Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ポスト・シアター(@BankARTstudioNYK)

2005年10月31日 | Weblog
の公演を見た。

「SkinSITEs」
15分ほどの作品。会場の駐車場にある青い鉄の扉。それがスクリーンになる(正確には、扉は取って代わりにスクリーンが貼ってあり、そこにもとの扉の映像が映っている)。縦長の扉がスクリーンって、奇妙だけれど、日常のなかに映像が貼り付けられている感じは凄く面白かった。基本的に映されるのは、人間のからだ。ぐちゃぐちゃに複数のからだが絡まり合ったり。ひとりの女性がはだかでウロウロしていたり。最後には、その女性らしきからだがスクリーンに直にめり込んでくる、すなわち、スクリーンはゴムのようになっていて、裏から体を押しつけスクリーンが凸になるのだった。「痛快」に見えるはずのこの試みは、しかし観客が正面からそれを見ていたために十全な効果は起こせなかったというべきかもしれない。でも、映像の可能性が随分クリアになってきた、と思わせた。スクリーンは、どこでもいいのだ!と(この点、横トリに展示してある高嶺の作品にも該当するわけだ、砂場をスクリーンにする、っていう)。

「6フィート・ディーパー」
五メートルほどのスクエアな空間を縁から眺める。といった会場がやはり駐車場に作られていて、そこに移動。舞台?には砂が敷かれていて、そこから突如女性があらわれる。墓場から出てきたゾンビー?ロイ・フラー的な衣服のダンスをみせる、多分これはカウボーイのアトラクションの一つのようだ、砂=砂漠と同様、北米西部の世界を感じさせる。さて、次に現れたるは「鞭」。なにすんだろと思ったら、激しい「バンッッ!」の音。銃声のようなそれは、鞭から発せられたものだった。そこから15分ほどはひたすら、この音の恐怖に観客は怯え続けなくてはならない。基本的には、観客に害が及ぶことはないという暗黙の約束事を唯一の頼りに、しかし命に関わりそうな激しい鞭の音と運動は、あまり「しゃれ」になっていない。感覚を脅かす作品、ということになるのだろうか。カウガールな風貌の女性の魅力とその鞭の激しさとが、アンバランスにぼくを刺激(いたぶり)続けた。あーこわかった!

NAKANIWA DANCE PERFORMANCE(@横トリ)

2005年10月29日 | Weblog
で、手塚夏子、たかぎまゆ、中村公美のパフォーマンスを見た。

午後の一時頃から約三時間、手塚はときにたかぎまゆと絡み、また五十メートルほどを往復して後ろ向きにゆっくり歩くことをしたり、また三人での即興を行ったりしていた(これは見た)、らしい。
いや、ずっと同時進行でやっていた中村公美に釘付けだったんです。まさに、釘付けの二時間ほど。
ともかく、彼女にとって「相棒」である直径30センチほどの白いビニールテープをときにほどいて風にはためかせたり、次第にもつれてきたそれをほどいてみたりなどなど、ただただそれに没頭する、それだけの二時間。なのだけれど、これだけ「ダンス」を感じさせる時間はあるのだろうかと思う、ハラハラドキドキの二時間。長回しを多用する映画みたい(アンゲロプロスかよ、とぼくは一人呟いていたっけ)で、ともかくそこに起きる出来事のひとつひとつが偶然であり真実であるといった気持ちにさせられる。今回テープだけではなく「風」もなかなか「いかした相棒」だった。勝手に風は二重にテープに円を描かせ、その二つがユニゾンを踊っていたりする、それを見もせずに黙々と中村は自分の「テープをしごく」作業に夢中になっていたり。そういう一見ありふれた時間はしかし、実際はあまり生きていて見ないものだ、舞台なんてところではなおまず見ることはない。「偶発事が実に生き生きとしている」そういう時間。それは希有な彼女の「全開」の姿勢があって果たしうるものであって、人間はそうそうそんな「全開」はしないから、凄い決定的瞬間をとりのがし続けている、のだきっと。
でも、これが「ダンス」ってどう説明すればいいんだ!!でも、ぼくにとってそして多分中村にとってもここにこそ濃厚にダンス的な時間が充満していると思わずにはいられないのだ。

黒沢美香&ダンサーズ『Jazzzzzz-dance』(@慶應義塾大学 日吉キャンパス)

2005年10月27日 | Weblog
をみた(10/26)。

最近、日記が滞っていますが、急に降ってわいた仕事で多忙を極めています。でも、不慣れながら非常に楽しい日々です。はじめてインタビューなるものをしており、インタビュイーには失礼をしていることもあるかもしれないのですが、色々とこれまで聞けなかった話がじっくり聞けて、充実しています。

で、
夕方ノートパソコン片手に会場へ、一時間ほど日吉の喫茶店でパチパチ打った後、みてきました黒沢美香&ダンサーズ。
公演をした「往来舎イベントテラス」という場所は、ガラス張りで天井高で「さっすがケイオウ!」と変なつっこみ入れたくなるような空間。
公演のことは、体力と精神力の都合で、簡単にしか書けませんが、「ピンク」の若手三人と以前80年代に黒沢美香&ダンサーズでやっていたおねいさんたちで構成する10人ほどのグループと黒沢美香一人とといった三グループの構成になっていて、とくに、おねいさんたちのグルーヴには打たれました。ひょうひょうとして涼しげで激しい。挑発的で探求的。一筋縄ではいかないものというのは、実に魅力的なのです。ダンスをつかまえようとするゆるい腰の動きとか、実にダンシー。

最後に、クレイジーケンバンドの「発光!深夜族」をバックに踊った時は、さすがにプルプル来ました。感動しました。後ろの方で、でっかいくまのぬいぐるみにヒザ落としくらわしていました、黒沢。

ボクデス『モノリス棚卸し~ワークインプログレス』(@BankARTstudio NYK)

2005年10月22日 | Weblog
を見てきた(10/19)。

ボクデス本人は「モノリス」に模した白い箱の中に隠れ、故に基本的には舞台にあらわれず、その代わり箱から操作しながら、電気仕掛けで様々な「モノ」が動きだす、それがパフォーマンス(本人はダンスではないと言っていた)といった作品。レコードプレイヤー(人形の下にプレイヤーが置かれ回転すると糸で繋がっている人形がクルクル回転する)とか、扇風機(上に日本人形がのっていて、扇風機の首が動くと「見返り」する)とか、掃除機の巻き上がるコードとか、他には本物の亀が出てきたり頭上から大量のスーパーボールをこぼしたり。テンポ良く次々いくのではなく、間の悪いズルズルした進行、スポットライトなしで、横幅の長い空間で小さいオブジェ達が突然動くので、ところどころ見えない人続出、など決して要領は良くないが、ある意味ではそういうところが頗るボクデスらしい。「ダメ身体」ならぬ「ダメ人間」(ってどこかのブログで読んだ気が、、、どこだ?)って感じのボクデスの「風情」を味わう、まあ観客がそういう愛情を振り絞らなきゃ見られないモノなんですが。そういう母性本能?みたいなところにツボおいているってことなのか、、、?

ナカニワ・ダンス・パフォーマンス(@横浜トリエンナーレ)

2005年10月17日 | Weblog
を見た。

ここの会場のテンションというか、倉庫とその周りのひらけた空間という条件が生むものというか、観客に集中を求めるのは酷なのだ。そこで、手塚夏子のソロのパフォーマンスがはじまった。二時過ぎ。どうにか雨の止んだ曇り空の下風が吹く中。

どうしても遠くから見るのは、キツイ。なのに観客の円陣は遠巻き。被った紙袋には二つの目と二つの耳が貼り付いている。それを、時折はがしては背中とか、スカートの裾とかに貼り直す。残念なのは強い風に端の捲れる紙の目が、「目」であることをきちんと表現できていないことだ。そこに目がついているのかあ??と猛烈な違和感に見ているからだがよじれるってな感じになれたらよかったのだが。

一時間半後、室内で、手塚夏子+Abe“M”ARIA+尹明希が、Erehwonと松本じろの演奏をバックに即興共演。本当にダンスは、踊り手の性格(気持ち、考え方全般)が出るなあ。そういうとこ、ひとは見ることになるのではないかな。この三者は、本当に異なる三人。手塚の場合は小さな動きが全身で同時多発する、だから「より」でみたいひと。Abeは対照的に速い動きを全身を使ってやる。体をもみくしゃにする、しかもどんどん移動する、だから「ひき」でみないと受けとりにくい。尹はその真ん中あたり、柔らかい動き、集中しない動きが中心で見ているこっちとの距離は曖昧で変化しやすい。三者ともこういう風に異なるパースペクティヴを観客に要求している。それがさほど広くない空間でぐしゃぐしゃに交錯していく。こういうバトルは、積み上げていくものではないから、繊細な評価は難しい。けれど、興味深かったのは、そうした交錯のスリルがところどころ炸裂したからだろう。デリケートな、外からの刺激に過剰に敏感になっている手塚がのばした指を、尹が握った瞬間なんかは、手塚の動揺がこっちにも強く伝わってきて、小さな出来事に大きなドラマを見た気がした。


夜になる前に、野毛の三陽へ。客が少なくて、なんかしみじみヴァージョンになってしまった。それでも、大将はすかさず、一本ビールを注文させてきた。気づいたら飲んでた。

ラボ・セレクション2005

2005年10月16日 | Weblog
は、やはり、時代を担うダンサー(振付家)たちの踊り場だった。すくなくとも、次代のダンスのありかを探るトライアルの場だった。

考えてみれば(パンフにあったことなんだけれど)、ほうほう堂と金魚って去年のラボ・セレクションに出演していた二組は、トヨタでオーディエンス賞取ったりしている訳なんだよな。ここで活躍できる人が今後のシーンで活躍する人って言うのは、たぶんあんまり間違いではない。


Aプロ
ひろいようこ「状態系」
ふたつ、前半はスカートの前につくジッパー、後半は一人用鉄棒。これと関わる身体に何が起きるか。ジッパーは上下させ開閉するシンプルな運動しか与えてくれない、ので身体にハプニングを起こす(身体が興味深いものになる)余地がすごく薄い。そこが残念。激しく上下すればそれだけ、身体はその上下運動に集中し、その分従順にならざるをえない。後半、一人用鉄棒があらわれ、ひたすら前回りを繰り返す。ときに、斜めに入った補強の棒などがつくる三角形の枠に身体を突っ込んでくぐり抜けたり、これらを素早い動きでやろうとして、それが速やかに行かない分、やろうとする「意図」に観客の気がいってしまう。そして、観客はその動きを「意図の不達成」と解釈して済ませてしまう。15分ほどそれが続いた終幕あたりになって、「からっぽ」な状態が少し出てきた。「意図」など気にせず、リスやネズミの動きを眺めているみたいな気持ちになってきた。ここまでくるといいんだよな、ここまで。

得居幸「ねぇ、ウエイター。」
松山発ダンサーの一人。彼女も松山グループの一員らしく、非常によく体が動く。連続する流れの中に「ストン」と入る中断が実にデリケートでかつ個性的だ。小さいネタがところどころダンス的な魅力へと転がる時がある。手のなか親指と親指で会話を始めたと思えば、口論のようになり、その激しさが体全体に向けて増幅する。会話の声の高ぶりあわてたセリフ回しにぼくの体は勝手に笑い出す。ここは面白かった。もっともっと用意したネタがある必然性をもってダンスへと進展していけば、その打率が上がっていけばいいのに、と思う。

ホナガヨウコ「naino」
ドラマーとの共演。ホナガは、鈴木ユキオ主宰の金魚に参加しているダンサー、ひょろりと長い手足とまっすぐの切りすぎの前髪が印象的。ホナガは弾くと映る映像と共にキーボードを弾き、また時々踊る。音楽と映像と身体。その渦が観客とのコンタクトをとるものにはなっていない。けれど、そういう関係が彼女のコンタクトの仕方だとすれば、単純には否定できない。投げてくるボールは真剣だ。けれど、そのボールは彼女の目の前50センチのところでバウンドしている。そのボールにどういう反応をすればいいのか。この「薄さ」の意味がどう今後展開していくのか、悩ましいがそう思うと端的に「つまらん」と言い切ることが出来ない。


Bプロ
捩子ぴじん「振子」
暗黒舞踏の方法のなかには身体を細かくコントロールしていく側面がある。たぶん、彼はこのコントロールに強い興味があるのだろう。身体の動きのなかにも、また顔の当たりが白く飛んだ写真が振り子になって揺れるというオブジェも相俟って、タイトル通りの「振子」のイメージが散らばっている。あるいは少し大きめの積み上げたブロックを崩すといった「崩壊」のイメージも。ただその不穏さはすべてコントロールの中にある。すべてはしつらえられた出来事。と思うと傍観し始めるぼくの身体。たぶん、このコントロールの果てに過剰なコントロールの果てにあるものに興味があるのだろう。そこに何が待っているのかについてはみてみたい。

山賀ざくろ「ヘルタースケルター」
スカートをはいた金髪の男、それがブリッコな振る舞いを見せつつ踊る。一曲踊った後、突然はにかむような、「きゃっきゃ」。観客がどっとうける。ここが一番良かった。そこからさらに、曲なしの踊りにいくところ。曖昧な展開が見るものを集中させる、なに、今なに(どんなシーン)?みえないって感じで。或る独特の屈曲(まがり)がもうすでに山賀ダンスというか山賀節になっている。それがもっとポップになれば、これはホントに来年が楽しみになる(あ、来年の前に、来月頭「踊りに行くぜ」前橋編に出演するそうです)。

大橋可也&ダンサーズ「サクリファイス2」
夏に見た初演の方がからだにきた。今日は空間が狭いこともあってか、ダンサーの振るまいが大きすぎて、むしろ見えにくくなっている。クールさがなくて、わざとらしさがむしろ漂う。んー、公演内容に対して舞台空間の狭いことがやはり問題だったように思う。


諸々の渦が

2005年10月14日 | Weblog
ぐるぐるぐるとぼくを巻き込もうとする前夜、そんな気分。
うまく、いけいけいけ!と静かに叫ぶ。

デリダのことを考える。彼の美学批判と彼の死の思考がクロスする地点に静かに足を留める。留める。

10月、どう過ぎるかこの二三週間、まず元気でなけれゃ、でもそれがちと出ない。

昨日は、講義の帰りゆっくりと町田の丘陵を下っていった、夜の暗さがここちよい、やっぱりフィッシュマンズがふさわしい。こういうときにこそ、初心というか自分が何を大事にしているのかとかを思い出すのだ、俺よ。闇の中にほの見える街明かりみたいなそれを。

明日は、横浜STスポットでラボセレクションがあります。注目のダンサー達が目白押しです。夏にぼくが推薦して公演してくれた山賀ざくろも出演します、七時から。是非、足をお運び下さい。ざくちゃんから元気もらおっかーな。

『モーターサイクル・ダイアリーズ』

2005年10月12日 | Weblog
を見た。若き日のチェ・ゲバラの映画。

南米一万キロの旅。ロードムービー。元気になる。はちゃめちゃな旅の終幕にあるのは、ハンセン病をめぐる問題、患者のあっち側とこっち側を繋ごうとする若きゲバラに、彼の「発端」を見て取る、べきなのかもしれない。けれど、ともかくこの映画で圧倒されるのは、南米の深いひとを拒む自然のエネルギー、だろう。あと、ことあるごとにパーティーして、踊るひとたち。

こういうの貸してぼくを放浪の旅に送り出したいのかい、学生Yくん、そしたら休講になる?いやいやいつも最前列に座る君はそんなことおもっちいないよな、そんで旅好きはどうも君の方が上手かも知れない、ね。これからも、よろしく。

Miyako Kato Dance Space 2005

2005年10月09日 | Weblog
を夕方見に行く(@スペースゼロ)。
美術を担当された三輪美奈子さんから朝電話が掛かってきたのだ。三輪さんは、ぼくが以前谷川渥先生とヨーロッパ旅行に行った時の同伴者のお母さんで、それ以来のおつきあい。ピアノ線をグルグル巻きにして巨大な繭のような作品を以前はつくってらした。結構好きな作風。忙しい時ほど、そこから逃げたくなるもので、公演後には慶應大学で学会の2日目に行くこともあり、予定より少し早めに出かけたのだった。

二本の作品が上演された。『WAVE』はその名の如く、一人のダンサーが体で揺らぐ。なんか懐かしい感じだなーと思ってたら、案の定25年前(1980年の初演)の作品だった、というオチ。25年前はこんなんだったんだね、とお勉強。ダンサーは立花あさみ。そつなく踊る、見ていていやではない。でも、飴なめたいなーと思って佐久間ドロップなめるような、不味いわけじゃないけどいまさらな気がしてくる。『夢のかたちvol.?-傾く空-』(新作)は、若いダンサー(十代?)が10人くらい、あと年長のダンサーが10人、加藤とピエール・ダルドといったメンバー。沢山出て来る。タイトルにあるように「夢」というキーワードでいろんなシーンとか、衣裳とか、振りとか作られているのだろう。そのイメージのレヴェルが「絵」として舞台空間に展開されるものの、それはダンスではなく絵でしかない。またその絵の奇怪さも、ありがちな奇怪さの反復で、何をどこを見ればいいのか分からない。絵に描いた餅なのだ。餅食いたい、とこういう時思う。いや、難しいことは言わない、ダンス見せて、と思う。その点、加藤さんの動きは、正直踊っていない。黒沢美香と比較してしまうぼくの目が、そう言う。それに引き替え、畦地亜耶加は光っていた。驚いて首ごとのけぞる時の、のけぞりだけでも見応えがある。以前、伊藤キムの公演だったか(?)見たことのある、その時も印象的なダンサーだった。彼女を見ることが出来たことが、今回の収穫だった。踊りの勘を感じるダンサー。

美学会全国大会へ、美学の終焉をめぐるシンポジウムがあった。こういうシンポジウムや研究発表や公演後のアフタートークなどでの質問コーナーでしゃべるひとが興味深い。そこに、問うべき感性論がある気がする。たぶん、ひとの話をずっと聞いていて、聞く立場よりも相手の側の、何かをする立場にシンクロしてしまい、自分も何かパフォーマンスしないわけにいかなくなるのだろう、なんて思う。質問じゃなくて自分語りになってしまうあたり、気になるなあ。

夜はチャオ・バンブーで晩ご飯。三十分待ったか。でも、グリーン・カレー美味かった。甲斐あり。

イデビアン・クルー『迂回プリーズ』(@新宿パークタワーホール)

2005年10月08日 | Weblog
を見た(10/6)。

その前に二度目のミーティング、新宿中村屋。夕方に突然呼び出しが。ジョギングしようと思っていたのに(最近ちょこちょこ走っていて、この一ヶ月くらいで約五キロぼくの脂肪は燃焼されました)。忙しくなりそうだけれど、まってましたな企画、楽しもう。パークタワーまで都庁脇をフィッシュマンズ聞きながらてくてく、細かな雨が降り出した、ここ数日いつもこんな感じだ。

ボーイ(ガール)スカウトかサファリかって衣裳で、10人ほどの男女が、横に長い学校の体育館のステージみたいな舞台を行き来する。何度も、ときにインパラみたいに俊敏に走り抜ける人がいたり、と突然誰かが転ぶ。独特の小さなクイックがきいた振りのなかで、突然流れを邪魔するスリップが。そこで床を拭く人、それらを傍観する人、視線が交差。気持ちよーく進んでいくところにあらわれる引っかかり。これがともかく基本で、そこにあるのは、ダンスと芝居(的なもの)の交差なのである。

これがどうしても気になる。正直、こける瞬間がわざとらしい。わざとらしいので、「こける」をダンスとして(動きの妙として)ではなく、芝居として「こけちゃったりするひと」の佇まいとして見られるので、観客は安心する、そして「こけちゃったりするひと」を笑う。んー、なんかそこが気になる。正直少し不満だ。けれど、だめとかいいとか簡単には言いにくい面もある。それはたぶん、イデビアンの根幹にかかわるものなのだと思うからだ。どうして気持ちよく踊るだけではすまないのか、どうしてそこに芝居っ気という自意識が差し込まれなきゃならないのか。

このことを今回の公演タイトルにひっかけて言うならば、ひとは迂回を迫ってくるものだ、と井手さんは言いたいのではないだろうか。ひとは邪魔する、まっすぐ気持ちよく進みたいところに立ちふさがる。「こける」ことは最後には、「地雷を踏む」ことへと敷衍されていく。一瞬の緊張から、また芝居が笑いと共に場を救う(救ってしまう、ともいえる)。倒れたひとたちを、レスキューする女、あんまりありがたがられずも、ひとりひとりを救っていく。そこにも、「迂回」が、ある。スムースに誠意が伝わるわけじゃない。そう、どこでもなにでもスムースへの嫌悪(フォビア)が、あちこちで起きている、というわけだ。

このフォビア、踊ることの気持ちよいことへの嫌悪なのか、何ものかに踊らされてしまうことへの嫌悪なのか、分からないけれど、舞台に強烈に響いているのはこれだった。ぼくはそう思った。踊ることへのダンスへの格闘。

あ、でもそれでも一番印象に残っているのは、最後に舞台上に全員が一斉に踊り、静止し、最後の最後、暗転する瞬間に井出さんが首を「きゅっ」と曲げたところだった。首だけのダンス。それだけでも十分に味わいがある。あっという間に闇に消えたそれは、それでも踊る、との強いメッセージだとぼくは感じた。



フロム・ブログ

2005年10月06日 | Weblog
な出来事が本当に多い。

「ああ、えっとー、恥ずかしいんですけど、10年前は、ブログってやつ?(覚えてます?)やってましたっ(ペコリ)」なんて、10年後には、恥ずかしながらなカミングアウトと共に語り出されるような予感がするブログ・ライティングですが、ブログ発の出会いとか、依頼とかが多いのは事実だ。

今日も、コメントで顔を出してくれている「ケンスケ」くんが鶴川校舎の講義に遊びに来てくれた。彼は同じく鶴川にある和光大学の学生なのだけれど、近くの大学生だからといって、ブログ経由な出会いがなければまず彼と直に会うなんてことはなかっただろう。不思議だ。実に。上智大でやっている美学の研究会でも、ブログで関心をもってくれたK大生のSくんが春頃来てくれて、以来ほとんど皆勤的に参加してくれている。リアルワールドでの社交辞令的な出会いよりも興味とかセンスとかで繋がりうるので、案外いい出会いになりうるということなのか、、、いいことだけれど、新しい関係性に少しとまどいながら(おじさん、ってことかー)、いやでも嬉しい。

コミュニケーションの場が、二倍になったようだ。ブログ読まないひととも、もちろん付き合いはあり、昨日は、ある興味深いミーティングをした。これがいい成果を生めばいいが。いや、そうしなければ。来月、おもしろいものが世に出ることでしょう、きっと!(まだまだ、企画相談レベルなので何も書けないというか決まってはいないのだけれど)

気軽にどこどこコメントとかメールとかしてください、ね。ネットとはいろいろな意味で出会い系なものなのかも知れない。で、あればそれはとてもいいことだ、と思います、ので。そういや、そんなきっかけで出来た友達ばっかだ、最近の友達は。

Dance Exposition [PAGE 5]

2005年10月04日 | Weblog
なる公演を見てきた(@松濤STUDIO Ha-RU)。しとしと秋の雨が降る。

モダンダンスのお稽古の発表会、といった場所か。小さいスタジオに、それでも20人くらいは入った。まず、自分からは来ることがないだろうこの手の公演、新鮮でした。上手く言えないのですが多分、「自分の感情とか気持ちを体で表現しましょう」というベクトルと「ある種のダンステクニックをマスターしましょう」というベクトルとが曖昧なままクロスして、なんだか作品らしいものが出来ている、という感じ?簡単に言うと、ダンスの楽しさにのっかることなく、身体がただ動いている。魅力の乏しい曖昧な線は、どこか高校の漫研(あるいは同人マンガ)とかにあるよな線だ。美術専門学校の卒展とかで見るような線だ。何が完全に欠落しているのか、多分、内側からわくグルーヴがないのだ。楽しそうではないのだ。理屈っぽい。本人達は多分そうは思っていないのだろうけれど。

と、勉強というか修行のつもりで、モダンダンスの現状の一端を見ていたりした、のだが、そもそも何でここにぼくがいるかというと、、、指令が来たのですね。ニューヨークから。ニューヨークにいまいるあるダンサーから、ちょっと見に行ってくれと、林直美(『遠足』)を。

彼女はよかった。実にシンプル、足首のダンス。全10分ほとんど全部、足首のグルーヴのヴァリエーション。突然、木が倒れるようにばたっと倒れるところは、「彼」のパロディというかリスペクトというかに見えておかしかったが、ともかく粘着質に足首に問いかける姿勢は、しばらくするとオオバケするかも知れない。いわゆる50Sロックンロールをバックに足首でぴくぴく体を上下させながら踊るところは、ダンスの原液に迫るものだった。ポゴダンス、みたいな部分もあり。

横トリの身体表現サークル

2005年10月01日 | Weblog
を見てきた。

横浜トリエンナーレ2005がようやく始まった。
「アートサーカス」というタイトルは、ワーク・イン・プログレスの作品、インスタレーションの作品が多いということ以上の意味を発していた。要するに、パフォーマンスの場、として展覧会を捉える、このトリエンナーレはそういった意思が貫かれていた。悪い点を挙げれば、じっくりゆっくり見るに値する作品が少ない、ということも事実ある。高嶺格、奈良美智+grafはなかなか素晴らしいのだけれど、、、また倉庫での展示と言うことも、作品鑑賞ということを妨げている。逆によい点を言えば、観客参加型の作品が多く、作品と観客とのさまざまな「距離」を楽しむ機会がふんだんにある、ということがある。一般的な美術館での「作品鑑賞」がもつ一定の作品と観客との距離は、ここでは崩壊している。祭り的と言えばそうだし、もっと言えば文化祭的?

そこで生き生きとサークル活動やってました、身体表現サークル『ベストセラー 身体表現サークルのヨコトリ褌100人できるかな』。
夕方4時頃、唐突に始まる。ふんどし姿の男(の子)たちと女の子たちが、「だるまさんがころんだ」をするかと思うと、独特の機械的な動作を淡々としたり、そこで互いの尻を頭を頬をひっぱたいたり。「ナカニワ」と呼ばれる倉庫と倉庫の間のスペースや、倉庫内の他の作品の間で彼らがパフォーマンスしていると、舞台で見るより「動く彫刻」としての側面がきわだってみえて、そう考えると、正直周りの思いつきアートみたいな作品と比して、アートヒストリーをきちんと参照したずいぶんちゃんとした「アート」をやっているように思われてくる。ばっかだなー、と笑いながら、観客は、びんたしたりされたりして会場を一列に動いていく彼らのなかに混ざりたくてうずうずしている(実際、そんな「おまえ行ってこいよー」みたいな会話がそこここから聞こえてきた)。気づけば、ぼくも混ざっちゃいました。叩かれて叩いて、の列に加わると「動く彫刻」化することの気持ちよさがふつふつと。体感するモダニズムアートってな感じでした。

今日みたいに天気がよい日は最高、でも山下公園にある入り口から会場までが700メートルだかあるらしく、真っ直ぐ続く旗のはためく会場までの道は、天気次第で相当過酷なことになりそう(まあ、でも入り口から会場までバスが観客のピストン輸送しているみたい、でした要チェック)。

ダンス関係の企画も沢山あるので、頻繁に行くことになりそう。で、ぼくはフリーパスを買いました、3500円。

あ、あとすごい余談なんですけれど、どうしても横浜行くと相鉄線近くの立ち食いそば店、「鈴一」に行かずにはいられず、結局、行きと帰りと二回食べてしまった、天コロそば(天ぷら+コロッケ+そば)。