Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

木村→大橋さん

2007年05月30日 | Weblog
新作『9 (nine)』に関連して、多摩美術大学で、ぼくと大橋さんとで、公開稽古+過去作品鑑賞+トーク・イベントを5/19に行いました。来て下さった方、本当にありがとうございました。
その後に二人で交わしているメール・リレーをこのブログで公開しようと言うことに、大橋さんと二人で意見が合いました。

ということで、これからしばらく、アフター・トーク・イベントなイベントとして目下継続中の二人のメール・リレーをアップしていきます。(読みやすくするための多少の加筆修正は含まれています。)


---

大橋可也さま

ちょっと根本的なこと、みたいな話をさせてください。
率直に話したいと思うので、そうした形で書きますが、気分を害するかも知れません、最初に謝っておきます。

大橋さんが社会的状況を意識して作品作りをしているということは、承知しているつもりです。

ただし、先日(5/19)の多摩美で行ったトーク・イベントでぼくがポスト・モダンダンスと大橋さんの作品とを比較しようとして上映したトリシャ・ブラウンやラウシェンバーグのパフォーマンス(ダンス)作品について、大橋さんは、これを見るのはブルジョワだけだろう、面白くないと批判しましたよね。そのことは、正しい面もあると思っています。ただし、そう彼らを批判する大橋さんの作品が、彼らを批判するのに十分な方法論を呈示しているかは、まだ不明確だとぼくは思います。

つまり、アプローチとして、根本的に異なることをしている、とまではいかないですよね。

彼らのアプローチのどこがブルジョワの楽しみでしかないのか、どう変えるとそうしたレヴェルをジャンプしたアプローチになるのか。という点に、ある結論を見出した時に、はじめて大橋さんの彼らへの批判は「妥当」だと納得できる、ということになると思います。

そして、おそらく、志のある作家達がいま共通に見すえているポイントというのは、そのあたりにあるのではないか、とさえ、やや大げさに聞こえるかも知れないけれど、ぼくは思っています。音楽系のひとたちのアプローチの中に明らかにそういった性格のものを見つけることが出来るからです(d.v.d.など)。文学にも少しあります。

もちろん、着地点に見えている景色が何なのか、ということが大橋さんとぼくとでは違うかも知れません。でも、ダンスを社会的な問題の一部として考えると言うことは、共通していると思います。ので、少し話を進めさせて貰います。

簡単に言うと、なぜ、作家は、何かを隠しながら何かを観客に見せるのだろうか、ということが疑問です。

大橋さん、そのことどう思いますか。ダンスはとくに、見る者に理解不能な部分というものを多く含ませたままでいます。しばしば。そして、しばしばそれを一種の利点にして、ダンスは「高級芸術」であると社会的に了解させてきた、という解釈も出来ると思います。いわくいいがたいものが芸術的であるというのは、近代のはじめからいやローマ帝国の時代からそうでした。厳密に言えば、「理解不能」といってもそこには、歴史的に見ても、あるいは方法論的な差異を鑑みても、程度の違い次元の違いがあって緻密に議論すべき点はあります。ちょっとその点は、言い出すと長くなるのでここではひとつだけ、大橋さんにとって、何かを隠すと言うことが、どういう機能を果たしているのか、と言うことの意見をともかく聞かせてもらいたいです。

さらに率直に言えば、ダンサーのスコアはなぜ観客に隠されていなければならないのか、ということです。見ている内になんとなくわかってくるように作ってあると(もし大橋さんが答えるとして、勝手に先読みしてすいません)いうのは、そうした関係をつまり「何となく分かりにくくしているものを分かって下さい」という関係を観客に迫っている、ことになりませんか、さて、そこでパフォーマーと観客との間に起きているのは一体どういう社会的な関係なのでしょうか。

作家の個人的な意思は数学みたいに明確に伝えることは不可能であり曖昧にしか伝えられないものである、故に曖昧な表現方法をとる。あるいは、明確にしてしまうと解釈が一元化されて、観客の解釈可能性を制限してしまう、故に曖昧な表現方法をとる。

こうしたアートの曖昧さの原理は、芸術の神秘性を助長し、芸術を生きながらえさせてきた何かなのかも知れませんが、ぼくの視点からすれば、その原理への拘泥こそが、何かをせき止めてしまっている、観客とパフォーマーの関係を制限してしまっているように思えて仕方がないのです。

そうですね、ちょっと思い返すと大橋さんの初期の作品を拝見すると、個人語りのようなシーンがあったりして、そういうところは、disclosureなアプローチかも知れない。でも、その場合、物語的な方向にどんどん傾斜しがちで、イリュージョン的な方向に行ってしまう嫌いもありますよね。

なんか、あまり伝わらないメールになってしまったかも知れません、すいません。つまり、大橋作品においてスコアはいま隠れている、その理由は何でしょうという質問でした。スコアをオープンにすることが作り出す観客との関係をなぜ大橋さんはとらないのか、という質問でもあります。そこに、大橋さんの考える社会的状況への応答というのは、どういう形であらわれることになるのでしょう。

もちろん、これに言葉でというよりも作品で答えて頂けたらそれで構いません。でも、お時間があって何か教えて頂けることがあれば、教えて下さい。是非。
私の知り合いで良いダンスの公演を紹介したい方はダンス以外の文脈で何人かいます。その人達が面白いと思うのは、きわめてダンス的な問題をクリアーしていることと同時に、ダンスの内輪的な制約に拘泥しない大胆なアイデアを呈示することに違いありません。

そんなことを考えている内に、上記の質問が思い浮かびました。

乱筆乱文にて、失礼しました。

木村覚

5/26

2007年05月27日 | Weblog
第5回ダンススタディーズ研究会に足を運ぶ。
第1回目に出て、その後、ご無沙汰になってしまっていた。

発表者(ゲスト):勝川史憲 慶應義塾大学スポーツ医学研究センター助教授
テーマ:「バレエの解剖学(仮)」

慶應義塾大学(日吉)が会場。行く1時間前にニュースで、はしかの件でしばらく慶應も休講になったと。この研究会も休講なのかと心配になり、大学に問い合わせたら、学外者はどうぞ自由に、という話。自己責任ってことですかね。上智を筆頭に、縁のある大学でのきなみ「はしか休講」の話を聞く、でも、K大も多摩美もいまのところ大丈夫そう。罹る大学罹らない大学の違いって何なのだろう。

徹底的に骨と筋肉の構造からバレエを理解する講義。語彙が難しい。ほとんどついて行けなかったが(「今日の講義は難しかった」とレポートに書く学生の気分がちょっと分かる)、ある筋肉を徹底的に鍛えたことで生まれる奇っ怪なダンスというものがあったら、すごいな、などと夢想してしまった。

七時から、綱島にある黒沢美香のスタジオに初見学。すべてがここから生まれているのか、と思うとあらゆるものに感動。あれこれの作品の小道具がそこここに置いてあるとか。今日は『一人一曲』作品の稽古の日だった。ジャドソン系のダンスのエンジンをひとり日本で運転し続けた作家であるとともに、ジャドソンとは明らかに違う、内側から漏れ出すダンスを無視しないダンスへの猛烈な愛情をもつ作家だということを、あらためて確認。あたりまえですが、日本のダンスは黒沢抜きには語れないです。

5/24 5/25

2007年05月25日 | Weblog
5/24
K大学での講義は、前期に笑いを後期にダンスを論じることにして今年で三年目になる。毎年笑いについてこの講義のために考えている。笑いというのは本当にみずもので、あっという間に面白いとされるものが変わる。というか、面白いものがどんどん色あせ消えていく。このスピードの速さは、あまりにも悲惨だと思うのだが、誰かがそれを止めるなんて出来るはずもないものなのだ、きっと。最初は、フットボールアワーなどネタがしっかり出来る漫才に注目が集まり、ピン芸人ネタが受けたかと思うと(去年は桜塚やっくんの年だった)、今年はなんだ、これは、「面白くないもの」の年になりそうなのだ。テレビで受けている芸人たち、とくに新人たちの共通点は、「あまり面白くない」なのではないか。ザ・たっち、ハリセンボン、ムーディ勝山、、、など。それが意味していることはいったい何なのだろう。分からない。けれど、言えるのは、今年笑いを講義で話すことがなんだか上っ滑りしているように思えてしようがないと言うことだ。「笑う」ということにリアリティを感じることが出来ない学生たち(全員がそうとは言えないけれど、雰囲気としてそうしたものがビンビン伝わってしまうのが今年なのだ、なぜか)と笑いについて考えようとすることは、なかなか難しい。一方で、笑いは過度に高度化している気がする。昨年のM1を取ったチュートリアルは、かなり狂っている。講義中、即興的に分析してみたんだけれど、そうとうクレイジーなことをやっている。シュールなものをシュールなフレイバーを香らせてとかじゃなく普通にやってしまう。だから、二重に分からなくなる。そこが、すごいのだが、そのすごさは、笑えないひとを増やしている気がする。そうか、日本に国民的ヒット曲が数年前から無くなったように、日本に国民的笑いというものももう無くなってしまったのかも知れない。そうなのだろう。

5/25
本棚を購入。自分で組み立てる式なので、電動ドリルでぱつぱつ仕事をして、いままで1メートルくらいの平積みのタワーが4~5出来ていたのをようやく、片づけた。いろんな本が出て来た。
古川日出男『サマーバケーションEP』読了。
ドリー・アシュトン『ニューヨーク・スクール』(南條彰宏訳、朝日出版社、1997年)読了。
こんな素晴らしい本があるとは知りませんでした。つねにひとには、あらかじめ条件が課せられている。その条件からどんなひとも自由ではない。アメリカで画家であるという条件は、ひとつの大きな枷であり、大きな遅れを余儀なくした、と同時に戦後のアメリカ美術という現代美術の礎を牽引した熱を与えることにもなった。アシュトンの眼差しは、つねに、この画家を幸福にも不幸にもした条件から目を離すことはない。愛情と慰めに満ちた目に読みながら付き合うというのは、なんか読んでいる自分も救われるような、いい気持ちになる。気持ちのいい読書を久しぶりにしたなー。

なかでも、ホフマンのくだりが良かった。ホフマンは、1936年に私学を開き、ニューヨークに、ヨーロッパが支配していた20世紀美術のあり方を伝えた。いわゆる「ニューヨーク・スクール」の思想的支柱となり、輪郭を与えたのがホフマンだったと言っても過言ではない。事実、グリーンバーグもホフマンの影響を受け、ホフマンを通してキュビスムについての考えを形成していった。ある弟子は、そんなホフマンについてこう振り返っている。

「有名な「押して引く理論」の他にも、ホフマンは美術が魅惑的なものであることを教えてくれた。芸術家の人生で最も大切なことは、芸術が実在しているばかりか、芸術という存在が魅惑的であると確信を持つことであるが、ホフマンはその確信をしっかりと握っていた。」

若い作家達に勇気を与えたホフマン。ところで、ぼくがなんとも酸っぱい気持ちになってしまったのは、英語が苦手で、何を言っているのかほとんど聞き取れなかったというエピソード。ええっ!

「ホフマンは英語が達者ではなかったので、それを克服するために、風変わりな極めて個性的な我流英語を開発した。授業はその英語でなされたのである。学生たちはホフマンの発言を意味は分からぬままに記憶したこともある。(後年、かつての教え子のチーム・ワークによって、ホフマンの述べた公理は解読される。)しかし、ホフマンは大げさな身振り、変わることのない熱意、実技指導、そして奔流のような言葉の力で、現代ヨーロッパ美術の原理を伝えることができた。彼は当時のアメリカでそんな教育が出来たただ一人の教師であったと思われる。学生に対する彼の人気はぬきんでていた」

な、なんだって!大人気の先生が何を言っているのかほとんど(明確には、、、ということなのでしょうが)分からなかった、というのは。もう、ほとんど「スピリチュアル」(!)な次元ではないか、と疑いを掛けたくもなる逸話、けれど、こういうなんだかよくわからないが、ひとを引っ張っていってしまう熱って、ある時期にとっても必要だったりする、ということは事実なのかもしれないなあ。まあ、アメリカ人、単純だな、とも突っ込みたくなるけれども。アシュトンのまとめ方がいい。

「アメリカ人の無邪気さにもよさはある」

んー、でも、芸術の後進国アメリカの苦悩は、日本にだって該当するだろうし、非ヨーロッパのどの国のアートもこの点についてはドングリの背比べ、だろう。むしろ、ホフマン的な渦が起こりにくいことにこそ、いま憂慮するべき点があるのかも知れない。そう、なんだか、ある種の若い子たちの無邪気さ、奔放さが、最近気になっている。いいんじゃないかと。

5/19 5/20 5/21

2007年05月22日 | Weblog
5/19
『9 (nine)』関連イベント(@多摩美術大学←まえの記事でうっかり玉川美術大学と表記してしまったがそちらに行ってしまった人居ないですよねって、そんな大学はない)。公開稽古には、50人を超える、学生を中心とした観客が来て見てくれた。その後のレクチャーは20人くらいだったろうか、二時間、トークと大橋作品二本を鑑賞というなんというかヘヴィな時間につきあってくれた。どうもありがとうございました。W大出身の作家志望くんも来てくれた。彼はいまサブカル系講義のもぐりをしているらしく、菊地成孔芸大講義を聴講したときの話をしてくれた。そうか、爆笑なのか、、、と嫉妬すると、そのことでAに笑われた。

5/20
アラン・プラテル・バレエ団『聖母マリアの祈りvsprs』をオーチャード・ホールで鑑賞(数日前「アノニマス」という名でコメントがあり、その内容にかなり落胆してしまい、しばらくダンス公演についての感想はこの場で書かないことにしました。ですので、つまらないブログだからもう読まなくていいですよ、来ないでください匿名のひと。あと、匿名のこのひとからいまのこの文に対するレスポンスもとくに求めません。なんか、こう「~読みました。この公演についての文章についてぼくはこう感じました」みたいな建設的なコメントはほとんど誰も(いないわけではなくて、「おやつテーブルvol. 1」へのコメントなど建設的な意見交換が一切ない、なんてことはなくあるのではありますが、ほとんど皆無に等しく)言ってくれない、というのももうここに書かなくていいや、という気持ちになった一因です。つまらない中傷をされてまで書くこともないのでは、と思ってしまっている、ということです)。その後、新宿に出て、バーニーズにて誕生日プレゼントを物色。当然、カップルの多い店内、どうしてこの二人が、、、みたいな疑惑や妄想が勝手に次々とスパーク。5月の心地よい風と光。伊勢丹に行くとメンズのフロアがちょっと変わっていた。夕飯は、K国料理のM屋に。カムジャタンがやっぱりとても美味い。美味いものはときに悲しいような気持ちになる。記憶を逆なでさせられるからだろうか。Aと一年前、アーニャという名の友人と彼女の帰国前日にここに来た時のことをお喋りした。最初に来た時に比べれば、辛さの免疫が出来てしまって、もう少し辛くったって良いよ、と言いたくなってしまう。

5/21
多摩美講義。今日は、キュビスムの続きと未来派、ダダイズムを俯瞰するという内容(ダダイズムについては全然時間が足らなくて、次回に持ち越し)。講義の冒頭に突然、画面が黄色くなり、最初の二十分くらいがその対応で潰れてしまう。で、やっぱりあわててしゃべってしまう。まだこの講義の調子がつかめない。ただ、講義後、学生が必ず残って質問や意見など話しに来てくれる。こういう時間がとても嬉しい。しかも結構入れ替わり立ち替わり毎回違う学生があらわれてくれる(顔なじみも出来て、それはそれで嬉しいですよ!もちろん)。なんか、みんなあまりにいい顔しているので、つい話し込んでしまう。気づいたらブルトンの『ナジャ』における恋愛論について熱弁している自分に驚く。今回から、講義前の三十分、「余談コーナー」と称して、ぼくが学生諸君に見せたいビデオをVJする時間を勝手に始めた。今回は、R・コーフェイ率いるトーランス・コミュニティ・ダンス・グループによる「Praise You」のビデオ(もちろん、Fatboy Slimの曲、スパイク・ジョーンズの監督作品)とカニングハム(トリシャ・ブラウン「ウォーターモーター」は後日にお預けとなった)。さらに、講義後には、彫刻科・諸材料専攻の学生達がいま校内で自作展示をしているので「講評」をして欲しいと招いてくれた。ぼくが言えることなんてそんなないよ、、、と言いつつ、二時間くらいじっくり付き合った。いまこの作品より、それぞれの今後が気になり、そのために、作品についてけっこう詳細に質問していた。彼女たちは、自作を説明する訓練を受けていると言っていたが、確かに細かい質問にも頑張って応答してくれた。そのことが強く印象に残った。すごく真面目で、じっくり取り組んでいるということも感じた。その後、食堂で一時間くらいか、おしゃべりした。学校の開いている時間9:00-21:00の間ずっと制作という毎日なのだそうだ。ダンスとか、シアター・アーツに興味はない?と聞くと、ある学生(黄色い服を着た、黄色いドリアンの彫刻を作っていた、ね)が、自分を前に出すより、作品の後ろで観客を覗いているくらいの関係が好きだと言っていた。なんか、それ、ウサギの罠みたいだね、と伊藤存の作品とか思い出しながら答えたけど、そのあたりが、観客に対する美術作家とダンス作家の基本的な違いなのだろう。

5/15

2007年05月15日 | Weblog
エアギターに関する情報HP
でも、エアギターについて云々言う前に、ぼくとしてはエアじゃないギタープレイのパフォーマンス的魅力についてしっかり把握しておきたいものです。

夕方から、自宅にまた振付家・ダンサーの皆さんが集まってくださり、暗黒舞踏のレクチャー。最近始めたこういう小規模の、作り手の側に向けたレクチャーでは、一応教えるという立場に立ってはいるけれども、ぼくも教わるところが大いにある。ダンサーから見たダンスというものを勉強させてもらう。

気流というか、nhhmbaseという気象

2007年05月15日 | Weblog
5/13
忙しさから一抜け(ーっ)して、見に行ってきました。電車のなかでは、明日の講義の学生たちに先週書いてもらったレポートの束をチェック。何分、200枚はありますので、読むにも手に持っているにも大変で束を電車でハデにまき散らしてしまわないか(「シュパパパーッン」と宙を舞う200枚のA4紙を想像し、イヤ、どうせ飛ぶならいっそハデにいっちゃえ、などと居直りつつ)、とひやひやものでしたが、いや、ぼくは学生のレスポンスを読んで初めて講義がリラックスして出来るようになる人間なんだと、そのことを今回も痛感しました。顔(何を考えているのか)が見えない状態で話すというのが基本的にすごく苦手なんす、とくにトーク・イベントとかじゃなくてひとりの場合は。漢字の間違いがあまりに多いのには驚き(!)ましたが、でも、よいレポートも散見出来、また自分のアイディアをどのようにどこまで吸収してくれているのかというのは自分のしゃべりのフットワークそのものを形成する重要な知識で、それを提供してくれた学生諸君にはまずは感謝したい(ってレポート課題に平身低頭の非常勤講師)。
-----------
nhhmbase presents10 「空欄に千とするコスモス」
54-71
OGRE YOU ASSHOLE
nhhmbase
開場18:00/開演18:30● 前売¥2.000/当日¥2.500● ドリンク別
-----------
会場に向かうラブホ街で、五反田団の前田司郎氏のブログの話になる。A曰く、前田さんは毎日ある決まった喫茶店で原稿書きの仕事をしているらしいが、どうもラブホ街の近くのようだ。そうか、じゃあ東急の喫茶店?

OGRE YOU ASSHOLEは名古屋のバンド(らしい)。若くて、リアリティのある風貌と演奏を支えているのは、一定の演奏能力と80年代前半のブリティッシュ・パンクを模範にしているだろう「リフ」へのセンスだろうか。「リフ」つくるの好きだったな、中学でバンドやってたころ、とか思い出す。エコー・アンド・ザ・バニーメンとか好きだったので(本当に今となっては恥ずかしい話ですが、当時中坊だった僕は、さらに彼らをかなり意識していた日本のバンド・エコーズ(いまは小説家として知られている辻仁成がリーダーだった)が大好きでした、「リフ」という点で、です。かねてから、このロックの「リフ」とミニマル・ミュージックの反復とかを並べていつかまじめに考えてみたいなあ)。

54-71はハイハット+バス+スネアというシンプルなドラムとベースにキーボードで、キーボード担当が時折ラップを入れるというリズム隊バンド。悪くはないんだけれど、一曲目終わった時に、これをこれから40-50分続けるの?とやや飽きてしまったのは事実。骨太のアイディアはしかしシンプルで聞き応えはある。ただ、もうちょっとルアーがあるといいのではなどと思っているとAが「イリュージョニスティックなんだよ」と一撃。そうだね、シンセのノイジーな音とかがベタッと音像として時間を支配する感じは、壁紙として機能してしまい、音楽としてのスリルというか聞き手をはっとさせるところがありそうでない、演奏者の企みほどには出ていない、と思ってしまった。

今夜のnhhmbaseは、ぼくがこれまで見たなか(と言っても三回目、、、)では一番荒々しいライブとなりましたが、素晴らしい!ほんと狂気の気象というかですね、あまりに素晴らしいんで揺れている観客に交じってにやにやしていると周りもみんなにやにやしているというなんともスリリングで感動的な時間でした。そう、「気象」という言葉が浮かぶんですよね。気まぐれな天気。嵐のなかであそこだけ晴れてるじゃんみたいな。未来派の画家・ボッチョーニが印象派だったら!みたいな。激しさと静けさ、大胆さと繊細さが、一瞬一瞬で入れ替わる。パンクがもっている凶暴な快楽が、そのまま純粋培養の植物になって、それを何気なく一口しただけで「いって」しまうなんていう感じ?

それにしても、ぼくはなんてこうエピキュリアン(快楽主義者)なんでしょうか。伊藤存と狩生健志とnhhmbaseが横並びのブログなんてクレイジーだと自分でも思うけれど、こういう「あっちゃこっちゃへ移動」=横断的状況でないとダメなんすね。ダンスのみ、演劇のみ、音楽のみ、美術のみ、民俗芸能のみ、美学のみ、哲学のみ、というわけにいかない。業というかカルマというか、こまったものです、すこぶる楽しいです。

Who is the Blow?

2007年05月11日 | Weblog
この妙に魅力的なダンスは、いったいどうしたことだろう→The Blow "True Affection"

たまたま、□□□のビデオYou Tubeで見ている内に出会ったこのThe Blow。曲も素晴らしく魅力的なんだけれど、その魅力を累乗させているのがこのヴォーカリストのダンスであることは間違いない。だって、アップされているビデオがなんか過剰に多い気がするし、しかもそれらのほとんどはライヴを盗み撮りしてきたもので、故に熱意を感じてしまうそのカメラ越しの目線は、すべて彼女の踊りに注目しているとしか思えないのだ。

この曲は、ともかく腕のダンス。それも見ているとなんか利き腕じゃないように思える方の腕がずっとやや不器用気味に揺れている。利き腕どころか「利き体」(こんな言葉ないっすけど)じゃない体が揺れている、ってその感じが良いのだ。多分それは、彼女が喋りながら歌いながら踊っていることによるものと想像する。なんか別のことやっているからだって魅力的なのだ。なんでだろ、どうしてだろ。器用じゃない分どこに行き着くか予測不能で、その不安定なフライトを眺めるのが楽しい。「フライト」ってそう、確かに彼女のダンスには機械的な要素が含まれていて、この曲のはまさに、微妙な静止を伴うロボットダンスというか一人曲にノってるシャドーダンスというか。→The Blow 曲目分からず

このダンスなんかも、なんだかすんごくいい。→The Blow "Her Boy Seattle"

あ、とまんない、この曲なんて踊りも曲もライヴの雰囲気もとてもいいなあ、もう!→The Blow "parentheses"

ぼく今日初めて知ったんですがもう有名なグループなんでしょうか。『Studio Voice』のポスト・ロック特集とかでは、丁寧に紹介されていたりしたものなのでしょうか。

5/9

2007年05月10日 | Weblog
佐々木敦「ニッポンの小説(家)の誕生 プチ佐藤友哉論」(「論」に×)
東浩紀+仲俣暁生「工学化する都市・生・文化」が今月号の『新潮』に掲載され読む。

また『文學界』の
高橋源一郎「ニッポンの小説」では、先月から戯曲家の小説が取り上げられている。先月号はポツドール、今月は岡田くん。

感想についてメモ書きしておきたいのだが、何分時間も気持ちの余裕もなし。

5/8

2007年05月09日 | Weblog
ようやく頭がまわりはじめた。ともかく、時間がないので、すいすいと進めなきゃいけない(原稿)。たいてい「はっ」と気づくのは朝にタバコを買いに行くときというのはどういうことなのだろう。考えながら歩く、歩きながら考える。よけいな景色が見える。冷たい風が体を通る。一旦寝たことで体がリセットされている。そんな身体の質が、アレ!と記憶の倉庫から不意に宝物を引き出してくる。歩くコースが、思考のコースを刺激する。

昼の一時に、一人お客さんが来て、ポスト・モダンダンスの映像を2時間みっちり見続ける。ひとに話すと自分の頭が整理される。思考も可視化しなければならないのだろう。『アキュムレーション・ウィズ・トーキング・プラス・ウォーターモーター』(1979)は、本当に素晴らしい。DVDで出ています。すべての人類におすすめします。「アキュムレーション」という極めて算術的な構造の作品と、「ウォーターモーター」という極めて幾何学的な作品とが、2つの物語を話すという極めて説話的なものとともに、ひとりのトリシャ・ブラウンというダンサーの身体の内で組み合わされる。しかもその状況への実況中継的おしゃべりも加わって展開される、驚異のミクスチャー。80年代のインタビューによれば、彼女はこの時期、公演の最初の演目でかならずこの作品を上演していたのだという。なぜかというと「私が生きてまた起きていること、私が彼ら[観客]を見ることの出来ること、彼らが私の息を聞くことの出来ることを観客に知らせるために、つまり私が人間で感情をもった存在であることを知ってもらうために」(TDR, 1986)だったと言う。ぼくが漠然と夢見ている理想のダンス公演の姿はこれだったんじゃないか、という気がしてしまう(フラットな照明の中、観客に語りかけながらすごいシンプルだけれど魅力的なダンスをぼくレヴェルで素人なダンサーがデュオで踊る、というダンスを漠然と「良いな、見てみたい」と思っていたのだった)。

三時過ぎに、プライベート・レッスン(というか、ぼくとAとでビデオ見ながらぎゃーぎゃーいう)を終えると、東京見物(取材と称する)をしに六本木ミッドタウンへ。ショッピング・エリアの値札が、すべてちょっと良い店のさらに二倍の値段なのに、なんとなくAと二人でしょんぼりした気持ちにさせられる。バブリーな気分てやつかこれ(セレブなんすか)。ゴミ箱に使うような木の皮で編んだなんてことないかごが8000円する。

そこから、リトルモア地下でやっている伊藤存の展覧会へ。すばらしい、ともかく素晴らしい。ぼくは伊藤さんと同い年だ(今日、いっこ年が増えてしまったけど!)。同年代としていい嫉妬を感じる。へんな表現だけど負けたくないと思ってしまった。刺繍の作品が5作だったか、それとドローイングが沢山展示してあった。ビデオ作品も2作。一本の線から引き出すことの出来る様々な可能性が、一人の作家の中で爆発している(つまり、ひとつの展覧会で呈示しているのが一個二個の発見ではなく百個、という感じ)。変容、展開、ひとつの出来事がひとつの意味に落ちていくことの決してない、豊かな運動の世界。

5/7

2007年05月08日 | Weblog
多摩美での講義。3回目。まだ全然慣れない。1月になっても慣れない気がする。235名の単位登録者のいる階段教室で、一体どう緊張しないで話ができるというのだろう!階段教室の下の方で深海魚の気分。アンコウみたいに自分で自分に光をともしてしゃべる。どこみて話したらいいか分からないので、うろうろと、ときどきうえのほおーに顔を向ければ突然、太陽のような何かで眩しい!と、見ればプロジェクターの光源だったりして。ただ、考えてみるとこんな機会、今後そうないことなのかもしれない。毎週、200人ほどの観客の前でソロ・ライヴをやっているパフォーマーはそうは多くないのでは。それを一年で30回くらいするのだ。そのときそのときの気分を記しておくと、「シアター」について考えている自分のためにちょっとはなるのではないだろうか(そう、最近、ダンス批評と言うより、シアター批評とでも言うべきものをやっているのでは、自分は、という気分になっている)。

今日は、狩生くんのDVDを見せようと思って用意していたのだが、まだ機材になれず音声がでなくて流せなかった。残念。今日は、狩生くんの「国ドットコム」はもっていったのに、「キャンプ」の例として見せようとしたマーサ・グラハムは忘れてしまった。「キャンプ的な目が認めるのは、その人物の統一性であり力である。年老いたマーサ・グラハムは、一挙手一投足においてマーサ・グラハムを演じているといった風だ」(ソンタグ「キャンプについてのノート」より)。ソンタグ曰くキャンプは「経験の演劇化」ということで、シアトリカリティ(アンチシアトリカリティ)の話の延長で、キャンプをとりあげた。何も用意せず観客の前に立ち困るという狩生くんのパフォーマンスもぼくにとっては「シアトリカル」な状況の大事なサンプル(そのもっとも裸出的な!)なのだった。

ただし、今日のメインは「アヴィニヨンの娘たち」を論じるレオ・スタインバーグの議論だった。アンチシアトリカルであろうとする閉じたモダニズム(フリード的)的絵画とは対照的な開いた絵画とでもいうべきシアトリカルな絵画としてスタインバーグは、「娘」を取り上げ、そしてモダニズムの偏狭さから離れ、絵画と見る者とが交わす自由でダイナミックな空間をそこに見て取る。

「「ラス・メニナス」のように、「アヴィニヨンの娘たち」において、どの二人をとってみても、われわれ見る者を無視してお互いに交流し合っている人物はいない。そして中央の三人は、見る者に直接にどんどん語りかけてくる。彼らは能動的でも受動的でもなく、ただ警戒しているのであり、われわれが彼らに注ぐ注視にこたえている。ここには物語的で客観的な行動から、見る者に中心をおいた経験への移行があらわれている。見る者が誘われて構成要素となるのだから、この絵は自存的な抽象絵画ではない。そして「アヴィニヨンの娘たち」の構成を封じ込められた絵画構成と分析するならば、それは作品を十分に直視していないからである。この絵は女性の攻撃性の高波であり、人はこの絵を攻撃として経験するか、あるいは受けつけないかどちらかなのである。しかし、見る者に対する攻撃は行動の半分にすぎない、というのは、この絵が画面のこちら側の見る者に包みかけようとするので、見る者も同じやり方でお返しをするからである。」(スタインバーグ)

講義後に、リヒターの作風の内にはアンチシアトリカルな要素があるように思う、と質問というか意見をしてくれた学生がいて、刺激になった。本当は、あらゆる絵画、というよりもあらゆるパフォーマンスを「シアトリカル」の視点からみていくといいし、それをしてはじめてこの議論はファンクショナルになるはずだ。

イベント告知

2007年05月06日 | Weblog
大橋可也+東野祥子のプロジェクト「9(nine)」(ちなみに、音楽は中原昌也が担当)に2つのトーク・イベントでかかわります。

5/19(@多摩美術大学)は、稽古公開の後に、大橋の出世作『あなたがここにいてほしい』と最新作『CLOSURES』をフル・ヴァージョンで上映するという贅沢企画、稽古見学+ビデオ鑑賞から大橋可也の作品世界を大づかみで理解できると共に、そうしたアプローチがなぜ「ダンス」なのか、なぜダンスの分野から生まれてきたのか、という点について大橋可也本人とトークもする予定。

6/30(@多摩美術大学)は、6/16の「9(nine)」本番(@多摩美術大学)などを踏まえた上で、現在のダンス・シーンあるいはアート・シーンで起きている地殻変動・価値転換について、大橋可也と突っ込んだ議論をしようと思っています。また、ゲストを招く予定あり(異ジャンルの方を候補に検討中です)。

参考までに、wonderland誌に書いた「CLOSURES」の記事を添付しておきます。