Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「ダンス」を「見る」という矛盾

2005年12月26日 | Weblog
一つの公演に数千円し払って観客(ぼく)はダンスを前に何がしたいのか。
ときどき、わからなくなる。

以前、室伏鴻の『quick silver』公演のDVDを撮影者の方から頂いて見ていたときのこと。実際の公演の時も思っていたのだが、いたるところで生まれている静かな微動の瞬間瞬間をぼくたちは見ることが出来ない。目は確かに見ている。でもそれを記憶に止めることは非常に難しい。そこで頭はついつい意味のレヴェルでそこにあるものを捉えてしまおうとする。「これは、ミイラだ!」とか、例えば。するとなにやら「ミイラ」のように見えてきて他の部分も分かりやすくなる気がしてくる。「quick silverだから水銀か!」とか。
でも、意味で捉えた瞬間動きは静止画になる。目は意味に捉えられ、細部の微動の瞬間瞬間を「ただ眺める」ことが出来なくなる。体全体でそれをすることを忘れてしまう。
だから大抵ダンスの身体は見えないのだ、見過ごされてしまうものなのだ。イメージに絡め取られてしまう、「絵的なもの」に支配されてしまう。
けれど、ダンスを見に行く欲望というのは、この絵的なものの支配に従属するわけでは必ずしもないだろう。体を委ねにいくものなのだ、ダンスは。目から自由になること。意味から自由になること。絵として理解した部分と部分の間にこそ、興味深い瞬間がある、はずなのだから。

最新の画像もっと見る