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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

スクラッチ=唯物論 ならばダンスは?

2005年08月28日 | Weblog
ジジェク『迫り来たる革命』をつらつらと読むのが最近の元気になる方法。

いやあ、簡単に言うと夏ばてなのですが、夜に暑くて夜中に頻繁に起きてしまう、と昼に力が出なくて、夕方にからっぽになると、近所の居酒屋で定番の品々を頼み、帰りに果物でも買って帰って、もう眠くて寝てしまうと、寝るのが早すぎて夜中に起きちゃって、、、っていうサイクルを日々送って意味なくくたくたなんですが、それもこれも夏のせいです。

それにしても、台風の晩はすごかったなー。窓開けたまま寝てしまって、水分をたっぷり吸った空気が部屋に充満して、フトンが「ずぶぬれ」になった、気がした。フトンの上でびしょびしょになってる夢見てたね、そのとき。

バリでは暑さなんて全然気になんないんだけどなー。山間部のウブドだと朝は驚くほど涼しかったりするしね。あの、動物や虫たちの遠い喧噪を聞きながら、ぼーっと過ごす朝、あーっ朝ご飯何にしよかな、その前にジョギングしよかな、散歩にしとくか、、、なんてあーいいなー、と現実逃避、ビューーン(現実逃避のときのスピードは速い)。いやいや、なかば来年の現実逃避のための書類を作成しているのだった。にげろー。ってそのために、やんなきゃなんないことが、なんと多いことか。

そういえば、23日(火)には、幸せなお二人と会食した(ハンバーグセット)のだった。なんと、結婚式の司会をお願いされてしまったのだ!!自分もまだなのに!お二人とも後輩にあたる、いいね。ぼくは儀式というものは、悪いものとは思わない。儀式は当事者の「顔」をつくっていく。新郎さんや新婦さんにひとをするのは儀式にほかならない。あ、じゃ、がんばらなきゃですね。もう一人司会者(女性、キーワードは「ミス東女(とんじょ)」)がいて、ダブルキャストなので、困ったら彼女に任せて、、、とすでに弱気なのだった!司会が一番頑張らなきゃならないのは、どうも二人の紹介のパート。で、二人のなれそめをあらためて色々と聞かせて貰った。楽しいやら気恥ずかしいやらのお喋り。でも、ね、聞いていると、いかに猛烈アタックが功を奏したかという結論になってきて、スゴイ勉強になりました。恋愛はどれだけ自分が思い込みして、それを相手に思い込ませるか、ですね。強い気持ち強い愛、ですな、うん、やっぱ気恥ずかしい話で。当日は、照れないで行くぞ!

さて、そうだった、「ジジェク」を冒頭に置いたのだった。ジジェク、面白いなー。元気がでる本だよなー。ジジェク→スクラッチ唯物論→ではダンスは?→ボクロール!と突き進みたい、と思って、さあ、だらだらと書いていきます!

☆(ブログでなんと章立て!☆の数でつくります)
最近のジジェクの本を読んで、面白いと思ってしまう話題は、『ファイト・クラブ』をめぐるものだ。

「『ファイト・クラブ』から得られる最初の教訓は、資本主義的な主体性から革命的な主体性への直接的移行など不可能だ、という点にある。他者の抽象性、他者のあらかじめの排除、他者の苦しみと痛みに目を閉じることは、まず痛みに苦しむ他者に直接手を伸ばす賭けという所作において、破壊されねばならない。そうした所作は、それがアイデンティティの核心部分を粉微塵にする。だからこそそれは、極端な暴力としてあらわれる他ない。」

殴り合う暴力を通してのみ他者と出会う瞬間がある。中沢新一は、レーニンが猫や子供の頭をなでるところに、他者と出会う瞬間をみていたけれど、それに比べれば相当に過激な提案だ。行き着く先は、テロの肯定?いやいや、あわてずに行こう。重要なのは、ひとつに、他者を抽象的にしか扱わないリベラルな主体に対して否を言うことのすすめだ。これについては、もう最近の日記でいろいろと「出川」とかで書いたのでいいと思う(→リベラル左派的な寛容、多文化主義的な寛容に対する批判)。それ以上に重要なのは、ファイト・クラブでの叩くという暴力(素人ボクシング大会)は、他者へのみならず自分自身へと向かっており、むしろ自分を殴りつけるというその真意の中に、ジジェクはひとつの賭をみている。

「まず自分自身を殴りつける(ぶっ叩く)ということだけが自由への途なのだ。こうした殴打の真の目的は、主人への固着に囚われている自分における何ものかを叩き出すという所作なのだ。」

自分をぶっ叩く暴走は、マゾヒストのサディストに対する優位を引き出す。主人の不要を突きつける。「服属」のシステムのなかに従属しているのは、マゾヒストではなくサディストである。デモにおいて、警察権力にもっとも上手く抵抗する術は、警察に向かって暴力をふるうことではなく、むしろ自分たちの間で暴力を始めることである。そう告げるジジェクは、ファイトクラブ的暴力を「暴力の美的爆発」と呼ぶのである。

☆☆
自分を自分から壊すこと、そこにもしジジェクの考えるところの革命の光景があるとするならば、さて、ぼくはいきなりここで目をターンテーブルなんてものに向けてみたくなる。

自分を自分から壊すこと、ターンテーブリストはこれをターンテーブルという機械とともに洗練させている気がするのだ。ターンテーブルにおける故障は、音が出なくなること、あるいはある一定の音像が聞こえなくなること、だとすれば、ターンテーブリストのトライアルは、この故障のさまざまなあり方に向けられている、のじゃないか。ツマミを「でたらめ」な方向で用いる。音はゆがみ、ときもはやそれが何のレコードの音なのか分からなくなる。さらにダイレクトにレコード盤にちょっかいを出す。手を押しつければ音は止まる。離す、と「ヴゥゥーン」と瞬間鳴って戻る。ガキの遊びじゃないんだから。いや、ガキの遊びに他ならないのだ、こりゃ。

で、この「ヴゥゥーン」って音、何だ?どこの誰がならしてんだ?レコード盤が、モーターが、ベルトが、ならしてんだよね。これ、誰によるのでもなく、ただ機械の仕業なのだよね。人間不在。そうここでガキが出会っているのは、「もの」なのだ。まったき「もの」。「故障」と「でたらめ」の間をすり抜けることは、「もの」に出会うことなんだよな。このこと、ターンテーブリストは知っている。段ボールとはさみだけでなんでも作っちゃうガキもこれ、知ってる。知らないのは誰?「もの」に出会うことのない人々。

ターンテーブリストの力量は、実は「もの」とどれだけ遊べるかに掛かっている。いい音楽を知っているとか、聞いている人を踊らせることができるとか、そういうことは、後からついてくるもの。重要なのは、「もの」の次元をどれだけ知っているかだろう。んーん、この辺り、細かい知識もないし、もし知っててもひとつひとつの彼らのトライアルを上手く文章化することは相当難しく、僕にはその自信がないので、上手く伝えられず歯がゆいのだけれど、DMCの優勝者のプレイをみれば一目瞭然の筈だ。彼らがレコード盤に手をかける。「もの」の次元があらわれ、彼らはそこでプレイ(遊技)する。手をはなす。すると、盤は一定のスピードで回り出し、一定の音像をならす。この音像は、観念の世界。『マトリックス』なら脳に埋め込んだ「配線」が作る世界。さあ、再び手をかけた。「配線」が引っこ抜かれる。現実があらわれる。現実はノイズだ。ただナイロンの「溝」をひっかく針の音だ。そこででも、さまざまな遊びがありうる。「配線」を引っこ抜いたり繋いだりの繰り返しで、音像があらわれては消えたりする。あるいは、新しいビートが生まれる。これは、「配線」の先の世界にはないビートだ。ならばどこに、ただこの「虚」の世界に、「もの」の世界に、ただリアルな世界にあるビート。

☆☆☆
さて、こう考えてくると、本質的に、機械を弄ぶことで「もの」の次元にいけるターンテーブリストに比べ、身体をもちいるダンサーは不利な位置に立っているような気がする。ヒューマンビートボックスとかあるけど。機械の次元にいたるには機械を模倣することによるというのは、やはり不利な気がする(それはそれで十分に面白い点があるとは思うけれど)。ダンスはついつい歌ってしまう。体が「もの」の次元に行くのを阻む別の規範とか快楽とかがすぐに入り込んでくる。

けれど、ぼくが精力的に日本のコンテンポラリーダンスをみるようになった最初の頃、『駐車禁止』のニブロールと『解剖実験地図』の手塚夏子は、本当に新鮮だった。それはいまのぼくからすると、「もの」になろうとする無邪気なトライアルだった。その「無邪気」さに打たれ、感動したのだった。
JCDNに寄稿した記事にも書いたことだけれど、『駐車禁止』のニブロールは、路上の機械に身体がなるときに、機械の擬人化ではなく、人間の機械化をもってなそうとした。手塚は、身体を機械のように一端スイッチをOFFにして、身体を機械にした。これ、考えてみると相当凄いことだ。だって、それ以降、こんなトライアルを試みた人たちはいないのだから。そして、この点についての評価はまだほとんどなされていないのだから。ニブロール=「キレる身体」なんて表現では、ニブロールをあまりに人間化しすぎてる、と思うのだ。そうではなく、「もの」の次元のダンスをひらいたことこそ、彼らを評するのに必要な視点ではないだろうか。

☆☆☆☆
ということで、ほっ、ここまできました。ようやく、『ボクロール』公演の話です。
一番印象的だったことから書くことにします。最後に全員で踊る上手いんだか下手なんだかわかんない、妙に楽しそうな踊りを踊っているところ。ぼくがあれ見ながら思い出していたのは、さっき書いた『駐車禁止』のカーテンコールで、ダンサー達が軽く踊った後すーっと消えていく時の、矢内原の楽しそうなやんちゃな表情だった。あれ、何故か凄く印象に残ってて、あの表情というかあの時間がぼくにとってニブロールだったりするのだ、変な話だけれど。あのときに戻ったような、あるいはあのときに戻しているような気さえする瞬間だった、な。もしそうならば、是非、本気で戻して欲しいです。ノスタルジーなどではなく。以上書いてきた通り、だってあのときこそが、ニブロールの賭けが際だっていた瞬間だった、とぼくは思うからです。

「chocolate」(振付・出演/矢内原美邦 出演/佐川智香)は、とても好きな作品だ。匂いを嗅ぐ。矢内原は、最初、椅子に座る佐川の頭の周りを手でなでるとその手を一人じっと嗅ぐ。佐川がその矢内原に関わろうとする、と矢内原は突っぱねる。一層自分の手の中に埋没する。他人と自分、の独特の今日的関係がこんなに切なく見事にトレースされたことはないのでは?と胸が熱くなる。ひとりよがり、ひとりあそび、のなかに(のみ)あらわれる他者。けれども、そういうことの切なさを反復して気持ちよくなる、なくてところに留まらず、どんどん行く。ユニゾンとか、激しく腕を上下に振るとかが魅力的なのは、上記した切なさを超えて、どこか「機械」みたいだから、ではないだろうか。切なさはまるで「かりそめの現実」のようで、それがあっさり機械的なレヴェルに押し切られる。逆に言えば、機械の身体が出現するための序曲のように、切なさはセミの抜け殻みたいに、あらわれればすっと消えていく。このバランスが何とも好きなのだ。

「ボクデスの『メガネデス!』」(作・演出・出演/小浜正寛 映像/高橋啓祐)は、簡潔に方法的に整理すれば、いまどきはやりのお笑いのやり口(とくにピン芸)を、どんどんダメな感じにアレンジしてみました、といったもののように思う。てことは、どうしても「批判的」というか「批評的」だったりする。映像に突っ込んだり、突っ込まれたりとか、色々なおもちゃメガネに突っこみ入れるとか。似てる、けどそうじゃなくてグズグズなんす、って身振りは、何か批評的に映りだしてしまうと逆に「勝っちゃう」ことになりかねないので、そこ、気になった。「高校生の学園祭で、流行のお笑いのまねごとしていながらスコーンと飛び越えて腹痛くなるほどわらかせてしまう奇跡を起こしてしまう高校生」みたい(!)なのを期待するのは、期待する方がおかしいのでしょうか。いろんなものをひろってひろって全部肯定してしまうような、それでももちろん巻き込まれる「あわあわ」感はいつもの通りで、っていうボクデスがみたくなってしまった。

それでも、ゲストの康本さんとか、LUKE+立石とか、小さい作品だけれど、個性爆発の玉が一杯打ち上げられたこの公演には、「ああ、もう、これでいいじゃないですかぁ」という気分に猛烈にさせられたのでした。こういう、ダメな学園祭みたいなフォーマットを猛り狂わせてみてみて欲しいと強く思ったのでした。

「国民」「日本」とは誰のことか

2005年08月22日 | Weblog
もはや「民主(主義)」など理念を謳うことには、意味がないというのか。イデオロギーが党の名前であった時代から、新しい時代に変わったということなのか。では、どんな時代に?「国民党」「日本党」この党名の意味するところは何か。

これは昨今の政治家が百人いれば百人言っている「国民の声を聞いて政治をやらなければならない」という言葉に即応している。百人百色の政治的立場をもっている「はず」の彼らは、当然、「国民」といったときに念頭に置いている顔は違うはずだ。本当は「ローカル」「特殊な」誰かを念頭に置いているはずなのに、「国民」という抽象語でその実相を覆い隠してしまう。全体をみているようで、実は部分しかみていない。部分しか反映していないのに、全体のためにしているかのように振る舞う。どうせならもっとはっきり立場を鮮明にすればいいのにと思う。社民党は、貧乏党でいいじゃないか。あるいはマイノリティー党でいいじゃないか。でも、立場を明確にしてしまうと、その立場とは別の立場に立つひとには見向きもされないということにもなりかねないのはそうなのだけれど。

それにしても、党名が「国民」とか「日本」て。選挙民に対して鏡像的関係であろうとしているのは(そう解釈できます、が)、恐い。わたしはあなたであなたはわたしで、ということなのか?この近接した国民との関係こそ、国民のためにという名のもとで起こる不安定なグルーヴを予見してしまう。明日戦争をするべきか否かなんて瞬間がもし仮に将来訪れた時に、国民の声を聞くなんてことするのかな。そんなことしたら、どういう危ない竜巻が生じることだろう。あるいは我々は国民と一体です、とか称して一直線で行ってしまうのか、恐い。この恐さは、イデーが欠如しているところにある。やはりカント=近代的主体の論理はいま放り捨てていいものではないのだ。民主主義の理念よりも、「国民」「日本」という鏡像関係の方が、いまの政治家にとって魅力的というのは、んーん、いかがなものか。

FUN! DMC

2005年08月21日 | Weblog
DMCを昨日(20日)見てきた。

まだまだ分からないことがたくさんある世界、まるでこれは異文化との接触?アロハシャツ着て、B-B0Yルックスの男の子達ばかりの恵比寿リキッドルームに紛れ込む。うあ、それにしてもDJって男の子文化だなー。女の子率一割未満のシーンなんていまどきそうとう珍しい。

バトル部門とシングル部門の二部門があって、六時から九時半までの長丁場、計17人のDJプレイを体験した。えっと、もし間違ってDJ畑のひとでここに来た人がいたら、これから書くことでごめん、おこんないでね。シロート考えだなーって笑って読んでね。いや、でも、ね、スゴイかんどーしたんだよ。それはともかくかいときたい、のだ。

バトル部門は、二人が赤と青に別れて交互に二回自分のプレイを披露する、「披露」というか、戦いなので、相手を挑発し罵倒しなぎ倒す。第一回戦は60秒、準決勝と決勝は90秒づつ。「バトル」というフォーマットで音楽を楽しむというのは、ヒップホップが見つけた粋なアイデアだと思う。「粋」ってまあお行儀の悪い四文字言葉のラッシュでもあるんだけれど(そういう発言の部分をレコード盤からつまんでくる、わけ)、それでも相手と一対一戦いあうというルールを遊ぶというのは、アート系の発想からはなかなか出てこないものだね。「アート系のダンス」というものからは、さ。でもね、そもそも、ダンスというのは兵士たちの訓練のなかから、あるいは戦いを別の形で行うためのものとして出てきためんもあるのだよ、なんだから、さ、、、と愚痴っぽくなってきた、カット!

そんで後ろの八人の審査員が赤旗か青旗をあげて即座にジャッジする。どこジャッジすんの?オレにも分かる?感じられる?って心配だったけれど、スキルのこととかわかんないなりに、「これはすごい!」とか、気づけば体が勝手に喜んでいるとか、そういうことが起こっていたりして、楽しめたし、ほとんど問題なかった。

自慢じゃないけれど、最初から優勝したCOMAのことは「いいんじゃない?」と思っていた。リズムのセンス、選曲の面白さ(ポップなものがちょいちょい顔出す感じ)、あと、体が乗れる十分安定したテク。決勝戦で闘ったHI-Cのテクもきっと相当スゴイものだったのだろうな。毎回衣裳変えて、冒頭には必ず、敵や観客をあおるギミックを入れる余裕をみせながら、ちょっとした密度の薄いところが気になっていたのだけれど、多分そこがCOMAとの差だったのだろう。

シングル部門は九人が持ち時間6分で行われた。後半は完全にばててしまったのだけれど、でもやはり優勝した威蔵はよかった。最初は、頻繁に盤を変えながら、自分で入れた?ラップをどんどん流す。それってDJでラップやりたいの?とやや消極的な気持ちになるが、後半はどんどん盛り上がってきて、もうフツーに彼のライヴ状態になっていた。「観客を巻き込む」というのをまさに体感した。やんちゃなB-BOYルックスがプレイと連動しているのも非常によかった。そうでなければ、ただのイキガリになってしまう、多分観客はそういうのを一番いやがるのだろう。準優勝のZOEは最後に出たディスアドヴァンティジにも関わらず、ほぼ一曲で観客を踊らせ唸らせる暴挙をみせ、それはまたまたかっこよいものだった。

んー、何を見て聞いていたのか、というと、多分、ひとりひとりの音楽観のようなものなのだろうな、とおもう。その新しさ、ユニークさ。ヒップホップ系のビートは確かに人気があったけれど、決してそれだけがイイというのではなくて、新しい発想の音には純粋な反応が起きていた。そういうの感じられたのは、よかったっすね。

もー、ほんとに男の子文化で、要するにスキル一直線の文化、だとはおもうのだけれど、そのスキルが実は新しい音へと向かってズレていく、はみ出していくことに捧げられていることは、特筆すべきことだと思う。瞬時に変化していくリズムの豊饒な炸裂は、非常に芸術的なトライアルに思えてくる。「芸術的」って、例えばぼくがずっと考えていたのは「セザンヌみたいじゃん」とかそういう印象だった。セザンヌの画面は、純粋に対象を最現前させることから遠ざかって、色の小さな面と面の関わりあい、そのテンションがどんどん変化していくスリルある画面だと思うのだけれど、そんな画面に似ていると思ったのだ。あるいは、キュビスム。いやいやもっと遡ってジャスパー・ジョーンズ?ともあれ、すごくデリケートなトライアルの集積にほんとに感動した。しかもそれが、はみ出しの瞬間を常に伺っていることにも。

そもそも、スクラッチってほんとに哲学的文脈からもっともっと語られるべきものだと思うのだなー。以前ここでも書いたと思うけれど、あれは唯物論だよ。観念論の決壊から顔を覗かせる唯物論だよ、レコードは何より溝なんだよ、音楽に奉仕する道具であるその陰では。と、レコード唯物論は、ジジェクを借りたりなんかして言語化したら、相当面白いこと言えるに違いない。

スクラッチとスクラッチの間にある音像が現実なのではなく、スクラッチこそが現実なのだ。「みなさーん、いま見ているのが現実でーす」(HG)ってな感じで、スクラッチこそが現実なのだ。フツーに鳴る音像は、この現実を知るために一瞬用意された安全な足場のようなもので、そこから即座にぼくたちは現実のなかにダイヴする、スクラッチのなかに。スクラッチだけじゃない、さまざまなツマミはこの現実に向かってひねられていく、のだ。

最近書いた、絵画における「ハイライト」とこの音楽におけるスクラッチは、多分重なる。なんて思いながら異様に興奮したり、して、DMC大満足な一日でした。帰りは、明治通りを渋谷まで歩いてつけ麺屋でおそーい夕食(10時過ぎ)。

16日と17日と

2005年08月18日 | Weblog
は、帰省→送り盆→兄貴夫婦の友人ジェイソンとおしゃべり→翌朝上京→「フィリップス・コレクション」(@MAM)→イデーカフェで初ヒルズ食(昼)→ヒルズ内徘徊→渋谷へ→「ギュスターヴ・モロー展」(@文化村)→タイ料理(夕)→鈴木ユキオ君の金魚「ミルク」(@麻布)と、長く熱い時間だった(あと、帰ってから対イラク戦もみた。ビデオで)。

最近どうも、パソコン依存症になっているよう。田舎にノートPCもっていかなかったせいで、随分不安な気持ちに苛まれた。いろいろと仕事のことで思いつくとパソコンの前にいないことが辛くなる。もっていても大抵は、開いたりしないのだけれど、開かないからといってもっていなくていいということではないみたい。

その間考えたことを少々メモしておこうと思う。

□「フィリップス・コレクション」でのこと、シャルダンの「プラムを盛ったボウル」を見ていた時だったろうか、そこに描かれたプラムやポットなどのなかにある「ハイライト」(細く白い線)が気になっていた。ああ、クールベの「ムーティエの岩山」にもそう思ったのだった、この絵は岬の断崖を描いているのだけれど、そこにはところどころ強い光の当たっている部分があって、真っ白のハイライトではないけれど、強烈な印象の残る明るい箇所がやはり気になったのだった。ハイライトは、勢いよく一筆書きで「シャッ」と引かれなければならない。それは絵から「浮いて」いる。絵のなかにあって、全体のトーンを逸脱する白。簡単に言えば、それは対象自体が光っていてよく見えない部分を表現している、とさえ言える。絵のなかにあって物が見えない部分、それがハイライト。けれども、面白いのは、ハイライトがあるのとないのとでは絵がまったく違ってしまう、ないと絵がしまらない。調和を逸脱するハイライトが調和を確固とした見るべきものにする。その不思議。じゃあ、ハイライト=現実的なもの?とジジェクばかり読んでいるいまの頭ではそんなことが浮かんでくる。表象の決壊としての、亀裂としてのハイライト。特異的な場所。ハイライトは光源に眼がもっとも接している場所。光源と物がもっとも近接している場所。その近さ。

→ぼくのダンスに寄せる期待というのは、このハイライトみたいなものなんだよな。必然的な狂気というか、象徴界をそうたらしめている現実的なものというか。一番画布を引き立てるものが表象機能を逸脱してしまった結果の光(ハレーション)だなんて、面白い。ダンスもまた制御を重ねた果ての逸脱をこそ目指しているわけだよね。だから、さ。


□モローの色彩は、鉱物的だ。あからさま、宝石を描いているようなところもあるけれど、そもそも色のあり方が宝石的なのだ。光を通す透過性や、そういう光と共にある色を凝固させているという物質性など。そう、透過性は、多分モローにとって相当重要で、もうひとつの透過性は、色と色の絡み合いの上にある、細い線で描いた細密画の部分に見いだせる。これが、これが実にいい。画布という肉体に描かれた入れ墨のよう。この線は色を囲む輪郭線の役目はしていない。色は色で勝手に線からはみ出し自分の形象を作っている(というか、線と色は同じものに向かった別々の存在、という感じ、「兄弟」というか)。このブレが互いにとって過剰なものになっている。

□鈴木くん(金魚)は、なんかもうとてもよかった。「ミルク」というタイトルはいろいろな含意があるみたいで、見ること、あるいは見る苦という意味もあるとのこと(プログラムによる)。でも、この見る苦は、猛烈に見たいと思う欲求に駆られた何かがあって、それに悩まされるとかそれがみられなくて辛いとかそういうことというより、いったい何が見たいのか見ている自分もよく分からないといったところにある「苦」のようだ。そのスッポヌケ感が、作品全体に貫かれていてそこがよかった、面白かった(そういえば、目黒大路くんのnude名義の公演でも似たようなこと思った、何にも有効活用されることのない肉体のもどかしさ、というか。ソウルの焼き肉屋、便所の脇でしばらくこんなことを目黒君と話したのを想い出す。韓国にいたからか軍隊が日本にあれば行き場を見いだせるかも知れない肉体の熱のようなもの、日本人のぼくたちはどうしたらいいのだろうね、なんて酔って、その間五人くらいソウルの若い女の子達が次々とトイレでクラッシュしていたのもいま思いだした! 閑話休題)。有意味な身体=飼いならされた身体に抵抗してはぐれた身体を暗黒舞踏が見出したとすれば、鈴木君のトライアルも暗黒舞踏と同じベクトルの元にあると言っていいのかも知れない。ただしはぐれた身体をきわめて方法的に引き出してくるのがこれまでの舞踏であるとすれば(和栗由起夫+上杉作品がそうだったように、そうなると技巧が際だち、むしろそこには立派なものが回帰してきたりする、そういえば、どこかのブログに久しぶりに「上等な」舞踏をみた、なんて言葉を誰かが書いていた、まさしくそういうことになる)、方法の露呈を極めて慎重に回避する。鈴木君のなかでこれはいい/わるいという基準やそこへむけた方法がないはずはないと思うのだけれど、けっしてそれを見せようとはしない。そこが実にユニークなのだ。もはやそういったスタンスは、鈴木君のキャラクターというか性格というか対人関係の距離感というか、をストレートに反映させているのではないか、とさえ思える。対他者の距離感を表現するのがダンス、という定義がこういう作品をみると浮かんでくる。ダンスって実はこういうものなのではないか。するとダンスは本質的に社交なのだ、と言いたくなってきて、、、というのが、ぼくの持論なのです。

鹿島茂対話集『オン・セックス』飛鳥新社

2005年08月16日 | Weblog
のなかで、鹿島が荒俣宏と対談したのは、ダンスに関してだった(「セクシー・ガールの誕生 エロティシズムは国境を超える!」)。

「はっきり言えるのは、二十世紀の初頭くらいに、女性が、自分自身の演出を、それまでの身分や知性や人脈の強調、つまり社交術から、今日言うところのセクシーな演出、すなわちエロティシズムに一気に変えたチャンスがあるんですね。誰が変えたかというと、これがダンサーなんです。つまり、あらゆる女性がみんなダンサーになってしまったといっても言いすぎではないというくらいの変わり方だったというのが、僕のずっと抱いてきた印象なんです。
 ちょうど十九世紀に、いまのダンスホールに似たようなものができる。ここには学生とか若い連中がぞろぞろやって来て、それまでの革命期くらいの社交ダンスじゃなくて、いまのタンゴに近い、お互いに情熱をぶつけあってコミュニケーションするエロティック・ダンスをやる。さらにもうちょっと経つと、男女がふたりで踊るんじゃなくて、一方的に女性が見せるダンスになってきた。あれによって、女性が社交術じゃなくてセクシーさで自分の全存在を相手にアピールするというノウハウを手に入れたんじゃないかという感じがしているんですけどね。」(荒俣)

社交の場からあからさまなエロティシズムが噴出する瞬間、を荒俣はこうしてスケッチしている。僕に言わせれば、もともと社交というのは、あからさまな欲望を隠蔽するためのシステムだったわけだから、全く別のものが出てきたみたいに言うのはちょっとおかしいと思う。つまり宮廷的社会での舞踏会の外では、農民達は猥雑なダンスともセックスともつかないような何かをやっていたのだから、そして両者は別物ではなく、通底するものだったわけだから(ワルツなんてのは農民のダンスが社者光の場に乗り込んできたものなわけだし)。

でも、社交ダンスから芸術ダンス(とりわけモダンなダンス)へというダンスの展開が19世紀にあったのだとすれば、もう一つの視点から、社交ダンスからエロティックな女のダンスへという展開もこの時期あったという事態は、非常に興味深い。肉体のダンスが花開いた、という意味では、イサドラ・ダンカンもショーガールも同じ(鹿島)、という見方がそこから生まれる。

まあ、眉唾な議論ではあるけれど、刺激的でもあるこういった話が読める、とは思わず、古今東西の性のお話をわいわい議論しているこの本を読んだ。性のお話はそれはそれで相当面白く、えぐい。気になって取りあげられていた『性技実践講座』(山村不二夫)『プラトニック・アニマル』(代々木忠)を購入してみたが、あまり面白くなかった。セックスというのは、肉体のことでありながら、かくも観念的なものであるのかと、そんな確認だけはちとしたりして。観念的だ、という意味では明らかに『催眠術のかけ方』(林貞年)が大層興味深い、のですが。もしさっきの言葉を「ダンスというのは、肉体のことでありながら、かくも観念的なものであるのか」と言い換えるとすれば、催眠術のことをひと(ダンサーや振付家)はまじめに考えたりしてるのか否か?などと思ったりする。大橋可也氏とか、さ。いや大事なことだと思うんだけれど、ね。

ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』岩波書店

2005年08月15日 | Weblog
を読む。まだ精読したとは言えないけれど、気になったところをマーク。

「パゾリーニの作品『ソドムの市』での糞を喰らう有名なシーンで言えば、実際に俳優が食べているものが蜂蜜と最上のスイス・チョコレートを美味しく混ぜ合わせたものであることをよく分かっていても、観る者への効果(もちろん嗜糞症者をのぞけばだが)は、嫌悪以外の何ものでもない。これがまさに真の「文化革命」が遂行されるべき方法なのだ。すなわちそれは「反動的態度の矯正」や「再教育」の努力といった個人を直接ターゲットにするやり方ではない。諸個人から「大きな〈他者〉」や制度的な象徴秩序といった支えを奪ってしまうやり方が必要とされるのだ。」

「標準的な「ラカン的」概念から言えば、概念としての現実とは〈現実的なこと(リアル)〉の作り顔(顰めっ面や気取った顔)である。言い換えれば、〈現実的なこと(リアル)〉とは、到達しえないトラウマの核芯すなわち〈空〉、面と向かっては直視しえない目誣いるほどに目映い太陽、斜に構え、脇から、歪んだパースペクティヴから観て初めて感じ取ることができるものであり、直接覗き込もうとすれば「眼を灼かれてしまう」ような、そうした何ものかなのだ。こうして〈現実的なこと〉は、象徴ネットワークの鎮撫をかいして、われわれが現実と呼ぶ「作り顔」へ構造化/歪曲化されている。それは、したがって、われわれが超越論的ネットワークをかいして対象的現実として経験するものへ構造化されているカントの〈物自体〉に、いかほどか似ているのだ。」

「唯物論的立場から言えば、〈物〉は、現実が決して均質/一貫したものではなく自己-二重(分身)化の切断につねに苛まれているという限りで、現実の空隙から出現する亡霊なのだ」


ところで、ひとつの書類を投函した後、ツタヤでアンガールズのDVDを二枚借りた(「ナタリー」「88」)。四、五年前テレビではじめて彼らをみた時には、彼らのねらいがよく分からなかった、なとちょっと自省しつつ、感心しきり。台本が実によくできていて、しかもそれが動きの連動込みで練り上げられている。ダメなやつが一層ダメなやつにやられる、といういったいどこでこんなこと考えついたんだ、という設定(こうなると二重三重にボケの転がりが起きる)。やはり「脱力」系の確信犯ですな。でもなによりすごいのは、みた後で体に感染してくるところ。田中くんの右手の「ウダウダ」な運動がうつってしまって、夕方の買い物中にAの前でやりたくなってしょうがなくなる。Aはアルバイトの帰りで相当疲れているのに。嫌われる。この「うつる」感じだけじゃなくてさまざまな点においてチェルフィッチュとの類似性を思わずにはいられない。



『土のなかの子供』選評

2005年08月14日 | Weblog
を読む、まだ『子供』は読んでいないんだけどね。選評の方が面白いのが最近の傾向と言うことで、まずともかくそこ読んじゃう。中トロから食べちゃうガキみたいに。

あー、いまやこれは単なる文芸批評ではないね。文学がどれだけ広がりのある役割をもっているのか、それを考える場になっているね。池澤夏樹も瞠目したという村上龍のコメントは、確かにいい。

「幼児虐待やトラウマ、それにPTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉は大手メディアのニュースやワイドショーなどによって一般化・陳腐化され、すでに手垢にまみれている。虐待を受けた人の現実をリアルに描くのは簡単ではない。虐待を受けた人は、大手メディアのニュースワイドショーとは別の文脈で生きなくてはいけないからだ。彼らは多様で複雑なコミュニケーション不全に陥っていて、他人との対応、現実との反応、自分への評価などに、微妙で切実で制御不能なストレスと不具合を併せもっている。他人には理解しがたいものであり、本人も理解できていない場合も多い」

「多様で複雑」なものが、一般化・陳腐化されていく世界にぼくたちは生きており、自分の生でさえほとんど「手垢」にまみれている。その不安、その恐ろしさ、「本人も理解できていない」のが自分自身の生であり、絶望さえも棚上げされているヒット感の乏しい日々。

誠実な小説家はには、こういうことを文学化することは不可能だと思わなければならない、というのが村上の中村文則への辛辣な批判。「そういう文学的な「畏れ」と「困難さ」を無視して書かれている。深刻さを単になぞったもので、痛みも怖さもない」

問題はこれだ、という発見からすぐにこういうことが文学になるという結論はでてこない。その真摯な事実認識こそがむしろ文学の役割なのではないだろうか。(これが最近ここのブログでの話題の中心なのですが、「みなさーんおげんきですかーたのしんでますかー」by陽水、ってかんじでききたくなりますが)

昨夜は、田舎に戻り、迎え盆をして今朝戻ってきた。その帰りのバスのなかでぶつぶつ考えていたのは、出川哲朗が消滅しない限りは日本はワイドショー的に世界の出来事を一般化・陳腐化させることをやめることはないな、ということだった。「出川」というのは個人の名称ではなく、「タレント」という名とは正反対の見せるべき技能のないただのひとがテレビのなかで群雄割拠して、学芸会をやりはじめた7,8年くらい前からの日本の(とくにテレビの)メディアの事象全体を総称するものとして挙げている。「おまいら出川じゃんかさー」って言いたいのよ、このさいいろいろなひとに(世間に)。彼の「モテない芸」や「おでん芸」はもちろん「芸」なんてものではなく、テレビ的にできあがったものの二番煎じ(ヘタなヴァージョン)に過ぎず、でも彼がそれを我が物顔でやることにぼくらは実は「安心」を得ているのである。「テレビ的なものをヘタに反復してればテレビ(あの世界の価値を支配する力をもつもの)なのだ、ああそうかよかったよかった」、というわけである。「ヘタ」であることは重要で、もう形式をなぞっていればこれでよし、ということだけをメッセージすることが出来る、うまいとうまい-へたの基準がもちこまれてしまうので、こまるのだ、レヴェルがあがってしまい、問題がズラされ、欲しいものが得られなくなってしまう。

この出川が消えるかどうか、2005年に日本人は出川という装置を捨て、本当の世界のなかに入っていく勇気があるのか(「本当の世界」とでも言うべきものが実体的にあるのかどうかということを言いたい訳ではない)。リアルなものにリアルに立ちむかう気があるのか。ぼくも含めて、そういうことがいま問われている気がするのだ。以前から政治家が使う「国民」という言葉が凄く嫌いだった。「国民主体の政治を!」と言われる時の国民はオレのことなの?誰?あるいはきちんと「ある誰か」になっているの?あんたの観念のなかで一般化・陳腐化されたしまった果ての「国民」なんじゃないの?実はいま政治家にとわれているのは、「国民」の定義のレヴェルなのではないか。もうその意味では、社民党や共産党は切ないくらい陳腐なのだ(本当に切ない、いまこそひとびとを「あっ」と言わせる大舞台なのに、、、)。


暴力

2005年08月13日 | Weblog
のこと等考える。小泉が解散を断行した日、元FMWのレスラー大仁田厚は、涙をこぼしながら、「こんなどろどろとしたものを国民に見せていいんですか」とテレビに訴えていた。こんな「真っ直ぐ」な身振りに相当いらだつ。でも、考えてみればこれもまた彼のレスラー的パフォーマンスなんだろうか、な。どろどろとしたものを露わにすることこそ、君のしていたことじゃなかったのかい、とプロレスファンじゃないぼくでさえも彼にひと言言いたくなる。彼がレスラー議員としてするべきことは、義理を通して誰かの言いなりになることじゃなくて(それはまたレスラーの引退後の職業である暴力団の「用心棒」を想起させもするが)、どろどろとしたものをまさに国民にあらいざらいさらすことじゃないのか。どこに電流爆破のラインがあるのかちらちら目で追いながらしかるべき瞬間に体をぶつけることじゃないのか、ただ、それをするためには相応の知性が必要なのであろうが、、、。

『サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍』をつらつらと読む。格闘技は、暴力の炸裂する瞬間を引き出す場であると共に、その暴力があっというまに消費され、別の出来事へと解釈されていってしまう場でもある。暴力は物語を吹き飛ばし、また、物語のなかに消えていく。そこでひとは暴力という不安の源泉を待望し、それを隠蔽しようとする物語の出現に怯える。


ぼくらは暴力の瞬間を回避する装置にいらだっている。回避できたのだからいいのではないか、とどこからか声がする。自分の声のように思えて一層いらだつ。本当に欲しかったのはこの装置ではない。けれど、いつか、暴力から逃れる恐怖と快楽の疾走をサポートするようにこの装置が不意にあらわれた。気づけば、暴力は消えていた。この装置がすぐにそれを処理してしまうからだ。一瞬あらわれると途端に秒殺される暴力の残像だけがぼくらにわずかに与えられる。

すべてにおいてこの装置がぼくたちの生を安定させ延命させそして意味の乏しいものにしている。

成るちゃんネタで言えば、彼がやたら言及するMIDI(すべての音のブレをデジタル的に整えることの出来る装置)は、まさにどんな下手な歌手も歌手にさせてしまう装置であり、ノイズはきわめて意識的に削除され、下手な歌を聴くと起きる不安な気持ちを回避することに大きな貢献を果たしている。そして音楽はつまらなくなり、音楽を聴くという行為からぼくらは遠ざかっていく。あるいはあらためて新譜なんて聴く気持ちは起こらず、ひたすら一昔前の音楽ばかり聴くことになる(A、要するにこういうことなんだよ、古い音楽ばかり聴くのはぼくがおじさんになったからじゃないのだよ、、、)。


さて、ここからが本格的な話になるのだけれど。


暴力が足りない、といういらだちが、ぼくらに暴力を希求させる時、危険なのは、ぼくらが何かに対して「これこそ暴力なり」と同定したくなる欲望を抑え切れないと言うことだ。ぼくらには暴力は同定できない。これこそが真の暴力だ、世界に一撃を与える真理だ、と確信するのはエクスタシーをともなう出来ことだろう。そのエクスタシーは、僕らには本当は暴力を同定することは出来ないのだと言う事実を忘れさせてしまう。あるいは、このエクスタシーは毒でありまた依存性のあるものであり、本当はこれは真の暴力ではないということに気づいていながらも、決して目覚めることができず、むしろ覚醒を隠蔽しようとする力を帯びることがある。寝ていれば夢が真理だ。そこに逃避したのが、「オウム真理教」といってもいいけれど、多分オウムを代表としたあらゆる人々がその時そうであったと言うべきだろう。

ぼくらは暴力を激しく希求しながら、それを自分の手で同定することから徹底的に逃れていなければならない。


ジジェクと中沢新一『はじまりのレーニン』を読んだ化学反応の結果にて。

諸々の本

2005年08月12日 | Weblog
萱野稔人『国家とはなにか』以文社
日野晃+押切伸一『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』白水社
菊池成孔『サイコロジカル。ボディ・ブルース解凍』白夜書房
後藤明夫編『Jラップ以前~ヒップホップ・カルチャーはこうして生まれた~』TOKYO FM出版

久しぶりに渋谷に出て購入。まだ流し読みだけれど、どれも非常に面白い。

「私たちがますますもって必要としているのは、

2005年08月11日 | Weblog
私たち自身に対するある種の暴力なのだということです。イデオロギー的に二重に拘束された窮状から脱出するためには、ある種の暴力的爆発が必要でしょう。これは破壊的なことです。たとえそれが身体的な暴力ではないとしても、それは過度の象徴的な暴力であり、私たちはそれを受け入れなければなりません。そしてこのレヴェルにおいて、現存の社会を本当に変えるためには、このリベラルな寛容という観点からでは達成できないのではないかと思っています。おそらくそれはより強烈な経験として爆発してしまうでしょう。そして私は、これこそ、つまり真の変革は苦痛に充ちたものなのだという自覚こそ、今日必要とされているのではないかと考えています。」

『ジジェク自身によるジジェク』河出書房新社より、ジジェクの言葉。この意味においてのみ、ただしこの意味においては最大限に小泉純一郎を支持します。

見る人になってしまってはいけない

2005年08月11日 | Weblog
しばらくブログサイドを逃避しながらぶつぶつと呟いていた。

ぼくは見る人になってしまってはいけない。劇場の椅子に座ってても、ぼくのからだは動いている。このことを忘れてはいけない。スペクテイターであるよりはプレイヤーでいたい。ここに、ぼくにとって決定的に重要な分岐点がある。見る人の立場にあるときでもそこでプレイしているのでなきゃぼくはダメだ。

批評家的なスタンスはあまり好きじゃない。バルコンから見下ろしているような人間にはなりたくない。優れたものが見たいという感覚がぼくには分からない。優れていても何ら感動を誘わない単調なものは幾らでもある。その点料理は正直だ。どんなに高くても「美味そうな味」は不味いのだ。美味いものは「美味い」とただ突き抜ける。そこ、つまり感覚、ここにいたい。ここにいたいだけなのだ。

絶望的に美しい光景が電車で一時間の距離にある

2005年08月10日 | Weblog
ことなどつゆ知らず、気軽に夕方から夕涼みのつもりで(息抜きのつもりで、二人とも朝六時からワープロに向かっているので最近)行って、驚きました、ただただ感動しました。片瀬江ノ島から歩いて5分。eau cafe。夕暮れがいい。サーフィンしているひとたち、浜辺でギター弾いている男の子集団、白い水着とメタリックブルーの水着の女の子達と水かけっこしている男の子(こんなことしていいのか!)。夏の浜辺のいいところは、肉体が肯定されていること。自然にビキニ姿で、男の子は裸で闊歩している。その美しい体を無邪気に誇示する、ぶくぶくした体は無言で却下される、そんな残酷がオッケーな希有な場所。そんな正直でいいのか、そんな率直でいいのか、ここでだけ許される絶望的に美しい光景。

久しぶり!4

2005年08月10日 | Weblog
まだ、写真ある?あったあった。今回の帰省(いやいや「夏のおもひで2005」)のピークは実は海じゃなかった。午後に一端家に戻ってあらためて海の近くのプールに行こうと水着を探していたらぼくの分だけなくて、いじけている内にただただ家の中が暑くなってきたので、知恵を絞って、「庭でバドミントン+芝生の水まき」を提案し、可決されるとAは水着で水まきをはじめた、その時がピークでした。なんか、「あめりかのこうがいのこうふくななつのいちにち」みたいで、嘘みたいな楽しい時間だった。その写真はあいにくないので、代わりに、これ。あ、その後水着は見つかってあらためてプールで快泳したのでした、それも気持ちよかったっ。


いやあ、長い休みでしたね。ブログ。ありがとう「全力少年」!しばらく自分のブログ見ない日々を過ごしてましたが、ひとつ要件があって開けたら君のメッセージが。率直に嬉しかったッス!そう、カントもダンスも興味なくて全然オッケー。またこれからも気軽に覗きに来てね。あ、どんな記事が楽しいか教えてくれれば、「あてがき」するかも。よかったら、ひそひそ伝えて下さい。

多忙、ということも更新が滞った原因ですが、、、
ときどき、自分の快楽を忘れてしまう時があって、そういう時と言うのは、一見するよりもヘヴィーな状態なんですね。自分が何を好きで生きているのか、何を尊重して愛して生きているのか、見失ってしまうというのは。まあ、大抵、田舎に戻って、テキトーに車であちこち走っているうちにリカバリーしてしまうのですが。

サッカー見たこととか、オトギノマキコの好演のこととか、山賀さんの感想とか、和栗さん初めて見た感想とか、いろいろいろいろと書きたいこと、書くべきことが残されたままなわけですが、後日、いつか、気長にお待ち下さい。

久しぶり!3

2005年08月10日 | Weblog
どんどん行きましょう。こいつは、その雀島周辺の海岸で捕まえたカニです。砂だらけになってますが、彼の本意ではないでしょう。「磯」というにはおこがましい小磯がありまして、そこでフラフラしていた奴です。磯は、フジツボがつくる岩の無数のくぼみとか、「かたち」「もよう」の宝庫です。そんなものを飽きもせずに見る時間がぼくは好きです。いやあ、好きですね。ここは、先程も申しました通り、写真撮影のメッカでもありますから、そのことを知っているオタなひとたち三人組がぼくたちが小磯にいかれているときに、おねいさんを連れて撮影会をやってました。三人組は全然おねいさんに話しかけません、仕方ないので、おねいさんは楽しそうなフリで磯で遊んだりしていますが、不憫だしなんか不快です。わけのわからない望遠レンズ撮影とかしてます。「盗撮」しかできない輩なのかも知れません、せっかくモデルを雇ってもこの有様です。いや、お金払って合法的な盗撮をしに来ているのかも知れません。そんなこと知りません、ぼくは、ぼくは小磯の「もよう」に夢中なのです。波が去った後の浜の「模様」にもいかれてしまいます。今度は、キャンプ場から若者達20人くらいが波の荒い方の浜に来て、びしょびしょになって遊んでます。リビドーが上がっていくのが分かります。これもそれも全部、海のなせる技です。

久しぶり!2

2005年08月10日 | Weblog
そういうことで、夏の思い出、ということで、画像をクリックして大きくしてご覧下さい。ブルーギルはクリックすると原寸大を超えてしまって、「あいつ大物釣りやがって、、、」と余計な羨望を引き起こしかねませんので、言っておきますが、15センチくらいのものでした。バス釣りの外道です。でも、イイ奴でした、オレと遊んでくれましたから。Aは「大物」と呼んでくれました、無邪気です。

で、これは秘密のスポット雀島周辺の海岸です。ここに行く秘密の小道には、日本のセクシー写真集の五割はここで撮られているのではと言われている有名なスタジオがあります。そこのセットは車から見えますが、日本とは思えません、地中海?そう、ここは日本とはちょっと違う場所です。