Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

さまよった

2011年01月09日 | 美術
昨日は、Iをお風呂に入れると、まずは原宿へ。蓮沼執太「ニューイヤーコンサート」。Iが生まれて間もない頃、妻は実家に戻っていて、車で毎日三十分かけて、実家に通っていた。その頃、よく聴いていたのが「wanna punch!」で、このアルバムからの曲がはじまると、あのときの生まれたての赤ん坊を湯浴みさせていたときの湯気の感じとか思い出してしまった。猛烈に明るく前向きな世界。新生児によく似合うなあとあらためて思う。今回、ユーフォニュームやビオラ、バイオリンが加わった演奏で、生音によって引き出されているのだろう生命感がいつもよりも輝いていた。蓮沼くんの音楽は、ぼくにとってはだから生まれたての生命みたいに感じるのだ。蓮沼くんが「さん、はい!」と演奏中に声をあげると、それはまるで、音楽という生き物がその瞬間だけ人間の口を宿して、声をもらしているみたいだ。フレーズがいいんだよなあ。キャッチーでポップで、けれども、初めて聴くフレーズ。絵画で言えば、線のかたちみたいなフレーズは、丹念に鍛え上げられた末に出てきたもののようにも、呼吸をするように自然に生まれたもののようにも思われる。

その後、まだ時間があるな(とはいえ、さすがに神村恵の昼の回は終わってるし)と思って、裏原宿を久しぶりにぶらぶらしている内に、ワタリウム美術館まで来てしまった。藤本壮介「山のような建築 雲のような建築 森のような建築」を見ることにした。ぼくは「山のような建築」よりも山が好きだな、と基本的には思う。都会でそういう建築でヴァーチャルに(理念的に)山を楽しむくらいなら、リアルな山に行って、登ったり下ったり、汗かいて、けがして、その多様性を堪能したい。ピュアな理念を夢想して、それを建築というかたちで具体化してゆくというのは、リアルな場所でもまれずしてイメージに耽溺する童貞性を感じる行為だなどと思いながら(2階の透明な円筒形のパーツを雲のように造形した建築は、こわれそうで、すわってもいいよ、ってなっているところはじっさいすわれない感じだったりした。なんて無知なまま書くと、建築の専門家に怒られそうだけれど。養老天命反転地はすきなんだけどな。あれは「山としての建築」というより、隠喩的ではなく山の建築だった。)、そういう理念を仮設してその仕組みを試演して行くというのがモダニズムだとすれば、それはそれでありなのかもしれないし、そんな風に思い返すと、ダンスと建築の近さなんてことに考えが及んで、いろいろと刺激を受けたりもする。ところで、ぼくには建築への憧れがほとんどない。10年くらい前に本郷の風呂・トイレなし3万のアパートも虫がわいて大変だったけれどそれはそれで楽しかったし、鶴川の2Kもいまに比べれば狭くてかなわなかったが、いろいろ工夫をする楽しさがあった。いまは広いところに住めているけれど、これが理想なのかは分からない、不便なことも多い。「自分の住み家」意識がそんなにないんだと思う。どこにいたって、どこも「仮の宿り」でしかない。

その後、荻窪へ。駅近くのまる福で中華麺を食べて、会場へ。着くと、解説を受けるが、数日前にもらったメールに書いたあった概要に変更があるという。リハもなく、本番へ。

ここからの内容は、お越しいただいた方々へ向けて書きます。本当は、本番直前の打ち合わせでは、パフォーマンス後にトークの予定がちゃんとあったのです。けれども、ご存じのように、調整に四苦八苦した結果、パフォーマンスだけで三時間近くかかってしまったので、そんな時間なくなってしまったわけです。けれども、泉太郎とまっとうにトークが出来るなどと思ってはいけない、ということも重々承知していました。ぼくは泉くんを「野生の小動物」と称することがありますが、そうしたとらえ難さというものについて考えると面白いと思うんです。作家の中には、ぼくのような批評の立場で話しやすい人と話しにくい人がいます。ダンサーや振付家の中にはそういうひとが多いです。「全身パフォーマー」のような人間は他人の目に触れている間は一秒たりともパフォーマーであることをやめません。延々と裏をかき、本心を悟らせるなんてことはしない。土方巽はそういうひとだった、といえるかもしれない。泉くんは、ちょっとそういうマジシャンなところがあると思うんです。美術作家は、自分の身体ではなく身体から切り離したキャンバスみたいなマテリアルで表現できるので、作品と自分を切り離し、批評家のように自分の作品を流暢に語ることが可能かもしれません。例えば、小林耕平さんとはぼくは会話が出来ます。小林さんの場合、禅問答のような謎をパフォーマンス空間に置き、その問いに応答するべく試行を繰りかえす作品が近年目立っていますが、ここでは、謎は小林さんの外部にあります(その謎をそこに置いたのはたしかに小林さんなのですが)。観客は小林さんと同じ立場にあるかのように、その謎を向き合います。泉くんの場合は、泉くんそのものが謎の発生源です。だから、泉くんが何かを話すとすれば、それはマジシャンが自分の種を明かすようなもので、それは基本的に聞かない方がいい、聞かなくていい、ことなのです。あるいは、マジシャンのいう種明かしなので、実はそこでは何も明かされないかもしれない、それもひとつのマジックなのかもしれない。そうであるべき、そうであってほしい、ものなのです。

だからぼくは内心、原宿でうろうろしながら「トークどうしよう」と思っていました。結果的に時間切れでトークがうやむやになった。それこそが、泉くんのトリックだったのかもしれません。(ぼくの泉太郎論は『こねる』展のカタログに書きましたので、これをご一読いただけたらと思います。Nadiffなどで販売しているはずです。)

それにしても、満員の大盛況。泉くん人気を再認識しました。あと、女子率の高さにも驚き、このあたりが泉太郎の本質かなとも思わされ。とはいえ、終演後見に来ていたKATのメンバーに「蓮沼さん行けばよかった、と思った時間があった、、、」といわれてしまいました。さすが身内は厳しい!

さまよえる三つ子の魂

2010年12月20日 | 美術
TERATOTERAのイベントで2011年1/8に泉太郎のイベントに参加します。

(以前ここにアップした情報に変更がありました。)



2011年1月8日(土)開催!
TERATOTERA 途中下車の旅 停車駅:荻窪ベルベットサン
泉太郎「さまよえる三つ子の魂」

『TERATOTERA途中下車の旅』は、TERATOTERAがプロジェクトを展開するJR中央線高円寺駅から吉祥寺駅区間に点在するアートスポットに焦点をあて、コラボレーションを行いながら、個々のスペースの活動を広く紹介していく
試みです。
TERATOTERA途中下車の旅、第7回目の停車駅は、ライヴハウス「荻窪ベルベットサン」。2010年にリニューアルオープンし、インプロビゼーション・ジャズをメインに、展覧会やトークイベント等、多彩な表現を 〈ライヴ〉 という形で展開しています。今回は、中央線エリアゆかりのアーティスト・泉太郎をフィーチャーし、ライヴハウスの空間を活用した、3つの生バトル「さまよえる三つ子の魂」を開催します。会場全体が演劇空間と化し、来場者自身も演出の一躍を担う、そんなライヴ=生を感じる一夜となります。

チラシ

日 時: 2011年1月8日(土)19:30-21:30(19:00開場)
会 場: 荻窪ベルベットサン(杉並区荻窪3-47-21 サンライズ ビル1F)
入場料: 1,500円(ワンドリンク付き)
定 員: 50名(要予約)

<ご予約方法>
メールタイトルを「途中下車の旅:荻窪ベルベットサン」とし、
本文にお名前と参加人数を明記の上、
info(at)teratotera.jp まで送信、ご予約下さい。
※(at)を@に変えて送信してください。

バトル壱.....ライブ
会場に仕掛けられた作品を操る泉太郎とバンドの即興バトル。

バトル弐.....トーク
批評家の木村覚をゲストに迎え、泉太郎の創作活動の真髄に迫るトークバトル。

バトル参.....グラビア撮影会
フラッシュの光が煌めく空間で、泉太郎がさらに撮りまくる撮影会バトル。

◎泉 太郎 Taro Izumi
1976年奈良県生まれ。東京在住。2000年多摩美術大学美術学部絵画学科卒業。02年同大学院美術研究科修士課程修了。主な個展に10年「くじらのはらわた袋に隠れろ、ネズミ」アサヒアートスクエア(東京)、09年「山ができずに山できた」NADiff GALLERY(東京)等。主なグループ展に10年「TRUST-Media City Seoul」ソウル市立美術館(ソウル)、09年「日常場違い」神奈川県民ホールギャラリー(神奈川)、「ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ」東京国立近代美術館(東京)。神奈川県民ホールギャラリーで個展「こねる」を終えたばかり。http://taroizumi.com/

◎木村 覚 Satoru Kimura
2003年に「踊ることと見えること 土方巽の舞踏論をめぐって」で第12回芸術評論募集佳作入選(主催:美術出版社)。以後、『美術手帖』などで、ダンスや演劇を中心とした批評活動をはじめる。主な著作に『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』(2009)、『ステッチ・バイ・ステッチ 針と糸で描くわたし』(2010)、『こねる』(2010)。現在、日本女子大学で講師をつとめる。
http://blog.goo.ne.jp/kmr-sato/


※次回は「TERATOTERA祭り」
日時:2月5日(土) 井の頭公園にて大友良英による船上ライヴ(日没後)開催!

TERATOTERA
http://teratotera.jp

11/20は

2010年11月22日 | 美術
美術作家の平川恒太くんの展示が原爆の図丸木美術館で行われており、ぼくは20日にトークで呼ばれて行ってきた。最近は、土曜日のおでかけは、車で妻とIとでというのが多い。思いのほか渋滞がはげしくて、予定の倍近い時間がかかってようやく到着。丸木美術館なかなか素晴らしい田舎にありました。

はじめて見た「原爆の図」は、ぼくには裸婦群像に見えました。子供も描かれているけれど、大人の男は基本的に描かれていない。描かれている女はほぼ全員が裸。この裸は衣服が焼かれてということではなく、まただからか裸体はとてもきれいなのだ。そして、ふくよかで柔らかで美しい。女性の、おそらく子どもを産んだ女性のつよく柔らかい美しさが、屏風にほぼ等身大の大きさで描かれている。だから、裸体の女性に直接出会っている感じに近く、そこには、例えばピカソの「アヴィニヨンの娘たち」を見るような手応えさえある。美しい裸体がしかし、単に美しいだけだったら、あまり説得力はないのだけれど、そこに赤・黒・青などの色が強くその美しさを汚している。両者のバランスがなんともすごくて、ここに圧倒されてしまう。うーん、やっばり、これはいい作品ですね。見ておいてよかった。

それでトークは、平川くん、ぼく、楠見清さんとバトンを渡しながら進んだ。平川くんは、これだけ表現的には「戦争」や「平和」を連呼していながら、そうした言葉は本当は使いたくない、自分は日常に向き合っていたいと話していた。そして、おそらくそのことと関連して、自分はアートを超えたいのだとも話していた。正直、彼の描く油彩画はなかなか素晴らしく、説得力があり、その方向も決して忘れて欲しくないなあと思うのだが、彼が今回「The Never Ending Story」と題して展示した作品群は、戦争と平和のテーマを、コンセプチュアルな方法で展開するものだった。彼の敬愛するボイスに確かに似ているところもある。ぼくは、そうした彼のコンセプチュアルな作品のなかにも滲み出てくる、彼らしいかわいらしさやユーモアに惹かれてしまう。透明な旗の連なる万国旗に、反戦のメッセージが描かれているものには、旗のエッジに切れ込みが1センチごとくらいにあって、それによって透明プラスチックがきらきらと光るのだけれど、こういうセンスが彼らしく、また魅力的だ。

ぼくは以前、ここにも描いた、9月の広島の旅の話をした。ヒロシマをテーマに描いた芸術家の作品よりも、広島平和記念資料館やヒロシマの人々が描いた絵の方がずっと優れているのではないかという話をした。すると、楠見さんが、それは自分の力を表現するpaintと客観的な事実を伝えようとするpictureの違いなのではないかというまとめをしてくれた。なるほど、ぼくはpictureの可能性について興味があるのかも知れない。

「けいおん!!」のことを下に書いた。と、いうより、これいいと思うと書いた。さっきお風呂に入りながら「サイゾー」の11月号(2010)を読んでいたら、アニメーションの合評が載っていた。中川大地なるひとが言うには、

「性愛や闘争といった近代的ドラマツルギーの一切をあえて排除し、成熟社会における最大限の可能的「幸福」のイメージを結晶化することで、「抵抗」が失効した世界でのロックやパンクの代替的モデルを新たに示す達成が本作だ!」

という整理をしていた。といっても、中川氏本人は、それを「信者な皆さんの心情」とし「わかるし、否定しない」として、肯定はしない。その理由として「普遍性は低い」から。つまり、「学園」ものは卒業してしまえば終わってしまうので、そんな幸福論は、人生の一時期のみのものだから空しい、ということだろう。「おれたちの身体も入りうる、その先の「楽園」像を、諦めずに探そうぜ」というのだ。

多分、「けいおん」が終わって生き甲斐を亡くしたみたいなネット上の誰かの発言に対するリアクションなのだろう。その意味では分かるのだけれど、また相も変わらず「学校」モデルにしがみついてしか物語(ここで展開されるのは、物語なき物語だろうけれど)が描けない(=普遍性は低い)のかという意味の批判としても分かるけど、大事なことは読み手がそこから転じて自分でなにをするのかに委ねられているわけで、物語がある場面を舞台にする限り「普遍性は低い」のは当然だし、もし普遍性が高い物語を描こうとしたらいいのかといえば、ぼくは疑問に思う。といって、ぼくはまだアニメーションをまったく見ていないので、なにかをいう資格はないのだけれど。

ところで、「おれたちの身体も入りうる」のくだりあたりで気になることなんだけれど、以前も書いたでしょうか、同性集団を描く物語がいま多いですよね。あるいは、歌のグループでも同性集団がとても多い。ここに、身体の入りがたさを気にするひともいるのだろうけれど、人気があるところを見ると、それがいいということもあるはずで。AKB48「ヘビロテ」なんか見てても、監督した蜷川実花の金魚を撮ったシリーズみたいな、かわいさとグロテスクさを感じる。そのあたりが気になるなあ。

と、久しぶりにちょっと長く書けた。昨日は、Iと二人でいて、そうするとパソコンの前で文章を書くなんて全然出来なくなる。しかたないので、体力作りで、長沼公園を散歩。山下達郎のラジオを聴きながら、ぷち遭難を繰り返す(たぶん、人口密度としては高尾山の100分の1というか、藪のなかを登ったり降りたりしているのはぼくと負ぶったIだけだった)。秋を堪能。Iは最近、ぶぶっーと口を尖らせてつばを飛ばすのがお気に入り。食べながらそれをするもんだから、米とかなんだとかが飛び散りまくる。インプットとアウトプットは別々にして下さい。

人間を認識する装置としての芸術

2010年11月18日 | 美術
「ある作品がよいのは、それが完成したものであるからではなく、人間の状況についての別の種類の真実が、つまり人間であるとはどういうことかを教えてくれる新しい経験が--要するに別の正当な感覚が--そこに現れているからである。」(スーザン・ソンタグ「キャンプについてのノート」)

梅津×森

2010年10月10日 | 美術
アラタニウラノで10/16まで行われている梅津庸一と森千裕の展覧会を見てきた。タイトルは「cosmetic girl and tired boy」。

狭くてワンルームみたいな空間。壁面がレモン色に塗られている。同じ色のカラーボックスがぽつんと置いてあったり、ピンクのスリッパが何足も連ねられて円になっているのが床にあったり、彼らの部屋に訪問したかのよう。梅津の油絵は、点描を効果的に用いる。点たちは絵画空間をときにノイジーに、ときに柔らかく暖かさや湿度の伴ったものにしている。街中の植栽、バスマットに触れた片足、ぽつんと一個ポンデリング、ふいにフォーカスしてしまった「なんてことのないけれどもなんだか気になってしまった対象」が一枚一枚の絵のなかで見つめられている。ドローイングもあった。もじゃもじゃと線は毛というか陰毛というか、独特のうざったくもひきつけられる感触があって、ちよっと面白かった。森千裕は「瞬間」を描く。「あっ」とか「ギャッ」とか、聞こえてきそうな、なんてことないけど平衡感覚がさっと奪われた瞬間。その運動感が画布に凝固している。ふざけているようで、そんな感覚あるある、分かる分かると納得させられる、そんな瞬間を拾ってくる器用さが、一見ラフで不器用に見えるドローイングに透けている。

と、とても個性的で魅力ある二人の展示だったのだけれど、その個性や魅力がややもすれば「そういうのが好きなひとの趣味」という話で完結してしまうような気がして、いや、完結できる魅力があるならばそれで十分ともいえなくもないのだけれど、それだけに、なんとなく「停滞」として感じられなくもないところが気になった。

その最たる部分が「彼らの部屋に訪問したかの」という印象だったように思う。二人はまるで「無防備にも自分の部屋を鍵なしで開放してありますので勝手に見て下さい」みたいに展示している。その無防備さは「わたしは裸で寝ていますので、どうぞご自由に」と言われているようでもあり、見ている側としては、「裸で寝ていられても、、、ちょっと困るな」なんて思うところが出てくる。見る者に対して無防備で、率直で、おそれがない、ということは、見る者を自由にするというより、むしろ無防備なひとを前にどうすればいいと緊張を強いるところがある。友だちの家は、必ずしもコージーとは限らない、という感じ?緊張を強いるという束縛性がなんらか意図的なものであったらいいと思う。けれど、そこはやや曖昧だと思った。

「マイクロポップ」な作家が、日常というか、プライベートというか、身の回りを出発点にしているとすれば、その振る舞いがどういった展開を今後見せうるのかといった興味は、おそらく多くのひとがもっていることと思う。その点で、泉の最近の傾向に注目している。ぼくは来月行われる「こねる」展のカタログに泉=野生の小動物と書き、彼の展示の仕方を「巣」と捉えてみたのだけれど、泉の「巣」=展示空間(とくに「こねる」展で示される最新の泉の展示)が「友だちの部屋」とどう違うのか、なんてことが気になるのだ。

その後、上智大学で林道郎、鈴木雅雄、近藤学さんと妻が行ったワークショップへ。「関係の美学」の問題圏が話題に。なんでもつながってしまうのがよかれ悪しかれ現代的な状況だ、という認識から出発すること。ちょうどぼくが8月に「美術手帖」に書いた、遠藤一郎や快快について「彼らの活動には外部が設定されていない」と考えていることと関連しているな、と思った。

発動する/させるイメージ――シュルレアリスム、アンフォルム、キャラクター

2010年09月27日 | 美術
最近のこのブログでは「妻」と呼ばれていますが、伊藤亜紗がイベントに出ますので、紹介します(妻から来たメールを転送します)。

司会、パネラーともメンバーがともかく素晴らしいので、分かる人には予想される面白さが分かってもらえると思うのですが、個人的には、観客論の今日的展開についてかなりつっこんだ&有意義な議論が展開されるのではないかと楽しみにしています。(多分、ぼくはIをだっこして、彼がぐずったら退席しながら合間合間で拝聴するといった感じになるでしょうが、学術系の方のみならず、美術系、演劇系、ダンス系の実践者のみなさん、ぜひ。)


* * *

いっきに秋に突入した感じですが、いかがおすごしでしょうか。

10月9日(土)に上智大学で開かれるイベントのご案内です。
イメージが何かを発動させること、あるいは発動させられること、そこに働いている条件や力学について考えます。
シュルレアリスムの鈴木雅雄さん、アンフォルムの近藤学さん、そして私の3人が30分ほどずつお話をして、そこからディスカッションをたちあげます。企画&司会は林道郎さんです。
わたしは、文学における描写が、どのようにしてキャラクターと読者の関係を操作するのか、描写を排除するとはどのようなことか、といった問題について考えます。
いまから、とてもわくわくしています。ぜひぜひ、お出かけください。


発動する/させるイメージ――シュルレアリスム、アンフォルム、キャラクター

鈴木雅雄「キッチュを愛すること―ブルトン、ダリ、ジャコメッティ」
近藤学「鏡と蜘蛛の巣―クラウス/ボワ『アンフォルム』の観衆論的射程」
伊藤亜紗「嫌・描写―まなざしなきイメージ」
司会:林道郎

主旨:イメージ――広くオブジェや「作品」と呼ばれるものも含む――は、それを見る者、読む者、受けとる者に一体どのように働きかけるのだろうか。そのような「パフォーマティヴィティ」の視点からのアプローチは、近年のイメージ研究の潮流の一つを成してきた。このワークショップでは 、三つの異なるケース・スタディを踏まえながら、あらためてそのような方法の可能性と限界について精細に論じてみたい。シュルレアリスム研究の最前線を突き進む鈴木雅雄、出版が待ち望まれる『アンフォルム』の訳者の一人である近藤学、独自のキャラクター論を展開する伊藤亜紗の3人の発表を一部とし、二部では司会と参加者を交えた自由討議を展開する。

日時:10月9日(土)午後3時~6時
場所:上智大学四ツ谷キャンパス10号館301号室

主宰:The Image-Site-Audience Project
後援:日本学術振興会

「里山の古い建物にて」→秩父神社→長瀞

2010年09月26日 | 美術
昨日、車で埼玉県比企郡小川町というところに行ってきた。あきる野から圏央道に乗り、関越道にスライドして嵐山小川まで、一時間ちょっと。あっというまに降り立ったところは、なかなかすごい田舎の景色だった。下里分校。手塚夏子さんが地元の藤野でGWなどにイベントをやっているけれど、あの景色ととても似ている。あれもたしか学校を改装したところが会場だった。まず、近くを流れる小川を眺めたり、牛の声に耳を傾けたり、学校に居着いたひとなつっこい猫を撫でたりした後で、さて、展示を。

目的は、小林耕平。周知の通り基本的に映像の作家。「2-9-1」というタイトルの新作が小さな教室で流されていた。

あたりまえといえばあたりまえだけれど、素晴らしい。17分ちょっとの少し長い作品をなんども見続ける。作品のなかに登場するオブジェ(ティッシュ箱、土偶、ペットボトル、羽の付いた車用ブラシなど)が教室のあちこちに置いてある(撮影場所はこの教室ではなかった)。ご本人からいろいろと興味深い話をうかがったが、ぼくが思うに、この作品は、ダンス作品といっていえるのではないか、ということだった。別にいわなくてもいいけれど、これをダンス作品だといってもいいし、いったときに、いわゆるビデオダンスについての考え方も様変わりするだろうし、ダンスそれ自体についての考え方もフレッシュなものになるのではないかと思ったのだ。

特徴としては、ひとつに固定カメラ。小林の最近の作風は、カメラマンをたてて、自分はファインダーの内側に入ったり出たりと出演者になるというものだった。今作も、小林は出演するが、カメラマンはいない。さしあたり「カメラマンと被写体」というテーマはだから発生しなくなり、ぼくはそこに小林作品の面白さを感じていたので、最初「あれ」と思ったけれど、「カメラと被写体」のテーマはもちろん健在で、これまでより一層見応えのある深みのある作品になっていると思った。

もうひとつの特徴は、言葉。小林はしゃべる。しかも、そのしゃべりに合わせて字幕が出る。パフォーマーの言葉は、見る者を冷静にさせない。期待を与えたり、暗示を与えたり、見る者を待たせる。さてそこでパフォーマー/見る者、どうするか、といった事態こそ「パフォーマンス」といわれる場の真骨頂だろうし、そこで起こる両者間をまたいだスリリングな時間こそ「ダンス」という呼び名を与えるに相応しいなにかではないだろうか。また身体動作のレイヤー、身体から発せられた音声のレイヤー、またそれに基づいて作られる字幕のレイヤーなど、小林の身体から発せられる情報だけでも多くのレイヤーの重なりからなっている。その小林が、さまざまなオブジェをあれこれと動かし、またそれらについて言及する。オブジェの質、色、大きさ、相互の関係などが、ここで、強い作用をともなっている。見れば見るほどそうした緊張ある関係に気づく。

この展覧会は、他には伊東孝志、柳健司、新井淳一、滝澤徹也の作品展示がある。28日まで。都合によりあまり宣伝ができないということなので、知らない方も多いかもしれませんが。是非。また小林さんは柏islandでの展覧会「脱臼」展でも同傾向の作品を出品予定らしい。楽しみだ。

午後には、妻もぼくもはじめて土地なのでぶらぶらしてみようということで、和紙の里でそばを食べた後、秩父駅周辺へ。そういえば、椹木さんの地元ってこのあたりなんだっけ、とか話しながら、観光地のようであまりそういう感じでもない不思議な町並みを散歩した。高校生の自転車は、なんだかチョッパー化されていて、この土地の若者風情を感じる。名物という豚の味噌漬けを買う。秩父神社はカラフルで、虎や猿やクジャクが本堂の外壁を元気に飛び交っている。「見ざる・言わざる・聞かざる」ではなく、ここの猿は「見る・言う・聞く」なのだそう。情報化社会に対応してて、また高齢化社会の理想でもあるらしい。そんな立て看板の口上がおかしい。

帰りに長瀞の岩畳に寄る。岩畳までの100メートルくらいの道は、両側びっしりとおみやげ屋になっていて、江ノ島とか井の頭公園とかを連想させる。いつか船下りしてみよう。

「せーの!」

2010年09月22日 | 美術
9/19は柏のislandでトークイベントに招かれた。Iと妻と3人でてくてく1時すぎくらいに家を出て、武蔵野線などを乗り継いで、会場についたのが3時半過ぎ。長旅でした。柏は面白いなー。今年の夏は、軽井沢、青森、京都、広島などいろいろな街に行ったけれど、都心に近い田舎ほど田舎的なところはないのではないかと思った。「田舎的」というのは、他人への意識が乏しいと言うところで、ファッションのセンスにしても、若いカップルのいちゃつき方にしても、人々の目線の感じとかにしても、何かがちょっと違う。洗練されていない、といえばいいか。具体的に何がとはいいにくいのだけれど、何かがちょっとずつ歪んでいる。パラレルワールド。いや、未来の日本なのかもしれない。

「Neo New Wave」展に出品している若者たちとの「しゃべり場」。ぼくは「大人」役ということだったので、話を聞き出すことに専念。同じ大人役の窪田さんがとても大人だったのでぼくは随分楽してた。大人はあんまり表情を変えちゃいけないんだなーと窪田さんの涼しげな横顔をチラ見しながら思っていた。

会がはじまる前に遠藤一郎君と「せーの!」の話をしていた。彼は、わくわくKYOTOプロジェクトでたくさん「せーの!」と書いてきた、と。佐藤雅彦特集の『美術手帖』では、彼の連載頁にやっぱり「せーの!」とある。「せーの!」のこと、遠藤君が家に来たときに、話題になったのだった。ここでも書いたかもしれないけれど、小林耕平さんが行った展覧会に出品していた作家・川戸由紀さんが、小さなフェルトの刺繍の上に「いくよ!」とか「せーの!」とか書いてて、それがなにやら遠藤君の言葉とシンクロする気がして、面白かったと彼に伝えたのだった。そのとき、彼の発言で印象的だったのは、川戸さんの刺繍を見せたらその筆致に「(自分と)似てる」と漏らしたことだった。遠藤君は、そういえばと絵はがきを見せてくれた。それは彼が活動の最初期に富士山をバックに「GO FOR FUTURE」というロゴを掲げて未来へ号の上に乗っている写真で、写真の上部には彼の宣言文らしきものが載っている。「一生懸命やっていこう」とはじまるその文の最後に、

「せーの いくぞ!!!!」

とあるのだった。

「せーの!」とはなにか。それはアートなのか。それのどこがアートなのか。それをアートと見なすとした場合に、どんな地平が広がるのか。

なんてことを考えつつ、「しゃべり場」がはじまり、その後半で、加藤翼君が「幸せ」というテーマを出してきた(この「しゃべり場」、各作家がひとつしゃべるテーマをスケッチブックに書いておくことからはじまったのだった)。そして、加藤君は、ある程度話が進んだところで、自分が幸せなだけじゃ幸せではない、といったことを口にした。加藤翼君は、ご存じのように、巨大な箱を紐で引っ張って倒したり立てたりするパフォーマンスを行っており、そのアイディアを「ハードコア・コミュニケーション」と呼んでいる。巨大であると、一人では倒せない。彼の最初期の作品では、自宅の駐車場で、ひとり箱を引っ張っている加藤の姿に、加藤の母親が気づいて、手伝う、という模様が映像化されている。こまっているひとに思わず手を貸してしまう状況を設定することで、「力を合わせる」という状況を自ずと生む、というのが加藤の戦略。ここにあるのも、いうなれば「せーの!」だ。

遠藤の「せーの!」と加藤の「せーの!」。遠藤は「せーの!」という標語をあちこちに書くことを自らの表現行為にする。そうした標語を先に置くことはせず、自ずとそうした状況に巻き込まれた参加者が気づけば「せーの!」と息を合わせる、それが加藤の表現。

川戸さんも合わせて、「せーの!」の作家がとても気になる。

明日 islandで 11月神奈川で

2010年09月18日 | 美術
明日の19日island@柏でトークイベントに出ます。
『真剣neo-new-waveしゃべり場』
よろしくお願いします。

あと、おととい、泉太郎についての論考を書き終えました。
神奈川県民ホールギャラリーで11月に行われる「こねる」展のカタログに掲載される予定です。こちらも、ちょっとさきですが、よろしくお願いします。



2人が見ている未来の美術

2010年06月20日 | 美術
SNACにて7/10にトークイベントを行います。

今年は個人的にぼくが会ってみたい魅力的な作家、制作者の方たちを誘ってトークするということに力を入れてみようと思っていまして(ただただ自分でそう思って実行しているだけなんですけど、いやほとんど気づけばそんなオファーをあちこちにしているという自分でもわけわからない状態なんですけれど!)、まあ今のところどこのメディアともつるんでいないのですけれど、可能ならば機会を見てどんどんやっていこうと。下の快快もその一環なんですが、この高橋さんと伊藤さんにお話を聞くというのは、ぼくにとってはかなり特別なものです。

2010年代のはじまりに、わくわくするような企画を産み出しているお二人。お二人の思いの中に美術の未来みならずアートの未来が隠されているような気がするんです。これは予感ですし漠然としたものですが、予感こそ大事なんじゃないかと思っている今日この頃です。

乞うご期待!

加藤翼

2010年05月10日 | 美術
一昨日は、いろいろと美術館/ギャラリーをはしごした。「六本木クロッシング2010展:芸術は可能か?」は、宇治野宗輝の展示と入り口前の大きなスクリーンに映されたChim↑Pom「Black of Death」が素晴らしく、知らなかった作家のなかではとくに加藤翼がなにかわくわくさせる存在感を放っていた。御柱祭みたいだ!これのどこがアートなの?と問う前にこれがアートだとしたらアートとは如何なるものかと考える方がいいと思うんだ、その方が楽しい。You Tubeにはこんな映像がアップされている。

クロージング鳥小屋 加藤翼

g g g(グランドール・グラウンド・グラディエイター) 加藤翼

午前に六本木に行った後、SNACで八木良太「事象そのものへ」、αMで田口行弘の展示を見た。久しぶりに神保町へ行って昼ご飯、たまたま入ったつけ麺屋の近くの古本屋にてポンタリス『魅きつける力』を購入。

田口行弘

2010年02月11日 | 美術
昨日(2/10)の夜にVacantでフォースド・エンタテインメントを見たのですけれど、その前に、高円寺の無人島プロダクションで「移動」展を見てました。ぼくはそれまで知らなかったんですが、田口行弘、すごいいいです。Vacantでcontact Gonzoとコラボもしていたんですね。彼は要チェックですよ。

田口行弘のHP

基本的にはアニメーションの技法を用いた映像作家に見えますが、いろいろな要素が全部盛り(ミニマルアートからサイトスペシフィックから介入からパーティからマイクロポップから、、、)で、とても魅力的な作家であろう、今後一層そう評価されるだろう予感がします。何より明るくて前向きな感じがいいんです。