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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「ダンス建築 dance construction」

2008年02月09日 | 『ジャド』(2)1フォルティ・即興
以下に、ラムゼイ・バート『ジャドソン・ダンス・シアター パフォーマティヴな足跡』の研究ノートを引き続き、掲載します。写真は、1961年の公演での『シーソー』の模様です。この写真だとあまりよく分かりませんが、左側でしゃがんでいる観客たちはにやにや笑いながらこの様子を見ています。

なじみのない固有名詞の羅列に圧倒されると思いますが、いかにフォルティがそしてフォルティの『シーソー』がその後のジャドソン・ダンス・シアターの展開にとり重要だったかが確認出来れば、さりあたりよいのでは、と思います。この本の著者バートは、「原型prototype」とさえこれを呼んでいます。あと、興味深いのは、フォルティが自分の作品を「ダンス建築」と呼んでいることです。それを上手く理解するには、この時期のアヴァンギャルドの芸術の志向が、二次元的な絵画に三次元のイリュージョンを出現させるといった類の旧来の発想を退け、代わりに現実の三次元的な空間そのものを芸術の空間としてひらくことにあった、この点を確認しておくことは重要です。ちなみに、フォルティはこの時期、モリスと結婚していましたが、後に別れ、モリスはレイナーと付き合うようになります。この見出し(「シモーネ・フォルティとロバート・モリス」)の後半、主としてモリスを論じるところが訳し終えたら、諸々、コメントの作業に移っていこうと考えています。

ちなみに、近年のフォルティのダンスはこのようなものです。


第3章 ミニマリズム、理論、ダンスする身体

(2)シモーネ・フォルティとロバート・モリス(前半)

 サンフランシスコ沿岸でのアナ・ハルプリン(あるいは1972年まで専門家の間で知られていた名前としては、アン・ハルプリン)の講座に出ていた多くのダンサーたちがいる。彼らはその後、ジャドソン・ダンス・シアターに携わるようになった。計画的に熟慮したハルプリンの活動が発展するなか、その比較的初期の段階で、彼らがこうして講座に出席していたことは、注意に値する。リビー・ワースやヘレン・ポイナーが指摘するように、ハルプリンが非常に慎重に主流のモダンダンスに背を向け即興に関わる活動を始めたのは、彼女がグラハム流のモダンダンスの振付家としてまたパフォーマーとして広く認められるようになりかけていた1955年のことに過ぎない(Worth and Poynor 2004: 10-12)。ハルプリンの即興的ダンスの実践へ向けたアプローチは、アメリカの諸大学でのダンス学科で発展していたものだった。即興は、ハルプリンのウィスコンシン大学での教師、マーガレット・ホドゥブラーMargaret H'Doublerの活動の中心をなすものであり、ハルプリンはまたマーベル・エリスワース・トッドMabel Ellsworth Toddの著作に影響を受けていた。ホドゥブラーやトッドの教育は、体腔に関する知見また解剖学での知見を促進しようとする関心に補強されていた。ハルプリンやフォルティとともに、こうした即興へのアプローチは、慣習的な審美的感覚に支配されていたダンス教育にかなり限定された実践から、より一層ラディカルでアヴァンギャルドなパフォーマンスの実践へと移行していった。フォルティは、その初期において、ハルプリンのグループ「サンフランシスコ・ダンサーズのワークショップ」の重要メンバーであったが、1960年代にハルプリンが自分の名前を冠したダンス作品を作る前の1959年、フォルティはモリスとニューヨークで暮らし活動するために去っていった。フォルティ、レイナー、ブラウン、そしてその他の者たちは、強烈な運動感覚的アプローチを用いることで、新しい、以前には考えつかなかったような可能性をハルプリンが追求していたときに、ハルプリンとともに活動をしていたわけである。グループが協働して新しいものや未知のものを探究するための教育的状況を設定する際のハルプリンの腕前は、彼らを大いに鼓舞した。
 レイナーは最初、ナンシー・メハンを通じてフォルティと会った。彼女たち3人は1960年に一緒に即興をしようと集まったのである(Rainer 1999: 52-53)。フォルティによってレイナーは、その年に参加することになるハルプリンの夏期ダンスワークショップのことを聞いた。そこでレイナーはトリシャ・ブラウンと初めて会った。レイナー、フォルティ、ブラウンが1961年と1962年に即興をしたことを、スティーヴ・パクストンは回想している(Teicher 2002: 58)。ハルプリンのもとでワークショップに参加し、その後ダンのクラスに出ていたその他の者には、ジュン・エクマン、ロス・エマーソン、サリー・グロスがいる。彼らは皆、それぞれに、動きの研究に関心をもっていた。エクマンはアレクサンダー・テクニックの教師になった。グロスは、トッドのキネスロジカル研究に基づく整合や配置を教えていたドリッド・ウィルマンとともに活動をしていた(Banes 1994: 74-75)。エレン・サマーズもまた、ジャドソン・ダンス・シアターの一人であり、キネティックな意識の形式を発達させていた。マリアンヌ・ゴールドベルグ(2002: 30)が示唆するに、ブラウンはエクマンとサマーズとともに活動しており、そこでこうした新興の諸形式によって自分の身体意識を発達させていった。ブラウンやモリスが、またちょっと異なった仕方でレイナーが1960年代に制作したダンス作品は、身体への意識を発達させるこれらの新しい方法を利用したものであったが、利用する際にミニマルでコンセプチュアルな構造や規則を用いており、フォルティが開拓したやり方でこれらの2つのアプローチを一緒にしたのであった。
 フォルティが1961年と1962年に制作した初期作品のなかで興味をそそられる側面のひとつは、美術との関わりである。これが理由で美術アーティストであるロバート・モリスとそのとき結婚していたわけではないけれども、ハルプリンとの活動を始める前、彼女は最初自分を抽象画家とみなしていた。それがその[彼女のダンスが美術と関わりのある]理由である。後にフォルティが回想するように、ハルプリンのダンス作品は、彼女には絵画と関連するように思われた。描くときに、と彼女はアグネス・ベノワに話している。「あなたは大いに動き回り、リズムが満ちる。絵の具を置くと、深みと運動が満ちる」(Benoit 1997: 155)。だから、絵画からハルプリンとのダンスの即興へと移ったのは、フォルティにとって、ごく自然な移行だった。彼女のはじめてのニューヨークで発表した作品『シーソー』は、1960年の12月、クレア・オルデンバーグとジム・ダインのハプニングとともに、リューベン・ギャラリーで上演された。フォルティとモリスがニューヨークに引っ越すと、モリスは自分の活動の焦点を二次元的な表現主義の絵画から三次元の彫刻へと移した。そうした彫刻は、デュシャンやジョーンズに影響を受けていて、徐々に、ミニマル彫刻として知られるようになるものへと進展していった。それに従い、1961年に、フォルティは彫刻に関心をもった。1961年の5月、彼女が最初に一晩の間に催されたevening-lengthコンサートは、チェンバー通りのオノ・ヨーコのロフトでラ・モンテ・ヤングがオーガナイズしたシリーズ形式の夕べ[イヴニング]の一部だった。フォルティの夕べは「5つのダンス建築とその他のものたち」というタイトルだった。彼女はそれを「ダンス建築dance construction」と呼んだ。なぜなら「観客は、その周りを歩くことが出来た……。彫刻が美術ギャラリーの空間に存在しているように、私はそのダンス建築が空間に存在しているのを見た。観客はその作品の周りを歩き回った。彼らはその部屋の様々な空間に参与していた」(Forti 1993: 7)。こんな風に接近してダンス建築を見ることによって、座席のある観客と演舞空間との慣習的な分割を交差するのとは異なり、観客は、自分たちの身体を知覚することとダンサーたちを知覚することとの関係をより直接的に意識することとなった。その夕べの終わりに観客が3回、部屋のひとつところから別のところへ移動させられ、プログラムの最後の演目である『シーソー』を見る場所で止まったときに、このことは強められた。
 フォルティは、1974年の著作『ハンドブック・イン・モーション』でダンス建築について記している。ダンス建築には『プラットホーム』『ハドル』『スラントボード』があった。『プラットホーム』は、2つの長く薄い、人間の大きさで底の抜けた木箱を用いた、そのなかで一人の男と一人の女が横たわり交替で、息を切らせ、静かに口笛を吹いていた。箱が重いので、作品を始める際、男は自分がなかに入る前に出入り台platformの下で女を手助けし、最後は彼女を外へと出した。『ハドル』では、アメリカンフットボールでハドルと英国ラグビーではスクラムと呼ばれる状態で6、7人が非常に密着した状態になり一緒に立った。一人のパフォーマーがその一団全体の上によじ登った。その一団は、重さを調節するのに移動しなければならず、よじ登るのを促進しなければならなかった。そのダンサーがやり終えると、一団のなかの別のメンバーが登りはじめた、そして、こうしたことを繰り返していった(see Forti 1974: 59)。『スラントボード』は、45度の角度の坂にした板とかなり頑丈な木製の支柱を用いた。それには、ダンサーがよじ登る用のロープが括り付けてあった。フォルティは、これらダンス建築を「コンセプチュアルな作品」と記してきた。なぜなら、
 
あなたはアイディアとともに始める、坂を組み立て、その上にロープを括り、それでよじ登りそして降りるといったようなアイディアとともに。だからあなたは、昇ったり降りたりをもって始めるのではないし、それから運動を発展させることをもって始めるのでもない。あなたはその運動を経験することをもって始めるのではない。しかし、ひとつのアイディアから、すでにがっちりと規定された運動を行うというアイディアから始めるのである。(Forti 1993: 11)

これは、当時主流だったダンスの審美的本性についての考えから離れる非常に重要な転換である。創作過程のはじめから運動の審美的な質へ向かう感覚を自分は用いてこなかった、とフォルティは言っている。代わりに、彼女のアプローチは、自分の「ダンス建築」において生まれたどんな審美的な質も自分のパフォーマンスの実際の契機において明白になるようにする、というものだった。こうした作品のコンセプチュアルな本性は、疑いなく、カニングハム・スタジオで行われたロバート&ジュディス・ダンの作曲クラスにフォルティと一緒に出席していた者たちによって鼓舞されたのだった。しかし、カニングハムは既に確立した運動のヴォキャブラリーをもって活動していて、それだから彼の場合には、運動の質のすでに決まった範囲内で活動していたのに対して、フォルティは新しく、以前には知られていなかった運動の諸ヴォキャブラリーや審美的諸価値を発見するために、潜在的なものへのアプローチを採用したのだった。フォルティは思い返している。ダンのクラスで、ジョン・ケージの新しい音楽記譜法へのアプローチを用い、振り付け作品を作るとき、

私たちは、スコアを解釈するのに、ただ直接的に解釈したのだった。だから、スコアは多くはなかった、、、それはとても柔軟というのではなかったし、アン[・ハルプリン]と活動していたときにあった運動の質についても充分ではなかった。彼女は、すべての運動がその個別的な質をどのようにしてもつかということについて多くを語っていた。だから私たちは、多くのものを見ていたし、運動の質に敏感になりながら、互いを注視していた。(Benoit 1997: 157-9)

ここでフォルティが描写しているのは、ハルプリンがダンサーたちに提起していた即興である。フォルティが回想しているような即興の余地が、ダンのクラスにあったかは明白ではない(ibid.)。ハルプリンとの即興のときにフォルティはある感性を発見した。それは、ダンサーたちや観客たちが、ダンス建築におけるこれらのコンセプチュアルな構造によって制作された種類の運動の質のなかに発見して欲しい、と彼女が望んだものだった。
 モリスとレイナーは、どちらもフォルティへ大きな恩義を感じていると認めている(Rainer 1999: 52; Morris 1995: 168)。特にその際、自分とモリスが上演した、フォルティの最初のニューヨーク作品『シーソー』(1960)を、レイナーは取り上げた。この作品は、恐らく、その後にジャドソン・メモリアル教会で、そしてその他の場所で、後の10年に催された多くの作品にとって原型であった。その中心的な小道具は木製の厚板で、シーソーを作る木挽き台ないし架台に乗っていた。厚板の両端に付いた弾力性のある紐が、両側面の壁に括り付けられており、持ち上げるか下げるかすると「ムー」という音をたてるような子供の玩具が、厚板の端のひとつに固定されていた。モリスとレイナーは、同じパンツとプルオーバーを着て、まるで遊び場のシーソーのように厚板を上げたり下げたりするという動きのタスクに従い、厚板の両端に座るか横になるかした。フォルティはその作品の詳細を描写している(Forti 1974 37-43)けれども、レイナーがこの作品のことで覚えていることが、とくに興味深い。この作品は大して関連のない複数の出来事の連続からなっていた、とレイナーは指摘した。

シーソーは、その身体的な特性に向かっていた、一人のひとが横になり、後ろ向きで歩き、身を傾け、もう一人は横に滑り、後ろ向きに歩き、不安定な状態でバランスをとったり、といったようなね、そう、事物はじっとしたまま。そのなかには表現的なものもあった。ボブ・モリスが『アート・ニューズ』を黙読すると、もう一方の端に密着して私が最初の金切り声を上げたところなど。それは、シモーネがぼろぼろのジャケットを床に放り投げて「即興しなさい!」と言ったときに起きた。私はシーソーの端でとことんやった、金切り声を上げ叫んだ。私は待てなかった。(Bear and Sharp 1972: 54)

『シーソー』は、フォルティがカントリーミュージックの歌を歌って終演した。それをフォルティは、「レコードで聞いたつまらない歌」と記した(Forti 1993: 8)。
 この作品に関するレイナーのコメントは、表面上断片化している構成要素が組み立てられるその仕方と関係している。

その作品について構造的なところで印象に残っているのは、彼女が諸々の出来事をどんな仕方でもテーマ的に連関させる努力をしなかった、ということだった。私が言いたいのは、シーソーと2人のひとのこと、それはくっついたティッシュだった。そしてひとつの事物は別の事物を追いかける。私が迷っているときいつも、私はそのことについて考えている。ひとつの事物は別の事物を追いかける。(Bear and Sharp 1972: 54)
 
言い換えれば、レイナーが別の文脈で次のように言うような、慣習的な構成的構造の種類に対してのオルタナティヴを、フォルティは明示していたのである。「そこでは、諸要素は多様性によってテーマ的に繋げられている」し[諸要素はまた]「フレーズや空間を用いた多様性を」示している(Rainer 1974: 68)。レイナーは、美術史家ルーシー・リパードにこう語っている。自分自身の作品では、自分は断片化に興味をもっていたが、題材を完璧に探究するというほどではなかった、と。つまり「私の過程は、融合のひとつであり、それだから根元的な繋がりを見いだしていた」(Lippard 1976: 276)。これは確かに、彼女が『シーソー』に関して称賛していたことである。レイナーが回想するに、フォルティとダンは1961年の初期作曲クラスの最中に諍いを起こしていた。ダンが用意した運動の課題に対して、フォルティは詩をもってきた、ダンはそれを、ダンスとして考えることは出来ないと主張した。しかしフォルティはなぜそう考えることが出来ないのか理解出来なかった。ダンスがなぜ詩でありえないのか?ダンスがなぜロフトのなかにいる観客の集合から構成されてはならないのか?ダンスがなぜ2人のパフォーマーに関わってはならないのか、その2人が互いに口笛を交わしながら、車輪付きの箱のなかで座っており、その間、観客が[演舞]空間の周りで2人を牽引するロープを引っ張っているとしても(『ローラーズ』)?ひとはなぜ次から次へとものを組み合わせてはならないのか、こうしたことを正当化するテーマ的な繋がりを確立することなどせずに?これからこの章で示すように、これら初期のパフォーマンスでの鮮烈なほど非慣習的なアプローチは、その後新しいダンスが発展するあり方に重要なインパクトを与えたのである。