Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「驚愕と花びら」

2011年01月14日 | ダンス
1/9に大橋可也の振付作品「驚愕と花びら」という公演を見た。

ぼくは、根っから舞踏的方法が好きなんだとあらためて思わされた。大橋作品というのは、暴力的だったり、厭世的な雰囲気が感じられたり、近づきがたいところがあるようにも思うのだけれど、それは大橋可也の外見と似ていて「外見の話」であって、中身に注目してみれば、とても繊細な振付による繊細な出来事が狙われていて、ぼくは大橋作品のそういうところが好きだ。今回は、「疾駆する身体」ワークショップで選ばれた若いダンサーたちが多く起用されていた。若いダンサーたちは、まだ感度の悪いところもある。「感度」は大橋作品では重要で、なぜならば振付はおおよそ自発的に動くことよりも、受動的に動かされることが意図されているので、動くのではなく動かされなくてはならない、つまり自分を動かす他者の存在をダンサーたちはちゃんと感知していなくてはならないのだ。そこに不在の他者が浮かび上がってこそ、大橋作品は輝きを放つようになる。

何度もいろんなところで書いてきていますが、土方巽のダンスの思想のとても大事な部分というのは、ぼくはこの受動性だと思っています。例えば、土方はこんなこと書いてます。

「これは前にも話したことなのですが、悪寒というものがあります。何か気の中に、気息の中に含まれているもので、何か悪寒がする、あるいは何か悪い感じがする、あるいはそれを通り越して〈何かある〉という感じです。以前、二十年位前のことになりますが、私にはそれらの悪いものや予感に敏感になって、それら空気の中に含まれているものが私をうかがっているという感覚が大変敏感な一時期がありまして、「来るゾ」と言うと必ず来るようなことがありました。」(「風だるまの話」『土方巽全集 』p. 151)

ぼくの目には、とりたてていうような新しい試みはなかったように思われた。むしろ大橋は、いままでに培ってきた方法やイメージの精度を高めようしているように見えた。冒頭に、場内アナウンスを大橋自ら行ったときのなんだか「陽気」とも形容できそうな軽快なしゃべりが一番印象に残った。あとは、最後の最後に、パイプ椅子を舞台内に放り投げ、横たわっているダンサーたちの上に載せ、しかばねの山のようなものが出来ると、今度は、床に向かって、貼ってあった黒いシートを思いっきり、びゃーっと引きはがしたシーンが印象的だった。

四日前にi phoneを買った。ようやくスマートフォンを手にするようになった。どんどん自分の身体が、なにかをじっくりと味わうことよりも瞬間の快楽の方にむかっているのを感じる。80年代にはトーキング・ヘッズのような身体性が注目を浴びたわけだけれど、ここにも今日的な受動性の身体があらわれているように思う。この痙攣性は、ポップになり得た。舞踏のよいところでもあり、難しいところでもあるのは、見る者がその動きの妙に没入しようとすれば時間がかかる、ということにあるように思う。

以下は、公演を見た翌日に大橋さんに送ったメールの一部です。

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「驚愕と花びら」。興味深く拝見しました。

とくに、なにより印象に残ったのは、大橋ダンスの方法というのが、ある程度、ダンサーズではないダンサーたちでも遂行しうるということでした。もちろん、最後の組、がはじまるとテンションがぐっと高まり、やはり身体の状態が違うとは思いましたが。とはいえ、見られないものではないというのは確かで、まだまだアイディアに対して感度が不十分なのは事実であっても、その動作から見る者が感知すべき踊りのありかというのは、感じられました。夏の枇杷系スタジオでも感じたことなのですけれど、大橋さんのいまというのは、方法の錬成というところにあると思っています。ダンスとして味わいのあるポイントを緻密に練り上げ、仕上げてゆくこと。それは、バレエにも匹敵するような強い方法を編みだすことでしょう、それが可能なのは、舞踏というアイディアがそもそも強さをもっているからだと思いますし、大橋さんの行っているのは、舞踏がどこまで方法的に洗練されうるのかということだと認識しています。そのステップを確実に進んでいると感じました。

あと、舞踏の面白さというのは、身体の状態(の変容)にあるのだと再確認しました。ぼくは最近、アニメーションのダンスと人間のダンスを等価に見るとしたら、どんなことが考えられるのかということに興味を抱いているのですけれど、人間のダンスにしかできないのは、この身体の状態の変容を見せることです。こんな状態にもなりうるんだという発見は、解放となって充実した鑑賞体験になりうる。そういうことは、ときどき忘れてしまうのだけれど、大橋作品に触れると思い出します。(なので、定期的に上演して下さい。)

その上で思うのは、大橋作品には、一定の真面目さが貫かれているのだけれど、室伏さんや和栗さんを見ていると、むしろ一定の不真面目さが貫かれていて、対照的だということです。和栗さんの「肉体の迷宮」見たのですけれど、和栗さんの身体で起きていることはつねに面白かったです、いや、和栗さんの身体以上に和栗さんの頭のなかで起きていることといった方がいいかも知れません。ふざけているようにしか思えない不思議な状態は、舞踏ならではで、舞踏の面白さのひとつだなと感じたわけです。そうした和栗さん(ぼくはあの公演をほとんど和栗さんのソロとして受けとっています)と比べると、大橋作品はバレエに近い。ゆるぎない美学の展開に感じます。どっちがいいというのではなく、そこが興味深く思います。
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Iはすくすく成長中。昨晩、帰宅すると、挨拶の代わりなのか、おそらくそらみみではない「ぱぱ」を口にした!もうすぐ1歳。

明日(12/8)はベクトルズ(@SNAC)

2010年12月07日 | ダンス
一昨日は、文フリにて『KAT』お買い上げ頂き、まことにありがとうございました。
予想をやや上回る45冊売れたのだそうです。強気の800円としては、相当画期的な売り上げではないでしょうか。
(といって、ぼくは12:00にIと一緒に会場に到着するとブースにはほとんど居ることなく、ロビーのカーペットに倒れ込み、学生の1人にIをまかせて寝込んでいたのでした。急性胃腸炎で38どの熱が出て、おなか下してました)

なにかいろいろ出会いがあったらしく(アラザル女子会さんとか)、出来たら女子×批評でイベントなど出来たらいいのになあと思いが膨らむのでした。学生たちは、いまから就活氷河に冒険に行くところなので、実際問題としては難しいかも知れないんですけれど。

ご購入頂いたみなさん、感想をいただけたらと。雑誌の最後のページにアドレスが載っていると思います。よろしくお願いします。

ところで、明日はベクトルズの集会があります。

SNACで。タイトルは「ダンス的美学の未来」

今回は、桜井さんとぼくとでダンスについて語りまくろうと思います。かなりフランクに好きなダンスの話を延々しようかと。佐々木さん、大谷さん、呆れないでくださいね。You Tubeで見られるものに限定しようということになっていて、基本的に、お客さんにはスマートフォン持参で起こしいただけたらと(なくてもなんとかなるようにします)。

例えば、こんなのについて話しますよ~
http://www.youtube.com/watch?v=Vw-qlHuktJs

桜井さんの話はまだまったく聞いてませんが、個人的にはとても楽しみ。桜井さんのダンスをチョイスするセンスは半端じゃないですから。楽しい時間になること間違いなし、きっと、たぶん、。

明日、清澄白河で会いましょう。


神村×大倉

2010年09月19日 | ダンス
昨日は、神村恵と大倉摩矢子「尻尾と牙とまた尻尾」を見るべく、車で出たら井の頭公園あたりで渋滞。まったく動かず。土日は車ででかけちゃだめだったららしい。とても楽しみにしていたのに、残念無念、、、気をつけます(涙)。

tinkerng or prop dance

2010年05月26日 | ダンス
「家庭にあるもののひとまとりぜんぶが寄せ集められ、一緒に踊られる。これらは偉大なミュージカルがつねに形成し続けてきた諸連関に他ならず、つまりこれらはミュージカルが強調する連続性に間違いない、そう、わたしたちが話すとそれは音楽へと引き寄せられ、わたしたちの歩き方はダンスの内へと入り込められる。そしてわたしたちの家のなかにあるものたちはみな即興されるバレエのために用いられる可能性のある小道具なのだ。」(マイケル・ウッド『アメリカ・イン・ザ・ムーヴィーズ』p. 156)

Jane Feuerは、『ザ・ハリウッド・ミュージカル』(1993)のなかで、上記したウッドの文章を引用したうえで、ミュージカル映画のなかでどれだけ小道具がダンサーたちの重要なパートナーとなっていたのかを振り返っている。「プロップ・ダンス(小道具を用いたダンス)」と呼ばれることがあるこうしたダンスを考察するのに、Feuerがレヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」概念を援用しているのは興味深い。 すべてではないのだけれど、Feuerが言及するもののなかで、You Tubeで見ることの出来るリストを作ってみた。最初に出てくるのは、これ。

Moses Supposes: Singin' In the Rain by Gene Kelly and Donald O'Conner

ケリーとオコナーは発音の先生にいらいらして、彼をからかいながら手もとにあるいろいろなものを使って、例えば、カーテンを衣服にしてみたりして、その場をどんどん教室とは違う場所にしてゆく。

うーん、面白い。

そこで、クロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』(1962)に戻って、ブリコラージュの定義を見てみた。

「原始的科学というより「第一」科学と名づけたいこの種の知識が思考の面でどのようなものであったかを、工作の面でかなりよく理解させてくれる活動形態が、現在のわれわれにも残っている。それはフランス語でふつう「ブリコラージュ」bricolage(器用仕事)と呼ばれる仕事である。ブリコレbricolerという動詞は、古くは、球技、玉つき、狩猟、馬術に用いられ、ボールがはねかえるとか、犬が迷うとか、馬が障害物をさけて直線からそれるというように、いずれも非本来的な偶発運動を指した。今日でもやはり、ブルコルールbricoleur(器用人)とは、くろうととはちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう。」(クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』、みすず書房、p. 22)

思いもかけぬ方向に飛んでいってしまうことが語源であるとして、それが「器用仕事」とでも訳せる意味合いをもつようになったことがまずはとても面白い。もちろん、いまとくに注目したいのは、「非本来的な偶発運動」という表現で、たまたまの「運動」を「非本来的」とはいえむしろその点を逆手にとって、未知の可能性へと変換してゆくことが「器用仕事」であり、Feuerがそれと重ねようとしているミュージカル映画での「プロップ・ダンス」なのではないか、ということだ。次の『パリのアメリカ人』は、「もしどんな小道具が手元になくても、パフォーマーは道具として自分の身体を用いて小道具を擬態するかもしれない」(The Hollywood Musical, p. 4)例としてあげられている。

An American In Paris by Gene Kelly

次の『ロイヤル・ウエディング』は、「この種の手直し[原文はtinkering。ブリコラージュと同義の語としてFeuerは用いている]が、実際のところは技巧的なノウハウの妙技であるようなナンバーに自発性の抗しがたいアウラを与える」(ibid.)こととなる例である。重要なのは、自発性のアウラなるものは見る者をひきつける力の話であるならば、その力の源泉として示唆されているのがブリコラージュだということである。ここで「ブリコラージュ」とは、ダンスの相手がいないから、仕方なく何かを捉まえてきて、パートナーをでっちあげる努力のことではないようだ。いないのにいることにすることが問題なのではなく(ダンサーの不在を補うことが問題なのではなく)、そこにあるもの(小道具)に別の可能性を与えることであり、そうすることによって可能になること、すなわち「自発性のアウラ」をその場に作動させるもののこと、なのだ。

Royal Wedding by Fred Astaire

Feuerはさらに「アステアとケリー両者にとって、小道具は小道具としてあらわれてはならない」(ibid., p. 5)という。「むしろ小道具はその環境内に存在する現実のもの(actual object)という印象を与えなければならない。」(ibid.)例としてあげられるのは、モップやゴルフ・クラブやボール、花火、ピアノや椅子、ステッキなどを踊りのパートナーにするこうしたナンバー。

Thousands Cheer by Gene Kelly

Carefree by Fred Astaire

Holiday Inn by Fred Astaire

Let's Dance by Fred Astaire

Top Hat by Fred Astaire

小道具から議論は「環境」へ。Feuerが「環境のコレオグラフィー(environment choreography)」と呼んでいる空間に存在するものをすべてダンスのパートナーにしてゆくアイディアは、もちろん、『雨に唄えば』のもっとも有名なタイトル曲の場面にも該当するものである。それの名も確かにあげられるのだけれど、例えば、これなども。

Living a Big Way by Gene Kelly

これと「雨に唄えば」の違いを丁寧に考えてみるのはきっと生産的だろう。ここではダンサーを鼓舞するのは子供たち、対して「雨に唄えば」では?とか。アスレチックなスポーツマン(スケート・ボーダー)のようなケリーと、「雨に唄えば」のケリー。

ところで、今回Feuerの本に出てくるナンバーをYou Tubeでチェックして、2番目に感動したのがこれ。昨日、家で子守しながら見ていたのだけれど、Iはぎゃははと笑いながら見てました(どこを見て笑っているのかは本人に聞いてみないと分からない)。生後四ヶ月にしてどうもダンスが好きみたいです。

It's Always Weather by Gene Kelly etc.

ゴミ箱のフタを足にはめて踊るところに、Feuerは注目するのだけれど、このナンバー、どこもすべてすごい。冒頭のくねくねダンスは、ぐちゃぐちゃ酩酊チャールストンにも見えるが、体をおもちゃにするゲームにも見える。タクシーのところもいい。

そして、一番感動したのはこのナンバー。Feuer曰く「ケリーによるすべての環境的な着想のなかでもっともすぐれている自発性の印象は、舞台のキーキーときしむ床板や新聞紙から突然あらわれる。」(ibid., p. 6)

Summer Stock by Gene Kelly

すごいいいですよね。感動するな、本当に。

ちょっとした「あれっ?」からダンスが生成する。キーキーいう床板は、突拍子のない思いつきによって、突如としてダンスの相棒と化す。「相棒」なんだけど、擬人化とは違う。床板はいつまでも人間の相貌を帯びることはない。どんどん半分にちぎられてゆく新聞も、人間には見えない。むしろここにあるのはこんな身体もダンスのパートナーになりうるのだという発見だろう。だから、むしろダンスの相貌こそここで変容している当のものではないだろうか。これもダンスなのだ、というわけだ、そのことに感動しているのだ、きっと。これがディズニー映画であれば、新聞紙も床板も「くん」づけしたくなるような擬人化が施されることだろう(とはいえ、かのディズニーでも彼らを人間化するのはなかなか大変だろうが)。ものの相貌は相変わらず変容しないのだけれど、何かが変化して見える。このことにうなってしまう。

あらためてレヴィ=ストロースに戻ってみると、彼はこんなこといっている。

「とりわけ大切なことなのだが、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて並べ出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選ぶのである。彼の「宝庫」 を構成する雑多なものすべてに尋ねて、それぞれが何の「記号」となりうるかをつかむ。」(『野生の思考』、p. 24)

ちなみに、「宝庫」のところに註があって、「ユベールとモースは、魔法をいみじくも「アイディアの宝庫」と呼んでいる」(同上、p. 25。引用者による加筆修正あり)とある。なんでもない小道具は、魔法=ダンスによって、別の何か(記号)へと変換させられ、その魔法は、この変換作用を通して、踊りの空間そのものを別の世界へと変容させてゆく。

最後に、Feuerは、アステアとケリーの違いをこう整理している。

「アステアは一種の失望からプロップ・ダンスを用いているように見える。つまりどんな肉体を有したパートナーも彼の天分(grace)には合わないのだ。ケリーはそれを特殊なアメリカ的慣習と解釈し、ブリコラージュに古きよきアメリカ的創意工夫を与えるのである。」(The Hollywood Musical, p. 6)

Cf. Jane Feuer, The Hollywood Musical, 1993.

ベクトルズ

2010年03月13日 | ダンス
3/30にSNACでベクトルズのイベント行います。

テーマはダンス。
よろしく!


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「ベクトルズ」@SNAC

来るべき「ダンス」のためのプログラム

超長時間収録のCD-ROMマガジンで異彩を放った批評誌「ベクトルズ」の同人三名(大谷能生・木村覚・佐々木敦)が、「ダンス」の未来について徹底的に討論します。身体と思考、運動と批評の相関関係を問い直す、ハードコアかつプレイフルなディスカッション。ぜひご参加ください。

日時:2010年3月30日(火) 18:30 open / 19:00 start
場所:SNAC
料金:1,500円

〒135-0022 東京都江東区三好2-12-6-1F

東京メトロ半蔵門線、都営大江戸線「清澄白河」駅 5番出口より徒歩2分、A3出口より徒歩4分


お問い合わせ:
プリコグ info@precog-jp.net 03-3423-8669(担当:奥野)

ご予約方法:


WEBサイト http://snac.in/ のCONTACTのページより、題名を「ベクトルズ予約」とし、本文に「お名前・希望枚数・電話番号」を記入の上、送信ボタンを押して下さい。こちらからの返信を持って、ご予約完了となります。
なお、定員になり次第、受付を締め切らせて頂きます。ご了承ください。

SNAC http://snac.in/

今日は

2010年02月28日 | ダンス
今日は、森下スタジオで大橋可也&ダンサーズ『春の祭典』のワークインプログレスの上演のさらにゲネプロを見せてもらい、その後、神楽坂のセッションハウスで『動くポリへドロン』を見た。両作品とも、作家の強さを感じた。よかった。何かメモを残したい。だがとても疲れているのだった。

一昨日は、チェルフィッチュ『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を見た。なんだか、会場に向かう途中の横浜線で出会ったヤンキーたちのことと舞台とが重なって見えて、そんなことをメモしておきたいのだけれど、疲れすぎてて書けない。

昼にKATのメンバーからメールをもらった。太宰治を読みつつ、そこから繋いで、ブログ的人間性とでもいうべきことがらについて考察した文章だった。面白かった。転載してもいいか打診中。

分類、というよりは

2010年02月23日 | ダンス
ダンスの分類というエントリーを書いてみました。

書きながら考えていたんですけれど、ぼくの欲求はいまの状況(や可能性)を分類してしまいたいというのとは違います。例えば、コンテンポラリーダンスの作家Aをこのマップのどこに配置することが出来るか、とAの名前をマップ上においてゆくことは出来ないわけではないと思うんですけれど、そうして、「彼/彼女はここのポジションであるからしてかくかくしかじかである」と判断してしまうことは、事態を分かりやすくはするけれど、むしろその人物の活動を深く考えないようにしてしまう可能性があります。少なくともいまはそうした作業はしないようにします。大事なのは、例えばこういう4つのポイントがあると考えてみること、そのポイントに自分はどう関係しているかと考えてみることで、そうすることで自己への反省が出来るんじゃないかと思っています。黒沢や室伏という名をあげましたけれど、どんな作家にも、この4つのポイントが深く関わっているなんてことはありうるでしょうし、作品毎に力点が違うということもあるでしょう(わかりやすい例か分からないけど、トリシャ・ブラウンの「アキュムレーション」には彼女のダンス作家振りがより反映されているが、「ウォーターモーター」を踊るブラウンからは踊り子性も天才性も強く感じさせられる、なんてことはあると思う)。

もちろん、この4つのポイント以外にもあげるべき事柄はあるのかもしれない。(例えば、お稽古モデルというのはダンスの現場をとにもかくにも強く縛りつけている人間関係のモデルだ、こういうものとか)でも、さしあたり横軸が作家のあり方(そう観客が読み取るという事態も含めて)を、縦軸が観客とのあり方を反映しているというのは、それなりに有効性をもったものとなるかもしれない。

またこういうマップを描いてみることで、批評の立場の者も自己反省することが出来るだろう。自分を相対化すること。相対化しつつ、その上で何が自分にとってかけがえのないものなのか、考えること。

自分がどんな「たこつぼ」にいるのか。「たこつぼ△」が「たこつぼ□」を批判するとして、それが何を意味するのかをあらためて反省すること。例えば、ぼくは比較的A象限にあるものを評価したり批判したりし、その分B象限にあるものを評価しなかったり評価できずにいる、ということが見えてくる。それがなぜなのかを自分なりに反省することが出来る。ちなみに、AとB象限はぼくは審美的にまた芸術論的に批評できるけれども、CやDは社会現象として興味深くは思うがAやBを見るのとは違う眼差しでしか見られない、ということも考えられる。でも、例えばCやDをAやBが牽引することもあるだろうし、CやDのポテンシャル(その社会現象的な意味を考察しつつ)をAやBの作家が活かすこともあるのではないか、なんてことも思う。そこにはどんな可能性があるのかと考えるその能力(想像力)が批評家に問われるだろうし、その基準から批評することもあるだろう。ダンスの作家も同様のことを行うだろう。その基準を意識しつつはぐらかすこともあるだろうし、批評のぜんぜん追いつけない素晴らしい想像力を発揮することもあるだろう。そんな風に、ダンスをめぐって創造性を競うゲームが生まれたらいいなと思う。もちろん観客もそのゲームのプレイヤーであるはずだ。あいつはダメだと自分の「たこつぼ」の論理から批判しててもあまり幸福にはならないだろう(ぼくのブログ上での振る舞いがそう見えたとしたら反省しなきゃいけないと思っています)。とはいえ、いろいろな趣味があるのだからそれぞれはそれぞれを楽しめばいいというのも、むなしい。もちろんすべてを公平に見る判断基準なんてないだろう。

重要なのは、現状がどうかということよりも、これからどうしたいのかどういうことができるのか、「想像力」を発揮することだと思うんです。雑な言い方だけど、想像力は自分の枠の外に出る能力ですよね。外に出ることから活発な状況が生まれるといいのではと思いながら、いまの作業を試しにやっています。ダンスの上演は、想像力のゲームであり得るんじゃないかと思うんですよ。

ダンスの分類

2010年02月21日 | ダンス
コンテンポラリーダンスの状況(いや、現状というよりも存在していないけど可能性として存在していてもいいものまで鑑みた上で)を、例えばこんなマップに転写してみることはできるか?


            踊り子(王子/舞姫)
               |
               |
      B        |          A
               |
天才 --------------------------- ダンス作家
               |
               |
      C        |          D
               |
             同人ダンス

□縦軸/横軸について□
縦軸(踊り子--同人ダンス)は、観客がどう受け入れているかを示す。上に行けば行くほど観客はダンサーに萌えている(憧れている)、下に行けば行くほど観客はダンサーに仲間(同人)意識をもっている。
横軸(天才--ダンス作家)は、作家の作品作りへの意識を示す。右に行けば行くほどコンセプチュアルなアプローチを志向している。左に行けば行くほど自分のダンスが自然、天然、無意識的であることを重視している。

□このマップの問題点□
さて、このマップでしばらく考えてみるとして。
難しいのは、一番すごい(例えば、すべての要素を兼ね備えている)存在が真ん中に位置され、消極的に見えてしまうということ。黒沢美香や室伏鴻は、すぐれているが故に真ん中あたりに位置されることになる。これは単純にこのマップの形式的問題。

□各象限の特徴□
Aは「踊り子/ダンス作家」で、優等生的、批評誘発性が高い。
Bは「踊り子/天才」で、もっともダンサー主義的な存在。
Cは「同人ダンス/天才」で、「天才」というより「天然」「不思議ちゃん」がそれに該当しようか。ネガティヴに捉えられるかもしれないけれど、ネタ的な存在感は圧倒的かもしれず、「同人」といってもその枠は、文学フリマで同人誌10冊売れました的な枠を想定せずとも、ニコ動アクセス数十万という枠を想定してもよいはず。現状は、ダンサーが見に行くダンス公演というイメージ。
Dは「同人ダンス/ダンス作家」で、Cが「オタク」と類似点をもつかもということでいうなら(優等生の「踊り子」に萌えるのとは違うとしても、萌え要素を振りまいている)、「サブカル」に類似点をもつかも。萌えないが支持したい、という気持ちにさせられる。

□各象限の「自己批評性」のあり方□
例えば、このマップでダンサー、振付家の自己批評性のあり方を(可能性として)考えてみるとどうなるんだろう。
Aの自己批評性は、コンセプチュアルな作家性を明確にすること(作家としての評価)と、ダンサーがきちんとポピュラリティを獲得することと、両方をどう目指したらいいか反省するところにあるだろう。作品の評価を求めるタイプ。
Bの自己批評性は、自分の求める「ダンス」へと邁進するところにある。求道的。直感的。言葉に出来ないアレがもっとも重要なのだ、という語り得ないところにいつも自分を置こうとする。
Cの自己批評性は、もしあるとすれば、自分の天然性を「天然キャラ」として意識して、「同人」の萌えテイストに応答しようとするところに見いだせる。
Dの自己批評性は、もしあるとすれば、自分の憧れる「ダンス作家」像に自分がどれだけ近づいているかを反省するところに見いだせる。

□マップから分かること□
昨年あたりから個人的にずっと気になっていたこととして、これまでだったら[A-B]の象限だけを考えていれば良かったんだけれど、それだけではコンテンポラリーダンスの状況を語りえないのではってことで、それは[C-D]の象限の台頭ということになるのではないか。この象限についてまだあんまりみんなが意識できていなくて、少し混乱があったり、展開が消極的だったりするのではないか。[AーB]は優れていて[CーD]は劣っているという発想は、多分その発想それ自体が批評されるべき事柄になるだろう。「踊り子」がモダン的で、「同人」はポストモダン的なのは言うまでもない。

Bしか意識されていないのがダンスというジャンルの基本的特徴ではなかろうか。バレエ、日本舞踊、ストリートなど。そこに、やや強引にAの可能性をひらこうとしたのが拙書かもしれない。もちろん、Aの可能性を考えるよう促す存在が日本のコンテンポラリーダンスのなかに出てきたということもある。でも、AとかBとかを云々している場合ではなく、今後考えるべきはむしろCとかDとかの可能性ではないか、と現状認識することができる。

ご質問に

2010年02月19日 | ダンス
ある方からtwitterで打診があり、TORAO.doc:「We dance」と「蛸壺」を拝読した。以下の部分に返答しなければと思う。

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私は、手塚夏子のパートナーとしてではなく、またWe danceの主催者でもなく、We danceの企画の一部(「試行と交換」の記録)に参加した一人として、木村さんの意見を謙虚に受け止めつつ、木村さんに問いたくなりました。
一つ目は、「社会が求めているダンス」とは何なのか、ということ。二つ目は、「自分の人生」「自分の好きなもの」に徹底的に固執することが、世の中に繋がる可能性もあるんじゃないか(たしかに、そこには自己批評性は不可欠だとは思うけど)、ということ。三つ目は、「社会が求めていないダンス」を作り続けているダンスの作家がいることが、社会にとって役割を持つこともあるんじゃないか、ということ。
こうした問いのすべてで、「ダンス」を「アート」に置き換えられると思うし、私も当事者として、問いに対する答えを探し続けています。
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三つの質問に取り急ぎ、以下のように返答します。

(一つ目)「社会が求めているダンス」とは何なのか:
これは「社会」をどう捉えるのか、各人の解釈に関わってくること。だから積極的に「いま社会がこうなっているんだから、こうした方がいい」とぼくが言うようなことではないと思う。「社会が求めているダンス」の反対概念は、「(ダンサー)個人が求めているダンス」。でも、その上で、「社会」をどう解釈するのかという点で、社会的に解釈する仕方と個人的にする仕方とがあるように思う。自分にとって社会とはこういう姿でここにダンスが求められているというのと、どうもある種の人々にとって社会とはこういう姿でここにダンスが求められているというのと、違いがある気がする。「ある種の人々にとって」と書いたのは、「すべての人々とって」とか「社会全体にとって」などと「すべての人々」や「社会全体」に共通する何かを想定するのがとても難しいから。ただし、「ある種の人々A」と「ある種の人々B」と「ある種の人々C」が、重なりあうポイントを見定めてゆくというやり方はあると思う。「おたく」と「サブカル」と「アカデミズム」とが重なりあうポイントとか。例えば。

(二つ目)「自分の人生」「自分の好きなもの」に徹底的に固執することが、世の中に繋がる可能性もあるんじゃないか:
ぼくもそう思う。徹底的に固執すると自分の問題から人間の問題へとスライドしていく可能性はあると思う。ぼくは手塚夏子の「私的解剖実験」の「私的」をそう理解している。だから徹底的に固執して欲しいと思う。ただ、(問題のレヴェルが全く違うと思われてしまうかもしれないけれど)ぼくがゼミの学生などによく言うのは、自分の好き嫌いからでは卒業論文を書くのはとても難しい、むしろ対象との違和感とかずれとかに注目するべきだということ。また、研究対象となる個別的な作品とか作家だけではなく、対象が所属している分野全体に興味をもったりそこで起こっていることを分析するべきだともよく言う。

(三つ目)「社会が求めていないダンス」を作り続けているダンスの作家がいることが、社会にとって役割を持つこともあるんじゃないか:
ぼくはそれを否定しないけれど、でも、「社会が求めていない△△」を作り続けている△△の作家がいることが、社会にとって役割をもつこともあるんじゃないか、と定式化してみて、△△にはいろんな言葉が入れられだろうと思う。「BL」が入るかもしれないし、「コスプレ」が入るかもしれないし。それとも「ダンス」は「BL」や「コスプレ」(いや、別にこの二つを特化するつもりはないのだけれど、例えば)とは違う社会的な役割があると言いうる、と考えるべきか。「コンテンポラリーダンス」のある部分は「同人」なのかもしれないと書いたのは、そうしたことを考える契機に少なくとも自分はしたいと思っているからで、「同人」としてわいわいと何かやることでパワーが出てくるのかもしれない(それを「社会にとって役割を持つこと」と言っていいかはよく分からないけど)。

ひとつコメントしたいです。

ぼくはこのブログを書いていらっしゃる大澤寅雄さんの奥さん、手塚夏子のことをずっと考えながら上記の文章を書いてました。拙書『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』のなかでも、大きく取りあげた作家ですので、ご存じの方も多いと思います。彼女こそ、社会と自分のダンスの思考との接点を模索している作家であり、ぼくはその点に関して大きな関心と尊敬を抱き続けていて、そのことはいまもまったく変わらないということは付言しておきたいです。まさに、その信頼と期待があるからこそ、昨年の七月には、日本女子大学に手塚さんを招いて、ダンスのワークショップを二週にわたり行ってもらったのです。手塚さんの「試行と交換」は、残念ながらスケジュールが合わなくて見ることは出来ませんでした。だから、基本的には、手塚さんのことを念頭に置いて先のことを述べているわけではないです。

手塚さんに関して言えば(手塚さんだけというつもりはないですが)、ぼくはもっと注目されて然るべき存在だと思うし、ぼくは非力ながらそう思って拙書で言及したりワークショップをお願いしたり、手塚さんの力を社会の中で活かす道筋を模索してます。そのうえで、今後どうしたらより一層然るべき仕方で手塚さんの試みが社会の中で活かされるのかと思っています。余計なお世話だと思われてしまうかもしれないけど、ぼくはそれなりに真剣に考えています。

いや、でもそれ、本当にそうで、「プライベートトレース」で試みたことは、とくに最初の頃にビデオで撮った過去の会話をダンサーの身体にトレースして上演するなんてアイディアすごすぎるし、そのインパクトを忘れてはいけないと思うんですよ!映像に映された身体に向けてアクセスするダンスというものを、こういう時代ですから真剣に考えるべきだと思うんですね。録音された音に向けてアクセスする音楽が音楽において当たり前であるように、写真や動画に映された身体イメージに向けてアクセスする絵画が美術において当たり前であるように。例えば、そうした映された身体について考察して生まれたダンスは、「社会が求めるダンス」となる可能性が高いし、またそうしたことを手塚夏子がすでにしているのであれば、そうした手塚の活動をきちんと振り返った上で自分のダンス作品をつくるという姿勢は、社会性のある振る舞いといえると思うんです。

「プライベートトレース」の可能性について、集まった全員で議論などしたら(議論でなくてもお題として投げてそれに答える、とか)生産的だと思う。(ある意味では、「試行と交換」の「交換」とは、ぼくのいま書いていることに似て、相手の方法を自分でやってみるという意味なのかもしれない。手塚の行ってきた「道場破り」はまさにそんなことするイベントだけれど)

あんな興味深いアイディアが日本のコンテンポラリーダンスの歴史にはあって、なんでひとはそれに自分なりのチャレンジをなげてみないんだろう。例えば、演劇界隈では、いま、複数の役者がひとつの役柄を次々と入れ替わり演じるなどというアイディアが一種の流行を起こしていて、もちろんそれは岡田利規がはじめたといっていいものだと思うんだけど、それを岡田のものだからやらないとかじゃなくてむしろ積極的にそのアイディアにのっかり、そのヴァリエーションを見せることで自分のクリエイティヴィティを提示しているわけだ(それにしても岡田のこうしたアイディアと手塚のトレースは結構似ていて、比較などされていてもいいはずなんだよね)。柴幸男や快快など。例えば、それは「アーキテクチャ」というキーワードにのっかることである種の言説界にアクセスするやり方にも似た振る舞いだと思うし、古くは、バラバラな趣味のおたくたちが八〇年代に「ロリコン」という一点でつながり、本当にロリコンであるか否かというよりもそれを利用してコミュニケーションを活発にしていたなんて話が思い出される事柄でもある。

ダンスの分類の前に

2010年02月19日 | ダンス
Aと話していたら、「天才」が抜けていることに気づいた。でもこれ志向性じゃないね。でも、ずっと、天才の踊る奇跡の瞬間が見たくてダンス見てきたんだよな~そういえば。

踊り子(舞姫/王子)志向 / ダンスオタク(同人ダンス)志向 / ダンス作家志向

天才

ダンスとダンサーは切り離せる/切り離せない

2010年02月19日 | ダンス
訂正→反省は残るとして、あらためて自分が書いたこと、中西さんの文面を振り返ってみると、それなりに考えるべきことがあるように思うのでそのことについて書いてみたい。中西さん(的な観賞姿勢)と木村(的な観賞姿勢)との違い。それは、例えば、ダンスとダンサーは分かちがたくくっついていると見る見方と、ダンサーを切り離してダンスを見ようとしている見方との違いと言ってみることが出来そうに思う。

例えば、中西さんは自身のブログで「彼女を無名時代から評価してきたものとして許しがたいと思う。そういうことはないと信じたいけれど。」と書いている。(ちなみに、その文章の後でぼくの文章が引用されていますが、ここに出てくる「あなた」はきたまりだけに向けられているわけではありません。一応コメントしておきます。)ぼくの見方とちょっと違うなと感じるのは、中西さんの文面からはきたまりという人間に対する愛情(応援する気持ち)がつよく反映されているところで(だから悪いと言うつもりはないですよ)、ぼくが同様の文章を書くとしたら「彼女を無名時代から~」ではなく「彼女の作品を無名時代から~」と書くように想像する。あるいは、ぼくは前述したように、どんなに評価している作家でも個別の作品の中には評価できないものもあり、一貫して評価してきたみたいなことはあまり言えないという姿勢のもとで(そんなことがあったら幸福かもしれないけれど)作品(や作家)とつき合っている。

この違いは、単純にどちらがいいという話ではない。ぼくはこう書いて、ダンサー(人間)とダンス(作品)を切り離さない見方は全然間違っているというつもりはない。けど、ぼくはなるべく切り離そうとして見ているなと自分を振り返る。

なんてこと昨夜、晩ご飯中に話していたら、Aが中西さんの見方も分かると言いだした。作家はダンス(作品)を「見せる」こともあり、しかしそればかりではなく、ダンサー(人間)として「見られる」ことも起きているはずで、作品を「見せる」ところだけに注目することは観客のリアリティに反するのではないか、という内容だった。「見せる」というのは意識的な行為で作家のコンセプチュアルな行為といって良いだろう。一方、作家にとって無意識的に(自分はそこを見てもらおうなどと思っていないところを)「見られる」という事態も起きているはず。身体はさまざまな情報を見る者に(意識的/無意識的に)発信していて、それはコンセプチュアルな「作品化」の営みをはみ出してどんどん勝手に展開されてしまうところがある。おおよそ、そんな話で、例えば、美人のダンサーというのは案外大変なのではないか、なんてことが話題になった(えっと、もうこのあたりきたまりさんも中西さんも関係なくなってます、いや、きたまりさんが美人ではないということではないです、もちろん。)。

あらためて整理すると、ぼくたちはダンスに何を見ているかということが気になる。誰々の作品を見に行くということのなかに誰々を見に行くということがどれだけ含まれているかということ。康本雅子の作品を見に行くのに康本雅子を見に行くということがどれだけ含まれているかということ。手塚夏子の作品を見に行くのに手塚夏子を見に行くということがどれだけ含まれているかということ。こういう問題はあまり他のジャンルでは起こっていない気がする。音楽演奏というのはでも結構そうなのかな、嵐のコンサートに行くことは嵐の作品を見に行くこと以上に嵐に会いに行くことだったりするだろう。コンサートに行ってみたら、本人たちしか居なくて、演奏も歌もないとしても、観客はある程度は満足して帰るだろう。「でも、やっぱり歌聞きたかったな、」とかおしゃべりしながら。極論かな?例が嵐じゃなくてもいいんですが。

ときどき唖然とするのは、他の表現ジャンルでは手厳しい批評をするひとがことダンスにかけてはきわめて甘い発言をするなんてとき。例えば、そういうときのダンスは何を見る者に与えているのかということ。ダンスとダンサーの危うい混同がそうした評価のなかで起きていると思うときがある。

ときにダンサーは作品のノイズになることもあるだろう。それが甘美なノイズだとして、その甘美さに耽溺するべきかその甘美さをノイズとして退けるべきか。例えば、美貌のダンサーの美貌は作品の一部か作品を時に疎外するノイズか。

ぼくがAに答えたのは、ダンサーが作品に作用するそうした部分も含めてコンセプチュアルであるべきではないか、という内容だった。先の話で言えば、美貌は「美貌」として意識された上で作品を構成する仕掛けの一部になっているべきだ、ということ。観客は自分勝手に沢山の情報をダンサーから読み取る。基本としては、ダンサーの身体が体現しようとしている振り付けを見ようとするだろうしその達成度を見ようとするだろう、けれども、そうしたまっとうな眼差しだけを観客は持っているわけではなく、観客は自分の都合で多くの情報を読み取るものである。そうした観客が抱えている(可能性のある)多様な読み取りのベクトルを意識しながら、それを可能な限りコントロールしようとする必要があるのではないだろうか。このコントロールに仕掛けを凝らすことこそがダンスの作品を作る醍醐味だったりはしないのだろうか(コンテンポラリーダンスとは直接関係しない存在かもしれないけれど、マドンナを見る度にそうしたことをぼくは思う)。

無防備だなと思うことがある。この無防備さを愛でることがコンテンポラリーダンスを愛する方法なのではないかとさえ思うことがある。のんきでかわいい、つっこみどころ満載。天然。ただ、だだもれ状態でやっちまったおこないを、しかし、批評することは出来ない。そうだ、あらためて考えると「ダンス批評(家)」と自称することの葛藤はぼくのなかにずっとあったけれども、葛藤の原因はこのあたりにあるようだ。天然でたまたまやっちゃったこととコンセプチュアルに「たまたまやっちゃたこと」を見せることとは違う。たまたまやっちゃたことをそのひとの「アート(芸術表現、技巧)」として評定することは、難しい。

ところで、コンセプトというものはどこにあるのか。

作家がコンセプトを設定するだけではない。作品を通してコンセプトを読むこと、深読みすることもコンセプトのひとつのあり方だ。作家の行いと見る者の読み取りがずれることは当然ある。(このあたりに「マイクロポップ」問題と呼ばれるものも位置している、ひょっとしたらあるひとたちから「木村の快快評価」問題と呼ばれている(呼ばれてないか)事柄かもしれない)


あ、そうそう。
ここまで書いてきて思い出したのですが、このエントリーを書こうとした時に、

踊り子(舞姫/王子)志向 / ダンスオタク(同人ダンス)志向 / ダンス作家志向

という3種類のコンテンポラリーダンスの作り手(の志向性)が想定出来そうだと思ったのでした。いずれ整理してみようと思います。

ご指摘に

2010年02月18日 | ダンス
中西理の大阪日記「We danceについての論評」にて、ぼくがWe dance以後ここに書いたことで中西さんからご指摘があった。ご指摘には感謝します。ありがとうございました。ぼくが見たきたまりによる「みんなの体操」は、振り付けが伊藤千枝であるからして、ぼくの批判はきたまりではなく伊藤に向けるべきではないかというのが、中西さんの指摘のおおよその趣旨と理解した。本当のところぼくはそのあたりの事情が分からなかったので、この指摘は謹んで受けて、この点に関して間違いを反省しようと思う。この点については、過去のブログの文章も訂正します。また、ぼくはきたまりの横浜ダンスコレクションRで賞を受賞した作品も横浜では見ていない(昨年のWe danceでの上演は見た。それをもって見たことにしていいとは思っていないけれど)。そういう意味では、きたまりの近年の作家性を批判する資格はぼくにはないのかもしれない。あと、きたまり個人を攻撃しようなどとはまったく思っていない。ぼくはあの場にいて、なんだかいたたまれない気持ちになったということその気持ちをもとに考えたことについて書いた。あと、伊藤千枝に対して向けるべき批判を批判しやすそうなきたまりに対してしたのではないかという推測は、上述したとおりのことなので、あたっていない。こうなると、伊藤千枝が実施した1日目を見ていないので、この振り付けが本来どのようなものとして投げられようとしていたのかは、よく分からないというのが正直なところだ(きたまりが踊ったのが伊藤の振り付けだからといって、伊藤のアイディアが完全に表現されているとは限らない。振り付けにあまりというか全然はっとしなかったという印象は撤回しようがないけれど)。この議論をさらに煽るつもりは基本的にないのだけれど、ぼくはひとの振り付けだから全面的に振り付けたひとに責任があるとは思わない、とくに今回のことに関して。ぼくの目にただの「お遊戯」に見えたことについては、きたまりにまったく責任がないといったらきたまりに失礼だと思う。ただやれといわれたからやりましたなんてことじゃないはず、だから。誰か作家が自分の名を掲げて舞台に立つ時に、コンセプチュアルではないということはないんじゃないか、作家だったら。きたまりが踊るんだったらどう踊るんだろう、とひとは思って見るだろう。そういう期待を見る者が抱かない存在なのだとしたら、彼女は「きたまり」じゃなくて「ただの振り付けられたひと」、になってしまう。「きたまり」という名はひとつのコンセプトではないのか、と思う。(繰り返しますが、たまたまいまきたまりが話題になっているだけできたまり個人を傷つけようとして書いているものではありません。)例えば、仮に、「昨日伊藤さんはここんとここう踊ってましたけど、わたしはこう踊りたいんです。」なんてトークや振りの実演があったりなどしたら、場はぐっと立体的になり、きたまりという作家の作家性は(振付家と対話する作家というニュアンスも加味されて)こうしたちょっとしたところでも充分に示されたことだろう(もちろん、こうするのが正解でこうしなきゃだめだなんていってません、例えばです)。そうしたこと考えるといいんじゃないかと思うよ、ぼくは。

あと、すでにちょっと触れたことでもあるし、このエントリーにとって蛇足なポイントなのだけれど、中西さんが憶測している点に関して、自分の身には覚えがない。あらためてリンクを貼ったり出典を示したりなどする必要はないと思うのだけれど、ぼくは自分の思うところをただ書いている。関西系だから批判したのではというのはだからぼくは身に覚えがなく、伊藤千枝(珍しいキノコ舞踊団)についてもコンドルズについてもファンが読んだらあまりよい気分がしないかもしれない内容のことを書いてきた。ひょっとしたらひとからぼくが応援団のように見られているかもしれない大橋可也の活動に関しても、ぼくはいいと思ったらいいといい、ここはどうなんだと思えばここはどうなんだといってきた。ダンスに限ったことではなく、ぼくはChim↑Pomについても快快についても、基本的に作家としての方向や性格について魅力を感じているものたちについても、不十分に思えたりしたらそう書いてきた。その点は分かって欲しい。

ただ、今回の書いたものに事実誤認があったことは、素直に反省したい。

捩子の試行

2010年02月16日 | ダンス
ぼくは2/14にWe dance会場で見た、捩子ぴじんの試みをこう感じ考えた。メモ。

1時頃の上演。
13:30ごろに着く。捩子の会場に入ろうとすると、廊下で(つまりなかが見えない状態で)小泉篤宏以外楽器の弾けないメンバーで楽器を演奏しているのだという。ギターの音がなんだか誰が弾いている以前にサンガツになっていて、そのこととか気になりながら廊下で耳を澄ませていた。

2時頃の上演。
捩子が床に白いビニールテープを貼っている。コースが造られているようだ。トベとかハシレとか指示も書いてある。その作業が一通り終わると、まず捩子が自分でそのコースを実行してみる。コースのなかにはただビニールテープがゆるくこまかいねじれをおことながら3メートルほど敷かれているところなどあったり、実行者の解釈が求められるところがある(言いかえれば、どう読み取ればいいのか分からないケージの楽譜みたいな状態)。捩子の後、神村、小泉、新鋪の順で、それぞれその場ではじめて見る床に直書きのスコアを実行してゆく。観客は捩子の実践を一回見ているので、この3人よりもこのコースを知っていて、ここでサスペンスを感じるのは観客と言うよりも3人のパフォーマーという仕組みになっている。どう読み取ればいい?と戸惑いながら、それぞれその場でスコアを読み取りながら、進めていく。答えがない実践というのは基本として、解釈の多様性を3人のいちいちの振る舞いを通して味わっていくというのが、観客の快楽として設定されている気がした。そして、このコースのアイディアは、恐らく、ジャドソン系のスコアにインスパイアされているところが強いと思われ、あらためて、ジャドソン的なアイディアというのは、時間の問題にはアクセスしているけれど、そこに意味の問題をあまり加味させないんだよなと思わされた。ポップアート、つまり身ぶり、ポーズなどのイメージをここに入れ込んでもよいのかな、と思ってみていた。

3時頃の上演。
2人ひと組で、ひとりが頭の中であるポーズをイメージし、もうひとりがそのイメージをあてようとポーズを決めてみるというゲームを行った。他人の頭の中を類推させるという意味では、例えば、アコンチの「苗床」を思い出しながら見ていた。当たり前だけれど、ヒントがゼロなので、全然あたらず、いじめのような雰囲気になり(「ちがいます」と言いづける者と、そう言われ続けながらポーズしていく者と、どちらもきつそうだった)、苦しい。次第に、がんばってえんえんとポーズを探し当てようとしている者のポーズ探し当て能力が意識されてくる。「このひとってこういう想像力のひとなんだ」って思って見続ける。その苦労の時間は、ダンスとかなんとかは関係なく、なかなか面白い瞬間をいくつも含んでいた。