Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ジェリー・ルイス

2006年11月29日 | Weblog
知人からドゥルーズの『シネマ2』(法政大学出版局)が発売されていることを教わる。不覚。早速購入。なるほど、理解するのは簡単ではない、いい加減なことは言えないけれど、次のような文章に出くわすとなにやらわくわくした気持ちが沸いて出てくる。

「ダンスはもはや単なる世界の運動ではなく、一つの世界から別の世界への移行であり、別の世界への入り口、侵入、探検なのである」

「ダンスはもはや世界を描く夢の運動ではなく、みずからを深め、ますます激しくなり、別の世界へと入るための唯一の方法となる。その別の世界とは、ある他者の世界、ある他者の夢あるいは過去なのである」

第3章は、後半、こうしたダンスの話題へとスライドする。土台をなすのはベルクソンの二種類の再認、自動的あるいは習慣的再認と注意深い再認。前者が延長(習慣に基づく対象の確認)に関わるのに対して、後者は別の特徴や輪郭を引き出すために何度も零の時点から対象に戻り見直す。この注意深い再認に関連づけられて、ダンスは、上に引用したような常に別の世界へと関わっていく方法として語り明かされていく。

ミュージカルが取り上げられると、テクストはフレッド・アステアやジーン・ケリーの舞台になる。

「運動的な歩行(pas)とダンスのステップ(pas)との間には、アラン・マッソンによって「零度」とよばれるものがときおりあって、それは、ためらい、ズレ、遅れ、一連の予備的な失敗のようなもの、あるいは逆に突然の発生である」

『バンド・ワゴン』のアステアの有名な散歩から徐々に変貌して生まれるダンス、『雨に唄えば』のケリーのやはり有名な歩道の起伏から(軽く足を滑らせることから)生まれるダンス、二人の奇跡のような移行は、慣習的で自動的な運動に亀裂を与え、一層大きな世界の運動の渦中に巻き込んでいく。

「彼らの個人的な行動と運動は、ダンスによって、運動的状況を逸脱する世界の運動へと変貌すると考えられる」

けれど、こうした奇跡的な瞬間を取り上げたとしても、アステアやケリーのような天才的なダンサーのみがそうした運動を引き起こすと結論づけるのではない。ドゥルーズ!彼の視点は、ジャック・タチへ、またその前に喜劇俳優たちへ向けられる。

例えばジェリー・ルイス(『底抜けもててもてて』)へと。

「彼の足取りはことごとくダンスの失敗のようであり、延長され刷新され、可能なあらゆる仕方で変化する「零度」のようであり、それは完璧なダンスが生まれるまで続くのだ(『底抜けいいカモ』)」

って例えば、河童次郎(ボクデス)じゃん!
(おとといドゥクフレ「ソロ」を見ている間ずっと、河童次郎(ボクデス)がドゥクフレ並みに愛される世界を夢想していた。あり得ないの?)

ダンスは「移行」「ためらい」「ズレ」「失敗」にある。あらゆる世界に関わっているようでいてそれをすべて自動的で習慣的な運動へと還元してしまうすべてのダンスには、ドゥルーズのダンスはないっていうことだ!

我妻恵美子『天体のズー』(@壺中天)

2006年11月26日 | Weblog
11/24

午後、東京経済大学の粉川講義で山賀ざくろとボクデスのデモンストレーションを見る。普段に比べて真面目に見ていたという学生の雰囲気から察するに、「新鮮なアートを見た!」とか「リアルな表現だった!」というよりは「ああいう大人になっちゃいけない!」なんて感想をもったのではないか(笑)と推測した。

その後、吉祥寺へ。我妻の作品は、女子高生とマッチョな白塗り男たち(女子高生もだけど)とが出会うファンタジー、ということ?すでに大駱駝艦において醸成されてきたさまざまなヴォキャブラリーが作品を支えてはいるが、その表層を破いて出てくる何かはなかった。それにしても、やはり駱駝艦(壺中天)的な舞踏はともかくヌード・ショーなのだ、と再認。次第に汗で白塗りが落ちて若くて生々しいからだがあらわになると、会場に変な熱気が出てくる。ストリップが踊りという建前から裸を透かし見せることだとすれば、これは裸を見せつけながらダンス的な何かを透かし見せる。そのはず、なのだが我妻作品にはダンスの強さがなかった。最後に小さくて等身大のかわいさをも見せる我妻が腕を振り回しながら激しく踊るが、あまり説得力がない。舞踏のポテンシャルとは別のところでの努力という気がする。ところで、白く塗った肌はマットな感じがするが、しかし目だけはいつでも濡れていて光っている。あれは実になまめかしかった。

コンタクト・インプロヴィゼーションは

2006年11月22日 | Weblog
身体の脱セックス化かあるいは新しいセックスの発明か。

美容室は、ファッション誌を読むのによい機会として認識している。最近行ったら、何とか言う(『クリオ』だったかな?)雑誌で、伊藤キムが島田雅彦にダンスを教えていた。アシスタントの女性二人に抱きしめられてそこから抜ける、するとそこに自分の抜け殻ができあがるというワークショップで伊藤氏が普段行っているものと予想されるアイディアを島田が体験していた。そのときの島田は、女の人に突然抱きつかれることに困惑しながら(恐らく)紅潮した頬でもって感想を漏らしていた。詳しいことは失念したが、新しいセックスのようだ、と言っていたように思う。

こういったコンテンポラリー・ダンス的身体への取り組みやコンタクト・インプロがもっている大きな特徴として、身体をニュートラルにするということがある。ぼくは正直かねてからこれに疑問をもっている。あ、時間が。また夜。

かねてから疑問をもっているんですよね。コンタクト(身体的接触)することは普通恥ずかしいし、照れくさいことだし、これはコンタクト・インプロですよという約束事がなかったならば、やばい行為になりもすること。そのとまどいがイレーズ出来るのはあなたの体も他の人の体もどれも同じ体だといった、身体をニュートラルなものにする思考が根底にあるからだろう。脱セックス化してもののように身体を扱えるから、コンタクトすることがなんらとまどうことのないものになっているわけですよね。

そうか、おそらくその脱セックス化した、ニュートラルな、もの(object)としての身体は、ジャドソン・ダンス・シアターを出発点とするインプロの父スティーヴ・パクストンらしいアイディアとみるべきなのかもしれない。

ともかく、ものとなった身体が、しばしばコンタクトに向けてそう言われるような「自己発見」を牽引するとはあまり考えにくい。非個性化した身体を通して見出す自己は、すでにそうとう堅い枠に制約された自己なのではないかと。

しかし一旦強い禁止を課せられた身体から、島田がつい漏らしてしまったような「新しいセックス」がほのかにでも感じられるのなら(感じることを否定しないのなら)、それは「コンタクト」のちょっと面白い展開といえなくもない。島田は、身体のムズムズを否定することが出来ない(繊細な文学者らしく?)。それは正直な感想で、とはいえしばしば現場で禁じられる感想だろう。けれども、否定することはうそをつくことになる。そのうそのなかにとどまることでコンタクト・インプロやコンテンポラリー・ダンスが学校やワークショップでの「優良な教育」に奉仕しようとするなら(実際、そう言う傾向が出てきていると思うが)、ぼくはそれはあまり賛成できないのだ。

ラボ20#19

2006年11月20日 | Weblog
若いダンサー(ソロ、グループ、演劇系も含む)8組が、20分の作品を披露、キュレイターは桜井圭介。STスポットが主催するこの「ラボ20」という企画は、以前から新しい魅力的なダンサーが生まれるコンテンポラリー・ダンスの登竜門的存在であり続けている。それだけに、不作の回や低調の回に出くわすと、単にこの企画がと言うよりもダンスの世界がもう行き詰まりを見せているのではと切ない気持ちにさせられてしまう。小さいが実際はかなり重要な意義を担っているラボ、今回は、ぼくとしてはずいぶん面白かった。へんちくりんなの(おかしな言葉だけどこうとしか言いようがないので)が見られたからだ。

「へんちくりん」というのは、企みとしてやろうとすればするほど「企み」の作為性がちらつき、作為する賢明さにおいて「普通」だと思わされてしまう。だからといって、天然の「へんちくりん」は希有だし舞台にあげられると途端におとなしくなりがちだ。「へんちくりん」を舞台にあげるには、だからすごく難しい。どこまで自分を意識しつつ無視するか、どこまで自分から自由になりつつなお自分にこだわるか、が重要になってくる。

全く未知数ではあるけれども、外山晴菜のパフォーマンス(「ハテノシノナイ」)はこの点でまことに「へんちくりん」だった。薄茶色のタンクトップの肩あたりに赤い布きれを巻き付ける妙なセンスから、そのことに早く気づけば良かった。淡泊なルックスでダンサー体型と言うよりは、普通の大学生の雰囲気。こちらからはまったくその必然性が理解できない頻繁に切り替わる曲とかもそうなんだけれど、ともかく次々と動いてしまう、それがどんな意味で置かれているのかなどこちらに察知させる前に次の何かが始まってしまう。だから一見中途半端に見えるし、実際動きの質は高くないからヘタとも言えるのだけれど、そうした基準でははかれない暴走のおかしさがいつまでもとぎれない。メルヘンチックともなんともとれないイメージがとぎれなく、多動症的にしかも殆ど反復なしに繰り出されていく。これは確信犯、いや単にビギナーズなんとか?世間は騒音おばさんとか片づけられないひととか「特異点」のひとについついひかれてしまうけれど、まさにそんな「へん」なパフォーマンス。でも、彼女の作品プロフィールには「みんなで楽しめる自分だけの世界」を目指すとある。確かにそうなっていた。こんなぐちゃぐちゃのぐにゃぐにゃをそのまま舞台に上げるダンサーに、批評性の欠如を指摘するむきもあるかもしれない、けれどもはやこれは批評以後のダンスなのかも知れないし、批評の形式自体が批評されていると思わされもするのだった。

外山のへんちくりんに比べれば、他の作品はみなおとなしく「へん」へと突き進む。「おとなしく」とは適度に頭をつかっているということ(外山さんが頭使ってないと言うことはないと思うんだけれど、っていうかそこがその難しいところで)。梶本はるか(「ひとまず、こしらえる」)は、冒頭吉野家の牛丼を一気に一杯食べ、そのたぷんとしたおなかで烈しくミニマルなダンスをし続ける。ぼくはなるべく余計なコトしないところに好感をもった。牛丼は受け狙いというより牛丼の入ったおなかによって踊るからだの存在を意識させる狙いだったろうし、その狙いはそこそこ成功したと思う。最後はあらためて牛丼を持ち込んで食べ始めたところで暗転、というやはりミニマルというか反復を意識させる終わりで、これも的確だった。ちょっと思ったのは、テンポのあるロックな曲をバックに烈しく踊るのは若さゆえのことではあろう、けれど、その「若さ」をこんなにシンプルに表現していいものか。その若さのイメージに抗ってもいいのでは。いや、若いからだが勝手にやってしまうことなのかも知れない、そうなのかな。

「若さ」ということだと、関かおり(「あたまにあ」)は、狂気に傾倒する系の「若さ」のダンスだった。小さく人型に切ったスイカの山盛りをミキサーにかけ、それを飲む、飲むと烈しく踊りだし、音がやむと放心し、最後に黒い液体を放尿する。踊りは烈しく、また痙攣のインパクトも強いし見応えがある。途中のがに股でひょこひょこ動くところなんかも、別の狂気の色が現れた感じでヒット。ただし、一連の流れは、実にベタだ。ドラッグをきめるとこんなになってしまいました、という感じ。このストーリーは、ミキサーが舞台前方に透明カップと共に置かれた瞬間に(少なくとも赤い皿を観客に披露した瞬間に)大体見えてしまう。だから問題は、この伝えてしまったストーリーをどう回避するか、迂回するか、反抗するか、あるいはそこに何かしらの新しい共犯関係を創り出すか、だ。と思っていると、案外素直にミキサーのボタンを押してしまうし、案外まじめに赤いジュースを飲んでしまう。「このジュースを飲むことは実にすごいことなんだ」というのが、ダンサーが観客に説得したい観念(イメージ)だろう、けれども、いわばそこで起きているのは演劇的な事態であって、それを実際にスゲーと思う前にそう思ってくれというダンサー側の説得の押しに、見る方の腰はむしろ引けてしまうのだ。ぼくは、ジュースを手にした時「飲むな!」と心で祈った。ミキサーにスイカが満タンになった時「スイッチ押すな!」と思った。飲むか飲まないか、押すか押さないか、の間にこそダンスがある。物語にのるかそるか、という境に。そこが案外あっさりだった、残念。

市川瑠璃子(「ラクリモサ」)は、冒頭、サングラスをかけた市川が正面を向いて立っているところからはじまる。なんとこう無邪気に客の正面に立ってしまうことか、と思いつつ、その他人をあまり気にしない感じっていまの大学生あたりに共通の風情だよなと納得しているとばたっと寝そべった。姿勢の悪い猫背な背中がだらしなくたおれる。かなりふくよかな体躯と相まって、サングラスをかけ、ギリシア風ないまどきのワンピ姿の一見お嬢様系ないでたちがほんとにそぐわないことにいらだちとおかしさを覚える。かっこつけているが実際はかっこわるいことに対してどのような自意識をもっているのかが判然としない。わざと「かっこつける=かっこわるい」風に見せようとしているのか、ただかっこつけているのか。ナルシスなのかクリティカルなのか、メタかベタか。まあ、そもそもふっくらしすぎなのだ。はみ出てしまうのだ。狙いがそっぽを向く体型なのだ。このいかにもいまどきの若い女の子らしいふっくらとしたからだが舞台でふらふらしていることに、ある種のリアリティを感じるってとこか。

佐藤想子(「ミントとウォルター」)は、メルヘンな女の子の部屋の適度な妄想のお時間。途中で30秒ほど踊った。それがなんともいえず独自な情緒から生まれている気がして、なんらテク的にもセンス的にもハイではないのだけれど、定型におさめようとしない等身大を感じた。大学のゼミで、学生が独り言のように自分の意見をぼそぼそ話す時のようだ。伝える力が足りなくて相手の手前で落ちる。けれども、それは伝わらないからダメなんじゃなくて、伝わらない距離を感じさせられる点でひとつの表現になりうる(その点では岡本真理子を想起させる)。あとは、そういうことに本人がどれだけ自覚的か、なのだが。

桑野由起子+中島由美子=(「消化ハーフ」)は、長いひもを用意して二人で大きなあやとりをする。ひもで互いを感じ合う、コンセプトはそういうことだろう、そこそこ面白い。ただ、コンセプトが重要なのではなくて、そこで起きる動作のいちいちであるはずで、そこが案外淡泊なのだった。

小指値(「i wanna be a machine, but...」)は五人組で演劇的な作品。つまり、ある女性の人生を代わる代わる語っていく。設定はそれで、語るというシンプルな所作の周りの空っぽの空間を、五人の大げさなポーズが埋めていく。言葉と体の関係のズレというか、無意味な並置が見所なのかも知れないが、あまり心動かされず。

ひろいようこ&橋本正彦(「状態系「ハイパーオセロー」」)を見るのは、ぼくは4回目。さすがに見慣れてしまったか、あるいはやっている側にも慣れがあったのか、ひとつひとつの所作がどんどん流れていってしまう。オセロをする男と女、男は寡黙ただ盤を見つめる。女は体がしだいに揺れはじめ、どんどん余計なことをしてしまう。バナナをちぎっては盤の上に置いたり、開脚してお尻を男に向けたり、スカートにあるチャックを激しく上下動させたり。


新しい感触を得た。この新しさは反感とか拒否をともなうものだろうし、拙さや未熟さを指摘されるものでもあると思う。でも、わがままに自分のやりたいことを見せている気がしたのだ。野放図な身体、ぶっきらぼうな身体のリアリティ。それがすべきことはし、すべきでないことはしないミニマルなパフォーマンス(であろうとしたこと、上記したようにかならずしも貫徹できたとは思えないけれど)によってあらわれた。このひとたちの次回作は見られるのだろうか。すべての人に対して次回作が見たいと思った。

『エコール』

2006年11月18日 | Weblog
金曜日渋谷で『エコール』を見る。

死をもちらつかせる統制の効いた学校で、それ以外に生きる選択肢が与えられていない少女たちの日々は、まるで北朝鮮なのだけれど、暮らしの場があまりにも美しい森であるのと彼女たちの身にまとっているのがあまりにも美しい白い制服であるのとで、見ていると幸福感さえもが沸いてきてしまう。だからきわめて残酷な映画なのだ。ジャムの壺に落ちたアリのように、美しさを身にまとうことのみを課せられた甘く厳しい日々。ダンスを踊る。それが何を意味しているのかも判然としないまま、年に一回、最も美しい者のみ外へ出ることが許されるというかすかな噂に切ないほど振り回される少女たち(小学年、中学年、高学年それぞれ)、ぼくはそのただひたすら白い肌を眺める。襞を折り畳み始める前の白い無邪気な肌。カメラが追う。その眼差しに誘われカメラとともに眺める。見ないことが許されない美しさ。しかもその肌が「エコール(学校)」の残酷さをあられもなくかいま見せる。この二つの残酷さにひりひりとしながらなお眺めることが止められない。ラスト、この白い肌の湛える美しさと苦しさが、少女でなくなるという結末であっけなく止揚されてしまう。あれれ。これは残酷な統制社会を語る話でもなくでもなく、女というものの一プロセスをあまりにも誘惑的で共犯的な手法によって露出させ観客をとまどわせるための映画なのだった。喩えようもなくどでかく恐ろしい「女というものの深淵」にふれちゃった気がした。

「管理と生成変化」(『記号と事件』)

2006年11月18日 | Weblog
「将来的には主体化のプロセスが新たな権力を産み落としたり、新たな知に回収されることになったとしても、主体化がおこなわれる時点を見る限り、主体化のプロセスにはたしかに反抗の自発性があるのです。そこにはいわゆる「主体」への回帰などありはしないのです。つまり義務と権力と知をそなえた審級が回帰することはあり得ないのです。主体化のプロセスの代わりに、むしろ新しいタイプの〈事件〉という言い方をすることもできるでしょう。〈事件〉を引き起こす状況や、そのなかに〈事件〉が回収されるような状況に訴えたところで説明のつかない複数の〈事件〉。〈事件〉の出現は一瞬の出来事です。重要なのはその瞬間であり、とらえなければならないのはその機会です」「世界を信じることが、じつは私たちにいちばん欠けていることなのです。私たちは完全に世界を見失ってしまった。私たちは世界を奪われてしまったのです。世界の存在を信じるとは、小さなものでもいいから、とにかく管理の手を逃れる〈事件〉を引き起こしたり。あるいは面積や体積が小さくてもかまわないから、とにかく新しい時空間を発生させることでもある。」(ドゥルーズ)

1秒の質に賭ける

2006年11月14日 | Weblog
ダンスはつねに消えていくものです。ダンスはだから清くそして恐ろしい。かつてDVDやビデオが普及する以前の映画もそうだったわけですが、消えていく表現媒体にとって、記憶に値するものをいかに生み出していくか、あるいは記憶が出来る人間ないし瞬間をしかと見続けることの出来る人間をどう生み出していくか、が生命線になります。つまりパフォーマーも観客も1秒の質に賭ける、体を張ってあるいは目を見張って経過する時間に挑む、ダンスというジャンルの醍醐味は他ならぬこの点にある、とまずしなければならないはずです。

ハスミ先生ならば「動体視力」というところの「運動能力」が観客には問われ、観客の「運動能力」にありったけの掛け金を積み上げながらパフォーマーは勝負に挑む。ぼくにとって面白いダンスとはこの1秒に賭があるダンス、だから1秒も目が離せねえゾと不意に戦慄が走るダンスです。逆につまらないダンスは、次の動作、次の企み、次の筋がおおよそ読めるあるいはそれらを喜んで読み込んでいこうと思わせてくれないダンスです。後者は観念のダンスとぼくが個人的に言っているもので、前者は観念的ではないダンス、リアリスティックな(と言えばいいのか?)ダンスです。

ダンスを見に行くというのは、ほんとにわくわくする行為でした。見るという立場で何かを更新する(革命などとは言えないまでも)、既存の時間性や社会性を転覆させる。そんな幸福な時はいつあったか。手塚夏子の「私的解剖実験地図」とその「2」、室伏鴻の「edge01」、黒沢美香「Roll」、、、(その他色々、速攻で浮かんだものだけ列挙した)最近ならば、横浜ダンス界隈でのひろいようこ「tea time」か(久しぶりに「目が離せない」ってどんなことだったか思い出した)。最近わくわくしないのは、ぼくの目が「運動能力」を失っているのか。それともパフォーマーが賭を放棄したのか。「見る」ことの内に起きる事件(事故)を求めずに、コンテンポラリー・ダンスなるものを反復してしまうからか。

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前件でコメントを書いてくださったugさんへのレスとして。

『自由を考える』

2006年11月12日 | Weblog
「動物というか、アディクティヴな消費というのは批評行為を不可能にしてしまうわけですね。第三者の審級が成立しない、ということの別の現れです。批評が今まで可能だったのは、はじめに見たり読んだりしたときよくわからなかったことが、批評を読むと少しわかるようになるとか、別の見方を発見するとか、そういう時間的な遅延が許されていたからですね。しかし作品の根拠が身体的な快楽にのみ基づくようになると、その点の許容度がきわめて低くなる。その変化はもうはっきりしていると思います。たとえばハリウッド映画がそうです。映画を視て、二時間だか二時間半だかを楽しめたか楽しめなかったかということが絶対的な基準になっており、劇場を出たあとどれだけ華麗な解釈をしてみせたとしても、「でも、おれは面白くなかったから」で終わってしまう。批評=解釈は趣味の行為でしかない。とすれば、あとは、楽しめる観客のパーセンテージをいかに増やすかという話でしかないわけで、有名俳優を使うとか、アクションを増やすとか、そういう方程式の問題でしかない。」(東浩紀)

もう本当に「作品」を作っている場合じゃないと思う

2006年11月12日 | Weblog
コンドルズ「HONEY」をダンスビエンナーレ'06の1プログラムとしてみる。けれども、プログラムの一演目といったすました立ち位置とはおよそかけ離れていて、それがシンプルにあらわれていたのは、例えば、この日の前半に出演したフランスのグループが切ないくらい効果のない水まきをしたせいで30分休憩が入ってしまったその間、ずっとロックコンサートの開場時のようにサザンの曲を低く流していたところ、とか。しかも「ふぞろいの林檎たち」時代のサザン、とは。ぼくとほぼ同世代の彼らがそれに思い入れがあるのは分かるが、そりゃあまりにベタだろ!?と冷笑しつつ、足は自然とリズムに合わせてしまう。この場でも相変わらずロックコンサートのウォーム・アップをなぞるコンドルズがともかくも大事にしているのは、作品という枠ではなく、観客とこの時間をどう過ごせるかというポイントなのは、こんなところから明白だ。

やることは、いつもとほとんど変わらない。くだらない、実にくだらないコント。笑いの落としどころが幼稚(よく言えば万国共通?といってもいいのかも知れないけれど)で、そこにセンスもペーソスも見つけられない。ただ「へんなことしてます、こんなおっさんが」という振る舞いばかりをこちらに向ける。さて、これに観客(ファン)は大爆笑なのだ。

ほんとに笑いが好きな人なら、よしもととかいわゆるお笑いのライブに行くことだろう。よしもともコンドルズも行くという人は恐らくいない。一度ルミネで見たことあるが、やっばりプロはすごいなーと思わされた。それからみれば素人芸というか、芸なしの「はしゃぎ」。これに観客は大爆笑なのだ。このことが、現象として面白いと思った。コンドルズと観客は互いに何を求め合っているんだろう。

コンドルズは、観客との間にある境(両者を隔てるもの)を可能な限り取り除こうとする。それは端的に言えば「作品」が生み出す境だ。作品は、観客とは関係なしにあることを自らの成立の暗黙の条件とする。それで終わると「はいどうですか、どう思いました?」と突然こちらの方を向き拍手を求める。作品を発表し、作品を鑑賞するという作品中心の考え方は、観客の前に作品を作品化するための幕を用意してしまう。この幕を取り除こう、あるいは可能な限り揺さぶりをかけようと言うのが、コンドルがしている唯一のことなのではないだろうか。

確かに、近藤良平のダンスはすさまじく面白く、彼の振り付けを踊るその他のメンバーもミニミニ良平くらいにはなっているように(今回は)見えた(永遠に強く高く速く飛び回っていたいという近藤のダンスのエッセンスをメンバーの踊りの中に感じることが出来たと言うこと)。そこからコンドルズをダンス(振り付けが示すダンス)の文脈からまず理解しさらにコントも人形劇も体操もあると枝葉を広げて捉える仕方が、一般化している。けれども、彼らの本領はダンス以上に、さっきから書いている「ぼくたちをみて、みんなのためにこんなことしてるよ!」といった観客へのとめどなく流され続けるメッセージの内にある気がする。しかも、「コンドルズのダンス」と呼ぶべきはこれなのではないかとさえ思う。

それは確かに、くだらないコントの連続のなかにこめられたメッセージで、それを「くだらない」とだけ解釈すると観客のノリノリ加減が理解できないのだが「敷居が低い」と捉えるとなにやら見えてくるものがある。コンドルズの観客(ファン)は繋がりたいと思っている、けれども難解さの果てでなんて全く思っていない、べつにそんなめんどくさい迂回路に意味なんて求めていない、ただ繋がりたいのだ。迎え入れられたいのだ。そこに中身は必要ない。彼らが時々あえて入れる性的なネタや犯罪のネタやのドギツイものに観客はあまり反応しないのはその証左だ。

こんなレヴェルで観客と繋がりたくないよ、と思ってコンドルズ以外のダンサー、グループは彼らを冷笑しているのかも知れない。観客の立場(ぼく)からしても、世の中コンドルズばかりになったらそりゃ困る。けれども、観客の楽しげな雰囲気を無視することも出来ない。そもそも、別に観客は優れたメッセージを込めた作品や優れた技術をこなす優れた身体を見て憧れたりそれに少しでも近づきたいと思うために会場に足を運ぶわけではない、少なくともそればかりじゃないのだ。ダンス公演を計画中の皆さん、早く、お師匠さんや批評家先生(?)を観客と想定するのはやめて、あるいは作品をこしらえ上げようとするのはやめて、現場で観客と何を交わそうとするのかを考えてみてはどうだろう。

*「くだらない」「つまらない」とばかり書いてしまったのでちょっと補足したい。彼らは確かにすでに「おじさん」でそのおじさんがこういうことしていることに落胆ではなく愛着を感じる観客は、そこに「ニート」時代のあるいは「格差社会」のリアリティを受け取っているのかも知れない。「セサミストリート」をパロった「スサミストリート」という人形劇は、ネガティヴな言葉ばかりでしりとりするなどのネタだったのだけれど、そこにただよう暗さと暗さに正直な(イライラした)態度は、案外ジャブとして効いていて、公演全体のトーンを単なる多幸症とは言い切れないものにしていた。

同じプログラムで、ギリェルメ・ボテリョ/アリアス「I want to go home」も見た(効果なしの水をまいた。あれ。鮫がテーマだから、と)。観客との共犯関係を取り結ぶことのないピナ・バウシュといったところか。コンテンポラリー・ダンス=「なんでもあり」という言い方をよく見かけるが、こういう作品をさして言っているのだろうと思った。

その前に、昼間「ベルギー王立美術館展」(@上野、西洋美術館)を見た。バロック期のオランダ絵画は、複数の人が描かれているとたいてい一人二人こっちを見てる。こっちをほっといてくれない。面白い。

杉浦由美子『腐女子化する世界』

2006年11月10日 | Weblog
以前から気になっていて、昨日購入。帯にはこうある。

女たちは「自分探し」に飽き、「自分忘れ」に走り出した!

ちょっとドキッとなる。「自分忘れ」とは。なるほど本文中には例えばこうある。

「現実離れした物語は、家庭に入って社会に参加していない女性が嗜好するという感想が[酒井順子と斉藤環『「性愛」格差論』では]述べられているわけであるが、実際には、働く女性たちこそが現実離れした物語を好む。「物語」には、自分が入らないことが肝心なのだ。自分が入ってくる限りは「現実の私」から離れることができない。腐女子たちが求めるのは現実とは違う「異次元」としての「物語」である」

「自分探し」というもの、あるいは自己実現とか、それに伴うだろう社会的実現であるとかがもうあまり意味をなさない。そんな社会の「現実」の中で、現実に即した物語など求めたいと思うはずがない。むしろ現実の自分を忘れることのできる「異次元」を求める。この辺りの思考は、昨今様々な新書が語るところの格差社会系の話題が根っこにあり、本書の後半はそうした社会構造の問題へと議論が進んでいくのではあるが、非現実の物語を希求するという点では本田透の脳内恋愛にも繋がる点があるだろう。

その意味で女オタクは、確かに観念への内向としてオタク的ではある。けれども、彼女たちがとくに愛好する物語は、「やおい」であり、本田をはじめとする男性オタクが愛好する自分を登場人物に写し置きできるような物語ではない。自分の理想の恋愛をヴァーチャルに成就するというよりも、自分は主役格では決して登場することのない男同士の恋愛に萌えるのが腐女子なのだ。男性オタクが物語の中で自己実現を果たそうとしているとすれば、腐女子は物語の外部にいてその距離を保ちながら異性の恋愛物語に没入することで、自分忘れに奔走しているということになる。

そうした距離について、杉浦によればボーイズラブレーベルのb-boy(?)編集者は次のように言っている。「性的なところに罪悪感や恥ずかしさを持たなくてすむっていうことがあると思います。男女ではないので、自分を登場人物に直接投影することはないわけです。あくまで自分はこっち側にいて、一段階を経るっていうのが大事なんだろうなと思います。そうすれば性的なことも、洗練された、美しいもの、大事なものと素直に受け止められるというのがあると思うんです」

これは、向こう(男性同士の恋愛物語)が女性である自分を無視してくれているから没入できる、ということなのだろう。裏を返せば、自分を振り返らなきゃならないものになんでつきあわなきゃならないの、ってわけだ。そこに居心地の悪さを感じるのが腐女子ということらしい。

さらには感情移入できないものとかあり得ない設定を好むとか、これまでの表現に関する思考回路ではとうてい理解できない事態というのが起きているという「腐女子化する世界」では。

そうかと思えば、こんな文章を拙BBSに発見(投稿した方に対して他意はありません)。

ダンスでもない
演劇でもない
“あなた自身の身体”を探して見ませんか?


「腐女子化する世界」に向けたセールスコピーはこうなる?

ダンスでもない
演劇でもない
"あなた自身の身体"を忘れて見ませんか?




宮沢章夫『鵺/NUE』(@シアタートラム)

2006年11月03日 | Weblog
宮沢章夫『鵺/NUE』のプレビュー公演を夕方観た。「プレビュー公演」というものの意味が分からなかったので、世田谷パブリックシアターに電話で問い合わせてみる。すると、ときどき(劇が)止まったりすることもあるけれど基本的には殆ど本番と同じという話だった。実際は止まることはなかったものの、役者がかむシーンは結構あった。「役者がかむ」瞬間はぼくはそんなに嫌いじゃない。むしろ、どうせならちょっと我に返って役者が赤面とかしたらいいとさえ思う、周りの役者が冷やかしの笑みをうっすら浮かべるとかもあったらいい(こういうこと思うってのは、五反田団ショックがまだ尾を引いているわけだ)。そんなときって、演劇が批評にさらされることになる瞬間だと思う。演劇が我に返る瞬間、鏡を突きつけられる瞬間。そんな瞬間はブレヒト-ベンヤミンに倣って言えば、リラックスした状態じゃなきゃ出てこない。リラックスした芝居を見るリラックスした観客としてぼくは客席にいたい。そう言う意味で、すべての公演がプレビュー公演的なものだったらいいのにとさえ思うのだった。

話の内容は置くとして、ずっと面白く見ていられたのは役者のセリフ回しがよかったからだ。音楽を聴いているようにさえ聞こえる抑揚が、個々の俳優の年季に応じて安定した魅力的な響きを湛えていた。イヴォンヌ・レイナーがモダンダンスまでのダンスの動きを「フレーズ」と呼んで批判したとき、フレーズを山なりの「始点、中間点、終点」をもちそのなかにひとつのピークが作るられるものと定義した。そんなフレーズのような一定の言い回し。これはいま日本で見られる若手の演劇がつとめて避けているもので、久しぶりに聞いたという印象があり、だからもはや伝統芸能に近いような、実際、バリのダンスの合間に歌われる奇声の歌い回しとの間に親和性さえ感じたのだった。例えば、五十代が歌う古のロックンロールを今聞いてそんなに悪くないな、と思ってしまうような感覚。とくに天井桟敷にいた若松武史の声振りは楽しかった。もはや殆どふざけているとしか思えない時があり、実際ふざけている時もあり、役柄の反映でもあるのだろうけれど飄々としていた。

けれども、そうした各役者の来歴から生まれるセリフ回しと、切り刻まれて演じられる清水邦夫の戯曲を演じる際の彼らの演技とが、隔てなくベターッとくっついていて、そこが残念だった(少なくともぼくにはそう感じられた)。戯曲上では、宮沢の書いたセリフと清水の戯曲とが異なる響きを生んでいるのかも知れないけれど、それを語るセリフ回しにそれぞれの明確な違いが見えてこなかった。演劇についての演劇である以上、そうした批評性があるべきではないか。そもそも、清水邦夫劇の当時のセリフ回しと天井桟敷のそれとは違うだろうし、また二十代三十代の演出家がいま生み出しているセリフ回しもまた彼らとは異なる。それらが舞台上で競演し、相互に批評し合う場面があってこそ、何が死につつあるもので何がそれを見送るものであるのかが演劇批評のドラマとして明らかになるはずだ。当時の劇のフィルムを上演してみんなで見る場面とかあったりしたら、また各役者の若かりし頃の芝居が上演されるなどしたら、この点ですごい芝居になったと思う。

あと気になったのは、若い役者(若者役)に与えているセリフ。彼らがスタニフラフスキーとか、テオ・アンゲロプロスについて言及する時、それらを十分に理解しあるいは愛好している者たちとして描かれるのだけれど、それはどうだろう。そういうある時代(過去)のものに対していまの若者がもっている距離感が描写されず、まるで宮沢の分身のようになってしまっている。宮沢が仕事をしている早稲田には教養ある若者たちが多いと言うことがあるのかもしれない。ぼくが普段接している学生とは違うということか。五反田団でよく見る、知ったかぶりして自滅するものの静かに周りが無視する、みたいな描写の方にぼくはリアリティを感じる。この距離感とは他者への距離感、とすれば、相手がどう聞くかお構いなしに自分の思いを無邪気にストレートに発するといった宮沢の造型する個々のキャラクターにすでにぼくはリアリティのなさを感じているのだろう。何であんなにストレートに怒ったり叫んだり出来るのか、「あえて」いわばマニエリスティックにやっている気がしなかった。いや「あえて」やっているのであって、そういうストレートに自分を語る芝居自体が死んでしまった古の芝居(清水邦夫?)を反復する仕掛けの一部になっていたのか。

ドーキーパーク

2006年11月02日 | Weblog
コンスタンツァ・マクラス&ドーキーパーク「I'm not the only one-Solo Projects」(@青山円形劇場)

最近ダンスを見ていて、同世代性を感じる数少ないグループ。椅子とともにオーバーオールを着ちゃう男が話の通じない電話をかけ続けたり、ダンサーにしてはふっくらしている女が下手なギターと一緒に歌ったり笛を鳴らしたり楽器を舞台に散らかして、ようするに一人暮らしの一人遊び。ふざけててばかばかしい瞬間瞬間。それが男と女交互に繰り返される。途中で殆ど裸みたいな格好になるとほとんどセックスを象徴するかのような絡み合いがあり、最後は、やはりほとんど裸ん坊の女がマジックペンを手を使わずにくわえたり胸で挟んだり自慰のようなシーンで終わる。一人遊びを牽引する妄想、それは鼻歌歌いながら落書きする子供のマインドみたいなもので、勝手に暴走し勝手に収束する。そういうパーソナルなものに没頭しているひとにこそ、引きつけられる。この男と女にもそういう魅力がある。まあというか、それ以上に何よりキュートなのだこの二人。わざと腕を短く見せているんじゃないかと思う手首の辺りで手を曲げた状態で腕を伸ばす女の振りとかクマっぽい男の佇まいとかに、くすぐられる。愛着がわいてくる。ダンサーがマスコット化していくというか。でもぼくとしてはそこに没頭していきたいのに、後半から性的なもの(しかもリアルな)が前面に出てきてしまい、そうした場面が「生きる孤独感」とでもいうべきかある種の時代(あるいは世代)を表現しよう(!)とせんがために表象されているようで余計だと思ってしまった。作品にしてしまった、と言うか。

観念のダンスからの逃走

2006年11月01日 | Weblog
岩渕さん

「吾妻橋」はご苦労様でした。打ち上げの時はあまりゆっくりせずに失礼しました。岩渕さんとは確か「こんばんわー」と打ち上げノリの笑顔を交わした記憶はかすかにあるのですが、砂連尾さんのために何かお祝いをするからともかく来いと言われた手前(ほんとは地点の方たちが今日で帰るというインフォが間違ってぼくに伝言されたようで)ともかく砂連尾さんとはお話ししなきゃと残ったものの、yummydanceの女子たちにも挨拶することはなく、桜井さんともほとんどひと言も交わすことなくそそくさっと帰ってしまったのでした。

いま、wonderland北嶋さんからのご依頼で、その「吾妻橋」のことをまとめようとしていて難渋しています。ポイントは誰が見ても、演劇系とダンス系どっちがダンスだったか、になると思うのですが、軍配が演劇系に上がってしまう場合(どうみてもそうなってしまうと思うのですが、、、)一体ダンスとは何か、あるいは一体ダンス系のひとたちのダンスとは何か、という問いが自ずと沸いてきてしまうはずです。

で、まさに岩渕さんのコメントは「一体ダンス系のひとたちのダンスとは何か」という問いにダイレクトに接続するものではないでしょうか。

>ダンスの舞台をみたり、踊ったりして「いったい何がダンスなのか」ということがとても気になります。選択したこのフレーズ(振り?)がいったいなんだというのか。そんなに「ダンス」に疑問なくフレーズが出来上がっていくものなんだろうか。(例えばですが)回ったり飛んだりしてはいけないということはないけれど、「とりあえず」で選択されているのではと思うことが多々あります。
じゃあ、なぜその振りを選択したの?ということになるとかなり恣意的というかすべて説明できるわけでもなく・・・
すべて自分に帰ってきますね。

「すべて自分に帰ってきますね」のあたりに、切実な岩渕さんのまさにパフォーマンスする身体/言語を感じてすごく気になるのです、がちょっとそこは置いておいて、まずはやはりその確信の持てない「選択」のもどかしさという点についてぼくなりに受け止めてみたいと思います。

とはいえ、まったく踊らない、まったく振り付けなど酔っぱらったときにだけわけのわからぬオルギア的ダンスを自らに振り付けてあきれ顔の妻の前で踊るだけのぼくに「選択」の問題に答える資格があるかと言えば「まったく」ないのです(!)が、図に乗ってちょっと考えたことを少々書いてしまいます。

要するに、ぼくは観客としての立場でしかものが言えないわけですが、その視線からすると、ダンスはしばしばいや実にその殆どが観念的なダンスです。ダンスはフィジカルなものというのは、実際に自分の体を動かしそこに否が応でも快楽を感じてしまう踊る人(ダンサー)にとってはそうかも知れませんが、見る側の身体が揺すぶられる経験というのはほんとに希有なのです。むしろ、たいていのダンスは「ダンスというもの」についてのそのひと(ダンサーないし振付家)の通念をただなぞっているだけに見える。ダンサーにとってフィジカルでも見る者にとっては観念的に見えてしまう。ダンスではなく「ダンスというもの」を見ているだけ、ということです。「このひとのあたまのなかではダンスってこういうものなんだな」という感想をもつとき、ぼくの体は殆ど揺すぶられていません。傍観するというか取り残されているというか。

ここで観念と言っているのは、ダンスをもとめるよりも「ダンスというもの」を追い求めそれを反復するうちにあたかもそれがダンスの実体だと思いこむときの「ダンス」を形容する言葉として使っています。それはある種の保守的傾向であり、そこに観客もダンサーも振付家も安住してしまいたいという欲望をもつことがあります(あることは分かります)。その傾向の存在は分かりますが、ぼくはそこにダンスを感じないので、そこからぼくが享受しうるのは退廃と絶望のみです。

恐らく、この「反復」に対するコンプレックス(こじれた気持ち)のみが優れたダンスを生むのです。反復からしか「ダンス」は生まれないがその反復から自由になる瞬間にしかダンスはない、ということを知っている者ののみが。ぼくの好きなダンサーはどうも皆、そのようなダンスへのこじれた関係をもつひとたち(ダンスのスパルタをくぐり抜けた、ダンスに対するSM的関係をくぐり抜けた、あるいはくぐっている最中のひとたち)ばかりではないか、とお見受けします。

ところで、ぼくが気になっているのは、ぼく(=観客)の体が揺すぶられていないことにどれだけのダンサー(振付家)が気づいているか、ということです。彼らの多くは、そんなことお構いなく「ダンス作品」をこしらえあげようとしているように見えます。そしてこのとき「作品」という概念は、自分の心の底から湧き上がってきたものという、素朴というか似非モダンダンス的な発想に縛られています。自分を「選択」の基準にするわけです。結果、私の心のたけを表現してみました見てみて下さい、というような何かが生まれます。そして、この素朴さはぼく(=観客)を疎外している、と思うのです。

作品の発表する場=発表会というダンス界の文化的保守性--それは、先日書いたダンス・トリエンナーレの斉藤さんが暗転後、拍手と共に空っぽな舞台の真ん中でおきまりなお辞儀を繰り返す時に悪夢のようにぼくを襲ってきたものでもありまして、いまだに頑なに今日のダンス界を支配しているものです。「こんな感じの作品作ってみました、どうでしょう」と、我に返ったダンサーを見ているのがぼくはあまり/とても好きではありません。その瞬間は、舞台前に観客がいたこと、観客としてのぼくがいたことが忘却されていたことを無邪気に露呈する瞬間だと、そう思えて仕方ないのです。

以上のようなわけでして、つまるところぼくは、ダンサーが観客と何かを生み出す時間がダンスの瞬間なのだと考えているわけです。そして、そこに何らかの術策が凝らされていないとフレーズの選択はすっぽ抜けてしまう、というのがぼくの結論です。

演劇系のひとたちはこの点でダンス系のメンツよりも大人、というか仕掛けがないとひとは見ないということにかねてから自覚があるひとたち、だったのではないか。あるいはセルフイメージに自覚的・批評的、といってもいい。「見られている」ことに無自覚なのは無邪すぎです。「見られている」としても何かを「見せている」としても、観客がそれを「見ている」とは限らないのですから。

だからといって、観客のニーズに応えるその意味で「サーヴィス」を目指す必要は必ずしもありません。そうすることは観客の観念のダンスを満足させることを目指すことになるでしょう、観客はそこに脳内快楽を見出すかも知れませんが(=萌えダンス)、そこにゴールを置こうとするがために観客を意識せよと言っているわけではありません。むしろ観客との関係にクリティカルに迫れ!と言いたいのです。ピンクは、その若さとかわいさで危うく単なる「萌えダンス」になりかねないすれすれに立っています。が、その状況をむしろクリティカルに反復する最後の「we are pink!」の曲でチアみたいなダンスを踊る時、かろうじてその脇をすり抜けていきます。

ぼくの目下の理解では、観客との関係は60年代アートにおいては主要な問題だった。ジャドソン・ダンス・シアターと暗黒舞踏は、この点に向けたダンスにおける二つの回答だった。彼らのアイディアはまだ汲み尽くされていない、とぼくは思っています。もちろんぼくがこのことを自覚したのはそれほど古いことではありません。けれども、このことをぼくは六、七年前から、二人のダンサーによって意識させられていたように思っています。ひとりは黒沢美香で、もうひとりは室伏鴻でした。