発言には、等価じゃないはずのものが等価になっているという固定した差異が前提になっているからこその価値の逆転やそこへと感激というものあるのだ、ということが描かれている気がする。差異を決定的なものとしないという思考は、おたくの差異こそが重要とみなす思考と明確に異なるところだろう。彼らにかかれば、ドゥルーズもカントも花粉症の野々村も、「ビョーキ」という点で等価とみなされてゆく。

「田口 野々村が野々村っぽいことの決め手は、やっぱり「鼻」にあるな。
 中森 アレルギーや花粉症って、新人類の必須アミノ酸と化してるんじゃない?
 田口 鼻がつまるっていうのは、すごくドゥルーズに通じるものを感じるぜ。ドゥルーズがぜん息で常に脳細胞を刺激されたりしているとか、カントが常に偏頭痛で頭を刺激されてたように鼻がつまるっててせかいことだよ。ビョーキの勝利。」(p. 23)

こうした言説で本が出てしまうというところが、当時らしいのだろう。勢いに任せて書いたものがもてはやされた時代なのだな。大学生のレポートなどでも強引にあるものとあるものとを連関させて論じる類はいっぱいあるのだけれど、野々村の本書に載っている文章というのは、ほとんど大学生の勢い任せのレポートと変わらない。

「野々村 コミュニケーションってさ、僕はいわゆる言語的な意味のうけ答えってつまんなくてさ。別にボディ・ランゲージみたいな風にとられても困るんだけどさ。しゃべりながら無意識のうちに机をたたいている自分の行為とかさ。精神病患者が自分にしかわかんない文字とかつくったりするじゃん。文字の意味が解体していってちがう意味をもったりするとかね。すっごいよくわかるわけ。仕事しててつかれたりするとさ、文字が見てる前で、バラバラになるカンジがあって。
 KYON2で好きなのは、小鼻を指で上げるじゃない。それで同時に別のコミュニケーションが成立するようなことがあるのよね……これはものすごく好きだね。」(p. 31)

いろいろと語っているが、要は、アイドルが小鼻を指であげるという非アイドル的振る舞いをするところに、既存の振る舞いを超えた何か(別のコミュニケーション)が生じたと喜んでいるわけだ。80年代は、こうした解体を喜ぶ程に、固定した何かがあった時代なのだと思わされる。ズラしの時代。

「田口 んじゃ、野々村さ「前衛性」の問題やろーか。要するに文化人やる場合にしてもさ、クリティックにしても物書くにしても、言葉の前衛性・先端性をとりまぜた「コトバの前衛性」みたいなことがかかわってくるじゃない。そういうことに対する考えってどう?
 野々村 田口も難しいコト聞くね。も少し説明して。
 田口 うーん、自分自身への問いというか、内省のようなものがあるとか。
 野々村 何を答えていいのかよくわかんないけど、自己言及性っていうのは僕の場合はスゴクあるよ。だから僕ってすごいプレモダンな形のものを持っていてそれをやってることは確かだよ。けっこう恥ずかしいことやってるよね。
……
 野々村 モダンが欠落した思考のサーキットを使ってるんだよね。
 田口 「欠落したモダン」ってカッコイイ言い方だね。
 野々村 ポスト・モダンじゃないのよ。欠落したモダンの状態で子どもたちがこれから出てくるんだよ。怪獣って欠落したモダンだからね。
 田口 焼きそばとお好み焼きが合体したみたいなヤツ、ひとつの欠落したモダン焼き!
 野々村 焼き入れたろか、ホンマに。しかし、ニューアカ・ブームが終わった今、すごーく恥ずかしいものがあるな、この会話には。」(pp. 39-40)

まず「ニューアカ・ブーム」は、85年には終わっていたことが確認できる。83-84年に消費された「ニューアカ」。「ボスト・モダン」じゃないという発言は、結構気になる。「欠落したモダン」=「怪獣」=「子どもたち」。モダンのなかで「モダン」を欠落させた怪物的存在が自分たちだ、というのは、既存の規範には従わないけれど、「ポスト・モダン」じゃないということか。プレモダンだ、という発言もある。よく分からない。けれども、ここに浅田の「スキゾ・キッズ」との微妙な距離を感じる。「パラノ」じゃない僕は、「スキゾ」というよりは「怪獣」。そうか、そういうことじゃないのか。

新人類の主張=「パラノ」じゃない僕は「スキゾ」というより「怪獣」ですなんちゃって

「スキゾ・キッズ」は、本来、差異の差異性を徹底的に推し進める存在として描かれていたはず。「スキゾ・キッズ」というあり方に大いに刺激を受けたはずの「新人類」は、しかし、差異を「モダン」/「欠落したモダン」の差異へと固定したところで生まれる「怪獣」として自分をアイデンティファイする。「スキゾ・キッズ」と「怪獣」の距離が気になる。この「怪獣」として自己をアイデンティファイするというのは、村上-椹木的な振る舞いと似てはいないだろうか。ぼくは『REVIEW HOUSE 02』に寄稿した「彼らは「日本・現代・美術」ではない」で、Chim↑Pomや遠藤一郎のことを村上・会田・椹木ラインの「日本現代美術」とは似て非なるものだと論じた。そこで考えたのは、90年代の椹木のアイディアである「シミュレーショニズム」が90年代末に「日本・現代・美術」論へと変容していったという事態だった。「悪い場所」として「日本」を同定することと、「シミュレーショニズム」のポテンシャルは、別に一致させる必要のないものではないか、と思った。シミュレーショニズムのラディカルさ(徹底性)が、「悪い」/「良い」という固定した差異によって歪められてしまうのではないか。村上や会田や椹木がその振る舞いを意図的にやっているのならばいいとしても、少なくとも、彼らよりも若い世代の活動をそう切り取られてしまってはかなわないゾという思いが、ぼくにあの論考を書かせた。

Chim↑Pomや遠藤一郎を語るのに、80年代の文脈を導入するのはやめてくれ!

というのが、ぼくの思いだったのかも知れない。あらためて、80年代の言説をこうやって読み直してみるとぼくはいまのところ、こう言ってみたくなっている。

Chim↑Pomや遠藤一郎を語るのに、80年代半ばの文脈(「欠落したモダン」、固定した差異が生む怪獣)を導入するのはやめてくれ!


◎「おたく」との差異
では、「スキゾ・キッズ」と似て非なる「新人類」は、あらためて「パラノ」とどう違うのだろうか。

「野々村 「イリュージョニズムの発生装置」とか、「内なる外部」みたいなことって僕は相当興味あるからね。だからもう一つは外側に向かってどうやってプレザンスしていくか、中沢さんの言い方を借りて言えば。
 田口 ル・プレザンタシォンね。
 中森 そう言った方がカッコイイ。
 野々村 僕はさあ、イデオロギー操作されやすい人だと思うのね。のめりこんじゃう方だし。
 田口 わかるわかる。
 野々村 あきやすくて、ガサツでだらしないから逆に救われているとこもあるけど。
 中森 おたくになんなくてよかったよね。」(p. 46)

もう本当に、軽い(軽薄)だよなー、と思わされてしまう部分ですが、それは置いておいて(表象文化論の外部にいるからこそ、出てくる発言ですよね、「カッコイイ」って。インサイダーにならないミーハーということなのかな)、最後の中森の「おたくになんなくてよかったよね」という結論は、どう読むことができるのだろう。「あきやすくて、ガサツでだらしない」自分たちは、だから「救われている」(おたくにならないですんでいる)ということなんでしょうかね。一方「イデオロギー操作されやすい」「のめりこんじゃう」という率直な発言は、充分「パラノ」的な側面のあることが分かる。けれども、それがほどほどで、すぐに飽きて、別のものへと次々「のめりこんじゃう」のは、最も重要な価値観が「カッコイイ」か否かにあるからだろう。

とくに、アイドル歌手について言及するところは、「おたく」と共通する点だと思うんですけれど、違いはどこにあるのだろう。『おたくの本』にあったのは、C級のアイドルを追っかけするのおたくやパンチラを求めるカメラ小僧。彼らと野々村が違うのは、「スタア」に興味があるところか。スターシステムという本流に対して、アンチの身振りを無意識的にしてしまう小泉今日子に反応する新人類。

「トロトロ走るところから"カメ吉号"と命名された彼女の愛車が転倒している写真。そして路上には亀のように四ツン這いになった小泉今日子がいる。
 むろん、これは本当の事故ではない。事故をスキャンダルとして排除しタブー化するスタア=芸能人類に対して、反スタア=芸能非人類を標榜し、"あたらしさ"を路上で演じさせてみようとするハプニングの計画。」(p. 64)

「KYON2のクセは、欲望のままに、だらしなく挑発すること。
暗に何度も強調してきたように、彼女はなーんにも考えていない。「なーんにも考えていない」にも関わらず、僕らを驚かせてくれるその並はずれた才能。
 ひとつ付記しておこう。KYON2の無意識が、戸川純の無意識を気取る自意識とはまったく違うものであることを。無意識の無意識と、無意識を気取る自意識。」(pp. 64-65)

「スターシステムというゲームの規範にノリつつも、たえずはずしをかけていくKYON2の必殺ワザ」「小泉今日子の身のこなしの軽さと不確定性は、スター・システムのルールを無視した小田急沿線(ルビ:ノマドロジック)の相模原台地的で自由な運動性によってもたらされていたのだ。」(p. 69)

『新人類がゆく。』(アクロス編集室編・著)

2009年08月14日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
アクロス編集室編・著『新人類がゆく。 ニュータイプ若者論』PARCO出版、1985年9月10日出版。

この時期の資料を読んでいると驚くのは、「いま」を回顧する速さだ。85年の4月19日に『朝日ジャーナル』で「新人類」という言葉が発せられて半年経たない内に、本書は出版されている(ちなみに本家の連載が書籍化されるのは翌年の9月)。「クリエイティブビジネス情報誌」と自称する『アクロス』(年間予約制・直接郵送方式の雑誌。この雑誌がどう受容されていたのかがすごい気になる。カタカナ商売のひとたちのバイブルだったのだろうか)に、84年7月から85年3月までに載った長文の記事が、各章を構成している。8章立て。

「序」にはこうある。「頭の堅い大人たちが確信してきた生き方・考え方が、世の中の常識やモラルと面白いように符合するといった時代は去った。今や、新しい世代の未知のパワーが、時代を突き破ってめきめきと頭角をあらわす。……戦争はおろか、東京オリンピックや万国博の興奮も知らず、この新しい時代に生まれ出た新人類たちを取りまく情報環境は、そのときすでに、極限まで高められていったといっても過言ではない。こうした環境を子守歌に育ちつつある彼らは、マイコンを自在に操り、大人の知らないコトバで話し、ファッションでコミュニケートし、メディアを手玉にとる新人類だ。」(p. 1)

またこんなまとめもある。「校内暴力・竹の子族・マイコン少年などでブームを巻き起こしたニュータイプ(新人類)」(p. 11)

新人類の枠取りが、これだとヤンキー(不良)も原宿・ホコ天もおたくも入ってしまう。「ニュータイプ」という言葉は、本書で使われるけれど、他では見かけない。情報環境を生き生きと生きているファッション化した若者たち=新人類といったところか。

それぞれの章が興味深いまたかなり大胆な分析をしている。この記事では第1章を取り上げてみる。



☆第1章 感性差別化社会 新人類誕生のプロセス なぜ「ヤング」は崩壊したのか

この章は、70年代と80年代の違いを、若者を指すのに「ヤング」という語彙を用いた時代と用いる意味が希薄になった時代の違いとして捉える。そしてそのふたつの間にあるものとして、「ヤング」が多様化していった諸タコツボ化としている。そこで、三つをA-Cと区分すると。

A 1970年代 「ヤング」の時代
B 1970年代末 「ヤング」の崩壊
C 1980年代 一億総ヤング時代

となる。ではそれぞれ。

A 「ヤング」の時代
70年代は「ヤング」の時代と本書は規定する。ならば、そもそも「ヤング」とは何か?

「紛争後のラジカルな顔を卒業してやさしくなった若者も、彼らのパワーの一部始終を横目で見ながらシラケてしまった若者も、それまでの若者像にはなかった不思議な”やさしさ”をもっており、大人社会にしてみれば、同じ土俵で反抗してきてくれないので対応のしようがない。」(p. 13)

60年代までの男性的な社会から、そうした男性的なものの輪に入っていかない、そこで闘うことを望まない「やさしい」者たちが出て来る。それが「ヤング」。「ヤング」は、いわゆるベビーブーム世代(昭和22-24年生まれ)に該当する。「やさしい」以外に特徴的なのは、外見と内面の一致であると本書は言う。それまでは、ファッションというのは、単なる飾りだった。それが自分のアイデンティティを表現するものへと価値が変わっていったという。ファッション(外見)が内面を反映するの、それが「ヤング」。 

「ファッションがはじめて、ライフスタイルや思想を反映し、Gパンをはくこと、長髪にすること、ノーブラでいることで、ヤングは主張しはじめたのである」(p. 15)

とくに例としてアンノン族があげられる。


B 「ヤング」の崩壊 諸タコツボ化
この「ヤングがいかに1970年代的なものであり、しかも1970年代にしか通用しないか」を説明するのに、本書は、テレビ・ラジオ番組のタイトルに注目する。70年代の若者向け番組には、「ヤング」という言葉が頻出する。

ヤングおー!おー!(テレビ朝日69-82年)
ポップヤング(テレビ朝日70-71年)
リブ・ヤング(フジテレビ72-75年)
歌え!ヤンヤン!!(テレビ東京72-75年)
レッツゴーヤング(NHK74年-)
セイ!ヤング(文化放送69-81年)
ヤングタウン東京(TBS69-84年)

「ヤング」が見る/聞く「ヤング」番組に「ヤング」という言葉を用いるベタが可能だった時代が70年代だった。何故可能だったかと言えば、「ヤング」が「一枚岩」だったからだ。

「一枚岩のヤング層が崩壊し、一億総ヤング社会となった1980年代では、若者向け番組の『ヤング○○』というタイトルはピンボケになってしまうのである」(pp. 18-19)

この「一枚岩」が崩壊する。つまり、価値観の多様化が1980年代の初頭に起こる。それはタコツボ化を生み、同時に他人への無関心を引き起こした。

「価値観が多様化した時代背景を、自らの感性だけを頼りに生きるヤングには、日本人論につきものの”同質性”はあてはまらない。「近頃の若い者は何を考えているかわからない」と大人が言う分には目新しくもないが、ヤング間でもお互いにその思考体系、行動様式が理解できない、また、理解しようとしないというのが、1980年代の状況なのだ。あるタコツボに入った彼らは、きわめて狭い範囲を自己完結的に行動し、その範囲を超える周囲の動向にはほとんど関心を示さない。」「無関心世代、無干渉世代の名に恥じぬ振る舞いである。」(p. 19)

例えば、1981年頃には「複数のタコツボが、ヤングの風俗をきれいに分割していた」(p. 21)という。本書は、8つのタコツボを列挙している。

【トラッド派】アイビー プレッピー ハマトラ JJ 
【ニューウェイブ派】ニューウェイブ 
【代々木公園派】竹の子 ウエストコースト 50’s

正直、これは渋谷・原宿周辺の若者たちに限定されているのではないかと思ってしまうのだけれど。パルコ出版の「アクロス」故のことだと理解していいだろうか。


C 一億総ヤング時代
1980年代半ばになるとこのタコツボの併存は崩壊するのだという。それはトラッドブームの終焉として指摘できるのだけれど、ひょっとしたらその手前にあるのはJJの終焉ではないか、というのがちょっと面白い。JJは女子大生ファッション誌であり、そこにあるのは、女子大生の消費欲以上に女子大生の商品価値だった。その商品価値の消耗がこの時期に起きた。それを本書は、土曜深夜に女子大生が多数出演していた『オールナイトフジ』の展開から分析している。

「「バカでブリッ子だけどきれいで男好きのする女子大生」というJJ像が、仕掛けられたフィクションであり商品に過ぎないということを、この[『オールナイトフジ』という]番組は万人に向けて暴露してみせたのである。いきおい、JJファッションで身を固めた当の女子大生でさえ「私はオールナイターズたちとは違ってバカじゃない、オールナイターズだって本当はバカじゃないのにバカを演じている」と申し開きをせざるを得ない状況が訪れた。」(p. 25)

この文章をどう解釈すればいいのだろう。「仕掛けられたフィクション」であることを暴露され、自己暴露した「ブリッ子」女子大生は、自分たちのしていることが演技であること証したことでリアリティを保てなくなった、とまずは解釈できる。けれども、それこそがJJガールやその取り巻きたちとで行う「ルール遊び」の一環なはずで、それ自体としては、JJの終焉は、その遊びに飽き故ではないかとはいえるけれど、何故飽きたのかの積極的な理由は分からない。ひとつ言えるのは、JJの記事の中に「健康的なアメリカンカジュアルの代わりに、ビギやニコルといったデザイナーズブランドが入り込んだりしている。」(p. 26)とあって、ざっくりいって女子大生の時代から「ニューウェイブ」の時代へ、ということがあったように思う。JJたちが、タコツボ形成に一役買ったという次の解釈は、女子と男子の相乗効果というか、片一歩だけでは時代は生まれないことが分かって、ちょっと面白い。

「見方によっては、当時のタコツボ形成の原動力はこのJJたちだったということもできる。女子大生自体がボリューム化して”人並み”になり、何かに自分を同一化しないと自己確認ができなくなったことで肥大していったJJタコツボ。このJJのボリューム化は大学そのものを遊び場的なものに変え、そこからウエストコースト派のようなスポーツ大好き少年少女たちが生まれた。一方、肥大化してアイデンティティ捜しを新たに始めた大学生たちの諸タコツボと表裏一体の関係で、ニューウェイブ、50’s、竹の子といった”非・大学生”タコツボも浮上した。」(p. 26)

このタコツボの終焉とともに起きたのは、ピーターパンシンドロームのブームであり、そこでは中年のヤング化と、それにともなうヤング層の非ヤング(大人)化の無意味が露呈した。「社会のどこもかしこもヤング化しているから、若者が存在感をもつためには、むしろ非ヤング的にならざるを得ないし、非ヤング的なヤングこそを一億総ヤング社会はもてはやすのだ。」(p. 31)

「非ヤング的なヤング」とは、大人っぽいということではなく、本書では「フリークス」的な存在ということになり、その代表者としてあげられているのは、浅田彰である。『天才少年』ともてはやされた『構造と力』出版時に浅田は27才だった。もう「少年」の年ではないだろう。それなのにそう呼ばれるのは、彼のルックスと共にその独自な存在感にある。

「浅田彰は大人になれない未熟なヤングではなく、ヤングにすらなれない奇形的な神童にみえるのだ。神童は、ふつうに成長すると20歳すぎればタダのヒトとなるのが相場だが、彼は神童のまま成長がストップするようプログラムされたフリークス少年なのである。」(pp. 31-32)

ちなみに、この章は、「新人類」という語が生まれる前に書かれたので、当然のことながら、新人類がこの議論の中でどう展開するべきかは明確ではない。

ちょっとだけ第2章を付け足すと、こうしたタコツボ化の終焉した時代に生きる若者は、スタイルではなくパフォーマンスに生きているとしてこう整理している。

「情報を受信するだけの弱い消費者、一定の確固としたライフスタイルというものの呪縛から未だのがれることのできない"スタイル人間"に対して、すでに"パフォーマンス人間"という新しい消費者が生まれている。パフォーマンス人間とは、自らが情報をつくり、発信する創費者であり、多くのスタイルの間を跳び歩きながら、分裂的に自己表現をするスキゾ人間だ。彼(彼女)はひとつのスタイルの追求・確立・模倣を嫌い、多くのブランド・非ブランドを組み合わせて無節操な"自己ブランド"をつくる。こうしたパフォーマンス人間の登場は、タコツボ崩壊の大きな契機ともなった。」(p. 34)

『新人類図鑑PART1』『新人類図鑑PART2』

2009年08月12日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
この2冊は、前述したように、『朝日ジャーナル』で筑紫哲也が「若者たちの神々」以降に連載したもの。本書の中から、新人類3人組(中森明夫、野々村文宏、田口賢司)のコメントを拾ってみる。

◎『新人類図鑑PART1』(筑紫哲也編 朝日文庫 1986)
「まあ去年は、山口先生と吉本(隆明)さんに会えたのがね、やっぱり面白かったですね。あんまり会えない人ですからね。ほとんどそれは、キョンキョン(小泉今日子)に会いたいとかと同じです。吉本さんの刈り上げも、キョンキョンの刈り上げもね、カッコいいというのありますよ。」(p. 24)

「当時(中森よりも年長の人が若者だった頃)、議論するということと、今われわれが喫茶店で冗談を言うことというのは、カッコいい、カッコ悪いというレベルでとれば、、等価なんですね。喫茶店で冗談を言わなければいけない、つまり冗談を言わなければ、コミュニケーションできないし、仲間はずれにされちゃうということがありますからね。」(p. 25)

「最近、森田健作さんっていう人にすごく興味があるんですよ。なんで興味があるかと言うと、やっぱりあの人の前には、伏線として『スチュワーデス物語』というのがあったと思うんです。
 つまり、ものすごく大真面目ドラマを、今の子供たちが笑っている。ものごとの見方のパラダイムが変換されている。と言われているんですけれども、そうじゃなくて、冗談で見てて、ついマジになっちゃうとか、笑っているうちに泣いてしまうとか、泣いているうちに笑ってしまうとか、そういう複雑なことをやっていると思うんですよ。」(p. 25)

「ダサかったりカッコ悪かったりするというのは一番怖いことですからね。恥ずかしいことが一番カッコ悪い。仲間はずれにされることが。じゃ、どういう形でマジな部分が流通するかというと、ギャグのふりをしてくれたら受けましょうというのが無意識的にあると思うんですよ。」(p. 26)

「僕の友達が言うのは、俺、もう芝居しているよと言うんです。もう、つらい時には、これは芝居だと割り切ると言うんです。上司に叱られると、あ、この上司は怒る演技をしているんだ、うまいなあとかね、迫真の演技だと。俺は怒られてしゅんとしている演技をしようと。毎日そういうふうに演技していると言うんですね。」(p. 28)

「絶対的な自己みたいなものはなくて、つねに何かとの関係でしかたわむれていないということは思っているんじゃないですかね。なんでも演技といいますか、着替えができる、みたいなね。きょうは実存主義ルックできめてみようとか。車でも同じだと思うんですよ。車を着ていると思うんですよ。女の子にあれするために。あと、家柄を着てみせるとか、大学を着てみせるとかね、ブランドを。着てみせるから、脱ぎ替え自由みたいな。」(p. 29)

「筑紫 僕は世俗的に浅田(彰)くんのメッセージが一番はっきりしているのは、家の問題だって言うんだけれども。つまり少なくとも家というものに執着をしなければ、違う人生が相当見えてくる。
 中森 だから、浅田さんが出た時は、僕らがわりに当たり前に言っていたことを、ああいうふうに理論化していただいてね、すっきりしたことはありましたよね。」(p. 32)

◎『新人類図鑑PART2』(筑紫哲也編 朝日文庫 1986)
「オカマなんですよ、新人類って。メディアのなかにおける流通コードとしてはオカマと同じなんですよ。……新人類って人でなしだから、いままでの人類じゃないわけだから、何いってもいいというようなところで、だから一種の芸人みたいなもんですよね。」(野々村文宏 pp. 33-34)

「秘孔少年」(『北斗の拳』を背景にした言葉)「秘孔少年型というのは、いわゆる既成の価値観とか、パワーゲームの体系を少しずつずらしながら、誘導的に動くというような気がするわけです。」(p. 40)

「その[『朝日ジャーナル』1985.4.19号pp.10-12「新人類〈暴走〉宣言」]「宣言」の中で私は、「新人類」を気取るために六つのスローガンを用意しました。列挙してみます。
1 「連帯」から「癒着」へ
2 進歩から進化へ
3 才能から自信へ
4 反省から断定へ
5 ideal boy 観念男からmaterial girl唯物女へ
6 思考のパラドックスから思考のスクラッチへ」(田口賢司「新人類〈暴走〉宣言」から1年半 p. 198)

香山リカ『ポケットは80年代がいっぱい』

2009年08月12日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
香山リカの自伝的80年代論。

1960年生まれの香山は、私立医大生時代、工作舎の『遊』周辺でアルバイトをしていた。遊塾に入るか迷っていたが、遊塾出身で『HEAVEN』の編集長をしていた山崎春美に誘われて、同誌の制作に。多くは、この山崎周辺で起きたことに費やされている。

◎山崎春夫周辺で

「1979年、遊塾在籍中の春美は『遊』増刊号の責任編集に抜擢され、あまりにも鋭いセンスで活字の世界でも広く知られるようになっていた。それから左内順一郎こと高杉弾が主宰していたポルノとサブカルチャーが合体した自動販売機雑誌『Jam』、それが発展した『HEAVEN』に参加。その後、左内氏が突如、失踪したのを受けて編集長に就任することになったのだ。
 春美は同時に、音楽のインディーズシーンでも注目を集めていた。1977年にパンクバンド「ガセネタ」を結成、過激なヴォーカルと痙攣パフォーマンスで話題をさらったあと、79年には早くもガセネタを解散、"伝説の存在"となっていた。」(p. 29)

そのあたりのシーンの描写は面白い。渋谷周辺のインディーズシーンの一端が垣間見られる。「ガセネタ」の詳細は分からないけれど、痙攣的な身体パフォーマンスで知る人ぞ知る存在だったらしい。「痙攣的な身体パフォーマンス」は、この時期の音楽における身体性の重要な傾向だろう(セックス・ピストルズはもちろんのこと、ディーヴォやトーキング・ヘッズ)。

86年の春になり、国家試験の勉強をしている内に時代が変化したということについて、論の最後にこう語られている。

「新玉川線の渋谷駅から地下通路に出た私は、自分の目を疑った。そこを歩く若い女性の多くが、世にも奇妙な服装をしているのだ。年齢的には20代と思われる女性が、幼稚園児のような白いハイソックスをはいている。隣の女子大生らしき子の紺のスカートには、象のワッペンがぺたぺたついている。スカートそのものもデザインも妙に子どもっぽく、ミニスカートの上にエプロンのようなヒラヒラした生地が巻かれている。
「どうしてみんな、いっせいに幼稚園の制服のような格好をしているんだ。私が数日、街に出ないあいだに、何が起きたのだ……」
 あわててキオスクで女性ファッション雑誌を買い込み、当時はまだ高校生に占拠されていなかった渋谷109の地下の喫茶店でそれらを熟読した。そして、私は知った。これは「ハマトラ」と呼ばれる新しい女性の流行なのだ。ハマトラでは"お嬢さんらしく""かわいらしく"がキーワードで、より無垢により女の子らしく見えるのが大切らしい。
 私は、ショートカットの髪のえりあしを刈り上げにし、コム デ ギャルソンのまがいもののような黒いパンツとジャケットを着た自分が、この渋谷という街では完全に浮いていることに気づいた。
 自分の時代は終わった、テクノはもう古いんだ。」(pp. 196-197)

◎付録の中沢新一との対談 「新人類」のかたち
二つの付録が面白い。ひとつは中沢との対談(「「ニューアカ」と「新人類」の頃」もうひとつは、08年当時矢継ぎ早に出た80年代論を香山が批評していく「バブルより速く 長めのあとがき」)。「新人類」と彼らが憧れた「ニューアカ」+YMOとの関係が中沢から語られる。

「香山 後藤繁雄さんは「新人類」のフィクサーだったとも言われていますね。私なんかも「新人類」の人たちと友だちづきあいしていたんで、イベントを見に出かけたら、終わったあとに「キミも新人類に入らないか」って言われて、なんかよくわかんないけど「いや、ちょっといいです」と言って断った記憶が(笑)。
 中沢 「新人類」といえば、山口昌男さんがあの頃「なんだか知らないけど、新人の類っていうのが現れた」って言っていて、なんだなんだと思っていたら、以前から知り合いだった野々村文宏さんたちがその「新人の類」らしいというんで驚いた(笑)。でも当時は「ミュータント」という言い方が流行っていましたから、「新人類」の前からいろんなミュータントは出ていたんですよ。
……
 香山 ある種の熱狂状態みたいな感じ……。
 中沢 本人たちよりも、それこそ周りにいた「新人の類」の人たち、中森明夫さんとか野々村文宏さんとか田口賢司さんとかが、じつは熱狂の張本人たちだったと思います。ほとんどヒンズー教で言う「バクティー」に近い熱狂状態で、それを見てると、自分たちにもこれには多少責任があるぞと感じて、暗い気持ちになりました(笑)。」(pp. 175-176)

「香山 そういう熱狂状態が86~87年まで続いてく……。
 中沢 いや、85~86年にはもう翳りが出てたんじゃないですか。83年のYMOの「散開」のときに、すでにもう翳りの前兆がありましたし。「ニューアカ」の当事者でありながら、自分たちは「ニューアカ」なんていうムーブメントと関係ない、と思っていたところもある。YMOに較べたら「ニューアカ」なんて全然オリジナリティがないんだもの、途中で嫌になっちゃった」(p. 177)

「香山 80年代が「砂上の楼閣」だったというと言いすぎかもしれないけれど、実際は何も積み上げられていなかったということはないんですか?あと、私たちの責任ということで言えば、中沢さんやYMOの人たちなんかがいろいろと言ってくれて、それを私たちが読みといて、あ、これはラカンのここから来てるんだな、とか、バロウズはいいよね、とか言っていたのが、YMOが「散開」して、みんながそれぞれの場に戻ってしまったら、私たちからは何も紡ぎだせなくなってしまった。「指示待ち世代」という言葉じゃないけど、結局ずっと待っているばっかりだったんですよ。」(p. 191)

「宮崎事件のときに、大塚英志さんとか、私の世代の80年代っぽい人が、初めて社会的な発言をしたんですよ。89年に宮崎事件があって、91年に湾岸戦争があって、あの頃は一瞬、新人類が社会的な発言をしていくんじゃないかという気運があったんですよね」(p. 197)

「新人類」とは関係ないけれど、たけしについてのこの発言もおもしろい。中沢は自分や浅田が行ったモダンの破壊をたけしの振る舞いに重ねてみていたという。

「中沢 同じ頃、ビートたけしさんが「オレたちひょうきん族」をやっていた。たけしさんはあの番組で、それまでのお笑いの規則や、お笑い以外にも日本にあった作法や文法をみんな壊したんです。壊してるのを見てておもしろいと思う半面、これはこわいな、とも思っていた。そのあとにB&Bが出てきて、たけしさんが壊しすぎたところをまとめなおしたのを見てホッとして、これからは自分はB&Bみたいなこともやらないといけないんだな、って思ったこともあるくらい」(p. 181)

「あとがき」でおもしろいのは、例えば、この箇所。

「工作舎用語やニューアカ用語を駆使して禅問答のようなやり取りを際限なく繰り返す人と、「私って、戸川純聴いてギャルソンの服着てピテカントロプスに通ってて!」と限りなく固有名詞や商品名を連ねることでしか自分を語ることのできない人は、ふたつの点において本質的には同じだと考えられる。どちらも、それほど深い意味はない、という点においてと、こういったものの言いの本当の目的は「このお作法に従えない人はあっちに行って」という"排他のゲーム"にある、という点においてだ。」(p. 212)

『おたくの本』(別冊宝島104)のおたく

2009年08月10日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
『おたくの本』は、「宝島」の別冊ムック本で、1989年12月24日に出版された。前述した宮凬本と同じくJICC出版局によるもので、ほとんど同じタイミングで出版されている。宮凬本にその告知が載っている。

この本の表紙にはこうある。

「「おたく」は、'80年代が生んだ、高度消費社会を読み解くキーワードである!」
「ハッカー、ロリコン、やおい、デコチャリ、コミケ、カメラ小僧、ゲーマー、アイドリアンなどなどの知られざる生態!」

このラインナップにあがった者たちを本書ではおたくと読んでいるようだ。「コスプレ」がないことやアイドルの凋落と共に「カメラ小僧」「アイドリアン」のあり方が変わっただろうことを除けば、今日の「おたく」のひろがりはこの時点でだいたい出来上がっていたと見ることが出来そう。あ、「デコチャリ」は、ちょっと変わっていて、自転車にトラックみたいなデコレーションをするもの。これはいまどうなんだろ。「ヤンキー」的なものが「おたく」と絡まっている一例といえるだろうか(いまでいえば「痛車」にあたる?)。

◎別冊宝島編集部が語る「おたく」とは何か?

本書冒頭の「「おたく」を知らずして'90年代は語れない!」(別冊宝島編集部)というテクストは、かなり興味深いまとめをしている。

「幼女殺人事件で突然大衆メディアに浮上した「おたく族」なる言葉。大新聞や週刊誌によると、「おたく族」とは「アニメやマンガのファンで、ファッションや恋愛に興味のない暗い青少年」ということになる。これを翻訳すると、「わけのわからないことをやっている、薄気味の悪い、社会的意味のない奴ら」ということになる。あなたもきっと、そう思っているはずだ。
 だが、それは間違っている。徹底的に、間違っている。まず、
 「おたく」とは「おたく族」ではない!
 「おたく」の現場に近い人ならばけっして「おたく族」なんて言葉は使わない。「おたく族」というのは「太陽族」と同じくくだらない風俗用語にすぎない。
 この本でやろうとしているのは、「おたく族」という若者風俗のルポなんかじゃない!
 本来、「おたく」という語は、「おたく」によって作られ、「おたく」のなかだけで定着したものである。それまでのマニアとかコレクターという言葉では表現しきれない何かを自分のなかに抱えていた彼らは、それの呼び名を求めていたのだ。だから、
 「おたく」とは、マニアとかコレクターのことではない!
 現実のなかで生活するには働かなければならない。仕事をするには、価値観の違う他者とも関係しなければならない。世間の他者と接するためにはきちんとした服装をしなければ相手にされない。ましてや結婚するためには、完全に違う人類である異性ともうまくコミュニケーションしなければならない。このようにして生きている個人の趣味はただの趣味でしかない。マニアであっても、別の価値観を持つ他者と関係をもてる人は「おたく」と呼ばれたりはしない。
 「おたく」は八〇年代以前にはいなかった!
 世間の価値観を捨て、独自の世界に忠実に生きるには、かつては大変な孤独と生活の困難を背負う決意が必要だった。しかし、八〇年代の高度消費社会では、必要以上の豊かさが生きるための労力を軽くし、生活を重視する必要がなくなった。価値観は多様化し、肥大した。そうして、同じ価値観を持つ人どうしの「場」ができていった。そのなかでは他者と関係する必要はない。だから、
 「おたく」は孤独ではない!
 ……
 「おたく」は成熟しない!
 誰もがみな青春の一時期に「世界」と自分の違和感に悩む。それを乗り越えることを成熟と呼ぶ。だが、自分と同じ幻想を共有する「場」があれば、その「場」こそが本当の世界であり現実なのだと思いこめば、成熟する必要がなくなる。この本では、ロリコンと呼ばれる「おたく」特有の嗜好が実は「男になりたくない」願望の現れだったことをつきとめた。架空の美少女という共同幻想の「場」を得ることで、少年たちは生身の女性と無理につき合う必要がなくなった。成熟を不要にするこの「場」の磁力こそ「おたく」の正体なのだ!
 「おたく」とは、「場」にとらえられた状態を示す言葉だったのだ!
 こうして構造は「おたく」を培養した。現代思想家たちはなぜか誰も「おたく」に気づいていないようだが、「おたく」」こそはポスト生産社会を読む鍵に違いない。この本はそういう視点をもとに、「おたく」の記号生成と消費の現場に直接斬り込んだ日本で初めての試みである。心臓の弱い方は御遠慮下さい。」(pp.1-2)

興味深いポイントが山盛りなのだけれど、とくに、

「世間の価値観を捨て、独自の世界に忠実に生きる」ということの徹底において、おたくは「マニアとかコレクター」と一線を画すると論じられている点。「日曜~」みたいな状態ではおたくではない、というわけだ。実存を賭ける者がおたくである、と。あと、

世間の価値観-独自の世界

が永遠に交差しないと考える思考に、おたくのおたく性があるように思われる。他者との関係をもてないこと。ここでの他者とは、社会の中で了解されている規範とか「~らしさ」とかを尊重する者のことだろう。そうした人間との決別がおたくであることの証になる、というのだ。それはつまり、「成熟」を拒むことであり、「男になりたくない」という思いをまっとうすることだ。このまとめと、後にも触れる富沢雅彦と彼へ向けたエッセイは、恐らく、強い繋がりがあるだろう。

◎浅羽テクストをめぐって(「高度消費社会に浮遊する天使たち」)
浅羽のおたく論は、『天使の王国』を読んでおく必要があるようだ(目下注文中)。さしあたり、本書で展開されている論考のみから興味深いところを(ちなみに「天使」とは、当時話題となったヴェンダース『ベルリン天使の詩』の「天使」から来ているらしい。あの映画の天使のように世界から距離を置き世界を俯瞰する存在として「おたく」を同定しようとしている)。

○「新人類」と「おたく」

マーケティング業界誌『消費と流通』が86年に掲載した論文「"感的知性"が優れた『新人類』」(三浦康英、松浦一郎)に対して、浅羽通明が書いている部分は、消費の観点から「新人類/おたく」を考える上で興味深い。浅羽は、この論文で4種の若者像が整理されており、とくに感的知性派と内的モラトリアムに注目する。前者が新人類に相当し、後者がおたくに相当するからだ。感的知性派とは「新人類世代のイメージリーダー層」であり、彼らはマーケティングの見地から重要な消費者とみなされる。対して内的モラトリアムは、彼らにとってほぼ無視の対象だった。そこに、浅羽は注視する。

「新人類ブームと呼ばれる八〇年代若者論のなかで、「おたく」がほとんど注目されないできたのは、おそらくここに原因があるのだろう。すなわち新人類論は、何よりも内需拡大の巨大な市場、消費者の群としての若者をめぐって闘わされたのであったから。マーケティング業界にとって、「おたく」は市場とはなり難い若者たちとして把握されていたのである。」(p. 253)

感的知性派は、しかし、おたくに近い面があるのではないか。論文の中では、感的知性派は「あらゆるものをすべて等価値にみ」ており、「アイドル歌手、昔見たTV番組の主人公、そして難解な論を立てる思想家を同列に扱って評している」ひとたちとされているのだ。そこで、浅羽は、「おたく」の命名者・中森明夫に注目してこう述べている。

「「おたく」の語は彼ら新人類によって使われ、彼らの間でこそ流布したのである。誰よりもまず、彼らが「おたく」のネーミングにピンときたのは、彼らが「おたく」に近い場所で生きていたこと、あるいは、彼ら自身が「おたく」だったことを意味する。」(p. 253)

そして、こう議論は進んで行く。

「感的知性派=新人類と、内向的モラトリアム派=「おたく」とが、未分化だった時代があったのだ。それはおそらく七〇年代中期から八〇年代に入った直後の一時期であろう。」(p. 254)

この両者の類似性というよりは同根性は、90年代以降の展開としてみれば「オタクVSサブカル」(2005年出版『ユリイカ』の同タイトルの臨時増刊号による)へと繋がっていると言えるかも知れない。そこでも、オタクの敵(なのかは読み直してみても若干不明確なのだけれど)であるサブカルは、実はオタクと同類なのではないかと論じられている。

「つまり、結局のところ--オタクVSサブカルの対立とは内ゲバに過ぎず、オタクが二次元の美少女キャラクターを大量消費するのも、サブカルがメンヘル系女性との共依存に陥るのも、特権的な個性=アイデンティティを確立できないまま大衆と融合してしまうことへの恐怖に起因しており、大衆化を容認できないことに対する屈託を隠蔽・忘却するための理論武装に伴う「オタク」たちの差異化ゲームに過ぎないのだ」(更科修一郎「敵は遠くにありて想うもの 内ゲバしか知らない子供たち」pp. 169-170)

○相手の「人格」ではなく「知識」と話す

「おたく」が決定的に非おたくと違う点はどこか、ということを考える際に、重要なのはコミュニケーションのあり方なのだろう。浅羽は、中野収の「おたく」の定義から、彼らが話し相手の「人格」ではなく「知識」に話しかけているあり方に注目する。
「『オタクのご主人』『オタクの娘さん』『オタクの新製品』『オタクの部長』など、旧人類の用例を見ればわかるように、『オタクの○○は〈オタク〉に所属する』。目の前にいる個人よりも、その個人を支えているような、個人を超えた何かを、個人を解して会話の相手に選んでいるのが、〈オタク〉なのだ。〈オタク族〉も同様である。目の前いるパソコン少年よりは、彼のパソコンの知識そのもののほうに興味があるのだから。」(中野収『新人類語』ごま書房)p. 266

「その(「おたく」という語の)エッセンスとは、中野収が読み解いたように、相互に人間を相手にするというより、相手の知識・情報に向かって話す、ところにある」(p. 266)

「目の前の個人」ではなく、目の前の個人のもつ情報に語りかけるりがおたくだとして、新人類は、おたくと違って相互に人間を相手にしたのだろうか。相互に相手の外見と話す内容に示される情報に向かって話をしていたのであって、「人格」に話しかけていたとは言い難い。自分の外見までもコミュニケーションに用いられる情報として提供したのが新人類であって、言い換えれば、自分の外見を情報として提供することをネグレクトしているのがおたくだったのではないだろうか。

◎富沢雅彦というおたく
本書には千野光郎という筆名のライターにによる「おたくに死す」というエッセイが入っている。富沢雅彦なる同人誌ライターについてまとめたこのエッセイがおたくを考える上できわめて重要だと思うのだけれど(ネットをブラウズしてもそのことはすぐに分かる)、ただいま資料収集中にて後日ノート整理します。

宮凬勤はどう語られたか?

2009年08月09日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
「おたく」の話に戻ろう。

「おたく」は言説空間の中では、「新人類」との差異によって浮き彫りにされた存在だったということを確認した。ただし、「おたく」という語が一般化していったのは、間違いなく1989年の連続幼女殺人事件で宮凬勤が逮捕されて以降ということになるだろう。当時宮凬勤=「おたく」によって議論されていたのはどんな事柄だったか。まず、次の著作を参考文献にしよう。

☆都市のフォークロアの会編(大月隆寛、オバタカズユキ)『幼女連続殺人事件を読む 全資料宮崎勤はどう語られたか?』JICC出版局、1989年。

この幼女連続殺人事件の経緯については、ネット上でおおよそのことは分かるだろう。wikiなど参照のこと。

もし宮凬勤関連のことを研究しようとするならば、これはかなり使える資料の詰まった著作です。1989年11月10日出版。宮凬が別件で逮捕されるのが1989年の7月23日、綾子ちゃん事件の自供を始めるのが8月9日、再逮捕が11日(発端となる今野真理ちゃんが行方不明になるのが88年の8月22日)。事件から三ヶ月で出版された本書は、関連資料集や事件の全貌を収めているだけでなく、この間に識者たちがどのような発言がなされたかを細かく伝えてくれる。

発言しているのは、例えば、推理作家や犯罪心理学の教授で、宮凬が逮捕される前に、この事件を推理する目的で発言を求められている。また、逮捕後には、多くの作家・心理学者のみならず、ジャーナリスト、コラムニスト、劇作家も含まれる(当時、劇作家というのは、主要なコメンテイターとして社会から認められていた、のに比べると現在はもっとそうしたニーズが演劇人に求められても良いのでは、いや真鍋かをりでコメンテイターは充分という時代に「知識人」(死語?)に別に何が求められていると言うこともないか)。例えば、別役実、唐十郎。別役はこう述べた。

宮凬の部屋を見て、すぐに連想したのが鳥の巣、冬ごもりのリスの住み家。」「宮凬はただのコレクターとも少々異なる。……つまり"モノ"それ自身をコレクトしたいのではなく、ビデオやカメラに記録した(幼女たちの)姿を集めたかった。そしてイメージの世界で楽しんでいたかったのではないだろうか」(「朝日新聞」89.8.16)pp. 26-27

この著作からいくつか興味深い発言を拾ってみる。

◎新人類がどう語ったか?

「新人類」が「おたく」の代表として祭り上げられてしまった宮凬をどう論じたかは、気になるところ。

中森明夫は、
「僕らは、メディアを親として育った、ほとんど純粋世代だと思うし、とくに彼は、メディアの申し子ですね。あの部屋も封鎖して外界から閉じこもることによって、逆に無限にメディアに対して開いていたともいえる。そこで、メディアを親として育った子供が、親の無意識の願望に応えてしまったわけです。あまりにも過剰に応えたために、親であるメディアが危うくなるほどに。つまり、それは親殺しのようにみえる。メディアを親として育った僕らにとって殺すべきは父や母ではなく、このメディア空間そのものですよ。」(「スパッ!」89.9)p. 32

なんとなく、ピントがはずれているように思うけれど、メディア殺しを中森はこの後実行しようとしたのかには興味が湧く。簡単に言えば、この後、95年以降になれば、ネット・メディアが驚異的な拡大を見せるけれども、そうしたなかで中森はどういう振る舞いをしたのか。調べたいような、とりあえず「80年代文化論」のノートなのでそこまで調べてもな、という気持ちにもなる。

泉麻人は(連載「ナウのしくみ」より)、彼が本当に「マニア」という存在なのかと、宮凬=おたく(マニア)論へ不信感をみせる。宮凬は、ビデオソフト愛好家の会報誌(タイトルが分からない)にベスト10を投稿している。「マイビデオライフ これが私のベスト10」というタイトルで1500字くらいの文章。
1 ジャッカー電撃隊
2 少年ジェット
3 ムキムキマン体操
4 刑事くん
5 電人ザボーガー
6 大鉄人17(ワンセブン)
7 円盤戦争バンキッド
8 愛と誠
9 スーパーロボット マッハバロン
10 怪獣王ターガン

各順位には、100字程度のコメントが付いている。そのコメントに対して「ああ、マニアっぽい原稿だなあ」と泉は思い、しかし、しばらく読み込んでみるとこう思ったという。「またこういう初歩的な誤りをするようでは、上級のマニアとは言えない。また、この手の吹っかけ、あるいは知ったかぶりをする癖があるとしたら、やはり、宮崎の供述内容には細心の注意を払う必要があると言えよう」(「週刊文春」89.9.7)p. 26

ここで泉が「上級のマニア」という言葉を用いながら、その外へと宮凬を排除する身振りは、気になる。「おたく」という語はなぜか出てこない。知ったかぶり、うろ憶えで、自分のベスト10について投稿してしまう宮凬は、当然、「上級のマニア」ではないだろう(では「上級のマニア」とはどんな存在だったかという点については、岡田斗司夫のテクストを読み返す必要があるだろう、、、宿題です)。

「上級のマニア」←→宮凬勤

だとして、上級のマニアになれないマニア宮凬がどう、自分をマニアとして自己同定していたかは、このベスト10のラインナップから見えてこないだろうか。このリストは、今日のぼくたちがいわゆる「おたく」について想像する趣味と随分違う。いわゆる美少女への萌えが一切見えてこない。代わりにあるのは、戦隊もの、しかもB級のマニアというイメージ。これはこれで「ライダーおたく」とか呼ばれたり、いまでも健在だと思う。本当は、ロリコンマニアなのに気取っているのか、よく分からない(逮捕後の本人は、女性に対する性的な興味をもったことがないと一貫して供述していた)。あと、興味深いのは、3位のムキムキマン体操。これはいわゆるお笑いの領域のもので、いまのなかやまきんにくんが担当している肉体芸のタレント(お笑いスター誕生!に出演していた記憶がある)。彼のコメントは「一回分所有(約5分)」。これだけ。あと、4位と8位にテレビドラマが入っていること。案外ふつうのコメントがついている。そもそもビデオに録画して所有しているということ自体が、マニアック(おたく的)なのか。「マイビデオライフ」という投稿欄なのだから、ビデオライフを自慢することじたいが自分がマニアックであることの証拠になる時代なわけだ。というか所有=マニア。いまのように、多くのソースがネット上に漂っていて、それをブラウズするだけでも「おたく」を自称する(できる)時代と、ビデオを所有していることに価値がある時代とでは随分ことが違うだろう。

あと、確認するべきは、これが当時のふつうの「おたく」(マニア)だったのだろうということ。少なくとも、上級ではないし、ふつうと呼ぶのも問題があるのかも知れないけれど、少なくとも言えるのは、こうした人物を「おたく」と(マスコミが)呼んでいたという事実。宮凬=おたく=ロリコンという単純な話ではないということ。

◎おたくとはどんな存在か

さて、ともかくも、宮凬事件を通して社会の話題の中心にされてしまった「おたく」たち。彼らはどんな存在であったか、どんな存在として社会に映っていたか。

小倉千加子は、「見る/見られる」関係を通して、こう言っている。興味深い。
「宮崎勤は、女を「見る」だけでなく、女に「見られる」視線のキャッチボール、相互的な人間関係を作り出す能力に決定的に欠けていた。彼は、自分を決して「見返す」ことのない幼女を自己の快楽の対象として選ぶことで、ダサイ自分自身の姿を直視することから逃げたのだ」(「朝日新聞」89.9.2)p. 23

ここで、小倉が「ダサイ」と宮凬を批判しているのは、これまで論じてきた「新人類」/「おたく」の話に絡んでおもしろい。「おたく」がある種の人々をいらいらさせるのは、彼が「ダサイ」からで、「ダサイ」のにもかかわらず自分のダサさを顧みないからだ。それは、換言すれば、彼らは「見る」専門家としてすましていて、自分たちが「見られる」存在であることを忘れているということに対しての苛立ちなのではないか。「視線のキャッチボール」を回避して、「相互的」な人間関係から離れてしまう存在。「ダサイ」のに、そんな特権的な立場に立っていることがゆるせないといった批判がここにはあると感じる。ダサイのレールを離れたら、当時の若者は、「ナウイ」のレールに乗らなければならなかった。「新人類」的な、記号的消費の世界に。「見る/見られる」の相互的な人間関係は、要するにそうした消費のゲームの渦中に身を置くことであって、そこで「相互的な人間関係を作り出す能力」に欠いていると批判をしても、じゃあ記号的消費はそれでいいの?という気持ちに今はなる。

あと興味深かったのは、藤田尚(評論家)の意見。
「おたくとは、非社会的かもしれないけれど反社会的ではない(反社会的になりたくたってなれない)存在なのです。フィクションと現実との間には、天地ほどの隔たりがあることを自覚しているのがおたくなのです(その天地が、たった一歩でつながりそうに見えるところに問題の複雑さがありますが)。」「問題はおたくかそうでないかではなく、世のなかには、犯罪を実行する者としない者と2種類の人がいるということです。Mについていえば、彼が幼児に声をかけた時点で、おたくから逸脱してしまったのです。Mというのは”おたくの風土にもおけない”やつなのです。おたくからいえば”アニメやスプラッターやロリコンのビデオをもってしてもMを引きとめることができなかった”ということです。」(「週刊宝石」89.9.7)p. 51

いまだったら「二次元」と「三次元」とか呼ばれる、「フィクション」と「現実」との間を問題にしている点で、興味深い。おそらく、当時の一般の人々の議論の中心は、ここにあったに違いない。「アニメやスプラッターやロリコンのビデオ」ばっかりみていたら、それが現実だと思ってしまい、その妄想を現実に実現しようとしてしまうのではないか。そうした考えは、「残酷ビデオをめぐる自治体対応」という資料(p. 74)にあるように、多くの都道府県が残酷ビデオを有害図書にし、業者も自主規制を検討するという動きを引き出した。

藤田によればそうしたビデオは、妄想を現実に実現しようとする行為を回避させる力があると「おたく」たちは思っていた。フィクションの世界に没頭する「非社会的」存在だとしても、犯罪を犯す「反社会的」存在ではない。この倫理感がおたくのひとつのアイデンティティだったのだ。現実には手を出さない。二次元と三次元を区別する。

2009年の今は、この二次元と三次元が複雑に交差している時代だろう。三次元が二次元化してきている。当たり前といえば当たり前で、二次元に没頭する人間はその身体を三次元に置いたままなのだから、二次元でえたものを三次元で反復することは大いにありうる(それが即犯罪とはならないとしても)。

二次元と三次元の関係を考えるスタートラインに宮凬事件があり、(ネガティブな仕方で始まった)「おたく」ブームがある。

まる金まるビ 『金魂巻』(渡辺和博)

2009年08月09日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
「新人類」と「神々」の関係

浅田が提唱した「スキゾ/パラノ」の二元論。スキゾを徹底して生きることの過酷さは、必ずしも広く伝わらなかった(のかも知れない)。その代わりに、そこにあった「シラケ」の肯定や軽さの肯定がイージーに受容されていった。ひょっとしたら、新人類とは、そうした「スキゾ・キッズの誤解」という側面があるのではないか。

と思って、こうした二元論って当時はやったよな、と思い返す。「ネアカ/ネクラ」「ナウい/ダサい」とか。いまの例えば「アゲ嬢」とか「おばか」とかは、対立項があるわけじゃない。いけてる方といけてない方を峻別し、いけてない方を差別するというのが、80年代の明るい(いや、いまにすると何だか暗い)遊びだった。その象徴的な著作が渡辺和博の『金魂巻』(主婦の友社 1984)だろう。

本の表紙には、こんな副題が付いている。

「現代人気職業三十一の金持ちビンボー人の表層と力と構造」

反転させてますが、「力と構造」とある。ちなみにこの本が出版されたのは84年の7月。『構造と力』が出たのは83年の9月。いかに速やかに、浅田の著作が流行本なっていったかが、これだけでもよく分かる。

この本の特徴は、「現代人気職業」を取り上げ、それぞれの職業のなかに存在するいけてるひとといけてないひとを「金持ち」か「ビンボー」かで区別するというもの。身も蓋もないジャン、嫌らしーと思ってしまうけれど、そういう身も蓋もなく嫌らしー時代
だったんだろうな。「力と構造」なんて言ってみてちょっとずらすような、「なんちゃって」なセンスなのかも知れない(パロディ?)けれども、逆に「なんちゃって」な身振りで本心を言う。その振る舞い方は、繰り返すが、いまから見るとかなり暗いものに映る。

どんな職業が取り上げられているかと言えば、
女性アナウンサー/医者/イラストレーター/インテリア・デザイナー/エディター/オートバイ・レーサー/オフィス・レディ(OL)/お父さん/学者の卵/カメラマン/看護婦/銀行員/グラフィックデザイナー/コピーライター/シェフ/社長の娘/主婦/商社マン/少女マンガ家/女子大生/スタイリスト/テレビ・ディレクター/ファッション・デザイナー/フリーライター/不良少女/弁護士/放送作家/ホステス/ホモ/ミュージシャン/モデル

いまでも人気職業であるものもあれば、なぜこれが人気職業と言いたくなるものもある。これ職業なの?というものも多い。
さてここに「学者の卵」とある。なぜ「卵」か?簡単である。浅田が当時京都大学の助手だったからだ。まる金の学者の卵は、明らかに浅田、浅田そのものである。まる金の学者のプロフィールは、「身長160cm 体重48kg 年齢27才」「経歴 京都大学経済学部卒」「愛読書 ドゥルーズ・ガタリ、少女漫画、ST、「ギャルズライフ」」とある。「今思うこと」の項には「早くインタビュー攻勢から逃走してひとりの時間を獲得したい」とある。当時の人気のほどをうかがわせる。と、同時に、この程度のことなんだよな、浅田受容って、と思わされる。「逃走して」みたいな使い方。

渡辺和博は、当時の「新人類」のひとりとみなしてよいひとだろう。wikiの渡辺和博

「学者は原則としてまるビですが、まる金になるにはマスコミで売れっ子になるほかありません。」「マスコミの人たちにキャッチフレーズ、現代思想っぽく言うとキーワードを与えるのがまる金への道の第一歩です。「甘えの構造」とか「モラトリアム」とか「スキゾとパラノ」とかがそれですが、こういう覚えやすくて何にでもあてはめて現実の批判に使える言葉を作らなければ、マスコミの人はとり上げませんし本も売れません。」(p. 88)

「浅田彰、中沢新一、吉本隆明、栗本慎一郎など、私たちと青春をともに過ごし、お世話になった難解のまる金たちのご恩は一生忘れてはならないと思っています。」「「朝日ジャーナル」からラブコールを受け、CMの出演の話はまだ聞かないものの彼ら世に出たまる金たちの名声は、私たちの聞き及ぶところとなりました。」(p. 90)

と浅田はまる金の代表として描かれています。確かに本当か嘘か、プロフィールの年収は「2500万円(給料300万円+印税講演2200万円)」となっています。

浅田に関する話はこれくらいにして、まる金まるビは何を峻別しようとしたか、ということを考えてみたいと思います。まるビの学者の卵は、渡辺の筆によって、「女学生との恋」に落ちることになっています。JJギャルの学生に、中学生の頃にしたひとり旅を語ると「クラいわね」と吐き捨てられます。これを典型例にすれば、まる金=アカるい、まるビ=クラい、なのです。
80年代、イラくみえることは、ほとんど死を意味していたな、などと思い出す。「がり勉」という言葉があって、まじめに与えられた勉強に盲進するひとたちはそう呼ばれた。いかに「がり勉」と呼ばれずに勉強していけている大学に行くか、というのが、当時「受験戦争」なんて言葉に踊らされたぼく(1971年生まれ)たちの生き方だった。けれども、この矛盾こそが、いけていないのである。裏(ガリ勉)と表(ガリ勉を笑う)がある、というのは暗いのである。そこにある努力、が暗い。まる金とは努力せずして自ずとそうなっているひとのことであって、それがよく分かるのは「女子大生」の項。

「5~6年前まで女子大生のまる金とまるビは一目で見分けがつきましたが、最近ではまるビの人も外観や遊びに気をつかうのでなかなか見分けがつきにくかったりします。」(p. 188)

「まる金は「下(ルビ:はじめ)から」(付属小・中・高校出身のこと)の人ですから「途中から」の人といっしょになった大学の雰囲気にチャラチャラしたものを感じます。」(p. 189)

「まるビの女子大生はみんな似たようなワクの中で生活しているのですが、まる金の女子大生は一人一人違った型にはまらないところがあるようです。」(p. 196)

それで、まる金のプロフィールには、
「愛読書 「美術手帖」「現代詩手帖」「鳩よ!」「広告批評」といった雑誌のほか、「構造と力」(浅田彰)「東京漂流」(藤原新也)、「写真都市」(伊藤俊治)、「羊をめぐる冒険」、「チベットのモーツァルト」(中沢新一)」
とあり、まるビには、
「読書 「JJ」「ノンノ」「ef」のほか、「さよなら寺山修司」「見栄講座」「ザ・コピーライターズ」「赤眼評論」「ケーキ入門」「彼のためのニット集」」とある。

つまり、まるビは、「ワク」を一生懸命習得することで、しかるべき「女子大生らしさ」を生きるようになり、まる金は、そうした「ワク」の存在に違和感を感じて、そこから自由になろうとします。両者を分けるのは、持って生まれた家柄だったりする。まる金の家族は男性が全員医者。まるビの父は、大手鉄鋼メーカーの営業部長。

ここに、すでに成功している「神々」と何者か分からない先着順で売れっ子になっている「新人類」との違いを重ね合わせることは出来るだろうか。

スキゾ・キッズ(浅田彰)

2009年08月08日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
「おたく」を理解しようとすると「新人類」を理解せねばならず、「新人類」を理解しようとすると「神々」を理解しなければならない、どうもそうなようだ。

そして、「神々」のなかでも、その連載(筑紫哲也が「朝日ジャーナル」で行った)のトップバッター「浅田彰」が誰よりも重要だろう。そして、なかでも「スキゾ」ないし「スキゾ・キッズ」とは誰だったのか、ということを知ることは、目下このノートのもっとも興味のそそられる事柄だ。

どんなに捜しても『逃走論』(1984)が自宅の本棚から出てこないので(研究室だ!)、さしあたり『構造と力』と『若者たちの神々』を紐解いていこう。まず『構造と力』より。

「ジャーナリズムが「シラケ」と「アソビ」の世代というレッテルをふり回すようになってすでに久しいが、このレッテルは現在も大勢において通用すると言えるだろう。そのことは決して憂うべき筋合いのものではない。「明るい豊かな未来」を築くためにひたすら「真理探究の道」に励んでみたり、企業社会のモラルに自己を同一化させて「奮励努力」してみたり、あるいはまた「革命の大義」とやらに目覚めて「盲目なる大衆」を領導せんとしてみたりするよりは、シラケることによってそうした既成の文脈一切から身を引き離し、一度すべてを相対化してみる方がずっといい。繰り返すが、ぼくはこうした時代の感性を信じている。」(p. 5)

と、シラケ世代と若者をくくるジャーナリズムのやり方を、あえて誤読するような仕方で、積極的に解釈してゆく。「既成の文脈」を一途に信じるよりも、そこから離れて(=それにシラケて)「一度すべてを相対化してみる方がずっといい」と浅田が思っているからだ。ここに、「パラノ」と「スキゾ」という二つの流行言葉が生成する。ただし、この「スキゾ」的な「すべてを相対化してみる」ことは、「既成の文脈」から自由になる軽さにその特徴があるのではない。むしろ過酷なまでに軽くあることこそ浅田が想定していることなのである。

「むろん、それは最終的な到達点といったものではない。腰を落ち着けたが最後、そこは新たな《内部》となってしまうだろう。常に外へ出続けるというプロセス。それこそが重要なのである。憑かれたように一方向に邁進し続ける近代の運動過程がパラノイアックな競争であるのに対し、そのようなプロセスはスキゾフレニックな逃走であると言うことができるだろう。このスキゾ・プロセスの中ではじめて、差異は運動エネルギーの源泉として利用されることをやめ、差異として肯定され享受されることになる。そして、言うまでもなく、差異を差異として肯定し享受することこそが、真の意味における遊戯にほかならないのだ。第二の教室にいる子供たちが目指すべきは、決して第一の教室ではなく、スキゾ・キッズのプレイグラウンドとしての、動く砂の王国なのである。」(p. 227)

「差異を差異として肯定し享受すること」は、「おれはあいつとは違う」と何かある商品の購入を通して他者と自分を差異化することなどとは相当異なる事態である。自己表現とか自己アイデンティティの確立とは似て非なるものであって、「ノマド」(遊牧)などというキーワードもここに要請されるように、定住を徹底的に拒む振る舞いこそが、浅田の想定していた「スキゾ・キッズ」像であった(はずだ)。

この「スキゾ・キッズ」でありつづけることの過酷さが『若者たちの神々』(以下ここから引用)で筑紫が浅田と議論しようとする中心的トピックである。考えてみれば、そもそもそのタイトルからして「若者たち」と「神々」との関係こそ、この連載で筑紫が問題にしようとしたことなのかも知れない。まず浅田は、「普通の」あるいは「いまの若い子」をこう同定する。

「浅田 普通のというか、いまの若い子--と、ぼくがいうのも変ですけど--なんかだったら、タテマエとしての「真理」に没入することのバカらしさがわかっていると同時に、本音まる出しでいくカッコ悪さにも耐えられない。じゃ、そこをどういうスタイルで突っ切っていけばいいのか、その方法を求めていたのとぼくの本とが、ある意味でフィットしたんだろうというのが”公式見解”ですね」(p. 9-10)

その上で、「タテマエとしての「真理」」にも「本音まる出し」にも「どこにも足を着けるな」と呼びかける浅田のように生きることは、若者にとって「大変シンドイ」ことなのではないかと筑紫は問うている。

「筑紫 その[軽薄短小と重厚長大の]まんなかに、相当イタズラっぽくあなたが出てきたわけね。
 浅田 一言でいって、ぼくは、どこにも足を着けるなといっているわけです。
 筑紫 しかし、それは大変シンドイね。
 浅田 そうなんです。だからね、ぼくに対するある種の批判はよくわかるんですよ。つまり、ぼくのいう「どこにも足を着けるな」というのは自己の複数の可能性を常に開いておけということだけど、あえてシステムへの没入を選び取るしかないんだという現実主義的な立場の人からは当然批判が来るし、それとは逆に、システムに背を向けて密室の中で自分自身を見つめるんだという主体主義的な立場の人からも当然批判はくる。どっちもよくわかるんです。だけど、それはある意味でものすごく怠惰だと思うんですね。どこにも足を着けないで逃げ道を用意するというのは、膨大なコストがかかるわけで、それを全然払ってないんだから。」(p. 110-11)

ぼくが、「神々」としての浅田を理解することで「新人類」を理解してみようとしているのは、過酷な「スキゾ・キッズ」を誤解した存在として「新人類」を考えてみることは出来ないかと、予想を立てているから。例えば、浅田は、自分の本を誤解する若者たちをこう表現している。

「ぼくの本を変に褒めるやつというのはもっと気持ち悪いんですよ。矮小なモラトリアム空間内に囲いこまれた「ひよわなボクちゃん」たちが、自分たちのミーイズムを正当化する理論が出てきたというので、ぼくの本を歓迎するという現象があって、それこそ冗談じゃないぜと思う。確かにぼくは、モラトリアムでいいんだ、それで突っ切れとはいってるけど、それはいずれ外に出ることを前提として内にこもっているというのとはまるで違うんで、そのためには、常に間にいるための下部構造をきちっとつくれといってるわけ。」(p. 12)

「ひよわなボクちゃん」たちの「ミーイズム」とは、なにやら宮台が整理した新人類の「商品が語りかける「これがあなたです」という〈物語〉に、「これってあたし!」と反応した世代」のあり方に重なり合う気がする。「モラトリアムでいいんだ」ではなくモラトリアムしかないんじゃないかという逃げ道なき逃走(逃走以外に生きる道のない逃走)こそ浅田=スキゾ・キッズの実存なわけだ。
故に浅田は、「ヤケクソのがんばり」こそが生きる道と言っている。これと「新人類」との落差には考えるべきところがある気がする。

「ブラックユーモアの極限で、叫んでいるのか笑っているのかわかんないようなところを出したいと思っているわけ。まあ、なかなかそうはなっていないですけれどもね。たとえば、ぼくは戦争直後の焼け跡闇市派みたいな感覚がすごく好きなのね。ああいうヤケクソのがんばり方しかないと思ってる。」(p. 13)

「おたく」と「新人類」 2

2009年08月08日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
「おたく」はその出発点において、「新人類」が自らをアイデンティファイする際に疎外する対象として価値づけられた。

ちなみに、wikiの「新人類」
この語が一般化していった際のニュアンスとしては、この解説にあるように「自分勝手」「無感覚・無感動」「物怖じしない」「クヨクヨしない」といった、人間性が希薄な人間という意味合いが強かったように思う。

として、
「おたく」はでは「新人類」とまったく異なる存在かというとそうではない、ということも大塚英志は『おたくの精神史』で指摘している。大塚は宮台真司の「新人類とオタクの世紀末を解く」というテクストを引用する。

「中森明夫の"オタク差別"記事は(中略)オタク文化のリーダーによるフォロワー部分への、自己差異化の試みがなされたというわけである。その意味で、これはオタク文化内部の差異化の運動、「おたくの階級闘争」だった」(大塚p. 28)

この説からすれば、「おたく(と後に呼ばれることになる)」領域から、ある種の者を「おたく」として批判する立場が出てきた、それが「新人類」(少なくとも中森明夫)である、ということになる。

ふむふむ。いまぼくは「おたく(と後に呼ばれることになる)」領域と書いたけれど、この領域が一体どんなものだったのか、いまだ明確ではない。「マニアック」なひとたち?「趣味」をもつ人たち?んー、漠然としている。

ということで、今度は宮台真司の「新人類」定義を見ていこうと思う。『サブカルチャー神話解体』(PARCO出版1993)。

まず宮台が「新人類」を文化として捉え、その時期を三つに分けていることに注目してみよう。

「77年から82年までを、私たちは新人類文化の「上昇期」と呼びます。リーダーからフォロワーに、”記号”的消費が拡大・展開していく時期です。これに対して、83年から87年までを、新人類文化の「安定期」と呼んでいます。新人類文化というと、差異化が一巡して、少しあとのお嬢さんブームに代表される「階層的なもの」が導入される時期。単なるブランドではなく「DC」が導入され、新人類文化の行き渡りと入れ替わりに、若者アングラ文化も完全に消滅します。」(p. 22)

そして第3期は、「私たちは、88年以降を新人類文化の「下降期」と呼びます。」(p. 24)として、身体感覚に訴える「身体的なものの浮上」が、新人類の下降と反比例するように顕在化する。

第一期 新人類文化の「上昇期」 77-82年  記号的消費の拡大・展開
第二期 新人類文化の「安定期」 83-87年 「階層的なもの」の導入
第三期 新人類文化の「下降期」 88年以降  記号的消費から身体感覚へ 
                      →「”記号”死して”浮遊女”残れり」(p. 11)

宮台によれば、「新人類」とは「記号的消費」をする者だということになる。「消費」の観点から彼らを見るのは、大塚もそうだった。

「新人類とは、商品言語で語り始めた人たち、”記号”的消費を始めた人たち、どんなノリの消費をしているかで人間関係さえ選別し始めた人たちです。言い換えれば、商品が語りかける「これがあなたです」という〈物語〉に、「これってあたし!」と反応した世代なのです。」(pp. 18-19)

「これってあたし!」と積極的に商品にアイデンティファイする主体的な消費者=新人類。そこで重要なのは、世界のあり方を複数並立的に見ていく考え方があらわれたこと。

「連続幼女殺害事件(89年)をきっかけに急にオーバーグラウンド化した「オタク」や、旧世代が指摘する「新人類」云々といった社会現象には、こうした「情報による〈世界〉解釈」の複数並立が深く関連しています。単一の疑似環境から、複数の〈世界〉並立へ。単なる情報化社会から「高度」情報化社会への展開のメルクマールを、そこに見いだせます。」(p. 11)

この点に関して、「これってあたし!」と思う際の自己像の成立には、女の子であれば「少女らしさ」というものへとアイデンティファイすることと不可分であるとして、その「少女らしさ」が多様化していったのがこの時期ということに宮台は注目した。例えば、それは女性のファッションのなかで「少女らしさ」が多様化したこととつながっている。

「80年代的な「新人類文化」の中では既に、女性の「〈私〉らしさ」の内実は、多様なDCブランドの並立--文学少女風コムデ、ボディコンのジュンコシマダ、夢みる少女風のピンクハウス等--に象徴されるように、ロマンチックへの志向をはるかに越えて、拡散していた。」「「〈私〉らしい私」の内実としてのロマンチックな「かわいさ」は、多くの選択肢の一つへと転落してしまった」(p. 46)

80年代以前ならば、「ロマンチック」=「少女らしさ」であり、これ以外に「少女らしさ」と等号で結ばれるものはなかった。それが多様化したのは「新人類文化」以後なのである。

こうした「これってあたし!」の対象が多様化するという事態は、「おたく」も同様に被っていたのではないか?と「おたく」と多様性について気になるところなのだけれど、『サブカルチャー神話解体』では、いまみたところでは「おたく」/「新人類」の細かい分析はない。この点は、浅田彰『構造と力』(1983)で流行語になったスキゾとパラノの区別と関連した事柄だろう(「新人類」=「スキゾ・キッズ」?)。ところで下記のような「マニアックなもの」との違いならば、宮台は分析している。

「「マニアックなもの/オタッキーなもの」の差異の成立にも関わっていた。実際、歌謡曲のメタ的享受の内部を見ても、……のような「クロウト視点」は次第に退潮し、代わりに、「B級アイドル礼賛」に象徴される「価値転倒」と、「仕掛け」を楽しむ「裏目読み視点」が、もっぱら拡大していくことになったのである。」(p. 75)

さて、最後に、この「新人類文化」分析が、その終わりから論じられていることは注目に値する。その際の批判の矢面に立たされているのが「アクロス」と「広告批評」などによる「煽り」である。

「「感性の終わり」という曖昧なことばを用いることには反対です。終わったのは、正確に言えば「”記号”的能力の差異の”記号”性」です。”記号”的な落差の追求が、それ自体、”記号”的に陳腐化した。」「80年代に『アクロス』『広告批評』その他の媒体が振りまいてきた「煽り」の言葉が機能しなくなったことは、むしろみなさんのほうで実感されているはずでしょう」(p. 9)

そして、宮台は、こうした表向きの80年代文化の底流に90年代に大きなうねりになるものが隠れていたことを指摘する。

「80年代は、実は二重の地平から成り立っていました。一つは、イメージ広告、DCブランドブーム、ベイエリア、ファンシーグッズなどの”記号”的消費に見られる、目に見える水準。80年代『アクロス』に代表される「煽り」の言説は、こうした水準だけを無責任に肥大化させたものです。」「そうした目に見える地平の裏で、もう一つ、目に見えにくい地平が肥大したことを、忘れることができません。それは、ある特殊なリアリティが日常的に拡散したということです。それはさまざまな「現象」の裏に、目に見えないかたちで貼りついています。それは……「浮遊感覚」の問題であり、昨今の第3次宗教ブーム(自己改造セミナーも含めて)を支える宗教的心性の問題であり、テレクラ→伝言ダイヤル→ダイヤルQ2という変則的電話コミュニケーションを支えてきたリアリティの問題です。」(p. 10)

「おたく」と「新人類」 大塚英志『「おたく」の精神史』より

2009年08月08日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
「おたく」は蔑称として生まれた。
「おたく」を蔑称としてある種の人たちを指すのに最初に用いたのは中森明夫である。「最初に」の真偽は定かではないところがあるけれど、そうだということで動いているところが重要。そうだということで動かしている一人が大塚英志であり、彼がおたくの側で論を進めるのに対して、中森明夫は大塚が編集長だった『漫画ぶりっこ』に寄稿しておたくを揶揄したのだった。その中森は、いわゆる「新人類」と呼ばれる若者のリーダー的な存在だった。

☆「おたく」はその語が生まれた当初「新人類」との差異のなかでアイデンティファイされていたのだった。

「おたく」←→「新人類」

となると、「おたく」を同定するには、「新人類」を理解しなければならない。
大塚(『「おたく」の精神史』)によれば、この「新人類」はさらに、「神々」と差異化された存在である。「神々」とは筑紫哲也が「朝日ジャーナル」誌上で連載した「若者達の神々」というインタビューに登場した者たちを指す。第1回が浅田彰。その後、糸井重里、坂本龍一、如月小春、村上春樹らが取り上げられて行く。大塚はさらに85年4月から同じ「朝日」同じ筑紫によって連載が開始される「新人類の旗手」に注目して、そこで取り上げられたのが、中森明夫、小曽根真、川西蘭、辻元清美、とんねるず、秋元康、木佐貫邦子、平田オリザらであると列挙した。「神々」と「新人類」の違いは何か。

「「神々」の登場人物はその時点での「成功者」である。」のに対して「「新人類」の顔ぶれはどうだろう。「神々」の人々のほとんど全てが今でもそれが誰か自明な人々なのに対し、こちらの顔ぶれは相当に妖しい。あるいはぼくの不勉強かもしれないが、その人物が何者であるか、あるいは今、何をしているか、咄嗟に想い出せない人が相当いる。」(p. 33)

大塚は、「いまだ何者でもなかった」(p. 35)者たちである「新人類」が自分を語る際の肩書きに注目して、彼らが「リミキサー」「環境アーティスト」「謎々プログラマー」などの「ほとんどその場ででっち上げたような肩書き」を用いているのは、要は彼らが「何者でもなかった」からであり、「新人類」として評価されるか否かは、「特別な才能や実績に基づくものでなく、いわば「先着順」であった」と考える。「先着順」であることが「送り手」と「受け手」の近さを生むと同時に、「送り手」と「受け手」の差異を生み出す。「新人類」は「置き換え可能な何者かが偶然、選ばれたに過ぎない」(p. 36)。

大塚の議論は、「新人類」と「新人類の旗手」とを分けて論じていないので、分かりにくくなっている(「先着順」の議論は、「旗手」になれるかただの「新人類」一般かの違いのように読める)。けれども、恐らく、「新人類」も「新人類の旗手」も、ひとしく、次のような特徴があったということは出来るのだろう。

「「新人類」にとって何よりも重要だったのは「何者でもない」無名の若者と「何者か」であるべき自らの差異の演出である」(p. 37)

「新人類」とは、何だったかその定義は、もう少し別のテクストを参照する必要があるだろう。その上で、「新人類」と呼ばれた者たち呼ばれたいと思っていた者たちとは、あいつらとは自分は違うという根拠なき自信とその自信を補完する「演出」にあるのではないだろうか。「せいぜい瞬間芸で目立つ程度の手続きで世に出てしまった」(p. 37)人たち。もちろん大塚は、こう定義することで、おたくを揶揄した中森を揶揄しようとしているのだから、否定的な面を強調しているのは当然である。「自己演出」をして「差異化のゲーム」に勝つ。それは彼らが優れた「消費者」であることを導く。

「「新人類」の本質とは実は消費者としての主体性と商品選択能力の優位性にある。つまり、自分たちは自分で自己演出する服を選べる、といったより主体的な消費者である、というのが「新人類」の根拠であった。」(p. 41)

すでにあふれた商品や記号を選択し、自分は他人とは違うという違いに自己陶酔する(あるいはそこに、その人の能力を認める)のが「新人類」だとすると、「おたく」は、そうしたすでにある消費の現場にあるものだけでは満足出来ずに、そこにないものを自ら生み出し、自らの力で「市場」を生み出した。

「「新人類」は自らの主観では、消費を「運動」化あるいは「思想」化していた。しかし、彼らを「市場」として制しているのは、上の世代であった。これに対し「新人類」的領域には劣性な消費者であった「おたく」は、他方、自らの領域においては自給自足を始めるほどに貪欲な消費者であり、事実彼らは消費者の枠を超えてコミックマーケットがまさに象徴するように自給自足的な送り手とさえなった。」(p. 42)

『なんとなく、クリスタル』(1981/6@Tokyo)

2009年06月24日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
Repurt Holms, "Him"

Repurt Holms, "Answering Machine"


Michael Franks, "Antono's Song"


George Benson, "On Broadway"

Al Jarreau, "Mornin"

Paul Davis, "I Go Crazy"

Airplay, "She waits for me"

Robert Palma, "Every Kinda People"

Bob Seger, "Against the Wind"

Ashford & Simpson, "Is it Still Good to Ya"

「「クリスタルか……。ねえ、今思ったんだけどさ、僕らって、青春とはなにか!恋愛とはなにか!なんて、哲学少年みたいに考えたことないじゃない?本もあんまし読んでないし、バカみたいになって一つのことに熱中することもないと思わない?でも、頭の中は空っぽでもないし、曇ってもいないよね。醒めきっているわけでもないし、湿った感じじゃもちろんないし。それに、人の意見をそのまま鵜呑みにするほど、単純でもないしさ。」
そう言って、タバコの火を消した。
「クールっていう感じじゃないよね。あんましうまくいえないけど、やっばり、クリスタルが一番ぴったりきそうなのかなー。」」(田中康夫『なんとなく、クリスタル』河出書房新社、1981年、88頁)

「私は、渋谷へ出ることが少なかった。神宮前からゆっくり歩いても、二十分ちょっとあれば行けるところなのだけれど、余り出かけなかった。
 一つには、人が多すぎるということが理由だった。
 私はアーベインな生活が好きだったけれど、渋谷のようにターミナル・ステーションの街は、好きになれなかった。人ばかり見ていると、たまらなくイライラしてくるのだった。やはり、ある一定面積には適正な人間の数というものがあるみたいで、それを越えると、人間は生理的に色々とプレッシャーがかかるんじゃないかと、私は思っていた。
 もう一つには、渋谷を歩いている子は、みんな似たような格好をしていて、つまらないということがあった。」(105-106頁)

「モデルの仕事は、楽しいものだった。学校では知り合えない、多くの友だちが、そこにはいた。
 そして、学校へ行けば、行ったで、多くの愉快な連中がいた。
 でも、それだけ多くの友だちがいても、一人になると、急に、アイデンティティを、一体、どこへ置いたらいいのか、わからなくなることがあった。
 そうした時に、そばにいて離れていかないものが欲しかった。心を許しあえるものが欲しかった。私たちにとっては、それがおたがいに対して望んでいることだった。」(118頁)

「淳一と私は、なにも悩みなんてなく暮らしている。
なんとなく気分よいものを、買ったり、着たり、食べたりする。そして、なんとなく気分のよい音楽を聴いて、なんとなく気分のよいところへ散歩しに行ったり、遊びに行ったりする。
 二人が一緒になると、なんとなく気分のいい、クリスタルな生き方ができそうだった。」(147頁)