Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

Fotodeath 極私的ベスト5(4/30付)

2009年04月30日 | 極私的ベスト5
grow UP! Danceプロジェクトが日曜日に最終日を迎え、終わった。ぼくは、なんだかとっても寂しい気持ちになっていて、ぼくのような立場だとこういうイベントに観客以外で関わることはそんなにないから(DCは別だけど、DCの場合にはあんまりこんな気分にならなかったのは何故だろう)、「祭りの後」的な空虚に苛まれて、翌日の國學院の講義の後に、古本屋でやけ買いをしてしまったのだった。

なんてことは、まあどーでもいいんですが、いまあらためてオルデンバーグ、ぼくのなかできてます。最高です。最近、UbuWebで「Fotodeath」の映像がアップされていることを知って、一層盛り上がってます。


Claes Oldenburg, "Fotodeath"

"Claes Oldenburg: An Anthology"を読むとこんなことが書かれてあります。


「食べ物と衣服の一部が経験の、過去や現在の断片であるならば、ストア全体やストアの住人は歴史的であった。歴史を、過去や現在を、「ストア」の内や外で実施されたパフォーマンスは、絶えず参照していた。『街のスナップショット』は、物と振る舞いのモードとの間の類似的な関係を移行すべく企てられた。ルーベン・ギャラリーで1961年の二月、「街路The Street」のエンヴァイラメントのなかで上演された『サーカス(「アイアンワークス/フォトデス」)』は、「輝く光のなかでのファルス劇」としてパフォーマンスが定義されうるのと同じくらい、あるものからべつのものへの一定の変容を証し立てた。
「サーカス」は「アイアンワークス」と「フォトデス」の二つのパートに分かれていて、日常生活のステレオタイプに基づいていた。その5つの活人画の行為は、同時に生じており、実際のサーカスのリングにおけるかのようであった。互いに交差しあったり、重なりあったり、これらのタブローは、その偶然的な性質のために、予期せぬ仕方で起こっているように思われるイメージを形づくっていた。それらのタブローは物語的ではなく、偶然的にことが起きた。その効果はドラマ的ではなく謎めいていて、絵画のなかの人物が突然話し始めたりタブローの上で動き回っているかのようだった。」(Claes Oldenburg: AnAnthology, p. 24)

「あるものからべつのものへの一定の変容」とは、例えば、3人がベンチに座っていて、その際に、彼らを写真に収めようとすると、ポーズを取っている内に、ぬるーっと3人がへたり込んでしまうそんな場面がそれだと思います。「Fotodeath」とは、「カメラが生きたイメージを捉え、イメージに死を与え、未来に向けてそれらに永遠の生命を与えようとする」(ibid., p. 27)という意味らしい。オルデンバーグは、レディメイドをあらためて制作してしまう、制作された「ファウンド・オブジェ」の作り手として興味をもっているのだけれど、それはまたソフトスカルプチャーだけじゃなくて、パフォーマンスにも反映していて、麻袋にひとが入り込んでいて、その後に、麻袋にスプレー缶を入れたりする瞬間などは、ものと人間の等価性を明確に証し立てているシーンだと思います。いいんだよなあ。

あと、(女性の)膝の部分だけの彫刻を作っていたりもしていて、彼は「絶対領域」の先駆者だったりもします。

London Knees (1966)

グロウ・アップ・ダンス

2009年04月22日 | ダンス
久しぶりです。

来る、金、土、日と浅草のアサヒ・アートスクエアでいよいよ「grow UP! Danceプロジェクト」が上演されます。捩子ぴじんの「sygyzy」、石川勇太の「Time Difference」の二本立てです。公演前から、あまり大げさなことは書かない方が良いのでしょうけれど、是非、楽しみにしてて下さい。2人とも、今後を注目したくなる作品が用意出来そうです。


詳細はこちらでご確認下さい。


今日は、石川のリハーサルを見学に行ったのだけれど、その前に、清澄白河のギャラリーを見てきた。小山登美夫のジェラティンは、予想通りおもしろいです。あと、伊藤存も、ヒロミックスも、遠藤一郎もみられてなかなか。あと、さらにその前に、午前中、編集の方と打ち合わせしていた。ようやく初校を手にしました。『フィジカル・アート・セオリー入門』。もう、すぐ、です。

ところでこの番組とても気になる。美の今日的展開(「バックラッシュ」?それとも)という意味で。美女でなければ人間ではないという美女信仰、ここに極まるって感じなのだ。

川染、秋山

2009年04月09日 | Weblog
4/7
夕方、大学で学生達と自主研究会KATの時間を過ごし(一人の学生がテレビに登場する「女性的な男性達」をマップ化してくれた。性同一性障害、オネエmans系、ニューハーフ系、おかま系などが見事整理させていて、今年度二年生になったばかりというのに、素晴らしい分析だった)、その後、円盤にて川染喜弘presentsを見た。ともかく、昨年の秋以来見た、秋山徹次のパフォーマンスはすごかった。少し暗くして下さいと、後ろの壁にチェ・ゲバラの旗を貼り付けた後に呟くと、目出し帽を被って秋山は新聞を読む。しばらくして、新聞を脇に置くと、次に目の前のターンテーブルを回しはじめた。レコードは二枚ともペコペコになっていて、針はうまく溝を刻めず、ちょんちょんと内側へ向かって何度か飛ぶと中心の紙の辺りで紙を引っ掻くだけになってしまう。その妙なスクラッチ音のなかで、秋山はしゃべる。詩のようでまた哲学的でもあるような、でも目出し帽の男の発言だから、すべてテロリストの声明のように聞こえてしまう、そんな言葉達。そうこうしている内、今度は缶で出来たガスバーナーを手にする、とそこにマイクを近づけその「スー」という音を拾わせる。でも「このままで済むはずはないな」と思っていると、その青い光をペコペコのレコードにあてていった。黒い盤に青い光が照る。美しく異常な景色。客席に笑いが漏れたのは、熱でぐちゃぐちゃになると思いきや、盤は次第に品行方正にというか平らになっていったから。あり得ない仕方で、時間が逆戻りしてゆがみが元に戻ったなんて、不可思議なイメージに戸惑う。けれど、また冷めていくと盤はゆがみだし、さらに一層溝は複雑に破壊され、針を拒む。なんてやっている間にも、秋山は時折平然と詩のような声明のような何かを喋る。ガスバーナーの音を拾っていたマイクは、今度は、青い炎の餌食となり、赤くなって、鉄の融けるノイズ音を最後に音が消え、それを秋山は脇に置いた洗面に浸け、水攻めに処す。炎にとろけていく機材達。融かす音と融ける音が一緒に音として並んでいる。残酷で官能的な、処刑のような時間。夜は、JR豊田駅から帰る。Aはいま豊田がお気に入りらしい。駅前のマックが大きくて、確かになんだか「アメ」っぽい。

極私的ベスト5(4/7付)

2009年04月07日 | 極私的ベスト5
ともかくtofubeatsが聴きたいと、ふいにそんな瞬間がやってきて、まだCDを手に入れてないから、じれったい気持ちになって、その場をやりすごして、それでもまた、ときどきPCの前でそんな気持ちがやって来ると聴いてみたりする。「やっぱいいな。」とまた惚れたのが今日なので、ネットに転がっているtofubeatsくんの音源を並べてみました。順位って、付ける必要ないんじゃないかな。なんだろ、彼の音源を聴いて、一度イベントで実際に目と耳で感じて、「2009年的な青春のかたち」を知ったような気がして、いま18才なひとがうらやましくなり、これなら18才やりたいよと思う。2/7付の「極私的~」でも
第1位でエントリー。

BONNIE PINK -A perfect sky (TOFUBEATS REMIX)

PARADISE GO!! GO!! -Party night (tofubeats house edit)

Perfume + Cherryboy function -the endless polythythm lovers

サイプレス上野とロベルト吉野 -Bay Drem ~From課外授業~(TOFUBEATS REMIX)

ウェザーリポートYATTA!

もってけ!Go Go Fine Day (tofubeats MASHUP)tofubeats @WIRE08 SUN STAGE

ちなみにtofubeats MySpaceにもいろいろと音源が。

4/5はSDにてsim+otomoを見た。変拍子ががつがつと体中に食い込んできた。simのよさがあらためて分かった。対バンのImai Kazuo Trio(今井和雄, 伊東篤宏, 鈴木學)もよかったな。今井さんかっこよかった。音楽が成立する仕方のようにダンスは成立しないものだろうか。とずっと考えていた。この日は、六本木に行く前に、gudpの公開中間発表のようなものがあって、ダンスの面白さと難しさにつきあっていたので、きっとそんなこと考えていたのだろう。音楽は、音が出てしまうとそれはすべて何らか音楽の成分としてともかく置かれる。ダンスだってそうなはずで、体が動けば、それがどんな動きだろうと成分になるはず。とはいえ、ダンスには明らかに、「これでは不十分だよ」と思わせる何かが残ったり、あるいはそんなものはなくてスコーンといったりする。そんなふうに、そこによし悪しの幅が存在している気がするのだ。楽器として見た場合身体はゆるくて、しっかりとしていないくて、音楽のようにはいかないということなのだろうか。ゆるさの幅というか、内実をもっとしっかり知りたい。また、案外と音楽のようにダンスも出来るのか知れない。大木裕之さんが数日前、トリシャ・ブラウンを意識したダンスというのをパフォームしていたのだけれど、それはそれはゆるかった。けれど、それでも成立している感じがあったのだ。