Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『サイト』・タスク・ジェンダー

2008年02月10日 | 『ジャド』(2)2モリス
以下は、ラムゼイ・バート『ジャドソン・ダンス・シアター パフォーマティヴな足跡』の部分的な翻訳です。第3章の前半「シモーネ・フォルティとロバート・モリス」と小見出しのある部分の後半、つまり主にモリスについて言及されている箇所になります。(写真は『サイト』の模様。斜めになっているのは、厚板が倒れる瞬間)

これまで同様、今後手直しをしていくテクストです。またコメントを付けて研究ノートにしていくつもりです。

これは『サイトSite』(1964)の記録映像(部分)です。本当に、便利な世の中になりましたね。
これは同時期にシュニーマンが制作した映像作品『Fuses』(1965)です。性に関する当時の彼女の問題意識がより立体的になると思います。


(2)シモーネ・フォルティとロバート・モリス(後半)

 [『シーソー』公演について]モリスに『アート・ニューズ』を読むよう促したフォルティがどんなイメージを与えているのか知るのは、興味深いことだろう。フォルティが記憶しているのは、モリスがパフォーマンスの最中にポーカーフェイスだったことであり、その表情は彼女にバスター・キートンを思い起こさせた。彼女はまた、モリスとレイナーが作中で見せる関係性がおぞましいほどドメスティックであったと記している(Forti 1993: 8)。モリスとレイナーは、役者としてのいかなる技術的なスキルも用いていなかった。例えば、演じることへのスタニスラフスキー的アプローチであれ、また当時マース・カニングハム・ダンス・カンパニーと同じ建物の一部を占めていたリヴィング・シアターの強烈で表現主義的なスタイルであれ。大ざっぱには、モリスとレイナーはただ「自分自身でいよう」としていた、などと言うことが出来るだろうけれども、彼らが行ったことを、一般化した言い回しで言うところの「個人的で私的な経験」を参照した、シンプルで、外からここに持ち込まれたかのような人物を示すタスクとして記すならば、より正確である。『プラットホーム』に似て、『シーソー』での男性と女性の役割は、ジェンダーに特化した振る舞いを含んでいる。しかし、注意に値することに、レイナーとモリスはユニセックスの衣裳を着ていたのである。察するに、フォルティがモリスやレイナーとの初期実験を行ったのは、どのようにすれば個人的な題材を、分離し、比較的に非個人的な、ミニマルなあり方の内に含み込むことが出来るかという観点からだったのである。

 シャーベは、フォルティの作品『プラットホーム』を、モリスによって案出された有名な作品と比較した。その作品は、1961年のリヴィング・シアターでのコンサートのための作品で、またラ・モンテ・ヤングがオーガナイザーを務めた。ここで、高さ8フィート、幅2フィートの長方形をした、木製の柱を露わにするために、カーテンが開いた。3分半後に、この柱が横倒しになり、もう3分半後に、カーテンは閉じた。シャーベが指摘するに、モリスの作品は「一種の中立的ないし一般的に交換可能な見る主体を明らかに明示し呼び出そうとしたのに対して、フォルティの主体はときにジェンダー的にコード化された特徴によって印づけられていた」(Chave 2000: 156)。このことは、これら2つの作品にのみ当てはまるが、モリスとフォルティのダンス作品全体には当てはまらない。『ハドル』『スラントボード』『ローラーズ』のような作品では、フォルティは男性ダンサーと女性ダンサーを使い、ユニセックスな役割として記されるべき衣裳を身につけた。これから私が手短に論じていく『サイト』を含めたモリスのダンスのいくつかは、ジェンダーで特徴づけられる振る舞いへの参照を含めた複数の役割を演じるようにと女たちを起用した。彼自身が女たちのなかで演じる題材においては、モリスは中立的な役割を仮定しようとしていたにもかかわらず。

 モリスはある時期、ダンスに携わった。1950年代の後半、彼はたまたまフォルティと一緒にサンフランシスコ沿岸のハルプリンが行っていた実験的なダンス・ワークショップへ向かった。フォルティは、次のように記憶している。つまり、ハルプリンの

ワークショップの基本的なやり方は、意識の流れを追う即興だった。私たちは、意識の流れが制約を受けぬままあふれ出すことの可能な受容性の状態に到達していた。しかし、同時に、自我の一部は、新鮮でよい動きを見つめる証人、私たちの間で進展していく事柄全体を見つめる証人として振る舞った。(Forti 1974: 32)

彼女は、モリスがハルプリンのワークショップのひとつに出席して、この集中した自己証言を用いたときのことを思い返している。これは、画家のA・A・リースが教えているクラスで起きた。彼は、周囲の自然から何かを選んできてその動きのキャラクターをつかむというタスクを課した。モリスは岩を観察していた。

彼は地面に横になった。3分ほど時間が経った後、自分の体の端が地面にべったりとつくまで、彼はどんどんちっちゃくなっていった。そして、彼の重力の中心点がまさに地面の上に接する状態となった。(ibid.: 31)

モリスが岩に具体的に応答していったことは、あと知恵的に見るなら『サイト』が明らかに参照しているモリス自身のミニマル的な彫刻である合板の立方体や多面体に観客が具体的に応答した、と後に彼が議論しているものの先駆的な出来事と、理解することが出来る。

 ハルプリンが教えた別のレッスンは、パフォーマンスのなかで物を使うということに関連していた。これは、モリス、フォルティ、レイナーそしてブラウンがハルプリンの夏期ワークショップに出席した1960年に、ハルプリンがちょうど展開していたパフォーマンスに対するアプローチだった。フォルティは、課題であった即興的なタスクに向けてブラウンが行ったアプローチのひとつを鮮烈な描写で記している。つまりこれ[即興的なタスク]は、周囲から生きていないものを取ってきて、その個性的な動き方を見いだすことだった。ブラウンがもってきたものは箒だった。

彼女は手に箒をつかんでいた。彼女はそれを真っ直ぐ前に押しだした、つかんだ柄は手放すことなく。そして、彼女は、その勢いが自分の全身を中空に運ぶくらいの力で押しだした。私は依然としてその箒とトリシャがまさに中空に飛び出し、直線で約3フィート地面から離れ旅をしていた光景を覚えている。(ibid.: 31-2)

その年、ハルプリンのグループが『アメリカの鳥たち』と呼ばれるダンス作品を上演した。ハルプリンがレイナーに説明しているように、自分のスタジオで数ヶ月もの間その作品のリハーサルをし、その作品が劇場の舞台上でどう見えるかといったその見え方について不満を感じるようになり、そして

上演の直前、私は私を含めた全員の手に竹の棒をもたせた、そして私たちはいつもやっていたダンスを竹の棒をもった状態で行わなければならなくなった……。その棒はとても長くて、それ自体で空間的な環境を作ってしまうのだった。私たちは自己意識に対して、身体的応答に対して、そしてお互いに対して強い注意を払うようになり、そうして私たちは息の詰まる自己反省を展開するようになった、と私は感じ始めた。そうして私たちは、環境のなかの適応性のある応答への私たちの応答を拡張し始めた。(Halprin 1995: 81)

体腔上の経験、空間性、パフォーマンスのモードの間の関係に関してこのようにラディカルな仕方で注目することは、ジャドソンのグループの新しいダンスに浸透していったし、それを私たちは、モリスの『サイト』の内に明白にみることが出来る。この作品は、モリスがハルプリンから学んだことと、高度なモダニズム芸術理論のなかへ抜け目なくアヴァンギャルドな仕方で介入することとを組み合わせたものだった。モリスはそのとき、ニューヨークのハンター大学で美術史の文学修士を取るために研究していた。

 『サイト』(1964)は最初、1964年にジャドソン・メモリアル教会で上演された。この作品は、理論がダンスの一要素になる方法を実証してみせた。美術史家・クレメント・グリーンバーグへのパフォーマティヴな反撃の一部として、モリスは、フォルティ、レイナー、そしてその他の者たちとともに、モリスがハルプリンかとともにワークショップを行うことから学んだ類の、身体的な意識の存在を明らかに示した。『サイト』を下支えする身体的な経験への感性は、1966年と1967年に出版され、また彼のその時期のパートナーであるレイナーが「擬似的概説」を書いた同じときに書かれた「彫刻に関するノート」三部作のなかで、モリスがその後に行ったミニマリズムの理論化を告知するものだった。私はどちらについてもこの章で後に議論するつもりである。『サイト』は、20分の作品だった。その間、一人の男(モリス)が白いTシャツとジーンズを着て、作業用の手袋を身につけると、8フィート×4フィートの白く彩色された合板を、次第に増してくる動作の名人芸的な連なりをもって取り扱った。作品がはじまると、セットは次のもので構成されていた、つまり中心となる舞台、演舞空間の奥の壁に風景の傾く角度で立てかけた合板の堆積、そしてこの前には「サウンド・キューブ」があった。「サウンド・キューブ」からは、建築現場[building site]で録音した空気ドリルのノイズが鳴っていた。男は観客を背にして立っていた。公演では、正確に計ったような風に、彼は板の堆積へと歩いていき、合板の一番上の一枚を担ぎ、それを舞台右[上手]へと運んでいった。彼は白い仮面を身につけており、それは自分の顔から型が取られたものであることを示していた。同時に彼はどっしりと重々しいペースで戻ると、2番目の板を運んで再び板と一緒に右側[上手側]へ歩いてゆき、そこで板を90度ゆっくりと回した。板が直立すると、それを再び壁に立てかけ、じっとした、その後、はっきりしない、中立的な仕方で、ゆっくりと板の右手側[上手側]の端に沿ってちょっとずつ右手を走らせた。堆積へと再び戻り、彼は3番目の板を取り除いた。しかし、それまでの板は、板の真ん中を下で押さえる手でつかんで、直立状態で担ぎ、運んでいたのに、3番目の板は、大げさな身振りで取り除かれた、その背後に隠れていた裸の女を露わにするために、端をつまみ上げるようにして。この女は、最初、キャロリー・シュニーマンが務めたのであり、マネの1863年の名画『オランピア』の活人画を作って、もう一枚の8×4フィートの合板の前で板と枕の上に乗りポーズをとっていた(図版3.1)。シュニーマンの顔と体はパウダーで白く塗られていた。また、パフォーマンスの間中、観客へと率直な感じで眼差しを向けながら、彼女は身動きせずにじっとしていた。

 次の15分間、確固として中立的な振る舞いをとりながら、その男は、変化を繰り返しまた発明的なやり方で、3番目の合板を取り扱い続けた。スティーヴ・パクストンはこの様子を回顧して「素晴らしかった……合板を曲げたり、バランスを取ったり、くるくる回したり、突き放したりした」(Banes 1995: 206)と述べている。あるとき、モリスは静止し、手袋を脱ぎ、注意深く仮面のあごの線を辿るように手を沿わせていった。この身振りは、2番目の合板の端を手に沿わせた少し手前でやった動作を似ていた。最終的に、彼は『オランピア』の前にその板を置き直し、最初の場面にあらためて戻るようにして、他の二枚を移し、観客に背を向けた最初の立ち位置に戻っていった。『ヴィレッジ・ヴォイス』の作品評で、ジル・ジョンストンはそれを「連想可能性の内にハイ・テンションな力を湛えた最大限の効率」(1964: 12)の作品と称賛した。

モリスはバランスとコントロールのタクスを実演する労働者である。空気ドリルの音は、彼の活動を強めている。どちらも劇的に、釘付けにされている婦人の理想的で詩的なイメージに対立している。露わにされた最初のショックの後、連想のゆっくりとした啓示が始まる。誰もその文化的な重要性から免れている者はいない。極端な中立性----視覚的強調、実際的な取り扱い、コンタクトの欠如----は、この作品を、一人のアーティストが様々な像を写真のように置いて、カンヴァス上で一緒にし、観客にそこから一枚を手に取らせるというような作品にする。(ibid.)

ジョンストンの示唆している『サイト』が利用した連想のひとつとは、マネの『オランピア』が支配的なモダニズムのグリーンバーグ的評価の内に占めている役割へのアイロニックなコメントだった。グリーンバーグは1960年にこう書いていた。「描かれたその表面をあからさまに見せる率直さのために、マネの絵画は最初のモダニスト絵画となった」(Greenberg 1982: 6)。グリーンバーグにとって、マネが描いた表面の告げるところは、その平面性flatnessだった。つまり「平面性、二次元性は、絵画がその他のどの芸術とも共有していない唯一の制約である。だからモダニスト絵画はその他のことはせずにただ自らを平面性へと差し向けたのである」(ibid.)。『サイト』は、アイロニカルに平面性の考えを演じてみせた。第一に、オランピア役のシュニーマンは勿論平面的ではなく全く三次元の舞台の上にいた。第二に、まるで絵画平面を背後にしてイリュージョニスティックな絵画空間に住まっているかのように、彼女は白い合板の背後からあらわれた。第三に、しかし、モリス自身が合板の縁や自分のあごに触れるその仕方は、平面の合板も人間の身体も、ある意味で、互いに等価であることを示していた。

 『サイト』がマネに関するグリーンバーグの考えを引用しているというなら、それはまた、その他のアーティストの作品も参照している。モリスは多くの観客たちが『サイト』の内にジャスパー・ジョーンズやマルセル・デュシャンの作品を参照した跡を認めるものと期待としていただろう。モリスが『サイト』の初演版で身につけていたマスクはジョーンズ自身の顔から型が取られたものだった。1950年代の半ば、ジョーンズはナン・ローゼンタールの石膏の鋳型を箱のなかに置いた、それはモリスが『アイ・ボックス』(1962)で参照しているように思われる「ターゲット」絵画の一部となった。ジョーンズもモリスもマルセル・デュシャンの作品に関心があり、『サイト』でマネの『オランピア』を「引用」しているのは、レディ・メイドとして理解されうるものだった。そのパフォーマンスはまた、モリスの彫刻を参照していた。彼が取り扱った合板は、彼の合板の立方体や多面体の原材料だった。従って、ひとつのレヴェルでは、『サイト』は、アイロニカルな仕方で、アヴァンギャルドなアーティストの実践に関する論争に自らを位置づけるものだったし、もうひとつのレヴェルで、この作品は、演舞空間における運動によって、グリーンバーグがモダニズムを理論化することへのパフォーマティヴな挑戦を方法として、抽象的で形式的な関係性を探究した。アイロニックなやり方でそうしたのだが、それはまた、後に「彫刻に関するノート」で厳密に理論的にモリスが挑戦した事柄を予示していた。その空間性において『サイト』は、ハルプリンの作品を思い出させる。ハルプリンのダンサーたちが『アメリカの鳥たち』で竹の棒を取り扱ったように、モリスは自分が舞台空間にどう応答するかの探究をするために合板を取り扱ったのだった。それは、岩の運動の特徴についての初期のパフォーマンスに範例的な、同じ種類の集中した意識を引き出した。モリスは後に、この集中した意識についての理論的な意味あいについて書いている。『サイト』での音の箱が建築現場を示唆する一方で、そのタイトルはまた、見るという行為を、そして引用を----マネに関するグリーンバーグを、(その作品をグリーンバーグが賛同していない)ジョーンズやデュシャンをそしてシュニーマン本人の作品を注目させた。

 定期的に実験的なダンスのパフォーマンスやハプニングを見に来ている観客は、『新聞イベント』のようなシュニーマンのジャドソン的ダンス作品やオルデンバーグやカプローの作品で彼女が裸であらわれていたのを知っていただろう。その相貌はエロティシズムを連想させるので、シュニーマンが作品に参加すると、抽象的な形式主義の意識と個人的な自伝的なものを参照する際のメシエ的複雑さとの間のテンションはエロティシズムへと導かれてしまった。写真が示すのは、「オランピア」役のシュニーマンが、中立的とはほど遠い仕方で、積極的に観客を凝視しているさまである。一世紀前には、パリのサロンにいた観客たちは、マネの『オランピア』で娼婦役のモデルが凝視するその直接性に衝撃を受けたのだった。シュニーマンは、その頃フェミニスト的な意識をもっていたジャドソン・ダンス・シアターの数少ない女性の一人であり、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』についての論文を修士の学位の一部として執筆していたのだった。後に彼女は、女性の画家として「男性美術チーム」に参加するのが許されていたという、威厳を欠いた生き方を告発した(Schneemann 1997: 196)。彼女は、所属する権利があると自分が感じていたアート・ワールドからすっかり追放されてしまうのを避けて、自ら「いやったらしいマスコットCunt Mascot」と呼ぶ使われようだったことを認めた(ibid.)。「私はイメージであることは許されていたけれど、自分自身のイメージを創造するイメージ制作者であることは許されなかった」(ibid.: 194)。その後、彼女は抗議した(次章で私はシュニーマンの作品について論じている)。そういうわけで、表面上中立的でジェンダー的な含意から自由なタスクに基づく役割を自分には課したのに、モリスがシュニーマンに与えたのは、避けがたくジェンダー的な含意の含まれた役割なのであった。『サイト』でのシュニーマンの凝視がモリスの中立性の役割を揺るがし、暗黙の男性中心主義に注意を振り向かせたかどうかはともかく、この作品を上演したモリスとシュニーマンの役割の間には、否定出来ない不平等な権力関係があったわけである。これは、『シーソー』を上演したモリスとレイナーの役割には該当しないことだった。アナ・C・シャーベの用語法を使うなら、モリスが道具的な役割を採用していた一方で、シュニーマンは表現的な役割を演じていたわけである。従って、『シーソー』と『サイト』を比較すると、個人的ないし自伝的な題材を取り扱うという問題は、表現と道具的な役割の具体化との違いに関わっていると言うことが明らかとなる。