う、うまい。凄い。微妙な絶えず変化するバランス。それでいて一場一場が極めて分かりやすい。「「天才タニノ」の呼び名は、何ら誇張ではないぞ」と、少し興奮しながら、そんなことばかり思ってみていた。
漁師町の若い漁師たち、彼らの兄貴的存在の男が主人公。45歳独身。押入にギターと小学校時代のピアニカ(ピンク色)を隠している。好きな女の子のを奪ったもの。男の秘めた欲望が仄かに垣間見える。こたつを囲み、中学生のように、ギターを弾きピアニカを吹き、自分の作ったメロディーを歌う、退屈だが楽しい男子たちの時間。若者に料理を振る舞う男。セリフ主導ではない、ギターを弾きあったりするなかで構成される時間はもう絶妙のバランスで、静けさと激しさとを次々と生み出していく。管理人の老婆が現れると、彼女を追い返そうとして彼らは突然けんかをはじめる。その荒れた暴力の演出は、時空につむじ風を描く。それは例えば、nhhmbaseの生み出す奇跡のごとき運動感覚に似ている。純粋に音楽的な快楽にあまりに似ている。見る者はほとんど恍惚としながらタニノが演出する時間の運動に身を任せていればいい。
彼らの平和を乱すのは、隣に住みだした老婆と薄幸そうな美女介護士。男たちは、介護士に中学生のように興奮し、無理矢理部屋に招くとはしゃいで、逃げられると途端にしょげかえってしまう。その後、女の忘れたハンカチを返そうと隣に向かった男が不意に老人に胸をもまれている女を覗いてしまう。それは明らかに、親のセックスを見てしまうトラウマを想起させるシーンだ。男がその後、3年も連絡を取ってなかった母に電話してしまうことからも明らかだ。マメ山田の極小のからだが、リアルで高解像度の舞台をシュルレアルに歪めている。それもしかし今回は、小皿の逸品としてさりげなくふるまわれるといったところ。女の訪問と突然の振る舞いに戸惑う男、それは現実のような妄想のような。伊勢エビを届けに帰ってきた弟分の1人が悲しい別れを告げる間、男のお尻の下に隠れて服を脱ぎかけた女がうつぶしている。この辺りも何とも言えない感じで、情けない男の性が実にシンプルなシーソーの設えによって描かれている。そこで渡した伊勢エビは、女の部屋の冷蔵庫でかさこそと物音を立てる。半ぼけの老人はその音が気になり、なんども杖で突っつき最後はつえでエビを粉々にしてしまう。その音。生命の消滅(のメタファー)。老人は力尽き開けたままの冷蔵庫脇で寝て(逝って)しまう。
庭劇団ペニノの演出上の独創的な試みは枚挙にいとまがないが、リアルな舞台空間というものに今日は前半気になってみていた。細部に徹底的にこだわり本物を置くことで生まれているのは、現実への忠実さと言うよりも、映像的「解像度」の向上のごとき事態ではないだろうか。(同じ細部にこだわるポツドールの場合、それぞれのアイテムはペニノのそれよりもより記号的に振る舞っている)ぼくの目は、この舞台を映像での出来事のように見てしまう。魚をさばくシーンでは、まるで手さばきにクロースアップするように目がそこに釘付けになる。細部を十分に作り込むことが、本物らしさ以上にそうした映像的演出に似た知覚を可能にしている。そうしたリアリティの新しい次元はハイビジョン映像など新しい映像感覚から生まれている気がする。演劇がその内部で探究するリアリティのレヴェルをペニノの舞台美術は遙かに超えでて、いわば舞台そのものを映像化してしまっている、と思うとぼくとしてはあの空間性に納得がいく。
これは必見です。
漁師町の若い漁師たち、彼らの兄貴的存在の男が主人公。45歳独身。押入にギターと小学校時代のピアニカ(ピンク色)を隠している。好きな女の子のを奪ったもの。男の秘めた欲望が仄かに垣間見える。こたつを囲み、中学生のように、ギターを弾きピアニカを吹き、自分の作ったメロディーを歌う、退屈だが楽しい男子たちの時間。若者に料理を振る舞う男。セリフ主導ではない、ギターを弾きあったりするなかで構成される時間はもう絶妙のバランスで、静けさと激しさとを次々と生み出していく。管理人の老婆が現れると、彼女を追い返そうとして彼らは突然けんかをはじめる。その荒れた暴力の演出は、時空につむじ風を描く。それは例えば、nhhmbaseの生み出す奇跡のごとき運動感覚に似ている。純粋に音楽的な快楽にあまりに似ている。見る者はほとんど恍惚としながらタニノが演出する時間の運動に身を任せていればいい。
彼らの平和を乱すのは、隣に住みだした老婆と薄幸そうな美女介護士。男たちは、介護士に中学生のように興奮し、無理矢理部屋に招くとはしゃいで、逃げられると途端にしょげかえってしまう。その後、女の忘れたハンカチを返そうと隣に向かった男が不意に老人に胸をもまれている女を覗いてしまう。それは明らかに、親のセックスを見てしまうトラウマを想起させるシーンだ。男がその後、3年も連絡を取ってなかった母に電話してしまうことからも明らかだ。マメ山田の極小のからだが、リアルで高解像度の舞台をシュルレアルに歪めている。それもしかし今回は、小皿の逸品としてさりげなくふるまわれるといったところ。女の訪問と突然の振る舞いに戸惑う男、それは現実のような妄想のような。伊勢エビを届けに帰ってきた弟分の1人が悲しい別れを告げる間、男のお尻の下に隠れて服を脱ぎかけた女がうつぶしている。この辺りも何とも言えない感じで、情けない男の性が実にシンプルなシーソーの設えによって描かれている。そこで渡した伊勢エビは、女の部屋の冷蔵庫でかさこそと物音を立てる。半ぼけの老人はその音が気になり、なんども杖で突っつき最後はつえでエビを粉々にしてしまう。その音。生命の消滅(のメタファー)。老人は力尽き開けたままの冷蔵庫脇で寝て(逝って)しまう。
庭劇団ペニノの演出上の独創的な試みは枚挙にいとまがないが、リアルな舞台空間というものに今日は前半気になってみていた。細部に徹底的にこだわり本物を置くことで生まれているのは、現実への忠実さと言うよりも、映像的「解像度」の向上のごとき事態ではないだろうか。(同じ細部にこだわるポツドールの場合、それぞれのアイテムはペニノのそれよりもより記号的に振る舞っている)ぼくの目は、この舞台を映像での出来事のように見てしまう。魚をさばくシーンでは、まるで手さばきにクロースアップするように目がそこに釘付けになる。細部を十分に作り込むことが、本物らしさ以上にそうした映像的演出に似た知覚を可能にしている。そうしたリアリティの新しい次元はハイビジョン映像など新しい映像感覚から生まれている気がする。演劇がその内部で探究するリアリティのレヴェルをペニノの舞台美術は遙かに超えでて、いわば舞台そのものを映像化してしまっている、と思うとぼくとしてはあの空間性に納得がいく。
これは必見です。