Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「超・日本パフォーマンス論!」開講

2009年05月31日 | Weblog
超・日本パフォーマンス論!が明日から開講されます。伊藤亜紗が宇治野宗輝さんや小沢康夫さんと一緒に、毎週、講義やワークショップを美学校で行うという企画です。各回、その筋の専門家である講師を招く予定で、ぼくも呼ばれていますが、このラインナップ、なかなかでしょう。

各所から「すげー」との叫び声を耳にしていますが、「パフォーマンス」のことをとことん知りたい「パフォーマンス」作品をまじで作っていきたいというみなさん、是非、この機会を逃さないようにして下さい。昨日、動作確認で伊藤のパワーポイント見ていましたが、超盛りだくさんでしたよ~。

ところで、いま、いろんなところで語られているのは、アートの「インフラ整備」です。恐らく最大の問題は小中高の学校教育で美術が中途半端な状態になっているところにあると思うんだけれど、教育重要だよね、というわけです(学校の美術教員のみなさんもどうぞ、「出張」していらしてください~)。歴史的作品を多く展示した「ヴィデオを待ちながら」も、ここからはじめようという啓蒙の気持ちが学芸員さんに強くあったのだそうです。いまは、力を溜める時ですよ、きっと。

即興・仮設・外部

2009年05月31日 | ダンス
室伏鴻、ベルナルド・モンテ、ボリス・シャルマッツ「磁場、あるいは宇宙的郷愁」(@慶應義塾大学日吉キャンパス)5/28

室伏鴻の魅力が即興にあるのは間違いない。とくに1人ないし複数の共演者がいるとき、室伏はその場に独特の緊張感やスリルを引き出すのが上手い。唯一無二の能力だと思う。そして、そこにいまのぼくの悩みがある。

即興というのは、自分の内側(情念?記憶?イメージ?)ないし外側にあるもの(他のパフォーマー?諸々の視覚的・聴覚的・触覚的対象?)から自分の次の動作を動機づけてゆくものである。あらかじめ固定した設定や振り付けを用意しない即興は、その分、自分の運動の動機をその場その場で仮設することになる。この仮設の作業はとても難しい。あらかじめ固定した何かを実行することよりも場当たり的な仮設作業の方が、パフォーマーの狙いや計略があからさま露呈しやすく、そうなると即興は非即興的な上演よりも非即興的に映りがちだからだ。

「仮設」とは、ないものをとりあえずあるものと見なすことであり、仮に時々刻々解体され再編されるものであったとしても、仮設(という視点から見た場合の即興)は、そうしたないものをあると見たてる演劇性から逃れる手段を用意していないと、即興が本来もっている予測不能の時間をひらくという本質的な力を発揮することは出来ない。

変容し続ける場を感じ、その都度、仮設する。上記した問題から照らし出すなら、この仮設こそが即興の見所になる。雨音を感じ、場の薄暗い空気を感じ、ゆっくりと舞台空間に足を踏み入れる。観客の威圧感とともに、自分がそこにいることを感じる。そこにいる自分はどんな気持ち?その気持ちにどう反応する?そう反省を進めるなかに「仮設」は生まれるだろう。ある程度は、開演前に用意したものも「仮設」の手段になる。衣装や小道具など。光を感じ舞台にいる自分を感じる、自分の身体の履歴をインデックスのようにめくり、いまの自分を「仮設」する。さて、さて。

この「仮設」を可能な限り準備不足の状態から始めようとするパフォーマーに、狩生健志(「国」)がいる。彼は、マイク一つだけ握り、舞台に上がり、用意した台本をすっかり忘却したかのようなまるごと不安のような存在になって始める。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、不意に思い出したこと、自分の喋った言葉から浮かんだ連想、観客のリアクション、それだけを頼りに進む。もちろんそれは、上手く進まない。彼の舞台外での振る舞いからすれば、シャイとは言えても口べたではない。適当なおしゃべりを繰り出せば、見事なマイク・パフォーマンスを披露し場を盛り上げるなんてことは難しくないはずだ。狩生はそうしない。そうしないことで、上手く進まない事態、上手く進められないパフォーマーの性能こそが見所になる。出来ることよりも出来ないことこそが見るべきものになっている。この奇妙な舞台芸術は、ぼくが思うに、そうすることで、パフォーマーの性能を確認することが鑑賞体験となっているパフォーマンスなのである。この確認は、観客とともにパフォーマーもしていることで、狩生の舞台空間では、誰もが平等にこの「性能の観察者」になることが出来る。

ぼくの目は、例えば、狩生のパフォーマンスと重ねながら、「即興ってなんだろう」と思いつつ、目の前の光景を観察し続けている(あるいは、川染喜弘のことも思い浮かべている)。室伏鴻と、ボリス・シャルマッツとベルナルド・モンテは、ともに雨合羽を身に纏い、結構強い雨がガラス越しに見えたり聞こえたりするなか、天井高で石の床や柱が囲む空間のなか、基本的にはかなり激しい動き、「エモーショナル」な動きを見せた。印象的だったのは、ガラスの壁に3人が同時に激突する場面。ポップな音楽を流すとテーブルに座った3人が、ティッシュをつまみ上げそれを顔の穴に突っ込んでゆく場面(泡まみれのような顔)。室伏がソロを踊り、四つ足でうろうろし、スティールの棒を掴んでは落として、床を叩いてリズムを作ったりした場面。その後、舞台に飛び込んでくると室伏を拉致するかのようにテープでぐるぐる巻きにし、ミイラのようになった室伏を跳び蹴りして横倒しにし、不器用な感じで暴れるシャルマッツの危なっかしい狂気/凶器の身体が、椅子をとってガラスに傷がつきそうなほど激しく投げつけ、テーブルを壊しなどした場面だった。

これは、現在のダンスのひとつの達成と見るべきなのだろう。暴力、狂気、ユーモア、、、テーマもさることながらこうした即興のあり方、パフォーマー同士の関係性は、今後のダンス公演のモデルとなるのかも知れない。そうかもしれないのだけれど、ぼくは戸惑いの気持ちのまま見ていた。冒頭の壁に3人が激突する場面は、篠原有司男のボクシング・ペインティングのようだった。「アクション・ペインティング」に見えた。客観的なイリュージョンではなく主観的なエモーションを画布に刻印させる「アクション・ペインティング」の技法は、主観的なものを肯定する方法であり、個性の尊重であると同時にそれは、「私的言語」のように他者に対して閉じて見える。どうしてそうした「エモーション」を暴走させているのか分からない。「分からない」ので「あいつ何だか暴走しちゃってさあ」と一種慈しみの感情とともにパフォーマーをやさしく見つめることは可能だろう。

ところで、この「あいつ」は、あくまでも仮設された「あいつ」だ。室伏がシャルマッツがモンテが、素でガラスに激突したいと思っているわけではない。「激突する自分」を仮設して、「激突」すると立ち現れるだろう「エモーション」を見る者に放り投げている以上でも以下でもないであって、「エモーション」が彼らの素の状態から生まれたものではないことは、当然だけれど確認すべきことだろう。「あいつ暴走しちゃってさあ」と見る者が思うとき、「あいつ」含めその「暴走」や「エモーション」は、作られたもの(演劇)である。終わりの方で、シャルマッツがガラスの壁に椅子をたたきつけた時などは、その演劇性を突き破るかのようなやり過ぎに見え、ちょっと場が揺らいで見えた(「演劇」とは言っていられないシリアスな暴力に見えた)。けれども、そうした過剰な「暴走」の逸脱でなければ場を揺るがせられない、ということではないはずだとも思ってしまった。

現在のダンスは、この公演から見る限り、1940年代ないし50年代的だということになりはしないだろうか。つまり、いまだ表現主義的と言うべきなのではないだろうか。すべてのダンス公演がそうだと思わない。けれども、強調して上記したような「エモーション」の表現は、私的言語を舞台上で語っても許されるパフォーマーの特権的な地位を温存させるものであって、「ジャドソン・ダンス・シアター」と自称する1960年代の若者たちがトライしていた、いかにしてダンスを公共的なものにするかというモティーフからは遠ざかっている。ぼくの目にはそう見える。

いやそうではなくて、そうした60年代の展開は、80年代以降、批判的に解消されたのであって(「美術手帖」が「ミニマリズムから表現主義へ」という時間が逆転してしまったかのような状況を的確に特集化していたのを典型として)、今日は、特権的なパフォーマーの「仮設」を受動的に受容する時代なのだよ、と笑われてしまうのかもしれない。

恐らくここに、ぼくの室伏鴻評価に対する逡巡がある。ぼくの室伏への思いは「Edge」の衝撃の内に集中しすぎていて、そこから彼を見てしまう(それは、「室伏鴻評価」などという大袈裟な話以前に、ぼくの病と言うべき事柄なのかもしれない)。「Edge」の衝撃は、以前「美術手帖」(2005年12月号)に書いたように「切断」のなかにある。場のテンションを高めた後であっさりそれを止めてしまう室伏、あるいは場とともに高まった自分を冷静に見返してしまう室伏。「ハイブリディティ」。ここに舞踏がある(と、かつて室伏がぼくに語ってくれたことに、ぼくはどうしてもこだわってしまうのだ)。いや、室伏からすれば「木村、あそこにあったエッジを見逃したんじゃないの?」とぼくの目こそを批判したくなるかもしれない。あらためて、思い起こしてみよう。「エモーショナル」な公演(祭り)の「外部」への通路があの場のどこかにぽっかり口を開けていたとすれば、それは一体どこだったのか、と。


講演

2009年05月24日 | ダンス
昨日、「ヴィデオを待ちながら」関連企画の講演がおわりました。120名ほどお越し下さったとのこと、5回行われた講演で一番の動員数だったようです。とはいえ「無事に」とはちょっと言いにくい、プロジェクターのショートというハプニングが三十分おきに三度ありましたが、、、ご来場下さった方、どうもありがとうございました。今回、「レディメイド」という概念を調べて、あらためてこれをデフォルトとする考え方が必要だなと思いました。そうしてはじめて21世紀型の芸術論、ダンス論、哲学というか人間学が立ち上がってくることになるのではないでしょうか。いずれどこかで、原稿にまとめたいと思います。常勤、非常勤両方の大学の学生のみなさんも数多く来てくれて、なかにはリゲイン1ダース陣中見舞い(?)に持参してくれた学生もいて、感謝です。お疲れの泉太郎君と学芸員三輪君にあげておきました(前日の金曜日には、泉君に大学に来てもらってトークしてもらったりなんてこともありました、人気者の泉君は、急いでタクシーに乗り、原美術館の「ウィンター・ガーデン」オープニングバーティに向かったのでした)。


2009.5.23@東京国立近代美術館(「ヴィデオを待ちながら」)

ダンスとレディメイド               
:1960-70年代のダンスと美術の交点
担当 木村覚

1 イントロダクション 1960年代のダンスと美術
 1-1レイナー「トリオA」
 1-2レイナーのチャート
2 レディメイドと人間の身体
 2-1デュシャンの「レディメイド」概念
 2-2 50-60年代アメリカにおける「レディメイド」概念の受容
  2-2-1 デュシャンの考える「ポップの芸術家」
  2-2-2 オルデンバーグとレディメイド
 2-3 ケージとレディメイド
3 ダンスとレディメイド
 3-1 Merce Cunningham Walkaround Time(1968)について
 3-2 ジャドソン・ダンス・シアターと「レディメイド」
  3-2-1最初のコンサートからの作例「Daily Wake」「Proxy」「Transit」
  3-2-2その他の作例「Flat」「Two Satie Spoon」
  3-2-3マイブリッジとジャドソン・ダンス・シアター「Huddle」「Room Service」
    「Waterman Switch」
 3-3タスクとレディメイド

主要な参考文献
Carrie Lambert-Beatty, Being Watched: Yvonne Rainer and the 1960s, MIT Press, 2008.
Ramsay Burt, Judson Dance Theater: Critical Traces, Routledge, 2006.
Liz Kotz, Words to be Looked at: Language in 1960s Art, MIT Press, 2007.


話が出来ずに残してしまったのは、美術評論家・ロザリンド・クラウスが、ジャドソン系のダンスについてヴィトゲンシュタインを介しながら論じている文章について。プライベートな次元からパブリックな次元へとひとが移るためには、語の意味を語の意味像ではなく語の使用の内に捉える必要があるということ。いわばそれは語を上演してみること。例えばそれは「歩く」などというタスクを、身体を通して実際にやってみることであり、そうすることでのみ、芸術はパブリックな次元を獲得することが出来る。「公共的」というと堅苦しく感じられてしまいそうだけれど、特殊なひとのみが語り手に(作り手側に)なりうるという考えから自由になって、誰もがプレイグラウンドの一員になりうるような装置を生み出すこと。「タスク」のアイディアは、そうした装置として構想されたものなのではないか。そうそう、これも言い忘れましたが、歩く動作、走る動作がバレエやモダンダンスの運動よりも好きだったわけではないと思うんですよね、ジャドソンのダンサー達は。好き嫌いではないんですよ。デュシャンが趣味批判として「レディメイド」を展開したように、趣味とは別の次元で「歩く」動作をコピー&ペーストしていたのではないか、そう考えるべきじゃないか。

「「日常の運動」のダンスを採用することで、ジャドソンのダンサーたちは「日常言語」の観念との結束を明らかにした。それは、いわば、心/身体の区別を言語の行動主義者的な見方へと分解する哲学である。語の意味はその使用である。彼らは格言としてウィトゲンシュタインを引用したものだった(彼らがウィトゲンシュタインを読んだことがあったかは定かではない)。語が意味するところを知るとは、ひとが参照する、語の「意味」の像を心の内にもつことではない、それはむしろ、語を用いて語を実演するperformひとの明白なる能力の一機能なのである。心の内にある想像上の像がもし全く主観的で、個人的でprivate、私だけがアクセス出来る何かであるとすれば、語の実行は公共的publicである。すなわち、私がそれを正しく用いたか、用いなかったかである。」(Rosalind Krauss, The Mind / Body Problem: Robert Morris in Series, in Robert Morris: The Mind / Body Problem, Guggenheim Museum, 1994, p. 6)

こちらは講演中紹介しましたが、パクストンはこんなことを言ってます。

「歩くことは、あなたが勝手にいじったり出来ない何かなのです。もし「普通に歩く」と言うならば、膨大な素材を抱えることになります。いじろうとすればするほど、普通に歩くことは当の事柄の持つ質を減少させるでしょう。」(Paxton: Sally Banes, Democracy's Body, p. 60)

パクストン→高円寺

2009年05月18日 | ダンス
昨日(5/17)は、Steve Paxtonの「Night Stand」を見た後で、高円寺に直行し、Chim↑Pom展「捨てられたちんぽ」を見に行った。高円寺のガード脇では、キュレイターのAさんがメンバーと飲んでいて、なんだか楽しそうだ。お酒が過ぎると謹慎を余儀なくされる(芸能人さんのいる)息苦しい日本で、こんなに楽しそうにお酒を飲んでいると罰せられてしまわない?なんて気持ちは、展覧会の素晴らしいプロローグだったと後で気づいたりして、いつも躓きそうになる階段を上ると、真っ白い狭い空間に、若い男の子とか、キュレイターの女の人とかがなんか酔っぱらってくつろいでいる変な空気の中にあれはいた。
白い壁からピョイと飛びでていたあれは、見慣れているはずのものであり、確かに似たようなものを自分も持っているのだけれど、最初は、なんか赤い独特の肌色が醜く見えにくく、ちょうどおへそくらいのところで浮かんでいるので、なんだかあれに見えなくて、「あれなんだ、そーかー」とおもった次に自分がついしそうになるのは、それを掴むことだったりした。普段、人前にあらわれない、人前に見せてはならないと頑なに思っているものが目の前にある。するとひとはともかく隠してしまいたくなる。あるいは、どうにか使用して(使用すれば隠せるから)しまいたくなる。キュレイターFさんは酔っぱらっている。こりゃ、確かにしらふではいられないよな。なぜあれが浮かんでいるだけでしらふではいられなくなるのかは分からないけれど。Fさんは、目の前で息を吹きかけてみてくれた。すごい反応する!萎縮したり膨張したりが甚だしい。パクストンの会場で会ったSさんは、見るのに1時間かかったと言っていたけれど、これは確かに見てしまう。こんなに激しく変化するというのも驚きだが、しかもその変化がこれほど自分の身に置き換えられるオブジェはないだろう。本人は、壁の裏にいて見えない。見えない向こうにあれだけを差し出すというのはどういう気分なのだろう。また、あいつら、バカやって、、、というひとは美術に対してそれほど興味のない人かも知れない。世の中には、ギャラリーの床下に忍び込んで、そこでひたすら自慰行為を続けた男もいるのだ(その男の作品は「ヴィデオを待ちながら」の最初の方のブースを飾っている)。その作品は、パフォーマーも観客も互いが「見えない」というところで起きることにねらいを定めている。さて、この高円寺の作品は、両者の目は合わないが、観客の目とあれとは見つめ合う。なんだか、よく動くので、生きているようだし(実際生きているけれど、自律して)、なんだか言葉くらい喋りそうな人格を持った存在にしばらくすると見えてくるから、また気持ち悪い。「陳列」という点だけだと、最近の事例ではポツドールが思い浮かぶ。けれど、そういうセンセーショナリズムよりも、あれをじっと見続けるという希有な経験を見る者に与えるところに、この作品の力を感じた。会場奥には、5人の表札が展示してあった。かつてChim↑Pomが制作した作品。真ん中の表札には、リアルの立ち位置通り、「中居」とあった。

artscape0905(0904)レビューと「ヴィデオ」講演

2009年05月11日 | ダンス
artscape4月分+5月プレビューがアップされました。どうぞ、ご覧下さい。


来週の土曜日には、東京国立近代美術館で「ヴィデオを待ちながら」展関連イベントとして1960-70年代のダンスと美術を巡る講演があります。14:00からです。いまその整理をしているのですが、おおよそこんな感じになりそうです。タイトルは変更させてもらって「ダンスとレディ・メイド 1960-70年代のダンスと美術」です。

ぼくとしては、いままで考えずにおいたことをこの際一挙にいろいろと考えてみようと思ってすすめています。企画の三輪さんには、時間におさまるんですか?と聞かれてしまいましたが、最大の問題は、内容がありすぎることになりそうです。「レディ・メイド」という20世紀のアートにおける最大のキーワードは、ダンスにとってもやはり相当キモになっていたのだと、あらためて気づかされています。「タスク」の話もするし、上手くいけば、現代のダンスの状況ともからめてみようと画策しています(それこそ、そんな時間あるの、ってところなんですけれど)。今後も、ちょっこちょっこ準備の経過報告をしていけたらと思っています。よろしくです。

1イントロダクション 1960年代のダンスと美術
1-1レイナー『トリオA』(1966)
1-2レイナーのチャート「「見出された」運動」(ダンス)と「工場の製作」(オブジェ)
2レディ・メイドと人間の身体
2-1デュシャンのレディ・メイド概念(+アンフラマンス)と身体
2-2-1ラウシェンバーグのパフォーマンス 身体とレディ・メイドのコンバイン
2-2-2カニンガムの『ウォークアラウンド・タイム』(1968) 
2-3「知覚的レディメイド」 
2-3-1ブレクトのスコアとインストラクション
2-3-2ネオダダ、ポップにおける「レディ・メイド」
2-4オルデンバーグとレディ・メイド
2-4-1ソフトスカルプチャー、「ストア」、『ロンドン膝1966』(1968)
2-4-2パフォーマンス作品『フォトデス』(1961) 人間的な物/物的な人間
3ダンスとレディ・メイド
3-1パクストン『Flat』『Proxy代用品』、サマーズ『デイリー・ニューズ』
3-2フォルティ『ハドル』とマイブリッジ
3-3レイナー『トリオA』タスク 人間の身体の存在仕方/知覚のあり方を確認する
3-4レイナー『Lives of Performers』のタブロー・ヴィヴァン(活人画)
3-5キャラクターと身体性 グランド・ユニオンとパクストンのコンタクト・インプロヴィゼイション

2009年05月02日 | Weblog
忌野清志郎が逝去した。小学三年の時だったろうか、土曜日の昼間テレビを付けていたら、たまたま見てしまった武道館ライブにショックを受けたのが、ぼくの最初のライブ体験だった。それが「ライブ」を愛するぼくの人生を決定づけたのは間違いない。

尊敬していました。ご冥福をお祈り申し上げます。