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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

I日記

2010年05月30日 | I日記
昨日(5/29)、渋谷のライブハウスで聞いていたあるバンドの歌の中に、「春の風が吹いて~」みたいな歌詞があって、そのときに不意に思ったのは、Iはいままさに春の風に外に出れば吹かれているわけだけれど、それを「春の風」などとIは言語化できないということで、またそれはなんていいことなんだろうということだった。人間になる予定のまだ文明化されていない動物。ぼくは彼といる時間と芸術的な表現を見に行く時間とどちらをとるか悩む。文明化されていない人間の魅力と文明化されてしまった人間が文明と闘っている状態の魅力との勝負。最近は、週一回主に土曜日に、出かけるのを集約してしまっている。すると、自ずとこの時間にこっちとそっちどれを見るかという選択にも迫られたりする。昨日は、「空き地」を断念することになった。

昨日は、なかなか濃密な一日だった。2時から、高橋コレクション日比谷にて行われた会田誠と遠藤一郎とのトークイベントを聞き、その後、銀座の画廊を少し回ろうとしたが、資生堂ギャラリーをひとつ見た後で外苑前に向かってワタリウム美術館の落合多武の展覧会を見た。渋谷に移動して、HEADZ15周年アニバーサリーイベントの2日目を見た。ぼくは遠藤一郎という作家に特殊な期待を抱いていて、それはひとつには『Review House 02』に掲載された拙論「彼らは「日本・現代・美術」ではない」で書いたのだけれど、そして、そこでは会田と遠藤がいかに違うのかということを書いたのだけれど、そこに書いた以上の何か説明の難しい気持ちというものをぼくは彼にもっている。それをあわてて明らかにする必要なんかないと思ったりもするけれど、ほふく前進イベントで感じたことを中心に近々ぼくなりの遠藤一郎論を書いてみたいという思いは強い。落合多武は、2階が建築物という人間の行いをドローイングという方法で描き横一列にえんえんとに並べていて、人間の営為と手で書くこととの絡みが面白く、3階に行くと今度は無意識と意識の問題が明確に出てきて、とくに熱帯雨林を目をつぶって描いたという何十枚ものドローイングにまさにその無意識的なものと意識的なものの交差を感じ、4階では、自然と人為という事柄へと焦点が絞られていた。ちょっと思ったけどあっという間に忘れてしまい消えてしまうものを、それこそを捉まえたい捉まえるべきだという作家の意志を感じた。それって、メモとかノートとかブログとかTwitterとかそうしたものに近いなと思わされた。

Iの話に戻ると、Iは多分今のこの時期を将来思い出せないだろう。非言語的なときのことを言語的になってしまってからのぼくたちは思い出せないそうだ。ちなみにぼくは全然思い出せない。そうであるにもかかわらず、ぼくたちは非言語的だった時代を糧にして生きるのだそうで、ぼくがときどきIを見ながら胸が苦しくなるのは、そうした決して思い出せないが思い出したい何かの面影をしているからなのかもしれない。

tinkerng or prop dance

2010年05月26日 | ダンス
「家庭にあるもののひとまとりぜんぶが寄せ集められ、一緒に踊られる。これらは偉大なミュージカルがつねに形成し続けてきた諸連関に他ならず、つまりこれらはミュージカルが強調する連続性に間違いない、そう、わたしたちが話すとそれは音楽へと引き寄せられ、わたしたちの歩き方はダンスの内へと入り込められる。そしてわたしたちの家のなかにあるものたちはみな即興されるバレエのために用いられる可能性のある小道具なのだ。」(マイケル・ウッド『アメリカ・イン・ザ・ムーヴィーズ』p. 156)

Jane Feuerは、『ザ・ハリウッド・ミュージカル』(1993)のなかで、上記したウッドの文章を引用したうえで、ミュージカル映画のなかでどれだけ小道具がダンサーたちの重要なパートナーとなっていたのかを振り返っている。「プロップ・ダンス(小道具を用いたダンス)」と呼ばれることがあるこうしたダンスを考察するのに、Feuerがレヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」概念を援用しているのは興味深い。 すべてではないのだけれど、Feuerが言及するもののなかで、You Tubeで見ることの出来るリストを作ってみた。最初に出てくるのは、これ。

Moses Supposes: Singin' In the Rain by Gene Kelly and Donald O'Conner

ケリーとオコナーは発音の先生にいらいらして、彼をからかいながら手もとにあるいろいろなものを使って、例えば、カーテンを衣服にしてみたりして、その場をどんどん教室とは違う場所にしてゆく。

うーん、面白い。

そこで、クロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』(1962)に戻って、ブリコラージュの定義を見てみた。

「原始的科学というより「第一」科学と名づけたいこの種の知識が思考の面でどのようなものであったかを、工作の面でかなりよく理解させてくれる活動形態が、現在のわれわれにも残っている。それはフランス語でふつう「ブリコラージュ」bricolage(器用仕事)と呼ばれる仕事である。ブリコレbricolerという動詞は、古くは、球技、玉つき、狩猟、馬術に用いられ、ボールがはねかえるとか、犬が迷うとか、馬が障害物をさけて直線からそれるというように、いずれも非本来的な偶発運動を指した。今日でもやはり、ブルコルールbricoleur(器用人)とは、くろうととはちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう。」(クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』、みすず書房、p. 22)

思いもかけぬ方向に飛んでいってしまうことが語源であるとして、それが「器用仕事」とでも訳せる意味合いをもつようになったことがまずはとても面白い。もちろん、いまとくに注目したいのは、「非本来的な偶発運動」という表現で、たまたまの「運動」を「非本来的」とはいえむしろその点を逆手にとって、未知の可能性へと変換してゆくことが「器用仕事」であり、Feuerがそれと重ねようとしているミュージカル映画での「プロップ・ダンス」なのではないか、ということだ。次の『パリのアメリカ人』は、「もしどんな小道具が手元になくても、パフォーマーは道具として自分の身体を用いて小道具を擬態するかもしれない」(The Hollywood Musical, p. 4)例としてあげられている。

An American In Paris by Gene Kelly

次の『ロイヤル・ウエディング』は、「この種の手直し[原文はtinkering。ブリコラージュと同義の語としてFeuerは用いている]が、実際のところは技巧的なノウハウの妙技であるようなナンバーに自発性の抗しがたいアウラを与える」(ibid.)こととなる例である。重要なのは、自発性のアウラなるものは見る者をひきつける力の話であるならば、その力の源泉として示唆されているのがブリコラージュだということである。ここで「ブリコラージュ」とは、ダンスの相手がいないから、仕方なく何かを捉まえてきて、パートナーをでっちあげる努力のことではないようだ。いないのにいることにすることが問題なのではなく(ダンサーの不在を補うことが問題なのではなく)、そこにあるもの(小道具)に別の可能性を与えることであり、そうすることによって可能になること、すなわち「自発性のアウラ」をその場に作動させるもののこと、なのだ。

Royal Wedding by Fred Astaire

Feuerはさらに「アステアとケリー両者にとって、小道具は小道具としてあらわれてはならない」(ibid., p. 5)という。「むしろ小道具はその環境内に存在する現実のもの(actual object)という印象を与えなければならない。」(ibid.)例としてあげられるのは、モップやゴルフ・クラブやボール、花火、ピアノや椅子、ステッキなどを踊りのパートナーにするこうしたナンバー。

Thousands Cheer by Gene Kelly

Carefree by Fred Astaire

Holiday Inn by Fred Astaire

Let's Dance by Fred Astaire

Top Hat by Fred Astaire

小道具から議論は「環境」へ。Feuerが「環境のコレオグラフィー(environment choreography)」と呼んでいる空間に存在するものをすべてダンスのパートナーにしてゆくアイディアは、もちろん、『雨に唄えば』のもっとも有名なタイトル曲の場面にも該当するものである。それの名も確かにあげられるのだけれど、例えば、これなども。

Living a Big Way by Gene Kelly

これと「雨に唄えば」の違いを丁寧に考えてみるのはきっと生産的だろう。ここではダンサーを鼓舞するのは子供たち、対して「雨に唄えば」では?とか。アスレチックなスポーツマン(スケート・ボーダー)のようなケリーと、「雨に唄えば」のケリー。

ところで、今回Feuerの本に出てくるナンバーをYou Tubeでチェックして、2番目に感動したのがこれ。昨日、家で子守しながら見ていたのだけれど、Iはぎゃははと笑いながら見てました(どこを見て笑っているのかは本人に聞いてみないと分からない)。生後四ヶ月にしてどうもダンスが好きみたいです。

It's Always Weather by Gene Kelly etc.

ゴミ箱のフタを足にはめて踊るところに、Feuerは注目するのだけれど、このナンバー、どこもすべてすごい。冒頭のくねくねダンスは、ぐちゃぐちゃ酩酊チャールストンにも見えるが、体をおもちゃにするゲームにも見える。タクシーのところもいい。

そして、一番感動したのはこのナンバー。Feuer曰く「ケリーによるすべての環境的な着想のなかでもっともすぐれている自発性の印象は、舞台のキーキーときしむ床板や新聞紙から突然あらわれる。」(ibid., p. 6)

Summer Stock by Gene Kelly

すごいいいですよね。感動するな、本当に。

ちょっとした「あれっ?」からダンスが生成する。キーキーいう床板は、突拍子のない思いつきによって、突如としてダンスの相棒と化す。「相棒」なんだけど、擬人化とは違う。床板はいつまでも人間の相貌を帯びることはない。どんどん半分にちぎられてゆく新聞も、人間には見えない。むしろここにあるのはこんな身体もダンスのパートナーになりうるのだという発見だろう。だから、むしろダンスの相貌こそここで変容している当のものではないだろうか。これもダンスなのだ、というわけだ、そのことに感動しているのだ、きっと。これがディズニー映画であれば、新聞紙も床板も「くん」づけしたくなるような擬人化が施されることだろう(とはいえ、かのディズニーでも彼らを人間化するのはなかなか大変だろうが)。ものの相貌は相変わらず変容しないのだけれど、何かが変化して見える。このことにうなってしまう。

あらためてレヴィ=ストロースに戻ってみると、彼はこんなこといっている。

「とりわけ大切なことなのだが、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて並べ出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選ぶのである。彼の「宝庫」 を構成する雑多なものすべてに尋ねて、それぞれが何の「記号」となりうるかをつかむ。」(『野生の思考』、p. 24)

ちなみに、「宝庫」のところに註があって、「ユベールとモースは、魔法をいみじくも「アイディアの宝庫」と呼んでいる」(同上、p. 25。引用者による加筆修正あり)とある。なんでもない小道具は、魔法=ダンスによって、別の何か(記号)へと変換させられ、その魔法は、この変換作用を通して、踊りの空間そのものを別の世界へと変容させてゆく。

最後に、Feuerは、アステアとケリーの違いをこう整理している。

「アステアは一種の失望からプロップ・ダンスを用いているように見える。つまりどんな肉体を有したパートナーも彼の天分(grace)には合わないのだ。ケリーはそれを特殊なアメリカ的慣習と解釈し、ブリコラージュに古きよきアメリカ的創意工夫を与えるのである。」(The Hollywood Musical, p. 6)

Cf. Jane Feuer, The Hollywood Musical, 1993.

I日記

2010年05月23日 | I日記
「妻がもだえ苦しんでいるのを見て、ジョルジュは見ていられなくなり、納屋に逃げてしまった。カトリーヌがそこにやって来て、娘が生まれたと告げた。ジョルジュは気が狂ったように階段を降りてウージェニーのベッドに駆け寄ると、彼女にキスを浴びせた。それから、ゆりかごに寝ている赤ん坊を奪い取ると、高く掲げて言った。

「これこそ魔術だ、創造だ!」

彼は何日間も赤ん坊を眺めて過ごした。赤ん坊が少しずつ世の中に慣れてくる様子を見ていると、飽きることがなかった。」(マドレーヌ・マルテット=メリエス『魔術師メリエス』p. 105)

ぼくもIと一緒の時間に飽くことがない。新しいテーマで勉強をはじめて、読みたいものはたまっているのだけれど、とはいえIとの時間も欲しい。となると、これまではさほどそう思わなかった諸々の用事がとても面倒に思えてくる。水曜日は、午前に横浜である会議で選考委員を務め、とんぼ返りで原宿に行くとチェルフィッチュの最終日公演を鑑賞し、その後、ひとつミーティングをした。こうして、詰めることをよくするようになった。なるべく家にいたいのだ。

といって、いまは日曜日なのに大学にいる。大学は閑散として、平日のにぎやかさは皆無。こんな時間もいい。ラジオが友だち。山下達郎の番組は聴く度に、これをエアチェックしないで人間としていいのか!などと思わされるので、あまりに思わされるので聴かなくなったりする時期もあるが、聴けばやっぱりいい。今日は、妻の旧友さんたちがお子さんを連れて来て、家で遊ぶのだという。誘われたが断ってしまった。

Iは最近よくぐずる。とてもよく泣く、そして激しく泣く。いやなことがどんどん増えているみたいだ。わがままともいえるが、赤子のわがままは怒れない。ようやく「我」が出てきたのだ。これをむしっちゃいけない。木曜日に行った3ヶ月検診ではダントツトップで泣きまくっていたらしい。周りを鼓舞していたらしい。その割に、妻がガイダンスを聞いている間は、Iはまるで自分がインストラクターであるかのように、ずっと「うわうわ」としゃべっていたらしい。起きているときは、泣いているかしゃべっているかだ、確かに。親に似たらしい。

首がすわってきたので、「たかいたかい」が出来るようになったので、盛んにやる。きゃほきゃほいって笑う。「たかいたかい」は、大人にはしない、されたら怒るだろう。ってことは、大人の「たかいたかい」は自分が自分にするものなのだろう。人にされちゃかなわんものなのだ。

I日記

2010年05月17日 | I日記
昨日は、先週同様、Iとぼくと2人きりで昼間を過ごした。今回はひとつの試みをした。妻は母乳を搾乳し(育児がはじまってから、ひとにも搾乳という行為があり、例えば搾乳器というものが売られていることを知った)、冷蔵庫で5回分くらい溜めてくれたのだった。粉ミルクは受けつけないが、ほ乳瓶は大丈夫という判断だった。実際、試したらIはほ乳瓶越しの母乳をごくごくと飲んでいた、数日前のこと。

しかし、昨日は飲まなかった。断固とした拒否だった。7:30頃に母乳をもらい、妻が出かけてから、3時間が経ち、5時間が経っても、絶対に飲まなかった。口に含ませてみる、ちくびの部分に母乳をつけてそれで口に寄せる、いろいろやってもダメだった。こうなったら妻の帰りをひたすら待つしかない。夕方は、延々と廊下を行ったり来たり、自宅散歩をした。Iの機嫌は、夕方に不思議なくらいよくなって、妻が帰ってきたときには、にこーっと笑顔で迎えた。

こちらは、なかなか必死の思いである。妻が最近歌っているトトロの歌とか、ポニョの歌とか、トーマスの歌とか、You Tubeで流しながら、不安を減らしてやろうとする。と、「あるこー」とトトロの冒頭の曲を流したら、それまで笑っていたのが大泣きをはじめてしまった。妻を思い出したのだろうか、妻を思い出せると安心するけど妻がいないという事実を感じるまで妻の存在に近づくと逆に不安になってしまう。難しい。ところで、ミルクが飲めない状況というのはどういうものなのだろう。例えば、自分が8時間飲まず食わずでいろと突然いわれたら、そうとう気が動転するだろう。それも、赤ちゃんには、あと1時間待っていれば、事態は好転するなどという事情を説明することは出来ない。だから待つということが、うまく出来ない。延々に待っているともいえるし、そんなものを待っている状態とはいえない、ともいえる。赤ちゃんは、だから基本的にゆううつをかかえた存在だ。哀しみを生きている。

けれども、なんという笑顔だろう。なんだかずっと笑っている。全身で笑って、身をよじって体をぶつけて、泣いたりそれでも笑っていたりする。手のにぎりがとても強くなってきた。手が次第に意志をもってきた。そう「意志」が生まれてきたのだ。ほ乳瓶の断固拒否も人間への一段階なんだ。

土曜日に、田村一行(壺中天)「オママゴト」と大橋可也&ダンサーズ「春の祭典」を見た。

加藤翼

2010年05月10日 | 美術
一昨日は、いろいろと美術館/ギャラリーをはしごした。「六本木クロッシング2010展:芸術は可能か?」は、宇治野宗輝の展示と入り口前の大きなスクリーンに映されたChim↑Pom「Black of Death」が素晴らしく、知らなかった作家のなかではとくに加藤翼がなにかわくわくさせる存在感を放っていた。御柱祭みたいだ!これのどこがアートなの?と問う前にこれがアートだとしたらアートとは如何なるものかと考える方がいいと思うんだ、その方が楽しい。You Tubeにはこんな映像がアップされている。

クロージング鳥小屋 加藤翼

g g g(グランドール・グラウンド・グラディエイター) 加藤翼

午前に六本木に行った後、SNACで八木良太「事象そのものへ」、αMで田口行弘の展示を見た。久しぶりに神保町へ行って昼ご飯、たまたま入ったつけ麺屋の近くの古本屋にてポンタリス『魅きつける力』を購入。

リッツア『消費社会の魔術的体系 ディズニーワールドからサイバーモールまで』

2010年05月10日 | Weblog
最近新しい読書をはじめている、そのなかでこの本はきわめて示唆的で面白い。たとえば、第5章 再魔術化Iの「シミュレーション化された人々」という節の一部。 

「同様に、新しい消費手段のなかで生じる訪問客と従業員間の交流もシミュレーション化された特徴をもっている。たとえば、ファーストフードレストランの給仕人、ショッピングモールやスーパーストアの店員、テレマーケターなどとの交流は「本当の」人間的交流ではなく、シミュレーション化された交流と見なすことができる。従業員は台本にしたがっており、客はレシピのような答え(つまり、従業員の台本どおりの振る舞いに対処するために、客がひとりでに身につけた、お決まりの答え)を返すので、本当の交流はまれにしか生じない。実際、これらの環境の内側(および外側)でのわれわれの交流の多くがシミュレーション化されているので、われわれは「本当の」交流の意味が分からなくなるほど、それに慣れきっている。結局、われわれが結ぶ交流のすべてがシミュレーション化されてている可能性がある。シミュレーション化されたものと本物を完全に区別できなくなっている。すなわち、シミュレーション化された交流こそが現実であるかもしれないのだ。」(ジョージ・リッツア『消費社会の魔術的体系 ディズニーワールドからサイバーモールまで』明石書店、2009年、p. 192)

A シミュレーション化されたもの/本物
A’ 現実としてのシミュレーション化された交流/「本当の」交流
B うまくシミュレーション化されているもの/うまくシミュレーション化されていないもの

読んでいる内、自分の思考がA→A’→Bと進んでゆく。

I日記

2010年05月09日 | I日記
今朝、妻が仕事に出かけるときには、こんなことになるとは思っていなかった。ぐずりがちだったのは確かにそうなのだ、九時前くらいに一回つくったミルクをIは口にするのを拒んだときには、だからまあそんな気分なんだろうなと思って、最近は、三時間おきくらいだという出がけに妻がいっていた授乳間隔の話も思い出して、あまり心配していなかった。けれども、十時、十一時になっても飲まない。つくって捨てた回数が4回目になったころ、これはさすがに問題だろうと思って、妻の仕事先に電話をかけた。Iは、なんど口に差し込んでも、粉ミルクあるいは人工の乳首を拒んだ。えんえん泣いて、ちょっとだけなめて、確信して、徹底的に否定した。のど乾いてるだろうに、おなかすいているだろうにと思っても、飲んでくれなければこちらの出来ることはない。GW前くらいから、ぼくがひとりでIを見る日はなかった。久しぶりの親子2人、そして久しぶりの粉ミルクだった。もうIにとって授乳は、たんなる栄養補給ではなくなっていた。お母さんとのスキンシップ、愛情の確認行為を含むものになっていた。他のことならば大丈夫でも、男親にはこれが出来ない。イクメンのゆううつ。なかなかの悲しさである。つらいだろうに、飲めない苦しさのなかでも、ときどき一緒に遊んで笑ってくれたりするのがまた切ない。ぼくの人差し指の曲がった第二関節を嘗め始めたときには、涙腺がゆるゆるした。

I日記

2010年05月08日 | I日記
Iの手が少しずつ明確な目的を示すようになってきた。耳の後ろを掻くのは以前からのことだけれど、その手つきがざつに「あっちの方へ手を向ける」なんて感じだったのがそうではなく「ここの部分をこんな感じで掻く」って感じになってきた。指をクロスさせて手を組んだりもして、複雑な動作ができるようにも。手はものを捉まえ、捉まえることで理解する、そうしたプロセスがこれからはじまるのだろう、それを目にするのはいまからとても楽しみだ。と、Iの手のことに思いが膨らんでしまい、昨日はこんな文章を講義中、学生たちに紹介している内、話がどんどん脱線してしまったのだった。

「人体を均等に明確な線をもって縁取ることは、身体を使ってつかむ行為そのものにさえ近いものがある。眼をもって行う操作は、触知しながら身体にそって滑る手の操作に等しい」(ヴェルフリン『美術史の基礎概念』)

ヴェルフリンは、ルネサンスの絵画とバロックの絵画を対比して、前者を線的表現、後者を絵画的表現とした。線的表現というのは触覚的で、つまり上の引用にあるように、ものをつかんで確認するように眼を働かせるもののこと。ものの実相に迫るのがルネサンス的な絵画だとすれば、バロック的絵画は、眼が手のように活動するのをやめさせ、眼が感じることそのものに、その効果にねらいを定める。面白いのは、ルネサンスからバロックへという展開を人間の発達と類比させているところで、ヴェルフリンはこんな整理をしている。

「幼児が物を「理解する」ために何でも手でつかむ習慣をやめるように、人類は可触的なものに基づいて絵画作品を吟味する習慣をやめたのである。一段と進歩した芸術は、単なる現象に没入することを学んだのである」(同上)

「単なる現象」とは、衣服を衣服としてではなく衣服が光に当たりキラキラしているとすればそのキラキラ感を指している。眼はものに触れようとするのをやめ、そのあらわれを楽しもうとする。そうか、そんで、では、Iの眼はいまルネサンス的なのかバロック的なのか、どうなのだろう。パンダのモビールが動くのをきゃっきゃっと喜んで見ているその眼は。未来派的?

I日記

2010年05月05日 | I日記
GWはすっかり隠遁していた。5/1-2には実家の千葉に帰省して、お宮参りにでかけた。宗教的な儀式というのは、本当に面白い。銀色の鏡と鈴の付いた金色のオブジェ。メタリックな世界。鈴を振ると金色の大きな折り紙(にしか見えない)が光って揺れて、お辞儀して目が向かっている床のあたりを輝かせている。若い宮司さんがうなり声をあげる。そんな30分ほどの式のなかで、Iはうんちをおならとともに噴射し、祝詞をあげる間は一緒に歌い、超リラックスして、大泣きまで披露した。Iにとって、この二日間ははじめてあう親戚たちに笑顔を振る舞う時間だった。緊張したろう、泣きながら笑っている間に、どれだけIの脳は刺激を受け発達しただろう。

5/1に自分の手を見るようになった。自分の手を見るというのは、自己認識のはじまりを意味するらしい。手を見て手を動かして手が動く。自分の意志が自分の手を動かす。意志と身体の統合ともいえるけれど、両者の連動を通して意志と身体がようやく誕生するともいえるだろう。まだ、意志もなく、ゆえに身体もないI。体を動かしてものをとる、ということがいつかはじまる。いまは、欲求があってもすべて自分だけではかなわない。おっぱいも、うんちも、眠いのも、おっぱいや、おむつや、寝床などすべて他人によって与えられてはじめてかなう。この全然自分のことが自分でできないこの状態が、いつか、結構早い段階で、終わる。なんだか、そのことがいまから切ない。成長してしまう、という切なさ。

そう、成長は切ない。5/2には親戚の家で生後15日ほどの新生児を見せてもらった。見た瞬間、かわいくて、涙腺から液体が漏れた。うわっと思った。このときがIにもあった。そして、いまはない、ということに気づかされた。ひとはある段階を日々死んでいるんだと思わされた。この段階は、成長すると段階と思えないくらい淡々としてくるし、段階と思いたくないくらい下降に見えるものとなるから、忘れてしまう忘れようとしてしまう。けれども、ぼくたちも赤ちゃんと同じように、日々ある段階を死に続けているんだと思う。死んで新しい段階にいる。この変化に気づかない。けれども、日々大きな変化のなかにいるのは間違いない。なにか同じものを見て、10年前に感じたことと、3年前に感じたことと、いま感じることとがすべて違っていたりする。そうして変化している。自分を死に続けている。

どんどん成長していて、いまは「ぐずり」がなかなか素晴らしいことになっている。体に力が入っていやいやと強く抵抗する、けれど、なにが嫌なのか判然としない。多分、本人にとってもそうなのだろう。世界と自分とがなんだかしっくりこない。そんなときに、最近はやっているのが、ビヨンセの「シングル・レディース」をかけること。曲のテンポが赤ちゃんの脈拍のテンポと合っているのだそうで、流すとぴたっとぐずりがやむ。やむが10分位するとまたむしが騒ぐ。すると、今度は踊ってみる。Iの前で変なエクササイズのダンスみたいなのを踊ってみる、すると、きゃははと笑う。Iは動くものに反応する、いやより精確にいえば、ダンスに反応するようだ。きゃははと笑って体をよじる、腕を振る、一緒に体を動かしているように見える。

GWには、新しい調べものをはじめた。自分のなかにあって眠らせていたものをあらためて手にとってみている。いろいろとここに書くのは勇み足になりそうだし、ここに書くべきことがらではないとも思うのだけれど、ジーン・ケリーにもマルセル・デュシャンにも伊藤存にも遠藤一郎にも魅了されてしまう自分を貫通するひとつのポイントを模索している。