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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

Britannica on line

2008年02月26日 | 研究ノート 注記
Britannicaのdanceの項目。こうやって、ブログに貼り付けると、普通にアクセスしたら部分的にしか読めないのに、バリアが解けて全部読めるようになるそうです。貼っておきます。左上のSearchで検索が利用出来ます(しかし、実際に全部読める項目というのはかなり限定されているようですが、、、)。

レイナーのケージ批判

2008年02月21日 | 研究ノート 注記
レイナーは、ジャドソン・ダンス・シアターでの最初のコンサートに象徴的なように、ケージのチャンス・オペレーションのアイディアに彼らが影響を受けたことはみとめつつ、しかし、ケージに対して批判的な意識をめばえさせていった過程を、この論考「Looking Myself in the Mouth」で述べています。そこでは、例えば、「選択性とコントロール」という作家の意図的意識的な作業を持ち込んだことで、中軸たるケージから離れようとしたことが示されています。「コントロール」というのは、レイナー「擬似的概説」でも『トリオA』でひとが見るのは「慎重なコントロールの感覚である」などと言ってます。

「選択性とコントロールの再導入は、しかし、完全にケージ的哲学に対立する。そして選択性とコントロールこそ私がつねに直観的に--これで意味しているのは問うまでもないということである--私自身の作品でケージ的な工夫に圧力をかけるよう持ち込んだものである。記号論的分析の観点から、私はそれらの直観の正当性を見出した。同じ点で、現実と言うよりも表面上のものとして話す主体のケージの脱中心化をみることは可能である。」(Yvonne Rainer, Looking Myself in the Mouth, in October (17), the MIT Press, 1981, p.68)

もう少し言葉を重ねると、当時のアヴァンギャルド芸術の主たる指針とは、芸術artと生活lifeの境界線を曖昧にしていくことであり、例えば「ハプニング」の提唱者アラン・カプローがケージに触発を受けてこう述べているのが、代表的です。「芸術と生活の境界線は流体として保たれていなければならず、そしておそらく可能な限り判別出来ないものでなければならない。ひとが作るもの(the man-made)とレディ・メイド(the ready-made)との間の相互作用がこの場合、最大限の可能性をもつだろう。この接合点で、何かがつねに起こっている」(Kaprow)。こうした思考には、イリュージョンを提供するものという既存のartの役割からartを解放してそれをlifeの内へと連れ込むこと、artによってlifeの空間について反省を促すこと、artの空間にlifeの様々な事象を持ち込み反省を促すこと、などが目指されています。ケージで言えば、『4分33秒』のなかで観客が耳にするsilence(沈黙=ノイズ)は、そうしたartとlifeの境界線が曖昧になったところに立ちあらわれたものであり、それの聴取は、作曲された音楽の演奏という芸術的な場面に、生活が紛れ込んだ瞬間なわけです。

ところで、こうしたレイナーの新たな立場からすれば、ケージ主義は、観念論的でさえある、と言われます。そこにあるのは「この生活が非常に素晴らしく、相応しく、正しいと信じるよう導かれている仕方」(p. 68)であり、現実を見過ごしたまま(現実の生活には、様々な問題が当然あるはず。レイナーも意識し、バートのこのテクストで言えばシュニーマンが批判していたフェミニズム的な問題は、その一例でしょう)、生活=素晴らしいという考えに行き着くとすれば、それは観念論的な思考だと、レイナーは考えているわけです。

「これらの諸過程の外で操作をしようとする、ケージ主義的な「非意味呈示的実践nonsignifying practice」は、みずからを、言語以前の--心なし、欲望なし、差異化なし、有限性なしの、純粋な観念の領域にあるものとみなす。要するに、それは、関わらされている一方で、相変わらず踏みにじりそこねている観念論の領域なのである。」(p. 69)

レイナーによるミニマルアートとダンスの相関性(チャート)

2008年02月20日 | 研究ノート 注記
Objectsオブジェクト(美術)      //      Dancesダンス

Eliminate or minimize削除あるいは最少にするべきもの ×

1 role of artist’s hand作家の手の役割    // phrasingフレージング
2 hierarchical relationship of parts    // development and climax  
諸部分のヒエラルキー的関係        展開とクライマックス
3 texture                // variation: rhythm, shape, dynamics
表面の肌理                 変化:リズム、形状、ダイナミクス
4 figure reference 象徴的指示      // characterキャラクター
5 illusionism イリュージョニズム     // performanceパフォーマンス
6 complexity and detail         // variety: phrases and the spatial field
複雑性と細部                多様性:フレーズと空間的領域
7 monumentality     // the virtuosic movement feat and the fully-extended body
記念碑的な性格               名人芸的な動きの妙技と十分に伸展した身体

substitute代わりにあるべきもの ○
1 factory fabrication            // energy equality and “found movement”
工場の製作                 エネルギーの均等性と「見出された動き」
2 unitary forms, modules        // equality of parts
ユニタリー・フォーム、モデュール       諸部分の均等性
3 uninterrupted surface          //repetition or discrete events
途切れない表面               反復と散発的な出来事
4 nonreferential forms          //neutral performance
指示対象のない形              中立的なパフォーマンス
5 literalness               // task or tasklike activity
リテラルネス(直写主義)           タスクあるいはタスクライクな活動
6 simplicity             // singular action, event, or tone
簡素性                   単一の行為、出来事あるいは調子
7 human scale人間的規模        // human scale人間的規模


ダンスだけにして整理するとこうなります。左は要するに、モダンダンスないしバレエが念頭にあり、右はジャドソン・ダンス・シアター系のダンスが念頭にある、ということになります。

                    Dance
削除あるいは最少にするべきもの  ×      代わりにあるべきもの ○
1フレージング              →  エネルギーの均等性と「見出された動き」
2展開とクライマックス          →  諸部分の均等性
3変化:リズム、形状、ダイナミクス    →  反復と散発的な出来事
4キャラクター(特性描写)        →  中立的なパフォーマンス
5パフォーマンス             →  タスクあるいはタスクライクな活動
6多様性:フレーズと空間領域       →  単一の行為、出来事あるいは調子
7名人芸的な動きの妙技と充分に伸展した身体→  人間的規模

↑1の「代わりにあるべきもの」として挙げられた「見出された動き」という概念にはファウンド・オブジェあるいはケージのFound Soundなども含めたFound Artというものの文脈上に、自らのダンスを置こうとするレイナーの意図が垣間見られる。「フレージング」は、過度に芝居じみていて、はっきり言って不必要だと断じたレイナーにとって、じゃああるべき動きとは何かといえば、要するに「レディメイド」な動きだった。「フレーズ」についてはこのエントリーの末にレイナーが整理した部分が引用されている。

(Yvonne Rainer, A Quasi Survey of Some “Minimalist” Tendencies in the Quantitatively Minimal Dance Activity Midst the Plethora, or an Analysis of Trio A, in Minimal Art , Gregory Battocock (ed.), 1968)

ロザリンド・クラウスによる「タスクのパフォーマンス」の説明

2008年02月15日 | 研究ノート 注記
「ニューヨークのジャドソン・メモリアル教会に集まったパフォーマーたちによって水路が開かれ、ありふれた動作のダンスあるいは「タスクのパフォーマンスtask performance」というこの新しい概念は、「内面」をもたない身振りを作るというひとつの方途を活発に追求していった。バレエ的な身振りは、我々が感じるように、つねに内面に潜む意味を、音楽ないし身体の洗練された情念の意味を、現実の時間と空間が閉じ込められ既に確立された慣習によって構造化されている不可触的な領域の意味を表現する。ダンサーの身体は、決まって、これらの意味を外在化するよう働いている。従って、こうした意味がなければ、身体はありふれており、ジョガーや労働者やただ階段を降りるひとの身体と大差なくなるのである。
 「ありふれた動作ordinary movement」というダンスを考えることで、ジャドソンのダンサーたちは、いわば「日常言語ordinary language」という観念との連帯を宣言した。「日常言語」とは、言語についての行動主義的視点の内へ心/身の区別を解消させようとする哲学がもっていた観念である。語の意味はその使用である。彼らはこうしたヴィトゲンシュタインの思考をよく諺として引き合いに出したものだった(実際に読んでいたかどうかはともかく)。語の意味するところが何かを知ることは、ひとが言及するその語の「意味」の像を心の内にもつことではない。むしろ語の意味とは、その語を用い、その語を実際に運用するperformあるひとの隠れようのない能力が持ち合わせている機能にすぎない。もし心の内に想定されている像が全く主観的で私的で、私だけがアクセス出来る何かだとしても、その語が成就することは公的である。つまり、私はそれを正しく使用するか、そうでないかのどちらかでしかない。」(Rosalind Krauss, “The Mind/ Body Problem: Robert Morris in Series” in Robert Morris: The Mind/ Body Problem, New York, 1994, p. 6)